「多摩美術大学修了論文作品集」の抜粋で

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
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多摩美術大学大学院
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東京CSH
多摩美術大学大学院美術研究科建築デザイン専攻2年 no.30030082
五百蔵 文乃
Ⅰ:ケース・スタディ・ハウスとは
1.CSHのはじまりと背景
2.CSHが及ぼした影響
・レンゾ・ピアノ
・リチャード・ロジャース
・フランク・O・ゲイリー
・ドイツ ハイテク&エコロジーがテーマのケース・スタディ集合住宅 Ⅱ:ケース・スタディ・ハウスと日本
1.モダンリビング誌による試み。日本のCSH
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2.日本の建築家とCSH
Ⅲ:これからの東京とケース・スタディ・ハウス
1.1950年代の小住宅と戦後の小住宅の今日的意味
2.低コスト良デザイン住宅と都市住宅
3.既成住宅地
4.ハウジング
5.新しい公共生へ
6.「小さい」から発想されるもの
・小住宅ブームの社会的背景
・複数の拠点を使いこなす
・ゆらぎはじめた家の枠組み
・都市住宅のスケール感
・空間のメリハリを生かす
・建てる側からみる小住宅
・欲しいものを欲しいだけ欲しい場所につくる
さいごに
Ⅰ:ケーススタディハウスとは
1.CSHのはじまりと背景
*
1945∼66年にかけて、アメリカ西海岸、LAを中心に計36のプロトタイプ住宅が設計されました。参加した建築家は
チャールズ・イームズ、エーロ・サーリネン、リチャード・ノイトラなどなど、アメリカのミッドセンチュリーを代表する人達で
した。
ケース・スタディ・ハウスと呼ばれたこの住宅郡は、当時世界中の人々を魅了し、21世紀の現代においても、モダン住宅の理想
的サンプルと言えます。
* *
ケース・スタディ・ハウスの影響は、むしろ戦後のヨーロッパの新しい世代の建築家に色濃く受け継がれたように見えます。現
在の感覚ではつい見落としてしまうことだが、1950年代は、まだ第二次世界大戦後の疲弊と破壊から十分回復しているとはいえ
ないヨーロッパの国々の若き建築家たちにとって、カリフォルニアは遠い世界であり、実際に訪れ、直にそこの建築に接すること
は難しい時代でした。
その当時、ケース・スタディ・ハウスを実際に見たヨーロッパ人はほとんどいなかったという。バウハウスが戦後世界に舞い降
りて、モダン・ハウスが花盛りのように映る彼の地はあこがれに近い時代でもある。ケース・スタディ・ハウスが『アーツ&アー
キテクチュア』というメディアと密接に結びついて展開され、ヨーロッパや日本を含めた世界に知れ渡ったいったのは、あながち
そのような事情もあったのである。
“三大ハイテック建築家”――リチャード・ロジャース(1933年生まれ)、ノーマン・フォスター(1935年生まれ)、レン
ゾ・ピアノ(1937年生まれ)
この三人にしてみれば、当時の年齢からして、ケース・スタディ・ハウス、そして、それらを通して知ったエルウッド、コー
ニッグらの気鋭の建築家とその作品から、「ハイテック建築の発露」として大きな影響を受けたのです。
MOCAの回顧展と併せて制作されたビデオ・ソフトでは、ロジャースが当時どのように受けとめたかその印象を回顧的に語ってい
- 2 -
る。
また、バンハムは、ケース・スタディ・ハウスが輝いた時代を想起させるにもっともふさわしい建築として、レンゾ・ピアノの
メニル・コレクション美術館(1981-86)をあげているほどです。
↓:CSH#22/photo : Makoto Uyeda
ピエール・コーニッグ設計のCSH#22(1969-60)
*
ケース・スタディ・ハウス。直訳すれば事例研究住宅であるが、思い切り意訳して、試作提案住宅といったところ。
