人間環境学会『紀要』第1 7号 Feb. 2012 <研究ノート> 教育における朗読の効用 伊 藤 玄 二 郎*1、原 良 枝*2 Reading Power in Education Genjiro Ito*1 Yoshie Hara*2 Reading appeals not only to our auditory sense but also excites the imagination of color and smell. Reading at school makes Japanese affectionally rich. *1,2 Kanto Gakuin University; 1―50―1, Mutsuurahigashi, Kanazawa-Ku, Yokohama 236―8503, Japan. key words:朗読(Reading) 、国語教育(Japanese Language Education) 、 聞くこと(Listening) 、前頭前野(Prefrontal area) 、身体性(physical activity) はじめに〈私の体験から〉 リスボンの大学で近代日本文学を暫く教えたことがあります。今は EU にも加盟し教育環境も改 善されましたが、かつてポルトガルは学齢期にある子どもの労働力が家庭を支え社会を支えていま した。1 9 7 5年の民主革命以前に学齢期であった中高年層の識字率は余り高くありません。その点か ら見ると、現在の教育制度と内容に問題はあるにせよ、いかに現在の日本の教育水準が高いかとい うことをポルトガルで認識したことがあります。 明治3 0年に尾崎紅葉の『金色夜叉』が、3 1年に徳冨蘆花の『不如帰』の小説が新聞で連載される と両紙は大きく部数を伸ばしました。つまり、この事実から明治3 0年代にはすでに我が国では読み 書きが一般庶民の中に十分に普及していたことをうかがい知ることが出来ます。 もちろん当時の新聞の活字が総ルビであったということにも理由があるかもしれません。 しかし、 それはそれとして、ここからも改めて日本の読み書きにおける水準の高さを知ることが出来ます。 そこには江戸時代から続く読み、書き、算盤を基本とする云わゆる「寺子屋」教育が浮かびあがっ てきます。寺子屋の存在は、知識を伝える「教える」という役目と人を「育む」という要素を持っ ています。 *1 関東学院大学人間環境学部現代コミュニケーション学科;〒2 36―8 50 3 横浜市金沢区六浦東1―5 0―1 *2 関東学院大学人間環境学部非常勤講師 ― 63 ― 私のゼミでは「寺子屋」のイメージを活動の中心に据えて、禅宗の名刹鎌倉の建長寺を舞台とし て2 0 0 5年1月2 2日を第1回とする「親と子の朗読会」をスタートしました。現在(2 0 1 2年2月1 8 日) 、3 7 0回を数えます。朗読会は毎回4 0名前後の幼児からお年寄りが集います。 一昨年1 0月の3 0 0回の記念プログラムには各界を代表する方々が来場されました。文化庁の近藤 誠一長官のごあいさつは次のようなものでした。 「言葉はそれを使うひとの人柄と、その人が身をおく文化、その地の人々が大切に育んできた美 意識や自然観を伝えてくれます。朗読されるとき、そのメッセージは最も強くなります。その美し い言葉を聞くことにより、心は澄み、自分とその地の自然と歴史とのかかわりを悟ります。 」 作家永井路子さんはご自身の体験でした。 「私が育った古河(茨城県)は、当時は小さな町でしたが、小学3年のとき、女学校を出たばか りの若い美しい先生が赴任して来られました。ある時先生が、 『いいお話を読んであげようかし ら』とおっしゃいました。その時聞いたお話の一つがビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」でし た。そのころあまりなじみのなかったジャン・バルジャンやコゼットという名前に子供たちは目を 丸くして聞きいりました。あの朗読を聞いたみんなは、今でも懐かしそうにその名前を語りあいま す。思えば半世紀以上前のことですが、しかし先生の声は、今もはっきりと覚えています。 