川奈野 一信

「サルウンクル(沙流アイヌ)として」川奈野一信
サルウンクル(沙流川アイヌ)として
7 月 31 日(月)13:00∼14:30 札幌会場
講師
川奈野 一信
平取町二風谷アイヌ語教室運営委員長
皆さんこんにちは。私は今日初めてこうした公の場で
皮が何の薬で、あの草は何の薬になるということをよく
話をします。これまでこういう場で話をするということ
知っていて、野草とか木の皮を煎じて父親に飲ませたそ
は考えたこともありませんでした。事務局の阿部君から
うです。それでも父親は力尽きて私が6歳の年の4月に
セミナーで話をしてもらいたいと言われた時に、私は純
亡くなりました。そのため父親の思い出が私にはほとん
粋なアイヌであってもアイヌ語を話すことはできない、
どありません。当時住んでいた家は、今、牛や馬、犬が
そういう者が話をしても皆さんの役に立つはずがないと
入っている小屋の方がよっぽど立派だと思えるようなも
断りました。ところが阿部君はアイヌ語ができなくても、
のでした。よくあんな家に住んでいたものだ、あれでは
アイヌであるがゆえにあった苦労話や、萱野先生との関
体を壊さない方がおかしいと今にして思います。
わりとか、これまで体験したいろいろなことを話しても
それからがまた大変です。私が小学校へ上る前に父親
らえればいいということだったので、引き受けることに
が亡くなったので、母親が働かなければ食べられないの
しました。
です。孫ばあさんは当時 50 代だったと思うのですが元気
私は昭和9年生まれの 72 歳です。歳は馬に与えるほど
で母親と一緒に出面取りに出ていました。お昼には2つ
食っていますが、すらすら話せるアイヌ語はほとんどあ
下の弟と一緒に、これをこうして食べれよと言って出か
りません。子供の頃、小学校が終わるくらいまで孫ばあ
けていったのです。たぶん子供だから言われたとおりに
さんと一緒に暮らしていて、その孫ばあさんが他所のば
していたと思います。その頃、近所の裕福な家に私より
あさんやじいさんと話をする時、ほとんどアイヌ語で話
一つ年下の友達がいて、その家は両親も揃っていて生活
していたので、多少のアイヌ語は聞いて分かるのですが、
も楽な家だったのです。日川定吉さんという人の家なの
自分で話すことはできません。皆さん、期待して来てい
ですが、とてもいい人で、友達のところに行っている時
るかと思いますが、アイヌ語ができないことだけは前も
に、いろいろなおいしいものを食べさせてもらいました。
って申し上げておきたいと思います。どうかお許し願い
その友達とは今でも兄弟のように仲良くしています。
小学校の時、高橋邦夫さんという同級生がいたのです
ます。
私の父親は小学校の時に読み書きが達者だったので、
が、この人の親は仙台から来た人で、当時なぜかこの家
小学校卒業後、地元の有力酒店の遠藤商店に丁稚奉公に
だけが米を作っていたのです。私の家ではジャガイモと
入ったそうです。その遠藤商店は簡易郵便局も兼ねてい
かカボチャ、ヒエ、アワ、イナキビといったものが主食
たため、読み書きのできる父親は店員と郵便配達員の2
だったのですが、ある時誘われて高橋さんのところへ行
つの仕事を兼ねてやらされたそうです。郵便の配達は、
って米の飯を食べさせてもらいました。その時、初めて
15 キロも 20 キロもある山坂を徒歩あるいは自転車でし
米の飯を食べて、こんなにおいしいものがあるのかと思
たそうです。そういう仕事を続け、やがて大人になり、
った忘れられない思い出があります。
結婚して私と弟の2人が生まれたのです。すると遠藤商
小学校の4年生くらいになると、家の前にあるちょっ
店の店主は「お前はまじめに頑張ってきたから土地をや
とした野菜畑の草取りや山へ行って薪を拾ってくること
る。そこへ行って農業に力をいれて独立しろ。」と言って、
ぐらいできるようになります。草取りも大人並は無理で
土地をくれたそうです。
も、その半分くらいはできたのではないかと思います。
そうして、私が2歳くらいの時に、その土地を開墾す
その頃になると「お前も草取り出面に行ってこい」と言
