口詞樽承 と 結純の制

- Ic;
-
口詞樽承 と 結純の制
w lll 告i )こ
Genda Ikeda : Oral Tradition and Quipu System.
て見様とするものてある。それは、才耳が国に於ける琵
T
ljewis SpenぐC けその「神器学入門」に於て、古等
把や、日本雫町の持つ日本神話を、ケノt下人の神静や
部のT:ときも、一画r_於ては宗教的、村会的脚的や、
ま才封こ依ってその音符を付持したてあらうとも者えら
閉t/X^K]ユ
メキシコの Yopol--Vuh に対比している。我が国の
れるが、また他面に於ては、かゝる結肝的なものを記
百倍が、惟界欝民族の古侍の問に伍して、決して貧困
憶の手掛りとして用いたものではないかとも考え及ぶ
なものでない車は認妙られてよいoまた.日本神話に
からである。結柾の制は文化民族の所産の中では、最
限らず、是等多くの古借が、いづれもその原初の時代
も基礎的なものてはあるが、記録の形態としては、最
に於て、一腰は口諦僧誅の過程を野て巽たであらうと
も原産的のも(71てあることは否まれないものであって
いうことも一駅に認迫られてよいと思うoそのうち、
恐らくは、あらゆる文化民族は、文字の発明以前に、
ケルト人の古侍については、これを吟諦に依って博え
何等かの7日こ於て一腰かゝるだ路を経たであらうとい
ることを職としたBaid【時評前人】の陀机があり、古侍
の保持に当っては、ケ,LJ下人特有cT'宗田組織 D川ids
うことも、考え積られる所てある。
琵(1). 〟.ln Introduction to mythologyr′ by Lewis
【児倍々ETl】が、これを安持していたことが明かにせら
れている'2、0号たケルト人と種並ん/L<口許に依 てそ
Spence. 1921.
(2).
のナ蝣蝣{<<i・'蝣鞘,一 丁'.?'一蝣?ユ・才十、のLp、:㌔:SJ 1 r、 半球
Hastings
ではヂI)ネシ了のマオl)人が(邪、一駅には挙げられて
I.
】ul
Eethicsr′ by
1928
K rappe, 1930.
古博の博習をE酌とする、 WhRl卜1-vananga と称す
(4).
′′Myths
and
Legヱnds
of
Polvneゝians,′′ by
Johannes <J. Ai-dersen, 1028.
れている'*>一
1/Maori and Polynesianl/ by Macmilianアミrftwn
我が国l上古に於ても、票吾郡と称する郡民がもり、専
ふるこご
1907.
IS-n詞「ト--1-蝣ナ・rつ博 こ11職 l.vこ ナ蝣;inv'>'・L
ら考えられているが、譜部の性質を充分明かにする資
(5).
′′The
Cluipu
and
Peru、ian
Civilizpticny[′
by
J chn R. Rwanton in Anthiopological Papers
料は、我が国に於ては、極めて乏しい健であるoケル
ト人の場合の様に、厳しい児倍倍団の按の下には、仮
No.
26.
Smithonian
Institution
of
An二erica】l
Ethnology Bulletin No.133. 1943.
に文字に依らないでも、その昔侍は此鞍的旧い形を失
I
Re一igion
(3). 〝The SJience of Foヱk-fore,〟 by Alexander H.
フアレ T7ナンが
・=.特有cTノ神聖なる学校(T備懐がもったことが報告せら
of
\蝣ol.
枚村武雄艮著 「儀礼及び神話の研究」
いるが、ここでも棒杭の首長や、試算が特に家斉を中
心とする古侍の貯狩に任じ、そC''為には、ロ淫に依る
〝Encyclopedia
わない健で、永い期間博わり得る可階性がある0号た
マオ1)人の問でも、同じ様な宗教的、社会的に厳しい
「結挿」という言葦は、旧く中国の文献に見えてい
握がもり、古樽の侍暫には、自動的に働く宗教的制裁
るけれども、 空契上T前の原始的方法であると理解さ
がこれを支持.していたという点で、ケ)t卜人の習俗と
は、梢似たものを持っていたとも言えよう。
れている以外には、 その制が如何なるもので'あった
古代メキシコの如き、記憶を助ける絵画的な記号を
貰算がこの制定に賢するものであることが注意せられ
∬
かについては、殆んど知られていない。たゞ弼純の
SErasl
持ったものについては、諭を為す必要も無いが、近時
て、早く明治時代に詳しく調査せられているVK
古代ベル-に於ける有名な結柾の制定"Quipu System*
Qmpu System は今でも、南米アンデス山の高地粗相
が<.一・)、 口諦侍承の問題と閑虐して醇扱わTしているの
に鑑み、私はここに文字発達の好路とは別に、 -蹄の
で振田せられている様であるがC-0、その進んだ組出
複雑な「意味を持つ標識」としての結柾制を駁り上げ
物て有名な頚である。黙しその大要は末だ、よく知ら
は、古代ベル-のインカ帝国に於てゞあったことは種
幕艮学芸大学肝要 第1海 第2号 192年(昭和'27年) 3月1日
-
-96 -
鞄 田
れていない状態であるO
bZI完ESi
醇 太
所に貯蔵せられ、村々に必要の分だけ安給せられたO
この制定を持っていた様族は、 Quichua語を用いる
これとともに、者人には、土地が分配せられた。その
ベル-のクイチエア族で、その社会は、君主的神政社
為範に、国々の人口は毎年渡重に調香せられる必要が
会 √′丸tonarchial 'I'hcocatic co】rum一mty 〝 とも言
頃EEa㌫
うべきもので、極めて統制力の強い中央集権の組細を
烈し.インカ帝国に於ける中央集権は.決して我が
持ったものゝ代表として挙げられている<8>。 その主
!ォ:蝣;
国古代国家に於ける様な.人材登用を醍模するもので
権者を r】icaと呼んでいたので俗にはインカ帝国と言
われているが、賢術上では r古代ベル-人の帝国」
はなく、寧ろその村会は,世襲という厳しい錠の下に
拘寮を受けていた。
′′A-】cient Peruvian Empire'′ と呼ばれているo
lnca に、国王であると同時に、論理的には司祭、
即ち仕事はあらゆる者に.子供の時から与えられて
あり.その仕事を怠けることは国象に対する犯罪と認
並びに軍の長であり、その欲するが健に、法律を制定
・V>!Yi二. ftミ∴統一 て罰-lT^ii:、二。 L丸くへ職業1- Ni:蝣>こifflj・1.
