中国の経済発展と人口転換

『AJEC REPORT』Vol.51 (北陸環日本海経済交流促進協議会)
2010 年 7 月
中国の経済発展と人口転換
――無制限的労働供給の終焉にどう立ち向かうべきか――
厳善平(桃山学院大学経済学部)
1.問題の背景と本稿のねらい
中国経済は2008年10月のリーマン・ショックの影響を受け,一時的に成長率を下げたも
のの,09年の第3四半期からV字型の回復を見せ,いまは世界経済の牽引役を担う存在と
なっている。中国政府の力強い景気刺激策はいうまでもなく重要だが,深層に世界の工場
まで成長したモノづくりの底力が形成され,豊富で安価な労働力が供給され続けているこ
とがある。
ところが,今年の5月に入って中国の労働市場で地殻変動が起こったような出来事が報
じられている。日系の広州本田をはじめ多くの外資企業で,賃上げを求めてのストライキ
が多発し,操業停止に追い込まれた企業が少なくない。2~3割の大幅な賃金引き上げで
問題の解決ができたようだが,一層の賃上げ要求がないかと警戒する企業も多い。中央政
府は3月の全人代で,労働者など低所得層の収入増を底上げする方針を出し,09年に凍結
された最低賃金の引き上げを再開しているからである。
外資企業が集中し,労働需要が多い珠江デルタ,長江デルタでは,熟練労働者ばかりで
なく一般労働者も不足する状態が続き,それを根拠に,中国経済がすでにルイスの転換点
を超えたとする議論はマスメディアの関心を集めている。しかし,農業など第一次産業就
業者の総数が増え続け,過剰労働力の堆積で農業の生産性が向上せず,農家所得もそれで
伸び悩み,都市との格差拡大が留まっていない事実もある。また,毎年600万人超の新大卒
者の2,3割は,フリーターや派遣社員など非正規雇用での就業を強いられ,高い期待と
厳しい現実の落差に喪失感を抱く者が多い。労働市場における需給のミスマッチがそうし
た結果を生み出したことは否めないが,戸籍制度,雇用政策の抱える問題や矛盾も深く関
係している。
無制限的労働供給で支えられた中国経済の高度成長は今後も続くか。いまの労働市場の
基本構造をどう捉えればよいのか。労働制約が厳しさを増す中,中国の採るべき対策とは
何か。いずれも難しい設問であり,それへの答えは簡単に出せるわけではない。本稿はそ
うした難問への理解を深めるための基礎的作業として用意したものである。具体的に,ま
ず,ここ30年間の経済発展をもたらした要因として,物的投資の拡大,労働投入の増加,
人的資本の蓄積を取り上げて分析し,人口ボーナスと経済発展の関係を明らかにする。次
に,無制限的労働供給の終焉に向かう中国がいかにして経済の持続的成長を実現するかに
ついて考える。
2.経済成長とそのメカニズム
過去 30 年間の中国では,年平均 9.7%の高度成長が遂げられた。1人当たりの所得水準
で見るなら,中国は日本の 10 分の1以下であり,依然として発展途上国のままであるが,
国内総生産 GDP でみると,中国は 2010 年に日本を抜き世界 2 位の経済大国に浮上する見
1
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通しだ。輸出入総額は 09 年から世界第 2 位,外貨準備高は 06 年から世界1位と,多くの
経済指標で中国は世界のトップに躍り出る。世界一の人口を抱える途上国でありながら,
短い期間でこれだけの実績を挙げたのは経済史上前例のないことであろう。
中国経済はなぜ高度成長を達成できたか。ここでは,経済発展論の考えを援用し高度成
長のメカニズムを検討する。成長会計法は要素還元論に基づいた経済分析の手法として広
く知られる。この分析法では,経済成長をもたらす基本要素として資本,労働と土地があ
り,この三要素の投入増大に還元できない残差が総要素生産性(Total Factor Productivity,
TFP)と呼ばれる。TFP の中身は資本に体化された技術や労働者が学校教育で習得した知
識(人的資本)などを含むものであるとされる。
成長会計法の枠組みに沿って中国経済の成長要因を説明するなら,3つの側面からアプ
ローチすることができる。すなわち,①物的投資の拡大,②労働投入の増加,③総要素生
産性の向上,である。
まず、物的投資の拡大を確認する。物的投資は企業の固定資本投資,社会インフラ整備
などと多岐にわたるが,投資の原資は国内の貯蓄と外資で調達される。改革開放以降の中
国ではきわめて高い国内貯蓄率,中でも家計貯蓄率が統計で確認できる。