るため大木や雑草の生い茂る中へ入植したのです。そし
われて出面取りに出るようになりました。そうして、畑
て、木を切り、根を掘ってと、土地を開墾するため一生
に出ると 100 メートル、200 メートルという長さの大豆
懸命頑張ったのですが、店にいた時に貰っていた給料が
畑や小豆畑の草取りをするのですが、子供なので当然大
なくなったため、食べるのにも困るというような大変な
人についていけない。すると一緒に草取りをしているお
目に遭ったようです。お金がない、食べるものもない、
ばさん方は、自分が遅れた分を手伝って取ってくれる。
お風呂もないという状況で、飲み水は、今ならそんな生
そして、また追いついて、というように草取りの出面に
水を飲んだら体を壊すと言われるような、近くの小沢の
出て母親を助けたという思い出があります。この時の出
水を利用して生活していたそうです。そうして頑張った
面賃は2升のトウキビです。乾燥させて固くなったトウ
のですが、私が4歳ぐらいの時に父親は体調を崩してし
キビ2升を子供は出面賃がわりに貰うのです。
まいます。しかし、お金がなかったので医者には行けま
その場しのぎの生活をしていたので家に帰っても、そ
せんでした。孫ばあさんは昔のアイヌなので、どの木の
の晩に食べるものもありません。そこで、帰るとすぐに
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出面賃としてもらったトウキビからその晩に食べる分だ
時には一応卒業したよということで卒業者名簿に名前が
けを出して、臼に入れて、アイヌ語で「イユタ」と言う
掲載されました。
昭和 30 年頃だったと思うのですが、上田の父さんは、
のですが、杵でトウキビを搗いて晩に食べる用意をして
いました。そこへ帰ってきた母親から「偉いなぁ」と褒
このままでは食っていけないから、農家をやろうという
めてもらうのがうれしかった思い出になっています。
ことで開拓団に申し込みました。そして、ペナコリの家
から 30 キロくらい山に入った上貫気別というところに、
自分が 11 歳の時に母親は新潟から働きに来ていた上
田という人と再婚しました。この人はすごく優しくて、
15、6 町歩の土地を貰ったのです。今度はその土地の開
自分たち兄弟をかわいがってくれました。それからは同
墾をしなければならないのです。両親は下の弟2人はま
じ貧乏でも母親がいる、父親がいるという生活が始まっ
だ小さくて連れていくと仕事にならないので、体の弱か
たのです。
った4番目の弟を連れて、3番目の弟は俺に預けて朝暗
上田の父さんには、きちんと教えないで亡くなってし
いうちから、金輪馬車を引いた馬で 30 キロの山道を片道
まったので、今でも分からないのですが、札幌や小樽に
2時間も3時間もかけて通っていました。自分は3番目
親戚がいたらしいのです。それで何回か札幌や小樽に出
の弟を自転車に乗せて後から行っていました。当時、な
かけていたようです。自分が6年生の冬に札幌に出かけ
んであんなに自転車が高かったのかと思うのですが、確
た父さんは、お土産にスキーを買ってきてくれました。
か 12,000 円でした。この自転車は、前の年に支笏湖の方
金持ちの子供でもスキーを持っていない時代に、貧乏人
へ働きに行って1年かけて残した 12,000 円のお金で買
の子供がスキーに乗るものだから、皆から「お前どうし
ったものでした。
たんだ」というような感じで言われたことを覚えていま
自分も開墾の仕事を手伝っていました。皆さんは想像
す。今、毎日のように血を分けた自分の子を虐待したと
もつかないと思いますが、大きな木が生えていて、雑草
か、殺したというニュースが流されるのを見ると自分は
の自然のままというところを開墾していくのですから、
幸せだったなぁと思います。その父さんと母親との間に
半端ではなく大変な仕事で本当にひどいものでした。そ
は2人の男の子供が生まれ、男4人の兄弟になりました。
の頃、上田の父さんは炭窯をつくり、切り倒した大木を
母親が再婚した時に、川奈野の父さんがかわいそうだと
