人間環境学会『紀要』第6号 Sept 2006 <論文> アントワーヌ・ド・リヴァロル ――その生涯、その作品(十) ―― 伊 東 冬 美*1 Antoine de Rivarol : sa vie et son !uvre Fuyumi Ito*1 Antoine de Rivarol, né dans le Languedoc en 1753 et mort à Berlin en 1801, est un des grands écrivains littéraires et politiques du XVIIIe siècle. Membre de l’Académie de Berlin par un Discours sur l’universalité de la langue française (1784), il montra son esprit étincelant et la raillerie mordante envers tous les écrivains impuissants avec Le Petit Almanach des grands hommes(1788), avant de se révéler journaliste admirable dans sa défense de la monarchie, attitude politique qui le contraignit à l’exil sous la Révolution française. Depuis l’étude sagace et profonde que lui a consacrée Sainte−Beuve en 1851, on a assez souvent parlé de lui. En France, tout le monde connaît au moins le nom de Rivarol, sauf sa vie et son œuvre. Mais au Japon, même le nom de Rivarol reste, à mon grand regret, dans l’obscurité. C’est pourquoi je me propose, dans ce mémoire, de vérifier sa vie orageuse, et d’analyser son œuvre variée. Dans ce mémoire (10), je décris la vie et les écrits de Rivarol depuis le printemps jusqu’à l’été en 1792. *1 Kanto Gakuin University: 1–50–1, Mutsuurahigashi, Kanazawa-ku, Yokohama 236–8503, Japan. key words:リヴァロル、十八世紀フランスの作家、王党派のジャーナリスト Rivarol, écrivain français du XVIIIe siècle, journaliste monarchiste ブリュッセルへの亡命 1 7 9 2年の春、リヴァロルはパリ・サン―マルク街1 9 3番地に屋敷を構えていた。それはなかなかに 広壮な住まいであった。家具調度や馬車は綺羅を張ったものではなかったものの、主の趣味により 選び抜かれた上質のものだった。だから、それらの家具調度や馬車を見るだけでも、主が裕福であ ることが察せられた。 7 9 0年1 0月から9 1年初春までリヴァロルが住んでいたノートル―ダ サン―マルク街に移り住む前、1 ム―デ―ヴィクトワールの家屋は格段に質素であった。では、ここへ来てリヴァロルが急に裕福にな り、立派な屋敷を構えるようになったのはなぜなのか。 *1 関東学院大学人間環境学部現代コミュニケーション学科;〒2 36―8 50 3 横浜市金沢区六浦東1―5 0―1 ― 69 ― 彼の友人たちは、1 7 8 9年7月の創刊から9 0年1 1月の廃刊まで彼が主幹を務めた『国民政治新聞』 によって大儲けしたから、彼は金回りがよくなったのだと言った。彼と親しい人間たちの言うこと だから、 『国民政治新聞』により、ある程度まとまった金銭を手にしたにちがいないと思われる。 一方また、彼の政敵たちは、国王からリヴァロルに金が渡っているから金回りがよくなったのだ と噂した。リヴァロルが侍従長ラ・ポルトとの面談やラ・ポルト宛の書紙によって、あるいは国王 に直接上呈した建白によって国王に政治的具申を行なった時期と、サン―マルク街に暮らした時期 はぴったり重なっている。従って、国王に具申を行なっていた時期、つまり1 7 9 1年3月から9 2年6 月の時期、国王からリヴァロルに金が渡っていたと考えられる。 結局、友人たちが言ったことも、政敵たちが噂したことも真実に近いことと考えられるのである。 サン―マルク街に移転した当初、リヴァロルの家には彼と同じ王政派の文人やジャーナリストが 踵を接して訪れたが、それらの人々は大革命の惨禍を逃れて一人また一人と地方に転出したり、国 外に亡命したりして、リヴァロルの家は次第に門前雀羅を張る状態となった。しかし、このような 状態になっても、リヴァロルは寂寥を味わうことは免れた。数年前から愛人マネットが同居してい たからである。 