溶解の体験とバウムにみる自我境界の在り方

溶解の体験とバウムにみる自我境界の在り方
新田
侑実
(山愛美ゼミ)
問
題
我々の自我は, ある程度の統合性を持ったもの
れるか, 第一質料に還元されねばならない」 ので
ある。 固体が新たな形態へと変容する際, 一度液
化し, その形態を溶かしめる必要があるように,
である。 それゆえ我々は, あたかも己の自我が意
形作られた自我が変容する際には, 自我が一度無
志的・自覚的な存在であるかのような錯覚を引き
形態へと回帰, 溶解する必要が生じるということ
起こすのであるが, 我々は 「意識できない」 から
である。
といって, 無意識的な世界との繋がりを無視して
これは, 新たな再生あるいは創造のための溶解
生きるわけにはいかない。 人間が明確に意識でき
であり, 象徴的な自我の死と再生であると考えら
る領域など高が知れており, 「人間精神の大部分
れる。 形態を与えられていた自我が溶解される体
はまだ暗闇におおわれている」 (Jung, 1964) の
験は, 自我にとってみれば死の体験そのものであ
である。
るが, その死は新しい再生や創造へと繋がってい
Neumann (1971) によれば, 始原状態の未開人
るためである。
は意識の連続性がなく, その未だ分化されていな
このような自我の溶解は, 自我の成熟具合によ
い意識は, 原初の混沌の中からやっと浮かびあが
り体験される様相が変わってくる。 成熟した自我
ろうとしている状態であったという。 そのような
にとっての溶解は, 自我の自律性が解体される恐
状態から人間は, 「文明の状態に到達するまで,
れが生じるが, 未熟な自我にとっての溶解は, 母
言い知れぬ年代を経過する間に, 意識を徐々に苦
なるものへの至福の退行として体験され得る。 未
心して確立してきた」 (Jung, 1964)。 このように,
熟な自我における至福の溶解は, ウロボロス的な
人間は, 形無き混沌の世界から徐々に自我意識を
段階への退行である。 それは, 原初の至福の状態
形作ってきたのである。 ここでいう自我意識とは,
ではあるが, 自我は無に帰すことになる。
意識の連続性の増大・意志の強化・自発的行為の
能力のことを指す (Neumann, 1971)。
Neumann (1971) は意識発達の元型的な諸段階
を検討する試みの中で, 諸対立の相互結合という
では, この形作られた自我意識が無形態の領域
始原的存在の状態である原シンボル 「ウロボロス」
へと再び戻っていく, あるいは回帰する過程はど
についての検討を行っている。 その中で, 自我が
のような意味を有するのであろうか。
始原の一体感へと回帰する状態を 「ウロボロス近
Edinger (1985) は, 錬金術的な変容を構成す
親相姦」 と呼び, 「幼児的・胎児的自我は, ウロ
る主な作業法に焦点を当て, それを心の現象の形
ボロス近親相姦において深淵のウロボロスを, そ
式面において捉える試みについてまとめている。
の溶解と死の性質にもかかわらず, たとえその中
錬金術の主要工程の一つに 「溶解solutio」 という
で我が身が消滅してしまおうが, 敵対的なものと
作業法が存在するが, それは分化した物質がその
は感じない」 と述べている。
本来の未分化な状態―第一質料―へと回帰するこ
しかし 「快楽の海と愛による死の中で消滅する
とを意味する。 この過程は, 心理療法で生じるク
こと」 は, 「死の沈下の後の新しい目覚めを新た
ライエントの変容の過程と対応している。 つまり,
な誕生として体験する」 ことへと繋がっていくの
「凝り固まったパーソナリティーの静的な側面は
である。 ここにも, 自己放棄の始原への回帰とそ
いかなる変化も許さないため, 変容が進展するた
れに続く新たな自我意識の誕生という象徴的な死
めには, これらの凝り固まった側面がまず解体さ
と再生のテーマが根底に流れている。
溶解の体験とバウムにみる自我境界の在り方
Edinger (1985) のいう, 成熟した自我の溶解
ムテストを並行して行う。 調査の内容を多面的に
が, 自我の自律性の解体を引き起こす状態や,
見るためには, 一つの指標となる描画法の必要性
Neumann (1971) のいう, 未熟な自我のウロボロ
を感じたためである。 バウムを描く際, 一番エネ
ス近親相姦の状態は, 現実世界においては深刻な
ルギーを使う幹先端処理について岸本 (2002) は,
心理的問題をもたらし得る。 そのような問題と対
幹先端の開放は自他・内外・事物間の 「境界」 の
峙する, あるいは巻き込まれてしまう人々は, 元
脆弱性を示唆すると述べ, このような事例を 「境
型的・神話的な世界と否応なく関わらざるを得な
界脆弱症候群」 と呼んだ。 そして, 「描かれたバ
い。 しかし筆者は, 自我の溶解の体験は, 必ずし
ウムが被験者の心理的内空間を表わすものと捉え
も否定的な側面だけではなく、 肯定的な側面を持
るなら, 被験者の心理的な内界と外界の間には,
ちうると考える。
何らかの仕切り・境界・区別がある」 とし, その
人間の自我は, 一度安定してしまえばそれで終
わりというわけにはいかず, 生涯を通じて構築と
再構築を繰り返すのである。 河合 (1977) は,
内空間が閉じられていない場合を, 内空間と外空
間が交通している状態としている。
そこで本研究では, 心理的な内界と外界の間の,
「人間の意識は自我を中心として, ある程度の統
あるいは意識と無意識の間の境界が弱い者は, 溶
合性と安定性をもっている」 が, 「その安定性を
解の体験を持ちやすいのではないかという仮説を
