学位論文 文化外交からみた日仏文化交流機関の起源 ―東京フランス

学位論文
文化外交からみた日仏文化交流機関の起源
―東京フランス学院の計画から関西日仏学館の設立まで―
指導教員 西山教行 教授
平成 27 年 1 月 19 日
京都大学大学院人間・環境学研究科
共生人間学専攻 外国語教育論講座
修士課程
川東
龍貴
論文内容の要旨
共生人間学
専攻
氏名
川東
龍貴
本研究は、文化外交から見た日仏文化交流機関の起源に迫り、それを東京フ
ランス学院(Institut Français de Tokyo)の計画に見出す。その上で、日仏会
館や、さらにその後に続く関西日仏学館の設立背景を解明する。
19 世紀後半以降、フランス政府は積極的に国外に文化交流機関を展開したが、
中でも 1907 年に創立を見るフランス学院(Institut français)は、その後フラ
ンスの文化外交を進める上で重要な文化交流機関の 1 つとなった。フランス政
府はリヨン大学使節団を派遣して東京フランス学院計画を進めたが、1924 年に
最終的に誕生したのは日仏会館、つまり Maison だった。Maison は学術研究を
重視したため、駐日大使クローデルはフランス語普及という外交的な目標を達
成するためにも Institut の設立に尽力した。その結果、日仏会館設立から僅か
3 年後の 1927 年に関西日仏学館は誕生した。
日仏文化交流機関を Maison とするのか、あるいは Institut とするのかは、
フランス側にとって大問題だった。また、日本語表記による日仏会館や関西日
仏学館という名称の意味も深く、そこから設立にかかわった日本側の関係者が
これらの名称に込めた思惑も解明することができた。
これら 2 つの日仏文化交流機関の設立を巡っては、1 つの要素として日本と
仏領インドシナとの間に存した関税問題を検討することも重要である。特に本
研究では、親仏家として関西日仏学館の設立に貢献しつつも、大阪商業会議所
会頭として関税問題でフランスに譲歩を迫らなければならなかった稲畑の発言
に注目する。その結果、日仏間の関税問題が関西日仏学館の設立背景に存した
と、結論づけたのである。
本研究では設立から約 90 年を経た日仏会館と関西日仏学館が、今日でも日
仏交流の拠点であると共に、フランス政府による先進的な文化外交が体現され
る機関として捉える。21 世紀において、文化外交は国家が生き残る道として再
び重要な意味を帯びているのだ。
目次
序 ........................................................................................................................................... 1
0.1
文化外交史にみる日仏文化交流機関の設立 .................................................. 1
0.2
研究の目的 ............................................................................................................. 2
0.3
本論文の概要 ........................................................................................................ 3
第1章
1.1
フランス文化外交史と文化交流機関 ............................................. 6
はじめに ................................................................................................................. 6
1.1.1
文化外交とは何か ........................................................................................ 6
1.1.2
本論における文化交流機関の定義 ........................................................... 6
1.2
第三共和政におけるフランスの対外言語普及.............................................. 7
1.3
世界におけるフランス学院の展開 ................................................................... 8
1.4
学術交流の場としてのフランス学院 .............................................................. 9
1.5
日仏間の懸案と日仏文化交流機関 ................................................................. 10
1.6
多難な道のりの成果としての日仏文化交流機関 ........................................11
第2章
東京フランス学院の計画から日仏会館の設立へ ................... 13
2.1
はじめに ............................................................................................................... 13
2.2
日仏間の「覚書」にみる日仏文化交流機関の起源 ................................... 13
2.3
リヨン大学使節団の訪日と構想段階における日仏会館の機能 .............. 15
2.4
設立過程における「学院」から「会館」への名称変更とその意義 ...... 17
2.5
日仏会館の理念と事業内容 ............................................................................. 19
2.5.1
「日仏会館企画の趣意」にみる日本におけるフランス ................... 19
2.5.2
日仏文化研究のための日仏会館 ............................................................. 20
2.6
日仏双方にとっての政治的意義 ..................................................................... 21
2.7
日仏会館に続いた京都での計画 ..................................................................... 22
第3章
関西日仏学館設立の背景 .................................................................... 24
3.1
はじめに ............................................................................................................... 24
3.2
京都における「学院」計画の伏線 ................................................................. 24
3.3
フランス側の事情にみる関西日仏学館の設立背景 ................................... 25
3.4
地理学者リュエランと比叡山夏期大学構想 ................................................ 26
3.5
母体たる日仏文化協会の設立 ......................................................................... 27
3.6
一度は頓挫した資金集めと稲畑の功績 ........................................................ 28
3.7
クローデルと稲畑との蜜月にみる日仏親善 ................................................ 29
3.8
「関西日仏学館」という名称自体が示す深い意味 ................................... 30
3.9
民間人による関西日仏学館への協力とインドシナ関税問題 .................. 33
第4章
仏領インドシナ関税制度と日仏関税交渉 .................................. 34
4.1
はじめに ............................................................................................................... 34
4.2
同化関税制度の適用と仏領インドシナ ........................................................ 34
4.2.1
同化関税制度とは何か .............................................................................. 34
4.2.2
経済的リスクと利害関係の複雑性 ......................................................... 35
4.3
インドシナ関税問題とフランスの警戒心 .................................................... 36
4.4
歴史的経緯 ........................................................................................................... 37
4.4.1
仏領インドシナ総督の訪日以前 ............................................................. 37
4.4.2
仏領インドシナ総督の訪日 ..................................................................... 38
4.4.3
仏領インドシナ総督の訪日後 ................................................................. 38
4.5
官民が一体となって取り組んだインドシナ関税問題 ............................... 40
第5章
