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聖地の宴

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 聖地 の 宴
五十嵐 勉
1
カンコンと槌の音が工房内に響いている。モーターの
回転する音が甲高く唸りを上げ、木屑のにおいに交じっ
て、ドリルとの摩擦で生じるプラスティックの焼け焦げ
たにおいが鼻をついてくる。窓には仕上げを待っている
プラスティックの義足がぶら下がって朝の陽射しを遮っ
ていた。
座ったまま作業をしている男たちの背が、音に合わせ
て上下している。肩や腕の黒い筋肉の隆起が、汗の光を
帯びている。それらは下からの土の湿り気も帯び、汗と
呼吸と埃とで作業の熱気を膨らませていた。
小野が入っていくと、あちこちから声がかかる。
﹁オ
ノサン、オハヨーゴザイマス﹂﹁チョムリアップ スー
オ﹂
﹁ソック サバーイ テー﹂︱︱小野もクメール語
の挨拶を返していく。
奥の方はそれぞれの患者のベッドが並んでいる。地雷
や砲弾で手足の一部を失くした難民たちが、薄暗がりの
なかに所在なげに寝起きしていた。まだ自由に動けない
彼らは、リハビリ訓練を受けながら、自分の義足や義手
が作られるのを待っているのだった。
工房の前の治療室では、低い布台が並べられ、患者た
ちが専門員にマッサージを受けている。
白衣の専門員は、
小野たちのNGOによって訓練された難民のリハビリテ
ーターだった。彼らは、和やかに笑いを交えながら訓練
を施している。関節をゆっくり曲げられたり、それまで
堅くなっていた筋肉が動かされるたびに、大声が上がっ
ていた。
裏では、松葉杖をついた少女が新しい義足を装着して
歩行訓練をしている。膝関節部の接触部分が切断面の一
部に当たるらしく、痛みに顔をしかめている。専門員が
鉛筆を手に腰を屈めて摩擦の原因を調べていた。
リハビリテーション・センターには、まだ戦場のにお
いが漂っている。タイ・カンボジア国境線付近でベトナ
ム軍とポル・ポト軍の戦闘が激しくなると、難民村も巻
き込まれ、地雷だけでなく砲弾や銃弾による負傷者も増
える。彼らはまずカオイダン難民キャンプのICRCや
JMTに運び込まれ、手術される。足や手を切断された
者は、ある程度治癒すると、センターに回されてくるの
だった。
小野は日本からの長期派遣ボランティアとして、義肢
の製作を含めたカンボジア難民のリハビリテーションを
助けている。小野の赴任の一年前から前任者たちの苦労
で義足を作ることやリハビリ訓練も、すでにすべて難民
たち自身でやれるようになっている。小野はただ必要な
資材を外で買いこみ、
キャンプに運んでくればよかった。
国連やICRC、JMTとのミーティングやUNHC
RとUNBROなどとの全体ミーティングに出席するの
も小野の仕事だったが、ほとんど連絡事項を聞いている
だけでいい。配布される英字書類の内容を汲み取ってセ
ンターのチーフに渡せばよかった。
国際赤十字
日本医療チーム
国連難民高等弁務官事務所
国連国境緊急救援機構
八カ月前、乾季の終りに小野が赴任したころは、ベト
ナム軍がポル・ポト派ゲリラ基地を攻撃したり、難民村
を攻撃したり、タイ領内へ越境したり、戦闘が激しかっ
た。タイ軍とベトナム軍が闘ったこともある。カオイダ
ンもUNBROからの指示で﹁シチュエイション2﹂の
警戒態勢がとられ、まれにそれよりグレイドの高い﹁シ
チュエイション3﹂の緊急態勢が発令されたこともあっ
た。
しかし雨季が始まった五月以降は、ベトナム軍はカン
ボジア領内に深く引き、大きな動きが見られなかった。
泥濘で戦車が動けなくなる十一月までの雨季は、ポル・
ポト軍のゲリラ部隊が攻勢に出ていく。十二月から四月
までの乾季は、逆に補給線を整えたベトナム軍が国境地
帯のポル・ポト軍や難民村に攻撃をしかけてくる。雨季
の明けた十二月、いつもならまたベトナム軍の攻勢が始
まるはずなのに、まだ国境地域は静かで、日本の秋に似
た気配のなかに切れ切れの雲がのんびりと青空を漂って
いた。
2
小野が初めてリハビリセンターに来たとき、チーフの
ムオンを紹介された。センター内でただ一人英語が話せ
る者ということだった。左足の膝から先にチーク材の義
足をはめている。手垢で光った松葉杖をついていた。
﹁はじめまして。ムオンです﹂
彼は発音の悪い英語でそう言い、握手を求めてきた。
小野が強く握り返したとき、ザラザラした掌の真ん中に
瘤のような肉の隆起があたった。手の甲に星型の亀裂状
の傷跡があった。
﹁はるばる日本からようこそ、ミスター オノ﹂と、ム
オンは白い歯を見せて人なつこく言った。
その顔は、正視するのを一瞬ためらわせた。左目の眼
窩が窪んで、瞼が潰れて肉が重なり合っている。眼その
ものが大きな傷のように見えた。
右目は大きな二重瞼で、
長い睫が瞳をいっそう大きく明るく見せている。顔の右
半分と左半分が別な人間のようだった。
紹介のあと、彼は松葉杖をつきながらそのまま工房を
案内してくれた。
﹁こちらが炉坪です﹂
﹁ここが彼らのリハビリ治療室で
す﹂
﹁義肢を作っている工房です。いま工具の一つが壊
れてちょっと困っています﹂ムオンは、右に傾いた肩を
大きく上下させながら、小野の前を歩いていった。義肢
のギーギー軋る音が、そこに虫が棲んでいるように聞こ
えた。
一通り見終わったとき、ムオンは小野の反応を捉えて
如才なく言ってきた。
﹁日本の心暖かい人たちの援助で、こうやって義肢が作
れます。感謝しています﹂
ムオンはまた星型の隆起のある手で握手を求めてきた。
ムオンは進んで小野の案内をしてくれた。自分もチー
フとしての仕事があるだろうし、机に向かっていたほう
が身体的にも楽なはずなのに、小野が行くとすぐに松葉
杖を取って、いっしょに歩いてくれた。
歩きながら難民たちのことをいろいろ話してくれる。
ムオン自身のなかに渦巻いているものが、自然に溢れ出
てくる。冗舌のような軽快な弾みを持ちながら、むしろ
重い内容の言葉が、自分たちについていろいろ知ってほ
しい欲求に裏打ちされて、小野に連射されてきた。
﹁このキャンプは、世界のマスコミの報道で、国連が動
いてつくられたんです。国連と先進国の援助で成り立っ
ています。日本がいちばんお金を出してくれているんで
すよ。国連はUNHCRが主導して、その下にいくつも
の実働機関を組織して救援活動を展開しています。UN
BROは、国境の情報と危険地帯の緊急救援、FAOと
WFPは食糧や水の配給、ICRCとJMTは医療、そ
れ以外にも保健衛生や教育担当などたくさんの民間援助
機関やボランティア団体が入っています。日本からもオ
ノサンの団体以外に、JVCやSVA、CYRが活動し
ていますよ﹂
表向きのことだけでなく、死体置場のこと、難民村の
こと、難民たちがカンボジアからどうやって逃げてくる
のか、地雷をどのようにして踏むのかなど、ムオンは溢
れ出る内部を抑えられない口ぶりで話し続けた。
食糧農業機構
世界食糧計画
日本国際ボランティアセンター
曹洞宗ボランティア会
幼い難民を考える会
3
カオイダン・キャンプはだだっ広い。赤土の広い道路
が縦横に延びている。端から端まで歩くと、一時間近く
かかる。移動はピックアップに乗るのがつねだった。
二重に張り巡らされた鉄条網が、実質的にタイ軍の管
轄下にあることを示している。四隅には監視台があり、
タイ兵が上からキャンプを見張っている。それ以外にも
ほぼ一〇〇メートルの間隔で銃を持ったタイ兵が鉄条網
に沿って歩行していた。難民はもちろん、外国人も軍の
許可証なしには立ち入ることはできない。
タイにとって、
難民はあくまで隣国からの不法侵入者であり、国家の安
全と秩序を乱す者にほかならなかった。
﹁カオイダン・キャンプにはいま六万人の難民がいます。
いままですでに五万人がここから外国へ出ていきまし
た﹂自分たちを語るムオンの口調には、独特の重みが感
じられた。
国境沿いにカンボジアからの難民が溢れ出ている。彼
らによって自然発生的にできた村が難民村で、タイ・カ
ンボジア国境には小さいものまで入れると二〇以上の難
民村がある。ノンチャンが三万、ノンサメットが五万、
バンサンゲが二万、ソクサンが一万⋮⋮国境全体を合
わせると、六〇万人にのぼっていた。
カオイダン難民キャンプは、カンボジア難民がアメリ
カやカナダやオーストラリアや日本などへ出国していく
ための一時滞在キャンプ︱︱ホールディング ・センタ
ーだった。一時期一〇万人を超える難民がいたここは、
難民村に比べて安全など格段に恵まれている。難民村は
地雷原に隣接しているばかりでなく、いつベトナム軍に
襲われるかわからない状況下にある。カオイダン・キャ
ンプは、安全が保障されているばかりでなく、援助施設
も多く、支給物資も豊かだった。国連やNGOの援助で、
学校や病院、教会、保健所、幼稚園、自動車学校、図書
館、印刷所、リハビリセンターなどさまざまな施設が建
てられている。西側先進国の町作りの発想と方法で作り
上げられたシステムは、クメール人の土臭い生活習慣と
ない混ぜになって、猥雑な居留空間を作り出していた。
道路には難民たちの歩いている姿が見える。配給物資
を持った女たちの黒い顔が、汗を光らせながら通り過ぎ
ていく。強い陽射しの下にク暙*暠ロマーを頭に巻いた
サ暙*暠ロンの姿が、通りを行き交っている。裸の子供
たちが道路で遊んでいる。メイン道路には、ク暙カン暠
メ暙ボジ暠ー暙ア暠ル語と英語で、
﹁プノンペン通り﹂
、
﹁タケオ通り﹂
、
﹁プルサット通り﹂など、カンボジア内
地の地名を付けた標識が立っている。タイ領でありなが
ら、ここはやはりカンボジアの世界だった。
クロマー*肩掛けや日除け、包みなどに用いられるカン
ボジアの万能布
サロン*カンボジア式腰巻スカート
道路の両側にはニッパヤシと竹で造られた小さな難民
家屋が犇いている。キャンプは二五のセクションに分か
れ、各セクションごとに管理者がいる。それぞれが七〇
〇世帯以上あり、二千数百人が住む。各セクションでセ
クション・リーダーが選ばれ、そのリーダーがセクショ
ン内の難民の人数を国連に報告する。その人数によって
配給の数と量が決められていた。
セクションのそれぞれの配給所にWFPのトラックが
来て米袋を下ろす。米の配給日は特に賑やかになり、長
い列をなして、広場と道路を埋め尽くす。
米以外に週二回、缶詰や魚の干物などの食糧が配られ
る。ときおり炭などの燃料や、バケツ、石鹸などの日用
品も給付された。
赤い国連の給水車が、キャンプ内のタンクを朝から夕
方まで巡っている。各地区の角に数個ずつ並ぶブリキの
立方型のタンクに、水を入れていく。赤い土埃を被った
まま広い道路をゆっくりと曲がっていくのが見えた。
タイ・カンボジア国境の町アランヤプラテートの町外
れに小野のNGOの連絡事務所がある。農家の離れの高
床式の家屋を借りて事務所兼宿舎にしていた。
宿舎へ帰ってからも仕事が多い。センターで必要な資
材も、特殊なものはバンコクから取り寄せなければなら
ない。ときたまバンコクまで買い出しに行く。バンコク
事務所との連絡、日本への報告などもある。領収書を元
に資材経費を帳簿につけ、センター内の日誌や週誌をま
とめて日本へ毎月レポートを送る。日本の事務所からの
要請で、資金集めの宣伝パンフレットのために、現場の
写真や文章を送ったりした。
夜になると周囲は真っ暗で、虫の声や蛙の声がする。
ゆるやかな風に乗って草の濃い匂いが熱気といっしょに
部屋に流れこんでくる。板壁や窓の網戸や天井をヤモリ
が這いずり回り、電灯の光に集まってくる蛾や虫を食べ
る。暗いなかに壁を走るかすかな気配が、亜熱帯の夜を
生々しく息づかせてくる。ヤモリを食べる大型の肉食ヤ
モリのトッケーも、ときおりドスドスと音を立てて天井
裏を走り回る。紅い斑のグロテスクな模様が、電灯の光
のなかにだしぬけに浮かび上がったりした。
アランヤプラテートの夜は眠ることなくいつまでも沸
き立っている気がする。草木の精や森の精が息づき、葉
の香りをいっそう空気のなかに溶かせて、茂るものの旺
盛な力を煽ってくる。空気そのものが、沈静することな
くむしろ活気と騒擾を掻き立ててくる。生きものの熱い
喘ぎが立ち騒ぎ、地全体から殷賑の気配が立ち昇ってい
た。
華僑の質屋から手に入れたギターをときたま爪弾くが、
大学時代覚えたメランコリックなフォークはこの風土に
は合わないのか、音はつねに拡散していく。ここには繊
細なメロディーを受け止める沈静の空気そのものがなく、
感傷的な曲は心に沁みる間もなく炭酸の泡沫のように瞬
時に消えていく。
時間は流れず、海のように悠久の量を湛えている。一
週間が何年にも思え、何カ月が一日のようにも思える。
何も過ぎていかず、何も到来しない。時の環がすべてを
夢幻の相のうちに紡いでいく気がした。
東京へのレポートを書くとき、それが日本でどう受け
止められているか、もうひとつ手ごたえがない。幻想の
なかにレポートを送っているようだった。募金集めのた
めに、
﹁かわいそうな﹂
﹁悲惨らしい﹂話をいくつか集め
てちりばめてやると、東京の事務所からの応答がいい。
しかしそれは実態とは離れている。ここにいると何がか
わいそうで、
何が悲惨なのかよくわからなくなってくる。
悲惨に見えるものが悲惨でなく、幸福に見えるものが幸
福ではない。子宮のようなぼんやりとした熱い球体のな
かで、相反する価値が親密に同居している。そこから適
当に組み合わせて外へ取り出し、温帯の世界へ娯楽とし
ての影絵を送っているにすぎなかった。
ときたま東京に住んでいたときの自分の生活の記憶が
膨らんでくる。しかしそれはすでにはるか遠く離れた世
界の、夢のような実感しかない。スクリーンの向こう側
で点滅する、人工の飾光としての日本の都市にすぎなか
った。
地下鉄のホームに滑りこんでくる電車の音、構内に響
くレールと車輪の金属音、車両連結部の軋る音、ドアか
ら押し出される人波、無数の靴音、駅のアナウンス⋮
⋮ざわめきや金属音が重なり合い、厚く太い束になっ
て渦をなしていく。福祉施設を辞めたあとのアパートの
一室で、それらの音が上を流れ、都市全体がグロテスク
な生きもののように息づいていたことが膨らんできた。
大学の福祉科を出たあと、重度の障害者をケアする職
場で働いたが、向いていないのか焦りと閉塞感のなかで
疲労が蓄積し、四年経ったとき欝病の診断を受けて退職
していた。口べたのためもあってか再就職の試験は失敗
の連続で、方向もわからないまま通院とアルバイトの生
活を繰り返していた。
実家は実直一筋だった父親が騙されるような形で純金
の先物取引に手を出し、
膨大な額の借金を背負い込んで、
土地建物を手放す羽目になっていた。家族が離散したま
ま、ほとんど連絡も取らないまま数年が過ぎていた。
自信を失い、沈んでいく一方の生活を建て直さなけれ
ばならないと、強くきっかけを求めるうち、ある海外N
GOの現地スタッフ募集の広告を見、激烈な戦地の現実
が何かを変えてくれるかもしれないという漠とした期待
で応募し、タイ・カンボジア国境の難民キャンプへボラ
ンティアとしてやって来ていた。
4
ムオンは、
小野がセンターの外への用事があるときも、
いっしょに付いていくことを望んだ。小野といっしょだ
と外出の口実にもなり、車も使える。工房内の狭いとこ
ろでふさいでいるよりも、少しでも広い世界へ出て様々
なところへ体を運ぶことが、気晴らしになるということ
だった。
彼には明るさと暗さが同居している。開かれた右の眼
は、黒い端麗な印象でムオンの明晰な印象をそのまま表
していた。それはあくまでも丸く大きく、生命感に満ち
た光を宿している。
しかし左眼は正視できないほど醜悪だった。眼の肉の
癒着部分から黒いどろどろしたものが奥へ続き、小野の
量り知れない体験を経てきた、おぞましい感覚が蠢いて
いる。それはしぜんに潰れたものでなく、外部からの恣
意的な行為によって閉ざされたもので、他者の意志がそ
こに残り、それによってなお苛まれている葛藤が、皺の
刻みを深くしていた。
最初に車に乗せてやったとき、ムオンは子供のように
喜んで言った。
﹁私はプノンペンでタクシーの運転手をしていたんです。
私もほんとうは運転がうまいんですよ。足があれば、私
がオノサンを乗せてあげるんですがね﹂
ハンドルを握るように手を前へ出し、義足でアクセル
を踏む真似をした。
ムオンは古い懐中時計を持っていた。珍しいので小野
が覗くと、
その時計は止まったまま秒針も動いていない。
時刻を示さないそれを、ムオンはだいじに持っているの
だった。
﹁動かないじゃないか﹂
﹁へへ⋮⋮いいんですよ。これは銀だから、売れば少
しはお金になるんです﹂
しかしムオンのそれを扱う手つきは、けっして交換価
値のためではない、ほかの理由で保持していることを窺
わせた。
ムオンはときたま薄暗い工房の隅でぼんやりとそれを
見つめていた。手触りを確かめながら、むしろ自分自身
の内部を手探りし、慰撫しているようだった。潰れたほ
うの眼で、止まったままの針を見つめているようにも見
えた。過去のグロテスクな瞬間を思い出し、それに浸っ
ている。わずかな光に浮かび上がる顔の陰影は、そのお
ぞましさを忘れようとしているよりも、逆にそれをなぞ