マネットはお針子であった。教育を受けておらず、針と糸と鋏を使っての手内職で日銭を稼ぐ貧 乏な娘であり、器量のよい女性だった。リヴァロルとマネットがどのようにして知り合ったのか審 らかではないが、二人は都合8年間ないし9年間共に暮らす。 リヴァロルは知性、理性の領域に生きる文筆家であり、比類のない才貌と洗練された所作、それ に機智縦横の言葉で人々を魅了した社交人であった。それだけに、ひけらかす才智も持たず、無邪 気で、本能に身を委ねて自然に生きるマネットが彼には新鮮な存在に感じられたし、また、純朴な 彼女のうちに大きな安らぎを覚えもした。 自然で純朴なマネットを、リヴァロルは以下のような詩で讃えている。 「君が純真は最も愛すべ き鋏のピボットから生まれ来るものなり/君にあって、書物は閉ざされた文字/然り、われに連れ 添う君は、韻文と散文を見分けるには遠くいたらず、二語を読み取ることさえなし/(・・・)わ が仕事行き詰まるとき、君しばしば鋏にて仕事の難儀を断ち切り/君が糸の端、わが言葉を紡ぐ/ 嗚呼!君が頭脳のこの愛らしき無垢よ、われに対し無垢を持ち続けよ/人、君に教育を授くとき、 君に益なく、わが仕合せことごとく打ち砕かれん/わがために放ち続けよ、美味なる果実のごとき 芳香を/わがために持ち続けよ、薔薇のごとき心を。 」 (参考引用書目番号2 1:1 7 2頁) ルイ十六世に3通目の建白を送った3日後、1 7 9 2年6月1 0日、リヴァロルはベルギーのブリュッ セルに向けて亡命する。 王党派の論客として世に名を馳せたうえ、国王の建言者の一人と噂されていたリヴァロルが早晩 革命派に捕縛されるだろうことは容易に予想できたが、亡命を6月1 0日にしたのは捕縛近しという ― 70 ― アントワーヌ・ド・リヴァロル 報をリヴァロルが妹フランソワーズから得たためであろうか。 亡命に先立ち、リヴァロルは二人の隣人の付添いを得て、革命派の設けた行政区の一つ、フィー ユ・サン―トマ区の警察署長のところへ行き、旅券を申請した。 出入りの商人に少なからず借金があったのに、それを精算する気がなかったし、加えてまた、亡 命の企てを悟られては旅券がもらえないという思いがあった。だから、彼はイギリスに短期の旅を すると虚偽を述べて旅券を申請した。つまり、自分の妻ルイーズ―アンリエットはイギリス人であ る、妻の両親が抱える家庭の問題を解決するためにイギリスに両親を訪ねる必要がある、しかし、 妻は子供の養育と健康上の理由でイギリスに渡れない、よって自分がイギリスに行かねばならな い、と言って旅券を求めたのである。 警察署長は彼の言葉を信じて旅券を発行した。それから、リヴァロルは法に則って市役所で旅券 に査証を受けた。虚偽を述べはしたものの、彼は、闇のルートではなく、正規のルートで旅券を入 手したのだった。 6月1 0日、リヴァロルを乗せたベルリン馬車は一路北西へ、英仏海峡に面する港町へと向かって 疾走した。港町カレーには亡命者が多数押し寄せ、彼らを乗せた船が次々イギリスへ向けて出港し ていた。リヴァロルが着いた港町はカレーか、あるいはル・アーヴルか。これは明らかではない が、いずれにせよ、港町で彼が乗ったのはイギリス行の船ではなく、ベルギー・オステンデ行の船 だった。オステンデからブリュッセルに入る心算であった。 亡命を決めた折、彼は、革命派が唱える「人民主権」のスローガンをからかいながら、亡命する 気持があるかどうかマネットに確かめた。 「主権者になりたければ、パリにお残りなさい。マネッ トであり続けたいと思うのなら、僕について来なければなりません。 」 (2 1:1 7 3) このとき、マネットは亡命の意向を示した。しかしながら、二人で一緒に行動すれば、人目を引 く。これを懸念して、リヴァロルが一足早くパリを発ち、ブリュッセルで二人が落ち合うことにし た。 結局、リヴァロルは間一髪で断頭台での処刑を逃れたことになる。彼がパリを脱出して1週間後 の6月1 7日、過激共和派のサン―キュロットの一団が彼を捕縛しようとサン―マルク街の彼の屋敷に 押し入り、 「奴はどこだ、あの大物はどこだ?奴をギロチンにかけるために来たんだ!」 (2 2:3 3 8) と叫びながら彼を探しまわった。 オステンデ行の船に乗った日、リヴァロルは、二度とサン―マルク街の家に戻ることはない、フ ランスの土を踏むこともないなどと考えもしなかった。帰国できないまま以後9年間、異国を漂泊 した末に死を迎えるなど、その日の彼には思い設けぬことであった。 リヴァロルの亡命と相前後して、彼がその存続を願ったフランスの王政も危機にさらされた。 前稿に述べたように、立法議会は、1 7 9 2年5月2 7日から6月8日にかけて、宣誓忌避司祭の流 ― 71 ― 刑、近衛兵の解散、2万の連盟兵の兵営建設という三つの法令を議決した。国王は、この三法令の うち近衛兵解散という法令については裁可を下した。しかし、残る二法令には裁可を与えようとし なかった。 王室と革命派との調停に腐心し、残る二法令を批准するようルイ十六世に勧めたデュムーリエは 批准を拒絶され、6月1 6日に外務大臣兼陸軍大臣の職を辞さざるをえなかった。そして、北部軍の 一師団司令官として宮廷から遠ざけられることとなった。 6月1 8日、デュムーリエは別離の挨拶のためにルイ十六世に謁見し、述べた。 「唯一の無念は陛 下を危難の中にお残しすることでございます。 