稲畑のジレンマ―日仏親善と国益追求の狭間で― .............. 41
5.1
はじめに ............................................................................................................... 41
5.2
稲畑とフランス .................................................................................................. 41
5.3
インドシナ関税問題を巡る稲畑の主張と関西日仏学館 ........................... 42
5.3.1
貴族院委員会での質疑 .............................................................................. 43
5.3.2
仏領インドシナ訪問時の発言 ................................................................. 44
5.3.3
仏領インドシナ訪問後の所感 ................................................................. 45
5.3.4
駐日フランス代理大使歓送会における挨拶 ........................................ 46
5.4
稲畑のジレンマ .................................................................................................. 47
第6章
結論 ................................................................................................................ 49
6.1
まとめ ................................................................................................................... 49
6.2
今日における文化外交の意義 ......................................................................... 50
6.3
今後の課題 ........................................................................................................... 51
参考文献 .......................................................................................................................... 52
謝辞 .................................................................................................................................... 60
序
0.1
文化外交史にみる日仏文化交流機関の設立
本研究は日本におけるフランスの対外文化交流機関の誕生を、フランスの文
化外交史の文脈において論じるものである。日本とフランスは、1924 年の日仏
会館設立の遥か以前から、様々な形で交流を重ねてきた。フランスは日本にキ
リスト教を布教し、あるいは西洋文明国の一員として様々な科学技術をもたら
し、また民法典など法律の整備にも大きく貢献した。日本が近代化を遂げる過
程では、フランスとの交流や、フランスへの留学を通して日本人のなかに多く
の高名な学者が誕生した。そのなかには、例えば富五政章(1858-1935)や杉
山直治郎(1878-1966)がいた。富五や杉山といった法学者は、フランス人か
ら学び、フランス人と交流し、日仏会館(Maison franco-japonaise)の設立へ
の理解と協力という形で、フランスへ恩返しをした。
明治時代以降、日本が近代化を進めたことは、フランスの貢献抜きには語れ
ない。日本人はフランスから多くのことを学ぶためにフランス語を習得してき
た。しかし 1920 年代当時、フランス語やフランス文化はイギリスやドイツの
言語や文化に比べて日本において冷遇されていた。こうした状況に日本の研究
者やフランス政府が危機感を覚えたこと、これは日仏会館が設立された一つの
要因である。
他方で 19 世紀後半以降、ヨーロッパの主要国を中心として国外へ自国語を
普及させようとする政策が採られるようになった。フランスも 20 世紀初頭に
は学術交流などを目的とする機関などの設立を国外で加速させた。日仏会館や
関西日仏学館の設立も国際的な文化交流の一環として捉えることができる。
もちろん、こうした国家間の文化交流を目的とする機関の設立は当事国間の
合意や計画の履行によらなければならない。とりわけ日本における日仏文化交
流機関の設立は、フランス側の一方的な意向や政治的目的に基づくものではな
く、むしろフランス政府の提起に対して日本の学術研究者や政財界の有力者が
快く協力した結果であった。例えば関西日仏学館(Institut franco-japonais du
Kansai)の場合、日仏親善に理解を示す稲畑勝太郎(1862-1949)ら民間人の
功績が極めて大きかった。
1
よって文化外交史における日仏文化交流機関の設立過程を解明する際には、
日仏両国の政府に加えて政財界、学術研究者といった個人が果たした役割につ
いても考察、分析することが重要となる。
0.2
研究の目的
1920 年代、東京と京都に相次いで日仏文化交流機関が誕生したが、本研究は
東京フランス学院(Institut Français de Tokyo)の計画に日仏交渉の起源を見
出し、その上で、日仏会館並びに関西日仏学館の設立までの文化外交に関わる
背景を解明することを目的とする。本研究は、先行研究に頼りつつ、外務省記
録など外務省外交史料館所蔵の文書を解読することによって進めるものとする。
日仏文化交流機関の設立背景には、十分に解明されずにいる様々な疑問点が
ある。尐し挙げてみても、例えば、日仏会館は日本で初めてのフランス対外文
化交流機関となるが、その原点はどこにあるのか。なぜ日仏間で交わされた「覚
書」における Institut 計画が、Maison の開館へと繋がったのか。計画段階に
おいて、なぜ日仏会館の名称を巡ってフランス内部でコンセンサスを得ること
が難しかったのか。なぜ、関西日仏学館の設立過程では、Institut 構想に際し
て通常派遣されるはずのフランスの大学使節団が派遣されなかったのか。関西
日仏学館の設立を巡る駐日大使のポール・クローデル(Paul Claudel 1868-1955)
と東洋学者のシルヴァン・レヴィ(Sylvain Lévi 1863-1935)の対立の背景に
何があるのか。稲畑は日仏親善のためだけに私財を投じてまで関西日仏学館の
設立に貢献したのか。挙げてみればきりがない。
フランスの文化交流機関としての Maison(会館)と、Institut(学院、学館)
の機能の違いを意識することは、これらの疑問を解明する鍵となった。日仏会
館や関西日仏学館という名称自体に、実は極めて深い意味が存するのである。
設立過程において、両国の政府や関係者はそれぞれの機関の名称に、どのよう
な思いや意図を託したのだろうか。
また、外交的な観点から見ると、日仏間の文化交流が日仏文化交流機関の設
立という形で花開いた 1920 年代は、仏領インドシナとの貿易で日本がフラン
スから高い関税を課せられていた時期と重なる。この日本と仏領インドシナ間
2
における関税問題(以下、インドシナ関税問題とする1)と日仏会館や関西日
仏学館の構想は密接に関連していたと考えられるが、特に大阪商業会議所の会
頭だった稲畑との関わりにおいて、この関連についても検証したい。
本研究では文化外交的な観点がもっとも重要であるが、インドシナ関税問題
がこれらの文化交流機関の誕生にかかわったという点では、通商条約について
の日仏間の外交交渉の要素をも包含する。よって、本研究は 1920 年代のフラ
ンス文化外交と、日仏外交関係の要素を同時に扱うものとなる。しかし、これ
らの要素に加えて、1920 年代の日本におけるフランス語教育の問題をも考慮す
る必要がある。言い換えるならば、日仏文化交流機関の設立背景を探るために
は、文化、外交、教育、歴史といった分野を横断する視点が重要となり、これ
らの観点からみた日仏交流を有機的に考察、分析することこそが、先に述べた
諸々の疑問を解明するための糸口となるのである。
フランスは世界各地に文化交流機関をつくり、設置国と学術、言語、芸術、
音楽などの分野で交流を促進し続けている。このようにフランスは積極的な文
化外交政策を展開することで、世界におけるフランスの存在感の増大に努めて
きたし、フランスという国名自体が響かせるイメージの向上にも確実に成功し
てきた。
フランス政府は、1920 年代に日仏会館や関西日仏学館といった拠点を設ける
ことで、日本においても学術研究やフランス語教育といった分野で日仏交流を
加速させた。そして約 90 年を経た今日においても、両機関は日仏両国間の親
善を象徴するものとして両国の人々から愛され続けると共に、重要な拠点であ
り続けている。それだけに、これらの機関の設立過程を検証することには意義
がある。
0.3
本論文の概要
本論文では、第 1 章では、まず文化外交とは何なのか、そして本研究で多用
40 年以来懸念トナレル仏領印度支那ノ日仏通商条約加入ヲ如何ニセ
ハ容易ナラシメ得ヘキヤニ付キ非公式ニ論議セムコトヲ欲シタル」として、この問題を「イン
ドシナ関税問題」としている(外務省編『日本外交文書』大正 13 年,第 2 冊「インドシナ関
税問題ニ関スル日仏両国代表者ノ非公式会談ニ関スル件」公表第 8 号,外務省公表,第 182 号
文書)。よって本論でもこの名称を採用する。
1日本外交文書では「明治
3
することとなる日仏文化交流機関は何を意味するのかについて論じる。その上
で、19 世紀後半以来のフランスの文化外交史、対外言語普及政策、その一環と
して 1907 年に創設されたフランス学院の設立過程や目的について概観する。
さらに、日本においてフランスの文化交流機関が計画された 1920 年代、日仏
間に存在していたインドシナ関税問題という懸案にも触れる。
第 2 章では、文化交流機関の設立を巡る日仏交渉の起源に迫るとともに、リ
ヨン大学の派遣団が日仏会館設立に関与したこと、最終的に日仏会館として設
立されることとなる日仏文化交流機関の名称を巡って、計画段階において、特
にフランス側でコンセンサスを得ることが難しかった背景に迫る。また研究機
関としての要素が強い日仏会館の事業内容についても検討する。その上で、日
