全体概要

青函圏交流・連携推進会議「青函圏フォーラム」の概要
○日
時:平成24年12月13日(木)14:30~
○会
場:ウェディングプラザアラスカ
○講演者:第1部
<第1部
基調講演
B1階「サファイア」
レストランバスクオーナーシェフ
深谷 宏治氏
基調講演会>
僕みたいな人間にこういう場が回ってきたのは、バル街とか料理学会とか、そういう
ものを料理人でありながらやってきた、なぜこういうバル街、料理学会、カレンダーを
作ってきたか話をすることで、多少なりともヒントになると思った。
まず、私がなぜ今、全国 200 カ所以上とも言われているバル街をやったか、さらに
は世界料理学会をやったか、背景を話したい。
(生い立ち~渡欧時代)
私は 1947 年、函館山の麓、今の末広町に生まれ、高校を卒業するまでそこにいた。
大学は、東京理科大学工学部を卒業し、大学の助手を2年間やり、その後、うちの親父
はカンカンに怒ったが、「もういい、お前、好きなことをやれ」と言われ、食べること
が好きだったのでこの道に入った。
25 歳の時、今だと大卒コックさんはいないわけじゃないが、当時はほとんどいなか
った。いたとしても文化系。理科系の人間はほとんどいない。丁稚奉公という言葉は古
いかもしれないが、この道に入った。
なぜ洋食かというと、函館に五島軒という店があり、その店が函館の地に根付いてい
る。私自身も小さい頃からよく行っていたので、自然に洋食を目指した。東京のレスト
ランに何とか勤めたところ、どうも違う、どうも論理的じゃない料理を作っている。
例えば、だしを取る時に綺麗に掃除された白い骨を、毎日、火を入れては火をとめ、
また次の日に火を入れて3日やっても真っ白いまま。骨を割って中の骨髄を溶け出させ
なければダメなのに、それもしない、ステーキを焼く時には最後に醤油をちょっとたら
す、箸を使って料理を作る、どうも納得がいかない。やっぱり、自分が洋食に取り組ん
だ以上は、ちゃんと自分の料理を説明できるようにならなきゃだめと考え、料理人にな
って1年過ぎくらいから、洋食の源流であるフランス、もしくはヨーロッパに行かなき
ゃだめだと、そういう決意で行きました。
2年くらいやった時に、浅草のプリンスという店だったが、そこの店でシェフに、
「こ
れからヨーロッパに行って、本当の料理を勉強してきます」と言ったところ、その人は
呆然とした顔で、まず第1に「お前は日本司厨士協会にも入れない小僧だ。今、日本司
厨士協会でヨーロッパに推薦して行ける人間は年間5人。その5人も半年したら日本に
帰って来なければダメだ。お前、何か伝手があるのか。」
「まあ野垂れ死にするがいいだ
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ろう。まあ、行け、行け」と。塩をまかれるような感じでその店を辞めて、横浜から船
に乗り、津軽海峡を通って、ロシア経由で、片道切符でヨーロッパに渡った。
目的はフランス。パリに着き、一生懸命努力をすれば何とかなると。レストランの裏
の戸をトントン叩いて、
「金はいらないから住む所と食べる物さえあれば私は働きます」
としゃべりながらいろんな店を回った。全部、ドアをパタンと閉められます。
一番初めは張り切っていた人間も、何回も同じように断られると、やっぱりダメだと。
それで次に、今度はレストランで食べる。食べて、褒めて、調理場まで連れて行っても
らう。調理場でもフランス料理を一生懸命褒める。褒めて、その時に初めて自分はこう
だと言い始める。そうすると、必ずそこから笑ってくれる。そういうふうに十何軒かや
り、-全部ダメ。
次にヒッチハイクをした。どこに行くが目的ではなく、ヒッチハイクで知り合い、そ
の運転手の知り合い、その人の同情をかい、どの食堂でもいいから入れるかと思って、
回った。
途中まではだいたいうまくいく。
「じゃあ、コーヒーを飲みに家に来ないか」とか「あ
そこのカフェでちょっと俺が電話してやるよ」とか。10 人中6人くらいまでは話がく
る。ところが、友達に電話をしても「その日本人は労働許可証を持っているのか」と、
「いや、持ってないんだ」と言うとそこで話はプッツリ切れる。それをずっと野宿をし