し、租税を課し、栽判官を任命してもよか-つた w>し
来侍ある秘訣があり、人々は博采の仕尊の性質を変更
実際問題としては、インカは何世紀かの問に育成せら
することは許されなかったO仕轟のみならず、社会上
れた厳しい制度に依ってあらゆる点に於て制約を受け
・"'蝣i'il'il'.'さ.'c T、 :J二l二>G!i: i--r、この=:古は:-[三jlLて,い・lヰ1':玩
ていたことは勿論である。而してそcr,制空というのは
して仕舞っていたので、社会上の安定感は殆んど絶対
立法、司法、行政のそれぞれの目的の為めに完全に部
的なものであったと言われている(蝣">>
門的に区分せられた国土の上に立脚していた。即ち国
土は田つの区封に分れ、その各々は、それぞれ、特種
の称号を以て呼ばれ、また首都クズコと、それぞれ特
かiる社会に必要なものとしてこのQtnpu System
は生れ、且つ発達したものであった.
経(1).田代安定「沖粗県諸島結柾記標考」
頓の繋がりを持っていた。クズコはまた、国土の四区
東京人矩学雑誌第六巻、第六十一号、第六十
分に従う四つの区都に分わ、クズコに上って預る地方
二号.第六十四号、第六十五号。
官等は、必-ffl己所苛の甘\V:コ1日'こ:・・:#,蝣'つ.TIT. -ぎ'ft u--1"
mivK-ii菅 長谷川言\代r;ii r汁柾枯粗
なければならなかった。斯くのごとく、支配者等は、
苛」 tri-'W.二川i L月‥養穂仕狸n'c
国内のあらゆる人民は勿論、あらゆる物までも、尽く
(2).
′The
I弓pic
of
Latin
Ai-acrica′′ by
John
Crow, 1946.
所冠の場所に置く為妙には、細心の考露を払ったo
人々は験す所なく、明瞭な部団に分けられていたが
その単位は十八、五十人、百人、五百人、千人、一万
1/General Anthropology, 〟 E. M. 226. 1938.
Chap. Vl r′Invention,〟 by Franz Boas.
カでI1
人で、十人毎にこれを預る世話役たるCamayu を置
(3).
〝Social
Anthropology′/
by
Paul
Badin,
1932. Chap. rx.
いてあり、更に五十人には五十八、百人には百人に対
するカマ-が置かれてあったC4)。 斯くて、一万人を
〝Monarchia王 Theocratic Community〝 : The
以て一つの部団を作り、この部団を預る者としては、
Ancient Peruvians.
インカ貴族の中から選ばれた地方長官が任命せられたo
この地方長官はその地方に於ける地方官荷を完全に交
(4).
′′Second
liook
of
Roval
C】ommentaries′′,
by
the Ynca Caroillasso de la Vega, Translated
dnd edited with notes and introduction by
配していた。曹長田舎の町や村にも、奉行が高裁する
Clements K. Markham, 1869.
裁判席が開かれ、些細な犯罪をも塀扱った。董大な犯
罪については、上級裁判官-主として粗方長官-の面
前で裁判が行われた。これ等の粗方奉行は、不定期に
1/Oamayur/
Camayu
クラ,0
of
means
'/He
who
has
charge
lO ′′Chunoa
of′/
Camayu,
'/
国の祝等を受けた。粗方にはまた 〝Curaca′′ と
Camayu of 50 -"Pichea-chunca Cam-
称するインカ貴族の土候があった。これは供伯に相当
ayu,"
するもので裡服した種族の上に任命せられ、四方のイ
Oamayu
ンディアン部族の征服にあたって、抜群の功績ある者
の中から選ばれ、同時に温艮で、人柄がよく、敬虎で
of
lOO一一一-〝Pacha?
Camayu,
′′
etc.
(5).
1′The
Epic
of
Latin
America′′
1)v
Joh]1
Crow, 1946.
また人民の福祉を常に心懸ける人物である必要があっ
た。これ等の地方官吏は一・年に-匿か、二年に一度か
王
け必ず首都クズコに上ってインカに奉仕せねばならな
古代べノ1 -に於ける結確朝をクイチユア語で、
かったOまた収穫物は、村毎に集められて、三期司の場
′′Quipu′′と言う Quipuとは動詞として「締ぷ」'′to
h
口前偉東 と給紙の制 _97_
和.赤色は兵士乃至戦争、こC.,外黒色は時、緑色は戦
knol′′名詞として[ 結び目J′′Itknot′′を意味するが.