崩してさえも, 常にそれより高次の統合性へと志
立て, より具体的に溶解の体験と自我のあり様を
向する傾向が, 人間の心の中に存在すると考えら
見ていくために, バウムの幹先端処理を一つの指
れる」と述べている。 これこそ自己実現への道な
標として使用する。
のであるが, その 「安定性を崩し」, 「高次の統合
目的と仮説
性へと志向」 する動きは, まさに自我の溶解と新
たな創造そのものである。
健常者における自我の溶解の体験については,
あまり研究がなされていない。 そこで, 本研究で
またNeumann (1971) は, 「夢の世界へ沈んで
は, 健常者における自我の溶解体験と自我の境界
行くと, 人類発達の後期の所産である自我や意識
の在り方との関連を調べる。 具体的には, 溶解の
は再び解体されてしまう」 と述べている。 人間は
体験の有無とバウムの幹先端処理の開放・閉鎖の
眠ることにより意識が低下し, 夢の中で無意識的
関連を調べる。 また, 報告された体験内容の分類
な世界との繋がりを再び取り戻す。 意識の低下と
を行う。 方法としては, 質問紙とバウムテストを
はつまり, 意識の一時的な溶解であり, 「溶解を
並行して行う。 仮説として, 溶解の体験を有する
もたらすのは, 自我の無意識との遭遇である」
者は, 心理的な内界と外界を隔てる境界が弱いと
(Edinger, 1985)。 意識の低下は, 睡眠の他にも,
し, 開放型のバウムを描くものとする。 また, 溶
病気や衰弱などで引き起こる。
解の体験を有しない者は, 心理的な内界と外界を
このように, 自我の溶解の体験は, 心理療法と
いう限られた空間に限定された話ではなく, 我々
隔てる境界が強いとし, 閉鎖型のバウムを描くも
のとする。
の日常生活においても, 程度の差こそあれ誰もが
意識的あるいは無意識的に体験していることであ
調査1:溶解の体験の有無とバウムの幹先端処理
ると考えられる。 では, そのような溶解の体験を,
の開閉について・溶解の体験の内容について
健常な人々はどのような実体験として, あるいは
方
イメージや空想として体験するのであろうか。 そ
法
して, それは体験者にとってどのような感情や変
調査対象
化を引き起こすのであろうか。 そして, そのよう
手続き
な体験を有する者に共通する自我の傾向はあるの
サイズの画用紙1枚・Bの鉛筆1本を配布した。
であろうか。
教示は以下の通りである。 ①バウムを描き, 質問
描画法の施行 (バウムの幹先端処理)
紙に回答すること。 ②バウムを描き終わった者か
上記の内容を調査するに当って, 本研究はバウ
K大学の学生108名に対し行った。
質問紙とバウムテストを描くためのA4
ら質問紙に取り掛かること。 ③後日個別面接を予
定していること。 ④そのため質問紙には氏名を記
幹先端処理に関しても同じように, 筆者が分類し,
入してもらうこと。 また, 何らかの理由で調査に
大学院生と話し合って検討した。 溶解の体験の有
協力できない者には, 協力できない旨を意思表示
無とバウムの幹先端処理の開閉に関しては統計処
しても構わないこと, 協力できない者は何もしな
理を行った。
くて良いことを伝えた。
体験内容の分類結果について
報告された溶解の
それから, 画用紙に 「実のなる木を1本」 描く
体験についてKJ法で分類した結果9つの要素が
ように指示し, 調査を開始した。 なお, 質問紙よ
抽出された。 なお, 本来 「空・空気・大自然」 に
り先にバウムテストを行った理由は, 質問紙の内
分類されるべきであろう 「水の体験・水のイメー
容如何でバウムテストに意図的な要素が入り込む
ジ」 に関しては, 報告数が多かったため独立のも
可能性を考えてのことである。 質問紙調査は, 各
のと考えた。
人の中で印象に残っている 「自分を超えた何か大
体験内容の分類結果
きなものに自分が溶けていくような体験 (空想あ
自然 (6名), 水の体験・水のイメージ (5名),
るいはイメージ)」 について, 下記の質問項目か
暗闇の世界 (5名), 芸術 (踊り・音楽・お芝居)
らなる自由記述式で行った。
(5名), 宇宙・限りのないもの・時間 (4名),
質問項目
分類結果は, 空・空気・大
多田 (2003) が作成した質問項目を参
大衆・人間の集団 (3名), 母性・母なるもの・
考に, 筆者が独自に質問項目を作成した。 その内
女性的なもの (3名), ファンタジーの世界・壮
容は以下の通りである。
大な世界観 (2名), その他 (7名) の9つであっ
Q1. あなたの中で印象に残っている 「自分を超
た。
えた何か大きなものに自分が溶けていくような体
バウムの分類に際して
験」 (あるいは空想・イメージ) はあるか
処理の分類は, 基本的には岸本 (2002) の分類に
Q2. その体験 (空想・イメージ) の具体的な内
則り実施した (開放型− 「完全開放型」 「閉鎖不
容
全型」 「先端漏洩型」 「冠漏洩型」 /閉鎖型− 「基
Q3. その体験 (空想・イメージ) の最中, どん
本型」 「放散型」 「冠型」)。 しかし, 分類の結果,
な感情を抱いたか
本研究においては, 岸本 (2002) の分類について,
また, なぜそのような感情を抱いたのか
Q4. その体験 (空想・イメージ) の前後で, あ
なたの中に何か変化はあったか
また, それはどのような変化なのか
結
果
描かれたバウムの幹先端
修正を加えた方が妥当であると判断し, 以下の2
点について新たな基準を設けた。
1つ目は, 「開放型」 の下位分類である 「冠漏
洩型」 にさらなる下位分類を設けた点である。 下
位分類は 「冠漏洩型−開放型」 (閉じる努力をし
