三好市「旧東祖谷山村」の暮らし

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阿波学会紀要 第5
3号(pp.1
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3―1
6
6)2
0
0
7.7
三好市「旧東祖谷山村」の暮らし
― 婚姻と葬送の儀礼 ―
民俗班(徳島民俗学会)
澤田 順子*
要旨: 急峻な山々に囲まれ,多くのロマンを秘めた秘境といわれる旧東祖谷山村には,古くから伝承されてき
た独特の風俗習慣が今も根強く残っていると思われた。しかし,高齢者ですら,現在の生活の便利さに慣れ親
しみ,昔の暮らしは思い出の中の一つのエピソードとして語られるようになっている。皆で助け合わなければ
ならなかった暮らし,その中で生まれた風習が今消えようとしている。少しでも書き留めておきたいと,聞き
取り調査を開始した。何が暮らしに変化をもたらしたのか,失われていったものは何かを,人の一生の大事「婚
姻と葬送」の儀礼を通じて見ていく。
キーワード: 嫁入り,杓子渡し,葬式,暮らしの変化
地域で助け合い,工夫しながら暮らしていた生活
"!&$'%
から,交通網が整備され車社会の便利さに慣れると,
町村合併により三好市の一員となった東・西祖谷
それまでの婚姻と葬送などの儀礼の慣習はどのよう
山村,この山間の地がここ数十年の間に遂げた変貌
に変わってしまったのだろうか,また日々の暮らし
は計り知れないものがある。交通網の整備が人々の
もどのように変わっていったかを聞き取りを中心に
行動範囲を広げ,特に人々が押しかける観光地と
考察することにした。
なった西祖谷地区は,秘境の面影を消していってい
また,祖谷には独特の言葉がある。
『ひがしいや
る。それに比し東祖谷地区は奥祖谷という秘境の風
の民俗』
(平成2年発行)の中から拾い出し,文章
情がまだ感じられる。平家の落人伝説もあり,中で
の中に取り入れていくことにした。
くり し ど
も安徳天皇の逸話は栗枝渡に,平家の旗は阿佐家に,
などと残っているのも東祖谷地区だ。だが,このと
み うね
#!)(
ころ二重かずら橋,三嶺にモノレールを走らせるな
"!%$#
ど,観光地として売り出そうとしている。
お屋敷とか土居といわれる祖谷の名家,郷士の間
祖谷川に沿って東祖谷地区に入ると,緑の山に張
では家柄の合う娘や若者を求めて村外との婚姻が行
り付いたように建つ家が見られ,斜面を切り開いた
われていた。しかし,一般の人たちの通婚圏は地域
畑で農作業をする人の姿や声はするが,その場に行
内が普通だった。大正・昭和初期までは他村との縁
くことは容易ではない。山を下り,谷を渡り,また
組は若い衆組が不承知で,他村に嫁ぐ花嫁道中に水
山を登ってやっと目的地に着く。しかし,このよう
を掛けたり,火を燃やすなど嫌がらせもした。この
な地域もやがて車の通る道が着く予定だそうだ。高
若者の行動は県内他地域でも見られるが,若い衆組
齢者は「便利になる」と心待ちにしている。
が村内の娘の婚姻に関与していたようだ。
*
徳島市丈六町長尾6
2-8
!