図1は国内総生産に占める固定資本形成の割合(投資率),および,固定資本形成の外資
割合を示すものである。1990 年代初めまでの 20 数年間において,投資率は 30%で推移し,
その後の十数年間は 34%,2000 年代以降はさらに上昇する傾向にある。高い投資率は新
たな生産能力の形成,拡大を可能にし,国内総生産の規模増大をもたらす。
注意しなければならないのは,高い投資率が高い家計貯蓄率によって支えられている事
実である。図2が示すように,改革開放の 30 年間に,都市,農村を問わず,家計貯蓄率
は急速に高まってきている。近年,それは日本の高度成長期に現れた 20%の家計貯蓄率を
上回っている。
図1 投資率および外資の役割
図2 中国の家計貯蓄率の推移
(%)
30
(%)
70
28.6 60
22.9 50
固定資本投
資に占める
外資のI割合
40
19.6 24.2 11.8 GDPに占め
る固定資本
投資割合
10
農村貯蓄率([純収入‐消費
支出]/純収入)
13.1 6.6 都市貯蓄率([可処分所得‐
消費支出]/可処分所得)
3.8 2.9 1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
0
(年) 出所)国家統計局『中国統計年鑑』(各年)より作成。
0
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
10
22.5 20
34.6 30
20
28.6 60.8 (年) 出所)国家統計局『中国統計年鑑』(各年)より作成。
外国企業の対中投資が高度成長をもたらしたという見方は教科書の通説のようだが,実
態を反映していない。民間企業の対中投資は確かに多く,技術とセットして投下された資
金の波及効果も大きいと評価すべきだが,中国国内の資本形成に占める外資の割合が最も
高い 1990 年代半ばでも 10%程度に留まり,改革開放の全期間を通算するとわずか3%し
かないという統計的事実があるからである。
2
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高い家計貯蓄率はなぜ表れたのか。主要な理由として以下の三点を挙げられよう。①高
い経済成長で収入が増えその一部は貯蓄に回された。改革開放の 30 年間に,国民の平均
収入は年率 7%で増え続け,実質で 8 倍も増大した。②1人っ子政策が施行された結果,
出生率が低下し 14 歳以下人口の割合が大きく下がった。少子化で子供の養育費も教育費
も少なく済むようになった。他方,65 歳以上の高齢者比率が低く介護,医療にかかる費用
も少ない。社会全体として収入が消費を上回る状態にある。③医療,年金等の社会保障制
度が十分に整備されておらず,貯蓄を増やし,病気や災害といった不測,老後に備えてい
こうとする人々の強い意識があり,それは結果的に貯蓄率を上げることになった。要する
に,この間の中国では,投資増→雇用増→収入増→貯蓄増→投資増という循環構造が形成
されたということである。
第2に,労働投入の増大が経済成長に寄与した。新中国成立後のベビーブームと 1970
年代以降の人口抑制政策が相乗しあった結果,中国は改革開放とほぼ同じ時期に莫大な人
口ボーナス(出生率の低下に伴う生産年齢人口割合の上昇が経済成長を促進すること)を享
受することができた。15 歳~64 歳の生産年齢人口は 1982 年に6億 2500 万人だったが,
2008 年に 9 億 6700 万人へと3億 4200 万人も増えた。2000 年代に入って 7 割超もの人は
生産年齢にある(図 3)。これは物的投資の拡大に必要な労働需要の増加を保証するものであ
った。
図3 年齢階層別の人口構成(2010年以降は予測値)
(%)
80
66.7
70
59.3
60
50
40.7
70.2
72.6
69.4
67.6
15-64歳
61.5
55.8
44.3
38.5
40
33.3
29.9
30
20
27.4
32.4
14歳以下
64歳以上
30.6
14歳以下
10
65歳以上
0
1950
1960
1970
1980
1990
2000
2010
2020
2030
2040 年
出所)国家統計局『中国統計年鑑』などより作成。
第3に,総要素生産性の向上も高度成長に大きく貢献した。ここでは,TFP を技術進歩
と人的資本の蓄積に分けて考えることとする。具体的にいうと,①外資企業の急増に伴い,
多くの優れた技術が資本と共に導入されていること,②中国科学院,農業科学院および大