り楽しんでいるような気味悪い快楽を想像させた。
﹁私はこの持ち主から、いろいろ教えてもらいました。
彼は英語教師でした。ポル・ポト時代の前、私はタクシ
ーの運転手でした。プノンペンで働いていたんです。貧
しい者には勉強の機会なんかありませんでした。ロン・
ノル政権のあのころは、金持ちと貧乏人の差は決定的だ
った。私は十代からタクシーの運転手をしていました。
それでも幸運なほうだったでしょう。私は金がほしかっ
た。金は外国人から取るのがいちばんでした。米軍の将
校や兵隊たちの送り迎えをやるのが、いい金になった。
夜の世話もです。英語はそのとき学んだんです。その手
ほどきをしてくれたのが、英語の先生でした。
ポル・ポト軍がプノンペンを落としたとき、彼らは私
たちを農村へ連れていって働かせました。都市生活者を
敵視していました。英語が話せる者は前政権と関係があ
るとされて殺されました。私の目の前で、高︻ルビ︵︼
リ︻︶ルビ︼等学︻ルビ︵︼セ︻︶ルビ︼校の教師だっ
た彼も、拉致されました。あとで聞いた話によると、木
に縛り付けられて、棍棒で殴り殺されたそうです。その
あとナイフで肝臓を抉り取られて、食われたということ
でした。殺された時刻を教えてくれた者がいました。殺
される前、彼はそれを予感して、この懐中時計をくれた
んです。拉致される直前でした。
﹃けっして英語をしゃ
べるな﹄と私に言いました。見つかると殺されるので、
私はもらってすぐにそれを地中に埋めておいたんです。
プノンペンを出るとき掘り出してみると、時計の針は彼
が殺されたほぼその時刻で止まっていました。私は恩師
の言葉を思い出して、肝に銘じました。私はけっして英
語を話さないと心に誓いました。話せば、殺される。ポ
ル・ポトの兵士たちはプノンペンの市民を旧体制派だと
か、スパイだとか、いろいろな口実をつけて殺していま
した。たくさんの人間が目の前で殺されていきました。
針金で手を後ろに縛られ、後頭部を鋤で殴られてそのま
ま穴のなかへ落ちていった者もいます。
斧で腹を裂いて、
内臓を引きずり出された者もいました。彼らはときどき
それを食べたりしていました。クメールには、生の肝臓
を食べると力が宿るという迷信があるからです。
連行されたまま帰ってこない者がたくさんいました。
見えないところで、たくさんの人間が殺されました。私
は英語が話せるということを、
必死で隠し続けたんです。
それからしばらくして、私も処刑されかかりました。
私は何度も殺されかけましたが、その最初です。私が変
な目で見ていたというので、銃を突き付けられ、押さえ
付けられました。三人が私にのしかかって腕と胸を押さ
えこみました。いきなり、眼のなかに炎が入ってきまし
た。脳髄が焼けるようでした。やつらは私の眼にナイフ
を突き入れたんです。やつらは笑っていました。私はや
つらを突き飛ばしてのたうちまわりました。⋮⋮私は
そのまま殺されるはずだった。しかし彼らにちょうど招
集がかかって、私は放り出された。
一カ月間、私は苦しみました。死んだほうがましだと
思ったこともあった。薬草がなかったら、私は死んでい
たでしょう。眼の奥が焼け続けた。いまでもどこかでそ
れは燃えているようです。
かろうじて私は助かりました。
治ってから、何かが私のなかに残りました。血が固まっ
て黒い大きな塊りになったようでした。人間を破壊する
理不尽な力を、いまでも私は憎悪し、呪っています。私
のなかに入ってきた刃の、暗黒の意志を、私は消すこと
ができません。それはまるで一つの生きもののように、
私のなかに棲んでいます。私はそれへの憎悪によって生
きているんです﹂
﹁国境へ来たとき、私は地雷を踏んだ。引っかけ地雷で
す。針金が草の間に罠のように仕掛けられていて、それ
が爪先に引っかかった。下からすごい力が突き上げてき
て私の足を殴りつけた。 その瞬間、私の足は吹き飛ば
されていました。
自分の体も宙に浮くのがわかりました。
それからすぐに逆に地面に叩きつけられました。毒蛇に
やられたような気がしました。自分の足首が血まみれに
なって目の前に転がっていました。幸い近くに人がい、
爆発音を聞いて駆けつけてくれました。私はノンサメッ
トのICRC診療所へ運ばれ、それからカオイダンの病
院に来たんです。
私は何度死にかけたでしょう。私はなぜこんな世界を
何度も生き延びるんでしょう。暗黒をどこまで見せつけ
られるのか⋮⋮それは私のなかで肥大するばかりです。
眼をくり抜かれても、穴に突き落とされても、足を吹き
飛ばされても、私はなぜか生き残ってきました。黒いも
のが私のなかを染め抜いています。へへ⋮⋮私はこの
世界が、いまじゃ好きになってるんです⋮⋮底のない
穴をどこまで落ちていくのか⋮⋮﹂
小野とムオンはキャンプの外れ、イダン山の斜面にあ
る寺暙ワッ暠の暙ト暠北の死体焼却場でしばしば葬送に
立ち会った。
患部が悪化してJMTの病院に戻り、そのまま死ぬ者
もいる。両足のないことを悲観して、自殺する患者もい
た。小野たちが葬送したのは、切断部分が急激に悪化し、
さらにそこから破傷風に感染して処置が遅れて死んでい
った者だった。
高い位置にあるそこからは、難民キャンプの全景を眺
めることができた。丘のような低い岩山が、平原のなか
にぽつんと立っている。こうした山はクメール人の信仰
では、超越的なものから天意を授けられる神聖な場所と
なるそうだった。
﹁⋮⋮ここも、そんな所なのかもしれませんね。この
キャンプ自体が、天に捧げる人間の生け贄の場所なのか
もしれない。このカオイダンの山自身が大きな聖壇とも
言えるでしょうね⋮⋮
戦争が憎いのか、ポル・ポトのやつらが憎いのか、私
にはわかりません。それとも、クメールという民族の業
暙カル暠が暙マ暠憎いのか、この国境の状況や、ベトナ
ム軍や、タイ軍が憎いのか、私にはわからない。バタバ
タ死んでいった仲間は何のために死んでいったのか。ポ
ル・ポト兵に殺されていった仲間は、何なんでしょう。
犠牲なのか、この土地の肥やしになるのか⋮⋮私には
世界というものが信じられないんです。
私は墓場から生き返りました。穴に落とされたあのと
きは、下の死体の上に重なって、命が助かった。それか
ら蔦をよじ登って途中の穴の横腹から出てきました。何
が私を生かしたのかわかりません。地獄から戻ってきた
ようなもんです。何度往復するのか⋮⋮へへ⋮⋮私は
自分の手に、ぽっかり穴が開いている夢をよく見るんで
す。手の穴から星空が見えるんです⋮⋮﹂
5
十二月中旬、センターに少女が入所してきた。予後の
経過は順調で、一一歳という成長期のせいか、回復が早
く日増しに元気になっていた。小野が入っていくといつ
も微笑みを浮かべ、両手を顔の前で合わせるカンボジア
式の挨拶を送ってきた。首を傾けるたびに、おかっぱの
髪が柔らかく揺れる。少女が挨拶してくるとき、小野も
クメール語の挨拶を﹁チョムリアップ スーオ﹂と返す
ようになっていた。
ソピアップというその子は孤児だった。家族はカンボ
ジアから脱出するときに、地雷原に迷い込んで死んでい
た。奇跡的に彼女だけが助かってノンサメット難民村に
辿り着いた。同じ難民家族に拾われ、養われていたが、
自分も食事の燃料にする木の枝を近くの疎林へ拾いに行
って結局地雷にやられていた。
ある日ムオンが通訳をしてくれた。
﹁オノサン、彼女は日本のことを聞きたがってますよ﹂
﹁へえ、どんなことだろう﹂
﹁
﹃オノサンはここへ来る前何をしていたんですか﹄っ
て﹂
﹁福祉の仕事だよ。言ってもわからないだろうけど、知
能に障害のある人をケアしてたんだ﹂
﹁
﹃日本ってどんなところか﹄って言ってます﹂
﹁もっと寒くて、四つの季節があって⋮⋮雪も降る⋮
⋮想像できないだろうけど⋮⋮﹂
小野は日本には山が多いこと、富士山というきれいな
山があること、海に囲まれていて、四季の自然がきれい
なことなどを話してやった。
﹁
﹃平和ですか﹄
﹂
﹁ああ、とても平和だ﹂
﹁
﹃私も行けますか﹄
﹂
﹁行けるよ、いつか⋮⋮﹂
宿舎に帰ると、
日本の事務局からの大封筒が来ていた。
同封してあった週刊誌のグラビアのなかに、小野が送っ
た写真が団体の紹介とともに難民キャンプの現状を報告
するものとして掲載されていた。リハビリセンターの作
業場と地雷患者が写っている。これまでの団体の活動実
績も、地雷患者の笑顔とともに華やかに記されていた。
それらをしばらく読んだあと、前ページにあった新宿
副都心のオフィス街の写真に小野はふと引きつけられた。
魚眼レンズで捉えた高層ビル群がある。無機質な空間を
無数に繋げ、複雑に機能を絡み合わせて群れとして動く
人間の集団の姿が、巨大な蟻塚を想わせた。
確かにここへ来てよかったと小野は思っている。出口
のない状態から救われた気がした。戦争という苛酷な現
実が、欝屈していた日本の生活を吹き飛ばしてしまって
いる。死そのものがここでは軽く思える。湿り気のない
気候も、悩んだり耐えたりする重苦しさを氷解してして
くれた。﹁難民を助ける﹂という名目も寄り掛かりやす
い。むしろ自分が彼らに助けられている気がした。
日本の生活は、何重にも見えない網が上からかけられ
ている気がする。数字が渦を巻いて暴風雨のように駆け
巡っている。抽象的な約束やシステムが凶器になり、人
を追いつめ、家族を裂いていく。保険、年金、税金、ロ
ーン、電気、ガス、水道、テレビ、電話⋮⋮便利な、
高機能の都市生活が、何もしていなくても、数字を取り
立てていく。一つの呼吸にさえ、数字が絡みついてきそ
うだった。わけのわからない重圧の下に、ざらざらした
砂の感触が鬱積し、破壊的な衝動がエネルギーを溜めて
いく。過重なものに堪え切れず、叫び出したくなる。取
り巻くものを叩き壊したくなり、
他人を傷つけたくなる。
不満と憎悪がガスのように圧力を高めていく。
あの巨大な都市は、永遠に繁栄を続けるのだろうか。
ただ膨張し、肥大していくだけなのだろうか。カンボジ
アのアンコール・ワットのように、放棄され、遺跡とな
ることはないのだろうか。核爆弾によって、都庁が広島
の原爆ドームの代わりに残るようなことはないのか⋮
⋮
小野はムオンが言っていた、カンボジアの首都が廃墟
になったときのことを思い出していた。
ムオンの話や本によれば、ベトナム戦争の終結時、プ
ノンペンはカ暙ク暠ン暙メ暠ボ暙ー暠ジ暙ル暠ア暙・暠
共暙ル暠産暙ー暠党暙ジュ暠のポル・ポト軍によって陥
落した。黒い服のポル・ポト軍兵士たちが首都に入って
きたとき、街から住民をすべて追い立て、農村へ移住さ
せたという。首都は廃墟になり、ムオンたちはサハコー
という集団農場で、強制労働に従事させられた。家畜の
ような生活がベトナム軍が侵攻してくるまで続いたそう
だった。がらんどうになったプノンぺンの市街が、新宿
の高層ビル街から人がいなくなる風景を連想させた。
小野はムオンの話を思い出しながら、副都心が無人化
する幻想をしばらく弄んだ。
﹁黒服のポル・ポトの兵士たちを、私たちは﹃カラス﹄
と呼んでいました。
プノンペンが彼らの手に落ちたとき、
街は廃墟への道を辿りました。カラスたちが街へやって
きて、みな家から出るように言ったのです。通りの家々
から人々が溢れるように出てきて、
行列に合流していく。
カラスたちは家に入っていって、残っている者を追い立
てました。私も自分の車を捨てて、母親や兄たちとその
流れに加わりました。
タクシーには愛着がありましたが、
仲間のドライバーが言うことを聞かずに射殺されました。
それを見ていたので、私が米軍の将校の運転手をしてい
たことが知られるとまずいと考え、思い切って捨てまし
た。
街は空っぽになって、抜け殻のようでした。それは奇
妙な感覚でした。巨大なものが後に残っていくようでし
た。人間の群れが巨大な遺跡を残して移動していく。そ
してそれを駆り立てていくものがある。それは何かグロ
テスクな、奇妙な意志でした。行列は都市を捨てて農村
に入っていきました。ひどく従順な家畜の群れが、解体
場へ向けて歩かされていくようでした。黒服の兵士たち
は、銃で私たちを追い立て、威嚇し、そして実際に射殺
していました。道路脇には、射殺された死体や、行列に
ついていけなくなった病人や、妊婦の死体が転がってい
ました。赤ん坊も捨てられていました。腕時計を奪い取
ろうとした兵士に逆らって、射ち殺されたものもいまし
た。しかしその兵士たちにも、何をやり、どこへ向かっ
ているのかわからない、茫漠とした感覚しかありません
でした。もっと上から彼らを動かし、私たちをどこかへ
移動させていく奇妙な意志がありました。街を廃墟に変
えていく︱︱人間の不気味なものが我々をどこかへ連
れていく。我々は集団の処刑場に連れていかれるようで
した。あれほど賑わっていた街が、あれほどたくさんの
人間で溢れ、活気に渦巻いていた場が、一日にして死の
街になる︱︱その静けさが、あとに大きくなってきま
した。巨大な蛇がうねりながらどこかへ向かっているよ
うでした。集団の自殺のような、無機質な意志でした。
数万、数十万を殺し、集団そのものを変えていく人間の
意志があるんです。
父親も、そのとき撃ち殺されました。母親も、二人の
兄も、森のなかへ連れていかれたまま帰ってきませんで
した。
我々は追い立てられ、だらだらと炎天下を歩いていき
ました。行列がどこかへえんえんとつながっていきまし
た。私はあの、うねりながら埃をあげて歩く人間の列が
忘れられません。都市を捨てて農村に向かうおおぜいの
人間の、従順な家畜のような姿が、眼の奥に焼きついて
いるんです。人間が一つの大きな意志に、従順に従って
いく︱︱それが狂気であれ、殺戮であれ、集団の自殺
であれ、破滅の運命のなかに大きく流れこんでいく︱
︱凶暴な意志が私たちを導いている。私たちはそれに
従っていくしかない。グロテスクな磁力が、自分たちを
一つの方向に吸い寄せていく。疫病のように、それは都
市や人間の集団を呑み尽くしていきました。
その無機質な意志はいったい何なんでしょう。私はそ
れが憎いんです。それはどこかにあるんじゃない。私た
ちのすぐ身近にある。いや、この私自身のなかにあるん
です﹂
6
﹁農村での生活はむちゃくちゃでした。貨幣が許されな
い。衣服の自由もない。何から何まで集団で、奴隷の生
活でした。
人間を新人民と旧人民に分ける。旧人民は農村に生活
し、食糧を生産する人間です。それまで快適で便利な都
市の生活を享受していた者は、新住民と見なされる。新
住民も知識階級や商人をA、下層労働者はBとして区別
される。Aは処刑の対象でした。未来の社会をつくるた
めに、Aは必要ない。場合によってはBもだというんで
す。むしろ積極的に抹殺すべきだというのが彼らの思想
でした。
我々は家畜でした。
家畜の思想というのはすばらしい。
働けなくなったらどんどん潰していけばいいんですから。
二年で生産を倍増するということで、強制労働は毎日深
夜にまで及びました。
暗がりのなかでチャプチャプ音がするんです。みんな
田植えで、苗を差し続ける。明かりは松明だけです。そ
れぞれが闇のなかで動いている。だれも何も言わないの
に、ざわざわと闇が動いている。水のなかにだれかが倒
れこむ。だれも手を差し伸べない。黙々と作業が続いて
いく。水につかりきりなので寒い。ほとんど裸で、田の
泥水のなかで腰を屈め続ける。まただれかが水のなかに
倒れこむ。倒れた者は、もうそのまま起き上がることは
できない。
カンカンとホイールを叩く音が深夜響く。それでやっ
と我々は労働から解放されるんです。我々は闇のなかを
歩いて、集団宿舎に帰り始める。私には隣の人間が見え
ない。もうだれがいるのか、だれが生きているのかわか
らない。どうでもいいんです。自分が生きていればそれ
でいい。いや、自分が生きているのさえわからなくなる。
朝いっしょに出ていった人間が突然いなくなる。帰って
くるときはまた何人か減っている。どこへ行ったのかわ
からない。死が周りに溢れている。ただ朝から晩まで、
水のようなお粥だけで、働き続ける。まだ呼吸していれ
ばもうけものです。
体も心も家畜として生きていく。
我々
は殺されるのを待っているようなものでした。逃げたい
と思う。しかしもうその気力が残っていない。わけのわ
からないものにすべてが巻き込まれていくんです﹂
やがてベトナムとの関係が悪化すると、反対者や虚弱
者は﹁ベトナムの回し者﹂として粛清されていった。処
刑される者が多くなったという。
﹁殺すのは簡単です。反抗したり、逆らったりする者も
除外していく。口実は何でもつけられる。
﹃ベトナムの
スパイだ﹄
﹃都市生活者の不満分子だ﹄
﹃堕落者だ﹄と言
えばよかった。彼らは﹃新しい職場へ連れていってやる﹄
と言われ、集められるんです。村はずれの処刑場に連れ
ていかれ、穴を掘らされる。目隠しをされ、そのふちに
座らされる。木の棒が後ろから首に振り下ろされる。そ
のまま穴のなかへ転げ落ちていく。彼らは﹃遠くの新し
い職場へ行った﹄と報告される。少しずつ村の人間が少
なくなっていく。みんなが密告し合う。いつもひそかな
囁きが、草の波のようにひた寄せている。
見せしめのために、みんなの前で処刑したこともあり
ます。だんだんそれが多くなりました。針金で手を縛り、
目隠しをする。木に体を括りつけて、両手を伸ばしてお
く。鉈で頭を割る。顔は真っ赤で、胸にも血が滝のよう