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三好市「旧東祖谷山村」の暮らし ― 婚姻と葬送の儀礼 ―/民俗班
"!-*47
するとか,披露宴も派手になっていっている。
『東祖谷山村史』
(昭和5
3年発行)によると女性の
結婚年齢は1
7∼1
8歳が普通で,姉女房「一つ違いは
%!-6
嫁の付き添いは,両親,仲人夫婦,オゲジョ(嫁
き
福」
,
「嫁は木尻
(自分の家より下目の家)
から貰え」
,
の妹などの役割)
。台所から入る手引きはマチニョ
また,
「川上から貰うと福がある(川上は裕福)
」と
ウボウ(マチジョロとも言い,とり方の家の女の子)
も言われていたとある。直接話を聞いた7
0代・8
0代
の役目である。
の人たちは2
0歳前後で結婚している。嫁をとらない
&!58+
男をオジグラシ,嫁に行かない女をオバグラシ,仲
大家の披露宴では,宴を取り仕切るのはテイス
(司
人を立てず好き合って結婚することをカカリアイと
会者,近隣の顔役で座持ちの上手い人がなる)と呼
いって仲間から外されることもあった。
ばれる人であり,挨拶をしてから盃をまわす。餅の
#!,3)
こ み
入ったお雑煮を食べ,これで親子親類の盃ができた
すげおい
古味地区から菅生地区へ嫁入りした人(大正生ま
れ)の話によると,早朝から嫁入り支度を調え,丸
ことになる。
(
『東祖谷山村史』昭和5
3年発行)
婚礼にはゴコン(五献)とか,ヒチコン(七献)
髷に髪を結いヒタイボウシ(角隠し)もかぶり,徒
の料理が並ぶ。ブエン(鮮魚)の魚は手に入らない
歩で行った。嫁ぎ先へ着いたのは日が暮れていたと
ので塩物や干物がご馳走であった。また宴も終わり
いう。東祖谷だけでなく,県内外で婚礼は夜行われ
に近づくとトリの盃と共にソウボン料理が出る。ト
ており,嫁入りには提灯は欠かせなかった。婚礼に
リの盃はクマガイという大盃に酒を並々と注ぎ飲み
はん
ちょう
参列する人数は嫁迎えは,半(奇数)嫁入りは丁(偶
回しをする。謡曲を謡ってソウボン料理を客の前に
数)と決められていた。このように村内でも地域を
出し,受け取る客も謡曲を謡う。ソウボンは丸型や
離れ遠くへ行く人もあったが,隣から隣へ嫁入りす
角型の大きな盆で足付きもある。松竹梅を模した飾
る人もあった。ある女性は隣の家へ嫁入りしている。
り,巻き寿司,板付き,ようかん,昆布,テンプラ
隣といっても祖谷の農家は敷地が広く棟を連ねては
などをきれいに盛り付ける。客人は伊勢節を歌い,
いない。四幅のオリコン(藍染の大風呂敷)の風呂
エビスオドリを踊る。姑が「オカケメシを差し上げ
敷に自分の着物を包んで持って行くだけで,宴会な
ます」と,ご飯を客全員に出し食べてもらう。この
どはしなかったそうだ。
カカマワシが終わると披露宴は終わる。夜も明けて
$!,3)/2
いたようだ。
話者のほとんどが,第2次大戦前後に結婚してい
食器は殆ど木地物を使っている。陶器は山越えで
るので派手な婚礼は行っていない。買おうにも何も
運ぶのには重く,木地屋が作る椀や鉢は米や麦と交
ない時代だったから風呂敷包み一つで今日からは隣
換することができた。
で暮らすといっても珍しいことではなかった。子ど
もが生まれてもおしめに困り,自分の腰巻をおしめ
交通の便が良くなった昨今,若者は土地を離れ,
家で婚礼をする人はいなくなった。
に作り変えたりしたそうだ。だが,実家にはいつで
'!0.1(
も帰ることができ,周囲はみな顔なじみばかり,助
東祖谷では他地方と比べて主婦権の継承が早いと
け合って暮らすことができたという。
『東祖谷山村史』に書かれている。婚礼の席で杓子
しゃ も じ
大きい(裕福な)家では大工に作らせた櫃,鏡台,
(杓文字)
を渡すこともあるという。古くから「隠居
行李,などをリョウワケ(振り分け)にして兄や人
制度」が行われており,親夫婦は隠居屋に移り,生
足などが担いで坂の下まで運び,何回にも分けて坂
活できるだけの耕作地を持って隠居生活に入る(イ
上の婚家に運んでいったそうだ。今でも坂の上り口
ンキョカトクとかインキョジョという)
。若夫婦は
に段ボール箱などの荷物が置かれている。これは山
母屋に住み,農作業,近隣の付き合いも任される。
の上に住む人の所へ運ぶ品物だということだ。時代
飯を分配する用具,杓子は主婦権の象徴であり,世
が下るにつれ池田・三加茂などで嫁入り道具を購入
間一般では嫁姑の葛藤のもとになっているが,今で
!