学を中心に政府主導下の研究開発が進められ,産学連携も早い段階から実施されているこ
と,③後発国であるがゆえに,先進国で開発された多くの技術を短い期間,少ない費用で
吸収,消化していること,などである。
特に指摘したいのは学校教育の飛躍的発展で膨大な人的資本が形成されてきた事実であ
る。小中高学校の普及促進,大学教育とりわけ理系重視の学科設置,カリキュラム編成に
よって多くの産業労働者,技術者が養成されている。たとえば,中卒者の進学率が急上昇
し,07 年に 58.6%に達した。大学受験を主目的とする普通高校への進学率の上昇は,1990
年代の 2 割強から 08 年の 45%に上昇した。高卒者の大学進学率も 2000 年以降 70~80%を
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保っている。
図 4 は大学等高等教育を受ける在校生数および進学率の推移を示している。1990 年代
末までの中国では,大学等への進学は誰でもできることでなく,18 歳人口に占める進学者
の割合は,エリートの養成と大衆教育の分岐点とされる 15%ラインを大きく下回った。と
ころが,大学教育の産業化が開始された 97 年以降,募集定員が急増し,近年,各種大学
は毎年 600 万人超の新入生を迎えている。その結果,08 年には在校生が 2000 万人,入学
者の 18 歳人口比が 23%に上った。高等教育の大躍進とでもいうべき現象である。
社会全体の高学歴化が進むにつれ,労働市場における求職者の学歴構成にも急激な変化
が現れた。図5のように,新卒求職者に占める大卒者の割合は07年に24.4%に上昇し,職業
高校を含む高卒の求職者も顕著な上昇を見せた。また,成人の平均教育年数は1960年代初
めの5年から90年の6年へ,2005年には8年まで上がった。30歳代以下では9年つまり中卒レ
ベルの学校教育が達成されている。近代的産業の労働者としての素質を有し,工場で働く
ための潜在的能力を備える若者が大勢輩出されているのである。
図4 在校生数および進学率の推移
(万人)
(万人)
2400
25
大学本科・専科等の在校生数
20
2000
進学率(入学者の18歳人口比)
1800 1600 1400 1200 1600
15
図5 各種学歴新卒者数の推移
中卒求職者
高卒求職者
職業高校求職者
大学院修了者
大卒等求職者
1000 800 1200
600 400 10
800
200 0 5
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
(%)
400
(年) 0
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
0
(年)
出所)国家統計局『中国統計年鑑』、2000年人口センサスおよび教育部HPより作成。
出所)国家統計局『中国統計年鑑』(2008年版)より作成。
注)大学等新卒者は4年制の本科生と2-3年生の専科・高専生を含む。中卒求職者=中卒者普通高校と職業高校への進学者、高卒求職者=高卒者-大学等進学者、大卒等求職者=大
学等新卒者-大学院進学者。
もうひとつ強調したいのは,1980 年代を中心に,中国政府が先進各国に多くの国費留学
生を計画的に派遣したことの意義である。最先端の科学技術を吸収した留学生の多くは帰
国後,大学や科学院で教学,研究に携わり,先進国の経験,教訓を,教科書を通して若い
世代に伝授した。その結果,中国と世界の距離は非常に短い期間で縮まったのである。
要するに,この間の中国では,人口ボーナスが貯蓄,投資に変わり,それと結合した膨
大な生産年齢人口は,学校教育を通して自らの潜在的能力を高めた。カネ,ヒトと人的資
本が有機的に結合できたからこそ,世界の工場としての中国が成り立ったのであろう。
もちろん,それだけでは十分ではない。高度成長を開始する際の初期条件,政府の社会
に対する統治能力,中国を取り巻く国際環境もきわめて重要な条件であった。簡単にいう
と,三点が挙げられよう。
①毛沢東時代の重工業化戦略で改革開放の土台が築き上げたことは否定できない事実で
ある。途上国でありながら,工作機械を製造できる技術をもち,自動車,鉄鋼,化学など
生産財,中間財を生産する基盤が改革開放の初期から存在していた。近代的産業の受け皿
が中国経済にあったといってもよいのである。
②社会秩序を維持し,教育・研究開発等を推進する政府の能力が高い。中国は共産党に
よる専制の政治体制ではあるが,指導者の任期制導入,集団指導体制の確立,意思決定プ