」孤独感を漂わせて頷くルイ十六世に、デュムーリ エは、今なら聞き届けられるか、と重ねて批准を促した。だが、ルイ十六世は「余はフランスの幸 、と変わらず批准を拒んだ。 福のみを望んでいる。 (・・・)余は死を覚悟しておる」 (1 4:2 5 4) 明1 9日、ルイ十六世は、二法令については断固たる拒否権をもって応ずると議会に対して宣告し た。 6月2 0日は「球戯場の誓い」から3周年の日であり、同日、これを祝ってパリで記念祭が行なわ れることになっていた。革命派にすれば、この記念祭は共和主義を讃える祝祭にほかならなかっ た。従って、その前日にルイ十六世が拒否権行使を宣告したことで、大事な祝祭にケチがつく恰好 になった。議会から市中へと怒りの炎が燃え広がって行った。国民はベルギー攻略にしくじって敗 走したフランスの軍事的失敗と、ジロンド内閣閣僚の罷免とに不満を募らせていた。それだけに、 ルイ十六世の拒否権行使は国民の怒りを掻き立てずにはおかなかった。 主権の行使は人民の義務であるがゆえに、蜂起してその義務を果たすべしと説き、人民主権の行 使として蜂起を勧めた共和派左派ダントンの指導の下、6月2 0日、ビール醸造業を営む大男サン テールを先頭に1万の群集がテュイルリー宮殿に押しかけた。そして、 「拒否権を悪魔にくれてや れ!拒否権殿(ルイ十六世のこと)を倒せ!」という大声とともに宮殿二階の大広間「円窓の控え の間」に雪崩込んだ。 叛徒たちは、彼らの面前に進み出たルイ十六世をサーベル、槍、鶴嘴、皮切り包丁、棍棒で威嚇 しながら拒否権の撤回を迫った。ルイ十六世は、自分は恐怖を超越しているから、武力は自分に何 らの効果もおよぼさぬと泰然と述べ、拒否権撤回の要求を頑として斥けた。 けれども、続いてルイ十六世は叛徒の一人が差し出した赤帽子を手に取り、それを被ってみせ た。赤帽子は古代における奴隷解放のしるしであり、大革命時代はサン―キュロットが革命精神の 象徴として採用したものである。叛徒たちは感激して、 「国王万歳!国民万歳!」の歓声を上げた。 ルイ十六世も「国民万歳!」と唱和し、赤帽子を高く上げた。叛徒たちは矛を納め、感激覚めやら ぬ面持ちで宮殿から引き上げた。 この日、国王は赤帽子と万歳で民衆に譲歩したが、こうして多少の犠牲を払うことにより、拒否 ― 72 ― アントワーヌ・ド・リヴァロル 権を守った。だがしかし、犠牲を払って守った拒否権も2ヶ月足らずで奪われるのである。 シャトーブリアンとの邂逅 オステンデからブリュッセルに入ったリヴァロルはペピニエール街の家具付アパートに居を定め た。ほどなくマネットも到着した。 オーストリア皇帝フランツ二世(1 7 9 2年3月即位)の名代としてオーストリア領ベルギーを治め ていたのは、フランツ二世の叔母であり、フランス王妃マリー―アントワネットの姉に当たる皇女 マリア―クリスティーナである。マリア―クリスティーナが穏健なザクセン―テシェン公に嫁いでい たこともあって、ブリュッセルの町には比較的自由な空気が流れ、フランドル平原からもたらされ る豊富な農産物と食肉とで経済が潤っていた。 亡命貴族研究の第一人者であるカストル公爵の著書『亡命貴族の日常生活』 (La vie quotidienne des émigrés, 1 9 6 6年)によれば、1 7 8 9年から1 8 0 4年まで続くフランス大革命時代、国外に亡命した フランス人、すなわち亡命貴族は、多く見積もった場合、3 0万人に達するという。 (8:1 6)当時 のフランスの人口は2 5 0 0万人であるから、8 0人に1人の割合で亡命した勘定になる。 3 0万人の内訳を見ると、第一身分の僧族が3万人、第二身分の貴族が6万人、僧族および貴族の 家族が6万人、と特権階級が半数を占めており、残り1 5万人が第三身分のブルジョワとなっている。 亡命貴族たちはヨーロッパ諸国に散らばって行ったが、生活環境への不適応、言語並びに習慣の 相違、経済難、統治者および住民による迫害などの理由で、大半が一箇所に定住できず、異境を転々 とする。多少の例外は僧族であって、彼らはカトリックの信仰心からイタリアのローマやピエモン テ、スペインのトレドなどに亡命し、そこで集団生活を営みながら宗教的共同社会を作って行く。 ちなみにイタリアに亡命した僧族は2 0 0 0人、スペインに亡命した僧族は3 0 0 0人を数える。 ブリュッセルはフランスの隣国であることに加え、政治的に自由で、経済的に富裕な町であった ため、ここには大勢の亡命貴族が流れ込んだ。 パリの民衆がバスティーユ獄を襲撃した3日後の1 7 8 9年7月1 7日、革命派から命を狙われて亡命 した王弟アルトワ伯爵は、最初、ブリュッセルに行った。公妃マリア―クリスティーナは彼にとっ て義理の姉になるので、そこに行けば、厚遇されるはずと考えていた。ところが、表敬訪問したア ルトワ伯爵に対して、公妃は、ベルギー滞在は遠慮されたし、と書かれたオーストリア皇帝ヨーゼ フ二世の親書を黙って見せた。 フランス大革命が勃発し、革命派が王室に刃を向けているときにアルトワ伯爵のベルギー滞在を 認めれば、内政干渉、外交摩擦という問題が生じかねない。面倒な問題はヨーゼフ二世にとっては 迷惑千万だった。親戚関係など、一国の利益の前では一粒の砂ほどの重みも持たなかった。 