焼いて、それを業者に売って生活するための収入源とし
いうことで、自分とすぐ下の弟の姓は上田に変えないで、
ていました。そして5、6年かけて何とか開墾が終わり
川奈野のままにしたそうです。そのため、先に生まれた
やれやれという時に、上田の父さんは癌になり、1年ほ
2人は川奈野、後の2人は上田の姓を名乗っているので
ど患って昭和 47 年に亡くなりました。今は、体の弱かっ
すが、兄弟仲良くやっています。
た一番下の弟が農業の後を継いでいます。平取といえば
中学校の1年の秋くらいだったと思うのですが、母親
トマト、トマトといえば平取、というぐらい平取はトマ
が母方のじいさんから「いい旦那を迎えたけれど、まだ
トの生産が盛んなのですが、弟もトマトのハウス 23 棟を
食べるための土地がないから、1町歩の土地をやるから
持って、大きな規模で農業の経営をしています。
下がってこい」と言われ、それまで住んでいた長知内か
少し話が戻るのですが、長知内にいた小学校の頃、当
ら5,6キロ下流にあるペナコリという小さな集落に親
時、どこの沢にでも1軒や2軒、炭焼きをしている人が
子ともども移ることになりました。父さんは貰った土地
いました。この炭焼きの人たちは一つの沢に3年か5年
に山から切ってきた丸太を使って掘っ立て小屋を建てま
の間住んで、木を切り尽くすと、また違う沢へ移動して
した。壁板だけは近くの製材所で安く買った規格外の板
いくのです。そういう人たちの子供も学校に来ていまし
を使ったのですが、それ以外に製材したものは使ってい
た。当時、小学生くらいだと寝小便をすることも珍しい
ませんでした。そのため軒下や、壁板にあいた節穴から
ことではなく、不潔で体も臭かったのですが、これはア
雪や風が入ってくるような家だったのですが、父親も母
イヌも和人も同じでした。冬になるとみんなストーブの
親もいていい生活だと思っていました。
周りに集まるのですが、そうした子供が火の前で暖まる
中学生の頃、親も一生懸命働くのですが、それでも生
と小便臭いにおいが漂うのです。それまで、地元の子供
活が大変だったので、自分もできるだけ手伝おうと思っ
や和人から差別されたことはなかったのですが、ある時
て、農家の手伝いに行ったりしていました。そのため中
ストーブの前で、どこの馬の骨か分からない炭焼きのと
学校には満足に行けなくて、卒業証書を貰うことができ
ころから来ている奴から「お前、小便垂れてるな、臭い
ませんでした。これまで学校で 80 周年記念、100 周年記
な、そっちへ行け」と押されたのです。どう見てもそい
念の行事があったのですが、生まれ育った地元の学校の
つも小便を垂れていることが分かるので「お前だって、
ことなので、仲間たちも当然卒業しているのだと思い、
小便垂れてるべ、このやろう」と、喧嘩になった時、「こ
自分を 80 周年記念行事の実行委員会に入れようとする
のアイヌ!」とか何とかバカにされたことがあり、なお
のですが、卒業者名簿に自分の名前は載っていないので
さらアイヌ語を覚えようという気になれませんでした。
す。名簿に名前が載っていないのに何で手伝わなければ
自分が 15 歳くらいの頃、働く場所というと、ほとんど
ならないんだという話をその時にしました。100 周年の
が木材関係、泊り込みで行かなければならない山の仕事
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です。その頃、いくら出面賃を貰ったのか記憶はありま
がりを持つようになったのです。そして、萱野先生が「お
せんが、何ヶ月も山の中で仕事をしました。切り出され
い、今度本州のどこどこでこんなことをするから一緒に
た丸太を王子製紙や木工所へ運ぶため山にトラックが上
行かないか」と言って誘ってくれるようになったのです。
ってきて、そのトラックに積み込む仕事があるのですが、
そういうことで大阪の国立民族学博物館へは2度行って
その時、仕事の分からない者はロープ引きを専門にやら
います。民博では、萱野先生がユカ ラ を語る時に、レ プ