に流れました。カラスたちはニヤニヤ笑っていました。
横腹をナイフで割り、手を入れる。内臓をまさぐって何
やら探している。ナイフをまた突っこんで抉りまわす。
引き出してきた手のなかに、真っ赤なものがつかみ取ら
れている。彼らは肝臓をみんなの前で食う。次の兵士に
渡す。薄笑いを浮かべているその口から鮮血が滴り落ち
る。我々もそれを食うように、回ってくる⋮⋮
私のこの手の傷も、いつか話しますが⋮⋮そんな状
況下で処刑されようとしたときの名残りです⋮⋮手の
なかに星空が見えるんです。その悪夢を、私は忘れるこ
とができません﹂
7
ポル・ポトの時代は三年半続いた。UNBROのジョ
ンという男の話では、もともとベトナム戦争の終結のこ
ろから、中国とベトナムとの関係は険悪になり、解放成
立後まもなく中国はカンボジアのポル・ポト政権を使っ
て横腹からベトナムを刺激していたという。ポル・ポト
軍とベトナム軍との国境紛争が続き、ベトナムは中国の
圧力を撥ね除け、インドシナへの勢力拡大を狙って、一
八万の軍をカンボジアに侵攻させた。ポル・ポト軍は粉
砕され、政権は崩壊した。ベトナム軍はクメール・ルー
ジュ内の反ポル・ポト分子を吸収し、プノンペン陥落後、
そのうちの一人を傀儡として立ててヘン・サムリン政権
を樹立させた。
ベトナム軍の侵攻後、共産主義や戦乱を厭う人々は、
タイ国境へ逃れた。それがムオンたち数十万人の難民だ
った。当初はカンボジア国内の飢餓状態がひどく、食糧
を求めて出てきた者が多かったという。
ポル・ポト軍は国境地域でタイ軍と中国の支援を受け
て持ち直し、ゲリラ戦を続け、ベトナム軍はいまも掃討
作戦を展開している。カンボジア国内から出てくる難民
は、ベトナム軍とポル・ポト軍の戦闘地域を抜け、地雷
原を越え、野盗の手を避けて、タイ国境へ出てくるのだ
った。
難民村へ辿り着くだけでも、難民にとってはいくつも
の困難を越えることだった。さらにアメリカや日本など
外国へ出るために鉄条網を潜ってカオイダン難民キャン
プへ入るためには、タイ兵によって射殺されることもあ
る大きな危険を冒さなければならなかった。
﹁患者たちはよく夢を見るんです﹂
ある暑い昼下がり、ムオンは患者たちの何人かが午睡
しているかたわらをギーギーという音を立てて小野の傍
らに寄り、告げてきた。
ムオンは午睡に沈む十二歳の少年の汗ばんだ顔を指差
しながら言った。
﹁この子は、犬が自分の足をくわえていく夢をよく見る
そうです。ポル・ポト兵に足を切断される。継ぎ足して
縫えばまた元へ戻るはずなのに、犬が来てそれをくわえ
ていってしまう。ボリボリと食べられる。そんな夢を繰
り返し見るそうです﹂
少年の手が、ふと無意識のうちに下に伸び、なにかか
ゆみを覚えるのか、失われた部分を掻く仕種を繰り返し
ていた。
﹁ソピアップもそうですよ﹂
ソピアップが、小野たちの方を向いていつもの笑顔を
送ってくる。ムオンと小野はそちらへ足を運びながら、
夢の話を続けた。
﹁彼女は地雷原の夢をよく見るんです﹂
ぶち切れたソピアップの右の大腿は、外からの光を受
けてひどく艷めかしく見えた。
﹁ソピアップ、ホラ、夢の話をオノサンが聞きたいそう
だ。話してやってごらん﹂
ソピアップは首を横に振り、強く拒んだ。
﹁いつも私には話してくれるのに︱︱﹂
ムオンはまたクメール語で﹁だいじょうぶだよ﹂と勇
気づけるようにソピアップを促した。
﹁夢を恐がってるんです﹂ムオンはソピアップの肩に手
を置いて、安心させるように笑顔で見つめた。﹁夢が怖
いと以前ノイローゼになりましてね﹂
ムオンの手にひととき目をつぶり、やがてチューブの
金魚から手を離して、ソピアップはこわごわと唇を開い
た。小野は彼女の眼を見つめた。
﹁⋮⋮地雷原のなかに追い立てられるの⋮⋮﹂
﹁それで⋮⋮﹂ムオンは英語で小野のためにソピアッ
プの言葉を繰り返した。
﹁⋮⋮ポル・ポト兵が後ろから銃であたしたちを追い
立ててくるの。⋮⋮先の方には、たくさんの地雷が埋
まってるわ。何千人ものクメール人がそのなかへ一列に
なって進んでいく⋮⋮あちこちで爆発するの。先の方
で人間の体や手足が宙に舞い上がっていくわ。後ろでも
地雷が爆発する。たまらなくなってだれかが駆けだして
いく。また地雷に触れて、吹き飛ばされるの。後方から
は銃声がして、怒声が聞こえてくるわ。後ろへ戻ろうと
した人が射ち殺される。広い地雷原をみんなで進んでい
く。いつ自分の番になるのか、恐くてたまらないの。足
元に地雷の頭が見える⋮⋮みんなが、気狂いになって
駆け出していくの⋮⋮﹂
ソピアップの顔が歪んでいる。息が荒くなっていた。
ムオンは小野の方を向いて唇の端に微笑みを浮かべな
がら補ってきた。
﹁⋮⋮いつもそこで、夢から弾き出されるそうです⋮
⋮﹂
ソピアップの顔が、五十歳も六十歳も年を取っている
ように見えた。
﹁ありがとう⋮⋮﹂ムオンは立ち上がり、また歩きだ
した。
﹁ソピアップは、﹃夢が襲ってくる﹄
、
﹃眠るのがいや
だ﹄と、半狂乱になった夜もあります⋮⋮歌を習い始
めてから、落ち着いてきたんです﹂
ムオンの松葉杖のギーギーいう音が、再び病棟をよぎ
り始めた。
﹁ここにいる人間はみな暗黒と戦っています
⋮⋮あの青年はよく炎の夢を見るそうです﹂
片腕の青年がムオンと小野の視線に気づき、力なく微
笑んできた。
ムオンは彼と視線だけで挨拶し、彼に代わるようにし
て小野に語ってきた。
﹁彼の夢は、地平線が真っ赤に燃え上がって、迫ってく
るそうです。ヤシの木が燃え、家屋が燃えている。すべ
てが炎の色のなかに塗りこめられている。その炎は人間
を巻きこんで、焼き尽くしてくる。人間の衣服が燃え、
髪が燃え、皮膚が焼けていくんだそうです。どんなに逃
げようとしても、炎はすさまじい勢いでひろがって、人
間を呑み尽くしてくる。田畑も、森も、作業小屋も、牛
や鶏や、豚や犬をも、その炎のなかに巻き込んでいく。
川も、家畜小屋も、水路も、それは巨大な竜巻のように
いっさいを呑みこんでくるそうです。空も炎の嵐が吹き
荒れ、真っ赤に染まっている。地平の彼方から、それは
世界を呑み尽くすように押し寄せてくる。必死で逃げ出
すんですが、
その渦はすさまじい速度で追いついてくる。
息が切れ、苦しくなる。必死で逃げる。しかし追いつか
れる。真っ赤なその色のなかに呑みこまれ、焼きつくさ
れる。いつも深い赤い喉のなかに呑みこまれ、髪に火が
つく。腕が燃え始める⋮⋮﹂
いつのまにかムオンの潰れた眼が、小野をのぞきこん
でいる。抉り取られた眼が、大きな空洞をひろげていた。
それは闇の色を湛えながら、
哄笑の喉をのぞかせていた。
宿舎の夜、電球の周囲を水色の蛾がうるさく飛び続け
る下で、小野は日本から届いた一カ月遅れの新聞を読ん
でいた。コン、コンと蛾がガラスにぶつかる音が静寂を
破ってくる。
日本の世界ははるか遠くにありながら、ときおり思い
がけない方向から自分を突き上げてくる。突然、駅の立
ち食いそばを食べたくなったり、回転寿司やカツ丼を食
べたくなったりする。食習慣が体の奥を突き動かしてく
るのだった。
紙面を追う小野の目に、
求人情報欄が飛び込んでくる。
こちらから職を選ぶことのできる範囲はだんだん狭くな
っている。
﹁帰国﹂という執行猶予に晒されているよう
だった。
日本の湿り気を帯びた暗い世界がいやだった。タイの
明るさに魅かれる。強い光の世界がいい。ときとして残
酷なほどの明るさが、自分には合っている気がした。
社会面を読んでいると、東京駅構内のコイン・ロッカ
ーに時限爆弾が仕掛けられ、幸い事前に発見されたとい
うニュースが目に飛び込んできた。何気ない小さな記事
が、小野のなかに深く錘を下ろしてくる。時限爆弾は都
内のあちこちにあり、いまも刻々と時が刻まれている妄
想が膨らんだ。
一人でタイの安酒メコン・ウィスキーを飲み続け、小
野はいつのまにか酔い潰れていた。悪酔いで頭が重く、
万力で捩られるようだった。どこにいるのかもわからな
かった。
明け方近く、小野は鮮明な夢を見ていた。無数のコイ
ンロッカーが並んでいる。キイを差し込んで一つを開け
ると、足が入っていた。地雷患者たちが失った足首が、
血まみれのまま入っている。どれを開けても、足首が覗
いていた。
8
カオイダンの朝は早い。小野が入っていく八時、すで
にリハビリセンターのなかにはドリルの音や鎚の音が盛
んになっている。カンカン、トントンという賑やかな音
が、朝のさわやかな空気のなかに快いリズムを奏でてい
る。器材のぶつかり合う音や、関節部を折り曲げる軋み
や、ネジのキーキーいう音さえも不愉快な音質を賑やか
さに変えて作業の進行を煽っていた。
ソピアップの笑顔は、いつも小野を明るく迎えてくれ
た。無邪気な瞳を人なつこく投げてくる。片言の日本語
も憶え、﹁オノサン、オハヨウゴザマス﹂ときれいな声
を発してきた。
学びたい時期なのか、よく暇を見つけては石板で大人
たちに読み書きを習っている。算数なども勉強している
ようだった。
彼女はムオンを介してさらに小野に日本のことをたず
ねてきた。
﹁
﹃東京はどんなところか﹄って、聞いてますよ、オノ
サン﹂
﹁コンクリートの高い建物がいっぱいあって、人がウジ
ャウジャいる。朝と夕は満員電車でぎゅうぎゅう詰め
だ﹂
﹁
﹃カオイダンよりもっと人が多いですか﹄って﹂
﹁東京だけでカンボジアの人口より多いんだ﹂
ソピアップは驚いて溜め息をつき、それから石板を胸
に抱きしめるようにして聞いてきた。
﹁日本人の子供たちはみんな頭がいいんでしょうね﹂
中学までだれもが無料で学校へ行けることを話すと、
ソピアップは顔を輝かせた。
﹁そんな国に住んでみたい。わたしも住めますか﹂
﹁ああ⋮⋮一生懸命勉強すれば、いつか叶えられるか
もしれない⋮⋮﹂
ソピアップはムオンの耳に口を近づけ、大きな目で小
野の顔色を窺ってきた。ムオンは苦笑しながらその内容
を小野に伝えてきた。
﹁オノサン、ソピアップはオノサンに日本語を教えてほ
しいそうですよ﹂
唐突な申し出に驚いたが、拒む気はしなかった。ソピ
アップなら呑み込みも速そうだし、教えていて楽しいだ
ろう。小野自身、逆に彼女からクメール語が習えるかも
しれない。キャンプを出る夕刻か、昼休みの一五分くら
いなら、時間的にも可能だった。小野はソピアップの真
摯な目に頷いた。
﹁よし、少しずつしかできないけど、やってみようか﹂
大きな瞳がぱっと光彩を放ち、丸い頬にえくぼが弾ん
だ。
昼になると裏の炊事場から食事が運ばれてくる。アル
ミ製の食器がカチャカチャと賑やかな音とともにテーブ
ルに並べられていく。盆に皿二つとコップが乗せられ、
おかずが盛られていた。センターの外からのボランティ
ア難民によって作られている食事だった。
作業の手が止まり、長テーブルにみんなが集まってく
る。まだ歩くのに不自由な者はベッドで直接食べる。く
つろいだ声が賑やかに飛び交い、スプーンやフォークの
音といっしょに笑い声が響きわたる。
配給のタイ米に、やはり国連から支給される野菜の、
質素なおかずが付く。長インゲンの煮つけだったり、ニ
ンジンやジャガイモやキャベツの炒め物だったりする。
ときおり、わずかに肉類が入っている。干しナマズが、
焼かれて縮れた髭や泥臭い焦げた腹を見せていた。
食事どきは一人の太った中年女性がしばしばみんなを
笑わせていた。彼女は歌も踊りもうまく、ソピアップは
その女性に歌を習っていた。彼女の身振り手振りの大胆
な仕草が、食卓のなかで視線を引きつけ、活気を醸し、
爆笑を沸かせる。タイ人や、国連関係者のいないところ
では、いっそうその声が弾む。もう一人の白髪の背の高
い女性が、掛け合い漫才のように話の渦を大きく盛り上
げていく。それらは各自の快癒を促し、閉ざされた状況
を跳ね返す活力を醸成していくようだった。
食事のあと、センターは静寂に包まれる。外は白い光
が飛び跳ねている。最も暑くなる午後一時を挟んで、二
時までの休憩時間、
多くの者は午睡に身を横たえていく。
静寂のなかで、小野とソピアップの日本語が波紋のよ
うにひろがる。繰り返される言葉が、木暙こ暠精暙だま
暠のようにも、デュエットのようにも、限りなく追いか
け合う戯れのようにも聞こえた。
カンボジア難民たちは陽気で、よく何かにかこつけて
祝いや宴会をやる。だれそれの誕生日だとか、仏教の祝
日だとか、収穫祭だとか、皆で集まっては宴会になるの
だった。これといって御馳走もなく、昼食の残りや、配
給品の缶詰や、NGOからの寄付だったりしたが、寄せ
集めでもとにかくゴチャゴチャと集めてくる。賑やかに
食べながら、歌を歌ったり、制約のあるそれぞれの体を
動かして踊ったりした。
小野もよく彼らの宴会用に、アランヤプラテートから
ビールを買ってくることを頼まれた。キャンプのなかで
売られている闇市の缶ビールは高くて彼らには手が届か
ない。町の市場から直接まとめて買って持ち込めばはる
かに安く、しかも小野自身が自腹を切って買ってくるの
でただになる。彼らは小野の買ってくるビールをいつも
楽しみにしていた。酒類は本来キャンプ内には持ち込み
禁止だったが、小野は彼らの歌や踊りが楽しみで、こっ
そりと酒とつまみを持ち込んでいた。
十二月末になって、西暦の新年の祝いをセンターでも
やろうということになった。本来カンボジアの新年は四
月の中旬だったが、国連のヨーロッパ人職員たちのクリ
スマスと新年をいっしょに祝う賑やかさに誘われて、盛
大にやろうと勢いづいた。
年の明けたその日、朝早くから小野はセンターに出所
した。昨夜のアランヤプラテートの町の外人たちの﹁ハ
ッピー ニュー イヤー﹂の声やクラッカーの音が耳の
なかにまだ続いている。亜熱帯の地で迎える新年は、引
き締まった寒さのなかで迎える新年とはちがった伸びや
かさがあった。
センターに着くと、難民たちが歓呼で小野を迎えてく
れた。
﹁ハッピー ニュー イヤー﹂
﹁スオ スダイ チ
ナム トゥマイ﹂
﹁シンネン、オメデトウ、オノサン﹂
日本語で言ってくる者もいた。ムオンたちがアランヤプ
ラテートで買ってきたばかりの冷えたビールや氷を小野
からだいじそうに受け取る。
難民たちは用意していたご馳走の前にビールを並べ、
新年の宴会に取りかかった。簡単なお経を唱え、全員で
新年の巡りに感謝を捧げたあと、余興に入った。
ベッドの下や道具箱や、材料室に隠していた楽器を持
ち出してきて、まろやかな音を奏で始める。竹筒のなか
の木製の玉がころころとしたふくよかな音を転がしてい
く。森のなかの緑の呼吸のなかに包まれていくようだっ
た。
ざわめきと笑いと椰揄と嬌声が交じり合い、草木の息
吹を醸して、活気と享楽を盛り上げていく。松葉杖を並
べ、外した義足や義手を重ねて、叩き鳴らす。義肢の音
と楽器の音が奇妙な階調を奏で、
緑の音色を膨らませる。
攀縁植物のように蔓が伸び、
それぞれの義肢を絡みとり、
ばらばらになった手足の枝を繋げていく。それらは神経
のように結び合い、密接な粘液を分泌して新しい樹脂で
補い合っていく。気がつくと、部屋全体が、緑の蜘蛛の
巣が張りめぐらされ、密林のようになっている。森全体
が巨大な空間として鳴り響いているようだった。遺跡の
壁の石を打つ、カーン、カーンという音が密林のなかに
聞こえてくる。鳥の囀りがあちこちでやかましく響き、
原色のオウムの翼が梢の陰を鮮やかによぎっていく。石
像の顔を、溶樹の根が伸び降りて包みこむ。再生の音響
と息吹が地層の裂け目から湧き出し、生成の熔炉の渦を
覗かせている⋮⋮
ソピアップと仲よくしている太ったおばさんが、先頭
に立って歌っている。身振り手振りの踊りを伴った陽気
な歌が、人々の動きを誘い出す。跡切れることなく彼女
はクメールの歌を歌っていく。陽気に、朗らかに、旋律
の蔓を伸ばし、たわわに茂らせていく。どよめき、揺れ、
密林の奥行きが緑の祠暙ほこ暠を暙ら暠覗かせてくる。
ソピアップも、彼女に合わせて歌っていく。高い声の
独唱も、人々をカンボジアの沃野に帰していく。地雷原
に彷徨い続ける魂を誘い、集めながら草原に導く。ソピ
アップの声がそれほど美しく、
清浄な音質を持つことが、
小野には驚きだった。ソピアップが歌い始めると、やが
て夜の帷が降り、深い静寂とともに月光が支配する。青
白い光のなかに旋律がうねり流れる。砂岩の石畳の上、
巨大な遺跡の回廊の舞台で、天使の舞う輪廻の相が花開
いていく。無限の連環が豪奢な万華鏡を花開かせ、陶酔
と倒錯が混沌とした熔解の坩堝のうちに新たな力を湧出
させていく。噴火の底の溶岩の滾り立つ真っ赤な喉を、
それは鮮やかに垣間見せているのだった。希望はむしろ
赤い血の流出のなかにあることを、灼熱の色が教えてき
た。
拍手が響き、彼らの楽器が打ち鳴らされる。ソピアッ
プは恭しく胸の前で合掌し、深く腰と頭を下げて、クメ
ールの祖神に礼を尽くした。
宴会が盛り上がってきたとき、難民たちは小野にも歌
を求めてきた。日本の歌を歌ってほしいと言う。小野は
ためらったが、難民たちの盛んなリクエストに乗せられ
て、引き下がることがむずかしくなり、少し考えて思い
切って﹁上を向いて歩こう﹂を歌った。外国人の前で歌
うのは初めてで、わかるかどうか心配だったが、聞きや
すい歌のはずだった。
難民たちの拍手と期待の前で、酔いも手伝って大きな
声でリズムに乗れた。終わると難民たちが、ビールのお
返しか、みんなで割れるような拍手をしてくれた。思い
