/【K:】Server/阿波学会紀要/第53号/15−1 民俗班・澤田 2007.07.12 10.49.15 Page 163 阿波学会紀要 第5 3号(pp.1 6 3―1 6 6)2 0 0 7.7 三好市「旧東祖谷山村」の暮らし ― 婚姻と葬送の儀礼 ― 民俗班(徳島民俗学会) 澤田 順子* 要旨: 急峻な山々に囲まれ,多くのロマンを秘めた秘境といわれる旧東祖谷山村には,古くから伝承されてき た独特の風俗習慣が今も根強く残っていると思われた。しかし,高齢者ですら,現在の生活の便利さに慣れ親 しみ,昔の暮らしは思い出の中の一つのエピソードとして語られるようになっている。皆で助け合わなければ ならなかった暮らし,その中で生まれた風習が今消えようとしている。少しでも書き留めておきたいと,聞き 取り調査を開始した。何が暮らしに変化をもたらしたのか,失われていったものは何かを,人の一生の大事「婚 姻と葬送」の儀礼を通じて見ていく。 キーワード: 嫁入り,杓子渡し,葬式,暮らしの変化 地域で助け合い,工夫しながら暮らしていた生活 "!&$'% から,交通網が整備され車社会の便利さに慣れると, 町村合併により三好市の一員となった東・西祖谷 それまでの婚姻と葬送などの儀礼の慣習はどのよう 山村,この山間の地がここ数十年の間に遂げた変貌 に変わってしまったのだろうか,また日々の暮らし は計り知れないものがある。交通網の整備が人々の もどのように変わっていったかを聞き取りを中心に 行動範囲を広げ,特に人々が押しかける観光地と 考察することにした。 なった西祖谷地区は,秘境の面影を消していってい また,祖谷には独特の言葉がある。 『ひがしいや る。それに比し東祖谷地区は奥祖谷という秘境の風 の民俗』 (平成2年発行)の中から拾い出し,文章 情がまだ感じられる。平家の落人伝説もあり,中で の中に取り入れていくことにした。 くり し ど も安徳天皇の逸話は栗枝渡に,平家の旗は阿佐家に, などと残っているのも東祖谷地区だ。だが,このと み うね #!)( ころ二重かずら橋,三嶺にモノレールを走らせるな "!%$# ど,観光地として売り出そうとしている。 お屋敷とか土居といわれる祖谷の名家,郷士の間 祖谷川に沿って東祖谷地区に入ると,緑の山に張 では家柄の合う娘や若者を求めて村外との婚姻が行 り付いたように建つ家が見られ,斜面を切り開いた われていた。しかし,一般の人たちの通婚圏は地域 畑で農作業をする人の姿や声はするが,その場に行 内が普通だった。大正・昭和初期までは他村との縁 くことは容易ではない。山を下り,谷を渡り,また 組は若い衆組が不承知で,他村に嫁ぐ花嫁道中に水 山を登ってやっと目的地に着く。しかし,このよう を掛けたり,火を燃やすなど嫌がらせもした。この な地域もやがて車の通る道が着く予定だそうだ。高 若者の行動は県内他地域でも見られるが,若い衆組 齢者は「便利になる」と心待ちにしている。 が村内の娘の婚姻に関与していたようだ。 * 徳島市丈六町長尾6 2-8 ! # " /【K:】Server/阿波学会紀要/第53号/15−1 民俗班・澤田 2007.07.12 10.49.15 Page 164 三好市「旧東祖谷山村」の暮らし ― 婚姻と葬送の儀礼 ―/民俗班 "!-*47 するとか,披露宴も派手になっていっている。 『東祖谷山村史』 (昭和5 3年発行)によると女性の 結婚年齢は1 7∼1 8歳が普通で,姉女房「一つ違いは %!-6 嫁の付き添いは,両親,仲人夫婦,オゲジョ(嫁 き 福」 , 「嫁は木尻 (自分の家より下目の家) から貰え」 , の妹などの役割) 。台所から入る手引きはマチニョ また, 「川上から貰うと福がある(川上は裕福) 」と ウボウ(マチジョロとも言い,とり方の家の女の子) も言われていたとある。直接話を聞いた7 0代・8 0代 の役目である。 の人たちは2 0歳前後で結婚している。