ながらやってきた。
日本を発つ時、山登りをする時に使ったキスリングという黄色いリュックサックに春
から冬まで一式の着物を持ちながらヒッチハイクをしながら自分の仕事を求めた。3日
に1回ぐらいは天気さえ良ければ野宿をする、すごく不安な時だったが、何とかなるだ
ろうと思った。
(バスク地方にて)
「なかなか思うようにはいかないな」と思っている時に、たまたまスペインのサンセ
バスチャン、バスク地方に行った時に泊まったホテル、そこに晩飯を食って帰ってきて、
カウンター越しにそこの経営者と話をして、いつもどおり、自分はこうしたいと話をし
た。そうしたら彼女が「このサンセバスチャンには小イカのスキニーというスペシャリ
ティーの料理がある」といった。イカの墨煮。
僕は函館生まれだったので、同じイカを使った料理で塩辛という料理があると話をし
た。そうしたら、彼女が「食べたい」というし、僕も「それなら作ってやるよ」と安請
け合いをした。ああ、失敗したと思ったが、一応約束は約束と思ったので、朝起きて市
場に買い物に行ってきた。それで、マダムに「調理場はどこですか」と聞いたら、「あ
んた、何なの?」と言うから、「いや、昨日約束をしたので、それを作るから」と言っ
たら「エッ」という感じになりまして、残念ながらイカがヤリイカだったので、ホロが
小さくて塩辛はできませんでした。僕自身、イカの塩辛を作ったことがなかった。ただ、
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自分のお袋が作っているのを横目で見ていたので、鮮度のいいイカのホロさえあれば、
塩を入れて食えば何とかなるだろうということだけは知っていた。
それで、その人に、「実を言うと、函館のイカと違うので残念だけどできない」と話
したところ、彼女は大変感激して、「その場で、この店でもいいが、スペインの3大シ
ェフであるルイスというコックさんがいるから、そこに行きなさい。今、これからすぐ
に電話をして、私が保証人になるから」と言われた。
ルイスのフルーツレーリーというレストランに行き、このルイスのもとで3年弱働く
ことができた。
本当にその時はホッとした。仕事がなくて、自分は片道切符で来たしノコノコと帰れ
ない。シェフに啖呵を切ってきた。もうどうしようもない。本当に崖っぷちに立ったよ
うで、どうしていいか分からない。
考えてみれば、もっと効率なことがあったと思う、手紙を書くとか。でも、全然そう
いったことは頭になかった。何とかしてルイスに出会った時には本当にホッとした。
ルイスのもとで3年間修行をした。私自身は2つの柱を覚えた。1つは料理、これは
当たり前。当時は僕達が料理を作っていると厨房から生きた兎、生きた鴨、もう死んで
いるが毛皮のついた鹿とか猪、子牛、そういうものがドーンと運ばれてきて、「さあ、
これを3日後に出してくれ」とか、レストランで、買ったものは全部ばらして、それで
料理を作る、初めて兎を殺す時、鴨を殺す時、ショックでした。でも、彼らは当たり前
としてやっている。
考えてみれば、当たり前のこと。僕らが肉や野菜、魚を食べたりしていますが、当然、
地球に住んでいる生物であり太陽の恵みを受けて育って、人間の口に入るようになるま
でやって、それを誰かが殺している、枯らしている。そしてエネルギーコストも含めて
無駄にならないようにする。当たり前のことだったが、日本ではそういうのがなかった。
その料理にあった時に分かった。日本で味わえなかった料理に出会えたと思い、初めは
ビクビクだったが、途中からは兎だったら兎を脳しんとうを起こして首から包丁を入れ
て血を採って、心臓を動かして血を絞って、その血でもってソースにしたりとか、そう
いうのを嬉々としてやるようになった。
料理は、ルイスに「お前、日本に帰ったらちゃんとしたレストランをやれ。お前は3
年間、ちゃんとここで勉強をしたんだから、変な料理を作るなよ。日本人の考えている
スペイン料理とかフランス料理、洋食みたいなのに勝手に作り替えてやっているみたい
だが、それはやめてくれ。
」と言いました。
具体的に言うと、僕が春に行った時にこういうことがあった。日本料理という看板が