仏会館の構想にインドシナ関税問題が関与していたことを論じる。
第 3 章では、クローデルの意向に始まり、フランシス・リュエラン(Francis
Ruellan 生没年調査中)の比叡山夏期大学の構想という形で進んだ関西日仏学
館の設立背景を論じる。Institut としての関西日仏学館の設立は、外交官クロ
ーデルの悲願だったのだ。よってクローデルが関西日仏学館を設立しようとし
た背景について検討すると共に、クローデルとレヴィとの対立についても論じ
る。また、大阪商業会議所の会頭であった稲畑が果たした決定的な役割や、ク
ローデルと稲畑との関係、設立された関西日仏学館の名称が包含する深い意味
についても検討する。さらには、稲畑の貢献の背景には日仏親善に貢献しよう
と努めつつ、インドシナ関税問題を是正したい思惑もあったことを論じる。
第 4 章では、1892 年の同化関税制度を中心とする仏領インドシナの関税制度
について概観した上で、日仏文化交流機関の設立にかかわった一つの要因とし
てのインドシナ関税問題について論じる。1907 年の日仏協約以降の日仏間の外
交交渉の流れを検討する。これにより、日本が仏領インドシナとフランス本国
の双方と交渉することの複雑さを浮き彫りにする。
第 5 章では、稲畑とフランスとのかかわりや、親仏家の稲畑が日仏親善とし
ての関西日仏学館の設立を目指しながらも、同時に大阪商業会議所の代表とし
て、日仏間の懸案であるインドシナ関税問題の是正を図らねばならなかったジ
レンマについて論じる。日仏親善の成果たる関西日仏学館の設立背景、とりわ
け稲畑をはじめとする関西各界による資金協力の背景に何があったのかを探る
4
ためには、1920 年代に稲畑がインドシナ関税問題の解決に向けて全力を注いで
いたことを検討しなければならない。日仏両政府などに向けたインドシナ関税
問題についての稲畑の発言に注目し、発言内容を分析することが、関西日仏学
館設立の背景を知る手掛かりとなる。
第 6 章ではまとめ、今日における文化外交の意義、今後の課題について論じ
る。
5
第1章
1.1
フランス文化外交史と文化交流機関
はじめに
1.1.1
文化外交とは何か
第 1 章では、19 世紀後半に始まるヨーロッパ主要諸国の対外言語普及機関の
設置等にみられる国際的な文化交流のなかで、フランス政府がいかに諸外国と
文化交流を図ろうとしたのか、その起源に遡るとともに、フランス政府がフラ
ンス国外に文化交流機関を設置してゆく政治的な意義についても論じる。
そもそも文化外交(diplomatie culturelle)とは学術、文化、言語、芸術な
どといったソフトパワーによって、国力を対外的に主張する政策であり、経済
力や軍事力といったハードパワーの概念に対置される。これは言い換えれば、
ドローによるところの「高度の文化」を対外的に発信することを意味する(ド
ロー
1965)。フランス語やフランス文化が一般的に高級で洗練されたイメー
ジを持たれるのは、ある面でフランスの文化外交政策が功を奏した結果と受け
止めることができる。例えば、アンスティチュ・フランセ日本(Institut français
du Japon)といった日仏文化交流機関は、こうしたフランスの高度な文化を日
本において日本人に対して発信するフランス政府の重要な拠点である。ドロー
によれば、こうした文化交流が発達し始めるのは 19 世紀末のことである(ド
ロー
同上)が、本論では特に 1920 年代のフランス文化外交政策の一環とし
ての日仏文化交流機関について、その設立過程を検討する。同時に、本論で扱
うフランス文化外交の舞台は、1920 年代にフランス学院が展開された日本並び
にヨーロッパに限定する。本研究では特にフランス政府がフランス国外で進め
た文化交流機関の設立について論じる。
1.1.2
本論における文化交流機関の定義
ドローは国際文化交流(relations culturelles internationales)という概念
を唱える(ドロー
同上)。ここにおける「文化」とは、学術研究、言語、文学、
芸術などを幅広く含むものである。ある意味で、教養と呼ばれるものの概念に
近い。国際文化交流はこうした「文化」の伝播を通して、国家間における交流
や親善を図ろうとする。国際的な文化交流を行うためには場所が必要となるが、
6
本論ではこうした機関を文化交流機関と定義する。ヨーロッパ主要諸国は、国
外へ文化交流機関を展開するようになった。この文脈において、フランスは官
民がそれぞれ主導して、対外的に向けて積極的に文化交流機関を展開するよう
になった。本論では、特に 1907 年に創設をみたフランス学院(Institut français)
について、検討する。
1.2
第三共和政におけるフランスの対外言語普及
フランスは 19 世紀より文化交流に力を入れはじめ、1860 年にユダヤ人向け
のアリアンス・イスラエリット・ユニヴェルセル(Alliance Israëlite Universelle)
や、1883 年に植民地支配とかかわりの深いアリアンス・フランセーズ(Alliance
Française)、そして 1907 年にフランス学院(Institut français)が設立されて
いる。また 1920 年に外務省内の文化交流を管轄する部局が学校事業課から事
業部へと格上げされたことも、フランス政府が文化交流政策を重視する姿勢を
表わしている(Roche,Pigniau 1995)。
フランス政府が歴史的にもフランス語普及を推し進めてきた背景には、メシ
アニズムの思想がある。すなわち、
「普遍的理念である『人権宣言』を発布した
民主主義の母国、また普遍性を備えた宗教である『(カトリック)教会の長女』
と呼ばれるフランスこそ、普遍的文明を体現し、諸民族を文明の高みへと引き
上げる使命をもっているとのイデオロギー」があった(西山
2010,p.356)。
このような自負心は、20 世紀前半においても根強く残っていた。クローデル
は京都帝国大学での講演で、フランス語の普遍性や明晰性について語ることで
その魅力を強調したし(Claudel 1995)、関西日仏学館新館落成式で当時のフ
ェルナン・ピラー(Fernand Pila, 1935-1936 在任)駐日フランス大使は関西
日仏学館新館落成式で次のような言葉を残している。
(…) Or, quelle langue de l’Occident plus que le français a le droit et le
pouvoir de satisfaire cet intelligent désir? N’est-il pas la langue de l’un des
grands peuples qui ont le plus largement contribué à la formation de cette
civilisation et qui offrent à cet égard les richesses les plus grandes? (…)
(Marchand 1937,
p.40 )
7
上記挨拶の日本語訳
(...)フランス語以上にこの知的欲求を満足させる権利と力を持つ西洋の言語
はどれでしょうか。フランス語はこの文明を形成するのに最も大きく貢献し、
またこの点で最も大きな財産を提供した 1 つの偉大な人々の言語ではないでし
ょうか。(...)
植民地支配の論理としても使われるフランスによる文明化の使命という言説で
はあるが、2 人の大使は低迷し続けていた日本におけるフランス語教育の巻き
返しを図るためにも、このような論理によって必死でフランス語を宣伝してい
たのである。それは、外交官としての任務でもあったのだ。
1.3
世界におけるフランス学院の展開
1907 年、最初のフランス学院はグルノーブル大学教授のルシェール(Julien
Luchaire 1876-1962)によってフィレンツェに設立された。フィレンツェ・フ
ランス学院はその後 10 年の間にヨーロッパにおける他のフランス学院のモデ
ルとなった(Espagne
1993)
。その後 1914 年までにロンドン、マドリード、
サンクトペテルブルク、1920 年にプラハ、1923 年にはブカレスト、1924 年に
はワルシャワなど、ヨーロッパ、とりわけ東ヨーロッパを中心に学院の普及は
進んだ。この頃東ヨーロッパに多くの学院が建てられたのは、第一次世界大戦
がもたらしたヨーロッパにおける国際秩序の変化によるところが大きい。フラ
ンスは第一次大戦後に世界に対してその文化的影響力を高めようと努めたし、
特にそれは東ヨーロッパにおいて顕著にみられた(Chevalier 2001)。フランス
は大学使節を組織してスラヴ諸国との関係を発展させ、これらの諸国との関係
において主導的な役割を果たすとともにドイツの影響力を排除しようとした。
このような文脈においてフランス政府は 1920 年にプラハにおいて第一次大戦
後初となるフランス学院を設立した。
東京の日仏会館(1924 年設立)や関西日仏学館(1927 年設立)が設立され
た時期は、東ヨーロッパでフランス学院が広まった時期とほぼ重なる。濱口は、
フランス政府が外交戦略上東ヨーロッパと東アジアを結び付けていたと主張す
るが(濱口
2010)、当時の学院の地理的分布は偶然ではなく、この主張を裏
8
付けているように思われる。
日本では、関西日仏学館の後、東京日仏学院(1952 年設立)、九州日仏学館
(1975 年設立)、横浜日仏学院(1990 年設立)の 3 つのフランス学院が設立さ
れるに至っている。なお 2012 年 9 月 1 日にこれら 4 つのフランス学院はフラ
ンス大使館文化部と統合されて、アンスティチュ・フランセ日本(Institut
français du Japon)の下で運営されている。
1.4
学術交流の場としてのフランス学院
Luchaire の指摘するように、フランス学院はフランス人研究者や学生が現地
の言葉や文化を研究し、逆に現地の人々がフランス語やフランス文化を学ぶと
いう相互的な機能を兼ね備えた組織である(Luchaire 1923)。この意味でフラ
ンス学院はフランス政府の代表的な文化交流機関である。しかし、実際のとこ
ろは、フランス人が相手国について学ぶよりも、相手国の人々がフランスにつ
いて学ぶ機関としての性格が圧倒的に強いのが、フランス学院の一つの特徴で
ある。フランス人が相手国について研究したり、学術的交流を図る機能が強い
のは、後述するように Maison や Ecole である。
1920 年代、ヨーロッパを中心とする多くのフランス学院の設立に、フランス
の大学が深く関与した。それは既に先行研究等からも明らかではあるが、本研
究ではこうした事実を日仏間交渉においても確認した。東京において在日フラ
ンス大使館から日本政府へ宛てた 1918 年 3 月 19 日付「フランス学院設立に関
する覚書」は、以下のようにこの関与を認めている。
(…)Des établissements dite Institute français exsistent dans plusieurs pays
étrangers, notamment à Florence (Italie) à Londres, à Madrid, en Russie.
