浅原健三と花べっぷ - 別府温泉 竹と椿のお宿 花べっぷ

花べっぷの庭園
チェックイン・アウト、夜はラウンジとしてご利用いただきますロビーから美しい日本庭
園が眺められます。
少し雪をかぶった庭園。より一層の趣があります。
この庭園は散策することができます。
散策していると、少し不思議なことに気づきます。
大きな錦鯉が泳ぐ泉水を越えると、石段が見えて
きますが、その道は途中で行きどまり。途切れて
しまうのです。
そして庭の反対側には、途切れた散策
路のための石段がつづいているのです。
そのふもとの井戸には、手彫りの小さ
な石像が祀られ、ひとめで古いものと
わかる立派な石塔が安置されています。
別府温泉 竹と椿のお宿 花べっぷ は平成24年(2012年)に開業したお宿です。
しかし日本庭園は以前から現存しているものを、そのまま残しております。以前
この御庭は今の倍の広さがあり回遊庭園だったと言われます。そして当旅
館の敷地は「浅原健三」という人物の個人邸宅でした。
それでは、この庭の主であった「浅原健三」とはどのような人物だったのでしょ
うか。
分鉄開発株式会社
浅原健三と花べっぷ
浅原健三は、昭和初期の衆議院議員でした。
明治30年(1897年)に、福岡県鞍手郡宮田町の炭鉱主の家に生まれますが、倒産により労
働者として製鉄所で働き始めます。しかし当時の労働環境はひどく、争議を行い「溶鉱炉
の日は消えたり」を執筆するなどして有名になります。その後、衆議院議員となりますが、
昭和6年(1931年)満州事変が起きた後、戦争反対の立場をとり、落選します。
海外での成功
戦時中においても、日中戦争の停戦のため、多くの要人と関係を築き尽力しますが、逮捕
され国外追放になります。上海、シンガポール、マレー、タイを渡り歩き、良い条件での
両替を繰り返すことで財産を得ます。上海に戻り事業をはじめ成功し、大富豪になります。
帰国・そして終戦
昭和19年(1944年)再び逮捕され取り調べのため帰国します。しかし全く関係のない容疑
であったため無罪放免となります。そこで、体を休め久しぶりの家族と別府で暮らすこと
にします。それが、花べっぷの敷地にあった屋敷なのです。
そして間もなく終戦。中国にあった財産は全て無くなってしまいました。
浅原健三は、屋敷を「聾々庵(ろうろうあん)」と名付けました。何も聞きたくない、見
たくないという意味だったのでしょう。隠居生活を始めますが、その経験と人脈を頼って
多くの人が屋敷を訪れました。
地域のために
戦後の浅原健三は、荒廃した地域のために文化事業に取り組みました。
昭和22年(1947年)滝廉太郎の追悼45周年記念音楽祭を支援し、「荒城の月」作詞者の土
井晩翠を、今の花べっぷにあった別府の屋敷に逗留させて交流をします。そして昭和28年
(1953年)には岡城の敷地の一部を買い上げ竹田市へ寄贈もします。
囲碁においても大きな貢献をします。当時の囲碁は大人のたしなみと言われるほどの、ス
テータスある遊びでした。囲碁は温泉らしいのどかさがある、として、戦後のアマ本因坊
戦を別府の浅原邸(今の花べっぷ)で開催します。昭和24年(1949年)には、囲碁の神様
と言われた呉清源が浅原邸を訪れ、大変な賑わいをもたらしました。
遺してくれたもの
別府温泉 竹と椿のお宿 花べっぷ の日本庭園には、
「荒城の月」の歌詞が刻まれた石碑が、ロビーからよく
見えるところに建っています。平成8年(1996年)に作ら
れた比較的新しいものですが、浅原健三がここにいた証
のひとつです。浅原健三は、歴史の表舞台には登場しな
い人物ですが、世界で力強く生き、日本と地域のために
活躍した人物像がうかがえます。
花べっぷ はこの歴史ある日本庭園を大切に、まごころをこめた日本
のおもてなしと、最高の癒しの時間をお届けいたします。
分鉄開発株式会社