出ていて、行くと、前の方に笹が立っていて、琴の音楽が流れている。ガラガラと入る
と、浴衣をだらしなく着たアジア人の女の子が「いらっしゃいませ」と言ってきて、そ
れで座る。そこにすき焼き、天ぷら、いわゆる日本の代表的な料理が並んで、注文をす
ると、何だこれはというものが出てくる。これは日本料理じゃない、日本の食文化をバ
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カにしている。
僕達がそう思うようなことをルイスは感じていた。日本で、スペイン料理というと、
日本人の考えるスペイン、ちょっと穴蔵っぽいところで、壁にはホタテの貝殻を埋め込
む。そしてフラメンコとか闘牛のポスターが貼ってあり、そして音楽はフラメンコ。出
てくる料理は家庭料理が出てくる。でも、皆、分からないし、日本人の考えているスペ
インのイメージどおりだと、何となく納得してしまう。そういうレストランばっかし東
京に何軒かあった。僕も日本に帰ってきてから、これはひどいよなと思うところに2軒
出会いましたね。そういうことをルイスは言ったと思います。
(日本での開業時代)
帰ってきて東京の最高の生ハムを買いに行った時も、これはスペイン人は絶対怒る生
ハムを売っていた。それで自分で商売をやった時には生ハムを作り、パンを作り、アン
チョビーを作り、ソーセージを作り、畑を作り、時にはチーズを作った。チーズはいい
ものはできなかったので、ダメなものは全部やめ、ちゃんとした料理として提供できる
ものに対しては店で出す。そういう店を 32 年前からやった。
よく来るお客さんは「ここの店はフランス料理の店ですか」という。「こんな店は他
にない」とよく言われる。テーブルにはクロスが敷いてあり、ナイフとフォークが並ん
でいる。皆さんのイメージのスペイン料理は、先ほど言った油、バルローの変形したみ
たいなもの。そこは違うと思って、自分の店を始める時からクロスを敷いた。それは当
たり前のスペイン。それを函館でやったつもり。
もう1つは、ルイスと仕事をしている時に、よく昼休みに、「宏治、ちょっと来い」
と言って行くと、そこにコックさん達が集まっている。何をしているかと思うと、「今
日はキノコの話をする」という。コックさん達が座っていて、かなりいい加減で、ヤジ
は飛ぶし面白おかしくしゃべるが、例えば椎茸があったとする。そうすると、そこにい
るコックさん達が「おうおう、椎茸なら俺だったらこうやって料理をするぞ」とか、
「俺
だったらこうやって料理をする」とか、自分の料理を勝手に言い始める。当時、日本の
東京では、「料理は盗め、自分で考える、教えてもらいたかったら教えてもらうための
何かがあるだろう」という時代。殴られることもなかったが、教えてくれと言ってもま
ず教えてもらえなかった。せいぜい、夜に焼き鳥を買ってきて、先輩に、「食べて下さ
い」って言って、
「昼に、あそこはどうやったんですか」って聞くと、
「おう、おう、あ
れはね」と教えてくれる。そういうやり方でした。
そういう時代に修行をしてきた人間にとって、コックさん同士が自分の料理の作り方
を堂々としゃべったり、
「いや、イワシはこうやった方がもっとおいしいよ」とか、
「あ
そこよりどこどこで獲れる鰯の方がおいしい」とか、全部自分で思っているニュース、
知識をしゃべる。ルイスに聞きくと「俺達はね、バスク人なんだ」。バスク人は独立し
たいと、そういう希望がありました。「ある人は政治的にやるんでもいい。ある人間は
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暴力的でもいい。料理人は料理で俺達はマドリードに対抗する。俺達は1人の力では弱
いけれども、バスク人のコックさんが皆で連携をするんだ。そうすると、バスク人全体
の料理がレベルアップし、そうなるとバスクというのはおいしい街、おいしい国になる。
おいしいものを食べたければマドリードから来なければダメなように俺達は力を蓄え
ている。そのために料理人はスクラムを組み、皆の技術を向上しあっている」と。
いや、これはすごいと思った。政治家は政治で独立を、いろんな自分の立場で独立を