しかも固有名詞として使われる。1945年から65年にかけて、ロサンジェルスで計画された36の住宅を指す。そのうち25軒が実
際に建設され、そのほとんどが現在も健在です。
ロサンジェルスという限られた場所に、 しかも第二次大戦後の20年間に計画された40足らずのこれらの住宅が、 年間何十万
戸もの住宅を生産している現代の日本でなぜ問題になるのか。 それは、一戸建住宅がどのようにデザインされるのかという問
題、新しいモダン住宅がその地にどう定着し、どのように環境を形成しうるかという問題が、現在にそのまま投げかけられている
からである。その意味では、36の住宅計画の実践はたいへんな数である。しかもそれは民間の一建築雑誌によって企画実行され
たのでした。
「アーツ&アーキテクチュア」と薄い中綴じ雑誌の編集者、ジョン・エンテンザは、戦後のアメリカ家族に相応しい戸建住宅の定
型を確立したいと考えました。
そして、一人か二人の子供を持ち、メイドのいない、即ち主婦が家庭内労働の中心となる、いわゆる核家族のためのプランとデ
ザインを、ロサンジェルスの気鋭の建築家たちに依頼するシステムをつくった。
それは若い家族に相応しい、ローコストだがモダンな住宅、ステイタス・シンボルというよりは気楽なライフ・スタイルを享受で
きる住宅の提案でした。
希望者はエンテンザの用意したリストから、これはと思う建築家を選び出す。建材メーカーが必要な資材を提供する。住み手は住
宅完成後の一定期間をオープン・ハウスとして公開する。「アーツ・アーキテクチュア」はその詳細を紹介する。
といった協力関係のなかで、次々と「試作提案住宅」が、ロサンジェルスを中心とした一帯に、さらにはアメリカ全土に、そして
世界じゅうにアピールされていった。
戸建住宅の定型を確立する。それは住宅の設計、生産、流通、そして住まい方に関わる戦後の住宅理論のメインテーマとなった。
それを机上の空論に終わらせることなく、実行に移したのがケース・スタディ・ハウス・プロジェクトでした。30年代以降の住
宅は、折衷様式のものが多かった。とくにロサンジェルスは建売住宅地からビバリーヒルズのような<高級住宅地に&lt;BR> 至
るまで、構造体は一様でもその外観を地中海様式、新古典様式、はては日本様式と、自由に選べるシステムが蔓延していた。と同
時期に、20年代から近代建築の先駆者であるシンドラーその他の建築家たちによる、住宅を哲学するとでもいうべき試みが同じ
地に根づいていた。
ケース・スタディ・ハウスに見られる 鉄とガラスを中心に構成された 住宅群は、この前衛の伝統を、より一般化するための
試行だった。その新鮮な プランニングを賞賛し、キッチン設備の 充実や屋外空間との連続を評価する声が ある一方、ガソリ
ン・スタンドのような家に 住めるはずがないといった批判も、当時の 関係者や目撃者のなかに多角的に見られる。 しかしこ
うした議論は、今もなお 私たちの周りにそのまま 生きているといっていい。現代において住宅とは何か。この問いを改めて 問い直す手掛かりとして、ケース・スタディ・ハウスは今も有効性を失っていないのです。
2.CSHが及ぼした影響
・プロトタイプ住宅
新しいコンセプト、新しいデザインの住宅のサンプルを提示するという試み、この「プロトタイプ住宅」という考え方こそ、ケー
ス・スタディ・ハウスが世界中に広めたものでした。
・レンゾ・ピアノ
* *
CSHアーキテクト、クレイグ・エルドウッドの作品に似ているこの住宅は、レンゾ・ピアノがまだ若くしてたてた住宅です。鉄骨
の補強構造とフラットルーフは、まさしくCSHスタイルです。さらに、室内のブックシェルフには、イームズ・デザインを彷佛さ
せるXブレースがあります。
70年代、リチャード・ロジャースと共同でロンドンに事務所を開いた頃、ロジャースはエルドウッドから直に感化されていた。
60年代に学生だった建築家は、洋の東西を問わず、CSHに夢中だったのです。
・リチャード・ロジャース