ていないもの) と 「冠漏洩型−準開放型」 (閉じ
質問紙調査の結果105名 (男61名, 女44名, 平
る努力は窺えるものの完璧には閉じていないもの)
均年齢20.0歳) の質問紙とバウムを回収した (回
とした。 分類の結果, 冠漏洩型のバウムが多かっ
収率97.2%)。 3名は, バウムは描かれてあった
たためである。
ものの質問紙が無記名であったため無効回答とし
2つ目は, 「その他」 の分類に変更を加えた点
た。 この有効回答105名の内, Q1において 「自分
である。 一本線やバウムの全体が描かれておらず
を超えた何か大きなものに自分が溶けていくよう
開放・閉鎖の区別ができないものを 「その他」 に
な体験」 がないと回答した人は65名 (男39名, 女
分類する所を, 筆者は, 紙面にバウムの全体が描
26名, 平均年齢20.2歳) であり, あると回答した
かれておらず開放・閉鎖の区別がつかなくとも,
人は40名 (男22名, 女18名, 平均年齢19.6歳) で
紙面の範囲内で閉じる処理が行われていないもの
あった。
は 「開放型」 とした。 なお, 一本線のバウムは岸
なお, Q2の体験内容の分類に関しては, 筆者
本 (2002) 同様 「その他」 とした。
がKJ法を用いて分析し, 臨床心理学専攻の本学
溶解の体験の有無とバウムの幹先端処理の開閉に
大学院生と話し合って検討した。 また, バウムの
ついて
「開放型」 における溶解の体験あり群と
溶解の体験とバウムにみる自我境界の在り方
なし群の間には有意な差が見られなかった (表1)。
はならなかった。 以上のことから, 一対一の施行
よって, 溶解の体験を有する者は開放型のバウム
方法で実施していた場合, 結果は違うものになっ
を描くものとする仮説とは異なる結果となった。
ていた可能性が考えられる。
また, 「閉鎖型」 における溶解の体験なし群を体
第二に, 溶解の体験時の感情とバウムの開閉の
験あり群と比べると, 体験なし群では 「閉鎖型」
問題が考えられる。 筆者は仮説において, 「溶解
が有意に多く (χ2(1)=5.918, p<.05), 中でも
の体験を有する者は, 心理的な内界と外界を隔て
2
「基本型」 が有意に多かった (χ (1)=4.455, p
る境界が弱い」 としたが, 溶解の体験を有する者
<.05)。 よって, 溶解の体験を有しない者は閉鎖
と一つに括ってみても, その体験を肯定的に捉え
型のバウムを描くものとする仮説通りの結果となっ
る者と否定的に捉える者とでは, バウムの開閉の
た。
傾向にも差異が生じるのではないだろ。 つまり,
表1
体験の有無とバウムの開放・閉鎖
「自分」 というものの形が溶けていく体験が恐怖
となる者の場合, 意識的に (あるいは無意識的に)
境界を隔てる努力をし, 結果としてバウムが閉鎖
する傾向にあるのではないだろうか。 以上の仮説
から, 溶解の体験時の感情とバウムの開閉の問題
は検討の余地があるように思われる。 よって, こ
の問題については調査2において検討を行なう。
体験内容の各分類について
KJ法において抽出
された9つの体験内容について考察する。
①空・空気・大自然
溶解の体験で一番多く報告されたものが, 「自
然的なもの」 であったことに, 筆者は日本人らし
さのようなものをとても感じた。 河合 (1994) は,
西洋と東洋の自然観の差異について論じている。
考
察
西洋では 「自然」 を客観的対象として捉える (キ
リスト教の人間観によって人間とその他の存在物
体験の有無とバウムの幹先端処理の開閉について
が区別されたため) が, 東洋では自と他の二元論
「開放型」 における溶解の体験あり群となし群
がそれほど明確には存在しない。 科学技術の発達
の間には有意な差が見られなかったことの原因と
などの近代化によって, 日本も西洋のように自然
して考えられることに, 第一にバウムテストの施
を客観的対象として捉える傾向が主流になったと
行方法がある。 岸本 (2002) は, 調査者と調査対
はいえ, このような自然物に超越的なものを見よ
象者が一対一となってバウムテストを行う場合と,
うとする日本人の心的特性は, 未だ深く根付いて
調査対象者の集団に対してバウムテストを行う場
いるもののように筆者には思われる。 自と他の二
合とでは, バウムの開閉に状況誘発的な変化を与
元論の発展が, 西洋の自我の確立・強化へと展開
えてしまう可能性を指摘している。 つまり, 一対
していくのであるが, この点に関しても, 日本人
一の場合引き起こされるであろう 「心理学的緊張
は未だ西洋ほど明確な自我の確立・強化へとは発
状態で, あるいは心理学的な距離の接近によって,
展していないのではないだろうか。
心理学的な 「境界」 が脆弱となり, 閉鎖系として
このように考えると, 自然的なものへの溶解の
のシステムが揺らぐ」 可能性があるとの指摘であ
体験は, 東洋特有の 「自と他の曖昧さ」 に起因し
る。 この指摘が正しい場合, 一対一の施行方法の
ているもののように思われるのである。 近代にお
方が, バウムは開放することとなる。 しかし, 本
ける自我の確立・強化の方向性とは逆行となるこ
研究においては, 個別施行が困難であったため,
のような自然的なものへの溶解の体験は, まさし
心理学的緊張を誘発する状況下においての施行と
く自我の溶解の体験であるといえるのではないだ
ろうか。
「無意識の創造的機能」 にあると述べている。 そ
②水の体験・水のイメージ
して, 「集合的無意識の元型はそれ自体は形をも
Jung (1954) は, 「水は無意識を表すために一