するための何か目的をもったものに進むということはすごいことだと思いました。料理
人もここでこれをやっているのか。でも、その時は、何かバスク人は我が街は世界一、
そういうことを考えるタイプの人間ですので、それも話半分くらいかなと思っていた。
今から 35~36 年前に日本に帰ってきた。自分で店をやったのは 32 年前。それか
ら3年くらいしてから、毎年春にバカンスをとりまして、長い時で1ヶ月半、短い時に
は1ヶ月くらい全部店を休み、バスクに戻って、昔一緒に働いたコックさん、それから
ルイスのところに行って、この1年間でどう変わった、2年間でどういう状況に変わっ
たという話を聞きながらきた。その間にルイスがいろいろ教えてくれた。「この1年間
はこうだった、俺達はこれからこういうことをやろうと思っているんだ。」なるほど、
すごいなと思いながらも半信半疑だった。でも、行くたびに何か変わってきている気が
する、街全体。
だんだんやっているうちに、顕著に現れてきたのが、ミシュランという本があり、僕
がいるころは星付きの店が1軒しかなかったが、だんだん増えて、4~5年前に、人口
18 万の街、周囲を入れて 40 万の街だが、ミシュランの三つ星が3軒、二つ星が2軒、
一つ星が4軒。そういう星の付く店ができて、その星の数を数えてそれを人口で割ると、
世界一ではないかもしれないが、かなり密度の濃い街だと気がついた。
そして、ピンチョーという言葉がこの街から出て、世界中でピンチョーという言葉が
普通の言葉になった。人口 18 万の街、そこから出た言葉が世界を制覇した。そしてソ
シエダという言葉、前からあったものが日本のテレビで美食クラブという名前で面白半
分によく流される。そして、今度は世界料理学会というのを始めて、それに世界中の人
達が参加してくるようなすごいイベントになった。そして、ついに去年は料理大学とい
うものを創った。
この本が今年の7月に出ました。何を言っているかというと、料理人が美食世界一の
街を創ったと書いてある。これを僕がルイスと仕事をした時に、料理を習うだけじゃな
く、何回も言われた。
ちょっと戻るが、皆でワイワイガヤガヤやっている時にルイスに話をすると、「私は
こうやってバスク地方をスペインで一番の美食の街にするんだ」
、その時にルイスに「何
でそこまでするの?」と聞いたら、彼はニヤッと笑って、「これが俺達料理人のネゴシ
オなんだよ」。日本語に直すと、自分達のやるべきこと、やれること、料理人にできる
こと、そういうような言葉。
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僕はルイスからそう言われた時に、心が広い、よくできるなと感心して、自分がそう
いうことはできるとは思いませんでした。自分は料理をやらなければと思った。
日本に帰ってきて、バカンスを利用しながらスペインに戻った。それで、こういうよ
うな街になって、この会場に来ていた奥さんでも「どこの街のどこのレストランに行き
たい?」というと、
「やっぱりそれはバスク地方のサンセバスチャンに行きたい」とか、
「バスク地方の旧市街地のキンチョスを食べてみたいですね」、
「バスク地方のブーガリ
クスというレストランに食べに行ってみたいですね」とか、そういう言葉があった。今
はさらにノダビッチョを卒業した人が北欧とかアメリカとかに行っていて、もしくはイ
タリアに戻ってそれと同じような料理をやりながら次の波が来ている。でも、その波を
創ってきた1つがこのバスク地方のサンセバスチャン。
(スペイン料理フォーラムなどの取組)
僕自身、そういう教訓を覚えながら函館に帰ってきてレストランをやってます。ある
程度店が安定して、次に自分は何をすべきか。料理屋はやっていた。その時に初めてル
イスに言われたネゴシオという言葉が頭の中に出てくる。スペインに戻るたびに、彼が
やっているのを見る。「すごいな」と言うと、ルイスは「お前だって料理人だろ。お前
だってやればいい。どうやってやるかお前は知っているだろう」と言われて、ついに
2004 年にスペイン料理フォーラムというものをやった。
2000 年には本を創った。これは 2004 年に創りました。