がけないウケに、小野も上機嫌で歓呼に応えるように手
を上げ、﹁次はビールをもっとたくさん持ち込む﹂こと
を宣言した。
彼らはその歌が気に入ったようで、その後昼食のとき
も﹁上を向いて歩こう﹂を小野にリクエストし、みんな
が手拍子で呼応してくれた。
何人かはその旋律を憶えて、
﹁う﹂や﹁あ﹂だけでいっしょにメロディーを口ずさん
だ。難民と唱和し、クメール人の声と一つになる。赤い
ドロドロしたものが彼らから流れ出し、自分のなかに浸
透してくる。それと呼応して、自分の内部からも真っ赤
に湧き出してくるものがある。
小野は熱風に朦朧と身を委ねるように、ギターをキャ
ンプに持ち込んでみんなと歌った。彼らの楽器と和し、
狂躁の渦に熱く巻かれながら、緑の匂いに染められてい
く。凍え毀れた東京の生活がギターの音のなかで融け、
再生の赤い色を帯びて亜熱帯の空気に合流していく。自
分の内部でトッケーの声がけたたましく鳴いているよう
だった。無数の爬虫類の喉が、自分のなかで赤く開き乱
れていた。
それからまもないある日、ムオンが言ってきた。
﹁オノサン、ソピアップが﹃上を向いて歩こう﹄の歌を
覚えたいと言ってますよ﹂
ムオンとソピアップが顔を見合わせて、いたずらっぽ
く微笑んでいる。小野も自然に笑みで応じた。
小野は歌詞のアルファベットを書き、
コピーをとって、
ソピアップとムオンに渡してやった。ムオンはそれをク
メール文字に直し、他の者にも与えた。ソピアップには
普段の日本語の勉強のときにも教えてやったが、それ以
外のときにも、ソピアップは自分で隣のおばさんといっ
しょに練習をした。紙片を見ながら、すでに憶えた旋律
に乗せて毎日五分ほどベッドの横に並んで復唱する。す
ぐにソピアップは何も見ないで歌えるようになった。ム
オンも加わった。そのほかの難民も何人か歌詞のメモを
回して歌い憶え、
センターの多数が歌えるようになった。
一月の半ばが過ぎたある朝、小野がゲートからセンタ
ーへ歩いていくと、日本語の歌が聞こえてきた。大勢で
合唱している声が、朝の陽射しのなかを流れてくる。日
本語の響きが、竹の建物のなかに満ち溢れていた。それ
は力を帯びた新鮮な唱和音として聖暙ドー暠堂暙ム暠に
響く聖歌のように清らかな音量を湧かせていた。合唱の
美しさをあらためて確かめながら、小野は嵐のような声
を浴びて作業場へ入っていった。
9
亜熱帯モンスーンの気候のインドシナは、十二月から
一月にかけてつかのま涼しさが訪れる。しかし二月に入
ると急激に暑さが上昇していく。三月になると日本の真
夏よりもはるかに強烈な陽光が、赤土の平原を照射し、
光の乱舞のなかにいっさいの物を輝かせていく。空には
雲が力なく浮き、熱い砂埃が空中を浮遊する。夕焼けも
サーモンピンクの鮮やかさを増していくのだった。
いつもは乾季にベトナム軍の攻撃が激しくなると聞い
ていたが、今年は乾季に入ってもそれらしい動静がなか
った。
しかし三月になって、新たな動きが伝えられてきた。
ベトナム軍は南方面に大規模な兵力を投入し、国境付近
のゲリラ基地を激しく叩いている。特にソクサンという
KPNLFの基地を強襲しているということだった。ベ
トナム軍の兵力はさらに増強され、全軍を合流させなが
ら北上してくる気配がある。プノンペンやバッタンバン
方面から精強部隊が動き始めているという情報も入って
きた。
クメール民族解放戦線/ソンサン派
三月中旬、アランヤの町にも砲声が聞こえてきた。響
きが近くなり、
だんだん距離が縮まってくる感覚がある。
この乾季ほとんど警報のなかったカオイダンに、しば
しば﹁シチュエーション2﹂の警告が発せられ、いつで
も避難できる準備をしておくことが要請された。
タイ軍の戦車や軍用トラックが目立つようになり、ヘ
リコプターの音が上空をよぎっていった。
朝カオイダンへ来る車のなかで、タイ人運転手が低い
声で呟くように言った。
﹁ベトナム軍は、国境のこれまでの軍と総入れ替えをし
たそうです。北からの正規軍を前面に出してきているそ
うですよ。南のソクサンからの部隊も北上しています。
どこを狙ってくるんでしょうね﹂
北ベトナムの軍はベトナム戦争をアメリカ軍と戦って
きた精鋭で、ふつうはプノンペンやバッタンバンなど要
衝にいるか、重要な戦闘にしか出てこない。現在国境に
いる南からのベトナム軍は、七五年の解放後にサイゴン
から徴兵された者で、士気が低い。反政府分子を強制的
に徴兵して前線に送り込んでいた。もし運転手の情報が
正しく、この方面に向かっているとすれば、やがて本格
的な攻撃がこの地域で展開されるはずだった。
﹁カオイダンまで来るのかな﹂
﹁カオイダンまで来ることはないでしょう。ここは国境
から一〇キロ入っています。ベトナム軍がこのあたりま
で入ってくるとなったら、大騒ぎです。アランヤプラテ
ートも危ない。タイ軍も面子にかけて、ここまで侵入さ
せないでしょう。ここが危なくなる前に大戦闘があるは
ずです。
カオイダンには国連の援助機関もたくさんある。
NGOもいる。もしそれを叩くようなことがあったら、
国際世論が黙ってはいません。ベトナムもそれほど馬鹿
じゃない。前回はノンチャンがやられました。ベトナム
軍がこんどやるのは、ノンサメットか、それより南のタ
プリクか、カオディンでしょう⋮⋮でも、その意図は
何なんでしょうね⋮⋮﹂
タイの徴兵は、二十歳の若者を対象にくじ引きで決ま
るが、相当額を出せば免除される。いきおい、免除金が
払えない農村の若者が兵役に就く。運転手も以前兵士と
して二年間、実家に近いこのあたりで国境警備の任務に
就いていた。
彼によれば、東部は最重要防衛区とされ、第一軍管区
として第一師団、第二師団、第九師団が任務に当たって
いる。カンボジア国境方面は、対共産勢力の前線として
特に力が注がれ、師団の体力を温存し情報や防衛技術を
共有するため、二年ごとに交替する。現在は第二師団だ
が、この三月がちょうど交替の時期に当たっていた。
いま第二師団は引き継ぎの準備と新たな動きを見せて
いるベトナム軍への対応で、多忙を極めている。もしベ
トナム軍の急襲があれば、交替は自動的に延びるが、複
雑な動きを見せているものの、大規模な攻撃の気配はま
だない。四月一日にはおそらく無事に第九師団と交替で
きるはずで、第九師団もすでに前任駐屯地で準備を完了
しているそうだった。M 41
戦車部隊の一部は、国境に
到着して引き継ぎを始めているという。
第九師団の師団長は、ベトナム戦争に前線参加した経
験のある少将で、色白で痩身、独身で、男色の噂もある。
師団全体の性格が荒っぽく、実戦性を重視し、冷酷な手
段も躊躇しないということだった。
ソピアップの日本語はわずかの間に急速に進歩してい
た。ソピアップがあまりに熱心なので、昼休みだけでな
く、時間があれば帰る前も一五分ほど追加して日本語を
教えていた。初めのうちこそ小野も彼女からクメール語
を習ったが、彼女の日本語学習速度があまりに速く、小
野のクメール語習得のほうがついていけないので、教え
るほうに専念することにした。
小野が自分で作った基礎レベルは二週間ほどで終えて
しまい、慌ててバンコクのオフィスから取り寄せた日本
語初級Ⅰの教科書も一カ月ほどでマスターしてしまっ
た。初級Ⅱもすでに中ほどまで進んでいる。平仮名も
片仮名もすべて書け、自分の名も書ける。例文の日本語
もすべて暗唱して、小野に﹁聞いてください﹂と言って
くる。発音もいい。小野への質問もある程度直接日本語
でできるようになっていた。小野は簡単な国語辞典を与
えて、語彙を増やす助けにさせた。
勉強が楽しいらしい。それ以上に、他の一般の難民が
英語の習得に外国へ出られる希望を託すように、ソピア
ップも子供なりにそれに似た脱出の願望を日本語の学習
にこめているのかもしれなかった。彼女の日本語がうま
くなればなるほど、小野は彼女との間が親密になり、目
に見えない絆が生まれてくるのを覚えた。
ある日どこから探してきたのか、ソピアップは小野に
たずねてきた。
﹁オノサン、オノサンは独身ですか﹂
﹁そんな言葉を調べたのか。⋮⋮そうだよ﹂
﹁どうして結婚しないんですか﹂
ソピアップの顔が少し大人びてきた気がする。小野は
苦笑して﹁日本じゃ三十を超えて独身の人はいっぱいい
るんだよ﹂とソピアップの肩に手を置いた。
いつものように夕暮れ近く、小野が書類をまとめて事
務室を出ようとしたときだった。
編まれた竹壁の間から、
紅い夕暮れの光が射しこんでいた。むこうでまだドリル
の甲高いモーター音が響いている。金槌の響きも、その
斜光のなかを貫いていた。ムオンはぼんやりと静止して
いた。眠っているのでもなく、起きているのでもない、
いるのかいないのかわからない気配で、ただそこにじっ
と呼吸していた。松葉杖を置き、座った姿勢でひどく疲
れたように動かないそのことが、鉛のような密度を有し
ている。
瞳は空白で、何も見ていない。遠くを見ているようで
ありながら、視線はそこになく、むしろ内部に深く向か
っている。
無表情の底にとてつもない世界がひろがっている。そ
れはいま国境全体で進行しているものと深い位置で連動
している気がした。
ムオンは小野の視線に気づいたのか、ふと目を覚まし
たように顔を上げ、小野の方を向いて、ゆっくりと寂し
く笑った。
﹁︱︱そこにいたんですか、オノサン。声をかけてく
れればいいのに︱︱最近、砲声が多いですね。だんだ
ん近づいてきているようだ⋮⋮﹂
﹁南のソクサンは、落ちたそうだよ﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁ベトナム軍は何を狙っているんだろう﹂
のrを強調しながら同じ単
different
﹁なにかいつもとちがう気がしますね⋮⋮﹂
巻き舌の英語で
語を繰り返した。ムオンはいったん自分の内部に再び深
く降りていってから、小野の眼を正視し、話題を転じる
ように笑顔で言ってきた。
﹁ソピアップはだいぶ日本語がうまくなりましたね。小
野さんから見て、どうですか﹂
﹁子供だから、進歩が速い。素直だしね。こっちのクメ
ール語よりも数段速い。かなわないよ﹂
﹁ソピアップはいい子ですよ。何にでも一生懸命になる
︱︱﹂
一呼吸を置いて、ムオンは突然低く言った。
﹁︱︱オノサン、あの子は日本で暮らせませんか﹂
ムオンの右眼が、笑みを浮かべながら小野を覗き込ん
でいた。
﹁あの子はオノサンになついているようですし、オノサ
ンもあの子とは気が合うように見えます︱︱あの子を
引き取って、日本へ連れていってくれませんか﹂
冗談半分のような含み笑いが小野に向かってくる。ム
オンの底から直接流れ込んでくる力があった。それはな
お眼の奥で蠢き、うねりと苦悶を繰り返していた。小野
は自分のなかでも、何かが動くのを感じた。その言葉は
小野の東京の暗い記憶と奇妙に連結し、難民とのより深
い繋がりを甘美にそそってきた。
﹁あの子は日本に憧れているし、平和な落ち着いた生活
を欲している。がんばりやだから、きっと日本の生活に
も適応しますよ﹂
﹁しかしムオン、
日本へ行くのはそんなに簡単じゃない。
パスポートも、ビザもいる。国籍のない難民がそんなぐ
あいに外国へ行けたら、カオイダンの難民は全員出国で
きることになるじゃないか。
ソピアップは親もいないし、
障害もある子供だ。表から難民として日本に行くのは無
理だよ。定住資格審査もはねられるだろう﹂
﹁表からのルートは、そうでしょう。でもオノサン、こ
こは裏でいくらでもでたらめなことが行なわれているん
ですよ。偽装結婚もあれば、偽装の親子もある。出てい
くのに有利だとなれば、何でもやりますよ。以前のこと
をどうやって調べるんですか。みんな過去は断たれてい
る。グチャグチャだ。それが難民なんです︱︱オノサ
ンがアランヤプラテートでだれかタイ人の女性を好きに
なったとする。タイ国籍のある女性ですよ。その女性に
ソピアップのような子供がいてもいいじゃありませんか。
ちょっとお金を出せば、名前を貸してくれる女性はアラ
ンヤプラテートにもゴロゴロいますよ。オノサンの子供
として日本へ連れていけばいい︱︱だいじょうぶです
よ、オノサン。ヘヘ⋮⋮戦争のほうがずっとでたらめ
じゃありませんか﹂
小野は腹のなかで首を振り続けた。しかしなおムオン
の声はひどく生々しく畳みかけてきた。
﹁タイ人を使えば、もっといろいろなことができますよ
⋮⋮タイ人の子供もけっこう死ぬ。ソピアップをその
子供の代わりにしてもらえばいいんです。それ以外にも
いろんな方法があるでしょう﹂
惑乱がむしろ快く小野の奥底に働きかけてくる。戦争
の気配とともに自分に近づいてくるものがある。いまま
で使ったことのない自分の深奥の扉が開かれ、何かが動
き始める気がした。閉じられたムオンの眼が、むしろ鋭
利な視線で小野を射ている。小野は黙って聞きながら、
胸のうちに難民たちの熱くドロドロとした部分が流れ込
んでくるのを覚えた。
﹁日本で暮らすようになって、平和な生活のなかで安定
したら、ソピアップもあんな夢から、解放されるでしょ
う﹂
地雷原に追い立てられる夢や地平が燃える夢が、赤々
と小野の内部に立ち上がってくる。あちこちで地雷が爆
発し、地全体が怒りのなかで燃えるシーンがひろがって
きた。
﹁オノサン、ベトナム軍は新しい動きをしている。カオ
イダンのIDカードを持たないリハビリセンターの難民
は、脚が完治したらどっちみち国境の難民村へ戻らなけ
ればならない。ソピアップも︱︱そこは前線なんです。
だれも障害のある者を守ってはくれない。私はこれから
なにか大きな戦闘があるような気がするんです。しかし
それを避けるのはむずかしいでしょう。せめてソピアッ
プだけでも、可能性があるのなら、何かやってあげたい
んですよ。ほんとうはみんな日本へ行きたい。外国へ行
きたい。それはむしろ我々全体の願いなんです﹂
ムオンの開いた眼と潰れた眼が合致し、統一を見せて
小野を見つめていた。難民の奥底に渦巻く力が小野のな
かに切り込んでくる。真っ赤に焼けた溶鉱が注ぎ込まれ
る気がした。
10
猛烈に暑くなったタイの三月、夜はむしろ鎮まること
なく、いっそう燃える気配を掻き立てている。地全体が
沸き立ち、緑の狂躁が続いている。バナナの腐った臭い
や、ドリアンの強い臭気や、ランブータンの湿ったにお
いが、濃密な夜気のなかに溶け合い、むしろその無数の
息づきの混淆のうちに黒い闇の色を得ているようだった。
人気のなくなった市場の端を、小野はソピアップが描
いた絵手紙を片手に歩いていた。ソピアップは絵もうま
く、
﹁にほんへのゆめ﹂と題した絵を、
﹁わたしをにほん
へいかせてください﹂という言葉といっしょにクレヨン
で描いていた。ビル街を電車が走る架空の東京がそこに
あった。ソピアップのための新しいノートと、センター
の難民たちから頼まれた義足用の器材とその他の用材を
買って、小野はいま市暙タラ暠場暙ート暠から出たとこ
ろだった。
外れの材木置場まで来たとき、小野は尿意を覚えて草
むらに入っていった。歩いてきた方向から市場の生臭い
においがわずかに漂ってくる。民家の灯りが線路の向こ
うにもつながり、どこからか陽気なのんびりとしたタイ
の音楽が届いてくる。
材木置場の横には、二本の火炎樹が立ち、その葉を材
木の上に高く被せている。その向こうにはマンゴーのい
くつかの樹影が連なり、トウモロコシ畑へと繋がる闇を
深めていた。下からは緑のにおいが立ち昇り、果物の生
臭いにおいや、材木の上に覆い被さる火炎樹の葉と花の
香りや、材木そのものが放つ幹と樹皮と土のにおいと混
じり合って、濃密な肥えた呼吸を深めてくる。自分の性
器からほとばしる液体も、草と地の息づきのうちに燃え
ている。腐敗から再生への巨大な巡りのなかに組み込ま
れていく少量の排尿でありながら、放出する肉体の芯の
火照りは周囲の燃焼と確実に呼応していた。音もなく吸
い込まれていくそれが、逆に豊かな土と草の量を感じさ
せた。乾季の暑さのなかで、昼は体内の水分がほとんど
汗として発散してしまう。たくさんの水を飲むが、その
まま発熱と蒸散の循環のなかに消えていく。
立ち騒ぐ亜熱帯の夜の気配のなかで、昼の市場の喧噪
が、いっそう鮮やかに蘇ってきた。蜥蜴や蛇やマングー
スやアルマジロの動き回る姿が、活気に満ちた人間の表
情と重なって押し寄せてくる。豚の頭が並び、鶏の足が
重ねられ、魚がウネウネとのたうっている肉の様々な貌
暙かた暠が暙ち暠、人々の間で祝祭の活力を醸成してい
る。棍棒で魚の頭を殴って息の根をとめて手渡す売り買
いの荒々しさが、むしろ新鮮に、生命力を帯びて感じら
れる。足を束ねられ、翼を閉じられて売られている鶏た
ちは、その紐を放たれると勢いよく数十メートルも空を
飛んでいく。鶏肉は弾力を帯びて味わいが深く、炭火に
かざされると香ばしいにおいを遠くまで運んでくる。
人々の笑顔のなかに、それらの生死を組み込み、吸収し、
引き受けて再生している力がある。尻尾を支柱に巻きつ
け、歯を剥き出した猿の表情が、めまぐるしく変わる動
きのなかから、小野を見つめてきた。
材木置場の向こうに、朽ちたイミグレーションの木造
舎屋が見える。ポル・ポト政権になってから閉ざされた
ままのイミグレーション・ハウスは、出入国手続きや税
関の機能もなくなり、荒れ果てた廃屋になっている。こ
の道を真っ直ぐ東へ行けば、国境ゲートがあり、カンボ