同時に亨た「計算」′′Ll-count′′,l二いう意味にも通
死L メ-享、+、
Ill?・蝣-蝣;t.蝣蝣-;.!-. : :-カ、 T'i-IfI:イ<'; ( -111カ)
F,した。これはQuipuがあらゆるもIJlゝ冨輝に酌、
灰邑融十上雅Elは敢府、育、黄、自己は宗教等をそれ
られたからである。
ぞれ意味するものであった。この外色彩に依る意味の
Quipuに揮うる紐(図1)の朝料は羊毛で、紐:二は
^^,川由やひも貞1fひも
必ず「主紐」があり、主,mから枝紐が房の様に群を
壁化は多様てあったと考えられるが、その詳細は不明
である上せられている(41。 鐸在アンデス山の高地地
帯で用いられている詰旺帥丁は、例えば、所有主の異
-'.」1.て乍>.:r"し,I-.-。'、・1- mま当蝣¥i>柁:し".::;!-1:
うマ
おやひ・も
なった羊や城島の群ろ潤括して監視する羊餌が、自分
持っていたo寺粗は長いものは数ヤードもあるが.短
丸や'lも
個人C「羊OT,数は赤色の結馴こ依り、石野の分は黄色の
い、:.‥-叶v-f¥.-LJLゞ、ご::†LLー,1-。こi細l-I、こ。補
蝣1-*.:
桔梗、相の主なる持主の有畜野1を白色。-'結柾で区別し
的紐がついており、こilLにほ乳ー一別cT)梓的幣蝣*蝣下
-c
t:iこ.<蝣/サ
いた。主細には結EHまなくて、粁印と柿取組とに結日 ていることが注意せられているのは参考とすべきであ
がついていたoこれ等の結馴ま.そCつ位富と結び方と
│:一依って数値が琵解せられた<!>即ち主紐から最も
る(510
この年、色彩に依って区別することの出司ミない物に
離れた所の結目「・群が、1から9号での単位数で、そ 対しては、その物C'l重要性の程度に依って、その順序
れより一段上の、言換れば、一書だけ手紐に近い所に が窪められてあった.例えば、軒鞍については、第一
与こF
ある結削三十Utの
小筆、夢二が大茸、第=_:が豆、第四が枝等の順であり、
きて、 "; ll-'-・r,:-ォ
loooo a
に-啓づゝ上に登
si^aiH頚髄p
000位
[BE問
投石の順に従った。また人民の数については、第一は
-j-17-'-なL'.I.V;ち
村の/、口、甥二は州の人口、とし、年齢のごときにつ
上の、即ち主紐に
it i-Jii'-^キ;. n∴ 万
いては、舞-の把に六十歳上T上の者C,数、次には五十歳
♪J上、次には四十歳M上という風に 下って、最後に乳
位の数を示した0
強こ至るものであった。女子は女子の紐というのが別
年iKliでは. 7j忙
を以て最上の数と
粗 放
m
m
図1. Quipu に用いる把
また仮に兵器の数を記録するとすれば、最初に最も巽
東な槍、次に投桧、次に弓箭、次に盾、次に芹、次に
KMKH白
に蝣?"蝣「.v-O
した。勿論被等をま
これ等の紐には時には同色の小さい粒か柿数的につ
いている場合があるが、これ等は補助的の役目か、例
方位11上の数に対
外かを元すものであった。例えば、本粒が或る年の四
する言菜を持って
十歳の要','!#者の数を//:すならば、その補助紐は、その
いたが、実際間置
年の四十歳にして頁を持たない男子の数を示した'.ォ
としては万位以上
また仮に赤色の結日の一千が、一千の兵士を元すなら
を結柾に漂わすこ
ば、それに附屡する補助紐の漁色の結目の一百は、一
とは無〔かった様で
百の戦死した兵士を意味するものであった<?)
ある。この様に、粗には.数の単位に依る陪日の位置
SM
江(1). ′/The Story of American Indian,′′ by Paul
Radin, 1944.
に間隙なKS^'S、、へ・>-(!'e
(/Sixth
サー・*
また、結目の型については、結輪を一つ通した結目
of
は1、二つ通したものは2、それ以上、 3. 4、 5、
6、 7、 8、 9のル-ブを通したものは、それぞれ、
(2).
of
Yncas,
′′General
Chap.
(3).
VI.
′′The
結び型があったのは勿論である(310
倍坪はかくのごとく、数の変化を元すものでもった
Rook
the
Joもoyal
′′ bv
the
Commentごiries
Ynea
GarCillasso
de la Vtga, 1869.
3、 4、 5、 6、 7、 8. 9の数を云したo斯くのご
ときは、その蕨も簡単な例であって、この外に環々の
tlle
Anthropology,
J′luvention'1/
Story
of
American
"
E.M.226.
by
Franz
Indian.′′
1938.
Boas.
by
Paul
Ratlin.
(4).
′′The
が、それは実際生活に於ける様々な物の数を話すもの
Quipu
Land
Peruvian
Civilizaもio11′′ by
John Swauton, 1943.
で、算盤の様な計算器ではなかった。この故 結種の
元す物の変化が額ければならないが、それは第一に紐
(5).
C)色の変化に依ったo即ち黄色抹金、白色は鉄乃至平
(6). Sixth L'ook of the Eoyal Goaimentarieg.
The
Epicof
Latin
Americaヽ by
John
Crow 1946.
池 田 塀 太
-98-
(7), §The Quipu and Per11、,h-n Civilization*5
bv John Sw年ntoil.
countants'/と同轟語であったと言える。
琵(1). 〝The First Part of the Chronicle of Peru
by Pedro de Cie?a de Leon,〟 1864.
II
緒棺本来の用途は、古代ペノL -に於ける中央集健的
(2).岬ixth I】ook of Roval (Jommen如Ies of
政治運用に於ける計数的記録の為であったoこの意味
に於て最も重要なものは、年毎に人民がインカに対し
て献納する買物の晶級とその数量とであって、献納の
nrA級には、金、銀、穀物、在畠、畜禽、薪料から.更
the Yncas.〟
(3). ∫/Second Book of Roy;も1 Conlmentaries of
the
incas.'蝣/
V
vM.WMl
に詳細に亘った品々が同じく結粗に依って示された.
賠柾の組樺が既に述べた様に、本来把の上の結目を
次には、植民政策下にある摂征服部族の戸口調帯か
ら、更に納純一.炎了蝣'蝣.'i'lう 了ト':こ 、蛸環I.-.、 +
基調としている限り.結局に於て、計数に賭する記録
女等の数とその納貢物の数量の差等、軍兵、兵器の数.
所である。陪好の陪醇のごときも違算の名の示す様に
がその本質的なものであることは容易に理解せられる
r*c-ォa
中央、地方に於ける在庫資産の日録等カ'同じく陪柾に
そaノ主体か計量の尊にあったことは論を侯たない。従
依って示されたOこの外陪席に依って示されたものに
ってかゝる結酎こ依って抽象的娩念、乃至は、何等か
は、 lもtil打、単二 井、毎月'.!-li'.こも'"'I^C-.-'、ものの
数、行われた戟事の数、インカにJ<-]して派遣された使
の尊宅の叙述というがごときものを表示しようとする
ことは、極め⊂同軸なことであったと考えられている
節ゆ数.及びその使節に依って為された滞説或は試論
どの事をガルS,ヲツソ、デラウェガも一腰 認めて.