Ces établissements sont créés et subventionnés par diverses universités
françaises (Grenoble, Lille, Bordeaux, Toulouse). L’Institut Français de
Tokyo serait placé sous l’autorité scientifique de l’Université de Lyon. (…)
(アジア歴史資料センター
1918,第 17 画像)
9
上記覚書日本語訳
(…)フランス学院なる施設はとりわけフローランス(イタリア)、ロンドン、
マドリード、ロシアといった多くの諸外国に存在します。これらの施設はフラ
ンスの様々な大学(グルノーブル、リール、ボルドー、トゥールーズ)によっ
てつくられ、また補助を受けています。東京フランス学院はリヨン大学の学術
的指導の下に置かれるでしょう。(…)
フランス各地の大学は、国外にフランス学院を設立する際に大きな役割を果た
したのである。この覚書に見られるように、1919 年にリヨン大学の使節団が日
本へ派遣され、将来東京につくられるべき恒久的な日仏文化交流機関の計画や
目的について話し合いが行われた。最終的に、東京には学院(Institut)では
なく、会館(Maison)が設立されている。逆に、Luchaire は当初フィレンツ
ェに会館(Maison)を計画していた(Luchaire
1965)。しかし結局はフラン
ス学院を創設した。
Renard によれば、フィレンツェ・フランス学院はグルノーブル大学の援助
とフランス政府の支持によって創設されたものであり、フランスの大学機関の
新たな拡大の形態とみなされる。つまりフィレンツェ・フランス学院はグルノ
ーブル大学の分校として位置付けられたのである(Renard 2001)。
このようにフランス学院は、フランスの文化外交において、国際的な文化交
流を主たる目的とする代表的な機関として位置づけられる。
1.5
日仏間の懸案と日仏文化交流機関
篠永は、外交官ポストや中国関連資料の豊富さにもとづき、フランスの対ア
ジア外交の中心が当初中国だったことを指摘した(篠永 2010a)。それが日本の
重視へと政策転換が行われたのは、日本が日清戦争に勝利して以降であった(篠
永
同上)。日仏関係は 1907 年の日仏協約により、より一層強化されることに
なった。しかしこの日仏協約や 1911 年の日仏通商航海条約においても、日本
と多くの利害関係を持つインドシナが除外された。よって日本は仏領インドシ
ナとの貿易においては最恵国待遇を受けることができず、高関税を課されるこ
とになったのである。それがインドシナ関税問題の本質なのである。
10
そしてこのインドシナにおける不平等関係が解消されるには、1932 年の日
本・インドシナ通商協定を待たなければならなかった。関西日仏学館が 1927
年に設立されたことからわかるように、関西日仏学館が設立されて約 5 年後に
ようやく日本は仏領インドシナとの貿易において対等な扱いを受けることにな
ったのである。
濱口は、日本が第一次世界大戦時に連合国の一員としてヨーロッパへ派兵で
きなかったために日仏間に距離が生じ、インドシナとの関税交渉が行き詰まっ
たと分析している(濱口
2011b)。また日本外交文書や他の先行研究を検討す
ると、フランス本国政府、インドシナ総督府、インドシナに影響力を持つフラ
ンスの利益団体といった主要なアクターの利害調整の中でフランス側の態度が
一貫せずに揺れており、これが交渉難航の一つの原因であることがわかる。
日仏会館や関西日仏学館が計画されていた 1920 年代、日仏間にはこのよう
に日本と仏領インドシナとの貿易をめぐる懸案が横たわっていた。日仏会館や
関西日仏学館の計画に際しても、インドシナ関税問題がかかわっていた。濱口
の指摘するように、
「東京におけるクローデルの外交活動の中で、インドシナの
存在が常に影のように彼に付いて回って」いた(濱口
2011a,p.3)ことを考
慮すると、この問題がいかに日仏間で重要だったかがわかる。
1.6
多難な道のりの成果としての日仏文化交流機関
第 1 章では、19 世紀以降のフランスの文化外交史について検討した。フラン
ス政府は国外に文化交流機関を設置することで、フランスと相手国との間で研
究者同士の交流を深めたり、相手国へのフランス語普及に努めるなど、19 世紀
後半から文化交流を促進させ、第一次世界大戦後の 1920 年代には特に文化外
交に力を注いだ。設立から約 90 年経つ現在でも、日本とフランスとの間の中
心的な公的機関である日仏会館や関西日仏学館の設置は、フランスの文化外交
政策の大きな成果とみることができる。
しかし文化交流機関の設立という試みはその一つを挙げてみても、まずフラ
ンス政府と相手国政府との間の合意が必要であり、その合意後にも多大な時間
と資金が必要であった。設置の理念に共鳴する多くの協力者の貢献は非常に大
きかった。
11
次章では、フランスの文化交流機関について、1918 年 2 月 12 日付フランス
政府の覚書に始まる日本で最初の日仏会館がどのような歴史的経緯の下に発案
され、計画されることで 6 年後の 1924 年 12 月の設立にこぎつけることができ
たのか論じる。同時に日仏会館設立の政治的な意義についても論じたい。
12
第2章
2.1
東京フランス学院の計画から日仏会館の設立へ
はじめに
第 2 章では、日本で初めての日仏文化交流機関である日仏会館の起源となる
東京フランス学院計画を検討し、次いで 1924 年 12 月に日仏会館が開館するま
での経緯について、特に日仏会館が果たす機能の面から論じる。さらにフラン
ス政府が日仏会館に込めた政治的意義についても検討したい。日仏両国は、日
仏会館という一つの機関を設置することに 1918 年 4 月の政府間合意から 6 年
以上の年月をかけ、これは極めて多難な国家間プロジェクトであったのだ。
2.2
日仏間の「覚書」にみる日仏文化交流機関の起源
フランスの文化交流機関を設立しようとする動きはフランス側の発意に基づ
く。1918 年 2 月 12 日付の在日フランス大使館より日本外務省への覚書にそれ
を認めることができる。
Le Gouvernement de la République approuve le projet soumis par
l’Ambassade de France de créer un Institut Français au Japon. Il est
disposé à confier la tutelle de cette institution à l’Université de Lyon.
Il serait désireux de connaître d’urgence si le Gouvernement Impériel
accueille favorablement ce projet qui est de nature à créer des relations plus
étroites dans le domaine intellectuel et moral entre le Japon et la France.
(アジア歴史資料センター
1918,第 2 画像)
上記覚書の日本語訳
フランス共和国政府はフランス大使館の指導の下、日本にフランス学院を創
設する計画を承認します。この機構に対する監督をリヨン大学に委ねます。
知的・精神的分野において日仏間に一層緊密な関係を築くこの計画を、帝国
政府が快諾するか否かについて緊急にお伺いしたいです。
このように在日フランス大使館は当覚書において初めて日本側に「学院」
13
(Institut)創立を発案したと思われる。つまり、日本で初めてとなる日仏文
化交流機関として 1924 年に設立を見る日仏会館は、当初は「会館」
(Maison)
ではなく「学院」と計画されていたのである。
それに対して日本政府内では、同年 2 月 14 日起草 19 日付幣原次官より田所
文部次官宛「佛国協会設立計画に関する件」が出された。この文書では本文中
でも「佛国協會」との記述が見られ、このことは日本側が当初 Institut Français
を「学院」と翻訳していなかったことを示している。フランス側の覚書に対し
て幣原は「当方ニ於テモ好意ヲ以テ考量スベキモノト思料致候」として前向き
に検討すべき旨を伝えた(アジア歴史資料センター
1918,第 5 画像)。
続いて同年 3 月 4 日になると今度はフランス公使ルニヨールが幣原外務次官
に宛てた書簡の中で、将来設立されるべき仏国会館がドイツへの対抗という政
治的意図を持つことが明らかとなった(アジア歴史資料センター
同上)。
注目すべきは、同年 3 月 15 日付の日本外務省発在日フランス大使館宛「覚
書案」である。「仏蘭西協會」「本協會」とある部分に縦に 2 重線が引かれたう
えで「協會」にあたる部分が「学院」と修正されているのである(アジア歴史
資料センター
同上)。恐らく、日本政府が Institut Français をフランス「学
院」と訳すようになったのはこの覚書案が初めてではないか。