たない心理的な構造であるが, 人間が形づくる芸
番よく使われるシンボルである」 と述べている。
術のなかで外化され可視的になる」 という。 この
それは, 無意識の持つ流動性や創造性・無形態性・
ことを考えると, 人々は芸術に触れることで, 他
底知れない深淵さ・危険性等が, 水の特性と類似
者によって外化され可視的になった人類共通の無
しているためであると考えられる。 また, 宗教学
意識の内容物を垣間見, 共有することの可能性を
者のEliade (1968) は, 「水は源泉にして起源で
有するということである。 しかしそこで, そのよ
あり」, 「水に浸すのは, 形態の解消, 先在してい
うな芸術的なものから垣間見られる無意識的内容
るものの形なき状態へ回帰することに等しい」 と
物に対して開かれた心性を有するかどうかの問題
述べている。 これを心理学的な面からみると, 自
が生じてくるのであろう。 本研究において報告さ
我が水というシンボルで表現されるところの無意
れた芸術的なものに対する溶解の体験は, 芸術に
識へと回帰することを表しているとも言える。 こ
よって表現された無意識的内容物に対する溶解の
のように考えると, 「自分を超えた何か大きなも
体験である可能性は否めないように筆者には思わ
の」 への溶解の体験が水の体験 (あるいはイメー
れた。
ジ) として報告されることは, 自然な流れである
⑤宇宙・限りのないもの・時間
と言えるのではないだろうか。
近代科学の発展は目覚ましいものであるが, ど
他にも, 溶解の体験が水の体験 (あるいはイメー
れだけ科学が発達しても科学的な説明がつかない
ジ) として報告された理由として, 質問紙におい
領域というものは未だ存在する。 それは宇宙や時
て表記された 「溶ける」 という言葉の持つ, 水イ
間など, 人類のささやかな歴史を遥かに凌ぐ, 我々
メージへの連想の結果なども考えられる。
の理解を超えた存在である。 しかし, 科学の手が
③暗闇の世界
届かない未知の領域は, 我々の外界にしか存在し
Neumann (1971) は, 人間の自我意識の誕生を
ないものではない。 河合 (1994) が 「万人共通の
創造神話から読み取る試みにおいて, 創造神話の
未知の世界が外にあるように, 内界にもわれわれ
主題は 「無意識の暗闇に対立する光として現れて
はそれをもっている」 と指摘するように, 我々は
くる意識の成立」 にあると述べている。 つまり,
無意識の世界という未知の領域を心の中に宿して
人間の自我が誕生する以前の世界は, 無意識の支
いるのである。 このことを考えると, 内界と外界
配する暗闇の世界であるという。 それは, 人類と
の各領域の未知性が, 心的に符合し合うという現
いう歴史の始まりにおいても, また, 個々人の自
象が生じてもおかしくないように筆者には思われ
我という歴史のはじまりにおいても同様である。
る。 つまり, 本研究において報告された 「外界の
本調査によって報告された 「暗闇」 は, 現実生活
未知なる領域」 に溶けていく体験は, 内界の未知
において体験し得る 「暗闇」 (例えば夜の暗闇や,
なる領域 (無意識) への溶解の体験が, 概念化さ
地下室の暗闇・押入れの暗闇など, ∼における暗
れる際に宇宙や時間という外界の未知なる領域に
闇) ではなく, 「暗闇そのもの」 の体験がほぼ全
投影されて引き起こった可能性があるかもしれな
てであった。 これは, 人間の理解を超える不可解・
いと考えられるのである。 また, その逆も起こり
不明慮な領域における暗闇の体験であり, そのよ
うるのではないであろうかと筆者は考える。
うな暗闇の世界への溶解の体験は, より無意識的
⑥大衆・人間の集団
な領域へと接近しているものと考えられる。
④芸術 (踊り・音楽・お芝居)
人間の集団行為として重要なものに 「オルギー
Orgy」 (狂躁, 馬鹿騒ぎ, 酒宴, 酒池肉林) があ
本調査で報告された 「踊り」 「音楽」 「お芝居」
る。 Eliade (1968) は, オルギーの宗教的価値に
は, 本来もっと個別的に分類されるべきものであ
関して, 「人間はオルギーにおいて, 個性を喪失
るが, ここでは大きく 「芸術」 という一括りで考
して, 唯一の生ける統一体の中にとけこんでしま
察する。 Neumann (1954) は, 芸術の出発点は
う」 と述べている。 祭りなどの場合も同様に, そ
溶解の体験とバウムにみる自我境界の在り方
の喧騒・熱狂の渦中において人々は, 個人を形成
であるかもしれないと考えられる。
する以前のカオス的状態を再び体験するのである。
調査2:体験時の感情とバウムの幹先端処理の開
人々をオルギーへと導く原動力としてEliadeは,
閉について
秩序宇宙以前の全体性への一体化の願望が存在す
るという。 本調査で報告された, 大衆・人間集団
調査2では, 溶解の体験時の感情とバウムの開
に溶けていくような体験の中には, このような願
閉の問題を検討する。 そのために, 体験時の感情
望に起因されたものが存在するかもしれないと考
の快 (肯定的感情)・不快 (否定的感情) と, バ
えられる。 それは, 自我の確立によって隔てられ
ウムの幹先端処理の開放・閉鎖の関連を調べる。
ていた人間と人間の, 根源的で生々しい融解の体
方法としては, 質問紙とバウムテストを参考にし,
験である。
⑦母性・母なるもの・女性的なもの
快感情−バウム開
感情−バウム開
快感情−バウム閉
不快感情−バウム閉
不快
の4タ
個人としての母親に対して一体感を感じるのは,
イプとそれぞれの体験内容に, 何らかの傾向があ