まず自分は何をやったかというと、1人ではできない、サンセバスチャンで見てきた
が、まずいろんな料理人が集まって勉強をするのがまず大事。函館の街を良くしたい、
料理人でもっとさらに上を目指したいというコックさん達に声を掛けて、1998 年に
クラブガストロノミーバリアドスというものを立ち上げた。同業異種の会。ですからフ
ランス料理、イタリア料理、パン屋さん、肉屋さん、養豚屋さん、いろんな方が入った。
同業異種、食に携わるプロの会を始めた。そして毎月1回、夜、仕事が終わってから集
まり、店で普段出せない料理でもいいから、こういうのを出したいというものを出して
皆に見せる。店を周りながら、毎月1回、交替でやりながら食べて飲んで、情報交換を
しながら勉強会をする。そこに、小麦粉というと日清製粉の人、水というと函館の水道
局の人に来てもらって、まず身の回りのいろんな食材、そういうものを提供しようとい
うことで勉強した。
そして 2005 年にスペイン料理フォーラム in HAKODATE をやった。
東京でやっているレストランが、ルイスから言わせるとおかしいようなレストランし
かない。それでスペイン料理が認められない。それに対して、なぜそうなのかを2日間
で、東京の有名なコックさん、フレンチの鎌田さん、中華料理のカンさん、イタリアの
山田さん、さらには日本中のスペイン料理に携わっているコックさん、18 人くらい。
それからスペインからコックさんを呼び、いろんな企画を作った。
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真夜中のフラメンコ。日本のフラメンコは皆、芸術家で音楽を聴くようにフラメンコ
を見ている。これは違う。本当のフラメンコは真夜中。夜中の 12 時からガンガン騒ぐ、
金森ホールを貸してもらった。それからスペインワインの講習会、音楽、料理講習会、
パーティ-、いろんなのをやった。
(バル街の取組)
スペインの食文化のバル街、バル文化、これを何とかできないかと思い1つのシステ
ムを作った。それがバル街の第1回目。夜、街角で知らない人同士が情報交換をしてい
る。例えば、「この場所はどこにあるか」「おいしいところ、どこかないですか」とか、
「どこかでこういうのをやっていませんか」とか、そういうのを話した。券になってい
るマップ、これがあることで、皆さんが、夜中でも平気で、皆共通のものを持っている。
バル街は始めに 3,500 円で5枚つづりのチケットを買ってもらい、一緒にマップが
付く。チケット1枚を持っていき、契約しているレストランとかパブとかお蕎麦屋さん
とかお寿司屋さんに行くと、そこでまたキッチョス、簡単なおつまみですね、あと飲み
物が出てきます。食べて飲んで、次の店にまた行く。そしてまた同じようなことをして、
チケット5枚つづりだと5軒、2冊買って 10 枚持っている方は 10 軒行ける。そうい
うことをやった。
一番の楽しみはコミュニケーション。知らない人同士が、ちょっとお酒が入って歩い
ている。ちょっとほろ酔いの気持ちになる。そして相席になる。そうすると、皆、仲間
だから、「どこかいいところないですか」とか「この場所に行きたいんですけれども」、
というような話をして何だかしらないけれども楽しい晩になった。この日ばかりは皆さ
ん、本当にいい人、ニコニコしていて。
その結果、チケットは1ヶ月前に販売。今回は 4,500 枚くらい前売りで出し、2週
間で売り切れ。そうなったら、プラチナカード。当日券は昼の1時半から売り出すとい
うと、前々回は朝の6時から並びました。前回は朝の9時くらいからチケット売り場の
ところでザワザワ、
椅子に腰掛けて待っている状況。チケット消化率は 98%~99.5%。
驚異的な数。普通、1割は来ない、だから1割チケットを多く出しても成り立つという
言葉があるが、バル街は一切当てはまりません。ここに来る方は、ほとんどの方がリピ
ーター、来ている方々は「何でこんなに面白いんだろう」と、僕のところに来て、「深
谷さん、このノウハウを教えて下さい」「ああ、いいですよ」と言って教えることによ
って、その人達が、例えば大阪なら大阪、愛知なら愛知、岡崎なら岡崎でやる。そうす