近年、活躍が目覚ましいレンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースもケース・スタディ・ハウスに大きな影響を受けている。出世
作である2人のコラボレーション、ポンピドゥーセンターを建てる以前に、各々が建てた個人住宅からは、その影響がダイレクト
に伝わってくる。
もともと、コルビジェやミースよりもライトに共感を持っていたリチャード・ロジャースだが、ケース・スタディに新たなアメリ
カ的建築を発見し、強い影響を受ける。中でも、イームズ、コーニック、ソリアーノ、エルウッドの作品に共感を示している。
- 3 -
「建てるというより、組み立てる」工業製品的アプローチはポンピドゥーセンターに代表されるハイテクスタイルのもとになった
といえるだろう。
69年に完成した「ロジャース・ハウス」は両親のために建てたもの。緑に囲まれたガラス張りの箱ともいえるシンプルな構造の
住宅はイームズへのオマージュといわれている。
内部は部屋の仕切りが可動式で、用途や人数に応じた住方が可能で、現在は、息子でデザイナーのエイブと料理研究科のソフィー
が、仕事場を兼ねふたりの子供たちと暮らしてる。
大人も子供も、生活も仕事も、同空間での共存を可能にした傑作です。「CASA brutus 2001 7」
・フランク・O・ゲイリー
1959年ゲイリーの処女作「スティーヴン邸」は水平方向に広がる空間構成、内装には当時人気があった日本建築の影響がうか
がえるほか、表現がモダンそのものです。「CASA brutus 2001 7」
・ドイツ ハイテク&エコロジーがテーマのケース・スタディ・集合住宅
ドイツ国内で定期的に行われる国際建築展の1985年の開催地は崩壊寸前の西ベルリンでした。発表された数多くの建物の中で
ドイツ版ケース・スタディ・ハウスといえるのが、実験的かつ効率のよさを追求した「ヴォーンレガール(棚住宅)」でした。
かつてル・コルビジェがスケッチした、4本柱に簡単な階段のついた骨組みのドミノ.ハウスを棚積みにする案によって、12の
住居のはいった集合住宅が完成した。
鉄筋コンクリートの枠組みとガラス窓、水道、電気などの配線以外は入居者自身が内装を手がけるというコンセプトと、ドイツ政
府からの援助金、組合わせ方式での分譲などにより20%のコストダウンを実現した。
また、'60年代後半から西ドイツで高まった環境問題意識を反映してリサイクルの建築素材やソーラーエナジーを導入。内装に
は木材を中心とする自然素材を使用するなどエコンシャスの走りともいえる。「CASA brutus 2001 7」
Ⅱ:ケース・スタディ・ハウス と日本
1.モダンリビング誌による試み。日本のCSH
*
「アーツ&アーキテクチャー」誌と時を同じくして計画された、より快適な空間を求めるために、住み手とともに成長し、リファ
インされる日本版ケース・ステディ・ハウスは狭『モダンリビング』誌がプロデュースした、池辺陽、大高正人、増沢洵の設計に
よる3軒の戸建て住宅が1950年代後半の東京に登場したのである。い日本の住宅事情から生まれた「modern living」誌の試みでし
た。
これらはロサンジェルスのケース・スタディ・ハウスと違って編集者や建築家の美的判断基準よりはむしろ、日本の伝統的住ま
いを踏まえつつ新しい住居の形と生活をいかに大胆にとりいれるかを命題としました。
入口、居間、キッチン、食事室、寝室、その他すべてが日本の庶民にとってこれから始まる部屋であり場所であった。それをどの
ようなプランニング手法でとりまとめ、例えば打ち放しコンクリートのような新素材をどのように生かして建築として建ち上げる
か。
こうした構想のさなかで、当事者たちは「ケース・スタディ・ハウス」という海外の同じような理想に出会い、共振したのでし
た。
住宅の工業化を提唱していた増沢洵(ますざわ じゅん)の設計の住宅(1959年竣工)は、1階部分のピロティがコンクリー
トで作られ、2階の住居スペースは木造で、バス・トイレなどの水まわりを中央に配置したコアシステムが取られている。
