Unit1 コンプライアンスとは何か

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Unit
コンプライアンスとは何か
学習のねらい
事実を偽ったり、不正を隠ぺいしたりする経営者や企業
関係者の行為に対して、マスメディアや消費者・市民社会
から厳しい批判が集まっています。監督行政は再発防止に
向けた抜本的な措置を求め、投資家は企業価値の低下に敏
感に反応します。社員のモラールは低下し、優秀な人材は
会社から去っていきます。このように、社会からの信頼を
損なう行動は、私たちの仕事や職場を非効率で不健全なも
のにおとしめ、企業の存続を危うくします。
役員や社員は、こうした社会の声に真剣に耳を傾け、従
来の行動に問題があれば自主的に改め、社会からの信頼獲
得に努めなければなりません。その反面、人権・労働・環
境・不正防止などの問題に対して誠実に取り組む経営は、
新しいビジネスや競争の優位性を発見する機会が多く、消
費者・労働者・投資家の支持も集まって、持続可能な成長
の基礎が強化されます。ここに、経営、管理職、従業員が
協力してコンプライアンスに取り組む必要性が生じます。
法律を守るだけで社会の信頼が得られるわけではありま
せん 。 しかし、法律も守れない企業は、最初から社会に相
手にされません。法律を守るためには、具体的に何をすれ
ばよいのか、また何をしてはならないのか、といったこと
について正確な知識が必要です。
ここでは、まず、法律を守る、という意味を理解するう
えで必要な基礎知識を学びます。また、なぜ会社がコンプ
ライアンスを強化するのか、その社会的な背景についても
学びます。
1. 業務犯罪と個人の責任
学習のポイント
組織ぐるみの不正や重大な過失による事件に役員や社員が関与した場合に、
マスメディアはそれを「企業の犯罪」と報道します。しかし、法律の世界で
は、事件に関与した「個人」の違法行為として、その責任を問うのが基本的な
考え方です。
ここでは、業務に関係して社員が法律に違反したり不正をはたらいたりした
場合の、会社と社員との関係について学びます。
◆帰宅後の夫婦の会話
入札談合
政府・地方自治体の競争
入札において参加者が入
札者や入札価格を事前の
謀議で決定する犯罪。
逮捕
犯罪捜査の目的で警察等
中堅メーカーに勤める一郎が帰宅すると、妻の花子が話しかけました。
「ねぇ、お隣のご主人、半年前に入札談合なんとかで逮捕されたでしょ。今日、
裁判所で執行猶予 3 年の判決が出たんですって。勤めていた会社もクビになっ
て、犯罪だから退職金も出ないそうよ。お気の毒よね。お隣の奥さん、涙をこ
ぼしていらしたわ。こっちでは再就職も難しいんでしょ。来月、ご家族そろっ
が被疑者の身柄を拘束す
ること。
て田舎のご実家に戻られるんですって。地方も不景気で暮らしはきついけれど、
執行猶予
ひどいわよね。あなたも気をつけてね。うちは子供も小さいし、そんな事件に
裁判で刑を言い渡された
者が、その執行を猶予さ
れ、猶予期間に取消事由
がなければ刑の言い渡し
が失効する制度。
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どうしようもないから、しばらく様子を見るそうよ。でも、仕事なのに会社も
巻き込まれたら家庭崩壊だわ」
。
一郎は、花子の話をもっともだと思いました。ところで、お隣のご主人は、
行為を命令した会社に社員をクビにする権利があるのか、疑問がわいてきまし
た。
刑罰
罪をおかした者に国が科
す死刑・懲役・禁錮・罰
金・拘留・科料・没収等
概
論
会社の業務命令に従っただけなのに、なぜ逮捕されて刑罰を受けるのか、違法
の制裁罰。
◆仕事上の行為なのに個人が責任を負うのはなぜか
仕事上の行為なのに、どうして役員や社員である「個人」が法律上の責任を
追及されるのでしょうか? それは、法律の体系が「個人」の責任を基本に作
法律
られているからです。
される国の法規範。
国会の議決によって制定
職場・社員
たとえば、社長と部長が業務に関係する違法行為を指示して一般従業員が実
行した場合を考えてみましょう。
マスコミは「企業の犯罪」と報道しますが、法律のうえでは、それぞれの関
係者が自分の行為について別個独立に責任を追及されます。たとえば、入札談
合に参加した社員や指示した役員は、一人ひとり逮捕されて取り調べを受け、