ると、周辺の人達が岡崎の人からやり方を聞いて、自分達でやるというふうに、孫、ひ
孫、やしゃ孫、その孫までいっています。
たまたま僕もこの間、小野田市に行き講演をした。講演後、2次会に行った時に、あ
る人が来て、
「いい人が来たから皆さんに紹介をしますよ」と、紹介をした時に、
「函館
の深谷さんです」と。彼は「深谷さん、すいません、実はバル街をやっている。深谷さ
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んに全然連絡しなくて、どうもすいませんでした。」って。もう日本全国では 200 カ
所以上になっているのではないか。そういうようなものがつながってきます。
これも、ルイスが言った「お前、日本に帰ったらちゃんとしたレストランを創れよ」
と同時に、「料理人は料理人のやるべきことがあるじゃなか、対社会に対して」という
ことの、僕のルイスに対する返事でした。
(世界料理学会の取組)
さらには、次にやったのは世界料理学会。一番初めは、皆さん、生ハムを食べたがっ
て来たが、今はどうか。食べたいではなく、僕との会話。この生ハムを切っている時は
皆、僕達に声を掛けていく。これは何かというと、自分達もバル街に入っている人々の
仲間ですということを言っている。皆がニコニコしている。そうですよね、ただで食べ
られるし、横にはワインが置いてあって、ワインも飲めるので、大変気分がいいところ
で、行列がズラーっと並びます。驚異的な現象。
いいのは、このバル街というのは、行政のお金を使わなくてもうまくコントロールで
きるようにやっているので、1つのイベントモデルになっている。補助金を使うと補助
金を打ち切られたと同時にそれが成り立たなくなるようなイベントが多い中、補助金を
使わないので、やろうと思えば永遠に続けられる。行政の人は「深谷さん、何かあった
ら言って下さい」と。実は、朝一番の電車を借り切るのは、もちろんお金は払いますが
市の電車を使わせてもらったり、市の水道局の場所を使わせてもらいながら市の人と一
緒にやっている。ただ、助成金は使ってない。
次にやったのは、2009 年世界料理学会。今年の4月に第3回目をやった。3回目
で来る人数が跳ね上がり、バル街でやったのと同じような感じになってきた。来年は第
4回目をやるが、このまま、料理学会が進んでいくとどうなるか。ひょっとすると、料
理学会 HAKODATE をやっている時には東京のレストランに有名なコックさんはいな
くなるかもしれない。
今回来たコックさん達。昨日、実は弘前でイベントがあり、「いやあ、あの料理学会
は面白かったな」
「来年もまたやりますから、来て下さいよ」と言ったら、
「行く、行く」
と、だんだん人数が増えていく、そういう学会になると思います。学会というと、皆さ
ん「料理人の学会?」と笑うかもしれませんが、実際問題、来た方は「こんな学会らし
い学会、見たことない」って言ってくれます。
(カレンダー)
これは私と同じように、日本らしくやっていこうと、そのためには何が必要かという
と料理人のエネルギー。料理人が料理に対する情熱、地域に対する情熱、そういうもの
があればできるのではないか。それがこういうような形になっているのではないかと思
ってます。
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そして、そのために、成立するための資金集めとしてカレンダーを作った。料理人の
カレンダー。函館の食材を1月~12 月まで、旬の素材を1つずつ担当して、今までの
食べ方ではなくて新しい食べ方を提供する。それを1ページごとに載せています。
今年のカレンダーの表紙です。函館の魚市場がバック。
右の方に写真があるが、コックさんが1つずつ自分の、例えば函館のイカだと、刺身
じゃなくて違う食べ方を提供し、そして函館の8月だというと、貝の写真が載り、ここ
に来るとこの料理が食べれますというカレンダーです。
初め、このカレンダーを作ると言った時に、印刷会社の社長は「止めろ。カレンダー
を売ろうとするのは絶対に止めろ。カレンダーというのは年を越すと売れなくなるもの