一定の期間母親の胎内で育つ哺乳類の生理的な特
るのかを調べる。 また, 上記の4タイプの中から,
性によるものであろう。 加えて, 乳幼児期の母子
筆者が考える所の各タイプの特徴を有していると
一体感の経験は, 成長した後も母親に包まれ守ら
思われる者数名に対して個別面接を行い, 事例と
れていた記憶を保持させるものである。
する。 仮説として, 溶解の体験において, 快 (肯
また, 個人としての母親を超えた普遍的な 「母
定的) 感情を有する者は, 体験を受容しているも
なるもの」 を, Jungは 「グレートマザー (太母)」
のとしてバウムが開放する傾向にある。 また, 溶
と呼んだ。 河合 (1977) は, 「母なるものの特性
解の体験において不快 (否定的) 感情を有する者
のもっとも基本的なものは, その 「包含する」 は
は, 体験に抵抗しているものとしてバウムが閉鎖
たらきである」 と述べており, 包含するというこ
する傾向にある。 そのため,
とが肯定的なものであれ否定的なものであれ, 母
よりも 快感情−バウム開 の方が多く報告され,
なるものは全てを包んで自らと一体化するという。
報告された溶解の体験が, 個人的母の体験に基づ
不快感情−バウム開
ム閉
快感情−バウム閉
よりも
不快感情−バウ
の方が多く報告されるものとする。
くものなのか, 普遍的母の体験に基づくものなの
方法1
かは筆者には分からない。 しかし, 子どもが 「母
との接触を通じて母なるものの元型についての体
手続き
験をもつ」 (河合, 1977) ことがあるように, 個
を有する者のバウムの開閉と体験時の感情を分類
人的母と普遍的母は切り離された別個の存在など
した。
ではなく, 密接な繋がりを有しているのであろう。
⑧ファンタジーの世界・壮大な世界観
河合 (1991) は, 「無意識から湧き出てくる内
調査1において報告された, 溶解の体験
快感情−バウム開
不快感情−バウム開
快感情−バウム閉
不快感情−バウム閉
の
4タイプに分類し, 統計処理を行った。
感情の分類について
感情の分類に関しては今の
容に対して, 意識が避けることも圧倒されること
ところ定説がなく, 研究者それぞれの考え方によ
もなく対峙し, そこから新しく生み出されてくる
り分類されているのが現状である (福田, 2003)。
ものがファンタジーである」 と述べている。 ファ
そこで本研究では, 質問紙により体験時の感情が
ンタジー自身が意識のコントロールを超えて, 自
言葉 (文字) として表現されたため, 言葉から感
律性を持って無意識から表出してくるのである。
情を分類したFischerに則り分類を行った。
ファンタジーをこのように考えると, 体験者にとっ
Fischerは多種多様な感情語を 「愛」 「楽しさ」
てのファンタジーの内容は, 体験者の内的世界の
「驚き」 「怒り」 「悲しみ」 「恐れ」 の6種類に分類
様相を如実に表しているものと考えられるのでは
している。 しかし本論は, 細かな感情それぞれに
ないだろうか。 そのようなファンタジーの世界
焦点を当てることが目的ではなく, 感情の快 (肯
(あるいは壮大な世界観) への溶解の体験は, 己
定的) 感情・不快 (否定的) 感情に焦点を置いて
の深層部分との関わりを内的に体験しているもの
いる。 そのため, Fischerの分類を更に 「愛」 「楽
しさ」 「驚き」 を快 (肯定的) 感情, 「怒り」 「悲
バウム開
しみ」 「恐れ」 を不快 (否定的) 感情の2種類とし
多く報告されるものとする仮説通りの結果となっ
て分類を行った。 なお, 「自分でもよくわからな
た。 しかし, 開放型群と 「快」 感情の間には有意
い感情」 や 「感情というものは特にない」, 「まっ
な差が見られず,
たく何も感じない」 等の回答は 「その他」 とした。
閉
快感情−バウム開
不快感情−バウム開
快感情−バウム閉
快感情−バウム開
表2
ム閉
不快感情−バウム閉
の方が
よりも
の方が多く報告されるもの
とする仮説とは異なる結果となった。
方法2
調査対象
よりも
体験時の感情とバウムの開放・閉鎖
快感情−バウ
不快感情−バウム
の4タイプの中からそれぞれ, 筆者が考える
所の各タイプの特徴を有していると思われる者1
∼2名ずつ選び, 合計5名 (男4名, 女1名, 平
均年齢20.4歳) に対し個別面接を行った。
手続き
個別面接は半構造化面接法に従い筆者が
行った。 面接室において約15分程度行った。 本論
文に質問紙の回答とバウム・個別面接の内容を載
事
せることに承諾を得, プライバシーの保護には細
例
心の注意を払う事を伝え, 会話の内容を録音する
事例の記述について
ことに承諾を得てから, ICレコーダー (ICR‐S2
例の内容は, 面接者の語りの本質を損なわない様
40RM) にて録音を行った。
努めて筆者が簡略にまとめたものである。 なお,
個別面接を行う目的は, 質問紙において得られ
本研究において報告する事
プライバシーの問題から, 本人が語った言葉をそ
た回答をより詳しく聴くことにある。 また, 面接
のまま用いることは避けている。
者の語りに伴う感情の機敏や表情, 情動などの非
事例1 (18歳, 女性)
言語的な要素を感じ取る・汲み取るためでもある。
語りの内容
不快感情−バウム開
友達と騒いだ後や楽しく過ごした
調査2においては体験時の感情に焦点を当ててい
後に一人になると, 真っ暗な何もないところに自
るため, 面接者の体験の語りを直接聴く必要があ
分が吸い込まれていくようなイメージが無性に湧
ると考えるためである。
いて来る。 体験時は強い孤独感や不安感がある。
質問内容