されます。冬はものすごく寒いので、手が凍れて手の平
ニという拍子棒で拍子をとりながら、ヘッチェという合
が真っ白になってしまいます。今の子供たちは何かする
の手を入れる役を自分がやりました。その他、山形の東
と、大人の言うことを聞かなかったり、逆らったりしま
北芸術工科大学へも行ったことがあります。そこへはア
すが、その頃、大人の言うこと、目上の人の言うことは
イヌ料理の材料を持って行って料理を作って、大学生や
絶対で、怒られると思うものだから、そんな状態でもロ
先生方に料理を食べてもらいました。その時は女の人も
ープ引きの仕事をしたものです。何回もそういう経験を
含め 20 人くらいの人数で行って、踊りも見てもらいまし
しました。
た。自分はアイヌ語を話せませんが、アイヌの血がそう
大人に揉まれて一人前の働き手になっていくのですが、
その後、馬で働いた方がお金になるということから、貧
するのか、アイヌの歌、ヤイサマをアイヌの人が歌いだ
すとじっとしていられなくなるのです。自然と体が動き
乏人だったのですが何とか馬を手に入れ、馬を使って山
出し、一番先に出て踊りを楽しむタイプなのです。また、
で働きました。自分は 24 歳で結婚して子供も生まれまし
三重県の松浦武四郎記念館で「武四郎まつり」が年に1
た。しかし、せっかく結婚して母さんがいて子供もいる
回開かれているのですが、ここにも貝澤耕一さんに誘わ
ようになったのに、家にいることができないのでは意味
れて行ってきました。ここでは村おさの役を仰せつかっ
がないと考え始めたのです。そこで、山の仕事から帰っ
て、アイヌの着物を着て、脚絆を着けて踊ってきました。
た時に「おい、辛い目にあうけど、少しの間、勘弁して
一昨年は東京のNHKホールで開かれた「地域伝統芸能
くれ、俺は自動車の免許をとりに行く、そして帰ったら
まつり」に出て、民博の時と同じように萱野先生のユカ
運転の仕事をする、そうしたら、家からも通えるのでは
ラ にヘッチェを入れることと保存会の人たちと一緒に踊
ないか」と母さんに言って、苫小牧へ免許を取りに行っ
りを披露してきました。
たのです。そうして免許をとって運転の仕事をはじめま
今まで、本州から北海道へ来て、ヒッチハイクで北海
した。
道を周っている女の子を 10 人くらい家に泊めたことが
今、ダンプと平ボテという丸太を運ぶ車の2台のトラ
あります。リュックを背負った女の子が家の前を通ると
ックを持っています。現在 72 歳ですが、自分ではダンプ
「どこから来たんだ」と声をかけて、いろいろ話をして
を走らせ、平ボテの方は3番目の息子が乗っています。
「だったら家の泊まって行け」と言って泊めてあげたの
貧乏人の子だくさんとはよく言ったものだと思いますが、
です。そういうふうに泊めてあげた人たちも、今は、大
自分には男の子4人、女の子2人の子供がいます。その
学生が社会人になったり、30 歳を越えたり、嫁さんにな
うち3番目の息子が俺と同じことをやりたいというので、
ったりしています。そういう人たちと今でも出入りがあ
大きなトラック2台を持ってやっています。皆さん 70
って、「今度、東京に行くことになった」とか「今度、大
歳を越して運転してあぶなくないかと言われますが、そ
阪に行くことになった」と連絡すると、みんな迎えに来
んなことを言うことができるのは一部の人であって、自
てくれて北海道のお父さん、お母さんと言っていろいろ
分のような貧乏人はそんなこと言っていられないんだと
案内してくれます。いろいろなところに行って、そうい
いう考えで今もやっています。
う人たちと会えるのも萱野先生のお陰だと、今でも感謝
今度は、アイヌ文化との関わりということで話をした
しています。
いと思います。自分がアイヌのことと関わるようになっ
アイヌ語教室の運営委員長になるきっかけも萱野先生
たのは昭和 45 年に北海道ウタリ協会平取支部の理事に
です。先生から「おい、お前やってくれ」と言われ、「い
なった時からということになります。この理事は現在も
や、俺はアイヌだけど、アイヌ語を知らない。俺が委員