さらに 1918 年 3 月 19 日に再びフランスから日本側へ「フランス学院設立に
関する覚書」が出された。この中では、世界に既に学院が存在しそれがフラン
スの諸大学の補助金を受けたものであるとした上で、東京のフランス学院がリ
ヨン大学の学術的指導下に置かれるべきとされた。ここからは、将来の設立を
見る日仏会館がフランスが 1907 年以降順次ヨーロッパに設立してきた学院の
流れを汲むものであることがわかる。この覚書でもフランス側は東京フランス
学院(l’Institut Français de Tokyo)としている(アジア歴史資料センター
同
上)。
結局日本は同年 4 月 12 日付在日フランス大使館宛覚書(仏蘭西学院設立計
画ニ関スル件)でフランス学院計画に賛同の意を表した(アジア歴史資料セン
ター
同上)。日仏両政府は、正式に東京にフランス学院(Institut Fraçais de
Tokyo)を設立するための合意に達したのである。なお、名称だけからは混同
するかもしれないが、この東京フランス学院の計画は、1952 年に日本で二つ目
14
のフランス学院として誕生した東京日仏学院(l’Institut franco-japonais de
Tokyo)とは別の計画であり、直接的に関係がないことに留意しておきたい。
2.3
リヨン大学使節団の訪日と構想段階における日仏会館の機能
次にフランス政府が日本に文化交流機関を設立していく経緯を解明する。
1871 年にレオン・デュリー(Léon Dury 1822-1891)によって日本で最初のフ
ランス語学校を京都に設立したが、日本初の本格的な日仏文化交流機関として
は、リヨン大学使節団やクローデルらが中心となり設置した 1924 年の日仏会
館の設立を待たなければならなかった。
ドローは、フランスの文化交流を相手国の文化的水準により、フランスと同
程度の文化、経済の発展を遂げている諸国との交流と、発展途上にある諸国と
に分類している(ドロー
1965)。当時の日本はアジアの覇権国家であり、前
者に入るだろう。
日仏学館の設立以前、1909 年に旧日仏協会とフランス語の知識発展を目的と
した仏学会が合併して日仏協会ができた。フランス法学の大家である東京大学
法学部長の梅謙次郎(1860-1910)や工学博士の古市公威(1854-1934)、法学
博士の冨五政章(1858-1935)、それに法学博士の山田三良(1869-1965)がそ
の発足に関わったし(Frank, Iyanaga
1974)、それは日仏会館設立への土台
ともなった。
その後日仏会館設立に向けて舵を切ったのは上記の覚書等からも分かるよう
にフランス側であった。
1918 年 2 月 12 日付フランス政府発の覚書の後、フランス学院計画の主導を
求められたフランス・リヨン大学総長のポール・ジュバン(Paul Joubin 生没
年調査中)学長や同大学の東洋学者である Maurice Courant(1865-1935)を
中心メンバーとする使節団が、1919 年に東京に派遣された(Frank, Iyanaga
同上)。この使節団は、新たに設置されるべき日仏文化交流機関についての構想
を示し、日本側と交渉にあたった。この交渉はクローデルが駐日大使として着
任した後に進展を見せた(Frank,Iyanaga
同上)。
このようにフランスによる文化交流機関の設置は、フランス外務省が発案し、
フランスの大学機関が協力して有力な学者を使節団として現地に派遣し、現地
15
調査したり、相手国との交渉を重ねることで実現されるケースが非常に多い。
それは設立過程のパターン化や合理化と見ることができるかもしれない。
さて、リヨン大学を中心とする派遣団には目的があった。それは彼らが残し
た覚書に明記されている。それは「両国の学者や大学で活動する人たちが、個
人的な往来を重ね、また両国の文明について互いに研究することにより、両国
の文化的な接近を図ることである」とされている(Frank, Iyanaga
1974)。
実際、1924 年 12 月に誕生した日仏会館はリヨン大学使節団の意向に近いもの
になったのではないだろうか。
ジュバンは、ローマやアテネの Ecole を引き合いに出して日仏会館(計画段
階当時はフランス会館)がその種の Ecole になるとした(Frank, Iyanaga
同
上)。フランス国外へ新たな文化交流機関を構想するとき、ローマやアテネにす
でに存在する機関と比較することにより、新しい機関のあり方や意義を定めよ
うとしたのはジュバンだけではなかった。ただしローマやアテネの Ecole に対
する評価は分かれていた。クローデルは、日仏会館の開館式における講演で、
ローマやアテネの Ecole を取り上げてそれが過去の文明を扱うものとしたうえ
で、フランスから日仏会館に派遣される若者はローマやアテネに务らず独特で
興味深い日本の文明を見ることだろうと発言した(Frank, Iyanaga
同上)。
そして日本の文明が活気のある点でこれらの都市に対する優位性を示すとした。
フランス学院の創設者である Luchaire も、フィレンツェに最初のフランス学
院をつくるときに、考古学を取り扱うローマやアテネの Ecole はモデルになら
ないと考えた。Luchaire が計画段階で構想した Maison は、フランス人だけで
はなくイタリア人にも開かれ、彼らが共に学ぶところだった。イタリア人にフ
ランス語を教え、フランス人にイタリア語を教え、お互いが相手の言語や思想
を学ぶことで相互理解が生まれるとルシェールは考えたのだ(Luchaire 1965,
p.150)。
このようにローマやアテネの Ecole に対する見解がジュバンやクローデル、
Luchaire で異なるのは、新たにフレンツェや東京につくられる文化交流機関で
重視されるべき事業内容について、それぞれが異なる考え方をしていたからで
ある。端的に言えば、ジュバンはフランス人研究者のための機関を、ルシェー
ルは設置される国の人にも開かれた機関を、またクローデルはその中間的な機
16
関を構想したことがわかる(ただしクローデルは後に Maison の機能に満足で
きず、Institut の構想へと傾き、それが関西日仏学館へとつながる)。実際にジ
ュバンやクローデルが中心となって設立した日仏会館は研究機関としての要素
が強くなったし、ルシェールはフランス語教育をも重視するフランス学院を創
設した。またクローデルは後に関西日仏学館として設立されるに至る京都日仏
学院(L’Institut Franco-Japonais de Kyoto)の計画を巡りその設立に反対す
る東洋学者のレヴィに反論している。クローデルは 1927 年 1 月 10 付の外交書
簡で、日仏会館と関西日仏学館について、機能の面から比較することで両者が
まったく異なることを強調したのである。すなわち、日仏会館については「若
い 学 者 が 日 本 に つ い て の 深 い 知 識 を 身 に つ け る 高 等 教 育 の 授 業 」( un
séminaire de Hautes Études où de jeunes savants se forment à la
connaissance approfondie des choses Japonaises)と、そして関西日仏学館を
「とりわけ、わが国のことばの普及と、若者がフランスの思想を身につけるた
めの手ほどきを目的とする施設」
(un établissement qui a surtout pour but la
propagation de notre langue et l’initiation des jeunes gens aux idées
Françaises)と位置づけた(Claudel
1995,p.395)。クローデルも日仏会
館が学術研究的な要素が強いことを認識し、京都にはそれとは違ってフランス
語やフランスの思想を学ぶ教育機関としての機能を重視する関西日仏学館を設
立しようとしたことがわかる。
2.4
設立過程における「学院」から「会館」への名称変更とその意義
1918 年にフランスの発案に始まった東京フランス学院の計画であるが、これ
は最終的に日仏会館という名称の下に設立されるに至った。それは、日仏会館
の規約にあたる「財團法人日佛會館寄附行為」の第 1 章「名稱及事務所」第 1
条で「本館は日佛會館(La Maison Franco-Japonaise)と稱す」とされること
から確認できる(アジア歴史資料センター
1924a,第 10 画像)。
日仏会館という名称に決まる前に「フランス会館」(Maison de France)と
計画されたこともわかった。この名称は 1919 年のリヨン大学使節が来日した
際には既に使われていた(Frank, Iyanaga
1974)。1922 年 11 月の「日仏会
館目論見私案」で日仏会館とされた直後の 1922 年 12 月にもクローデルが書い
17
た覚書のタイトルは「フランス会館について」
(Note sur la Maison de France)
である(Frank, Iyanaga
1974)。それは、この時点ではまだクローデルが
Maison に賛成していたことを示す。