個別面接においては, ①具体的な体験
そのような時は感情に任せて泣いたり寝たりして,
内容, ②体験時の年齢・期間 (一回きりのものか,
あまり考えないようにしている。 たまに, 楽しん
連続的なものか。 連続的なものであればその発生
でいる最中にもそのようなイメージが湧いてくる
∼消失期間, あるいは今も続いているのかどうか),
が, そういうときも考えないようにしている。 暗
③体験時の状況・環境 (どのようなときにそのよ
闇は恐怖で, 自分は止まっているけれど向こうか
うな体験 (空想・イメージ) をするのか), ④体
ら近づいてくる感じである。
験時の感情, ⑤体験前後の変化の有無, ⑥変化が
筆者によるバウムの所見
幹先端は開放してお
ある場合, 変化の内容の6つの質問を行った。 な
り, それを覆う樹冠は幹との接点で少しの隙間を
お, 面接の流れで, 筆者が気になった点・詳しく
残し左右とも開いている。 地面や根は描かれてお
聴きたい点・疑問に思った点などについては, 適
らず, 木自体が切り取られて宙に浮いているかの
時質問を行った。
ような感じを受ける。 根の下の空白が異様に目立
結
つように感じる。 また, 果実や, 樹冠の内側でそ
果
の豊かさを表わしている曲線, 幹の内部の線が全
閉鎖型群を開放型群と比べる (表2) と, 閉鎖
型群では 「不快」 感情が有意に多い結果となった
2
(χ (1)=3.769, p<.05)。 これは
不快感情−
て3つずつ描かれてあることが興味深い。 なお,
全てすっきりとした一本線で描かれてある。
溶解の体験とバウムにみる自我境界の在り方
図1
事例1のバウム
事例2 (22歳, 男性)
語りの内容
図2
事例2のバウム
快感情−バウム開
見ているうちにイメージとして頭に残るような感
水の広がりの上に浮いているよう
じになってきた。 内容は, うす暗い体育館のよう
なイメージ。 海・湖など比較的静かな水の動きに
な板張りの密室で, ひたすら球のようなものが近
対してそのようなイメージが湧いてくる。 水平線
づいたり遠ざかったりを繰り返すのを目だけで見
がどこまでも広がっていくような, 水面にふわーっ
続けるというもの。 だんだん球が近づくにつれ頭
と浮いているような感じになる。 自分と水が融合
痛がしてきて, しばらくすると球が消え, 球と一
するような, ふやけていくような感じである。 体
緒になったような感じがする。 そして, 目線が高
験時は眠りに就く前のような感覚で安心感がある。
くなり視界が開け全能感のようなものを感じ恐れ
水に対する恐怖心などは一切無い。 体験後はもや
を感じる。 取り返しがつかない所までいってしまっ
もやが解けてリフレッシュしている。
たという恐れである。
筆者によるバウムの所見
木全体が上方下方共
筆者によるバウムの所見
しっかりとした幹が
に紙面に収まっておらず, 樹冠も果実も一切描か
大地の上にまっすぐ立っている。 幹先端は樹冠で
れていない。 幹先端は用紙に描き切れておらず不
覆われかけているが, 所どころ隙間が空いている。
明であるが, 用紙内においては閉鎖されていない。
樹冠は豊かで, 樹冠の中で細い枝が四方八方に伸
太い根が重なるように何本も下方に伸び, 枝の部
びている。 リンゴと思われる果実が, 大きさもば
分より丹念に時間をかけて描写されているように
らばらに4個生っており, 地面にも1個落ちてい
感じる。 画用紙の下半分を根が占領している。 ま
る。 左側にある, 異様に垂れ下がった1本の細い
た, 全体的に短い線を繋げた様な描写で, 薄い筆
枝に, 小さなリンゴが生っているのが印象的であ
圧のせいか繊細な印象を受ける。
る。 繊細な線で細やかに描かれてあるが, 意志的
な描き方である感じを受ける。
事例3 (21歳, 男性)
語りの内容
不快感情−バウム開
昔から何度も見る夢だが, 何度も
図3
事例3のバウム
事例4 (19歳, 男性)
語りの内容
快感情−バウム閉
図4
語りの内容
事例4のバウム
溶けていくというよりは飲み込ま
普段生活している中で 「日常では
れていくという感じである。 入道雲を見つめてい
ありえないだろう」 と思うような空想が浮かんで
るときや, 海・プールに入っているときに感じる。
くる。 そしてそれが頭から離れない。 例えば, 現
雲や水などの形が定まっていない 「不安定さ」 を
実生活で魔法が使えたり, ファンタジーの世界で
持っているものに対して感じるのだと思う。 自分
生活したりというような空想である。 そのことを
や他者やその他のもの全てにおける存在意義を考
考えると現実から頭が離れていく。 現実と空想を
えたとき, 明確な答えは無いと感じる。 しかし答
きっちり分けていないといけないと思う。 しかし,
えは存在しているし, それはただ形を変えるだけ
空想やファンタジーの世界の方が現実ならば良い
であるように思う。 そのようなことを考えている
のに, と思う。
と, 自分の不安定さが雲や水の不安定さに溶けて
筆者によるバウムの所見
樹冠・幹・根が一本
の線でしっかり囲うように描かれており, 一見木
いくように感じる。 体験後は疲労感がある。 一体
化したものから抜け出してきた感じである。
のようには見えない。 形容しがたい形をしている。
筆者によるバウムの所見 樹冠がとても大きく,
果実は8個生っており, それぞれ小枝によって1個・
用紙の上半分を占領して描かれている。 そのため
2個・4個のまとまりとなって奇妙な連なりを見せ
幹は短く平べったい。 幹先端は何枝にも分かれて
ている。 樹冠や幹の内部には, 流れるような細か
いるが, 全て先細りして閉じる処理が行われてい