ジアの国道346号線の始まりになっているはずだった。
しかしそこはいまタイ軍の手で鉄条網が敷かれバリケー
ドが幾重にも築かれて、
立ち入り禁止区域になっている。
カンボジアへ向けてこの道を通り抜ける人も車の影もい
まはない。しかしそれにもかかわらず、何かが大きく動
いている気配がある。密輸商人が暗躍し、大量の物資が
カンボジア国内へ流れ込んでいる。タイ軍そのものがそ
れに関与し、莫大な利益を上げているという噂だった。
いまは中国からのポル・ポト軍への援助が増大し、タイ
軍経由で武器弾薬が国境へ運び込まれている。アランヤ
プラテートの道路を行き交う軍用トラックのなかにも、
中国製のトラックが交じっていた。材木も、カンボジア
の国内から伐り出され、軍のトラックで何台も運び出さ
れている。いま目の前にしている原木の山も、バンコク
の製材業者に売られていくはずのものだった。規則や抑
制の形の下で、もっと太く力強く動いている熱い流れが
ある。難民という存在自体が、その太い流れの一つかも
しれなかった。
トッケーが鳴き、それが市場で見た猿のけたたましい
鳴き声を呼び起こしてきた。その一角には地雷で足を飛
ばされた農民なのか、右足を失った物乞がいたが、彼に
人々が小銭や食物をごく普通に与えていたことが思い出
された。市場でも通りでも両性具有者らしい者を見かけ
る。
どんな者もそれぞれが輝きを放ちながら自由に生き、
受け入れられている。手を失った者も、足を失った者も、
病人も怪我人も、だれもがおおらかに生きる光を放って
いる。闊達な豊饒の風土が、星々の下にどこまでもひろ
がっている気がした。
以前町の食堂の華僑の老人から聞いた話がふと思い出
されてきた。アランヤプラテートの市場でも、ごく十数
年前まで、ときたま子供が立たされ、売りに出ていたと
いうことだった。貧しい父親がいっしょに付いているこ
ともあったし、仲介人が交渉することもあったという。
彼方の家々のなかに、赤い妖しい光が灯っている。そ
こは遠く北タイのチェンマイから少女たちが売られてき
ている娼家だった。ムオンの話では、カオイダンの難民
も、一部の少女が夜密かに運ばれて、そこで肉体を売っ
ているそうだった。小野も来た当初北タイの少女たちを
買った。エイズが恐くなったのと、ソピアップに日本語
を教えるようになってから、彼女の笑顔の残像が邪魔を
して、足が遠のいたにすぎなかった。
﹁また来てね﹂と
いう言葉に指切りをして頷いたまま行っていないそれは、
逆のうしろめたさとともに、宙に浮いている。
様々なものが互いにそれぞれの蔓を伸ばして絡み合っ
ている。その触手はどこまでも自由で、地下にも空にも
無限に伸びていくようだった。
子供をもらい、育てることも、繁茂する攀縁植物の自
然な繋がりのように絡み合って、生命と生活の一つの相
をなしていく気がする。
小野は亜熱帯の風土のなかで一人の少女をもらい、い
っしょに暮らしていくことがふとできるような気がした。
それなりにやっていけそうに思えた。
生活の場を日本に移しても可能だろうか⋮⋮タイの
風が、すべてを熱い夢のなかに巻き込んでいく。
東京の殺風景な日常のなかで、足を失った難民の少女
といっしょに暮らしていくという想像は、甘美だった。
つまらない自分の灰色の世界がそれによって変容し、原
色の彩りを帯びていく。無機質な堅い風景の都市の片隅
で、それは極彩色の亜熱帯の花を開かせていく。どぎつ
い赤や青の花弁の巨大な花が、夜の底から頭をもたげ、
花芯の奥を覗かせてくる気がした。
11
UNBROの緊急ミーティングから戻って来たとき、
灰色の車が入り口に停まっていた。ボディの横に
﹁ PRESS
﹂の文字が書かれている。
入口をくぐると、カメラを肩にかけたサファリコート
の日本人が立っていた。小太りの眼鏡をかけた中年の男
が小野に声をかけてきた。
﹁日本人ですか﹂
﹁そうですが﹂と答えると、男は名刺を差し出し、Y新
聞のバンコク支局長であることを示した。三月に赴任し
てきたばかりだという。手にしたノートや、ボールペン
や、サファリコートや靴が、日本のにおいをぷんぷん漂
わせていた。
リハビリセンターのなかを案内してほしいという。記
事や絵としての写真なら、JMTの病院のほうがふさわ
しい。手術や死の、もっとせっぱ詰まった状況が、運ば
れてきたばかりの難民のドラマを進行させているはずだ
った。それを言うと、病院のほうはICRCも含めてす
でに回ってきたという。こちらに日本のNGOが入って
いるというので、訪ねてきたということだった。
たまたま緊急の用事から解放されていたので、小野は
センターの中を案内することにした。
先に立ってあれこれ説明しているうちに、小野はしだ
いに不愉快な気分に包まれてきた。苛立ちが巻きついて
くる。それは新聞記者の背後にある、漠とした大きな世
界からの圧力だった。暗黙のうちに日本での身分や、地
位や、家族のことが問われている気がする。
﹁おまえは
だれだ﹂、
﹁どうしてここにいるのだ﹂
、
﹁おまえは何者
だ﹂
、
﹁おまえの肩書きは何だ﹂と窮屈な属性が調べられ
る気がした。
最近の国境の状況についてしきりにたずねながら、支
局長は、それとは別に話題になりそうなエピソードを求
めていた。適度にヒューマニスティックで、日本の読者
の憐憫と同情を煽りそうな話を探ってくる。
日本語の勉強をしているソピアップに目が行き、彼は
立ち止まって日本語の教科書のことや彼女自身のことを
たずねてきた。わずか三カ月の勉強ですばらしくうまく
なっている日本語に、彼も驚きを示した。ソピアップの
年齢や、生まれた地や、両親のいないことを、素早くメ
モしていく。
横からムオンが英語で少女のことを補足し、﹁上を向
いて歩こう﹂の歌が歌えることを伝えた。新聞記者に請
われ、また周囲のみんなも歌いだして、ソピアップはき
れいな声で﹁上を向いて歩こう﹂を歌った。
支局長はやや興奮して、カメラからレンズを構え、何
枚もシャッターを切った。忙しそうにまたノートに追加
のメモを走らせる。指が躍っていた。
小野はふと、大きな穴がひろがってくるのを覚えなが
ら、むしろその穴の底に一つの石を投じるような恐さと
ともに、支局長に言った。
﹁この子は日本に行きたがってるんです。とても﹂
﹁へえ、そりゃ、いい。とてもいい。行けるといいねえ﹂
彼の背後からムオンの潰れた眼が小野を注視していた。
それは一つの可能性を期待していると同時に、何かを嘲
笑しているようだった。
﹁ここへ来るとき、日本大使館の難民定住調査員にも会
ってきたところです。来週カオイダンにも来るんじゃな
いかな。話してあげましょうか﹂
日本に難民として定住するには、難民事業本部派遣の
難民定住調査員の調査をパスする必要がある。それが最
も速い、合法的な方法だった。
マスコミの力を誇示するような自信に満ちた語気が、
むしろ小野に後悔を呼び起こしてきた。自分の子供とし
て日本に連れていくということは、言えなかった。頭の
なかで糸がもつれた。
﹁私に何かできることがあったら言ってください。定住
調査員以外にも大使館に知り合いがいますし﹂
支局長は、小野とソピアップを並べて写真を撮った。
松葉杖を突いた難民の少女を小野がうしろから支える形
でさらに数枚シャッターを切った。
玄関へ送り出すと、すでに車を回していたタイ人運転
手が彼を迎えた。轍を残して立ち去る灰色の車を見送り
ながら、小野はなにか重大なものが自分のなかに大きく
なっていくのを覚えた。
突然侵入してきた日本の世界が、
透明な毒をセンターのなかに撒き散らしていったようだ
った。
12
星のきれいな夜、ギターをひとしきり弾いたあと裏庭
に出ると、北東の方から轟音が鳴り響いてきた。タイ軍
の戦車部隊が、国境方面へ移動している。二〇トン近く
ある鉄の塊りが、ディーゼルエンジンの響きとともに、
カンボジア方面へ向かっていた。エンジン音とキャタピ
ラ音が絡み合い、
金属の車体の軋みが鈍く増幅し合って、
地鳴りのように聞こえる。
ベトナム軍は、これまでタイ領を侵したことは一度し
かない。三年前のノンマックムーンの戦闘のとき、タイ
領内に六キロ侵攻した。そのときタイ軍と戦闘になった
が、タイ軍はベトナム軍の前に翻弄された。いま、国境
の向こうにそのとき以上のベトナム軍が集結していると
いう。
北ベトナム軍精鋭部隊がバッタンバンから前進し、
南からソクサンを落とした部隊も合流しているという話
だった。
三月下旬、第九師団との交替は早くなり、機甲部隊が
すでに国境前線の配置に着いていた。
地の響く音のなかに、狂騒の気配が高まっていく。破
壊と攻撃の意志が、緑の森へ突き進んでいく。熱い燃え
る空気のうちに、それは難民たちの無数の息づきとあえ
ぎと呼応し、狂おしい嵐を巻き上げていくようだった。
翌朝、タイ軍の偵察機が国境上空を旋回していた。ヘ
戦車部隊が動き始め、その日未
54
リコプターの爆音が聞こえている。国境近くに集結して
いたベトナム軍のT
明、サイト6を強襲していた。
東方から激しい砲声が轟いていた。タイ軍の兵員輸送
車が国道を北上していく。ジープや装甲車が、砂埃を巻
いて東方への道を曲がっていった。
ベトナム軍の一〇五ミリ砲の音がひっきりなしに聞こ
え、その連射音が国境の地を揺るがせている。森全体が
咆え震え、鳴動していた。
難民村の炎上する煙が森の上に立ち昇り、それは木々
に燃え移る勢いを見せて大きくなっていた。サイト6の
難民は緊急避難を開始し、
タイ領内へ深く移動している。
二万の難民が対戦車壕を越え、タイ軍最前線の防御陣地
の近くへ雪崩れこんでいた。
朝九時、東方からの砲撃が止んだ三〇分後、北からの
ベトナム軍部隊四個師団が戦車二〇両を先頭にサイト6
に突入し、全体を占拠した。タイ軍の重砲部隊から、狂
ったように射撃音が轟音を立てる。上空からヘリコプタ
ーが着弾地点を報告し、射撃目標を誘導している。しか
しずれた方向は容易に修正されず、ベトナム軍の主力占
拠部隊に大きな被害は与えていないようだった。
UNBROの無線機から、ダミ声が聞こえる。
﹁ベト
ナム軍、第2314師団がサイト6を占領した。難民は
南西四キロの地点に緊急避難。タイ軍が応戦している。
ベトナム軍は前進している。警戒警報、警戒警報、
伹、 Situation
伹⋮⋮﹂
Situation
その声は、切迫した国境の状況をがなり立てていると
同時に、実況中継の躍動感がある。雑音が混じっている。
力に溢れたその声はむしろ喜びに溢れているようだった。
サイト6自体、すでにタイ領内二キロの地点にある。
ベトナム軍の部隊は、さらに数個師団の大部隊が後ろに
続いている。それはいつでも大きく左右に展開できる布
陣をとり、わずかずつ前進していた。
タイ軍のヘリコプターの数は、二機から三機になり、
さらに新たな偵察機がはるか上空を旋回していた。
午後一時、前進したベトナム軍は、国境から四キロの
タイ軍防衛ラインの最前線を襲った。後方から援護射撃
するベトナム軍の砲撃は正確で、一点に集中し、タイ軍
堡塁を撃破し、すぐそのあと戦車群がその地点に殺到す
る。防衛ラインは突破され、タイ軍は雪崩れを打って後
退した。
ノンサメット方面にもベトナム軍が動いているという
情報が入ってきた。南のクメール・ルージュの本拠地ノ
の情報では、ベトナム軍の主目標は
80
ンプル方面にも、大規模な戦車部隊が展開していた。タ
スク・フォース
ノンプルで、クメール・ルージュの壊滅を企図した本格
的な攻勢だという。サイト6とノンサメットの攻撃は、
陽動作戦と、牽制をかねてタイ軍の力を測定するための
ものにすぎない。包囲の動きを示しつつ、クメール・ル
ージュの最強の基地と言われるノンプルを落とすことが
主目的だった。
タイ軍第九師団は防衛ラインを破られ、
狼狽していた。
タイ軍兵士の死体がトラックで運び出され、師団後方で
まとめて焼かれていた。遺棄されたままのベトナム軍兵
士の死体が炎天下で急速に腐敗し、ときおり風が強烈な
臭いをカオイダンの入口付近まで運んできた。
ベトナム軍は三つの勢力に分かれ、一つはサイト6を
占拠する部隊、一つは北のアンピルに向かう部隊、そし
てもう一つはノンプルに向かう部隊として、勢力を固め
ていた。後方からの補給を待っているのか、力を溜めて
いるのか、いったん動きを止めたまま、動かなくなって
いた。
ICRCとJMTには緊急に患者が運び込まれていた。
国境からの車が続けざまに滑りこみ、負傷者を担架で病
院内へ運んでいく。玄関は血で真っ赤だった。クメール
語やタイ語の怒鳴り声、叫び声が、リハビリセンターに
まで届いてくる。
周囲の慌ただしい動きや切迫した空気、
UNBROの無線機からの声によって、センター内も緊
張した空気に包まれていた。
車が立て続けにセンターの玄関に三台停まった。IC
RCからコーディネーターとUNHCRのタイ人職員と
がリハビリセンターに駆けこんでき、小野とムオンを呼
んだ。
﹁病院のベッドが間に合わない。リハビリセンターの空
いているベッドを貸してほしい﹂と繰り返した。
いくつか空いているベッドがあったので、承諾した。
すぐに患者が運びこまれてきた。右の腕がぶち切れて
いる者、胸が真っ赤に染まっている者、血のにおいと色、
負傷者たちの呼吸と喘ぎが、
センターのなかに充満した。
ベッドだけでなく、
空いている床に緊急にゴザが敷かれ、
その上にもいくつもの体が横たえられた。千切れてぶら
下がっている赤い肉片や、半分潰れた顔や、血糊の髪の
毛が、外の国境の世界をそのまま侵入させ、殺伐とした
空気を漲らせた。リハビリセンターの患者たちは、それ
らが自分自身の過去とつながるものであることに脅えを
増幅させながら、遠巻きに彼らを見つめていた。
夕方、さらに砲声が激しくなり、新たな負傷者がタイ
軍のトラックで大量に運ばれてきた。ICRCの前はゴ
ッタ返し、負傷者は病棟に入りきらず前庭と広場に寝か
された。リハビリセンターのなかはすでにいっぱいで、
近くには代わりの建物もない。広くゴザが敷かれ、その
上にマグロのように負傷者たちが血だらけのまま転がっ
ている。腕や脚の、肉の潰れた真っ赤な個所が、ピンク
の斜光のなかに花のように鮮やかにあちこちに開いて見
える。青ざめた顔が、夕陽を映して金色に見える。それ
ぞれに目を閉じ死と生の間をさまよっている顔が、むし
ろ悦楽の極致の花々のように輝いて見えた。
小野は無線機で呼ばれ、センターの裏の広場が使える
かどうか、センターのなかのコーディネーター助手を手
配してくれないかという要請に、JMTまで答えに行っ
た。コーディネーターもすでにカルテを作ることができ
ず、クメール人の助手たちが負傷者たちの間を駆け回っ
ている。彼らはマジック・インキを手に持ち、負傷者の
、 104
⋮⋮足元に彼らをよけながら歩
103
額や頬に、患者番号を表す数字を直接書きこんでいる。
、
87 ⋮
88⋮、
く小野の目に、それらはすべて死体番号のように飛びこ
んできた。小野が躓いたとき見た患者の顔には、書くと
き勢い余ったのか、負傷者が動いたのか、マジックの数
字の一部が目を縦断していた。
ソピアップが発熱し、毛布にくるまったままうなされ
ていた。風邪のようでもあったし、なにか他の熱病のよ
うでもあった。唇が乾いてひび割れ、白い表皮がささく
れ立っていた。小野は忙しいなかでアランヤで買ってき
たオレンジジュースを飲ませたり、
果物を食べさせたが、
ソピアップは受けつけず、いったん飲み込んでも、すぐ
に吐き戻した。
﹁ちょっと心配です﹂とムオンが言った。小野が額に触
ると、焼けた鉄のように熱く、首や胸、耳までもが熱か
った。
マラリアかもしれないと思ったが、
ムオンは否定した。
﹁もしマラリアなら、毛布一枚くらいかけたって、きき
ませんよ。震えが止まらない。歯の根が合わないくらい、
ガチガチ音を立てます﹂︱︱原因がわからないせいか、
ムオンはいつになく心配そうだった。確かにひどい震え
はなく、ただ魘されたように、苦しく首を振るだけだっ
た。悪い夢を見ているのか、眉根を歪ませ、閉じた目蓋
を細かく震わせている。苦しさにもがき、そのたびに毛
布がずれ落ちる。かけ直そうと引っ張り上げたとき、ふ
とぶち切れた足の回癒部分に手が触れた。丸みを帯びた
そこは、やはり燃えるような熱を帯びていた。むしろそ
の部分が化膿し、炎症が上部へひろがってきているよう
な錯覚を抱かせた。
﹁JMTの医者に診てもらおう﹂
﹁いま、山のような負傷者で、熱病どころじゃないでし
ょう﹂
小野は、ソピアップが夢のなかに追い立てられ、もう
一つの鮮やかな世界を生き始めている気がした。地雷原
を脱け出したあと、さらに広大な地雷原に追い立てられ
ていくようだった。
小野はふと彼女が何か奇妙なものを受胎し、吐き気に
襲われている気がした。亜熱帯の溶樹の種を宿し、狂気
と燃焼を孕んでいる。悪夢の胚種が受粉されている。国
境の風土全体が彼女の腹部に入り込み、生命を得て、膨
らみ始めているようだった。
熱のなかで、彼女はうわ言を発した。
ソピアップの熱は、なぜか夕暮れ近くになると一時的
に下がった。それでもまだ三九度あったが、下がる感覚
が肉体の闘いに束の間の休息を与える。顔に火照りを残
しながら、ソピアップの表情に安らぎの色が浮かんだ。
ほつれた髪が汗ばんだ頬に張りついている。苦しみから