ベルギー滞在を拒絶されたアルトワ伯爵は、スイスのベルンに日を送ったのち、同年9月中旬よ ― 73 ― りイタリアのトリノに、1 7 9 1年6月よりコブレンツに滞在し、同年1 1月、コブレンツにおいて亡命 貴族軍を結成する。 公妃マリア―クリスティーナはヨーゼフ二世の意向に逆らうこともできず、アルトワ伯爵の滞在 を拒んだが、しかし、マリア―クリスティーナもザクセン―テシェン公も一般の亡命貴族に対しては 同情的であり、寛大だった。わけても彼らはリヴァロルを暖かく迎えた。リヴァロルの名声はあま ねくヨーヨッパに轟いていたし、また、彼がフランスの王政を守るためにルイ十六世とマリー―ア ントワネットに献身してきたことを彼らは知っていたからである。 ブリュッセルに亡命してきた貴族の中でも特に貴顕名流の人士が集い、社交の場としたのは、パ リから脱出してきた見目麗しいマティニョン伯爵夫人の寓居だった。マティニョン伯爵夫人は元財 務総監ブルトゥイユ男爵の娘である。ブルトゥイユ男爵は、当時、ブリュッセルに滞在しており、 海外におけるルイ十六世のスポークスマンの役目を務めていた。マティニョン伯爵夫人は旧知のリ ヴァロルをしばしば居宅に招き、リヴァロルは持ち前の驚異の博識と才気横溢の会話、それに3 9歳 の今も衰えぬ白皙の美貌、優美な物腰によって人々を魅惑した。 1 7 9 2年7月中旬、リヴァロルはマティニョン伯爵夫人宅の晩餐の席で「ロマン主義文学の父」F. −R. ド. シャトーブリアンと相見えた。二人にとって、これは生涯でただ一度の邂逅である。 シャトーブリアンは、リヴァロルより1 5歳年少で、1 7 6 8年9月4日、由緒正しい帯剣貴族の末裔 としてブルターニュ地方のサン―マロに生まれた。少年時代を領地コンブールの城館に送った彼 は、1 7 8 6年8月、ベルギーとの国境を守備するナヴァル聯隊に少尉として入隊、翌年2月には国王 拝謁の儀式に列し、続いて国王狩猟への随行を果たした。 国王拝謁の儀式も国王狩猟随行も、名門の帯剣貴族のうちでもごく少数の貴族にのみ許される特 権的栄誉であった。しかし、当時のシャトーブリアンは、それがいかに得がたい特権であるか気に もとめず、栄誉に浴しても、ただ国王の煌々たる威光を分かち与えられて自分も幾らか立派になっ 0 たと思うばかりだった。彼は自伝『墓の彼方からの回想録』 (Mémoires d’outre−tombe,1 8 4 8年―5 年)に言う。 「私は、それまで自覚していたより高尚な人間だったのだと漠然と感じた。 」 (1 0. TⅠ: 1 3 3) 大革命が勃発した日、シャトーブリアンは、バスティーユ獄を襲撃し、パリ中心街に戻ってきた 民衆を目の当たりにして、胸の高鳴りを覚えた。なぜなら、彼は共和主義者になっていたからであ る。国王拝謁の儀式と国王狩猟随行の栄に浴した折、彼は仰ぎ接した国王に好印象を抱いた。がし かし、1 7 8 7年1 2月以降、ナヴァル聯隊から得た長期休暇をパリに過ごした彼は、ルソーなど啓蒙思 想家の書物を読んだり、啓蒙思想を奉じる劇作家ラ・アルプなどと交わったりするうちに共和政に 賛同するようになった。 しかしながら、バスティーユ獄襲撃から1週間後の1 7 8 9年7月2 2日、革命派の人間たちが陸軍大 ― 74 ― アントワーヌ・ド・リヴァロル 臣補佐官フーロンの首とパリ知事ベルティエの首を槍に刺して、鮮血の滴る槍を掲げながらパリ市 街を廻るのを見たとき、シャトーブリアンの共和主義の立場、大革命支持の立場は早くも揺らぎは じめる。 そして同年1 0月6日、革命派の乱入によりヴェルサイユ宮殿を追われた国王一家がテュイルリー 宮殿へ向かった際、革命派の人間たちが近衛兵の血潮流れる首を槍先に掲げて国王一家の馬車を先 導するのを目にしたとき、彼の共和主義の立場、大革命支持の立場は完全に崩れた。 彼は語る。 「あの二つの首と、その直後に見た幾つかの首は私の政治的立場を変えた。食人種の ごとき残忍な人間たちの饗宴に、私は恐怖を抱いた。フランスを離れて、どこか遠方の国へ行こう という考えが浮かんだ。 」 (1 0. TⅠ:1 7 1) 大革命の凄惨な現実に悚然としたシャトーブリアンは、1 7 9 1年4月8日にアメリカへと旅立ち、 フィラデルフィア、ニュー・ヨーク、ボストン、オールバニ、ナイアガラ瀑布、ピッツバーグ・・・ と東部一帯を歩く。曠々たる未開の地アメリカはシャトーブリアンの詩想を掻き立て、彼は、ナイ アガラ瀑布を訪れた直後に、ロマン主義文学の先駆的作品となる珠玉の名篇にして、彼の出世作と なる叙事詩『アタラ』 (Atala,1 8 0 1年)の筆を起こす。 彼がヴァージニア州のアビングドンに到着したのは同年1 0月2 1日。アビングドン到着の直前か直 後のことだった、彼は、一軒の農家に宿を請い、それが唯一の照明である暖炉の火の前で新聞を広 げた。 「国王、逃亡」の活字が彼の目に跳びこんだ。新聞が報じていたのは、その年6月2 0日、フ ランスに起きた国王一家のヴァレンヌ逃亡未遂事件であった。 ヴァレンヌ事件により、ルイ十六世は国民の非難と憐憫と侮蔑にさらされ、自身の権威を大きく 損ねることになった。このとき、リヴァロルは、権力に恬淡とする国王の姿に危うさを覚え、国王 たるもの、力への強靭な意志を国民に示さなければ、王政に明日はない、とラ・ポルトを介して国 王に必死に訴えていた。 これに対し、旅先で遅ればせながらヴァレンヌ事件を知ったシャトーブリアンは、急遽帰国を決 め、1 2月1 0日、フィラデルフィアからル・アーヴル行の船に乗った。 