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もすんなりと渡すことがあるのか,落合の集会場に
親族用を,コウロクの人用は別火で料理をする。費
集まっていた5
0・6
0歳代の女性たちに聞いてみた。
用はコウロクが等分に割って負担をした。女性たち
首を縦に振る人は無く,顔を見合わせていた。
は別火でマクラメシを炊き茶碗に高盛にして枕元に
もっとも若者がいなくなってきた現在では,この
制度も崩れてしまっているのだろう。
供える。死に弁当も作る
(小さなおにぎり4個)
。こ
れは善光寺に行くための弁当だと言われている。
死者の枕元で大声で名前を3回呼ぶ。これをミゴ
"!$#
エという。北枕にして布団の上にはほうきを置く。
病人が出ると周囲の家々の人を呼び集め,戸板に
猫が跨ぐと死者が起き上がるから猫よけだそうだ。
載せ医者の所へ運んでいたが,夜道や遠路の山道は
供える膳の椀,皿などを平常とは違えて反対に置く。
大変だった。重病だと近親者や近所の人たちが集ま
ヒダリゼンにする。
り,神社やお堂で「お百度参り」をする。神社に立
$"-)(+,*!-)."
てられた百度石と拝殿の間を平癒の祈願をしながら
身内が白の晒し木綿をはさみは使わず,手で裂い
裸足で1
0
0回往復する,氏堂の周囲を1
0
0回巡るなど
て縫い上げたカイシャク着物を着てワラのタスキを
をしていた。死の予兆として氏神さんの裏山で鳥が
掛ける。たらいの上に割り竹をササラに編んだスノ
騒いだり家の屋根で鳥が騒ぐと,どこかの家に不幸
コを載せ死者を座らせ,竹のヒシャクを逆手で持ち
があるのではと心配をした。
湯をかけ洗う。
東祖谷山村内のほとんどの地域に「コウロク」と
%"30
か「クミウチ」という組織がある。小さい集落では
死者には晒し木綿で作った着物を左前に・手甲・
全戸,大きい集落では数組に分かれた互助組織で,
脚半を着せ,首にサンヤ袋(サンミトウ)を掛け,
葬式を司っている。葬式はそれだけ大変な儀礼であ
中にハナシバ・米・六文銭・死に弁当を入れる。棺
り,コウロクは大事な仕事を受け持っていた。
桶には臭いを抜くためハナシバ(しきみ)や茶の葉
死者が出たことが分かると,組の人はまずメシバ
チ(飯鉢)にご飯を入れて持っていった。香料はテ
ぶ げんしゃ
ヅツミブクロに麦かソバを2升,分限者はトブクロ
(1斗入る袋)にモミ(籾)を入れる。今では各戸
ごとに金を包み香料としている。
を入れる。棺の正面に赤い念仏紙を張った(経帷子
を棺の上に掛ける代わりで,お寺からもらう)
。
&"51
真言宗の家がほとんどである。檀那寺は井川町に
あり,交通の便が悪く遠距離だったので,古くは親
悔やみの言葉「こちらの…様とやら,ようけお悪
族と地域の人たちが念仏を唱え,後年にはカセット
うござんす」と「モノイ」
(挨拶)を述べる。ちな
テープの読経を流して仏を埋葬していた。僧侶は年
みに「死ぬこと」をミテルまたはホテル,葬式のこ
の暮れに,その年に亡くなった人や年忌の法事を纏
とをオクリ,通夜はヨヅエと言う。
(
『ひがしいやの
めて行っていた(お屋敷などは別)
。雪の季節なの
民俗』
)
で足元も悪く,何日もかかる供養は大変だったそう
#"6/42
だ。道路が整備された今は葬式にどの家でも僧侶が
コウロクは役割を分担する。野道具・棺桶は大工,
来てくれるようになった。
天蓋は器用な人,四花,線香立て,ホテ(ワラを束
'"17
い はい
ねたもの)
,位牌,トンボゾーリ(棺をかつぐ人が
①ホテ持ち2人(ワラを束ねて先端にロクドウ,
履く,ツノムスビゾーリとも)などの飾り物などは
六地蔵の火をつける。兄弟が1本ずつ持つ)
高齢者が作り,穴掘り,オウジョウ石(フタイシ)
②棺カツギ2人
の準備は若者がする。掘り終わった穴に落ち込まな
③天蓋持ち
いよう鍬を載せておく。足の達者な男性二人は飛脚
④位牌持ち
となり,死者の縁者に知らせに回る。料理は女性の
⑤飯持ち
受け持ちで,ブク(忌)が掛かる死者の家の火では
この7人をヤクビト(役を受持った人 親族など
婿が持つ
!