そしてもうひとつの特徴は、施主が住んでみて、不自由なところは直すべきところで積極的に改良し、その住宅が形をかえ成長す
る過程を誌上でリポートしているところです。
これは、戦後の日本の住宅史において、60年代の高度成長期に向けての新しいタイプの家作りの第一歩として重要な役割を果た
すものとなりました。
住宅と生活の様式が安定している時代状況においては、施主の意向を調整するいわば裏方として建築家があったのだが、新しい時
代においては、建築家はすべてを白紙から提案する主体として機能せざるを得なかった。あるいはみずから進んで主体としての位
置に立った。 それはすなわち、彼が生活の思想を確立することを意味する。さらにいえば、住宅設計が、彼にとって常にプロト
タイプを目指すことを意味する。
池辺陽は、自分の設計した住宅に1から順にナンバーを打ち、作品タイトルとした。合理性を優先し、部材の工業化に腐心した建
築家にそれは相応しい。
一方、池辺と対照的な一連の住宅を同時代につくった清家清は、「森博士の家」「宮城教授の家」「私の家」と、「邸」や「住
宅」ではなく「家」にこだわる姿勢を作品タイトルに垣間見せている。
両者の記号は違っているが、姿勢は軌を一にしているといっていい。それはほんの一徴候にすぎないが、以来現在に至るまで、多
くの建築家が自分の仕事に一貫したプランニング、構造形式、構成部材の扱い、全体から細部に及ぶ形態と収まりを以て、いかに
主体と思想を内在させ、また顕現させようとしているかを、そこから見通すこともできるだう。
2.日本の建築家とCSH
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ー石津邸(池辺 陽設計ー)
所在地:東京都新宿区
構造:地上2階、RC造
敷地面積:108.3
建築面積:55.0 竣工:1958
延床面積:64.4 主要用途:専用住宅
敷地も狭いことから、連続建てを予想しテラスハウスとしてデザインされた、 都市型住居のプロトタイプ。 もともとは雑誌「モ
ダンリビング」の モダンリビング・ケーススタディハウスとしてデザインされたものである。 スキップした3層の構成になって
いて、食堂と台所、子供室のあるウィングと庭園がうまくつながっている。コンパクトにまとめられた家事動線や、レベル差をう
まく使って空間を緩やかに区切り、かつまた一体化するデザインは見事である。現在は屋上や庭の一部への増築、断熱性能を高め
る改修もおこなわれ40数年経った今も現役で使われている。
Plan
*
竣工当時の外観
*
居間から庭を見る
*
台所と居間がスキップしてつながる *
『アーツ アンド アーキテクチュア』の誌面に紹介されたケース・スタディ・ハウスは当時の若い建築家たちを魅了しました。鉄
とガラスの輝きは夢幻的でさえあり、住宅名称がわりのナンバリングはとてもセンスがありました。
それをファッションとする表面的な模倣が仮にあったとしても、ケース・スタディ・ハウスの内容と表象は、日本に反映された瞬
間から、わが国における問題の深層に確実にかかわっていったのです。
第二次大戦後の住宅革新のモメントがすべて、このロサンジェルスのプロジェクトに帰するわけではありません。
しかし、20年間の長きにわたって、強烈な個性に貫かれた40軒ちかくの住宅がそのつど住まい手と建築家を求めながら実現され
ていった例は他にありません。しかもその多くは現在も健やかに住みこなされているのです。
すなわち、博覧会的なデモンストレーションではなく、市民の日々の生活に語りかけ、また応答し続けた革新のプロジェクトでし
た。 清家、池辺、増沢に次ぐ、広瀬鎌二、篠原一男、磯崎新、東孝光、鈴木恂、原広司、安藤忠雄、黒沢隆、早川邦彦、象設計集団、
石山修武、石井和紘、高松伸、そしてさらに若い、内藤廣、難波和彦、岸和郎などによる 最新の一連の住宅を見るとき、直接
の関係はなくても、あるいは工業化といった方向性とは相反する立場をとる志向が見られるとしても、ケース・スタディ・ハウ