嫁をとらない &!58+ 男をオジグラシ,嫁に行かない女をオバグラシ,仲 大家の披露宴では,宴を取り仕切るのはテイス (司 人を立てず好き合って結婚することをカカリアイと 会者,近隣の顔役で座持ちの上手い人がなる)と呼 いって仲間から外されることもあった。 ばれる人であり,挨拶をしてから盃をまわす。餅の #!,3) こ み 入ったお雑煮を食べ,これで親子親類の盃ができた すげおい 古味地区から菅生地区へ嫁入りした人(大正生ま れ)の話によると,早朝から嫁入り支度を調え,丸 ことになる。 ( 『東祖谷山村史』昭和5 3年発行) 婚礼にはゴコン(五献)とか,ヒチコン(七献) 髷に髪を結いヒタイボウシ(角隠し)もかぶり,徒 の料理が並ぶ。ブエン(鮮魚)の魚は手に入らない 歩で行った。嫁ぎ先へ着いたのは日が暮れていたと ので塩物や干物がご馳走であった。また宴も終わり いう。東祖谷だけでなく,県内外で婚礼は夜行われ に近づくとトリの盃と共にソウボン料理が出る。ト ており,嫁入りには提灯は欠かせなかった。婚礼に リの盃はクマガイという大盃に酒を並々と注ぎ飲み はん ちょう 参列する人数は嫁迎えは,半(奇数)嫁入りは丁(偶 回しをする。謡曲を謡ってソウボン料理を客の前に 数)と決められていた。このように村内でも地域を 出し,受け取る客も謡曲を謡う。ソウボンは丸型や 離れ遠くへ行く人もあったが,隣から隣へ嫁入りす 角型の大きな盆で足付きもある。松竹梅を模した飾 る人もあった。ある女性は隣の家へ嫁入りしている。 り,巻き寿司,板付き,ようかん,昆布,テンプラ 隣といっても祖谷の農家は敷地が広く棟を連ねては などをきれいに盛り付ける。客人は伊勢節を歌い, いない。四幅のオリコン(藍染の大風呂敷)の風呂 エビスオドリを踊る。姑が「オカケメシを差し上げ 敷に自分の着物を包んで持って行くだけで,宴会な ます」と,ご飯を客全員に出し食べてもらう。この どはしなかったそうだ。 カカマワシが終わると披露宴は終わる。夜も明けて $!,3)/2 いたようだ。 話者のほとんどが,第2次大戦前後に結婚してい 食器は殆ど木地物を使っている。陶器は山越えで るので派手な婚礼は行っていない。買おうにも何も 運ぶのには重く,木地屋が作る椀や鉢は米や麦と交 ない時代だったから風呂敷包み一つで今日からは隣 換することができた。 で暮らすといっても珍しいことではなかった。子ど もが生まれてもおしめに困り,自分の腰巻をおしめ 交通の便が良くなった昨今,若者は土地を離れ, 家で婚礼をする人はいなくなった。 に作り変えたりしたそうだ。だが,実家にはいつで '!0.1( も帰ることができ,周囲はみな顔なじみばかり,助 東祖谷では他地方と比べて主婦権の継承が早いと け合って暮らすことができたという。 『東祖谷山村史』に書かれている。婚礼の席で杓子 しゃ も じ 大きい(裕福な)家では大工に作らせた櫃,鏡台, (杓文字) を渡すこともあるという。古くから「隠居 行李,などをリョウワケ(振り分け)にして兄や人 制度」が行われており,親夫婦は隠居屋に移り,生 足などが担いで坂の下まで運び,何回にも分けて坂 活できるだけの耕作地を持って隠居生活に入る(イ 上の婚家に運んでいったそうだ。今でも坂の上り口 ンキョカトクとかインキョジョという) 。若夫婦は に段ボール箱などの荷物が置かれている。これは山 母屋に住み,農作業,近隣の付き合いも任される。 の上に住む人の所へ運ぶ品物だということだ。時代 飯を分配する用具,杓子は主婦権の象徴であり,世 が下るにつれ池田・三加茂などで嫁入り道具を購入 間一般では嫁姑の葛藤のもとになっているが,今で ! # " /【K:】Server/阿波学会紀要/第53号/15−1 民俗班・澤田 2007.07.12 10.49.15 Page 165 阿波学会紀要 第5 3号(pp.1 6 3―1 6 6)2 0 0 7.7 もすんなりと渡すことがあるのか,落合の集会場に 親族用を,コウロクの人用は別火で料理をする。費 集まっていた5 0・6 0歳代の女性たちに聞いてみた。 用はコウロクが等分に割って負担をした。女性たち 首を縦に振る人は無く,顔を見合わせていた。 