環
境
各々が実行した行為に応じて別々の裁判で判決を受けます。ただし、裁判で
「共犯」と認定されると、他人の実行行為についても法律上の責任を科せられ
ることもあります。
わが国の法律では、会社(法人)自身を犯罪の実行者本人とする考え方は採
られていません。ただし、公正競争、労働基準、労働安全衛生、環境、税金、
輸出入などの行政法規の分野では、違反行為の抑制や取り締まりの必要性か
行政法規
ら、会社(法人)に対して刑罰を設けるケースが数多く存在します。しかし、
国民・住民を拘束する法
行政目的を確保するため
律や条例。
たときに、あわせて会社(法人)にも罰金を科すという、副次的な処罰(両罰
両罰規定
規定)がほとんどです。つまり、法律のうえでは、個人の処罰なくして法人の
役員や従業者が事業活動
で違法行為を行った場合
処罰なし、という原則が貫かれているわけです。
◆会社は被害者
日常業務
そうした会社(法人)に対する罰則は、役員や社員が事業活動で犯罪をおかし
に、事業主である法人に
も刑罰を科す規定のこ
と。
冒頭の事例の一郎のように、社員の違法行為で儲けている会社が当人をクビ
会社の出資者である株主は、法律を守って健全に運営することを役員に委ね
ます。
株主
株式の取得・所有による
会社の出資者。
ですから、会社自体が違法な活動をすることはもともと想定されておらず、
不正な業務命令は本来の任務に背いた個人の逸脱行動と解釈されます。つま
り、たとえその違法行為で売上や利益が増加しても、会社は社員による不正行
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知的財産
にするのは不公平だ、という意見があります。
為の「被害者」として扱われます。
ただし、課徴金などの特別なルールが法律で決められている場合には、違法
行為による利益の「吐き出し」を会社が命じられるケースもあります。
代表取締役
株式会社を代表する権限
加えて、会社の代表取締役(社長)には、違法行為で混乱を与えた役員や社
を有する取締役で、取締
員に制裁を加えて会社の秩序を回復する義務があります。したがって、違法な
役会の決定の業務執行と
活動に関わった役員を会社が解任したり、また社員に懲戒処分を下したりする
日常業務の決定・実行を
権限とする。
懲戒処分
従業員の就業規則違反そ
の他の非違行為に対して
会社が行う制裁罰のこ
のは、法律の世界ではきわめて当然の処置といえます。
さらに忘れてはならないのは、違法な活動で会社に損害を与えた役員や社員
は、会社に与えた損害を金銭で賠償する責任があるということです。
と。
善良なる管理者の注意義
務
本人の能力とは関係な
く、その職業や社会的役
割に応じて通常期待され
るレベルの注意を払う義
務。これを欠くと過失と
認定される。
損害賠償
故意・過失による違法行
為で損害を与えた者が相
取締役には善良なる管理者の注意をもって会社の業務を監督・実行する義務
があります。また、社員には会社との契約で職務に専念して誠実に仕事を遂行
する義務があります。業務上の逸脱行為は、国の法律や地方自治体の条例に抵
触するだけでなく、こうした会社との契約上の義務にも違反します。
会社に対する何億円もの損害賠償金の支払を元役員に命じる裁判の記事に、
みなさんもニュースでふれたことがあるかと思います。これは、会社(株主)
から経営を引き受けた立場から生じる注意義務や監視・監督義務を果たさな
手の損害を金銭で補塡す
かったという理由から、元役員が個人の資産で弁償しなければならない責任で
ること。
す。
賠償する資産がなければ、元役員は自己破産します。それほど重い責任です。
社員のみなさんの責任は役員の方々ほど重くありませんが、会社の資産を騙
し取ったり、意図的に損害を与えたりした場合には、個人の資産で損害賠償を
求められる可能性があります。
社員のみなさんは、役員や上司を絶対的な権威と思い込みがちですが、そ
れはとても危険なことです。役員や幹部社員の命令であっても、その内容が法
律に違反するときは、それを「会社の命令」と考えてはいけないのです。つま
り、違法行為の指示は正式な業務命令にはなりえない、と理解してください。
ところで、その違法行為が本人の発意でなく上役からの業務命令によるもの
であることは、個人の責任を免除する理由にならないのでしょうか?