の数等凡そ苛も数をw.て示すことの田菜るあらゆるも
のに及んでいたと言われている(1-0
かくのごとき計数を主眼とする結旭には、 Quii〕u
均IMWMji由闇
G…
iliaっso
de
la
Vegil
「要するに、彼等ペノ1 -人は数に関したことは何で
・
1
'
-
も結紙に依ったので、戦われた戦争の数、インカに
・I" !-iさil '-.:-j潤のIll∴住f':iH:{*って恥・r,れた演説
Camayu 「結総司」というこれを専門に掌る官更が
議論の数に至るまで陪席に記録した.燃し言壁や論
あり.妹控に代る吉蝣蝣^T.ir.持こ^fiiu二㌧・ご蝣蝣.xu-t.れて 話
説.またいかなる雁史事実をも、蓑京することは出
せられたo一般に古代ベル-人の間には通崖がなくて
報なかったO話された言葉を移す方法がないので結
物々交換が行われていたが、決して衣頚や、家屋や、
樋は数のみを表わして、冨某は表わさなかった(】)0 」
土地を売買するこLはS*-.ト、一蝣1-X-のLこ、計:ii.i^一出す こ
とは、殆んど陪機司の取扱に限られていた風であっ
と述べている通りであって、ここに結唖は記録用とし
た。それ故に、この聴故に充分通慣性のある人が遺ば
て大きな敏陥を持っているのである。然しかゝる記事
があるにも拘わらず、この制度が単に計数に関するこ
れ、軽々に変速することは黙かった。結粗司は信頓
するに足る正直な人物であったが.村々にも村の戸数
に庵じた数の結唖司が置かれてあった。最も/j、さい相
で四人、多ければ二十人乃至三十人も置かれてあり、
ZBa玩py
いづれも同じ様に計量記録の轟を掌った。斯く緒粗司
の数の多かったのは要するに、計算上の誤りを防ぐ為
であったと説明されている(B)。
vrnm* aFiEE
結柾司は陪従の法に依って、統一的政治の上に必
要な計数を記録したが、また単に記録するのみでなく
進んで加法乗法をも行い、また、村々の負担量を知る
為めに、紐を玉苛黍の粒か、小石を以て分けて除法を
OAノフカマ_i
も行った。結桟司には、和戦、人民、納買、茸轟.
法律、儀礼等の部門別の専門衣があったO
とにのみ終始していたのではないことは否定すること
は出来ない。
凡そ陪観は数を示すというけれども、その数たるや
何物の数であるかを表示せないでは意味の無いものに
終る筈である○これを救う為めに、色彩と序Fl]とが物
の区別を立てる為めのものと理解せられていたことは
既に述べた所である.然しこの外に給餌が「意味を」
持つものとして用いられたのは、それが通信用に使用
せられたことに依って知ることが出来る。
今日南米インデアンの間でも、祭に招く招待状とし
て、この転の絵絹が用いられている。それは、祭まで
の日数と同数の結日を持った紐の束が、客となる者に
手頃されるが.受戒った者は、緒日を毎日一つづゝ解
かくて結柾に依る計算の正砧三は、当時道々スペイ
いて行って全部好き終った日を崇の当日と理解して打
ン人の驚嘆する前となったが、それはスペイ'V,人の最
得に膝ずる習俗であるv*>- 即ち結措その物は数を示
も計算に租様な会計官でさえも毎々誤りを犯すのに比
すのみであるが、祭に招待するの意確は風習に依って
べて、ベル-八の店施設に(aる訂男には苑んど誤りが
理臆されているのであるo我が国でも、嘗って済肢の
なかったからであるとせられているし3)0
片田舎では、一塩の給紙が書面の用に使用せられたこ
かゝる計数に関する結紘司は要するに会計官′′Ac-
)l/-プ
とが報告せられているoそれは一方の端に結輪を持つ
-J99 -
拝辞侮蔑と結柾の制
fl,一蝣
た藁を二すt:、各一方の端と他の藁の結輪に通して男
子から女子に贈るのである。 (図2A)
図 2 A
/寺二ご二三≡…軍
「クズコからクイト-まで、五首リ-グの道程を
チヤスキス
使者!Cォhaquis*は二十日で往復する。この様にし
て「書面」はl)ズコからl)マまで百三十1)-デの間
悪路にも拘わらず三日でとゞくoイン別まこれ等の
使者を拝いて鮮顔を海から放りよせる。魚は胃リ-
これは牙鰭の意を通じたもので、拒否の意はこれを
引き離して返すことに依って示し(図2B)
ciコH
肇匡牢-=---串
z^ry.
L'を.:.1.1で浬;r.ii',, 等は.くく.Jが汗.:には-.Fi "一・ヤ'
の距離を遅滞させられたことを館野の記録に載せてい
る(6) 」
と報告している。ここに智頭、Ietter's"とあるのは文
字で記されたものではなくて.鮮野に依っていたこと
当然である。しかもなお最後の行では、文字の記録と
受諾のしろLは結輪を引き寄せて返すことに依って知
全く同じ様な結秤の記録が耽り扱われていることに注
られたというのである′310 (図2C)
意せなければならないo斯ういう風に「魚が暗には三
K 2 c
・ -二丁.<二際
こ才I(・現す・=:、こ1 J-;--* _-i.-にi,->;チ,=、戴、トl滑Lp、芋Fl;'??
百リーグの距離を運澱せられた」と結糎に記録せられ
ユ'lol'na
たとすれば、そ')ナがベル-人は五首年♪J上もその園
丁_起蝣-'.-叩 子∴"i'"'nri十:::、こ1がEl!ヰ蝣:蝣* }.!・.解してい
についても見られる。それは、テラウェガが
ることも(7、、肯定せられて来るのであって、ここには
車.【瀞が三-蝣>-.言EH'--':. ∴-Iや-: iたこ*蝣*,蝣叩千、にV-│;fっねば
「一般の裁判官は、如何なる判決をしたかについて、
ならないのである。
これを上司に報告せればならなかった。それは毎月
行われる一一環の車芝野坤間であった。インカ及び上司
に即してなすこの報 の方洋は、野/5の邑の紐の上
に作られた繕日に依ったもので、この方港に依って
意味が文字に依ると同様に理解されるO斯々の色の
結目は、斯々の犯罪が罰せられたことを示し、また
もざひ・乙
本紐についている種々の色の小さな粗は執行せられ
た刑罰を京していたので、かゝる方法に依って文字
の不足を締ったォ」
田代安定代も、押紙の陪柾に於て、数のみを指示す
るものを「指示棒」とL、言辞、文苦の昭に充てるも
のを「会意椎」と名づけ、御礼代貯標として田圃の側
に野葡萄蔓に藁柾等を附帯せしめて、桐若しくは梯横
に懸けおく場合を指摘しているO押柾地方の所謂「会
意樵」というものも結局は
「此の区内に侵入して狼籍する者は、主監者の見当
り次第波露して相当の所罰に行う(8、。」
と証言していることである。また彼は古代ベル-に於
と言うまでで意味以上進んだ、事件の記録というまで
ける駅侍の制を説明した後に、
は音だこの調香の上でほ見当っていないo
「この外言責に依るのではなくして、書面に依る速
謹('). ′′The Sixth Book of the Royal cominentaries of the Yncas.*
達便が届けられた。既に我々は彼等ベル-人が文字
を持っていなかったと言明したにも拘わらず、我々
はこれを承引する。それは文字の代りに彼等は転々
の色の細の上に作った賠目を持っていたのである。
(2). 〝General Anthropology、 E.M. 226.
