2016 年 1 月 17 日 麻生教会主日礼拝説教 「信仰のすすめ」 ルカによる福音書20章41節~47節 久保哲哉牧師 1.神さまを知ることで得られる「夢」と「希望」と「慰め」と「支え」 先週の月曜・火曜で北海教区の年頭修養会にいってきました。前の週は幼稚園の研修が じんのうちたいぞう 続いていたために相当に疲れていましたが、今回の年頭修養会の講師は陣 内大蔵先生と いう元プロミュージシャンの方で、現在は東京の吉祥寺にある教会で牧師をされている方 でした。かつては少年隊などに曲を書いていたり、ご自身も音楽業界で相当に活躍された 方です。そのため、修養会は賛美コンサートがメインであったこと、家族を家に置いてき たためにゆっくり温泉につかることができ、心も体もリフレッシュすることができました。 大蔵先生の好きな讃美歌は520番「真実に清く生きたい」だそうで、指を鳴らしなが らジャズ調でみんなで歌ったりしました。きっとこの歌が好きという方もいらっしゃるか と思いますので、少しこの讃美歌520番の歌詞について紹介しましょう。歌詞はこのよ うになっています。 「真実に 清く生きたい、誠実な 友のために。恐れず 強くありたい、なすべきわざの ために。なすべきわざのために」。 いい歌詞です。この歌は真実で誠実に清く生きた主イエスのお姿を思い浮かべながら歌 うとよいでしょう。主なる神の御心に生き、愛する友のため、罪にまみれた弟子達を救う ために、なすべきわざ、十字架の道を恐れずに、強く雄々しく歩まれた主イエスを思い浮 かべ、今をいきるわたしたちもその主イエスを模範としてに歩むために、今も主が生きて 働いておられることに思いをはせながら歌うのが良いのでしょう。きっと、メロディも相 まって、教会の外でも受け入れられる歌の一つでしょうけれども、主キリストがどのよう な方であるかを知れば、この歌詞の深みが30倍、60倍、100倍になります。 主イエスは真実にいきました。清く生きました。誠実にいきました。そしてそのように 生きることを弟子たちに求めました。その様子は今日の律法学者ややもめを通したやりと りにも現れています。当時の律法学者全員がそうであったとは思いませんが、神に従えと 教えながら、やもめ(夫に先立たれた女性)を食い物にするような、言葉と行いが一致しな -1- い者ではなく、貧しかったにも関わらず、主なる神に生活費をささげたあのやもめのよう に真実に神に仕える生き方を弟子達に求めています。 それで、年頭修養会でのことですが、陣内先生の講演の中でキング牧師についてが触れ られていました。このキング牧師も神に仕え、隣人のために命を燃やした方であることを 思い起こします。偶然、僕も十勝川温泉へのバスの中で読んでいた本にキング牧師の演説 「わたしには夢がある(I Have a Dream)」があったので読んでいたのですが、キング牧師 は 1963 年、人種差別撤廃のためのワシントン大行進の際の演説で次のように語りました。 きっと皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。次のようにあります。 「絶望の谷間でもがくことをやめよう。友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわ れは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。(中略)それは、いつ の日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによっ て評価される国に住むという夢である。 (中略)私には夢がある。それは、いつの日か、 あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、 曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその 栄光を共に見ることになるという夢である。これがわれわれの希望である。」 最近、涙腺が緩いのですが、キング牧師の生涯を思い起こしているとバスの中で涙が出 ました。「でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の 栄光が啓示され~」というのはルカ福音書3章の引用なのですが、困難に直面しながらも 聖書に根ざした希望と主なる神への信頼が豊かに現れています。実生活レベルでの人種差 別は未だアメリカで根強く残っているため、現実は厳しいものですが、一応、キング牧師 の夢は現実のものとなりました。わたしたちはオバマ大統領の誕生などを目の当たりにし、 神の御業がゆっくりと、しかし確実に進んでいる現在を生きています。主イエスが今も生 きて働いておられることを肌で感じることができたから、感動したわけです。 学生の頃、この「わたしには夢がある(I Have a Dream)」を読んだときと、伝道師とし て読んだときと、今現在読んだときでは、その感動がまったく新しいものとされています。 なぜ違うのか。おそらく、日々の御言葉の養いにより、僕自身が人間の罪の現実と、その 罪を赦してくださった主イエスがどのようなお方であるかを知り、主が共に生きて働いて おられる現実をより深く捉えることができるようになったからなのでしょう。