い線がたくさん描かれている。 筆圧の強弱の差が
る。 左側の枝にリンゴと思われる果実が1個だけ
激しく, 鉛筆が擦れて黒くなっている個所もある。
生り, 黒く塗りつぶされている。 幹と地の接点に
木の内部においては, 鉛筆が踊っているような描
おいては, 殴り描きのような地面 (草むら?) が
き方である感じを受ける。
ある。 樹冠の内部にはまったく何も描かれておら
ず, 用紙の下半分の賑やかさと比べると, その空
事例5 (22歳, 男性)
不快感情−バウム閉
白が目立つように感じる。
溶解の体験とバウムにみる自我境界の在り方
悪い, 溶解の体験があることが良い・悪いという
次元の話ではないことが深く理解される。 体験者
それぞれの心的状態によって, 自我の溶解の体験
は実りにもなるし, 身の破滅にもなるのであろう。
そして, それゆえ身の破滅を避けるための 「囲い
(境界)」 が重要になってくるのである。
次に
快感情−バウム開
不快感情−バウム開
快感情−バウム閉
不快感情−バウム閉
の
4タイプの傾向を事例と重ねて考察する。
まず, 快感情−バウム開 である事例2である。
事例2は水のイメージ・水の体験の報告であった。
水への溶解のイメージ (体験) が眠気を誘い, そ
こには安心感が存在するという。 筆者は面接者の
語りを, 水に抱かれてたゆたう安らかさやその静
謐な時のイメージが伝わってくるような心持で聴
いていた。 このような場合の水は, 無意識のシン
ボルとしての 「源泉の水」 「起源の水」 という表
現よりも, 「母なる水」 つまりは羊水のイメージ
に近いのではないだろうか。 そこでは, 胎児は安
図5
事例5のバウム
心して眠るのである。 事例2のバウムを見ても,
幹先端は用紙に描き切れておらず不明であるが,
考
用紙内においては閉鎖されていない。 また幹先端
察
に限らず, 幹や根の描写も短い線を重ねた様な描
まず, 統計処理の結果から考察する。 調査2の
結果において,
不快感情−バウム閉
が統計的
き方で, その境界の隙間から絶えず外界との接触
を行っているかのような印象を受ける。 以上のこ
に有意であることが分かった。 このことから, 溶
とから,
解の体験の際に生じる負の感情が, 体験者の無意
自ら受け入れ, 且つその体験が何らかの肯定的な
識的なものへと融合する傾向をバウムの境界によっ
効果 (事例2の場合, 「リフレッシュしている」)
て隔てる働きへと繋がっていることが分かる。 無
をもたらしていると考えられる。 自我が水の体験
意識の世界は創造的で魅力的な世界であるが, そ
(イメージ) において, 無意識的なものへと溶解
れは無意識の肯定的な側面でしかない。 無意識は,
し, 何らかのエネルギーを獲得して再び構築され
人間の理解を超える非論理性や混沌が渦巻く狂気
ていくのである。 もちろん, 一人の事例における
の世界でもあるのである。 安易に深みの世界へ下
理解が, 全ての
降することの危険性について山 (2003) は, 「精
するとは考えていない。 しかし, 何らかの共通項
神に混乱をきたし, ついには, 精神病レヴェルの
が垣間見られれば, という考えである。
病態の発症に追いやる可能性も孕んでいる。」 と
次に
快感情−バウム開
は, 溶解の体験を
快感情−バウム開
快感情−バウム閉
の人に共通
である事例4を見て
述べている。 何の心構えもなく無意識の世界へと
いく。 事例4はファンタジーの世界のイメージで
足を踏み入れることの恐ろしさを考えると, この
ある。 ファンタジーとは, 意識のコントロールを
ような不快感情に伴う 「囲い (境界)」 があるこ
超えて無意識の内容物が表出してきたものである
とはむしろ安心すべきことのようにも思える。 創
が, 事例4の面接者はそのようなファンタジーが
造的で魅力的な世界だからといって, 安易に接触
現実に起こらないことを十分に知っていながら,
しても良い領域ではないのである。
そのような世界に留まることを望んでいるように
このように考えると, バウムが開くことが良い・
見える。 空想の表出する力と, その空想が現実生
活を乗っ取らないようにするための現実的な思考
れは非常に危険性が高いものであると考えられる。
の力が拮抗している状態ともいえる。 このことを
最後に
考えて事例4のバウムを見てみる。 事例4のバウ
ていく。 事例5は, 水のイメージ・水の体験の報
ムは, 幹先端のみならず木そのものが一つの塊の
告である。 「飲み込まれていく」 という表現がな
ようにきっちりと閉じている。 筆者は, 面接者の
されており, その体験への否定的な感情が窺われ
語りとバウムから, 面接者の内的世界の豊かなファ
るが, 事例1や3のような強烈な恐怖の体験のよ
ンタジーや空想が境界を超えて現実生活に表出す
うには感じられない。 どこか一線ひいた冷静さが
ることを, 自我が囲い (境界) を持ってして阻止
感じられるのである。 事例5は, 全ての存在物の
している感じを受けた。 自らきっちり囲いをして
不安定さと, 雲や水の不安定さがイメージ的に連
おくことで, 空想と現実の境界が融解することを
結し, 溶解の現象を起こしている。 しかし, 疲労
避けるかのようである。 このように
不快感情−バウム閉
である事例5を見
快感情−バ
感はあるもののその状態から 「抜け出して」 くる
タイプは, 内界の豊かなイメージが外界
ことが出来るのである。 そして, そのような体験
へと溶け出さないよう自ら閉じる傾向があるよう
に対しての自身の私見が推測されており, 体験に
に思われる。 そして, 閉じられた内界の世界にお
対しての客観的な視点が生じているように思う。