たしかに上司の命令や職場の悪しき慣習を否定するのは簡単ではありませ
ん。仕事を失ったり、周囲からのいじめに遭ったりするかもしれません。しか
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概
論
し、ものごとの善悪を判断できる大人なのだから、業務命令といっても断るこ
ともできたはずだ、というのが法律の基本的な考え方なのです。
役員も上司もみなさんも、法律の順守という要請においては同列であって、
立場による違いはありません。法律に違反すれば、それぞれの関与に応じて責
任を負う結末になります。社長や上役の命令だから自分には責任がないという
理屈は通用しない、と肝に銘じてください。
職場・社員
学習のまとめ
ここでは、次のことを学びました。
●組織ぐるみの不正や重大な過失による事件に役員や社員が関与した場合で
も、それぞれの関係者が自分の行為について別個独立に法律上の責任を追
及される。
環
境
●法律のうえでは、個人の処罰なくして法人(会社)の処罰なし、という原
則が貫かれている。
●たとえ役員や幹部社員の命令であっても、違法行為の指示は会社の正式な
業務命令になりえない。
日常業務
MEMO
知的財産
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2. 法律の仕組み
学習のポイント
ひとくちに「法律に違反する」といっても、その意味や制裁にはいろいろな
違いがあります。
ここでは、法律と規律方法の種類について学びます。
◆どんな法律も違反すると逮捕されたり、
刑罰を科されたりするのか
法律に違反すると、逮捕されて裁判にかけられ刑務所で服役する、といった
イメージがあるようです。どんな法律でも違反すると、逮捕されたり、刑罰を
科されたりするのでしょうか? 答えはNOです。
法律には、次のとおり、いくつかのタイプがあります。
まず、みなさんにも映画やドラマでなじみの深い、刑事法と呼ばれる分野の
法律があります。刑法という法律を頂点として、軽犯罪法など個別の法律があ
ります。捜査段階で逮捕されたり、刑事裁判によって懲役や罰金などの刑罰を
科されたりするのは、この刑事法に違反したときです。
過料
行政法規上の義務違反に
対して行政上の秩序を維
持するために徴収する小
額の金銭罰のこと。
次に、行政法や経済法と呼ばれる、行政の組織や手続を決めたり、公共の利
益のために国民・住民や企業に対して一定の義務や制限を課したりする分野の
法律があります。行政法や経済法に違反したときは、改善命令などの行政処分
が発動されたり、過料という行政罰が科されたりするのが一般的です。
行政罰
行政法規の違反に対する
行政罰のうち、刑事裁判
手続によって科される罰
金等のこと。
ただし、そのなかでも社会的に重大な違反行為については、行政法や経済法
のなかに刑罰規定が設けられていて、刑事法の手続に従って刑罰が科される仕
組みになっています。
契約
当事者間の意思表示の合
致によって相互の債権・
債務を発生する合意のこ
と。
不法行為
故意・過失による違法行
為で他人の生命・身体・
財産を損なうこと。
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さらに民事法という、民間の取引や事故において当事者間の財産上の衝突を
調整する分野の法律があります。契約や不法行為と呼ばれる規律は、この民事
法に属します。
このうち取引を規律する民事法では「私的自治の原則」と呼ばれる基本ルー
ルがあり、善良な風俗や公の秩序に違反しない限り、当事者で決めたことが原