『墓の彼方からの回想録』は 言う。 「旅人としてアメリカに渡り、兵士たらんとして西欧に帰る。 」 (1 0. TⅠ:2 6 9)ヴァレンヌ事 件を知るや、彼は共和主義の立場を葬り去り、王政派へと身を転じた。そして、亡命貴族軍に参加 しようと意を決したのである。 彼が王政派へと転向したのは名誉の観念に衝き動かされてのことと言ってよい。国王は、歴代、 種々の儀礼儀式を守り続けてきた。それらの儀礼儀式は、一方、国王自身を威光で包むという機能 を持ち、他方、儀礼儀式に与った人間に名誉を授けるという機能を持つ。また、名誉を授かった人 間は、名誉という観念を通して国王、ひいては国王の治める国家と強く結びつくようになる。つま り、名誉という観念を通して国王への忠誠心や国家への帰属意識が培われるのである。 ― 75 ― シャトーブリアンは、かつて国王拝謁の儀式と国王狩猟随行に与り、非常な名誉を授かった人間 だった。そのため、ヴァレンヌ事件を知ったとき、彼の脳裏に国王に拝謁した日の記憶と狩猟に随 行した日の記憶が蘇り、名誉の観念が目覚めた。そして、国王への忠誠心と祖国愛とに衝き動かさ れて亡命貴族軍への参加を決めたのだった。 1 7 9 2年7月1 5日、シャトーブリアンは兄とともにパリを出立、ベルギーへと亡命して、数日後、 ブリュッセルに着いた。 7月中旬のある夜、リヴァロルはマティニョン伯爵夫人主宰の晩餐会に出かけた。晩餐会にはブ ルトュイユ男爵、並びなき解語の花のモンモランシー男爵夫人、モアレの法服を着て金の十字架を 掛けたフランスの司教、ハンガリーの大佐に姿を変えたフランスの少壮の司法官、オーストリアの 将官、ドイツやハンガリーやボヘミアの貴族などに加え、シャトーブリアンと兄ジャン―バッティ スト―オーギュストの顔があった。ジャン―バッティスト―オーギュストは、御前会議に提出する請 願書の審理をする司法官、すなわち請願書審理官の要職を経て、1 7 8 7年に近衛騎兵聯隊大尉に任官 した。 晩餐の席上、リヴァロルが滔々と長広舌を振い、客たちが神託でも聞くようにその長広舌に耳を 傾けているのを眺めて、シャトーブリアンは不快に感じる。これから亡命貴族軍の一兵士として戦 場に赴き、王政再興のために戦おうと思いつめているシャトーブリアンには、弾ける才気に任せて 話し続けるリヴァロルが軽薄不純な社交人としか映らない。 シャトーブリアンがアメリカ旅行をしていた間、さらにその後も、リヴァロルは大革命によって 戦場と化したパリにあって王政再興のためにペンで戦ってきたということ、このことをシャトーブ リアンは十分に認識していない。そうであれば、リヴァロルに対して軽薄不純な社交人という印象 を持っても致し方ない。リヴァロルを不快に感じた彼は、 「リヴァロルの機智は彼の才能を台無し にし、彼の言葉は彼の文筆を傷つける」 (1 0. TⅠ:3 1 2)と思う。 シャトーブリアンは無言のまま晩餐を終えると、そそくさと帰り仕度を始めた。ナヴァル聯隊の 青と白の軍服を着たあの青年は誰か。身に憂愁を湛えるあの黒髪の青年は誰か。不快感のにじむ冷 たい視線を投げかけていたあの青年は誰か。リヴァロルはシャトーブリアンの存在に気づいてい て、彼の視線を訝しく思っていた。これを察したブルトゥイユ男爵がシャトーブリアンの兄に尋ね た。 「貴方の御兄弟はどちらからお出でになりましたか。 」答えたのはシャトーブリアンだった。 「ナ イアガラからでございます。 」リヴァロルが驚きの声を上げた。 「大瀑布からですか!」年若い分、 純粋で血気に逸っていたシャトーブリアンは、ここでアメリカ旅行談を開陳するなど御免だと思 い、驚きの声に応じなかった。すると、リヴァロルが聞いた。 「これからどちらに・・・」シャトー ブリアンはリヴァロルの言葉を遮り、木で鼻をくくるような調子で言った。 「戦地へ参ります。 」 (1 0. TⅠ:3 1 2) ― 76 ― アントワーヌ・ド・リヴァロル シャトーブリアンは単身徒歩でドイツのアーヘン、ケルン、コブレンツを経て、8月にトリエル で貴族軍に入隊した。彼の兄は、妻の親族であるモンボワシエ男爵がブリュッセル駐屯の貴族軍を 指揮していたため、モンボワシエ男爵の副官としてブリュッセルで戦うことになった。 ブリュッセル駐屯の貴族軍は後衛部隊である。これに対し、ドイツに駐屯する貴族軍は前衛部隊 であり、この年、1 7 9 2年の7月2 4日以降、以下の三班に分かれて前線で戦うようになっていた。 第一班は、ライン、モーゼル両河の東方に陣地を設けた部隊で、ドイツ南部一帯を守備する部隊 である。この部隊の貴族軍は5 0 0 0人、司令官はルイ十六世の従兄にして驍名高いコンデ将軍。この 貴族軍はエステルハージ元帥麾下のオーストリア軍と連合して戦う。 第二班は、ライン、モーゼル両河の北方に配備された部隊で、ドイツ北部一帯の守備に当たる部 隊である。第二班の貴族軍は4 0 0 0の兵から成り、コンデ将軍の子息ブルボン将軍の指揮下に置かれ た。同部隊はクレールファイト将軍率いるオーストリア軍と連合して戦う。 第三班は、ライン、モーゼル両河畔に陣を布いた部隊で、フランス革命軍の侵攻を阻止する任務 を負った部隊である。第三班の貴族軍は1万2 0 0 0人を数え、王弟のプロヴァンス伯爵およびアルト ワ伯爵、それに勇武の誉れ高いカストル元帥が指揮を執った。