引き続きやっています。この他、平取町アイヌ文化保存
長になるとみんなに迷惑をかけるから、遠慮します。」と
会の副会長と平取町二風谷アイヌ語教室の運営委員長、
断ったのです。すると「誰かがやらなければ前へ進まな
アイヌ語の分からない委員長なのですが、いろいろな人
い、アイヌ語教室を無くすことはできないんだ。委員長
たちのお世話になりながらやっています。
も同じ目的で勉強するのだから、別にアイヌ語をべらべ
自分はウタリ協会に入ったお陰で子供たちを学校に行
らしゃべれるようになってくれというわけではない。」と
かせられたことなど、いろいろな恩恵を受けてきました。
言われたのです。そこで、お世話になっている萱野先生
そのためウタリ協会を粗末にしてはならないと考え、ウ
がそこまで言うならと引き受けることにしたのが去年の
タリ協会の行事にはよっぽどのことがない限り出るよう
4月1日からです。萱野先生が後ろ盾でいるという考え
にしています。そういうふうにいろいろな行事に出てい
もあって委員長を引き受けたのですが、それから1年ち
るうちに、5月6日に亡くなられた萱野先生と深いつな
ょっとで萱野先生が亡くなってしまい、この先どうした
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らいいかと思うのですが、受講している人たちが一生懸
い加減なことを言って、息子を呼びつけたのです。呼び
命やっているので、ここで自分がさじを投げたら萱野先
つけられた息子は見たことのないお姉ちゃんを見て「は
生に申し訳ないし、同じ仲間である受講生の皆さんにも
っ」と思ったと言っていました。萱野先生は自分に見合
申しわけないという思いで現在も続けています。
いしろと言うのかなと思ったけれども、仕事先の鉄工所
アイヌの風習のことをアイヌプリというのですが、子
から来ているから、油だらけの長いつなぎを着て、油だ
供のころ近所の人が亡くなるとアイヌプリの葬式があり
らけの帽子を被っていて、出合いがこんな・・と思った
ました。お寺のお坊さんを頼まないでアイヌの中で雄弁
ようです。そこで2人を会わせたら、それからもう1カ
な有力者がカムイノミをして送るのです。小さい時に面
月おきくらいに何回もお姉ちゃんがうちに来るようにな
倒を見てもらったばあさんが亡くなった時もアイヌプリ
って、ああ、これは脈あるなと、親ながらに思っていま
で送ってもらいました。
した。そして、ついにうちの嫁さんになって、現在は6
歳になる女の子と4歳になる男の子の2人の孫ができま
昔は薪ストーブを使っていました。もっと昔は囲炉裏
した。
でしが、ここにいる火の神様に、亡くなったばあさんや
先祖におししい食べ物やお酒を届けてもらうのです。当
結婚前、向こうから来るばかりだったので、大阪の八
時は焼酎しかありませんでしたが、焼酎をチッカすると
尾にいる父さん、母さんのところへ息子を行かせたとこ
いって、ストーブの扉を開けるか、ストーブの中からお
ろ、父さんの方が会えないと言うのです。その時、母親
きを少し出して焼酎の滴を火にたらすことをしていまし
というのはすごいと思ったのですが、母さんが「父さん、
た。その時本来はイクパスイ、捧酒箸というものを使う
あんたね、いくら逃げたって、かよちゃんはもう北海道
のですが、無ければ箸でもいいからそれを使って火に2、
にしか頭ないの」と言うと、「いや、そうか。なぜ遠い北
3滴たらすと先祖のところにはたくさんの量になって届
海道まで嫁にやらなければならないんだ」と言ったそう
くといことをばあさんに教わりました。
です。一人娘なので、これは大変なことになったと思っ
萱野先生との関わりをもう少し話します。もう5、6
たそうです。結婚すること決まり、自分も親として挨拶
年前の話ですが、うちの長男の嫁さんは大阪の八尾市か
に行った時、最初に「自分は反対したのではないよ。北
ら来た人です。北海道が好きで、大学を出て2、3年し
海道は、ちょっと遠過ぎる。行ったり来たりをどうしよ
てから何回かに分けて、一人で北海道の隅から隅まで旅
うと思うと、それが大変で逃げ腰でした」ということを