ス・プロジェクトに触発された住宅設計への問題意識が今なお続いているのを感じます。そして、現代の住宅と都市を、より立体
的に眺める視点が現れてくるように思えます。
Ⅲ:これからの東京とケース・スタディ・ハウス
1.1950年代の小住宅と戦後の小住宅の今日的意味
1950年6月に勃発したした朝鮮戦争は、やがて日本に特需景気をもたらすことになるが、このころからようやく住宅建設が本
格化する。それと時を同じくして、1950年代にはいると、若手建築家による小住宅が次々と建築雑誌に登場し、小住宅は建築
界の中心的なテーマのおひとつとなった。小住宅に取り組んだ建築家達が目指したのは、一言でいうならば、戦後の近代化・民主
化された生活の器となる新しい住宅のありかたを提案することであり、最小限の予算・資材・空間から最大限の生活の豊かさを引
き出すことでした。
具体的には、間取りの近代化・合理化・設備の近代化、建設コストの削減、生産の合理化・耐火・耐久性能の向上といった課題を
専門科として解決することを目指しました。
15坪から20坪程度の最小限住宅でありながら、解決すべき問題は、社会的側面、技術的側面、芸術的側面のすべてにわたって
いました。
間取りの問題とならんで小住宅の中心的テーマとなったのが、技術的な問題、すなわち住宅生産の工業化でした。資料の無駄を
なくし、熟練労働者の不足を補い、ローコスト化を実現するには、住宅生産を工業化するしかありません。そして、戦後の膨大な
住宅不足をできるだけ迅速に解消するには、現場での作業を少なくし、工業生産によるプレファブ化を促進する必要がありまし
た。
間取りと生産の「合理化」が小住宅設計の合い言葉であったが、建築家が設計する以上、それをいかにひとつの建築として表現
するかが問われる。敗戦国となった日本では、従来の日本住宅の封建性や非合理性が批判の的になるが、1950年代にはいる
と、フレキシビリティや構造が生み出す簡素な美が見直され、近代建築が求める合理性を伝統的な日本建築に見出す傾向が見られ
ました。(建築文化 2001 12)
1960年代に入り、建築家が庶民の住宅生産プロセスにどのような立場でかかわるべきかがさだまらぬまま、日本は高度成長
期へと突入する。そして、庶民に理想の生活を提案し、住宅を生産・供給する主体はプレファブ住宅メーカーへと移っていった。
高度経済成長期からバブル経済期にかけて急激な経済成長のなかで戦後切実に求められた合理性や機能性の追求は忘れられ急激な
都市化が招いた土地の高騰は人々の関心を建物よりも土地の獲得へと向けさせた。
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現在の50’年代の小住宅に対する感心の高まりは、半世紀を経てようやく、当時の建築家達のビジョンが、様々な制約がある
なかで真に豊かな住生活を送りたいと考える現代の住まい手に理解されつつあることを意味するのかもしれない。
同じ小住宅でも、現在と1950年代ではそれを取り巻く環境に大きな違いがあることは確かだが、「生活が近代的に、簡素に、
合理的にかわり得るという可能性を、住まいを専門に考える建築家に期待」する現代の住まい手のニーズに応える気があるとする
ならば、’50年代の経験から学ぶことは少なくないはずである。(建築文化 2001 12)
2.低コスト・良デザイン住宅とケース・スタディ・ハウス
私達をとりまく住環境は、時代と共に様々なキーワードをもちながら、常に変容しています。住まい手にとってどういう環境が必
要であるのか。住まい手の生き方を最大限に活かす住まいをつくるにはどうすればよいのか。実はわれわれが家をつくろうと考え
た時に、いろんな問題に突き当たります。土地の広さに限りがある都市部では特に、狭さをうまく利用した住空間への探究が進む
中、低コストへの追求も進んできました。
ここ最近は、1000万円住宅というのも出現し、しかも安さを感じさせない内装や空間のものも数多く登場していす。