」 朗読、――読みきかせとは、ほんとうに大切なことなのです、と会場の皆さんに語りかけまし た。以上の二つの話はどちらも朗読のあるべき姿と効用を語っています。 朗読会の題材は日本の名作を中心に誰でもが知っている本を選んでいます。気持ちをさわやかに してくれることばは、長い間、たくさんの人が読んできた童話や詩や小説などに、ちりばめられて いるからです。 私が師事した里見 !先生や堀口大學、永井龍男、小林秀雄さんなどお目に掛かった多くの作家は その当時(1 9 7 0年代)すでに日本語について危機感を抱いていました。皆さんが指摘され一つに「素 読」の効用があります。繰り返し声に出して読むことは聞くことにつながります。やがて言葉は自 分の体内に取り込まれます。言葉は色彩を帯び、時には匂いをともないます。言葉は単なる記号で はありません。通じれば良いという認識は正しくありません。日本語が“やせて”きています。言 葉の寛容さも失せつつあります。 本稿の中で、原 第1章 良枝が教育の中における「朗読」を時系列に捉え、効用について検証します。 教育の中での朗読 現在、朗読は総論で指摘されたように、学校の授業だけでなく、NPO や有志の勉強会など社会 や地域のさまざまな場で行われている。また、舞台公演での芸術性の高い朗読や、メディアを通し ― 64 ― 教育における朗読の効用 て行われる朗読もある。特に2 0 1 1年3月1 1日の東日本大震災以後、ラジオにおいて朗読番組が増え ていることは注目される現象である。 このように、朗読が多くの人に受け入れられ、広範に行われている背景には、朗読を聞く、ある いは朗読を行うことで得られる何かが存在するということであろう。 本研究ノートは、筆者のアナウンサー、朗読家という実践者からの視点を踏まえ、国語教育の中 での朗読のあり方をとらえ、朗読を聞くこと、朗読をすることについて脳科学や教育心理学での研 究を示しながら、言語生活の中で朗読を活かすことの意味を明らかにしていくことを目的とする。 第1節 国語教育の中での朗読の行われ方∼明治から大正まで 明治政府が、近代国家を打ち立てる中で教育を制度化することは重要な政策の一つであった。し かし、明治初年においては、寺子屋教育である「いろは」や往来ものの手習いや、藩学での四書五 経などの古典の素読1)、講釈、輪読が中心であり、学問をするということは読書するということで あった。しかし読書といっても、当時の読書形態は黙読ではなく音読であり、 「一人の読み手を囲 2) が息づいていた。 み数人が聞き入るという共同的読書形態」 [前田1 9 9 3:1 7 8]であり、 「声の文化」 明治4 0年前後において、標準語の使用に慣れさせ、方言の矯正を強く打ち出した話し言葉教育が 重視され、1 9 1 1年(明治4 4年)には、話し方が正式に文部省の「教授要目」に明示されている。教 育家、野地潤家が示した実際の話し方の授業カリキュラムによると、話し方は「演説」 「談話」 「対 話」 「討論」 「演劇」 「朗読」 「暗誦」という項目に分かれ、朗読は話し方の一つの分野として組み込 まれている。 [野地1 9 7 4:9 1]例えば朗読は「暗記及朗読―楠公決別の歌」 、 「暗誦及朗読―琵琶湖 の歌」というような項目が生徒に与えられていた。 大正に入ると、人道主義的な白樺派の台頭という文学界の動向は教育界にも影響を及ぼし、教科 書は文芸的な傾向を強め、大正1 0年前後は朗読指導が盛んになる。しかし、大正1 3年以後、文学界 の潮流が人道主義からプロレタリア文学へと移行していくにしたがい、朗読指導に代表された音声 教育は、生活を綴り方と結び付けていかねばならないという作文指導へと軸足を移していくのであ る。 第2節 戦前の朗読教育 3) 昭和1 0年前後は文章の読み方、読解指導の方法として「文章法」 が導入され、戦前の国語教育 が最も充実していた時期であり、朗読教育も盛んに行われてる。 そこで、この時期の朗読研究について、1 9 3 4年(昭和9年)に出版された『読本朗読の実践研究』 をもとに考察する。昭和1 0年代の朗読教育は、朗読教育が盛んに推奨された大正1 0年前後に次ぐ ムーブメントであるとし、そのムーブメントを歓迎している点がこの本の特徴である。 ― 65 ― 小田正義は、朗読の目的について、明治時代は文章理解であり、大正1 0年前後は情操陶冶、昭和 においては音声言語修錬とされているが、このすべてが必要であるとしている。さらに、朗読演説 やラジオの普及による放送朗読など、朗読が日常生活に密接してくること4)から、朗読が良くでき る人物は文化人として望ましいとも述べている。 また、この時代において、水戸学朗読や講談社の朗読推奨運動が行われ朗読がさかんに行われて いたことを小田は挙げているが、これら水戸学朗読や、講談社の朗読推奨運動については、今後の 研究を進めるべき課題といえるであろう。 次に、植村秀吉は「文を言語にまで復元せんとする朗読は、国語教育において重視されるべき」 [植村1 9 3 4:6 2]という立場から、朗読を測定するという評価規準を提唱している。 この測定基準では、朗読を正読度と美読度に分け、正読度は測定可能な速度と正確度に分類し、 速度を計る。速度は文章を読む速さであるが、速度算出早見表5)というものに当てはめて適切な時 間を割り出すのである。また、美読度は主観的な査定に陥りやすいとしながらも、読みの態度基準6) として、発音・呼吸法・本の持ち方や位置などに基準を設けている点が特徴である。 さらに、実践された朗読に対して的確な診断を行い、結果について治療を考えるということも為 されている。例えば、読みの速度が遅すぎる症状がある児童には、語彙の認識不足と視力欠陥とい う初診が下され、その誘因として目の疾患と失語症が挙げられる。そして眼科医の診断と治療眼鏡 による調整と席を前へ出すという処方箋が与えられるのである。児童の疾患まで朗読で計ろうとし ていたのである。 このような教育者たちは、全体的に興奮したような調子で朗読について語っている。彼らは、朗 読において内容理解を指導すべきといいながらも、指導の重点は速度や音声などに偏っていること は否めない。このような指導は児童に、朗読とは、美しく正しく行われなければならないというあ る種の固定された観念を植え付けたのではないかと指摘できよう。 第3節 戦時中の朗読教育 戦時体制が布かれた1 9 4 1年(昭和1 6年)に国民学校令が発布され、国民学校制度が発足した。そ の2年後の中学校規程により、国語科は修身、国史、地理と共に「国民科」の一科目である「国民 科国語」となった。指導要領には「読み方教材を通して、正しい発音、ことばつかひになれさせ、 教材を朗読・暗誦すること」 「綴り方を単に書かせるだけでなく、それを朗読し、また聴くことに なれさせ、まとまった話しをしたり、聴いたりする修錬をさせる」というように、朗読が話し方指 導の中で活かされている。 このような学校での朗読指導以外に、戦時中は国民詩・愛国詩7)の朗読運動が大政翼賛会指導の 8) 下で展開された。大政翼賛会文化部とその協力体制の一環として組織された「日本文学報国会」 ― 66 ― 教育における朗読の効用 により、国民によって読まれるべき作品が編集され、ラジオで放送された。同時に家庭の団欒や隣 組の常会や集会などで朗読するように呼びかけがなされたが、言うまでもなくこの国民詩朗読は娯 楽ではない。戦意高揚・国体明徴のプロパガンダとして行われたのである。 国民詩・愛国詩の朗読運動は学校教育へも影響を与え、大阪市立中学校教諭・国民詩朗読研究家 という肩書をもつ榊原美文は、詩の朗読は儀式の中で行われるようにしたいと述べ、儀仗兵のよう な役目を持つ朗読班による群読や、朗読班により教導される全員での集団朗読が効果的であると指 摘し、詩の朗読は「最も厳格な訓練」 [榊原1 9 4 2:5 7]として行われるものであると位置付けた。 したがって、今でも詩の朗読や群読、一斉朗読に対して不快感を抱く世代があるが、それは、榊 原が主張するような、学校での訓練としての朗読体験や、国威高揚を煽る詩の韻文や朗読の音調に 自らの負の記憶が蘇り、不快感を湧出させるからであろう。 第4節 戦後から昭和・平成の朗読教育 戦後、1 9 5 1年(昭和2 6年)の中学校学習指導要領では、黙読重視の方針がとられた。