ライン、モーゼル両河畔は革命戦争 の最前線だったため、ここには貴族軍に加えプロイセン軍4万2 0 0 0、オーストリア軍3万6 0 0 0、 ヘッセン軍1万、と最多数の兵が配備された。プロイセン軍は国王フリートリヒ・ヴィルヘルム二 世とブラウンシュヴァイク将軍の指揮下にあった。 これら対仏革命戦争連合軍の総司令官はブラウンシュヴァイク将軍である。同将軍は度量が大き く、老練な武人だったが、いかんせん戦意を欠いていた。彼の経験に照らして考えれば、対仏革命 戦争は一日二日の電撃戦では決着しない。長期におよびそうな戦闘のせいで名将の評判が損なわれ るのは不本意である。だから彼は不承不承総司令官となり、そして貴族軍の迅速な陣立を知ってい ながら、1 7 8 2年8月上旬、悠々トリエルに入った。彼は語っている。 「征服は至難と思う。 (・・・) 私は非常な自己愛を持つゆえ、無謀かつ複雑な戦争計画のために私の名声を危険にさらすようなこ とはできかねる。 」 (9:7 9) シャトーブリアンは、ブラウンシュヴァイク将軍がトリエルに入ったのと同時期にトリエルで貴 族軍に入隊した。入隊するのなら最前線の貴族軍にと決めていた。トリエルに駐屯していた貴族軍 は第三班、最前線の貴族軍であり、6 0 0 0人ずつ騎兵隊と歩兵隊とに二分されていた。彼が入隊した のは第七歩兵部隊。入隊の2日後、第七歩兵部隊はフランスの町ティオンヴィルへ向けて出陣し た。 リヴァロルは、国王に剣を捧げんと熱く胸たぎらせていたシャトーブリアンに対して、貴族軍入 隊を思いとどまってはどうかとあえて言わなかった。けれども、前述のように、リヴァロルは、す でに1 7 9 1年9月初旬から、対仏革命戦争を回避するようルイ十六世に進言してきた人間であった。 ― 77 ― 対仏革命戦争回避を訴えてきたリヴァロルの論拠は次の二つに要約される。 ! オーストリア皇帝とプロイセン国王はもともと対仏戦争に気乗りしていなかったから、親身 に亡命貴族を支援しようという温情など持たない。それゆえ、亡命貴族軍はオーストリア軍とプロ イセン軍の単なるアクセサリ的存在として両軍に付き従い、戦意乏しい両軍の指揮下で責苦を味わ うことになる。しかも、フランス大革命は、列強の参戦によってではなく、ルイ十六世と第三身分 との和解によってこそ収束すると考えられるから、亡命貴族が責苦を味わいつつ戦ったところで、 フランスの政情は好転しないだろうということ。 " 仮にオーストリアとプロイセンが亡命貴族に対して誠実であって、両国が大いに戦闘能力を 発揮して勝利したとする。これにより、亡命貴族の帰国が叶ったとしても、すでにフランスの情勢 は、国王は貴族の王たることを欲しないという姿勢を示さねば国王たりえぬという情勢になってい る。そのため、亡命貴族は帰国の翌日から苦労に堪えなければならないということ。 リヴァロルがブリュッセルの客となって間もないころ、 「然り、われは兵士/然り、わが祖国の 、と歌う気炎万丈の若 ために/わが王妃、わが国王のために/われはわが命を捧げん」 (1 2:1 8 7) いフランス将校が街のそこここに見られた。彼ら亡命貴族の心意気は理解するものの、リヴァロル は、戦争回避を訴えてきただけに、亡命貴族が軍隊に身を投ずることに共鳴しかねた。 だから、ブリュッセルに暮らしはじめた時期、彼は、ロンドンに亡命した友人に宛てて皮肉をこ めた手紙を書いている。 「コブレンツから鳴り響くトランペットの音がすべての人間を召集しまし た。当地に残っているのは寡婦と神父のみです。栄光は英雄を生み出しますが、神父たちはいつの 時代にも英雄と同じだけのコキュを作り出します。ご存じのように、現代のアガメムノンことブラ ウンシュヴァイク将軍の最初の軍事作戦の一つは、ボーリウ将軍がフランス人志願兵を自らの隊に 留め置いて、志願兵を使うのを断固禁じることでした。従って、当初、先陣を切って月桂樹を摘み 取ろうとして前進していたわが国の若い志願兵たちは、コブレンツの飯盒のところまで後退しなけ ればなりませんでした。亡命貴族は、連合軍の中核であるどころか、事実上添え物にとどまり、常 にブラウンシュヴァイク公の支配下に置かれるでしょう・・・。 」 (2 1:1 7 5―1 7 6) 亡命貴族が列強軍隊のアクセサリ、添え物という存在価値しか認められず、難儀すると予見した リヴァロルは慧眼だった。貴族軍は軍資金に窮し、武器も装備も事欠く状態だったのである。 ヨーロッパ諸国に経済的援助を仰いだ亡命貴族ヴォードルイユ伯爵が書いた1 7 9 2年6月2 4日附の 手紙には軍資金不足を嘆く言葉が読める。 「われわれは絶望しきっております。 」 (1 3. TⅠ:3 3 4) 同年7月3 0日、プロヴァンス伯爵とアルトワ伯爵はフリートリヒ・ヴィルヘルム二世に1 5 0万リー ヴルの借金を願い出たけれども、借りられたのは8 0万リーヴル。軍資金に窮した貴族軍はカロンヌ 伯爵の指示で贋札造りに手を染めるにいたったが、2ヶ月足らずで贋札造りが露顕し、贋札は通用 しなくなった。 ― 78 ― アントワーヌ・ド・リヴァロル 特に8月以降は衣食住さえ欠乏気味となり、シャトーブリアンは、4人に一挺の割合でしか行き 渡らない銃、それもプロイセン軍使い古しの銃で身を守り、一枚の着替えしかないシャツを洗濯 し、野に身を横たえながらティオンヴィルへと進軍した。