は別火でマクラメシを炊き茶碗に高盛にして枕元に もっとも若者がいなくなってきた現在では,この 制度も崩れてしまっているのだろう。 供える。死に弁当も作る (小さなおにぎり4個) 。こ れは善光寺に行くための弁当だと言われている。 死者の枕元で大声で名前を3回呼ぶ。これをミゴ "!$# エという。北枕にして布団の上にはほうきを置く。 病人が出ると周囲の家々の人を呼び集め,戸板に 猫が跨ぐと死者が起き上がるから猫よけだそうだ。 載せ医者の所へ運んでいたが,夜道や遠路の山道は 供える膳の椀,皿などを平常とは違えて反対に置く。 大変だった。重病だと近親者や近所の人たちが集ま ヒダリゼンにする。 り,神社やお堂で「お百度参り」をする。神社に立 $"-)(+,*!-)." てられた百度石と拝殿の間を平癒の祈願をしながら 身内が白の晒し木綿をはさみは使わず,手で裂い 裸足で1 0 0回往復する,氏堂の周囲を1 0 0回巡るなど て縫い上げたカイシャク着物を着てワラのタスキを をしていた。死の予兆として氏神さんの裏山で鳥が 掛ける。たらいの上に割り竹をササラに編んだスノ 騒いだり家の屋根で鳥が騒ぐと,どこかの家に不幸 コを載せ死者を座らせ,竹のヒシャクを逆手で持ち があるのではと心配をした。 湯をかけ洗う。 東祖谷山村内のほとんどの地域に「コウロク」と %"30 か「クミウチ」という組織がある。小さい集落では 死者には晒し木綿で作った着物を左前に・手甲・ 全戸,大きい集落では数組に分かれた互助組織で, 脚半を着せ,首にサンヤ袋(サンミトウ)を掛け, 葬式を司っている。葬式はそれだけ大変な儀礼であ 中にハナシバ・米・六文銭・死に弁当を入れる。棺 り,コウロクは大事な仕事を受け持っていた。 桶には臭いを抜くためハナシバ(しきみ)や茶の葉 死者が出たことが分かると,組の人はまずメシバ チ(飯鉢)にご飯を入れて持っていった。香料はテ ぶ げんしゃ ヅツミブクロに麦かソバを2升,分限者はトブクロ (1斗入る袋)にモミ(籾)を入れる。今では各戸 ごとに金を包み香料としている。 を入れる。棺の正面に赤い念仏紙を張った(経帷子 を棺の上に掛ける代わりで,お寺からもらう) 。 &"51 真言宗の家がほとんどである。檀那寺は井川町に あり,交通の便が悪く遠距離だったので,古くは親 悔やみの言葉「こちらの…様とやら,ようけお悪 族と地域の人たちが念仏を唱え,後年にはカセット うござんす」と「モノイ」 (挨拶)を述べる。ちな テープの読経を流して仏を埋葬していた。僧侶は年 みに「死ぬこと」をミテルまたはホテル,葬式のこ の暮れに,その年に亡くなった人や年忌の法事を纏 とをオクリ,通夜はヨヅエと言う。 ( 『ひがしいやの めて行っていた(お屋敷などは別) 。雪の季節なの 民俗』 ) で足元も悪く,何日もかかる供養は大変だったそう #"6/42 だ。道路が整備された今は葬式にどの家でも僧侶が コウロクは役割を分担する。野道具・棺桶は大工, 来てくれるようになった。 天蓋は器用な人,四花,線香立て,ホテ(ワラを束 '"17 い はい ねたもの) ,位牌,トンボゾーリ(棺をかつぐ人が ①ホテ持ち2人(ワラを束ねて先端にロクドウ, 履く,ツノムスビゾーリとも)などの飾り物などは 六地蔵の火をつける。兄弟が1本ずつ持つ) 高齢者が作り,穴掘り,オウジョウ石(フタイシ) ②棺カツギ2人 の準備は若者がする。掘り終わった穴に落ち込まな ③天蓋持ち いよう鍬を載せておく。足の達者な男性二人は飛脚 ④位牌持ち となり,死者の縁者に知らせに回る。料理は女性の ⑤飯持ち 受け持ちで,ブク(忌)が掛かる死者の家の火では この7人をヤクビト(役を受持った人 親族など 婿が持つ ! # " /【K:】Server/阿波学会紀要/第53号/15−1 民俗班・澤田 2007.07.12 10.49.15 Page 166 三好市「旧東祖谷山村」の暮らし ― 婚姻と葬送の儀礼 ―/民俗班 が当たる)といい,ヒタエボーシ(三角の宝冠,花 売公社集積場) へ行く。