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ロセスの科学化などで進化し続けている。共産党政権の本質を把握するにはその中身の変
化が見逃されてはならない。中国は,経済発展を最も優先に考え,そのために体制改革と
対外開放を進めるが,速すぎた変革で社会の安定が脅かされるような事態を未然に防ごう
としなければならないとしている。つまり,現政権は発展,改革と安定のバランスがとれ
るように政権運営を細心に行っているにすぎず,体制維持を目的化していないのである。
③改革開放以来,中国と隣国の間,あるいは中国の周辺地域でたいした紛争がなかった。
多大な外交努力の成果であろうが,世界の平和が中国に大きな利益をもたらしていること
は紛れもない事実である。言い換えれば,中国は世界平和の最大の受益者なのである。
3. 人口転換と労働制約への挑戦
1)圧縮された人口転換
高度成長を支えた人口ボーナスは今後どのように変化するのか。これは総人口およびそ
の年齢構成の推移と深く関係する。図6が新中国の人口転換を表すものであり,図7は2008
年の人口ピラミッドである。特徴的な点を列挙しよう。大躍進の失敗によった異常な人口
変動を除くと,中国では1950年代から70年代の初めにかけて高出生率・低死亡率・高人口
増加率という人口の急増期があった。その後,特に,1人っ子政策が採られ始めた79年以降,
人口増加率が急落し,近年は6‰程度の低水準で推移している。先進国の人口転換に比べ
て,中国のそれは明らかに圧縮されたプロセスであったといえる。
図7 中国の人口ピラミッド(2008年)
図6 中国の人口転換
(万人)
160000
(‰)
48
140000
40
出生率
総人口(左軸)
32
120000
100000
24
増加率
16
80000
8
60000
死亡率
0
1949
51
53
55
57
59
61
63
65
67
69
71
73
75
77
79
81
83
85
87
89
91
93
95
97
99
2001
2003
2005
2007
2009
40000
出所) 国家統計局 『中国統計年鑑』各年版より作成。
(年)
(歳)
91
85
79
73
67
61
55
49
43
37
31
25
19
13
7
1
1.2
男性
女性
0.8
0.4
0.0
(%)
0.4
0.8
1.2
出所) 国家統計局『全国人口和就業統計2009年』より作成。
厳しい出産制限政策は人口の年齢構成に大きな影響を与えている。途上国で見られがち
の人口ピラミッドは急速にその形を壺型,さらに吊鐘型へと変えていく。少子化が進む一
方,高齢者の全人口比も急上昇する。65歳以上人口の割合が7%に達す社会は高齢化社会,
14%以上だと高齢社会と呼ばれ,そして,7%から14%までの所要期間は高齢化の速度と
される。日本の高齢化速度は25年間ぐらいであり,西ヨーロッパの数十年または百年以上
の国よりはるかに速いものであったが,中国は日本よりも高齢化が速く進行すると予測さ
れる。
少子化,高齢化が急速に進むと労働市場における需給関係が変化し,賃金が上昇すると
いう企業経営にとっての環境悪化が予想される。つまり,無制限的な労働供給を背景とし
た買い手市場,低賃金が維持困難となり,労働力を確保するために賃金を引き上げなけれ
5
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ばならなくなる。それでは労働集約型産業の経営が厳しくなるだろうと容易に想像できる。
広東省の珠江デルタ等で2004年の春先に募集したい人員が満たされないという「民工荒」
が起きた。人手不足はその後内陸の都市部でも見られたりする。今年に入ってから外資企
業を中心に賃上げを求めての労働争議が多発し,優秀な労働力を安い賃金で幾らでも採用
できるという,つい最近まで当たり前だったことは難しくなりつつある。農村部には余剰
労働力が枯渇し,中国経済は全体として労働力の過剰から不足への転換点(ルイスの転換
点)を超えたのではないかとの見方も多い。
2) 制度の不備による人手不足
中国経済はルイスの転換点を通過したのか。答えはノーであろう。多くの議論はルイス
の転換点たるものへの理解が十分でない中で行われ,農業部門の限界労働生産性を計測し,
それを非農業部門の賃金水準と比べながら,ルイスの転換点を議論する手順すらないもの
がほとんどである。近年の中国で起きている人手不足,賃金上昇はおそらくルイスの転換
点と関係しない。