行したようです。6回目か7回目に北海道に来た時、萱
言われました。今は、孫見たさに1年に2、3回は来て
野先生の話を聞いて二風谷にある萱野茂二風谷アイヌ資
います。そして「北海道でよかった。北海道には2時間
料館に寄ったらしいのです。資料館の前には、2つに割
もあったら来ることができる。こんなに近いのに、なぜ
れた石をくっつけて置いてあるのですが、この石は 20
自分はあの時そう思ったんだ。」と言うのです。この父さ
キロ以上も離れた別々な場所で見つけられたものなので
んの実家は愛媛県の八幡浜市にあるのですが、1度来て
す。石屋さんが、2つを持ってきて並べてみると割れ方
くださいと言われていて、今年の春、家内と息子家族と
が同じでどうも一つになるようだということで、石屋さ
もども6人で行ってきました。うちの息子は高校しか出
んはその石を萱野先生に提供したそうです。その石に萱
ていないのですが、嫁さんは大学を出て教員の資格も持
野先生は「縁結びの石」という名前をつけたのです。そ
っていて、立派なご両親を持っています。我々の家なん
して旅行者が来ると「そこに寄って、水をかけて、手を
か太刀打ちできないのですが、その親たちも今は、我々
合わせて帰る人がいっぱいいる。だから、これに手を合
がアイヌだとかということにこだわらず、おつき合いさ
わせて人には縁がつくんだよ」と若い人たちによく言っ
せてもらっているという話であります。これも萱野先生
ていたそうです。
がいたからできた話です。
うちの嫁さんも、そこで手を合わせていたそうです。
次は、上田トシ、実の母親のことについてお話します。
その様子を資料館の入口で椅子に座って見ていた萱野先
母は上田の父さんが亡くなった後、64、5 歳くらいの時
生は、その拝み方を見て本物だと思ったそうです。そし
から、農家の仕事を弟に任せ萱野先生とアイヌ語のこと
て、「お姉ちゃん、お姉ちゃん、ちょっと来な」と呼び止
をやるようになりました。母は小さい時から大人になっ
めて、わざと「お姉ちゃん、学生かい」と聞くと、「いや、
ても、いい加減になるまで昔のばあさんやじいさんと暮
社会人です」と答えたそうです。その時うちの嫁さんは、
らしていたので、自分でアイヌ語を話せなくても、頭の
一人で車に乗って来ていたものですから、「どうだい、お
中には残っていて、萱野先生にいろいろ聞かれているう
姉ちゃん、北海道で嫁さんになる気ないかい」と言った
ちに、次から次へと言葉が浮かんできたそうです。母と
ら、「いい人いたらいいですよ」と簡単に答えたそうです。
同じように萱野先生と一緒にアイヌ語を残した木村キミ
それで萱野先生は、うちに 40 歳になる息子いて、嫁さん
という母の姉がいたのですが、その姉のところに通って
がいなくて悩んでいることを知っているものだから、息
いろいろ話を聞いていたようです。そのキミばあさんが
子の働いている鉄工所の社長に電話をして、直してもら
亡くなった後、姉から受け継いだ分もアイヌ語を伝えよ
いたいものがあるからちょっと若いのを貸してくれとい
うと頑張りました。
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ついこの間、1周忌の法要が終わったのですが、生前、
ても、何件か旅費が出るものもありますが、ほとんどの
母は「萱野先生のお陰でいい思いをいっぱいした。苦労
ウタリ協会の集まりでは一銭にもならないのです。その
もあったけど、本当に良かった。」とよく言っていました。
ため、春の役員交代の時期に「誰か今度交代してくれ」
そして「子供たちのお陰だ、もちろん萱野先生のお陰だ
と言うのですが、「いや、お前の真似は誰もできない、続
けど、お前たちがアイヌが恥ずかしいといえばためらっ
けてやってくれ」と言われ、40 年近く理事をやっていま
ていたと」とも言っていました。アイヌのことをやろう
す。結構大変ですが、萱野先生に出会えて、いろいろな
とすると、子供たちが恥ずかしいと感じて反対する場合
思い出ができ、息子には嫁さんがきて、母も萱野先生の