そこでタバコの葉を売っ 嫁の角隠しはヒタイボウシ)を頭に付け,オクリノ てお金を貰う。いろいろな店が出ていて,普段 ゼンについてから葬列を組んで墓地に行く。女はソ 手に入らない物を何でも買うことができた。お デボウシで頭を覆う。 菓子・うどん・みかんなど,子どもたちが親の 棺を西向きに埋め,その上にオウジョウイシとい う平たい石を置き,その上に土をかけ,こちらも平 たい拝み石を載せる。 死霊が家に帰ってくることを畏れ,帰ってこない ようにする独特の作法がある。 帰りを待ち侘びていた。 ③肥料が無いから焼畑をし,アワ・ヒエ・そば・ 野菜を作り,食べ物全てを自給自足する生活 だった。米は水の便の良い所では棚田で作って いる。普段はアワ・ヒエ・麦が主食であった。 ①埋葬した土の上にノガマといって鎌を立てる。 ④雑煮はご馳走で正月だけでなく何か祝い事があ ②お六日の仕上げに青竹でヒダナを作り,米・ ると作っていた。マイモ(サトイモ)の上に4 麦・芋を供え蓑・笠・草履を吊るす。 葬式の翌日はハカナオシ,近所の人が見に行って, きちんと墓の整備をしてくる。 今では急病人が出ても救急車が来る。埋葬も土葬 つに切ったトウフを十字に載せ,イリコで出汁 をとったすまし仕立てだ。今でも作っている。 #!$-,( から火葬となり穴掘りもしなくなった。葬儀屋に電 *!(%&#)%$"' 話で頼むと何でも整い,全て手作りだった葬式も, 高齢者たちが,まず,最初に話し出すのは近所付 コウロクの手助けがいらなくなった。葬儀場もある。 き合いが疎遠になったことであった。人が生まれて 飛脚も要らなくなった。 も,死んでも,メシバチにご飯を入れて持って行く "!0+&)/.%*'+&'*) 京上にあるデイケア・センターに集まっていた高 とか,また,働き手が亡くなるとホウロクといって, コウロクの人たちが死者の家の田畑の手入れを手 伝っていたことなどだ。 齢者に話を聞くことができた。7 0∼8 0代の男女に昔 今では助け合いはしなくなり,若者だけでなく年 と今の生活の中で何が一番変わったかを聞いてみ 寄りも冷淡になって,金さえあればよいといった世 た。聞く人ごとに「便利になって,こうして集まっ の中になってしまったと嘆いている。 て皆と話ができるようになったが人情がのうなっ その一方で苦労しなくても手にできる年金のあり た」と言う。秘境といわれたこの地域も交通網の整 がたさが言葉の端々に語られる。地理的条件から伝 備,情報,その他文明の利器が入ったことで,急速 承され続けてきた風習が無くなっていく過程と,開 に地域社会が変容したことが判る。また,昔を懐か 発がもたらした生活環境の変化に,高齢者が複雑な しみながらも現在の便利さを捨てることができない 心境を抱えている様子を知ることができた。 思いを受け取ることもできた。昔の思い出話を記述 して暮らしの変遷を探ってみる。 話をしてくださった方々にお礼を申し上げる。 話者: ①昔は皆が助け合わないと生きてゆけなかった。 小椋マサ子(大正1 4年生) , 福本トヨミ (大正1 4年生) , 今は年金を貰うから現金がある。 だが, 何もかも 鳥首 幸江(昭和1 1年生) , 鳥 本 さ ん(大正1 2年生) , が地域の連帯で行うことが無く,個人になった。 平尾 治夫(昭和5年生) , 東川ヒサ子 (大正1 1年生) , ②現金収入を何とかして得ようと苦労していた。 あのころは毎日の労働が大変だった。タバコ・ 谷口カズ子 (昭和1 3年生) , 落合地区の人たち。 (敬称略・順不同) みつまた 三椏を作り,牛を飼って肉牛として出す。それ らが現金収入を得る方法だった。タバコの出荷 文 献 をする日を大人も子どもも楽しみにしていた。 東祖谷の民俗編集委員会編(1 9 9 0) :『ひがしいやの民俗』 . 大きなタバコの束を背負って専売(タバコの専 東祖谷山村史編纂委員会(1 9 7 8) :『東祖谷山村史』 . ! 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