(3). 「玉かつま」十三の巻
(4).
それは定まった序列に従っていたが、また必ずしも
同L:序列に依らない`ご、時には逆に一つの色が他の
of
(5).
色の前に置かれることもあった。この方法に依って
インカや為政者は、人民T,指導に当って何が必要で
′′The
the
′′The
First
Book
of
Koya]
of
Royal
Commentaries
YnぐaS,H
Sixth
l!ook
Commentaries
of the lncas/
(6).
も.I,かち-JS;解Lr.-。恥「 V- i「喜寿「'U二U'. 1は*.'.: ∴や
〝Keport
of
Polo
de
Ondegardo,* Manus-
cript o上I parch in Nati0-ial Libr.'aty at
兵器やd*V管や食糧その他の物の数を示し、且つそれ
Madrid, 1873.
が作製せられ、輸送せられ、または催促せられる等
(7).
の事を意賛していた、蝣5サc 」
と言っているO 同じ様な音信用の鰭柾については、
Pol(- de Oauegaruo
ポロ、デ、オンデガノしドが、
′′Narrative
of
Rites
and
Laws
of
the
Yncas* byぐhristoval de Molina, 1873.
(8).田代安定著「沖柾陪柾考」
- 100-
池 田
Ln
蹄 太
‥‥ナ ∴'い'I.'1:、.、-けi"i:敬..- ・ミ'!">・'蝣∴
-蜘勺に言って、計数据巳鎌が国家行政の上に極妙
て必要なものであることは諭を侯たないが、同時に、
数というものが、人間の記憶から脱L易い性質を持っ
ていることも寄異であるOこの意坤から貰って数を基
調とする賠輝が記録として用いられて来ろ隊始的形態
、:∴' 1 ・ ′・> .・ '-‥ ' *J.
通り、徹底した中央質権の社会機構を持っており、納
税と班田の上から常に正確なる計数的記録il:一礼金的に
∴ -: - ‥ 蝣! .・*.:I
これは我が国古代に於C、個性が動もすれば無視せら
れ勝の環瑛社会から大化己棚の申焚集権に移吏せられ
l一.1、:い・ ・'lいI-、¥'*r*t'.'蝣・!一丁>.蝣蝣.*蝣{ミヾ'¥ **-サ.'\
∴ 1
^ 、 ′:':
.-
"'・*、...
-,
いう信仰から乗ると考えられる。
凡そベル-八の問には、インカの血統は太陽と、そ
の妹の月との脚批依って折ったとの堅気監禁があ
る。而してインカの敵可Jま、初代イyカのマンコ、カ
Ccapac Mania Ocllo Huaco
バク とその要->*-?、オクロ、プアコn来.インカの
長男と長女との結婚に依って北の神聖血統を撮持する
ことを根本法則とし、仮に事情に依って薯千の例外が
己むを得ない場合でも、決して四親等外のものゝ入り
・{'蝣:三、こLl二五 写な、-..-一蝣*-∩
::.て ・ ‥I
I一・・1 -
'¥.r
あるo即ちそこにはあらゆる傭人を尽く一価の人間と
して計上する機構が生れたという点に於て、新らしく
国:>サr・-'!'." 、‥ ‥ ‥・ I.- :
あったと言い得られようOかゝる意味に於て、古代イ
i* ' ∴ ∴-一 ・・ ( .- .*., J ‥ 、・
る素因が社会的に存在していたと考えることがtP,来るO
而してここでは国家生活が宛ら結紙の上に移されてあ
ったと見られる点に於て、あらゆるものを数的に理解
しよ・>蝣-I こ 、 I ∴:・)-' ''・
来るO
また如何なることがあっても、この血統以外の血即
ち彼等の所謂 人間の血」をifえることが無くて遂にス
ペインの征服まで十二代を経たのであった(3>nこの孝
か∴ -!):ir ';のftv.壬とn'r一尺>_ cトFih:-fj'j:こ蝣蝣n;」.はし斌トに柁
たれ、引いては庶民の職業は世襲で、社会的地位も父
!l.L."'、-、汗1I"J・し-:F:てヾこいこLl∴こたつ:-/。 - 。ウ氏は、
かゝる社会的情勢が轄柾という最も粍野な記録方法か
ら一歩も進歩することが出来なかった理由であると言
っている(蝣<)
この際己的社会擁筒はインカの血統の神聖性と柁倹
かiる考方を支持するものを我々は徴等の問に行わ
って.この同に傍わる古薬よりの博純をあやまちなく
れている子弟の教育に関する習俗に見出すことが出来
るo
侍えることを要求するものであるoこの意味で、古代
それは、貴壌貧富を問わず、一様に子供に対して田
来るだけ放任的な寧ろ甚だ玲過する態度に依って、他
があると言えよう。
日の剛健を期する方法であるo例えば、子供が生れ落
として,彼等の問に於けるAnnuta 「哲人」と Hara-
ベル-の文化には本質的に歴史的樽純を保持する性格
この古代ベル←の文化の不易的要素を荷担するもの
/'ヾ9a
ハう'-t ' ′1ソ7*▼JL
ちると、毎日冷水を以て全身を洗うこと、乳は一日三回
∼,icu 「吟蔀詩人」と. Quipu-Canayn 「結緒司」と
を限り、子供が如何に泣いて求めても決して除分は許
か挙げられているO
さないこと、母は子供の養育を乳母には委ねないこZ・、
初糾ま極めて堅い粗末な揺藍の中に入れてをくが、や
とのうち、アマウタはベル-の長老乃至は哲人の謂
であって、占星、暦数、地理等百般の知識の源泉であ
ゝ成長すれば、地面に子供の胞まである穴を掘り、こ
ったが.また特に歴史的事件の博承を保持することを
れに入れた健遊ばせ決して母はこれを抱き上げないこ
と、また子供が母の乳房をtjにしている時でも、母は
職とした。彼等は国家に担った歴史的事件を簡潔な小
我が子を膝の上には上げないこと等である。
て次第に多くの人々に博え、記TJSに依って歴史を保持
然し重要なことはこの方法が、貴族や土侯の間でも
話に作って子供や、悪者に話して開かせ、これに依っ
比民とffic ficこii:∴れてい:::、ことC:it-i蝣二、。 n¥¥?、こ'^lii
したと言われているォ!>
また-ヲウイクは、彼等の問に於ける吟諭詩人
俗の中にも、貴族と庶民の間の平等観があるが、これ
§Bard勺で好んで歴史的事実を短かいが、然しカの罷っ
は社会の隠蔽性を否定する立揚で、あらゆる個人を各
た歌に作って凱旋の時や鑑のE=こ訊諭した。古代ベル
々-と見徹す人間の数的理解と合致するものであるO
-の習槍として、これ等の歌株、何時何処でも調南され
この点からすれば、バウル、ラデイン民が.この社