最近、明ら かに以前よりも聖書を1節よんでも、讃美歌のワンフレーズを思い浮かべたりするだけで も、元気がでたり、主なる神からの慰めと支えを得ることができるようになりました。毎 日御言葉と格闘する牧師の役得でしょう。主イエスの希望に触れ、これを信じる者は確か -2- に救われるのです。キリスト教は本当によい宗教です。 2.魔女の宅急便にみる「伝統を引き継ぐ者」と「伝統を引き継がない者」 その中で、前回、宮崎駿監督の「隣のトトロ」と「千と千尋の神隠し」から見る現代人 の問題点について触れました。神が隠された現代日本ではこれほどの美しい夢と希望を、 神の栄光を果たして語りうることができるだろうかと思わされています。 先週、いらっしゃらなかった方のために少しおさらいしますと、「隣のトトロ」の舞台 である昭和 30 年代、まだ家族の絆が深く、神や仏、見えないものに目を注ぐことができ ていた時代。その中で育まれる子どもが見るキラキラした世界の象徴としてのトトロ。 それに対して「千と千尋の神隠し」においては家族の絆が崩壊し、神が社会から隠され た中で育てられた子どもたちが見るおどろおどろしい世界が象徴されている。あくまで幼 稚園の研修会から発展させた僕の想像です。 かつては日本人の宗教観では「お天道様がみてる」の発想で、誠実に、真実にやってい れば、かならず良いことが帰ってくる。「情けは人のためならず」。愛の行いをするのは人 のため「だけ」ではない。他者に仕えることで、目には見えない力が働いて、かならずよ いことが自分にかえってくる。人は裏切ってもお天道様は裏切らないという信仰に生きた 人が多かった。これも立派な宗教です。親の愛と見えないものに目を注ぐ宗教心が日本人 の根底にあった時代はよかったのです。わたしたちは因果応報についてを信じていません が、「お天道様」ではなく、「神」が見ていてくださる。神が必ず報いてくださる。そして 今も傍らにいて、私を愛し、支え、導いて下さっている。親の愛と目には見えない存在か ら守られ、支えられているという安心感が子どもの成長を促していた。しかし、現代は親 の愛も、自分を愛してくれる神も仏をいなくなった時代。神や仏やお天道様が実は重要で あったことに社会が気付き始めています。今の状況が本当にまずいということが教育の現 場からひしひしと伝わってきます。 では、わたしたちはどうすればよいのか。平常運転 でよいのです。これまで通り、わたしたち自身も神の愛に生きたらよい。律法学者のよう にではなく、やもめのように生きたらよい。もっといえば、この信仰を人々に宣べ伝える とよい。 そしてこれは先週の祈祷会で触れてしまったのですが、同じ宮崎アニメの「魔 女の宅急便」というものをご存じでしょうか。 先週はあまりジブリの話しをするのはよくないと思い止めたのですが、やはり大切なこ とでした。この物語も今、見返すと、色々なテーマがあることに気付かされます。確認す るためにカラーのフィルムブックを買ってしまいましたけれども、この物語は主人公の魔 女見習いの少女キキが色々な葛藤を乗り越えて魔女として成長していく物語です。あれを -3- 見たときに気付かされること。それは彼女が「伝統を引き継ぐ子」として描かれていると いうことです。そのことを先週の研修会で教育学の教授が熱弁していました。 たとえば、物語の冒頭で彼女は魔女の古いしきたりで家を出ることになります。少女キ キは父親からラジオをもらい、母親からは伝統の魔女の衣装とほうきを受け継ぎます。魔 女の真っ黒な衣装について 13 歳の少女は「せめてコスモス色ならいいのに」とぼやきな がらも「昔から魔女の服はこうって決まっているのよ」とお母さん。その後にでる年配の 女性がそのキキの出で立ちを見たときに「本当にひいばあちゃんの言った通りだわ」と驚 いているのが面白い所です。 物語が進み、彼女が宅急便の仕事を始めると、ある依頼者の年配の女性と出会います。 この女性は孫にお手製のニシンのパイを届けることをキキに頼むのですが、電気オーブン が故障してまだ焼けていません。そのとき、キキは奥にある薪ストーブに気付いて、これ でパイを焼くことにします。「段取りがいいわね」「お母様の仕込みがよいのね」と感心す る年輩の女性。キキは目には見えない魔法の力を引き継ぐ子ですが、その他、生きていく ことに必要なすべてを引き継ぐ子として描かれています。 これを見たときに思い起こすこと。それは今を生きる私たちが父・母から何を受け継い できたかということです。今もそうですが、教会の中で「信仰の継承がうまくいかない」 と叫ばれたことがありました。しかしながら、思えば、信仰だけではないのです。文化的 なものすべてが親から子へ受け継がれていないのです。かつてはおせち料理など、各家庭 で作っていましたが、僕の親の時代には両親共働きでしたから、母親はおせちは作りませ んでした。もちろん僕はおせち料理など作れません。大切にはされていたことは確かです が「引き継ぐこと」をしませんでした。その結果、生きる力が失われているのが現代とい うことでしょう。かつては8人、9人を育てるのが普通であった家庭が、今や2~3人の 子どもを育てることに限界を感じています。強い人もいるでしょうが、確実に人は弱くな っています。 その中で魔女の宅急便のエンディングテーマ「優しさに包まれて」は次のように歌いま す。