コンデ将軍がブルボン将軍に宛てた8月 1 1日附書翰は、冷淡な列強に対するコンデ将軍の悲憤と貴族軍の嘗めた艱難とを明かすものであ る。 「われわれはテント、大砲、金子をことごとく欠いています。 」 (1 3. TⅠ:3 3 4) 『フランス貴族に寄せる一書』 フランスがオーストリアに宣戦布告、革命戦争が火蓋を切った1 7 9 2年4月2 0日のころ、フランス 軍は1 0万の兵員を数えるだけだった。しかも将校9 0 0 0人のうち半数が亡命しており、訓練不足の弱 年の兵卒と義勇兵が多数を占める状態であった。このように戦力の弱体化という事情もあり、首班 格の外務大臣デュムーリエやフランス軍将官たちはオーストリアに少し牙をむいてから早々に和約 を結ぶつもりだった。ところが、ジロンド内閣閣僚たちは徹底交戦を主張して譲らなかった。 フランス軍は緒戦で劣勢に傾いた。デュムーリエの戦略に従ってベルギーに攻め入ったフランス 軍は次々オーストリア軍に撃退され、同年5月初旬にはトゥルネー地方で完全に潰走四散した。7 月1 1日、立法議会は、連合軍がフランス国境に向かって進攻しつつある、祖国は危機にある、と非 常事態宣言を行なった。これによって、すべての国民軍兵士が召集され、新たな義勇兵の部隊が組 織された。 フランス領内への連合軍の進撃は時間の問題となった。ルイ十六世は革命派打倒および王政存続 のために列国の参戦を望み、連合軍の勝利を願っていたが、連合軍のフランス進撃が刻一刻と迫り つつあった7月上旬、コブレンツの亡命貴族軍陣営に使者マレ・デュ・パンを送った。 リヴァロルは1 7 7 8年から8 3年まで総合雑誌『メルキュール・ド・フランス』の常連執筆者であっ た。マレ・デュ・パンは8 4年よりこの雑誌の編輯を担当する傍ら、同誌に多数の政治記事を寄稿し たスイス人ジャーナリストである。 彼は政治的にはリヴァロルと同じく立憲王政派であり、1 7 9 3年にブリュッセルで出版がなされる 彼の著書『フランス革命の本質についての考察』 (Considérations sur la nature de la Révolution de France)は、E.バークの著作『フランス革命の省察』 (Reflections on the revolution in France, 1 7 9 0 年)と並んでフランス大革命に反対した書物としてよく知られる。 1 7 9 2年7月上旬、ルイ十六世の使者に立ったマレ・デュ・パンの役割は、第一に、亡命貴族はフ ランス国民に敵意や復讐心を持たずに帰還するということ、このことをフランス国民に知らせる声 明の草稿を書き、ブラウンシュヴァイク将軍の名の下に声明を発することであった。第二の役割 は、貴族軍を説得して、当面、軍事行動を控えるようにし向けることであった。 亡命貴族が敵意や復讐心から怒れる獅子となってフランスに攻め入れば、革命派は国王一家に危 ― 79 ― 害を加えかねないし、また、亡命貴族とフランス国民との和解も望めなくなる。そのため、ルイ十 六世は穏当な声明と貴族軍の説得とを欲したのだった。 マレ・デュ・パンはコブレンツの貴族軍本営でカストル元帥に面会し、ルイ十六世の意向を伝え た。しかし、ルイ十六世の意向を知ったアルトワ伯爵や他の将軍連は戦意旺盛だったから、軍事行 動を控えよという説得を聞き入れなかった。 説得が暗礁に乗り上げたこのとき、マレ・デュ・パンから横取りするように声明起草に当たった のが亡命貴族のリモン侯爵である。ルイ十六世の従弟に当たるオルレアン公爵は、大革命勃発以 来、虎視眈々王位を狙い、さまざまの策謀を弄してきた。リモン侯爵はかつて王弟プロヴァンス伯 爵の下で財務管理官を務めていたが、1 7 7 7年に罷免されると、オルレアン公爵の盲従者となった。 さらに、その後亡命してからは再びプロヴァンス伯爵にすり寄ってきた人物である。 マリー―アントワネットと親密なフェルセン伯爵は、リモン侯爵をいかがわしい佞奸と思いなが らも、王妃救出を焦るあまり、リモン侯爵に声明起草を依頼した。そして声明には、求められてブ ラウンシュヴァイク将軍が署名した。 ブラウンシュヴァイク将軍の声明は7月2 8日にフランスで発せられた。だが何ということか、声 明は、フランス国民の警戒心を解きたいというルイ十六世の意向とは正反対のものになっていた。 つまり、声明は、フランス領土に進攻する連合軍に抵抗したり、パリ市を破壊放火したりする国民 軍はすべて銃殺するとしたうえで、さらに「パリ人民が王室に危害を加えるならば、パリ市に武力 を行使し、完全に破壊することにより、見せしめとなる、永久に忘るべからざる復讐を行なう」 、と恐ろしく脅迫的内容になっていたのである。 (1 6:1 7 7) 当然のこと、フランス国民は激昂し、列国軍隊と亡命貴族軍に敵愾心を募らせた。フランス国民 と亡命貴族との対立激化を知ったリヴァロルは、これを憂慮し、8月8日、ブリュッセルにおいて 1 6頁の小冊子を発表した。小冊子の表題は、 『普墺連合軍総司令官ブラウンシュヴァイク公の指揮 下にあって今祖国に帰還せんとしているフランス貴族に寄せる一書』 (Lettre à la noblesse française, au moment de sa rentrée en France, sous les ordres de M. le duc de Brunswick, généralissime des armées de l’empereur et du roi de Prusse) 。 