るのではなく、たゞ非常の喜びの日か、王族の悲しみ
会を Bureucrこitic So;iali.stic I)e-ipoiism (官鮭社会主
nBに国内の四方から人々が集まった場合とか、また
L?ァfi':]M工S;V一二讃)と 、ト、がこ.て -と 蝣<;.;:てlo
はrjる特別の場告インカの前に国々の土侯が集まった
タ千_ス
欝し比の社会には、かくの如く人間を;=1去油勺に聴扱
際とか、乃盲は儀等の所謂Taiuis 「説諭会」と称す
ち-の平等親があり乍ら、他方に於ては、人間間の不
る侍森を説諭する会が開かれる時に限り訊宗繭せられfG
口諦博承と結確の制
ので、これを犯せば併しく罰せられたW。
Enca
これ等アヤウタと-ラヴイクは、第六代のイソ旬、
Kocca
ロツカの建設した学校′′Ya Cha-huasi′′ (house of tei-
cbing)に住んで、王族の子弟に、かゝる智講を授ける
ことに任じていた。
-101-
の助けに依りQuipu の亨を研究し著名な過去の葛
件につきその侍承の記憶を粒持せなければならなか
ったo求められた場合、これ等の事件を叙述するこ
とが彼等の羨教であった<s>_
二、 .・蝣・,; ' f,蝣∴ ‥
XEK関ES>
さて第三の「結相可」が会計官として結柾に依っ
方法として轄柾が使用せられたことを知るのである.
て数を訂喝したことは既に述べた所であり、その事を
理解するのは困難では押いが、 w等が、歴史的侍承事
従って仮に訂数に関する陪相を訂数結柾′′Accounting
Ql-lpu′′と名づけ,I,ならば、これは,採迷結柾′′jSTarra-
実を寂摺ったというのは如何なる事であらうか。
ti、'e (luil-u′′ と名づけることが田来るてあらうo 前節
この事に関しては、1550年の頃、クズコに滞在して、
(JIecla cle
-';¥一人のWTt、tL-L Lく「三蝶し-f-r -iト、シ蝣3-fl一、ヂ
Leon
レオンが報 しているOそれに依れば、インカが死去
して、その悲嘆の中に粁樽を供える宗教的俵礼が終る
と、国の長老等は賃まって、 y(の壬の在世中の業績に
ついて討議し、果して御世永ク、にその業績が符う,?、に
足るか否かを決定する行葛がもて、。
-産博えることに決定された場合は、結粧司がその
i"Mや∴!V'"^J二;蝣*-- ¥いい、 軽盲1 ¥、ニ結凱-I.たL-て「'r'¥''
事件を記事とする方法を知っていたと言うのである(Tlo
また、 1571牢の頃、ルズコのペ)i ←人の病院の司集
をしており、クイチェア語に精通し、且つその頃まで
に於て陪幡司は会計官′′Accountant′′ と同義語である
と見放されてよいとは述べたのであるが、ここに於て
結柾司は年代記賀 ′′Chr。nicJer〝 と同じ機能を持って
来たことを認妙なければならなくなったのである。デ
ラ、ヴ-rガは更に別cT所では、
「言葉とか摺諭とか、歴史事件とかはこの結目では
表わすことは出来なかったo というのは結削ま数
のみを示して言質を表わさないで、話された言責
を僧逢す,I,方法はなかったからである。この欠陥
を補う為捌二、彼等は歴史的事件や、和戦の際に
為された談論、頂説I,こ関する考 ′′idea′′ を俸達す
る記号′′Signs''′を持っていた。此等の,静説は-殴
敵意味を持つ短文により、 †′by means of shoュ,t
牛存していたベルp一人の長老と縄しくF/:際していた、
Chri,tot al M(、Him
クl)ストヴアル、モl)ナは
sentence、 giuirg genera一 meaningJ′記憶で舘柾司
「被等ペルー人は、陪群に依ってよく 500年上しLに亘
い腔がれ父から子に停えられた】`-)0 」
が保持したoこれは記憶せられてその私財者に言
る、国士に担ったあらゆる事件を説明することが田
と述べ⊂いるD柁ってここても結柾は言変の健を元し
来る程、陪柾の法をよく琵解していたO被等は、結
ているのではなく、或る等件を好い起きしめる、言わ
紺を許む前に精通した老練家を持っていたcT)で、梶
2>て些細な事でも忘られずに代々簿わって行った。」
け記憶の手掛り、心憶えの為であることが理解せられ
るのである。この立場は大体クロウ氏の証言と一致し
と言っているOここに「結柾を読む老練家」 (Expert
ている。クT,ウ民は例えば今日我々の用いICいる日附
Indians who were inユsters nl the art of reading the
Qnipv1-5)と言うのは結柾苛に外ならないoモリナは、
V*fz¥11・T?t-よくじ しして黙 し->蝣-A'蝣 はF:fc-.こf:軒す
るに足るとせられているから、この記事は大体に認妙
てよいと思うが、なおここには如何にして歴史事実が
結確の中に托せられているかゞ明かにせられてない。
Jnca ¥ upanqm
7月i日乃至2月22日等は賠柾の上に数として表わし
易いが、これは直ちにこの日附をめぐる-聯の野史等
美を憩い起さしめるてあらうし、また、 5という数を
結畔に表わしてあれば、これが第五代のインカを聯想
せL妙征の王の買要なる教習、またほ言行、乃至はそ
の時代の或る人民に関する借款について聯貯せしめる
この事については、インカ、 -パンクイGT孫女を母と
であらうと言うのである(サ) 此の方法に依れば、結
し.自分自身はインカ王族の一人として、 1530年にク
柾の結削こ依って或る程匿の英雄的行為は代々保持す
ズコに生れ、 20歳までの少年時代をクズコて著した、
ることの出来るのを理解するに難くない。而して比の
Gacillasso de )a Vega
「一結柾司は、土侯や州長から骸等の知り度いと恩う
場合結柾司は歌叉は説話の形に於て事件の内容を別に
暗んじていなくてはならないL、また、哲人'′A.man-
その祇先に関する雁史事件や、川に起った色々な事
ta/′や吟諭詩人'′Kara、1CUl/の簿承するものをも或る
ガルシラツソ、デラ、ヴェガは次の様に述べている。
SIあ由EKE
>
i・蝣O
.-
i
柄を話す様に委托せられていた.この結柘司は書
符号として梧椛の上に移すことが可能であったであら
記や歴史家と同様に、先輩から俸わった記録原簿、
うと考えられる。ここに於てほ結宥掛ま我々の年表の用
厚ち Qu】pu を保管しており、役目として常に結目
途をなしたものと見ることが出来る.