しかし「日仏」会館か「フランス」会館かという問題以上に興味深いのはそ
れが「会館」(Maison)なのか、あるいは「学院」(Institut)なのかというこ
とである。ここではこれら 2 つの名称に加えて「学院」(Ecole)についても取
り上げなければならない。なぜなら上記の覚書の中でクローデルはこの「フラ
ンス会館」を「東京学院」(Ecole de Tokyo)とも表現したからである。Ecole
という単語はフランスの対外文化交流施設の名称として使う場合どのような意
味を持つのか。
藤原は、フランスが 1900 年にインドシナの言語や地誌、考古学を研究する
学 術 研 究 機 関 と し て の 「 極 東 フ ラ ン ス 学 院 」( L’Ecole française
d’Extrême-Orient)を設立したとし、この Ecole が Institut よりも研究活動を
重視する機関であるとした(藤原
2014)。その上で、藤原は、日仏会館につ
いては Ecole と Institut の折衷案として Maison が構想されたと分析している
(藤原
同上)。確かに日仏会館の設立後、その下で日仏に関わる多くの学会が
運営され、また「日仏会館学報」
(Bulletin de la Maison franco-japonaise)や
「日仏文化」
(La Culture franco-japonaise)という学術雑誌も創刊された。こ
れだけでも、確かに Institut の 1 つである関西日仏学館よりも研究活動が盛ん
だと認めることができる。ただし上記のようにクローデルは同一の書簡のなか
で将来設立される機関について Maison とも Ecole とも表現していることから、
クローデルは両者を明確に区別していなかったことがわかる。つまり藤原が指
摘する折衷案というよりは、むしろ日仏会館が限りなく Ecole に近い性質を持
っていたのではないかと思われる。
ところが、その後 1924 年 4 月 28 日付のクローデルから木島に宛てた覚書の
タイトルは「日仏学院についての覚書」(Note sur l’Institut franco-japonais)
とされ(Frank, Iyanaga
1974)、再び「学院」へと変更されている。1922 年
の時点で Maison としていたクローデルが、ここで Institut と表現したのは、
研究機関としての機能が中心の日仏会館の誕生を恐れたからであると見ること
ができる。このようにフランス側は最終的に設立されるに至る日仏会館の名称
18
について Institut と Maison、Ecole の間で揺れ動いていた。
日仏会館が「会館」と称されるに至った背景を日本側の事情からもうかがう
ことができる。1924 年 12 月 14 日の日仏会館開館式で演説を行った当時の内
閣総理大臣加藤髙明(1860-1926)の次の言葉に、日仏会館が「会館」たる所
以を垣間見ることができる。
「日佛協會に類似した會はあるのでありますが、未
だ曽て會舘と云ふものは他に無いやうであります、家の出来たのは日佛會舘が
初めである、斯う私は考へるのであります」
(アジア歴史資料センター
1924b,
第 32 画像)。つまり、日仏の研究者が集う場所それ自体を強調するために「会
館」(Maison)と命名されたのではないだろうか。それに対して関西日仏学館
では教育に重点が置かれている。そういう意味で「学」を取り、その上で東の
日仏会館に対置させる意味で「館」をつけて「学館」(Institut)となったので
はないか。フランス学院の一機関としての関西日仏学館の名称については、第
4 章で詳述する。
2.5
日仏会館の理念と事業内容
2.5.1
「日仏会館企画の趣意」にみる日本におけるフランス
1922 年 8 月の「日仏会館目論見私案」中の「日仏会館企画の趣意」で杉山直
治郎は、日本が明治維新以降、文運の進歩について、西欧文化を摂取すること
によって成し遂げたが、それは英米独よりもむしろフランス文化の貢献に依る
ところが大きいと主張している。にもかかわらずフランス文化が日本において
それに相応しい地位を与えられずにいる現状を嘆いた(アジア歴史資料センタ
ー
1922a)。
実際、当時の日本におけるフランス語教育の置かれた状況は厳しいものだっ
た。それは、例えば 1924 年にインドシナ総督のマーシャル・アンリ・メルラ
ン(Martial Henri Merlin 生没年調査中)が訪日した際の日仏の会談からも読
み取ることができる。クローデルも出席した松五外務大臣との会談で、メルラ
ンらフランス側は日本とインドシナとの間における貿易に関する話題の他に、
フランス製鉄や飛行機の日本への直接の輸出を求めたが、日本側は日本では英
語を理解する者が多く同時に英米式の教育を受けるものが多いことから、機械
19
を購入するときも英米式のものを希望すると答えた 2(外務省編
1924a)。こ
れはフランス語教育が务勢であることが、日本におけるフランスの経済にも直
接的に悪影響を及ぼすことを示唆している。そして、この日本におけるフラン
ス語教育とフランスの経済活動の強化こそが、外交官としてのクローデルの 2
つの大きな課題だった。
「日仏会館企画の趣意」では続いて、
「大戦後の佛文化は同國大革命以來絶へ
て見ざりし大興隆の機運に際会せるものあるが如く、諸外國は競つて仏蘭西文
化と提携するの新施設を實現し」
(アジア歴史資料センター
1922a,第 4 画像)
とあり、時期的にもここにおける「新施設」がフランス学院を指すことが容易
に想像できる。日本側もフランスの対外文化交流機関の拡大を既に認識してい
たようだ。そして「現代社会の消長は其文化政策の得失如何繋る所大なりとせ
ば、此の文化に關する根本的缺陥にして、今後尚永く改められずんば、我國運
の將來の如きも尚憂ふべきものなしとせざるべし」(アジア歴史資料センター
1922a,第 4 画像)と警鐘を鳴らした。そこで日本においても日仏文化協同の
恒久的原動力となる中心機関をつくることで日本文化を世界的たらしめようと
訴えている(アジア歴史資料センター
同上)。
このように、日本側は日仏会館をフランス文化だけでなく、日本文化をも対
外的に発信することを目指した機関とすることを目指していた。またこの中で
は、フランス政府が日仏文化協同の事業に年 30 万フランを支出することも明
記された(アジア歴史資料センター
2.5.2
同上)。
日仏文化研究のための日仏会館
「財團法人日佛會館寄附行為」第 4 条では事業内容が明らかにされている。
それは以下のとおりである。
1)
日仏文化の協同研究
2)
日仏文化に関する諸般の仲介
3)
日仏文化に関する研究資料の収集、展覧
2「メルラン総督松五外務大臣会談要領」
(5
月 11 日午前 10 時より 12 時半迄外務大臣官邸ニ於
テ).
20
4)
日仏文化の研究に関する会合、講演、出版
5)
日仏文化の相互普及の画策及奨励
6)
仏国人士の宿舎提供
7)
その他理事会において適当と認める事業
(アジア歴史資料センター
1924)
日仏会館がいかに日仏文化とその研究を重視しているかが分かる。また、3)日
仏文化に関する研究資料の収集、展覧、4)日仏文化の研究に関する会合、講演、
出版、6)仏国人士の宿泊提供といったことは、それらを可能とする場所が必要
であり、この点でも日本で初めての恒久的な文化交流機関としての日仏会館の
意義は大きい。また注目すべきことに、フランス語教育やフランス語普及とい
った事業が見当たらない。これは、日仏会館が教育機関としての機能よりも学
術研究機関としての役割を期待されていることを示している。
ただし、この「寄付行為」は、日仏会館の日本側の運営のみに関するものと
されている(Frank, Iyanaga
1974)。このように日仏会館は設立当初より、
日本側の組織とフランス側の組織に分かれており、館長をめぐる対立などもあ
り(Frank, Iyanaga
同上)、これは日仏が一体となって会館を運営すること
の難しかった面もあることを示している。
2.6
日仏双方にとっての政治的意義
日仏会館は日仏文化の研究のための恒久的な文化交流機関として設立される
に至った。これは日仏親善を願う人々にとっての悲願であった。日仏会館の設
立は日仏間の文化交流を主目的としたが、同時にフランス政府の政治的な危機
感も日仏会館の設立計画が促進される要因となっていた。フランス政府は、日
本におけるイギリスやドイツの存在感の大きさに危機感を持つとともに、日本
と仏領インドシナとの経済関係がこじれていたことも認識していた (中條
2001)。
日本は仏領インドシナとの貿易において高関税を課せられ、それを問題視し
ていた。日仏間の懸案であったこのインドシナ関税問題は、日仏会館の設立と
も関わっていた。この問題には日本側の民間組織である「仏領印度支那協会」
21
(Société des Amis de l’Indochine)が深く関与した(濱口
2013)。印度支那
協会はその規定の第 2 条(目的)において「本會ハ本邦ト印度支那間ノ經濟通
商關係ノ増進発展ヲ図リ日佛人協力シテ極東ニ於ケル兩國ノ親善及ヒ平和的文
化ノ促進ニ貢献スルヲ以テ目的トス」とする(アジア歴史資料センター