「小さい頃は 神様がいて 不思議に夢を かなえてくれた」二番は「毎日愛を 届 けてくれた」です。 わたしは「優しさに包まれている」「神の愛に包まれている」この世界はよい所だ。だ からどんな困難にも立ち向かっていくことができる。これが主なる神を信じる信仰者信じ ている世界でしょう。 それに対して神様がいない世界はどうか。人生は困難の連続である。人に情けをかけて も、裏切られることが多い。よいことなどかえってこない。正直者はバカを見る世界であ -4- る。神も仏もない。世界は不条理で満ちている。世界は自分を受け入れない悪い所である。 もうがんばるのはよそう。 極端な対比ですが、神様がいない世界を親の愛を受けずに育ったこどもはトトロのよう な大人には見えない幻想的な夢のある世界を見ることができずに、どろどろしたおどろお どろしい世界を見ている。日本から神が隠された結果、後者の人々が増えている。社会が ゆがんでいる。 かつて、今から 30 年ほど前にかのマザーテレサも日本の現状を垣間見たときに次のよ うに言いました。 「誰からも必要とされていないひどい恐れ、誰からも愛されていないというひどい貧しさ こそ、一切れのパンの飢えよりも、もっとひどい貧しさだと思います。人々はあまりに 物質的なことでいっぱいで、精神的なことを考えられなくなっているからです。沈黙し た心に神は語りかけられます。ですからまず祈ることです」 これは日本の家庭の崩壊現象について感想を求められた際に日本及び、裕福と言われる 国々に向けて発したマザーの言葉です。的を射ています。日本に本当の宗教を取り戻すべ きときが来ています。神を取り戻すときが来ています。教会が伝道をすることがこの日本 の社会を元気にすることがはっきりしました。それならばやることは一つでしょう。 愛に飢え、愛のなさに絶望している現代の人々に、十字架と復活の出来事を通してわた したちに愛を示してくださった主イエスを宣べ伝えることです。 ですから、主イエスがわたしたちに何を求めたか。紹介しましょう。主イエスは弟子た ちに言われました。20章46節です。 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨 拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」 ここには隣人の上に立とうとする律法学者の姿が示されています。 「長い衣」とは偉い人が着るものですから、自分の地位を他者に見せつけるため。挨拶「さ れる」というのも目上に見られたいということ。会堂で上席に座るというのは日本人の感 覚とは少し違いますが、やはり「見栄」、「立派に見られたい」という心が働いているので しょう。 ともかく、隣人の上に立とうとする心の卑しさがここで「人一倍厳しい裁きを受ける」 と言われます。子どもの上に立とうとする。友人の上に立とうとする。親の上に立とうと -5- する。神の上にたとうとする。あまり日本人の感覚ではないかもしれませんから、少し言 い換えましょう。マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言いました。自分を中心に考 えることを求める余りに子どもに無関心、友人に無関心、神に無関心。これも同じ罪「人 一倍厳しい裁きを受ける」対象となるのでしょう。 3.自分中心ではなく、神を中心に生きる そうではない。神を愛し、神に真実の祈りを捧げる心から自分中心ではなく、神中心。 神を愛し、隣人を愛する豊かな心が生まれます。「誰からも必要とされていないひどい恐 れ、誰からも愛されていないというひどい貧しさ」が「主なる神から必要とされている安 心感、主なる神から愛されているという聖なる力強さ」が生まれるのです。この力強さを もって愛と奉仕に生きるのがキリスト者の本当の姿ということでしょう。 主イエスはまことのメシアです。単なる王ではありません。神の右に座し、わたしたち を救う神の子です。聖書は言います。 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の 命を献げるために来たのである。(マルコ 10:45)」 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で 現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィ リピ 2:6-8)」 主イエスはその生涯の歩みを通して私たちに神に仕え、隣人に仕えることを教えてくだ さいました。険しい道です。しかし、人間にはできませんが、神にはできます。罪赦され たわたしたちには、聖霊を通して、洗礼の出来事を通してからし種ほどの信仰が与えられ たすべては可能です。主イエス・キリストの十字架と復活を信じる群れにはすべてが可能 です。 代々の聖徒を生かしてきた主キリストへの信仰を受け継いでいきましょう。正しく宣べ 伝えていきましょう。未だ洗礼を受けていない方、今迷いの中にある方は是非洗礼を受け ることをおすすめします。 ここに私たちを、そしてこの世界を救う信仰の道があるからです。 -6-
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