(Knot)をこも,=符号(Signs)や、表示(indications)
坪引-'.I上;二は蝣-'--1-,---f-"-∴ニ「、つ一層只T-=いカでが.
-ー102 -・・
抱 田
所持していたといり米許りの枚にニガチランギ部落
の歴史の覚えを刻んだものが大葵博物館に蔵せられて
いることを報告しているが(12)、古代ベル-のQuipu
Systemも、我々が見て来た範問に於てほ、かゝる樺
源 太
-'」>にitなお下奄哲でもon
かゝろ数より進んで意味を持って来た絵師に関する
二三の記事を見ても、我々が轄鰭に依って完全な言葉
に刻日を入れてこれを記憶の手引としたものと大差が
が示されたと柁諭し兼ねることは、ロ諦侍承の任に当
f-,-l">'-'・、-こ'Vf>Aイカ†J、
っている哲人や、吟富商詩人や、結揮司の社会的地位
無いことを認めねばならないo社会が古侍の保持を要
に何等の変化が見られないからである。陪柾が硬字に
求することベル-と同様のものがあり、且つ文字を持
まで進んだならば必然的にこれ等の口諦俸承者はその
機能が弱くなるか、変形するかである。然しかゝる形
たないことも同Lp様な事情にあるニユ-ヂ←ランドに
於て、かゝる記憶法の発明のあったことは当然という
あるが、スペインの史豪中には、更に賠柾が言語と同
・i圭*r--h-f.*蝣'iLく∴-Lへ;p^>一章一㌧iTくnr.ii-vいのはIP
に結膠が文字の歩守に達したとしでもそれは糎妙て稀な
場合であり、これを読み解くた捌こなお翼賛なぞ芝目と
J,∫.}1カマ171
して結柑司の必要がB)つたものでもらうOこの点に
田BEBBK
ついては、結肝は頃倭・酢を性梓を月えCいる。
じ様なものを表出した様な例証を挙げているものゝあ
現在真正C瑞与野の標本たるべきものけ実際には放っ
るこ,u_tまここに・注古蝣"蝣*サ蝣-l-'-トかげて いO =∴:*'..'.!範:lこ
Acosta
ていないOそれはスペイン(つ樫入着に依って殆んど破
ァコスタに依ってゞあるo 征はその薯「 印匠人の遺
欺せられて什舞った`'">今日までに芋に入つC研究
Nordensluo.'fl
せられた結柾は皆頃義から出たもので、ノルデソスキ
べきである。
かくのごとく結柾が数を基調とした記憶補助の方法
であることはこれ等の証言に依って三旺解せられる所で
徳」 13)に於て、
「彼等の騎棟は、彼等に対して、歴史や、法律や.
儀礼や、国事に関する記録等の書籍の代りとして
ヨ}tドの柘にインデアンの日には、粁柾で表わされた
数は、呪術的な意味を手首つものであるとも、またほ、
の役目をLCいooこれ等の陪野を保管する為妙
その数は.日数を京すものであると考えられてもいる。
に任命された官吏があるがこれをQuijiu Camavu
と呼んだ。彼等は恰も此処スペインの公証人や誓
言巳o・'.v.くもr.ゆるpuォSi/作らね.-s .Cr."・'.+.チ,・「J--
スワントン民は、ノノlデソスキヨルドの様に考えると
墳墓から出たものには、叙述的結曙が見られないのは
ClementsJV【arkham
-¥i-;・?蝣>;蝣∴ゝ二、i- ^S-てい蝣;oolメ.I、''、ヾ-セムが
故に、ベル-人は Qnipu (Jamayu に全く信頼し
ユダ、デ、レオンの旅行記を翻訳したI860年の頃には
ていたo というのは、戦争、政M、捧式、土地等
ペノ1-の貴族で特に南方ペノ1-坤方には、なおこれ等
様々な専務の方面に任ってそれぞれの結槌がもり、
結紐に托せられた複雑な記憶を解釈するものが生存し
その者々には短妙て多くの大小の結目とそれにつ
けた様々の糸があったO即ち或るものは赤、或る
ものは緑、膏、白等様Jt,の邑があったので恰も我
々が2 ・l文字から無限の富来を引き出すと同様に
様々に懸¶して桔! iftL「7引巳から.',1.l-J'cつ言*;'を
引き出す。 」
と言っているOここに「2 4文字と同様に軒数の言葉
を引き出す」とあるのは数量から離わた質的のものゝ
極度を元すものとしてここに放り上げられるが、筒お
我々には珪解に困難が伴うている○然しまたアコスタ
は、べノt -!::,', 、がその生・蝣蝣'蝣'lI'.--に諦∴・ いて等親亡付蝣;it
侭の目的の為釧こ持参した一束,I)結確を目撃したこと
を述べているOこれは画人所屈:つ賠柾で、.Laらくはそ
の半生の覚書であらう。
これを以て、結鰭が意味の分野にまで菜瓦したこと
は覆せられるけれども、これは碑と人との関係に於て
成立しているもので、万人に通用する諾籍様のもので
てさ.;ll、Ziiを.-if.n--.-か!V翼敵いTtil神聖X千日!l的Ji
見倣LCいたD
クロウ民はそれ等の解釈者の最後の一人も、死んで
仕舞ったことを慨嘆している(1610
請(!).FourthBookoftheRoyalConlmen-aries
oftheYncas.
(2).′唱ocialA】nthropologyr′byPaulRadiil.