1922b,
第 4 画像)。文字通り、日仏間の経済関係の発展と日仏親善の促進を目指す機
関である。
1923 年に入り日仏会館設立の動きが活発化したのは、インドシナ関税問題の
ためであると中條は指摘する(中條
2001)。濱口も、クローデルは日仏会館
設立のために関税問題で日本を惹きつけたと分析している(濱口
2013)。さ
らに、クローデルは、1924 年 6 月 3 日付で仏領インドシナ総督メルランの訪
日について書簡を出している。その中でメルランの訪日を実現させたのは仏領
印度支那協会だったことが明かされている(Claudel 1995)。メルランが離日
する際にはクローデルは次のように語っている。
「この協会の代表がメルランを
訪ね、日仏学院の問題を引き受けると共にこれを確実に設立することの責任を
負うと明言しました。」(une délégation de cette Société est venue lui rendre
visite et lui a declaré qu’elle prenait à sa charge la question de l’Institut
Franco-Japonais 3 et qu’elle assumait la responsabilité d’en assurer la
fondation.)(Claudel 同上, p.271)。
こうして、印度支那協会には日仏会館設立という日仏親善のプロジェクトに
協力することにより、日本とフランスとの懸案であるインドシナ関税問題を解
決させようとする思惑があったことがわかる。そしてこの印度支那協会による
財政協力は日仏会館設立に不可欠なものであった(濱口
2.7
2013)。
日仏会館に続いた京都での計画
本章では日本で最初につくられた恒久的な日仏文化交流機関である日仏会館
3このように、日仏会館が開館する約半年前に至っても、クローデルはそれを「学院」としてい
る。更には、開館を約 1 ヵ月半後に控えた同年 10 月 29 日にも、クローデルは同様に「学院」
と表現している(Claudel 1995, p.302)。クローデルが両者の機能を厳格に区別していたこと
を考慮すれば、これは 1922 年の 12 月に覚書で「会館」としていたクローデルの意向の転換と
見ることができる。しかし、
「学院」を構想することは 1918 年 2 月の日仏合意の路線への回帰
とも捉えることができ、その意味では、この 1918 年の「東京フランス学院」構想を、関西日
仏学館を設立する事によって完結させたと考えることもできるのだ。
22
について、それが 1918 年 2 月の在日フランス大使館が日本政府に宛てた覚書
に始まることを確認した。それが日仏文化交流機関の起源だったのである。日
仏会館を巡ってはそれにどのような役割をもたせるのかという点で、計画段階
で何度もその名称が変更された。結局は、日仏の研究者のための学術的要素の
高い機関として 1924 年 12 月に開館するに至った。また、日仏会館の設立背景
には、日本におけるフランスの地位について、特に日本の学術研究者らが危機
感を持っていたことも検証した。
フランス政府が文化交流機関を設立しようとの試みは、日仏会館だけでは終
わらなかった。1918 年 2 月の覚書で最初に計画した日本におけるフランス学院
(Institut français)は、京都に関西日仏学館を立てることで実現したのだ。
それは外交的な目標を達成するための、そして日本との親善の発展を願うクロ
ーデルの悲願だったのである。次章では、関西日仏学館の計画やそれを設立す
る過程で大きな役割を果たしたクローデル、リュエラン、稲畑らに焦点をあて
ながら論じていきたい。
23
第3章
3.1
関西日仏学館設立の背景
はじめに
第 3 章では日仏会館に次いで日本で 2 番目の日仏文化交流機関となる関西日
仏学館について、クローデルやリュエラン、稲畑など設立に深くかかわった人
物に焦点をあてつつ、日仏双方が関西日仏学館の設立に込めた政治的意義につ
いて考察したい。フランス学院は 1920 年代、ヨーロッパを中心に世界に進出
しつつあったが、第 1 章でみたように、多くのフランス学院の設立にはフラン
スの大学の支持や支援が大きな役割を果たした。一方で、関西日仏学館の場合、
フランスの特定の大学が計画を主導したという事実は本研究では見当たらなか
った。関西日仏学館については、大学といった組織よりも、むしろ個人の功績
によるところが大きかった。
3.2
京都における「学院」計画の伏線
日仏会館が日仏政府間の合意から 6 年を経て設立されたのに対し、関西日仏
学館については、その政府間交渉の起源は本研究では明らかにできなかったが、
リュエランによる 1926 年夏の計画(宮本
1986)からおよそ 1 年余りで開館
した。このような歴然とした差は、学問都市かつフランス語教育への賛同と需
要を示した京都という場所に起因するところが大きい。京都にはフランス文化
に対して共感の意を示す京都帝国大学の荒木寅三郎総長がいたし、稲畑もいた。
また、デュリーは京都に日本で最初のフランス語学校を建てた(Claudel 1995)。
つまり、京都にはフランスの文化交流施設が新たに受け入れられる土壌があっ
たのだ。そしてクローデルはそのことをよく理解していた。フランス側からの
提案に対する関西の多くの人々の理解と、計画への迅速な支援が、関西日仏学
館の誕生を実現させた。
日本にフランス学院(Institut français)をつくることは、駐日大使として
日本に赴任したクローデルにとっての悲願だった。なぜならクローデルは日仏
会館(Maison franco-japonaise)では満足できなかったからだ。言い換えれば、
Maison では外交的な目的を達成することができないと考えたから、クローデ
ルは日仏会館の設立直後から Institut を構想していたのだ(Claudel 同上)。
24
クローデルはフランス本国政府に宛てた外交書簡で何度も日本でのフランス語
教育・普及、それにフランス製品の日本市場での台頭について言及している。
クローデルは日本でフランス語を解する人が増えれば、フランスのものも売れ
ると考えたのだ。とすれば、研究機関としての要素の強い Maison ではなく、
主に日本人がフランス語などを学ぶ教育機関としての機能が高い Institut の設
立を、クローデルが実現しようと考えたと解釈することは自然である。
3.3
フランス側の事情にみる関西日仏学館の設立背景
関西日仏学館の計画を巡るクローデルとレヴィの対立や、フランスの大学使
節団が関西日仏学館の構想段階で派遣されなかった背景は、クローデルが京都
に設立される新しい日仏文化交流施設は何としても日仏会館のような研究機関
としての機能が高い施設にならないよう、努めたからである可能性が高い。
確かに、日仏会館のような機関であれば、その設立からわずか 3 年で新たに
つくる必要はない。しかし、クローデルはフランス語教育を重視する機関をつ
くりたかったのだ。それに対して、東洋学者のレヴィは日仏会館で満足してい
たのだろう。むしろ新しい機関が京都につくられることでフランス政府の予算
が京都に回ってしまうことを危惧したのだ(Claudel 1995)。よって両者の対
立は、単なる個人的な対立ではなく、フランスの国益を追求しなければならな
かった外交官と、研究機関としての日仏会館の環境を守りたかった研究者との
対立であったと考えることができる。
また、リヨン大学使節団の派遣が、日仏会館を学術研究主体の機関へと導い
たから、フランス政府は京都の新しい機関が東京の日仏会館のようなことにな
らないよう、力をもった組織的団体を派遣するのを見送ったのではないだろう
か。実際、クローデルの指示で京都に派遣された地理学者リュエランが当初比
叡山に計画したのはフランス語講座だったのだ。
フランス側が日仏会館の開館直前まで Maison と Institut で揺れていたのも、
フランス外務省とリヨン大学使節団との間で意見の食い違いがあった(藤原
2014)からであることは明白である。
整理をすれば、フランス政府は Institut をつくろうとしたが、東京では図ら
ずも Maison になってしまった。よって京都では何としても Institut を設立し
25
ようとしたのである。
結局、京都ではクローデルの意向通りに Institut が誕生した。しかし、設立
から 9 年後の 1936 年の時点においても、フランス語教育が置かれた状況は他
の言語に比べて依然厳しいと、当時の駐日大使ピラーは関西日仏学館の新館開
館式で述べた。そしてそのような状況を克服することこそが、関西日仏学館の
第一の存在理由なのだという(Marchand 1937)。
3.4
地理学者リュエランと比叡山夏期大学構想
関西日仏学館計画の前身である比叡山夏期大学(Université d’été française
sur le Mont Hiei à Kyoto)の構想は、フランス人地理学者のリュエランによる
ものだった。リュエランは地理学のアグレジェ(agrégé)で、フランス地理学
派の優秀な研究者だった(Frank, Iyanaga