ひととき解放されるときの美しい恍惚感がソピアップの
顔を被っていた。
室内の暗がりの竹格子の向こうに、サーモンピンクの
亜熱帯の夕焼けが、暮れてゆく果てしない空をめぐらせ
ている。雲が真紅に染められて、空全体が燃えあがって
いく。乾季の鮮やかな夕焼けの光のなかで、混乱する病
棟全体が天と繋がっているようだった。
ソピアップの陶酔的な表情が、溶けて流れ出し、天女
の舞いを踊り出すような幻想に襲われた。どこからかク
メールの音楽が聞こえ、まろやかに木琴や鉦を打ち鳴ら
す音が聞こえてくる。優雅なリズムと旋律が、森の奥か
ら融けるように広がり、ゆるやかな舞いを誘っていく。
アンコールワットの壁面に彫られた無数のアプサラの像
が、石の静寂から抜け出し、旋律に呼応して輪舞を展開
する。反って華麗に弧を描く指先に、深い緑の匂いが絡
みつき、密林の奥行きを造形していく。黄金の首飾りや
宝石をちりばめた腕輪の細かな光が、木漏れ陽のように
燦爛と揺れて、緑の宇宙を開示してくる。アプサラたち
の豊満な肉体が、小野を密林の奥へと誘っていく。婚姻
の楽音を奏で、祝宴の形を結びながら、樹々の根と梢と
蔦と葉が網の目のように絡まり合う密林の奥の聖所へ導
かれていくようだった。緑の洞窟に足を踏み込んでいる
自分を覚えた。
﹁オノサン、モット日本語、教エテクダサイ⋮⋮﹂
目を閉じたまま美しい恍惚とした微笑で、ソピアップ
は言った。
﹁ワタシハ東京へ行キタイデス﹂
ベトナム軍はアンピルの方面に新たな動きを見せてい
た。朝の検問は、一人一人の顔の確認は厳しくなりなが
ら、時間はむしろ短くなり、認識できる者は極力手短に
切り上げられた。
サイト6の戦闘はおさまったが、砲声はまだ北へ移動
しながら激しく続いている。
﹁シチュエイション3﹂の
警戒態勢はまだ解除されず、戦闘の緊迫感は依然として
色濃く漂っている。サイト6のベトナム軍も、いつ動き
だすか予測がつかなかった。
負傷者を運びこむ車の台数は減ったが、それは負傷者
が少なくなったということではなく、むしろ現場で収拾
がつかないため、ほったらかしにするケースが多くなっ
たことを意味していた。
リハビリセンターのなかでも、JMTの前庭でも、昨
夜のうちに何人も息絶えていった。それらは即座に死体
として運び出され、新たな負傷者がそこに寝かされた。
死体はすぐに腐乱するので、一カ所に集められ、山積
みされた。死体の上に死体が放り投げられる。いくつも
の脚が、薪のように交錯し、積み重なっていく。閉じた
目や半ば開いたままの目、あいたままの口が、強い光の
なかで笑っているように見えた。乾いたクメール語の声
が作業を繋げていく。
ノンサメットのKPNLFゲリラ基地の武器貯蔵庫が
爆発し、その音がかなり遠くまで響き渡った。
第九師団の動きが切迫していた。ベトナム軍の影がタ
イ領内をさらに大きく覆ってきた。
13
夕暮れ、亜熱帯の斜陽がすべてを紅く染めていた。あ
たりの土も草もサーモン・ピンクに燃え上がっている。
センターの前には負傷者たちのゴザが連なり、横たわっ
たいくつもの体が赤土を埋めつくしていた。死んだ患者
を運んでいく担架の影が、夕陽のなかでゆっくりと動い
ていた。
義足のギーギーと鳴る音が小野の後ろから近づいてき
た。ムオンは小野に軽く挨拶をしたまま、あまり小野に
は意を払わず、
ほかの考えごとに没頭する姿勢を示した。
松葉杖をリハビリセンターの軒下の竹壁に立て掛け、柱
に背を持たせて、一本脚で立った。どこからかもらって
きたタイ煙草﹁クロンティップ﹂のよれた箱の中から、
一本を取り出し、口にくわえた。ニッパヤシの軒裏が陰
をなしている。それを境に、空を染めるサーモンピンク
の色と、センターの窓に垂れ下がるいくつもの義足とそ
の背後の暗がりとが、極端な対照をなしてムオンの顔に
光と影を濃くし、その表情を沈ませている。ひどく疲れ
ているようだった。
煙草に火を点けようと、ムオンはポケットのなかのマ
ッチを探していた。小野はムオンに近づいていき、自分
の百円ライターを取り出して、ムオンの顔の前に差し出
し、ボッという小さな音とともに火を点けた。その炎は、
紅い斜陽のなかで、純粋な輝きを帯びて揺れていた。
ムオンは小野の手をそのまま両手で抱え、固い隆起の
ある掌で包みこむようにして火芯に口を近づけた。ムオ
ンの手の感触が、小野の手に体温を伝えてきた。ムオン
の手の甲の中央の、
ヒトデが付着しているような傷跡が、
すぐ目の前にあった。
いったん裂けたものが埋められて、
グロテスクな隆起をなしている。ムオンのよりかかった
脚のやや突き出したようにしているぶち切れた部分が、
小野のズボンに触れてきた。
ムオンは大きく胸に煙を吸いこみ、うまそうに眼をゆ
っくり閉じるようにしてから、もう一度紫の煙を光のな
かに吐き出した。
﹁オー クン チラゥン﹂とムオンは言った。
ムオンは最後に残ったよれよれの煙草を箱のなかから
指で抉るようにして取り出し、﹁どうですか﹂と小野の
前に突き出した。
﹁オー クン﹂と小野は言い、それを抜いて口にくわえ、
火を点けた。曲がった先っぽのためと、角度を変えて近
づけ過ぎたため、炎が髪をチリチリと焼いた。
﹁クロンティップ﹂の強い味が、胸のなかに降りてくる。
小野はムオンの横に立て掛けられた松葉杖をよけるよう
にして並び、竹壁に背をもたせた。自分も疲れているこ
とを自覚しながら、横からムオンに話しかけた。砲声が
遠く轟いてきた。
﹁疲れてるか﹂
﹁いや、だいじょうぶです﹂
互いに煙を吐き出すタイミングが一致し、沈黙が二人
の間を満たした。
彼方の砲声の響きを二人で聞いていた。
しかしむしろその音のなかに決定的な裂け目がのぞいて
いるのを小野は覚えた。それは熱帯の土の下に凍りつく
ような世界を小野の足元にひろげてきた。灼熱と表裏を
なし、それがゆえにいっそう灼熱を燃え立たせている冷
たい地獄が足元に切り立っているようだった。はるか下
方から無数の叫び声が小野を呼んでいる。
砲声を、ムオンはいま別な音で捉えている。潰れた眼
の奥でそれを見つめ、自分と向かい合う対象として︱
︱突き進んでいく世界として受け止めている。避けら
れないもののなかに踏みこんでいく訣別の意志が揺曳し
ていた。
﹁オノサン、お別れしなくちゃなりません﹂
ムオンは疲れた表情のなかに、まだいくぶん戸惑いを
残しながらも、底に低い力をこめて言葉を発した。声の
奥に刃物がぶつかり合うような感触があった。潰れた眼
が前を見ている。それは小野とは無関係な方向を向きな
がら、小野に直接語りかけている錯覚を抱かせた。小野
は二人の間に横たわる決定的な溝のなかに、何かが形を
取ってくることをすでに感じ取っていた。しかし現実に
言葉として発してくるとき、あらためてそれが具体的な
破壊力として自分を襲ってきたのを覚えた。小野はギョ
ッとし、
不意打ちのような唐突さにうろたえるとともに、
破砕力の大きさに一瞬身震いした。あらためて間近に見
るムオンの潰れた眼に、自分の知らない世界が赤裸々に
現れてくるのを感じた。
﹁オノサン、最後の重要な話です。聞いてもらえません
か﹂
﹁ああ﹂と小野はよくわからないまま引きつれた声で言
った。
﹁明日の晩、カオイダンの一部の難民は前線に連れてい
かれます。私たちは真っ先にトラックで移送されるそう
です﹂
︱︱何のために、という言葉を小野は呑み殺した。
話の内容よりも、むしろある感情の一つの形としてそ
れは切りつけるように小野を打ってきた。強烈なものが
現実の表皮を容赦なく引き剥がしていくようだった。そ
の情報はセクションリーダーか、あるいはタイ軍が絡ん
でいるものにちがいない。しかしそれはどうでもいい、
枝葉末節のことのような気がした。
なにか重い手応えが、
その情報の確定性を伝えていた。厳然とした事実がそこ
にあり、押し寄せてくる洪水の予感がすべてを圧倒して
いた。ベトナム軍の攻撃のとき覚えたいっさいを呑みこ
むようにおおいかぶさってくる理不尽な力がある。とほ
うもない一つの力が渦巻いている。その凶暴な力の存在
をいまさらながらすぐ身近に覚えた。小野は無言のまま
ムオンの置かれた立場を理解しようと努めた。小野の脳
裏に自分が帰っていく東京の生活が鮮やかに浮かんでき
た。
﹁⋮⋮私たちはカンボジアの人間です。私たちは国を
失っている。惨めなものです⋮⋮﹂ タイ軍のヘリコ
プターが南の空を爆音を立てて飛び過ぎていった。
小野は言葉が根拠を失って空回りしているのを覚えな
がら、機械的に言葉を発した。自分でも不愉快な滑る感
覚があった。
﹁どのくらい連れていかれるんだ﹂
﹁トラックが一〇台以上用意されているそうです﹂
﹁ここにいるみんなが⋮⋮﹂
﹁たぶん。それからもう一つ留置場の隣の一区画が運ば
れていくようです﹂
﹁︱︱何のために﹂小野はやっと声を前に出していた。
﹁⋮⋮オノサン、我々はベトナム軍の前に置かれる。
ベトナム軍は、我々を踏み越えてはこないという計算で
す﹂
﹁人間の壁﹂という言葉が小野の脳裏を満たした。砲や
戦車が並ぶ前に、生身の人間の壁が作られる。しかしそ
れがほんとうにベトナム軍の進攻を阻止できるのだろう
か。むしろその生々しい行為が、人間の考え出す試みの
グロテスクさを抽出してくるようだった。
﹁移送されるなかになぜセンターの人間が入るってわか
るんだ﹂
﹁我々のような人間が最もやりやすい。わかるでしょう
⋮⋮オノサン。もう決められていることです﹂
留置場の東側のセクションは最も古くからカオイダン
にいる難民たちだった。クメール・ルージュの傘下にい
た者も多い。定住条件に合わず、外国へ移住する希望も
すでになく、そこに残されている難民だった。
ムオンの手から長くなった煙草の灰が曲がったまま地
面に落ちた。
ムオンは短く火が黒い指に近づくまで喫い、
最後の一服を深く胸に入れて、煙草を静かに落とした。
ゴムゾウリで力をこめてムオンはそれを踏み潰した。
﹁オノサン、難民て何なんでしょうね。どうして私たち
はこうなるんでしょう。私たちがこの世界で特別罪を犯
したんでしょうか。それとも、私たちは来世で幸福にな
るとでも約束されているんでしょうか。
私の潰れた眼は、
もう光を見ることをやめてしまった。しかしこの潰れた
眼のほうがむしろ真実を知っているような気がします。
すでに光を失ったまま、もうけっしてきれいな現実を見
ることがない。ただ憎悪の塊りとして石のように硬く存
在していることのほうが、この世界に叶っているのかも
しれません。みごとなものだ。この世界はどこまでも裏
切っていく﹂
小野はムオンの横顔を盗み見た。サーモン・ピンクの
余光が隻眼を染め上げている。少しずつ濃くなってくる
あたりの影が、隻眼に収斂し、ムオンの底をひろげてい
く。それはムオンの闇の領域を解き放ち、活力を増大さ
せていくようだった。
小野はムオンの閉じた眼がいま大きく開いていく気が
した。眼球のないそれが、石の硬さを持ち、砂岩の瞳を
開いてくる。密林のなかで眠り続ける太古の石像の顔が
立ち上がってきた。頭部に緑の蔓が絡まり、腐蝕する葉
が沃土を重ねている。石の割れ目に楔のように潜り込ん
でいく溶樹の根が、人間の営為を超えて繁茂する旺盛な
密林の生命力を煽ってくる。巨大な石像の眼は、広大な
時間の海のなかで、暗黒を飲み込んで哄笑している。無
表情な灰色の眼は、闇を吸収していっそう大きく奥の構
造をひろげている。厚い唇が笑い、奈落の喉を虚無の豊
饒のうちに開いている。石化した眼が、歴史の暗黒をむ
しろ緑の繁茂の虚無へと開かせていく。裏切りや処刑や
殺戮や圧殺の世界が氷の冷たさと表裏をなして、熱帯の
底をひろげている。そこでは止まった時計が動きだし、
停止していた時間が滑り流れ、失われた四肢が再生され
ていく。おぞましい歴史の虚無が、いっさいを嘲笑し、
祝祭を歌っている。
ムオンの眼は石の表情を大きく開き、
この世界の反転を喜んでいるようだった。
開いたほうの眼が、必死に生にすがりつき、それがゆ
えにムオンの個性を明確にするように、清洌な眼差しで
小野に向かってきた。切羽詰まったそれが、むしろムオ
ンにこの世での美しい形を与えるようだった。
﹁オノサン、最後のお願いです。聞いてもらえませんか﹂
小野は燃えさしを捨て、ズックで消し潰した。
﹁何だ﹂
﹁このことを、だれかジャーナリストに伝えてもらえま
せんか。新聞が書いてくれれば、ひょっとしたら止めら
れるかもしれません。マスコミが騒げば、タイ軍の動き
も変わる可能性がある。それが唯一の希望です。オノサ
ン、だれかいませんか﹂
頭のなかが混乱しながら、小野はムオンの開いた眼を
見つめた。ムオンの二つの眼の間に、ひどく遠い距離が
ある気がした。しかしむしろその遠い距離が、差し迫っ
た状況から逃れようとするムオンの大きな力を感じさせ
た。小野は混乱のなかで足掻くように自分の記憶のなか
にジャーナリストの名を探した。
何人か思い当たったが、
現実に連絡がとれるかわからない。
﹁できるかどうか自信がないけど、やってみよう﹂
ムオンは笑みを浮かべ、小野を見つめてきた。
﹁アリガトウ、オノサン。私はオノサンのことを忘れな
いでしょう﹂
ムオンの笑みが潰れた眼と和合して、小野を包みこん
できた。
﹁オノサン、もう一つお願いがあります。ソピアップを
カオイダンから連れ出してもらえませんか。最前線に移
送されたら、もう戻ってこれないでしょう。連れ出すな
らいましかない。なんとかできませんか﹂
熱にうなされるソピアップの顔が浮かんだ。それは密
林の奥で、陶然とアプサラの舞いを舞っている。恍惚と
した微笑みが絡みついてきた。
﹁むずかしいが、なんとかやってみよう﹂
﹁あの子だけは助けたい。オノサン、お願いします﹂
﹁どうすればいい﹂
﹁今夜しかありません。深夜一時に、この裏の鉄条網に
車を回してください。夜は危険ですが、それしかない﹂
小野は夜中に国境の国道を走らせることの危険を想像
した。外国人がよく車を停められ、金品を奪われている。
強盗の危険が多く、つい先週もFAOの職員がやられ、
警告が出ていたところだった。
﹁やってみよう、どうなるかわからないが﹂
ムオンは手を差し出し、小野に握手を求めてきた。
﹁アリガトウ、オノサン、もしこのままお別れになった
ら、私たちのことを忘れないでください﹂
小野はムオンの黒い手を握り、その掌の温かな感触を
受け止めた。初めて会ったときと同じように中央に肉の
隆起があたってくる。死を乗り越えてきた表徴がそこに
あり、また新たに発熱し始めていた。いまそこからムオ
ンの体を駆け巡る血の脈流が、音を立てて流れこんでく
るようだった。それはムオンの温かみであると同時に、
死んでいったたくさんの人間の血の温かみのような気が
した。それはまたカオイダン全体の人間たちの血の鼓動
のように思えた。いまも国境全体にドクンドクンと脈打
っている温かな血の流れがある。それが流れ込んでくる
気がした。
小野は痛切な思いをこめて、
ムオンの手を握り返した。
ムオンもさらにまた強く握り返してきた。互いに別の体
でありながら、一つになり、二つの体を同時に駆け抜け
る還流が、熱い毒のようなものを宿していく気がした。
14
宿舎に戻ってからかけたバンコクへの電話は、Y新聞
の支局はだれも出ず、テレビ局にも繋がらなかった。受
話器の向こうでベルの音だけが鳴り響いていた。
直接バンコクへ行ってすべての新聞社に駆け込もうか
と思ったが、新聞社の支局の所在さえはっきりわからな
い。バンコクへの最終バスには間に合うものの、いきな
り帰ったところで、記者と会えるかどうかさえわからな
かった。明日の夕刊では間に合わないだろう。無駄骨に
なる可能性が高かった。第一、会えたところでどうやっ
て信用してもらうのか、証拠がなかった。
ふと小野は、ホテルへ行ってみようと思いつき、外へ
出た。アムネスクⅡホテルには、よくジャーナリスト
が泊まっている。以前日本人のフリー・ジャーナリスト
が長期滞在していたという話も聞いたことがある。クメ
ール・ルージュのゲリラといっしょにトンレ・サップへ
行ったという噂だった。もしかしたら彼が戻っていて力
になってもらえるかもしれなかった。
歩きながら、熱を出して魘されているソピアップの顔
が浮かんだ。カオイダンを出るとき覗いてきたベッドで
は、いくぶんよくはなっているようだったが、小康状態
が火照り顔をやや穏やかに見せているに過ぎなかった。
小野の頭のなかにはまろやかな森の楽音が鳴り続けた。
そのなかでソピアップは熱にうかされながら舞い、むし
ろ優雅に森をさまよい続けているように見えた。
アムネスクⅡホテルの受付は、安アパートの管理室
を想わせる粗末な造りだった。一三、四歳の少年が受付
のボーイをしていた。四階までの階段を、他の少年がゴ
ムゾウリで駆け降りてきた。その音が建物のなかにひど
く大きく響きわたった。
小野がタイ語で受付の少年に日本人ジャーナリストの
ことを聞くと、彼はカンボジアのなかへ入っていっても
う音信がないこと、たぶん死んでしまっただろうと答え
てきた。いつも最上階の隅の402号室に泊まっていた
ことを教えてくれた。
外から灰色の車が入って来、だれかが降りてきた。
﹁やあ、先日はどうも﹂
Y新聞のバンコク支局長が立っていた。
小野は偶然に救われる思いで、挨拶した。
﹁バンコクに帰ったんじゃなかったんですか﹂
﹁一度戻ったんですが、また来たんですよ。国境がちょ