その黙読重 視への反動として声の再評価が主張されるが、1 9 5 8年(昭和3 3年)の学習指導要領改訂では、 「思 考力」と「心情」を読みとるという「言語能力」が強調され、読み書きが中心に据えられた。 1 9 6 8年(昭和4 3年)の改訂でも読むことと書くことが重視され、朗読は「読むこと」の領域に含 まれるようになった。1 9 7 7年(昭和5 2年)の改訂では、音読が「理解」領域に入り、朗読が「表現」 領域に区別された。音読と朗読をどのように区別するのかは疑問であるが、19 8 7年(昭和6 3年)の 改定でも同様の扱いであった。しかし、昭和6 0年代になり、児童生徒の話す・聞く能力の低下が問 題視され、国語科での読解に偏った教育内容に反省の目が向けられるようになった。そこで、朗読 などの表現活動が見直され、音声言語教育を再認識する声が高まっていったのである。 1 9 9 2年(平成4年)の改訂では、朗読は「読むこと」の領域に含まれ、従来の「読む」という内 容に、理解だけではなく声に出して表現することが加えられた。朗読と黙読は共に読むことに位置 づけられたのである。2 0 1 1年(平成2 3年)改訂でも朗読は「読むこと」に含まれている。 朗読は、国語科教育において、時代を反映しながら「話すこと」と「読むこと」との領域間を行 き来し、方法論も確立しているとは言い難い。しかし、朗読の教育効果を強調するか、しないかと いう視点の移動はあっても、朗読が言語習得のために重要なものであるという認識が教育において 貫かれていることは、国語教育の歴史において明らかである。 第2章 朗 読 の 効 用 教育の中で重要な位置を占めてきた朗読は果たしてどのような効用があるのだろうか。例えば、 ― 67 ― NPO や、有志の朗読勉強会では、授業の朗読から解放された自由な朗読が行われており、その活 動の有り様が、友人付き合いや、読書生活、ストレス発散、癒し、発声、呼吸法を通しての健康増 進など日常生活へ反映されていく。これも朗読をメディアとした効用である。 では、朗読を聞く、あるいは朗読を行うとは身体的にはどういうことなのか。脳科学や教育心理 学の実験検証をもとに、言語生活の中で朗読がどのように活かされていくべきかを考察していく。 第1節 朗読を聞くということ 関東学院大学人間環境学部現代コミュニケーション学科の学生1 8 1人に朗読に関するアンケート 0%(1 8 1人中1 2 6人)で、好きではない・聞 を行った9)。その結果、朗読を好きだと答えた学生は7 いたことがないと答えた学生が3 0%(1 8 1人中5 5人)であった。なぜ朗読が好きかという問いには 「心の中で作品の情景を想像できる」 「心が落ち着き、豊かになる」 「癒される」 「想像する楽しさ がある」という回答が目立ち、逆に嫌いな理由としては「眠くなる」 「集中できない」 「退屈」 「授 業の用で嫌だ」という意見が目立った。なぜ朗読を聞くことで心が落ち着いたり、想像できる楽し さが心地よいと感じるのであろうか。その要素を挙げてみよう。 一つには、声による作用である。声は音波である。アン・カープは、音波はわずかではあるが、 まぎれもない影響を鼓膜や皮膚に及ぼすと指摘する。聴覚は触覚に近く、震動が音として聞こえる だけでなく、触覚としても感じられる。朗読を聞くことで得られる気持ちよさは、皮膚を直接触れ られている快さでもあるのだ。 次に、聴覚と想像力の関係である。 「耳は人間の感情と密接に結びついている」 [マクルーハン 2 0 0 3:6 6]というように、視覚が文字を読むという理性的な体験であるのに比べ、聴覚は感情と直 面するので情動的でもあり、感性的な体験である。声や音への反応は、聞き手の過去の経験に因る ところが大きく、聴覚は様々な感情を聞き手自身の内部から引き出すのである。W.−J. オングは、 視覚と音について「視覚においては、見ている者が、見ている対象の外側に、そして、その対象か ら離れたところに位置付けることに対し、音は、聞く者の内部に注ぎこまれる」 [オング1 9 9 1: 1 5 3]と述べており、この指摘にしたがえば、聴覚に働きかける朗読は、発声された声と声が伝え る言葉により、聞く人の経験や体験を想像力によって呼び覚まし、意識の上に感情を連れてくるも のであると言えよう。