図8は人口センサスに基づいた18歳人口,定年を迎える人口,および両者の差の推移を示
し,同図より労働市場に新規参入する若者と辞めていく退職者の大まかな関係を見ること
ができる。2008年までの9年間に,新規参入者が退職者より1000万人位多く,雇用情勢が厳
しいことが続いた。09年から16年までの8年間に,両者はほぼ相殺するものの,年々1500
万人の若い労働力が補充される。労働需給の力関係は徐々に供給サイドに傾くが,絶対的
不足がもう少し先のことになるだろう。前出の図3からもわかるように,今後10~20年間
において,人口ボーナスに影響を及ぼす被扶養人口割合の上昇が限られ,生産年齢人口は
高い水準を保持し続ける。マクロ的にみると,労働供給は経済の高度成長を制約する可能
性が小さいということである。
図8 18歳人口数、退職者数の推移
(万人)
図9 年齢階層別暫住人口の滞留率(2000年~05年)
218
(%)
250
3000
2500
200
500
73
73
61
74
93
109
102
138
86
100
1000
103
150
1500
121
2000
50
0
0
-500
18歳人口
退職者数
出所) 2000年人口センサスに基づいて作成。
注) 退職者数は55歳の女性、60歳の男性の合計である。
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
(歳)
2006
2005
2004
2003
2001
2000
2002
純増求職者
-1000
(年)
出所) 2000年人口センサス、2005年1%人口抽出調査より筆者作成。
注) 2000年人口センサスの公表資料では暫住人口の年齢分布が公表されていない。ここで
は、2000年の暫住人口の年齢分布が2005年調査のそれと同じであると仮定した上、年齢階
層別の人数を推定し、さらに滞留率を算出した。
人手不足をもたらした本当の要因はなんであろうか。農業・農村・農民という三農の政
策転換で,農家の農業収入が増え,出稼ぎの魅力が色褪せていることも指摘されるが,戸
籍制度をはじめ,都市移住,職業選択,給与,社会福祉等で農民工に対する不当な制限,
あるいは制度的差別が多く,働く者としての基本権利が保障されずにいた。体力が強く手
先も器用な間はよいが,それが衰えると働く場がなくなるというような使い捨て型の雇用
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慣行が一般的だった。
図9が示すように,30歳代に入ってから,多くの農民工は労働市場で働き続けることが
できなくなっている。たとえば,30歳代前半,後半,および40歳代前半のうち,2000年か
らの5年間で,それぞれ14%,26%,39%の人が出稼ぎ労働市場から退出してしまい,そ
の総数はおよそ1500万人にも上る。もしこの人達が正規雇用で入社し,働く中で様々なス
キルを身に付けていれば,労働力としての価値は十分持てるはずだ。
その意味において,働き盛りの人々の速すぎた退場は,雇用制度の欠陥に起因した結果
であり,一部の人手不足は頭数の労働力でなく,必要な訓練を受けた熟練労働者の不足で
しかない。いわば,熟練の形成・蓄積が不足しているのである。そうだとすれば,既存の
雇用制度・慣行を見直し,あるいは,公共機関による労働訓練を強化すれば,より多くの
農民工が長く勤められ,また,一旦辞めた人も仕事に復帰できよう。こうして,見かけの
人手不足が緩和されることになる。
3)賃金上昇の社会経済的背景
今年の5月に全国各地で最低賃金の大幅な引き上げが行われた。広東省の珠江デルタで
は月給千元を超すところが増え,上海市でも1120元となった。上海市の最低賃金が01年に
490元だったことを考えれば,引き上げの速度がいかに速かったかがわかる。
ところが,最低賃金で労働者を確保することは近年きわめて難しい。筆者が珠江デルタ
で行った企業調査では,2008年の平均月給が1500元超,09年には1800元超,また,09年の
上海調査では2300元超となった。1995年以来の上海市では農民工の平均月給は名目で4倍
強となり,物価指数で実質化したものも3倍強の増加であった。農民工の給与が90年代以来
実質的に上っていないという通説はあるが,それはどうやら初任給に当てはまる話のよう
だ。09年の上海調査によれば,上海市に来て最初就いた仕事の給与は90年代末まで顕著な
上昇を見せなかったのである。
農民工の賃金がこのように上ってきた背景に都市労働市場の賃金が全体として大きく上