この不況の中で都心の高層マンションが立っても即完売したりという状況がありますが、殆どの庶民は安く、デザインの良い、
便利な土地に住みたいとおもうのではないでしょうか。私も現在はそういう人達の一人です。
あと10年、20年後の世の中はデザインの主流も経済も変わっているとは思いますが、今まさに理想とされる住宅とは何か、考え
られるのがCSHです
3.既成住宅地
既成住宅地への関心は、バブル経済期に蝕まれた日本の都市空間への関心からはじまった。
既成住宅とは、ここでは、市街地としての時間的な蓄積をへて更新期の近付いた住居系の既成市街地を指しています。具体的にイ
メージしてみれば、高度経済成長期に形成、また形成されていた市街地で、1965年もしくは1970年の人口集中地区といえ
る。1970年代前半、東京でいえば今の杉並区の高密住宅地はもちろん、ニュータウンのような郊外の計画的市街地すら飲み込
み、計画的インセンティブの強弱では区別できないほどの激しい平面的拡張を経て、巨大市街地が形成されました。
根幹に本は、高度経済成長期を経てバブル経済期に突入した。経済力を背景にあらゆる建築が成立し、圧倒的速度で市街地は激
変、その勢いは業務・商業系の空間を食いつぶすだけではとまらず、住環境にまで深刻な打撃を及ぼしました。「既成」問いう言
葉には、私たちの世代にもある程度実感のもてる高度経済成長期から、バブル経済期をへて、今日の不景気経済期にいたる約30
年間の歳月が凝縮されている。そこには都市と住宅を巡る、近い過去を中心とした深い問題があります。
4.ハウジング
商品性の強いハウジングでも都市的規制や商業的要請に敏感なのか、思いもよらず環境に適確な反応を見せるものがあった。団地
のように一定の形式をもつタイプは、どの環境にあってもかまわず同一の景観をつくり、環境に固有の問題を捨象し、心地よい外
部空間に還元すてしまう。また、ハウジングと環境との関係は、不用意に「ヴォリューム」と「ヴォイド」
との関係に還元してしまえるものではなかった。
ハウジングは規制住宅地との関係をとわずして、自立的には発想し得ないと思う。逆にその発想を通して、環境への批判的なかか
わりを開くことができる。
ヨーロッパの都市にとって、集合する住宅は、住戸が集合への必然性を持ち、その媒介に都市の理論が用意されるものであった。
そしてある直には、そこへ共同性への思考が入り込み存在した。
当初これを職工住宅として導入した日本では、その後、都市のアパートメントはうす、戦後の住の画一過程では団地、マンション
というように、集合住宅は常にマス・ハウジングの視点からとらえられ、そこに個の公共生を持たせるという視点は芽生えなかっ
た。
しかし。規制住宅地が確率するこの30年近い過程で、ハウジングには都市との直接の関係や共同性のような枠が成立しなかった
分、本筋とは別種の公共生が無意識に芽生えていたのではないかと思います。
5.新しい公共生へ
「集合住宅は西欧に都市住居における基本てき形式であり、都市形態の存在基盤、文化モデルの一様態としての意味を付与されて
きた。それは、都市に生きることの体現であり、イデオロギーの表明である。私達は、ヨーロッパの都市組織の地としての集合住
宅=タウンハウスが都市の造形部品であり、明確なタイプをもっていたことを想起すれば、”より純粋に集合を問い続けてきたの
が共同体であったのなら、都市住居は公共生を喚問することでそれを行ってきた”のだ、と考えられる」(「集合住宅ファイル
ブック」(鹿島出版会 1979
年)の序論「集合住宅の現在」(執筆:北原理雄・松本篤・彦坂裕))
そこで、既存住宅地に見い出したハウジングと環境との間の非連続な連続性が、ヨーロッパの都市とは異なるかたちで公共生の空
間を喚起し、共有されるに足る意味のある環境イメージを形成する可能性を考えてみる。
ノベルグ・シュルグの著作「実存・空間・建築」では、人間が環境に自らを位置づけることができるのは、実存空間シェマによ
るものであり、これにより環境に関する安定したイメージが形成されるとしている。空間シェマとは、個人的特異性のほかに、普