カントは『判断力批判』において、構想力、つまり想像力が働く時に(音声 言語による芸術も含む)芸術による美的快感は生じると述べている。 これら、朗読を聞くことによる気持ちよさや快について、最近の脳の研究で明らかにされてい る。 医学博士の川島隆太は、朗読を聞いている時の脳活動を機能的 MRI で測定した。それによると、 簡単な言葉や音を聞く時の脳の働きと、朗読を聞く時の脳の働きは大きく違うものであった。耳か ― 68 ― 教育における朗読の効用 ら入った音を認識する聴覚野や、目にしたものの形状を認識する下側頭回のある側頭葉は、左右の 脳とも音を聞く場所や言葉を聞く場所の両方が働いている。被験者は眼を閉じて朗読を聞いていた のだが、ものを見る働きがある後頭葉も働いていた。聞きながら話の内容を頭に思い浮かべている のだ。さらに、脳の中で最も高次の機能を持つ前頭前野10)も左右脳が共に働いている。前頭前野は 単に音を聞く時には働かないが、誰かが話しているのを聞く時に働き出すことがわかったのであ る。 泰羅雅登はこの研究を受け、子供が絵本を読み聞かせてもらっている時の脳の様子を調べたが、 そこでは前頭前野は活動せず、側頭連合野が活動しているという結果が出た。更なる分析により、 子供が読み聞かせをしてもらっている時は、大脳辺縁系が働いていたことが明らかにされた。多く の場合読み手である母親は、読み聞かせにおいて子供の情動に働きかけていた結果であった。 「古 い脳」と呼ばれる大脳辺縁系は、感情や情動に関わる働きだけでなく、わが身をたくましく生かし ていくという自己生存率を高めていくために働く脳である。泰羅はこの大脳辺縁系のことを「心の 脳」と名付け、子供のうちからこの「心の脳」の働きを促すためにも、朗読により大脳辺縁系を刺 激することを推奨している。 第2節 朗読をするということ 脳科学的にみれば、朗読をしている時においても、左右の前頭前野は大いに活性化している。川 島は黙読と朗読を比較し、 「黙読は文字のことばを目で見て脳で情報処理」をして終了する「文字 のことばの入力だけの作業」であるが、 「音読は文字のことばを目で見て、脳で情報処理を行い、 音のことばに変換して口から出力し、さらに自分の声が耳から入る」と述べ、音読は音の言葉と文 字の言葉の双方を用いる極めて高度な活動であると指摘する。音読は脳全体を活性化する脳の全身 運動で、脳機能を発達させ、脳機能の老化を防ぐ効果があるのだ。川島は「音読ほど脳全体を活性 化する作業をみたことがない」 [川島2 0 0 4:3 7]と言及している。 しかし、ある被験者が自分が慣れ親しんだ漢詩を朗読していると、前頭前野の血流が下がるとい う結果が出た。川島は脳計測においては、気持ちが落ち着くような刺激を与えると、被験者の前頭 前野の血流が下がることが観察されていることから、前頭前野の血流が下がるということは心が癒 されている状態ではないかと推測する。慣れ親しんだ漢詩を朗読することで心が落ち着き、前頭前 野の活性化効果が薄れるという仮説を立てているが、まだ、その根本的な理由は明らかにされては いない。だが、川島は、前頭前野が活性化されないことが脳に悪いことではないと主張する。人間 は、この前頭前野の血流が下がったリラックスした状態を好むからである。この状態は、音楽視聴 時や、テレビゲーム操作時に現れる。川島は、朗読時にこのような状態があるということは、 「朗 読は『気持ちがよい』ことが、脳機能測定で証明された」と結論付けている。 ― 69 ― 第3節 教育心理学的研究からみた朗読 薮中征代は、朗読を聞くことが、 「児童の読書離れを食い止め、読書機会を増大させていくため の方法として有効であるという視点」から、群馬県、埼玉県、東京都のいくつかの公立小学校の児 童を対象に、朗読聴取(薮中は朗読を聞くことを朗読聴取としている)態度に及ぼす影響、黙読と の関係などについて研究を行った。 その結果、例えば朗読聴取態度に及ぼす影響については、理解、積極的行動、想像性、意欲の4 因子を挙げ、朗読聴取を継続することにより、 「読書興味の促進を促し、積極的行動と想像性にお いて朗読聴取の影響が顕著であること」 、 「読書興味は朗読聴取量が多いほどその変化量が大きいこ と」 [薮中2 0 0 8:2 2 8]が明らかになった。