(3).FourthBookoftheRovalCommentaries
oftlleYncas.
(4).〝TheEpicofLatinAmerica'/
(5).Sixth1300koftheRoyalcomn】eutarieS′′
(6).′′SecondFartoftheChronicleofPeru〝i)ラ,
Pedrodooi'ezadeleon38ざS.
(7).Ibid.
(ォ).′NarrativeofRitesandLawsoftheYncas′′
bvChristovalMolina.
ある必要はないDここには彼女か自己o'b覚えの符号
(9).SixthBookoftheR・〕yalcommentaries.
(10)Ibid.
がのせられてあっても差支えないもので、この一例を
(").TheEpicofLatinAmerica.
以て結碇がアノlプアベットまで発涙したとの匪拠とす
(12).東京人斯学裡記節六巻、帯六号、
口許偉く歓 と絵札の制
-ー103-
(13).≒TheNaturalandMoralllktorv亡he緒の半分は全部白玉、勉の半分は全部紫三、または、
lndiansヽ1-Fathi〕seph<!eAcosta,1604半分は交互式、他の半分は紫王の遵醇式等、様々の組
vol.甘.chap,VJ.
合わせに依り、様々の思想を伴えることが可能である。
(14).Ibid.
またその意味∴つして見るに、例えけ白色の辞を洋
(15).bQuipiisandPeruvian(】i、ilization、by
紅かまたは他の計f6.て帯ftしたものは、挑戦乃至宣戦
JohnK.Bwanton,
を意味し、又は、官財者に戦争加入を鮮誘するもので
(16).TheEpicofLatinArnerica,句byJr.ノhl.
ある。二≧部暗黒色の玉を連ねて田丸f/姥は、公式のも
Crow.
ので、これに依って、イTlク/i-イ旗が阿哲族に白旗の
昏長のPL一亡を通告するものであるOまた白い緒は普通
1甘
の事柄で、或,1=、程度の儀礼的のものか、より重大なる
文字及びこれに珂する表象に依らないて、QuL、uの
ものcT,準備的(つfMに用いられる。
ごとき物の符号の車に歴史事実を托することの可能性
貝の数珠玉の第二次的作品は、幅広の飾帯か、際巻
は、アメl)カインデアンのワムブム毎lV'1mPLimも
,風のもので、白と紫とが或る上し例に通された緒を庸Ei
(糾Iell-money)の中にも見られ/=、0
の出来る様につなぎ合わせたもので、粘Eには時に太
-R"r:!!蝣.->蝣蝣十L.し'間て∴ほ,訳し†鞍1-l-I:-L'ーw.<、
′ご11/1一
陽を象徴するIBがあらわれていた。これ等の弾状のも
これについては士)、の問に特別な隈心が教われてい
Cは、緒が11で敬啓玉は1SOから1980にも及んでい
・,'い。一--蝣-一蝣::'蝣蝣;:二ド・こ、Pはに吋-.1,.蝣
・'-si蝣.
7:、。これ等は臥P:のごときものと同様にイロクオイ連
'・-iV!'.''
合の公式の3一物として保存せ「〕れている。また奴等は
rv∴仇h,V;-j.-.:十・V。I.イ∴;.r'i.'ナ・二lか巨か紫
文字を持っていないので、起った事件を動もすれほ忘
feかの二色がある。その用途には、第一L「商業上の
れるCT)で、こO Wampum及びその製品を拝:いて歴史
通貨、第二には衆服の装飾、第三には噌敗等社会上の
寄実を記憶するの風甘二ある。被等の首長や長老等ほ、
l・、*'-a・、
この\\′ampumに元された革件を壌せっては復為する
産的なものとして保管される為である。然しこの外に
風習を持っている(410
これが或る積の符喋となり朝倉的な意味にも用いられ
コロムビア大学教授J. Pyneleyは往昔部族の会儀
蝣Vo
で毎年茂諭されたアノーゴソキン浜の鬼頭記録、Wamその最も簡単な例は非難アノ.Lゴンキンのワ'くナキ族
pum-recoid*の疏訳者として知られているし5)0
ては昔年が女子に球姫の際その部族の長老の芋に依っ
またアメリカインデアン研究の院拓者ダニエル・プ
て女子の父親に対して贈られるWampumである。こ
リントンはこのワニノブムを以て、ペルー人のQuipu と 一
の場合これが受理された場合は、受諾の意味で、返却
同甥のものと見徹しているWo
された際は拒絶と理解されるォ。この外、イpクオイ
醍(1). ′′Indhns of
族では、貝銭帯≒lVampam-Belt、は抵当としたり、
the United States′′ by Clark
Wissler, 1946.
穿:的の粁給や講和の受諾の為にも授受される(3)
イロクオイ族や.その他の北米士人に凝っては一段
I′American
Indian
Liftr′
edited
by
Elsie
Clews Parsons 1925.
に白色は縁起のよい色で、この色が諸種GT儀礼に用い
(2).
′′The
lndian、
られた際は、平和、健辰、輩福、繁栄を意味したので
Book′′
by
Natalie
(】utis,
1903.
Warrpumが儀礼に用いられると同様な鱗念がその色
の中に理解せられる。
(3).
//Indians
(4).
J′Hand
of
the
Book
これに反して黒色は縁起の悪い色で敵意、悲嘆、死
of
United
States/′
Atner】can
Indians/′
1910.
亡、弔慰等を示したものて暗黒色や.紫色のWampum
′′VVampurii'′ Contracted frorm′′ New Erig -
land
Algonqian
Wamuum
Peak〝 by
1.
はその意味に理解されるOかiる色掛′こ則する各桂浜
ヤンず-Jント
W. B. Xiewjttof the Bureau of Arerican
の情緒を基曙にして、これ等の貝製品を数珠つな
Et hnology.
ぎにした緒を作って、これを記憶の手掛りとして、転
々の思憩を倍えることが可能となる。例えば、白い玉
(5).
′′An
Introduction
to
Mjtholog)「′
by
Lewis
npence, 1リ21.
を一つ、次に紫玉を一つ、交互に堅いて行ったり、又
(6). ′′Ttle l主】ytlu
は、白玉一つ、と紫玉の運緯二つ、を交互にしたり、
of the nい world′′ by
Daniel G. Brinlon, 1905.
または、白玉二つ、紫三二つを交互に蹟けて行くOこ
の外白玉、紫玉の数をそれぞれ増しC交互に、乃至は