昇したことがある。図10,図11は正規雇用の「職工」の給与を産業別に見たものであり,
それぞれの相対水準および実質賃金の変化を示している。1997年を境に実質賃金の上昇が
速まったこと,電気・ガス・水道のような独占的業種の実質賃金が全体平均より遥かに高
い伸びを見せる一方,製造業,建設業等の伸びが比較的遅いことは一目瞭然だ。その結果,
全体平均を100とした産業別の相対賃金が異なる態様を呈する。農民工が主に働く製造業,
建設業,第3次産業の相対賃金は下がる一途を辿っている。これは労働市場における供給
過剰が存在し,ルイスの転換点がその先にあることを強く示唆するものといえる。
比較的高い教育を受けた新生世代の農民工は親の世代と異なり,都市部に移動し,定住
する指向を強くもつ。いつか帰郷する前提での出稼ぎでは安い給与でもよいと思われたが,
都市民と同じように将来の人生設計をする今の若者にしてみれば,昔ながらの低賃金では
やっていられない思いが理解できる。
もっというと,この頃の賃上げは以前低く抑えられ過ぎた賃金水準への反動を含んでい
る。農民工の労働者としての基本権利,あるいは国民としての移住,職業選択の自由を認
めなかった時代の,抑制された低賃金はもはや限界に達してしまったとみてよい。急成長
を続ける現代の都市社会にあって,休日がほとんどなく1日十数時間働いても千元余りの
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『AJEC REPORT』Vol.51 (北陸環日本海経済交流促進協議会)
2010 年 7 月
月給しかもらえず,尊厳ある人間生活も送れない事態が許されないようになったのである。
図10 業種別平均賃金の推移(全体=100)
(元/人・年)
220
図11 産業別実質賃金の推移
(1978年都市消費者物価を100とした指数)
8000
全体
200
第1次産業
7000
金融・保険業
製造業
180
電力・ガス・水道
6000
建設業
160
交通・電信
140
電力・ガス・水道
120
交通・電信
不動産業
5000
建設業
3817
不動産業
製造業
80
商業・サービス業
交通・電信
5815
不動産業
5377
全体
5182
製造業
4289
4000
3000
100
電気ガス水道
6951
一次産業
2298
2000
建設業
1000
60
第1次産業
40
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
2010
0
(年)
(年)
出所) 『中国統計年鑑』各年より作成。
4.むすび
改革開放時代の中国では,好調な経済成長が実現された。背景に資本,労働および人的
資本 (教育)のいずれも急増したことがある。1人っ子政策で少子化が進み,総人口に占め
る14歳以下年少人口の割合が急減した一方,65歳以上高齢人口の増加が限定的だった。そ
の結果,生産年齢人口の総数が増え対全人口比も上った。また,社会全体として収入が消
費を上回り,所得の多くを貯蓄に回す余裕ができている。高い貯蓄率で高い投資率が維持
され,物的投資の累積によった潜在的生産能力が増大し続けた。さらに,少子化の中,家
計も社会も子供の学校教育により多くの資金を投入でき,平均的教育年数の伸長に反映さ
れる人的資本の蓄積も未曾有の勢いで膨れ上がった。
近い将来の中国経済がどうなるのか。総人口およびその年齢構成の推移から見れば,高
度成長を支えた人口ボーナスは少なくとも10年以上存続しよう。高い貯蓄率,大規模な労
働供給,そして,人的資本の蓄積が多いに期待できそうだからである。
農民工を中心とする一般労働者の平均月給は今後5年間でいまの倍以上(名目の年伸び
率が14%),つまり3,4千元(5万円)に上昇しよう。中国政府の所得倍増計画(2010年3
月の全人代)はそれを後押しするだけでなく,農民工の権利意識の向上も賃上げの加速に拍
車をかける。それでも,日本の賃金水準を考えれば,企業は十分な競争力を維持できるだ
ろう。より重要なのは,労働者の所得増で消費需要が拡大し,持続的な経済成長が需要サ
イドからの支持で実現可能になるということである。外資を含むすべての企業は,安い人
件費を目当てに成長戦略を練るのでなく,拡大しつつある巨大な中国マーケットに如何に
食い込んでいくかに,経営努力の方向を転換させていくべきであろう。
人口転換は圧縮された形で進んではいるが,高度成長がそれで終息することはない。
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