だから、絶対赤字になる。さらには、写真が必要だからお金が掛かるので絶対止めろ」
と言われた。でも僕は強引にやった。一番初めの年は 2,000 部でトントン。2年目か
らは 2,500 部、2,900 部となり、今年は 4,200 部。お陰様で、ここから出てくる黒
字の額、それは料理学会のベースになる。そういうことをやることによって、自分達で
資金集めをし、自分達で企画をし、やっていく。これを料理に対する、函館に対する、
もしくは日本に対する愛情の集まりじゃないかと考えています。
(料理、函館、日本に対する愛情)
こうやって見てきた時に成果はどうか。僕がヨーロッパ、スペインで学んできた、そ
してルイスから話を聞くと、「俺達はマドリードにレストランをつくるんじゃない。俺
達は自分がレベルアップして、おいしいものを食べに来なければダメなようにするん
だ。」彼はそう言った。そして、
「宏治、見てみろ。サンセバスチャンを軸にして、この
40 ㎞の範囲で円を描く。そうするとフランスの国境が入る。そうすると、ここにはフ
ォアグラのいいやつがある。バッファローのいいやつは・・・」、彼はそう言った。あ
まり聞いたことのないどこどこのレタスは、ここから 20 何㎞にある。グリーンピース
はこの周辺。何、ピーマンってどこにもあるじゃないかと思っていた。でも、彼らがそ
れを徹底して、農家の人に作らせた。肉屋さんには、肉の復元を図る。魚は、今まで獲
っていた魚をより大事に獲るため、例えば網で獲ったやつを1本釣りにするようにコッ
クさんが言っていって、最高の食材を自分達が使えるようにしていく。すごいもんだな
と思いましたね。
そういう目で見ると、函館にしても、渡島圏内にしても、青森圏内にしても、多分
20 年前にはあったものが、野菜ですとF1とかF2とかありますが、F1のもっと効
率の良くて皆が食べたいようなものに置き換えられることによって、ほとんどもう作っ
ていない野菜、そういうものがいっぱいあるんじゃないか。魚介類でいうと、獲れる量
が少ないから、もうこれは市場に出してもダメだと。自分達が獲って食べているだけ、
そういうものがあります。
スペインでは、ルイス達は何をしたかというと、それを掘り起こし、それを料理人が
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作る。例えばイソギンチャク。これを真面目に食べる方向に持っていっちゃう。
考えてみれば、青森は有名なフジツボとかあるし、それだけ大きいものではないにし
ても、もう出ているもの、これは渡島圏も青森圏もそうではないか。そういうものを掘
り起こし、例えばある材料だったら、これはみずみずしいがちょっと苦みがあるという
ことによって、おいしくないというカテゴリーに入ってもう作られなくなったもの。そ
れから、これは1本の木から、10 個取れるということで、5個しか取れないものは止
めたとか。昔風に言うと在来種、そういうのもあったと思う。
これからの時代は、そういうものを掘り起こすと同時に、料理人がその結果をどうや
って補っていくか。それが料理人に課せられた仕事かもしれない。もしくは、それを掘
り起こすためのつなぎを創ることが行政の仕事かもしれない。さらには、それを保存す
ることによっておいしくなるならば、保存をうまくやる道具を作るのはまた別の流通業
者かもしれない。そういうように料理人だけじゃなく、いろんな方々がいろんな技術を
持つことによってやることはいっぱいあるんじゃないか。
(米「松前」)
ここに松前という米があります。1970 年代に渡島で作っていた冷害に強い米で多
収穫米。普通の米の大体 1.4 倍採れる。米の粒がちょっと大きい。冷害に強くていっ
ぱい採れる。ところが白いご飯で炊くとおいしくない。ボソボソしちゃう。特に冷える
と「こんなの食えるか」と。それで、この松前という米は全然作らなくなった。
僕達は一昨年、一番初めに 300 粒、原生種を残している国の機関、茨木にあるが、
そこに頼み 300 粒を 8,000 円で買い、農家の方に頼んで増やして、今年 1.5 トンま
でにした。「白いご飯で食べたらおいしくないが、粒が大きいといった時に、料理人な