朗読を聞くことにより、読書への興味が増し、想像力と いう情緒面や、積極性という生活態度にも変化が現れたのである。 また、朗読と黙読との比較においては、物語や登場人物のイメージ、登場人物の気持ちにおいて は朗読の方が黙読に比べてイメージの促進や共感を促進させるが、語彙理解に関しては、黙読の方 が促進につながるという結果も出ている。 薮中はこの他、朗読聴取におけるテキストの条件や音楽の影響についての研究を行い、その結 果、映像文化の中で育ち、言葉の文化や文字に代表される記号に抵抗を抱く子どもたちに、言葉の 文化を取り戻すには、活字にこだわる必要はないと述べ、読書を「活字を読む」ということに限定 せず、広義の読書といえる「朗読を聴く」ことも、読書として捉えることが重要であると指摘する。 朗読は「耳からの読書」であり、読書の一形態であると結論付けている。 朗読は音声言語であり、話し方ともつながるものであるが、テキストを読むという読書体験が前 提条件になる。朗読はまず、文字を頭の中の声を聞きながら読み、そして文字から紡ぎだされた頭 の中の声を実際の声に変換をして表現をする。それを他者が耳で聞き、耳からの読書体験を積み上 げることで、文字を読むという読書へ入るという繰り返しである。朗読は、読み手が文字を読む時 の視覚と、声という身体、そしてその声を聞く聞き手の聴覚を循環する運動ととらえる事ができよ う。その循環の中で、声が文字をつれてくる過程が「耳からの読書」なのだ。 薮中は、朗読を「国語科の授業という縛りに入れるのではなく、まず楽しんで物語を聴くという 姿勢を養うことを最優先」 [薮中2 0 0 8:2 3 0]とすべきであると指摘する。朗読が学校だけでなく、 さまざまな場で自由に楽しく行われることは大きな意味を持っているのである。 第4節 朗読における身体性 朗読の効用を論ずるにおいて、声が有する身体性も重要な要素である。斎藤孝はベストセラーと 11) で、この本のねらいを暗誦・朗誦文化の復活にあるとし、 なった『声に出して読みたい日本語』 ― 70 ― 教育における朗読の効用 名文や名文句を「声に出して詠み上げて」みることで「そのリズムやテンポのよさが身体に染み込 み」身体に活力を与え、それが心の力へつながると述べる。そして「身体全体に息を通し、美しい 日本語を身体全体で味わうことは、一つの身体文化の柱であった」 [斎藤2 0 0 1:2 0 2]と指摘し、朗 読や暗誦を通じての声の復権を主張する。 この斎藤の主張する声の身体性の復権という立場に対しては、ここで言われている日本語や身体 という概念成立の歴史性の問題を曖昧にしている点12)や、近代文学が持つ、声では伝えられないほ どに複雑な構造をどのように表現するのか13)、というテキストについての問題がある。 しかし、声が身体性を伴っているということは事実である。声は呼吸を通して身体の内部から直 に発せられるものであり、 「肉体以上の肉体」とも言われている。声は、生命を維持する呼吸と密 接に関係しているため、命と同様に身体において根源的なものである。内田樹は、呼吸とは、 「人 間が身体を持っている」こと、つまり「自分の身体こそは最終的にたった一つ、他人によって取り 替えることができない、絶対に記号化できない私のもの」 [内田2 0 1 1:9 0]であることを認識させ るものであると言及している。言葉は声で表現され、声は呼吸を通して行われ、呼吸は身体を伴っ ているとすれば、朗読とは、発した声を自ら聞くことで自らの身体を確認する活動であるともいえ るのだ。 結 び 朗読が教育の中でどのように行われてきたのか国語教育の歴史を概観し、朗読の効用について述 べてきた。朗読が包含している聞くこと、読むこと、話すことは言語生活の要素である。人間の本 質である言語生活を大切にし、その充実を求めることは、生きることの質や心の豊かさと密接に繋 がっている。心豊かな生活は、言葉豊かな言語生活にあると言えよう。そのような心豊かな生活を 送るためにも、朗読の持つ多くの効用を教育の中で活かしていくことが望まれる。 