#
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が当たる)といい,ヒタエボーシ(三角の宝冠,花
売公社集積場)
へ行く。そこでタバコの葉を売っ
嫁の角隠しはヒタイボウシ)を頭に付け,オクリノ
てお金を貰う。いろいろな店が出ていて,普段
ゼンについてから葬列を組んで墓地に行く。女はソ
手に入らない物を何でも買うことができた。お
デボウシで頭を覆う。
菓子・うどん・みかんなど,子どもたちが親の
棺を西向きに埋め,その上にオウジョウイシとい
う平たい石を置き,その上に土をかけ,こちらも平
たい拝み石を載せる。
死霊が家に帰ってくることを畏れ,帰ってこない
ようにする独特の作法がある。
帰りを待ち侘びていた。
③肥料が無いから焼畑をし,アワ・ヒエ・そば・
野菜を作り,食べ物全てを自給自足する生活
だった。米は水の便の良い所では棚田で作って
いる。普段はアワ・ヒエ・麦が主食であった。
①埋葬した土の上にノガマといって鎌を立てる。
④雑煮はご馳走で正月だけでなく何か祝い事があ
②お六日の仕上げに青竹でヒダナを作り,米・
ると作っていた。マイモ(サトイモ)の上に4
麦・芋を供え蓑・笠・草履を吊るす。
葬式の翌日はハカナオシ,近所の人が見に行って,
きちんと墓の整備をしてくる。
今では急病人が出ても救急車が来る。埋葬も土葬
つに切ったトウフを十字に載せ,イリコで出汁
をとったすまし仕立てだ。今でも作っている。
#!$-,(
から火葬となり穴掘りもしなくなった。葬儀屋に電
*!(%&#)%$"'
話で頼むと何でも整い,全て手作りだった葬式も,
高齢者たちが,まず,最初に話し出すのは近所付
コウロクの手助けがいらなくなった。葬儀場もある。
き合いが疎遠になったことであった。人が生まれて
飛脚も要らなくなった。
も,死んでも,メシバチにご飯を入れて持って行く
"!0+&)/.%*'+&'*)
京上にあるデイケア・センターに集まっていた高
とか,また,働き手が亡くなるとホウロクといって,
コウロクの人たちが死者の家の田畑の手入れを手
伝っていたことなどだ。
齢者に話を聞くことができた。7
0∼8
0代の男女に昔
今では助け合いはしなくなり,若者だけでなく年
と今の生活の中で何が一番変わったかを聞いてみ
寄りも冷淡になって,金さえあればよいといった世
た。聞く人ごとに「便利になって,こうして集まっ
の中になってしまったと嘆いている。
て皆と話ができるようになったが人情がのうなっ
その一方で苦労しなくても手にできる年金のあり
た」と言う。秘境といわれたこの地域も交通網の整
がたさが言葉の端々に語られる。地理的条件から伝
備,情報,その他文明の利器が入ったことで,急速
承され続けてきた風習が無くなっていく過程と,開
に地域社会が変容したことが判る。また,昔を懐か
発がもたらした生活環境の変化に,高齢者が複雑な
しみながらも現在の便利さを捨てることができない
心境を抱えている様子を知ることができた。
思いを受け取ることもできた。昔の思い出話を記述
して暮らしの変遷を探ってみる。
話をしてくださった方々にお礼を申し上げる。
話者:
①昔は皆が助け合わないと生きてゆけなかった。
小椋マサ子(大正1
4年生)
,
福本トヨミ
(大正1
4年生)
,
今は年金を貰うから現金がある。
だが,
何もかも
鳥首 幸江(昭和1
1年生)
,
鳥 本 さ ん(大正1
2年生)
,
が地域の連帯で行うことが無く,個人になった。
平尾 治夫(昭和5年生)
,
東川ヒサ子
(大正1
1年生)
,
②現金収入を何とかして得ようと苦労していた。
あのころは毎日の労働が大変だった。タバコ・
谷口カズ子
(昭和1
3年生)
,
落合地区の人たち。
(敬称略・順不同)
みつまた
三椏を作り,牛を飼って肉牛として出す。それ
らが現金収入を得る方法だった。タバコの出荷
文 献
をする日を大人も子どもも楽しみにしていた。
東祖谷の民俗編集委員会編(1
9
9
0)
:『ひがしいやの民俗』
.
大きなタバコの束を背負って専売(タバコの専
東祖谷山村史編纂委員会(1
9
7
8)
:『東祖谷山村史』
.
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