がよくあるのですが、うちに限ってはそんなことはあり
お陰で世に出て、上田トシと言うとアイヌに関心を持っ
ませんでした。ばあさんの楽しみの一つであり、やって
ている人には知られる名前になったということを考える
当然のことと兄弟全員が考えていたのです。93 歳で亡く
と、ウタリ協会でいろいろやってきたことで、自分には
なりましたが、亡くなる5、6年前まで、大阪だ名古屋
次から次へといいことがあったのです。
だ、北海道内では函館だ釧路だと本当にあちこちに行っ
今、全国で市町村合併が進められています。財政の問
てアイヌ語を話す機会を貰ってしゃべってきたのです。
題があるのでしょうが、無理やり進められているように
あの年代のばあさんで飛行機に何回も乗ってあちこち行
思います。我々の日高支庁管内でも合併によって、管内
って、ということができた人は余りいないのではないか
7町のうち2つが日高町、新ひだか町と日高町という2
と思います。これは本当に萱野先生のお陰であったと思
つの日高町ができました。こうした合併によってアイヌ
います。
語地名が徐々に消されているのです。静内町と三石町が
合併して新ひだか町になったのですが、静内は「シベチ
自分は長男なのですが、弟に母を預け、長年別々に暮
らしてきたこともあって、母が一昨年の3月に入院して
ャリ」というアイヌ語に由来した地名です。日高町は我々
から昨年7月に亡くなるまでの約1年半、ほとんど1日
の平取町の両隣の旧日高町と門別町が平取町を飛ばして
も欠かさず病院に顔を見に行きました。その病院はうち
合併した飛び地合併なのですが、門別という地名も「モ
から車で 2、30 分の距離なのですが、医者や看護婦や周
ペッ」からきています。旧日高町はもともと「ウシャッ
りの人から、これは誰でもできることではないと言われ
プ」というアイヌ語に由来した右左府村という地名だっ
ました。よく「感心ね、川奈野さんは毎晩来るね」と言
たのが、60 年くらい前にこのアイヌ地名を消して「日高」
われるので、「ばあさんは歳いってるから、しゃべる相手
と地名を変えたのです。そういうこともあって「日高」
がいなかったら、頭おかしくなったり、しゃべる言葉を
の方が残ったのかとも思います。合併の名のもとにアイ
忘れたりしたら大変だから、いろいろなできごとを1日
ヌ語地名が消されていくということは、アイヌが侮辱さ
の報告に毎晩来るんだ」と言っていました。病院へ行く
れているのではないかと感じています。こういう話を聞
時に2、3百円くらいで買える母の好きなものを持って
いたと皆さんもどこかで言ってもらえればと思います。
いくと「ああ、うまい、うまい、病院のものより、この
そろそろ時間になりました。まだまだ、話し足りない
くらいですがこの辺で終わりにしたいと思います。
方がうまいな」と言って食べながら、いろいろな昔の話
皆さん、どうも長い時間ありがとうございました。
も聞かせてもらいました。
(拍手)
亡くなる前の日も病院へ行くと「何か今日調子悪いん
だ、だから、買ってきたものは持って帰れ、暑くて傷ん
でしまうから」と言われ持ち帰ることにしました。母の
様子がおかしいので病室を出て、弟に「ばあさん変だぞ、
お前らトマトで大変なのはわかるけれども、トマト捨て
ても明日来なかったら大変なことになるかもしれない
よ」と電話で話して病室に戻ると、それが夜の 9 時で病
院を閉める時間帯だったものだから、母は「もう病院閉
まる時間だよ、兄貴」と言うので、「うん、わかった」と
言って病院を出ました。
その帰りに弟に電話で「今日はだめだけれども、明日
の朝早く来なかったらだめだよ」と言いました。そして
弟が来た時には意識がなくて、そのまま帰らぬ人になっ
てしまいました。
自分は荷負で何十戸かあるウタリの中で理事を 40 年
近くやっています。理事の仕事でパンフレットを会員に
配布したりといろいろ仕事はあるのですが、これには一
銭の給料も出ません。何か行事があってそれに出たとし
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