らどう考える?」となる。それならば、出汁をいっぱい吸うことによって、そういうよ
うなものに使えるんじゃないか。パサパサ感があれば、パサパサ感を活かせる料理があ
るじゃないか。例えばチャーハン。僕だったらリゾット、ちょっとくらい芯が残ってい
てもいいんだと考えた。
そうしたら、弘前の六花酒造、じょっぱりというお酒をつくっているところが、「是
非これを使わせてくれ」ということで、700 キロくらいを弘前の方に送り、お酒を仕
込んでいます。多分、来年の3月くらいには出てくるんじゃないか。
名前がいい、松前。やっぱり、これを何か活かせる方法が出てくれるような気がする。
(観光について)
お陰様でいろんなところから講演を頼まれて、いろんなことを話します。「観光をど
うしたらいいだろうか」とか、よく言ってくる。それで僕は岡山に行ったりなんかして
いるが、今回、函館と青森を人が行き来するためにはどうしたらいいだろうなと思って
帰った時に、なるほどなと思ったのは、どこの街に行っても、例えば岡山に行くと岡山
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の立派な地図をよこす、宮崎に行くと宮崎の地図。ところが、一歩そこから県外に行く
と地図がない。皆、県の地図を集めているが、隣の県とお互いに結びつける地図という
のはほとんどない。
ですから、青函と考えれば、やっぱり函館と青森をつなぐような、そういう地図がな
いかと調べた。たまたま津軽海峡フェリーのパンフレットをパッと見たら、立体的に青
森側から見た北海道を載せた地図が出てきた。ああ、これだよなと思った。これから、
もし青函食の何とかというのができたなら、そういう小冊子を作る件があったら、是非
青森だけじゃなくて北海道渡島と、そして青森、そのお互いが載ったような地図を作っ
てもらればいいと思います。
そういうようなものがあることによって、東京から人を呼ぶため、日本全国から人を
呼ぶための一つの手づるになるんじゃないか。こっちから東京に物を売るんじゃなく、
いい物、希少価値があるものは売らない。食べたかったら来て下さい。それを料理人が
ちゃんと作っていますよ。このルートにこれだけのものがありますよ。そういうような
食のルートができた時には、今までにない、例えば景観、もしくは名所旧跡、それに加
えて食の楽しみができてくれば、青函で人が動くんじゃないか。
これはルイスが言ったことが、あれよあれよという間に本当に世界一と言われる美食
の街になった。そういうものを見てきた人間にとっては、できないわけじゃない、でき
るんです。ただ、やるか、やらないかなんです。
それで僕もまだまだやらなければダメなことはいっぱいあるが、力がないのでバル街、
料理学会、カレンダー、その辺をまだいじくっているが、夢はまだまだいっぱいありま
す。そのためには、これからも皆さんの力を借りることになりましょうし、これから欠
陥を直していけば長くなるんじゃないかと思っております。
(おわりに)
自分の経験から外れて、観光、ちょっと気がついたこと、さらにはいろんな人と話し
たり、スペインなどに行った時に思うようなことがあったので、付け加えた。
食で地域を巻き込んでいく時、最後は情熱、ちょっといい加減なように聞こえるが、
震災の時に炊き出し部隊が八戸から出た、山形からも。東京のフランス料理屋さん達も
いっぱい駆けつけた。ああいうように、料理人が今までやらなかったこと、今まで自衛
隊がやってきたこと以外を補足するような側面を持てるような時代になってきた。
これからの料理人というのはそういうことに、社会に対するアプローチができるよう
な立場になってきたのではないか。
実は今日、夜、料理人達が夜の仕事が終わってから青森市内で集まり、そういう何か
をやりたいと思う人達が集まりそうなので、僕もそこに行き、皆さんと話をしながら、
できたら火を付けたい。できたらバッと大きいことを言って、一気に火を付けれれば面
白い、今日の夜を楽しみにしております。長い間、どうもありがとうございました。
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