この小冊子は貴族軍に向けて書いた多分に道徳的かつ政治的な文書である。リヴァロルは、自分 の政敵である革命家たちの制圧や、革命家たちへの懲罰を唱える反革命家ではなく、逆に、階級間 の対立を解消して平和を樹立することを願う反革命家であった。 だから彼の小冊子は、まず、フランス王国再興のために率先して戦うつもりでいる二人の王弟プ ロヴァンス伯爵とアルトワ伯爵に冷静を促す。熱を冷まして現実を見極めるよう促す。 「亡命者に 関して述べれば、王族の方々は、列強の約束より、身近にいる熱狂的な貴族諸公の言葉や、王族の 地位に由来するヒロイックでロマネスクな表現に心惹かれているようにお見上げする。アルトワ伯 ― 80 ― アントワーヌ・ド・リヴァロル 爵はオーストリア皇帝並びにプロイセン国王の真の意向をよくよくご承知でいらっしゃるのか。二 君主が何かをお認めになるとしても、亡命した王族に認めるのは恐らく非常な大計画とはほど遠い 支援にすぎないだろう。 」 (1 2:1 9 0) 続いて小冊子は、亡命貴族は武力と信念とを持っているが、連合軍が解散すれば武力はなくな り、残るのは信念だけになるから、信念によってフランスに平和の果実を育て、その果実を民衆に 味わわせること、これこそが亡命貴族のなすべきことだと説く。 さらに続いて小冊子は、第三身分に心寛くあれ、第三身分と戦火を交えてはならぬ、と亡命貴族 に平和の念押しをし、第三身分への怨恨を残さぬようにと訴える。 「貴殿らは、平等の夢を抱く第 三身分としばしば不意に出くわすことになろう。第三身分の深く傷ついた心に触れるには、また、 その病んだ精神を導くには軽やかで細やかな手が必要である。貴殿らは第三身分と無益な戦いをし てはならない。なぜなら、列強の軍隊が勝利を収めるに相違ないからである。ただし革命戦争が長 期にわたらないと仮定してだが・・・。愛は先祖代々受け継がれてきたと言って、同様に厳格さを 子々孫々に伝え遺そうとしてはならない。赦しが裁きより何と正しいことか。つねに父親の美徳を 誇りにしている子供は、つねに己の罪を免れるのである。 」 (2 3:2 1 5) こうして第三身分との和解、平和を亡命貴族に訴えたリヴァロルの論説は、第三身分との和解、 平和を国王に訴えた際のリヴァロルの論説と同じであり、彼の言論にはいささかの揺れも見当たら ない。また、二人の王弟やコンデ将軍、あるいはシャトーブリアンなどに象徴されるヒロイックか つロマネスクな亡命貴族と異なり、リヴァロルは一貫して冷徹なリアリストだったと言える。 [参考引用書目] 1) Baër (Gérard), Les Moraristes français, Albin Michel, 1962. 2) Bertaud (Jean−Paul), La Révolution française, Perrin, 2004. 3) Bertaud (Jean−Paul), La vie quotidienne en France au temps de la Révolution, Hachette, 1983. 4) Boisnard (Luc), La Noblesse dans la tourmente : 1774―1802, Tallandier, 1992. 5) Callot (Émile), Six philosophes français du XVIIIe siècle, Gardet Éditeur Annecy, 1963. 6) Castans (Raymond), Nouveau dictionnaire de l’esprit : 2000 citations de Voltaire à Raymond Devos, Fallois, 1994. 7) Castries (Duc de), L’agonie de la royauté, Fayard, 1959. 8) Castries (Duc de), La vie quotidienne des émigrés, Hachette, 1966. 9) Castries (Duc de), Les émigrés, Fayard, 1962. 10) Chateaubriand (François−René de), Mémoires d’outre−tombe, 2 vol., Pléiade, Gallimard, 1951. 11) Dousset (Émile), Chamfort et son temps, Fasquelle, 1943. ‥ 12) Fay (Bernard), Rivarol et la Révolution, Académique Perrin, 1978. 13) Forneron (Henri), Histoire générale des émigrés, 3 vol., AMS Press Inc., 1976. 14) Gaxote (Pierre), La Révolution française, Althème Fayard, 1928. 15) Gengembre (Gérard), A vos plumes, citoyens! 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