いて, 豊かなイメージへの溶解を体験するのであ
事例5のバウムを見てみると, 幹先端は閉鎖され
ろう。
ているのが分かる。 筆者には, 事例5の報告の持
ウム閉
である事例1と3
つ客観性・冷静さが, 内的な空間と外的な空間の
を見ていく。 事例1は暗闇の世界のイメージであ
次に
不快感情−バウム開
間にきちんと境界が引かれていることに起因して
る。 得体の知れない暗闇に否応なく吸い込まれて
いるように思われるのである。 以上のことから,
いくというのは壮絶なイメージである。 そのよう
不快感情−バウム閉
は, 不快感情を有してい
な暗闇との接触が恐怖として体験される場合, バ
ながら, それが自身を脅かすほどの脅威の体験と
ウムは閉じる傾向にあることは調査2において統
はならず, その背景に自我の強固さを有している
計的に証明された。 では, 否定的な感情を有して
傾向があると考えられる。
いるのに, バウムが開放することにはどのような
意味があるのであろうか。 これに関して考えられ
ま と め
ることが2つある。 1つ目は体験者の自我の囲い
本研究では, バウムを援用しながら, 健常者に
の弱さであり, 2つ目は無意識的なものの威力の
おける自我の溶解の体験について見てきた。 神経
強さである。 事例1の面接者は 「考えないように
症水準・精神病水準の様相を呈しておらずとも,
している」 にも関わらず一方的に 「暗闇が近づい
我々は自我の溶解の体験を有することが可能であ
てくる」 のを避けることが出来ない。 ここに, 避
ることが分かった。 しかし, 神経症水準・精神病
けようとしても避けきれない圧倒的な力の存在を
水準とまではいかなくとも, 報告の中には, 筆者
感じる。 事例3に関しても, 「悪夢」 という不可
の手には負えないと思われるようなレヴェルのも
抗力の無意識の力に晒されている。 自らの意思に
のも少なくないと感じられた。 溶解の体験と簡単
関係なく 「取り返しがつかない所」 まで連れて行
に言っても, 自我の溶解は 「死」 の体験に通じる
かれるのである。 事例1のバウムは, 幹先端は開
ものであり, 強烈な負の感情を伴うこともある。
放しており, 樹冠に関してもあと少しという所で
そのような場合, 自我の境界 (囲い) がとても重
開いている。 事例3のバウムに関しても, 閉じる
要になってくることは本論にて論じた。
努力は窺えるものの, やはり所どころ開いている。
しかし反対に, 我々は自我の境界 (囲い) があ
これは, 無意識の方から内空間を閉め切らせよう
るからこそ, 深みの世界へと潜り込んでも, 再び
としない何らかの高圧的な力が働いているように
現実の世界へと浮上することが可能となることも
見えるのである。
の報告
あるであろう。 冒頭にも述べたが, 我々は無意識
数は3件と少なく, 一般的にはあまり報告されな
不快感情−バウム開
的な世界との繋がりを無視して生きるわけにはい
いようなタイプであることが窺える。 そして, そ
かないのである。 そして, 我々が無意識的な世界
溶解の体験とバウムにみる自我境界の在り方
と上手く繋がりながら生きてゆくためには, 己の
自我の在り方や, 無意識的な世界との接触の危険
性・創造性を深く理解した上で, 自我の溶解を体
験することが重要になってくるのではないであろ
うか。
多田和外
2003
水の体験にみる 「異界」 イメー
ジと心の位相
論文集
京都学園大学人間文化学部生
第2号
山中康裕・皆藤章・角野善宏編
臨床シリーズⅠ
謝
山愛美
辞
園大学人間文化学部赤間健一講師に深く感謝致し
ます。
献
Edinger, E . 1985 Anatomy of the Psyche, Open
Court Publishing Company.
岸本寛史・山愛
美 (訳) 2004:心の解剖学 錬金術的セラピー
原論
新曜社
Eliade, M . 1968 Traite d'Histoire des Religions,
Payot,Paris. 久米博 (訳) 1974:エリアーデ
著作集第二巻
豊穣と再生
宗教学概論2
せりか書房
福田正治
2003
感情を知る
感情学入門
ナカ
ニシヤ出版
Jung, C. G. 1954 Von Den Wurzeln des Bewubtse
ins, Rascher Verlag. 林道義 (訳) 1982:元
型論
紀伊国屋書店
Jung, C. G. 1964 Man And His Symbols, Aldus
Books Limited,London. 河合隼雄 (訳) 1975:
人間と象徴―無意識の世界 (上巻)
河出書
房新社
河合隼雄
1977
無意識の構造
中公新書
河合隼雄
1977
昔話の深層
河合隼雄
1991
ファンタジーを読む
河合隼雄
1994
河合隼雄著作集11
福音館書店
楡出版
宗教と科学
岩波書店
岸本寛史
2002
症候群
Neumann,E.
バウムの幹先端処理と境界脆弱
心理臨床学研究, 20 (1), 1-11
1954
Kunst und schopferiche Unbe
wusstes, Walter-Verlag.
氏原寛・野村美紀
子 (訳) 1984:ユング心理学選書⑥
創造的無意識
芸術と
創元社
Neumann, E. 1971 Ursprungsgeschichte des Bewus
stseins, Walter-Verlag. 林道義 (訳) 1984:
意識の起源史
紀伊國屋書店
バウムの心理臨床
京大心理
創元社
言葉の深みへ―心理臨床の言葉に
ついての一考察
本論文作成にあたり, ご協力して頂いた京都学
文
2003
2005
誠信書房