遍的な原始的構造(アーキタイプ)、社会文化的に条件づけられる構造というような、異なる人びとの間で共有し得る一定の不変
性をもつ要素から成り立っている。そして、それにより人間が環境についてもつイメージに、3次元的関係の安定した体系をつく
りあげ、人間を社会的文化的な全体へ帰属させるとしている。
ハウジングには、その周辺との間で相互に補いあいながら、ある種の環境イメージを形成する可能性がある。
このイメージが、地域に固有の象徴性や空間的課題をよく表徴し、共有しえる意味のある都市空間として公共生を帯びるとかんが
えてみる。そしてこのことにより、住み手や周辺の人々を社会的文化的な存在に回帰させていく、そんな構造へのきっかけとして
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のハウジングをつくり得ないだろうかと思う。
番町の街路空間や目黒川沿いの住宅地には、ゆったりとして、環境に強い芯のある印象的住環境がある。これらは、かならずしも
意図的に形成された例ではないが、なんらかの示唆をわたしたちに与えてくれると思います。
かりに、建築の側から、その環境イメージにある種の象徴性や独自性を付与し、日本的あり方の内に形成できるなら、アルド・
ロッシのいう「都市建築」とは異なる日本型の都市建築の一様態を描くことができるかもしれません。
6.「小さい」から発想されるもの
・ 小住宅ブームの社会背景
20世紀の住宅というのは、戦略的に社会と結びついてきたような気がします。
ミースにおいてもコルビジェにおいても、個人的なユーザーに嗜好などからうまれているわけではなく、いかに建築と社会とを結
びつけるかというデザインから入っていきました。
池辺陽さんもプレファブと建築を結びつけたことから、前に述べた実験的な住宅ができました。今の建築家がつくっている小住宅
と言われる類いのものは、たぶんそういうことあまり意識せずに、ユーザーと楽しんでつくっている部分があると思います。
また、衣服の延長というか比較的身体感覚の延長上に把握できるぐらいのスケールの住宅だと思います。よって、「住む」といよ
りはむしろ、「使いこなす」住宅というひとつの道具っぽい感覚に近いということになります。こういった、身体的なスケール感
ともうまく合って、小住宅が受け入れられているのかもしれません。
・複数の生活拠点を使いこなす
別荘にも非常にコンパクトなものというのが最近よく見られます。やはり小さくてもいいから自分のものをもとめている人が多い
のでしょうか。
都市住宅でも別荘でも、「小屋」みたいに対するノスタルジーが潜在的にあるのではないかと思います。また、一時期SOHOとい
われ始めた頃は、郊外の住宅でも仕事ができると、人と仕事が郊外に流れる動きがありましたが、いまSOHOという言葉がそのま
ま都心に回帰する動きを指す場合にも使われるようになったのではないでしょうか。
しかも、いくつかの拠点を利用しながら都会のなかで暮らしていくというライフスタイルを持つ人たちが増えてきたから、小さく
コンパクトに特徴のある機能がまとまった小住宅というものがでてきているような気もします。
・ゆらぎはじめた家の枠組み
上で住宅のなかのいろいろな要素が外にでていき、小住宅がいろんな拠点のひとつになっているとのべました。その場合、住宅の
要素が減っていくと、最後になにが残るのか、どこかで境界線があると思います。
極端にいえば、現在はコンビニ弁当で暮らせる世の中でもあります。
アメリカの企業と仕事をする会社に勤めているサラリーマンの人たちは、時差の問題で結局仕事場で暮らしていることのほうが圧
倒的に多くなっているし、最近はどこで仕事をしてもいいという会社もあって、今週はずっと会社にいて、来週1週間は家で仕事
を、次の週はニューヨークで・・という暮らし方をしている人もいるかと思います。
そうなると、家をひとつもって、常にそこから仕事場まで行ったり来たりしているという生活ではなくなっちゃうというのが、今