っと荒れているようなのでね﹂
﹁助かりましたよ。探してたんです。バンコクまで行こ
うとも思って︱︱﹂
﹁ああ、それはちょうどよかった。タイミングがいい。
あれ、あの女の子ね、日本語のうまい女の子。日本に連
れて行きたいとかいう。それね、載りますよ。いろいろ
協力していただいてありがとうございました﹂
﹁ソピアップですか﹂
﹁明日の朝刊です﹂
﹁日本に行けますか﹂
﹁反響があればね。世論があれば、ハンディがあっても
外務省もすんなり動くかもしれないな﹂
小野のなかに、ソピアップといっしょに東京のアパー
トで暮らす甘美な幻想が頭をもたげた。蜜のような時間
が、都市の空間の中心に亜熱帯の葉を繁らせていく。蔦
を触手のように伸ばし、原色の花を咲かせ、ジャングル
の緑をひろげていく。互いの体を緑の流れが交差し、心
臓を触れ合わせて血を脈流させる。クメールの楽音が鳴
り響き、ぶち切れた部分に、唇をつける⋮⋮
﹁あの少女を東京へ連れていけるように、私も及ばずな
がら力を貸しますよ。日本人はもっと難民の現実を知る
べきだ﹂
外から砲声が届いてきた。
﹁まさか、アランヤまでベトナム軍が侵攻してはこない
だろうな﹂
小野はソピアップの話を断ち、強い口調でムオンの話
をした。明日の晩、カオイダンの一部の難民がどさくさ
に紛れて前線に運ばれることを訴えた。
支局長はメモを取りながらときどき小野の顔を覗き込
んできた。
聞き終わると、﹁ストリンガーに確認してみよう﹂と
ホテルの電話に近づいていった。
﹁プラシッド﹂という
タイ人の名前が聞こえた。
現地情報提供者
まもなく笑い声が弾けた。冗談を言い放つ大きな英語
の声が、受付の漆喰の天井に跳ね返った。その声は、電
話の向こうでタイ人が哄笑している表情を想像させた。
受話器を置くチーンという音がした。支局長が近づい
てきて、安心した顔で言い放った。
﹁軍にはそういう情報はないそうだ。だいじょうぶだ
よ﹂
ストリンガーの哄笑が、狡猾な、残虐な響きを帯びて
天井へ巻き昇っていった。それと拮抗しながら、ムオン
の顔が鮮やかにめぐってきた。ストリンガーの顔と対峙
し、ムオンの顔が大きくなっていく。ムオンといっしょ
にセンターの難民たち全体の顔が揺れ踊っていた。それ
は怒りであり、怯えであり、恐怖でありながら、同時に
喜びであり、陶酔である乱舞のような表情を浮かべてい
た。ムオンの顔が巨大になり、一つの柱として闇のなか
に立っていく。状況と対決し、角逐する激しい表情が、
怒りを増していく。ムオンの闇を見つめる眼が、大きく
見開いて動いている。潰れた眼が、殺意を露わにして激
しく何かに向かっていく。それは闘いながら、しかしし
だいに何か別な様相を見せていくのだった。
潰れた眼が、
むしろタイ人ストリンガーの笑いになっていく。闘い、
向かい合っていたものが、逆に和合し、融け合っていく。
ムオンはストリンガー自身として笑っているようだった。
﹁そんなはずはありませんよ。明日の晩、彼らは前線に
移送されるんです。軍のトラックが用意されている。ち
ゃんと確認してくださいよ﹂小野は声を荒げていた。し
かしその怒りは、哄笑の渦のなかに虚しく巻き込まれて
いくようだった。
支局長は薄笑いを浮かべ、NGOのデマと決めつける
ような冷たい視線を送ってきた。そこには濁った日本の
世界が揺曳している。まったく安全な立場から刺激だけ
を求める卑怯な快楽主義がある。真の動きには鈍い、豚
の目の光があった。
砲声がまた轟き、東方から雷鳴が近づいてくるような
錯覚を抱かせた。
もしほんとうにムオンたちが移送されないとしたら
⋮⋮安堵が不安になり、不安が安堵になる。自分の内
側がめまぐるしく入れ替わり、そのたびに振幅が大きく
なる。支局長の情報はムオンの言葉を否定していた。し
かしムオンの真剣な言葉が、
小野の底を突き上げていた。
軍関係者が機密をストリンガーに簡単に漏らすだろうか
⋮⋮
頻繁に響く砲声が何かが近づいている気配を呼び起こ
した。それはたんにベトナム軍や戦闘が近づいていると
いうだけではなく、大勢のざわめきや歌声が大きくうね
って高まってくるようだった。
小野は時計を見た。まだ午前一時までには四時間以上
ある。その間になにかができるかもしれなかった。
﹁小野さん、ちょっと飲みませんか。私も喉が乾いてし
まって﹂
それどころではない︱︱切迫感が怒りに変わりそう
だったが、ここで支局長と別れても他に手立ては思い当
たらなかった。むしろ酒場に行けば他のジャーナリスト
もいるかもしれない。支局長に付いていって好転するこ
とを待つほうがまだ期待できるそうな気がした。もしか
したら軍人もいるかもしれない。その情報によって彼も
動くかもしれなかった。支局長のあとに付いて小野もホ
テルの西にある酒場へ歩きだした。
扉を開けると、暗い照明のなかに安っぽいエレキバン
ドの音が豪雨のように降り注いできた。ギターの高い音
と低い音が、頭の上から腹の底まで、金属音と同時に肉
太の振動音を響かせてくる。ドラムのガチャガチャした
リズム音になんとか乗りながら、エコーのきいたマイク
からのタイの女性の声が、メロディーを紡いでいる。厚
化粧の顔が真っ赤に塗られた唇を際立たせ、その動きを
いっそう毒々しくしている。紫のきらびやかな衣装にち
りばめられた無数のガラス玉が、むしろ田舎くささをそ
そりながら、天井に回転するミラー・ボールからの細か
な光を受けてきらめき、人工の光の華やかさとそらぞら
しさを、
煙草の煙と酒のにおいのなかに映し出していた。
それぞれのテーブルに置かれた蝋燭のランプの小さな
光に女たちと客の顔が仮面のように浮かび上がる。アラ
ンヤプラテートに一つだけのカフェは、普段この町の商
人や、バンコクや近県から集まってくる闇商人たち、休
暇中のタイ軍の下級将校や、ジャーナリストたちで賑わ
っていた。つい一カ月前まで国境が落ち着いてむしろさ
びれ気味で、あまり人が入っていなかったが、ベトナム
軍の接近とそれに続く攻撃で、再び人が集まり、活気を
取り戻している。戦争と難民が人と賑わいを呼び、人間
の死の気配がエネルギーを膨張させる。殺そうとする意
志と、生きようとする意志の衝突が、それ自身大きな渦
をなして、より大きく、より激しく他者を巻き込んでい
く。娼婦たちも、濃い肉体のにおいを発散させ、それぞ
れのシルエットの内側に、欲望を膨らませていた。
小野は酒をつがれながら四方に眼を走らせ、ジャーナ
リストらしい白人二人をみとめた。軍人はいなかった。
支局長はウィスキーグラスを手に、
小野に勧めてきた。
﹁何に乾杯しようか︱︱難民が無事カンボジアに帰れ
るようにってところかな﹂
合わせたグラスの音が、小野の手に共犯者の誓いのよ
うに伝わってきた。
闇商人たちの影が、赤い光のなかで揺れている。
支局長がマイルドセブンを取り出し、小野にも勧めて
ライターの火を近づけてきた。炎に顔を近づけたとき、
ムオンの顔が浮かび、いっしょに煙草を喫った感覚がむ
しろ裏切りの可能性を孕んで自分を包んできた。タイ軍
の移送はない⋮⋮﹃オノサン、我々はベトナム軍の正
面に運ばれていくんです﹄⋮⋮﹃我々は壁です﹄⋮⋮
ムオンの潰れた眼が、闇のなかで大きく笑っていた。ウ
ィスキーの濃い味が、胃のなかに降り、急速に焼けた燃
える感覚を臓腑にひろげてきた。
そばにタイの女がつき、媚びを送ってくる。冷たい滑
らかな肌が小野の腕を撫で、コーラをねだってきた。広
く開けた襟から、胸の隆起が見える。蝋燭の炎のなかに、
歯が赤く笑い、口腔の奥の舌の動きを躍らせている。
小野は重大なことを置き去りにしたまま、際限なく自
分が下降していくのを覚えた。
体が熱くなっている。臓器が燃え、自分の鼓動が大き
くなっている。ドクン、ドクンと脈打つ音が聞こえてく
る。胃が焼けて、内臓全体が灼熱の金属の塊りになって
いくようだった。
支局長がトイレに立ったとき、小野は白人ジャーナリ
ストのテーブルに行き、事情を訴えた。彼らは耳を傾け
てきたが、動く気配はない。二人ともすでに酔いが回り、
毛深い腕が、タイ女の肩に食い込んでいた。
﹁重要な情
報をありがとう。明日確認してみる﹂と﹁ニューヨーク・
タイムズ﹂の記者は言った。小野は入ってきた他の記者
のテーブルへ行き、新たに訴えたが、やはり聞き入れら
れなかった。怒りがこみ上げ、虚しさが覆ってきた。支
局長がテーブルに戻り、﹁勝手なことをするな﹂という
非難めいた視線で小野を見つめている。
店に入る前に聞こえていた砲声はどうなったのだろう。
疑問を覚えた瞬間、轟きが耳を襲ってきた。間隔を狭め
て、アランヤプラテートに近づいている。地を殴りつけ
る音が、続けて聞こえてきた。エレキギターの音が、激
しく壁にぶつかり、ベース音そのものが砲声を隠してい
る気がする。弦のけたたましい音が弾けるたびに、激烈
な砲撃音が響いてくる。脳髄を震わせてくるそれが、砕
け散る砲弾の爆裂音として、耳を圧してくる。空気を裂
いて飛んでくる紡錘形の金属の高い飛翔音が、爆裂音の
合間を埋めて夜空に降り注いでいる。砲口から、真っ赤
な閃光が飛び、炎の塊を夜空に撃ち上げていく。無数の
弾道が夜空を華やかによぎり、流星群が空を翔けていく
ようだった。
渇いた喉に濃い水割りをがぶ飲みする。
木琴の音が聞こえてくる。ソピアップの歌と、アプサ
ラの天女の舞が東方へ延びていく。彼女はほんとうに日
本に行けるのだろうか。他の難民たちの願いが、ソピア
ップに託され、小野に向かっている。みんなが小野に頼
み込んでいるようだった。ソピアップの病はだいじょう
ぶだろうか。高熱はしかしソピアップの顔を美しく燃え
上がらせている。微笑みさえ浮かべ、体全体を輝かせて
いた。まろやかな木管楽器の音が、緑の楽音を響かせて
くる。日本の安全はすべてを解決する⋮⋮
ムオンの時計が音を立てて動いていた。ムオンが東の
ほうからベトナム軍を指揮して、砲弾の雨を降らせてい
る気がした。ムオンの笑いが闇に大きく響き、破壊を勧
めている。潰れた眼が、闇を凝視し、そこに開かれる瞳
を、悪魔と結託する輝きで燃え上がらせている。
﹁見殺
しにするのか﹂︱︱呻きが小野の底から這い上ってき
た。
砲の響きが窓を鳴らしている。流星群が夜空に降り注
いでいる。楽音と陶酔のなかで、ソピアップの高熱が自
分に感染し、強い幻想のなかへ誘われていく気がした。
酩酊が、絶望と怒りを増幅してきた。小野は苦しさを
覚え、支局長の顔を殴りつけたくなった。腕時計を見た。
15
無数の大きな車輪が巡っている。満月の光のなかで、
パパイヤやバナナの樹影の向こうに黒い金属の塊りが動
いている。太い鋼鉄の筒が、重トラックに牽かれて移動
していく。トッケーの鳴き声がその音に消され、巨大な
異物の緊張感で包んでくる。低い量感で夜を満たしてく
るそれは、装甲車の音とも異なる、鈍い響きで圧してく
る。砲身が満月の光を受けて鈍く光っていた。それはい
くつも連なり、北上している。一三〇ミリ砲の一個連隊
が、最前線へ展開していこうとしていた。
北のアンピル方面で、炎の火柱が上がり、数秒遅れて
すさまじい爆発音が届いてきた。それはシハヌーク派の
ゲリラ基地が叩かれ、武器貯蔵庫が大爆発を起こした音
だった。地鳴りのような鳴動が夜の空気を揺るがせてき
た。
ベトナム軍の砲声がさかんに届いてくる。アンピルへ
の攻撃は続き、むしろ熾烈さを増していた。
自分の体がただ坂道を転がり落ちていく気がする。歯
止めが利かず、どこまでも下方へ吸い込まれていくよう
だった。
ムオンとの約束が小野を叩き続けた。
庭からピックアップを引き出してきて、乗り込んだ。
焼ける胃が、運転を危険なものに思わせたが、じっとし
てはいられなかった。むしろどこかで事故を起こし、ソ
ピアップを迎えに行けなくなるほうが、言い訳ができる
ような気がした。新聞などマスコミを動かすことはでき
なかった。ただいっしょに飲んだくれただけだった。自
分の非力を惨めに噛み締めていたが、結局こんなものか
もしれなかった。あらかじめわかっていたことにも思え
た。熱く燃える体を覚えながら、それもまた一つの酩酊
による幻のような気がした。
国道を走り出す。窓をいっぱいに開け、入ってくる風
に顔や胸を打たれる。星が流れていく。
ふと、軍はなぜそれを隠したのだろう、と小野は思っ
た。もし難民をベトナム軍の前へ置き、﹁人間の壁﹂を
作るなら、むしろマスコミを入れて報道させ国際世論を
煽るほうが、ベトナム軍への牽制になるはずだった。む
しろそれを書きたててほしいはずだ。報道関係者をもっ
と入れてもいい。なぜ入れないのか︱︱むしろベトナ
ム軍に殺させてから、彼らの死体を見せるほうが効果的
だと判断しているのかもしれないと小野は想った。殺さ
れてから見せれば、その過程はわからないし、タイ軍が
そこへ移動させたこともわからない。もともと邪魔な彼
らを処分するという目的にも合致する。なによりも死者
はものを言わないはずだった。一〇〇〇人を殺す、その
意志は何なのだろう。小野は人間の集合を支配する強大
な力を感じた。巨大な蛇がぬめぬめと腹を見せながら森
全体を巻いて締めつけている。頭から何かを呑み込もう
としていた。
なぜ彼らは殺されるのか。何のために︱︱たんによ
り大きな生きもののための生け贄だというのか⋮⋮。
亜熱帯の夜が巡っている。闇が回転舞台のように大き
く動いていく。
風が熱気を帯びて小野の頬を打ってくる。
ソピアップの熱を帯びた顔が、火照り輝いている。
﹁オ
ノサン、私ハ東京へ行キタイデス﹂
彼女が無邪気に哀願しながら微笑んでくる。そして闇
のなかに優雅なカンボジアの踊りを舞い始める。
ムオンの哄笑が支局長とストリンガーの笑いと重なっ
て、竜巻のように夜空へ駆け昇っていく。星の輝きが渦
をなして、壮麗な宴を巡らせていた。
小野はふと、ムオンの手の傷の告白を鮮やかに思い出
した。それはいま強烈な鮮やかさで自分の底から浮かび
あがってきた。止まったままのはずの懐中時計が動き出
し、チッチッと秒を刻んでいる。それは大きな音を立て
て、時限爆弾のように残された時を追いつめていくのだ
った。掌の傷跡を見せながら喋り続けるムオンの潰れた
眼が、闇のなかで哄笑していた。
﹁ある夜、私はオンカーから呼び出しを受けました。
﹃集
会所広場に集合するように﹄という命令でした。夜、緊
急に呼び出されることは、不吉なことを意味していまし
た。どこかへ転出されるか、処刑されるかのどちらかで
した。見せしめのために殺す場合は、昼間みんなの前で
やります。しかしベトナム軍がカンボジアに侵入しよう
としているという噂が流れるようになったころから、夜
密かにやることが多くなっていました。呼び出しが来て
﹃ムオン﹄と呼ばれたとき、私は身体が凍りつきそうで
した。殺すということは、彼ら少年兵にとって農作業や、
家畜の世話と同じように、一つの作業として実行されて
いました。言いつけられたことを、従順に、機械的にや
っているようにすぎないように見えました。黒い衣服を
纏った道具のようでした。ただどこかその底に、憎しみ
のようなものが固まっているのが窺えました。
集会広場に呼び出されて、そこで待っていると、あと
からほかに何人かが闇のなかから現れました。全部で八
人集まりました。カラスたちが、それぞれ銃を持って、
その後ろに立っていました。松明の炎が、揺れていまし
た。彼らは少年の顔でありながら、百歳も二百歳も年を
とっているように見えました。それぞれがアンコール・
トムのバイヨンの石像の顔になって、何百年も、千年も
変わらない微笑を浮かべていました。一人が手に針金の
束を持っていました。
﹃おまえたちはこれから、別の開拓村へ移動する﹄
顔の見えない、オンカーの声が響きました。
﹃そこで、新しい仕事に就く。新しいカンボジアのため
の重要な仕事だ﹄
その場所は、五〇キロ離れた所にあって、私たちはそ
こまで歩いて行くということでした。
﹃新しい仕事に就
く﹄ということが何を意味するか、私たちは知っていま
した。そこから戻って来た者はだれもいなかったからで
す。
オンカーが去ると、少し緊張が緩みました。カラスの
一人が大きなトカゲを持っていて、松明の炎にかざしま
した。トカゲは暴れましたが、少年兵はそれをむしろ楽
しむように、炎で炙り始めました。木の枝に挟み、もが
くトカゲの首を押さえつけて、チロチロ動く炎の舌に弄
ばれ、ときどき驚くような動きをするトカゲの体を見て
はしゃいでいました。他の少年兵も、それに興じ、甲高
い声で笑いました。トカゲが動かなくなると、彼らはそ
の手や脚をむしってそれぞれに裂き、みんなで食べ合い
ました。
ムシャムシャと口を動かしながら、彼らは私たちの方
に近づいてきて、銃を突き付けました。私たちにうつ伏
せになるように言いました。それぞれ地面に腹這いにな
った私たちに、さらに手を逆にして掌を上へ向けて開く
ように言いました。私の前方に腹這いになった男が、手
を握ったままでいると、カラスは怒鳴りつけてそれを開
くように言いました。銃の先端をそこに突き付け、その
まま彼は発砲しました。すぐそばで鈍く銃声が響きまし
た。仲間の一人が立ち上がり、逃げ出しました。しかし
立ち上がろうとするその動きを狙って、カラスは発砲し
ました。そのまま二、三歩進んで、彼はもんどり打って
倒れました。カラスたちはそれにさらに何発も弾丸を撃
ち込みました。そのたびに体が揺れ、何かが飛び散りま