注 1) 書物、特に漢文の意味・内容を考えることなく、ただ文字だけを音読すること。 (『日本国語大辞典』 ) 2) W.−J. オング『声の文化と文字の文化』藤原書店 1 9 91 3) センテンス・メソッドのこと。文章の読み方・読解指導の方法として、文字の読みや語句の解釈から始めるの ではなく、 「文自体」に着眼し、通読によって文意を直観することから出発し、それを検証しつつ、語句の探 求、内容の理解に到達するもの。 [国語教育研究大辞典1 9 8 8:5 6 5]ここでの通読に音読がまず行われる。 4) 小田は、日常生活に密接している朗読として、勅語・詔書等の棒読・式辞朗読・議案及議決文等の朗読を挙げ ている。これは大人の世界で要請されているものだが、児童教育上も重要であると指摘している。 5) 朗読所要時間を計測し、標準時間(1分間)内における速度の算出がしやすくなるように考慮されたもの。所 要時間と字音数を比例式に当てはめて算出する。例えば、所要時間が6 5秒で字音数が2 30字の文章であれば、 65:60=23 0:x となり、約2 1 2音強となる。 ― 71 ― 6) 例えば以下のような指導がされている。 「直立の際には楽に立ち、イ、肩を後ろに引き、頭を柔に起こせ。ロ、 本の持ち方に留意する。即ち肘を曲げて軽く胸の両側につけ眼をより少しく俯角的に置き、距離は約4 0cm と して、数頁に渉る文には、指をはさみ頁を繰るに都合よくする。 」 [植村1 9 3 4:1 2 6] 7) 芸術家照井瓔三は国民詩を「言霊の幸はふ国の美しくも力強い言葉で書かれた日本詩」であり、愛国詩を「国 民の希求に応じて生まれいでたものであって、詩人の詩を通じての国民の赤誠の発露」 [照井1 9 42:2]であ ると定義している。 8) 1 94 2年(昭和17年)に結成された3 0 0 0人を上回る文学者たちの組織。会長は徳富蘇峰。その目的は「文学者の 総力の結集、天皇国家の伝統と理想を表現する日本文学を確立し、天皇制の文化を文学によって世に示す」こ とであった。[吉野2 0 0 8:79] 9) 2 00 8年と200 9年に行ったもの 10) ものごとを考える、記憶する、喜びや怒りの感情をつくり出す、脳のさまざまな場所にしまわれた記憶を取り 出す、行動を抑制する、他者の気持ちを理解する等々、脳の中でもっとも高次の機能を持つ領域[川島2 0 04: 12 0] 11) 『声に出して読みたい日本語』は、1 6 3万部を売り、現在第6巻まで刊行され、累計2 3 0万部を売っている。(2 0 11 年9月現在) 12) 兵頭裕己『声の力と国語教育』所収「音声中心主義は形而上学か?―「古典を声に出して読むこと―」学文社 20 07による 13) 永井聖剛『声の力と国語教育』所収「朗読と言語多様性に関する一考察―太宰治『走れメロス』を教材として―」 学文社2007による 参考文献 小田正義『讀本朗讀の實踐的研究』所収「朗讀指導の新構築」厚生閣書店 1 9 3 4 植村秀吉『讀本朗讀の實踐的研究』所収「朗讀とその實踐測定的研究」厚生閣書店 1 93 4 内田樹『現代人の祈り』サンガ新書 2 0 1 1 W.−J. オング『声の文化と文字の文化』藤原書店 1 9 9 1 川島隆太+安達忠夫『脳と音読』講談社現代新書 2 0 0 4 斎藤孝『声に出して読みたい日本語』草思社 2 0 0 1 榊原美文『朗読研究』(野村政夫編集)所収「国民詩朗読の要訣」日本出版社 1 94 2 泰羅雅登『読み聞かせは心の脳に届く』くもん出版 2 0 0 9 照井瓔三『國民詩と朗読法』第一公論社 1 9 4 2 野地潤家『国語教育通史』共文社 1 9 7 4 前田愛『近代読者の成立』岩波書店 1 9 9 3 M.マクルーハン E.カーペンター編著『マクルーハン理論 電子メディアの可能性』平凡社 2 0 03 薮中征代『朗読聴取に関する教育心理学的研究』風間書房 2 0 0 8 吉野孝雄『文学報国会の時代』河出書房新社 2 0 0 8 ― 72 ―
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