後増えてくる気がします。
だから、住宅のことを考えると同時に、働く場所・・人と会社の雇用関係や業務地域の考え方も大きく変わってくると思います。
と同時に、都市の考え方にも影響していきます。
・都市住宅 小住宅のスケール感
土地が小さく制限されると、廊下のようなものは極力排除しようと、部屋の並びが普通ではなくなってきます。しかし、実際生活
に支障があるどころか、不思議な奥行き感がうまれたりして、新しい可能性が発見されたりするのです。
パブリックな場所があって、そこにプライベートな場所が附随しているみたいな空間の序列というものについ縛られてしまいがち
なのですが、それをひっくり返しても全く問題がなかったりするのではないでしょうか。
・空間のメリハリを生かす
制限のある空間で、できるだけ広さをださせる場合ふつうでは許されない低い天井の空間から3mの天井高の空間へ階段や廊下を
通して繋ぐことで、本来以上の空間の広がりを感じさせたりという方法を、計画の上で考えたりします。
美術館などでも使われる手法で、もちろん住宅とはスケールなどが違いますが、人間のもっている身体的スケールというのはけっ
こう絶対的なものがあるので、全体が小さければ小さいほど、その差がより大きくかんじられると思います。
・建てる側からみる小住宅
小さい住宅を考えるというのは、結局都市のことを考えることにつながるのではないかと思います。いまだに首都圏への人口集中
が続いていますが、これは小住宅が流行ることと無関係ではないでしょう。ですから、小住宅とか超高層住宅をどう考えるかは、
都市が今後どうなっていくかということを考えることでもあるし、郊外のことをどう考えるかということにもつながってくると思
います。たとえば、田園都市線や小田急沿線が開発されたのは、ここ30年にも満たない、わずかの歴史です。それが建て替えや
世代交代の時期を迎えて大きな変化のときを迎えています。都心回帰の動向はそれと連動したことでもあるのでしょう。
その一方で、日本はどんどん人口が減っています。いまのまま出生率が続くとあと50年で4000万人もの人口が減るという試
算があるというのです。
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もちろん、このまま低出生率が続くとは限らないのですが、50年で4000万人、つまり首都圏のひとつがなくなるほどの変化
がおこりつつ、都心に人が集まってくるとすると、ゴーストタウン化していく郊外をどうデザインするかということも考えていく
必要があります。ですから、小住宅が増えることで広域の都市の姿を模索することになるのです。
・欲しいものを欲しいだけ欲しい場所につくる
郊外でもいいから家を買うという感覚じゃなくて、東京で生活しやすくするために、どんなに小さな家でもいいからつくりたいと
いう、都市をカスタマイズするために家をつくるような人がでてきています。
例えば、子供がいなければお金を自分達の趣味のために使える、賃貸などマンションにすんでも十分なのですが、個人住宅をつく
ることで自分達のライフスタイルを思う存分つくりあげることができる。よって、自分達の身体感覚に近い家をつくるという小住
宅のスタイルができあがってくるのです。
さいごに
ケース・スタディ・ハウスに共通する優しさは、戦後日本が失ったものではないかという気がします。影があるから光が生きる。
ケース・スタディ・ハウスは家の外と中を序々につないで影を意識させた。ケース・スタディ・ハウスの大きな庇やアトリウム
は、日本でいうところの縁側や土間にあたります。
畳やふすまに柱と梁と真壁・・かつての日本の建築はモジュールの決まったポスト&ビーム工法でした。日本が戦後否定したもの
を、逆に欧米では評価していたということなのでしょうか。プレーンで飾らない建築・・・今求められている等身大の住まい方
は、昔の日本にもあった親しみの持てるものだったのです。
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