した。蜂の巣のようになるのが炎の赤い光のなかでもわ
かりました。
二人めの仲間もうつ伏せのまま手を開かせられ掌をぶ
ち抜かれました。私の番が来て、私も掌を開かされまし
た。カラスの笑い声が上から降りてきました。銃の先は
すでに焼けて、私の掌を焼けた鉄の熱が焦がしてきまし
た。熱くても、強く突き付けられたそれを外すことはで
きず、私はただ硬直していました。灼熱の重い衝撃が、
私の掌を貫きました。銃弾が地面に潜る衝撃まで、はっ
きりと伝わってきました。手そのものが、焼けてもぎ取
られたような気がしました。
彼らは私たちを立たせ、その手に針金を突き刺しまし
た。それをもう一方の手にくくりつけて、両手を縛りま
した。針金は血だらけでした。針金によって数珠繋ぎに
されたまま、私たちは歩き始めました。針金が当たり、
痛いので、
ほとんど手を動かすことができませんでした。
一つの方向に引っ張られるとき、猛烈な痛みに襲われま
した。手から血が滴り落ちました。
星がきれいに輝いていました。私たちが歩いていく闇
が深ければ深いほど、そして私たちの手の痛みが激しけ
れば激しいほど、星々のまたたきは美しく、壮麗に回っ
ていくようでした。松明だけが、私たちの行く手を導い
ていました。トッケーがどこかで鳴いていました。ココ
ナッツヤシの樹影が、上から私たちを見下ろしていまし
た。それは地平に点在する樹影と繋がって、カンボジア
の地と星空を饗宴の渦のなかに巡らせていくようでした。
カンボジアには、平原のなかにところどころに丘が突
き出しています。恵みに満ちた広大な平原のなかで、そ
の丘は、
天と意志を交わす神聖な場所とされてきました。
そこで雲の流れを見、風の声に啓示を受け、星の輝きに
過去と未来の相を見、雷鳴に天の意志を聞く、天上との
交感の場所でした。人間の地を統べる権利を、天から授
かる聖壇でした。
我々が連れていかれる場所は、丘の上でした。我々が
行く目的地は、一晩では着かないので、いったんそこに
泊まり、もう一日をかけて、徒歩で行くということでし
た。丘の上には寺院が建てられ、そこに宿泊すると話さ
れました。道は傾斜をなし、丘への斜面を巻いて、上の
寺院へ続いていました。
血は止まらず、掌から血が痛みを伴って流れ続けまし
た。針金は赤い血の光を帯び、ときおり松明の明かりを
受けてぎらぎらと光りました。我々は岩山の腹の斜面を
巡りながら登っていきました。一歩一歩天に近づいてい
くようでした。星空のなかへ踏み込み、壮麗な光の宴の
なかへ昇っていくようでした。星雲が丘の頂上を中心に
渦巻いている気がしました。
我々は人間であると同時に、
星々であり、風であり、ココナッツヤシであり、土の粒
子の一つ一つであるように想えました。我々はたとえ死
んでも、この風景を作っている物として、永遠に生き続
けるような気がしました。
上に登っていくにつれて、死のにおいが立ち込めてき
ました。腐った肉が長く積み重なって独特のにおいを放
ち、忌まわしい空気を上から降ろしてきました。
地全体から流れ騒ぐような音が聞こえてきました。そ
れは針金の表面を濡らし続ける、私たちの血の流れであ
ると同時に、私自身の体のなかを脈動する赤い生命の流
れとして、鳴り響きました。それはさらに殺されていっ
たたくさんの人間の叫びと共鳴し、
地の底の流れを呼び、
嵐のような響きを呼び起こしてきました。
おぞましい、狂気のような忌まわしいにおいが、上か
ら我々を包み、しかも導いているようでした。死者の魂
がまだそこには無数にうずくまり、瘴気を放ち、悪霊の
天空への跋扈を許す猖獗の地となっている気がしました。
寺院への階段が始まり、我々は一段一段それを登って
いきました。入り口に蛇暙ナー暠の暙ガ暠像があり、松
明の光を受けて、赤く眼を燃え上がらせて見えました。
炎の舌が、
強烈な血の色をそこから吐き出していました。
丘の頂上の寺院の本堂の上には、星座が天上の伽藍を
そのまま空へひろげているようでした。我々は天にいっ
そう近づいていました。
本堂の中は、死臭が充満していました。とてもそのま
まではいられないほどのにおいでした。腐った人間の肉
のにおいが、吐き気を催させました。ただ手の強い痛み
だけが、それを妨げていました。死体が並び、あちこち
にボロボロになった衣服が散乱していました。骸骨が転
がっていました。顔を布で覆われたままの頭骸もありま
した。衣服を着たままの骸骨が、我々の仲間の村人を表
していました。実際、見憶えのある衣服も、そのなかに
はあったのです。それらの遺骸がいくつあったか、数え
切れませんでした。骸骨のそれらの手には、針金が通し
てありました。錆びた針金の色が、本堂の床に散乱して
いました。あがきながら死んでいるいくつもの手があり
ました。
松明は死体群の奥に大きな仏像の姿を映し出しました。
仏像は首がとれ、その大きな砂岩の柔和な微笑が、隅の
死体群に埋もれる形で転がっていました。天井の雲と蓮
の花の模様をあしらえた極楽の絵も、周囲の釈迦の一生
を描いた極彩色の壁画も、炎の赤い揺らめきのなかで鮮
やかに浮かび上がってきました。それは奇妙な空間でし
た。一方では極楽という天上の世界が描かれ、善行や徳
が来世の幸福を約束する福音の世界が描かれながら、そ
こには地獄が現前していました。仏陀が法を説き、
﹃殺
すなかれ﹄
﹃盗みをするなかれ﹄
﹃嘘をつくなかれ﹄と衆
生を導いているその聖なる絵の下で、殺され、血にまみ
れ、呪い叫ぶ死体がゴロゴロ転がっているのです。本堂
の床は、彼らのおびただしい血で汚されていました。骸
骨たちの手は、私たちの足を掴んできそうに、ほとんど
足の踏み場もなく散乱していました。私は笑いだしたく
なりました。人間の至福を説くその場所が、殺戮の場に
なっているのです。壁には、卑猥な言葉が血で描かれて
いました。仏陀を侮辱する言葉や、下劣な、あさましい
言葉が、性器そのものの落書きとともに、書き殴られて
いました。本堂の中に、私たち自身の呼吸音が響いて聞
こえました。私は手の痛みも忘れ、私たちが処刑される
者として繋ぎ合わされていることも忘れて、私は世界が
こういうものであることを認識しました。首のない仏像
と、落書きされた壁絵と、その床に散乱する骸骨や腐乱
死体⋮⋮私は天からの声を聞くはずの丘の頂上が、こ
ういう形で存在し、処刑場になっていることに、笑いだ
さずにはいられませんでした。骸骨たちが一つ一つ起き
上がり、骨の叫びを天空に響かせていくようでした。
本堂では、すでにあまりに乱雑になっていて執行しに
くいらしく、私たちはそこを出て、横の岩場へ連れてい
かれました。
そこは丘の頂上でした。最も高い位置から、空の星々
の輝きが手に届くように感じられました。流星群が私た
ちに向かって降り注いでくるようでした。下方から死臭
の漂ってくる夜の闇のなかで、それはどこまでも美しく
我々の上に輝いていました。吸い込まれていくような、
そのまま昇天していくような錯覚が、私たちを包みまし
た。本堂の中からパーリ語のお経の声が聞こえてくる気
がしました。割れ響くような読経の声が、星空に巻き昇
っていくようでした。平原を渡ってくる風が私たちの汗
で濡れた背を撫でていきました。
私たちは一つの岩のふちに並び正座させられました。
カラスの一人が、松明の一部をむしって前方の闇に放り
投げました。それは止まることなく、長い時間滞空して
いました。すぐ目の前が大きな深い穴になっていたので
す。洞穴があり、下はかなり広く、一方の壁には仏像が
並んでいました。そして松明が落ちていって、まだ燃え
ているそこには、死体が重なっていました。みな突き落
とされて、バラバラにひろがりながら積み重なっていま
した。針金が突き出していました。十数メートルあった
でしょう。目の前に大きな深い穴がポッカリと私たちの
前にのぞいていました。横穴も開いているようでした。
そしてそこからは、いちだんと強烈な死臭が立ち昇って
いました。
私たちと同じようにこの洞穴のふちに座らされ、突き
落とされた者たちが何人いたことでしょう。彼らはみな
下に重なって、腐り、死臭を放って土になろうとしてい
ました。私たちもすぐに彼らと同じになろうとしている
のです。私たちは針金で縛られたまま、みな一つに繋が
ってこの下へ落ちていくはずでした。私は震えに襲われ
ました。止めることができませんでした。本堂で見た骸
骨の歯と同じであり、私もやがてそれらになっていくは
ずでありながら、私の歯はガチガチと音を立てていまし
た。それは私がまだ生きている証のようでした。私たち
は下の死体のなかへ落ちていくはずでした。地獄への下
降感が押し寄せてきました。下方にある死臭にまみれた
たくさんの人間たちもみな同じように突き落とされ、殺
されていったはずでした。その死体たちも、本堂で殺さ
れていった者たちも、あとからあとから殺されていく者
たちの積み重なりとして、大きな叫びを宿しているよう
でした。この死臭と、冒涜と、呪咀のなかに、あらゆる
悪徳と、憎悪と、汚濁が蔵されている気がしました。い
っさいの悪の衝動がここから世界へ向けて飛び立ってい
くのを覚えました。この行為に拮抗する悪徳はすべて許
される、そういう力がここには渦巻いていました。
私は落ちる直前に、空を見上げました。星が降ってく
るように美しくまたたいていました。その光の遠さと、
それがゆえの美しさを、私は短い時間のなかに仰ぎまし
た。その光の宴の美しさを、私は呪いました。いっさい
の星が、美しいきらめきが、天上より落ちるように、そ
の栄光の宴が崩落するように、私は呪咀せずにはいられ
ませんでした。
しかしそのとき、下へ向かう私たちの体とは逆に、落
下の物理的な崩壊感とはまったく逆に、死者たちがむし
ろ浮き上がり、あちこちから集まり、空へ昇っていくよ
うな気がしました。本堂からも死者たちが集まり、一つ
の流れになってこの洞穴から噴出していくようでした。
川の流れがトンレ・サップの湖に集まるように、他の無
数の地からも、残虐に殺された死体たちがここへ集まっ
てきて、空へ昇っていくようでした。それは逆流する滝
のように、光の飛沫をほとばしらせながら夜空へ吸い上
げられていきました。
激しい流れが太い光の柱となって、
星の竜巻のように空へ昇っていきました。この血塗られ
た大地を光として吸収していくものがあるような気がし
ました。星の輝きが私の胸をよぎりました。
カラスの足が私の背を押し、仲間といっしょに私の体
は落ちていきました⋮⋮
⋮⋮横から突き出した枯れ枝にひっかかって、私の
体はいったん弾み、それから死体の中に埋まりました。
腐臭に満ちた骸骨の海の中で、私はその夜を明かしまし
た⋮⋮軌跡的に生還したものの、私はむしろ自分が際
限なく地獄を往復する気がしました。人間の手で凄惨な
行為が繰り返され、地の底に投げ込まれ、暗黒を見せつ
けられる⋮⋮それが永遠につながっていく気がしまし
た⋮⋮﹂
夜の風が当たってくる。
カオイダンが近くなってきたとき、真夜中にもかかわ
らず、検問にはタイ兵がいつもより多く配備され、厳し
くチェックしていた。明るくライトが灯され、いくつか
のサーチライトが通行車を照射している。装甲車がズラ
リと並び、東へ向かう道に出動態勢をとっていた。ベト
ナム軍はサイト6とノンサメットを再攻撃している。一
部はアンピルを攻撃していた。東へ向かう道路を、タイ
軍の兵員輸送車が猛烈な勢いで曲がっていく。新たな装
甲車の一団が、西から駆けつけてきた。
いくら説明しても、そこから先へは行かせてもらえな
かった。下っ端のタイ兵では英語もよくわからない。顔
見知りのタイ兵も、普段とは人が変わったように、小野
を知らない人間のように冷淡な目で見ていた。カオイダ
ンで働く身分証明書も、いつも使っている通行許可証も
取り上げられたまま、返ってこなかった。それが戻って
こない以上、小野も車を停めたまま動けなかった。完全
に遮断されている。無理にでもタイ人運転手を連れてく
ればよかった、と後悔した。
小野のあとから、何台か車が検問にやって来、同じよ
うに拘束された。英字紙の﹁バンコク・ポスト﹂や﹁ネ
ーション﹂の記者が、タイ兵につかまって厳しく身体検
査をされた。
記者の一人が小野の顔を見て、憤懣をぶつけてきた。
﹁ベトナム軍がすぐそこへ来ている。報道すればタイ軍
には有利になる。みんな通せばいいのに、どうして遮断
するんだ。明日の朝まで待てだって? 何を考えてるん
だ。戦闘が終わっちまう﹂
小野は何かが早くなっているのを感じた。ほとんども
う約束の時間だった。ムオンにはそのときまでにカオイ
ダンへ行くと言ってある。
ムオンはソピアップを連れて、
そこで待っているはずだった。しかし何かがもっと早く
大きく動いている気がする。もういっさいが手遅れであ
り、自分の手の届かないものとして、滑りだしてしまっ
ている。砲声が頻繁に届いていた。
小野はムオンと連絡をとりたかったが、直接カオイダ
ンへ行く以外、手段が思い浮かばなかった。無線機を渡
してこなかったことを悔やんだ。
飛行機の爆音が聞こえた。ジェット機の轟音が空を圧
してきた。
急降下の音が大きく迫り、巨大な雷が落ちてくるよう
だった。機種をあげる急激な旋回音に変わったとき、大
きな爆発音が地をおおい、炎が燃え上がった。地平に沿
ったカンボジアの森が、一瞬昼のなかに浮かび上がった
ように見えた。爆弾の閃光が美しく東方の森を照射して
いた。
北の方から、ヘッドライトが近づいてきた。たくさん
繋がっている。トラックの一団が検問の前の十字路へ疾
走してきた。いくつもの光の列が、闇を照射している。
それは直線的に連なってくる蛍の群れのように見えた。
大きくなり、光の塊りになって、轟音を上げて近づけて
きたと思うと、検問の前のノンサメットやサイト6方面
の戦線へ向かう東への道路を次々に曲がっていく。光は
一瞬チェック・ポイント全体へ向けられるが、検問には
躊躇せず、むしろ逃げて避けるようにスピードを落とす
ことなく、そのまま東方へ曲がっていく。二台、三台、
四台と、まぶしい光が小野たちの目を刺していく。闇夜
からの隕石群が、目の前を落下し、瞬間的にその場を照
射して浮かび上がらせていくようだった。大きな幌がか
けられ、後ろも見えないように閉ざされている。巨体を
巡らせ、回転していくとき、わずかに幌の結び目が風に
煽られるが、中は見えなかった。何が積まれているのか、
何が乗せられているのか、閉ざされたまま重量感のある
草色の車体が巡っていく。一瞬銃を持った兵士の姿が見
えたが、あとは何かわからなかった。むしろ何も見えな
いことが、その質量を重くし、得体の知れない移送の行
方を濃い猜疑心として膨らませてくる。弾薬や、最前線
への補給物資かもしれなかった。しかしなかにたくさん
の人間が犇き、生贄の聖壇へ運ばれていくようにも想像
された。
いっさいが徒労感にまみれながら、憎悪や呪咀だけが
無限に累積していく予感がある。移送は明日ではなく、
すでに今日始まってしまっているのかもしれなかった。
そのトラックのなかに、高熱を出して苦しんでいるソ
ピアップが横たわっている気がした。ムオンの隻眼が、
小野に手を振りながら微笑んでいるように思えた。ソピ
アップをいつもかわいがっていたおばさんの太い体がク
メールの踊りを踊っている。地平線が真っ赤に燃え上が
ってくる夢に魘される青年が、
小野に別れを告げている。
ソピアップが日本語の教科書を持って手を振ってくる。
みんながカンボジアの楽器を鳴らし、手拍子で﹁上を向
いて歩こう﹂を歌い始める。いっさいが一つに融合して
灼熱の光の河へ流れ込んでいくようだった。
東方の緑の森が真っ赤に燃えている。新たな爆音が聞
こえてきた。燃え上がる森のなかからクメールの音楽が
流れ出てくる。まろやかな木管楽器の旋律とリズムが、
炎とともに踊っている。闇のなかにいっさいの悪徳が集
まり、それが聖壇として炎を燃やして、小野を誘ってい
るようだった。戦闘のただなかで、何かが踊り舞ってい
る。巨大な相貌が起き上がってくる。緑と炎の扉の向こ
うに、神像が覗いている。それは微笑を浮かべる厚い唇
に血を滴らせている。人間の足の一部が口元から突き出
していた。貪欲な内臓が、無数の人間を咀嚼し、呑みこ
んでいく。生け贄を殺し食い、それをまた自らの循環の
なかに再生して産んでいく。
巨大な循環の豊饒の悪魔が、
微笑んでいるようだった。
婚姻の楽音が聞こえる。ソピアップはむしろ、その神
像に魅入られ、花嫁として、そして同時に生贄として食
べられていく。ムオンがそれを捧げていた。小野の手の
届かない、熱帯の深い森のなかへ運び去られ、赤い喉の
奥へ吸い込まれていく。ソピアップの体が喜びを全身で
表しながら舞い狂っている。木管音が鳴り響き、広大な
緑の森の奥へ、すべてが吸い込まれていく。狂喜の炎の
舌が人間の首を絡み取り、さらにその外側から、鬱蒼と
した巨大な熔樹の根が包んでくる。緑の地が栄え繁茂す
るために、炎と殺戮が渦巻いている気がした。掌の穴の
向こうに星が見える。
リハビリセンターの難民たちの合唱が鮮やかに聞こえ
てくる。歌声が、トラックの後から白い光芒を曳いて、
炎と緑の地の奥へ吸い込まれていくようだった。
︵了︶
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