1974)。リュエランは「関西、日
本の一地方についての地形学研究」(Le Kwansai, étude géomorphique d’une
region japonaise )と題する学位論文を 1940 年に提出 している( Frank,
Iyanaga
同上,p.158)。また、1926 年 9 月 30 日に神戸で「フランス南部
海岸地方の気候、地質、風土、植物、歴史等」について講演したとされている
(アジア歴史資料センター
1926d,第 3 画像)。さらに、フランス本国だけで
はなく、仏領インドシナの地理についても講演している(アジア歴史資料セン
ター
1928)ことから、リュエランが幅広く地理学を研究していたことがわか
る。地理学の研究が後に日本政府との関係で裏目に出ることなど、予想できな
かったかもしれない4。
4
リュエランが華々しく開館した関西日仏学館の初代館長として務めていた頃、日本政府がリ
ュエランを要注意外国人に指定していたことは非常に興味深い。例えば、1930 年 8 月 19 日の
文書では長野県の白馬山や富山県の立山などに登山したことが「要注意外国人ノ動静ニ関スル
件」として報告されるなど(アジア歴史資料センター 1930,第 3 画像)、日本側が逐一その
行動を監視していたことがわかった。リュエランはこれらの山に登山することで地理学研究の
一助としていたようだ。その後も、1931 年 1 月 6 日には、当時の京都府知事佐上信一から幣
原喜重郎外務大臣他に「要注意外国人帰国の件」が出されている。この中では、リュエランは
関西日仏学館で「佛語教授ヲ為ス傍本國政府ノ内命ニヨリ本邦ノ地圖ヲ作製セル外國情調査ヲ
為ス疑アリ」とされている(アジア歴史資料センター 1931,第 2 画像)。日本政府は日本地
理を機密と捉えるとともに、それがリュエランの地理学研究によって漏れてしまうことを警戒
していたようだ。また、ここには日本のフランス政府に対する不信感も見受けられる。これは、
フランスに対する日本政府の対応に、文化交流事業で見せる日仏親善の姿勢とは異なる側面が
あったことを示している。
26
リュエランが関西を訪問したのも地理学研究のためだった(Claudel 1995)。
その途上登山した比叡山に惹かれて思いついたのが比叡山夏期大学だったのだ
(Claudel 同上)。このように、当初リュエランが計画したのは、文字通り夏
期のみ一時的にフランス語教育のための講座を開く施設だった。しかし、リュ
エランの計画に関西各界から予想以上の賛同が集まったことから、リュエラン
は彼らの期待に応えるためにも、恒久的な日仏文化交流機関を計画しなければ
ならなくなったのである(Claudel 同上)。
3.5
母体たる日仏文化協会の設立
関 西 日 仏 学 館 の 母 体 で あ る 日 仏 文 化 協 会 ( Société de Rapprochement
Intellectuel Franco-Japonais)はリュエランを中心として政財界、大学教授な
ど関西の有力者たちが協力するかたちで設立された。
目下神戸佛國領事館ニ滞在中ノ佛國大学教授「フランシス・リュエラン」ハ
日佛文化ノ相互接触並ニ比叡山仏蘭西文明講座ヲ設クル目的ヲ以テ駐日佛國大
使其他各大学教授商業会議所会頭市長新聞社長京都大阪各府縣知事(貴官並小
官)等ノ賛助ニヨリ日佛文化協会設立計画中ナルガ本会ハ六名ノ役員ヲ設ケ(佛
國三名日本三名)佛國大使ヲ会長トシ佛國文明講座主事ハ佛國政府(任期三年)
之ヲ任命スル5
(アジア歴史資料センター
1926,第 2 画像)
このように日本側の文書によれば、比叡山での夏期大学は日仏文化交流を目
的とすると明言されている。日仏文化協会の賛同者には稲畑をはじめ、住友や
鴻池といった財閥、それに京都大学の荒木総長の名が挙げられている(宮本
1986)。ちなみにクローデルは 1926 年 9 月 28 日に京都大学の荒木総長と一緒
に比叡山に登山した(外務省外交史料館
1926c)。結局、日仏文化協会は 10
万円の資金を集め、さらにはフランス政府とインドシナ総督府より毎年 2 万 3
千円の補助金を受けた(Sugiyama
1936)。
51926
年 9 月 18 日付兵庫県知事山縣治郎から内務大臣濱口雄幸他宛「日仏文化協會設立計画
ニ関スル件」,アジア歴史資料センター.
27
3.6
一度は頓挫した資金集めと稲畑の功績
日仏会館の計画は日仏政府間の合意から設立までに 6 年を要した。このよう
に 1 つの機関の設置には長い時間がかかる。さらには多大な費用が必要で、建
設場所も確保しなければならない。しかし京都では、幸運なことにリュエラン
の比叡山夏期大学計画に賛同する有志が集まったことで、短期間で設立への展
望が開けた。多くの実業家や政治家、大学教授らの中でも、大阪商業会議所会
頭の稲畑はその中心となって彼らをまとめた。
資金集めについては当初、京都商業会議所が主導するはずだった。しかしそ
れが不発に終わったと外務省記録は明らかにしている6。
昨年九月駐日クローデル佛國大使入洛ノ際大阪日佛協會長大阪商業會議所會頭
稲畑勝太郎主唱ニテ京都ニ日佛文化學館創立ヲ提唱シ京都日佛協會長大澤慶太
郎及立會員タル錦光山宗兵衛稲垣恒吉等ノ有力者ニ寄付出資ヲ慫慂シ尚市内有
力者ニ全趣意畫ヲ配布シ京都人士ニシテ之ニ賛意ヲ表スルニ於テハ比叡山上ニ
學館ヲ建設シ文學講座ヲ開設シ以テ日佛文化ノ開拓ニ資シ尚京都繁栄ノ一助ト
為サントスルニアリ而シテ當時京都商業會議所ニ於テ其創立ニ賛意ヲ表シ大澤、
稲垣其他ノ有力者ヨリ亓万円ノ寄付金ヲ募集シツツアルモ成績極メテ不良ニシ
テ應募者皆無ノ現状ナリ茲ニ於テ主唱者タル大阪商業會議所會頭稲畑勝太郎ハ
其形勢ヲ看取シ自ラ私財七万円ヲ投シ神戸有力者(全員ヨリ三万円出資)ト共
ニ、十万円ヲ以テ経営ヲ企画シ最近大阪市在住其地主ト交渉整ヒ京都東山九条
山ニ土地ヲ借用スルコトトナリタル模様ナリ之ニ對シ京都日佛協會支部側ハ其
面目上金参千円ノ寄付ヲ申込ミタル趣ナリ
(アジア歴史資料センター
1927-1928,第 2 画像)
日仏文化協会の設立はリュエランが中心であったが、同協会最大の事業である
日仏文化交流機関の設立計画は稲畑が主導したのである。稲畑は寄付金を集め
たのみならず、自ら出資することにより、日仏文化協会の主要な事業であった
関西日仏学館の建設にこぎつけた。集まった 10 万円の資金は、東京の日仏会
1927 年 3 月 2 日付京都府知事濱田から内務大臣臨時代理安達謙蔵他宛「日佛文化學館創設
ニ関スル件」,アジア歴史資料センター.
6
28
館設立の際の 5 万円の寄付金(Claudel 1995)の 2 倍にのぼる。注目すべきこ
とに、この 10 万円のうち、実に半分以上の 7 万円が稲畑自身によるものなの
だ。稲畑の功績が大きかったといわれる所以である。
3.7
クローデルと稲畑との蜜月にみる日仏親善
クローデルは 1926 年だけでも熱海や岩国、日光など活発的に全国各地へ出
向いた。同年 5 月 4 日には神戸の川崎造船所飛行機部を視察し、同じく 5 月 9
日に名古屋の三菱で放熱器工場や発動機工場、プロペラ工場を見学した(外務
省外交史料館
1926a)。
1926 年といえば、リュエランや稲畑による日仏文化交流機関の設立計画が活
発化していた年である。同年にクローデルは尐なくとも 4 回にわたり京都を訪
問し、その度ごとに稲畑と会っている。1926 年 5 月 5 日にクローデルは稲畑
の案内で文学座を見学し、千日前や道頓堀を散策し、更に稲畑主催の招宴に臨
んだ7(外務省外交史料館
1926a)。また 7 月 3 日には南禅寺の稲畑邸で午餐
の饗宴を受け8(外務省外交史料館
1926b)、逆に 1926 年 9 月 27 日にクロー
デルは大阪ホテルに稲畑を招いて午餐会を催した。この午餐会の中でクローデ
ル自身が出席者に比叡山夏期大学のための経済的援助を求めており、クローデ
ルが最終的に関西日仏学館の設立へと結びつく計画を着々と進めていたことが
わかる9(外務省外交史料館
1926c)。同 12 月 6 日には日仏文化協会主催のク
ローデル送別宴も開かれた10。日本側からは稲畑らが出席し、フランス側も在
神戸領事のオーシュコルヌ(Armand Hauchecorne 生没年調査中)、当時は駐
日フランス大使館員とされているリュエラン、日仏会館館長のシルヴァン・レ
ヴィ(Sylvain Lévi 1863-1935)らが出席した。またこの場で稲畑は関西日仏
学館の建設寄付金が 10 万に達したと報告した(外務省外交史料館
1926d)。
71926 年 5 月 6 日付大阪府知事中川望から内務大臣若槻禮次郎他宛
「佛國大使来往ニ関スル件」,
外務省外交史料館.
81926 年 7 月 8 日付京都府知事池田宏から内務大臣濱口雄幸他宛「佛國大使来往ノ件」
,外務省
外交史料館.
91926 年 9 月 27 日付大阪府知事中川望から内務大臣濱口雄幸他宛「佛國大使等来阪ノ件」
,外
務省外交史料館.
101926 年 12 月 7 日大阪府知事中川望から内務大臣濱口雄幸他宛
「佛國大使送別宴ニ関スル件」,
外務省外交史料館.
29
この送別会でクローデルは関西日仏学館計画への日仏有志の協力に謝意を示し
ながら以下のように挨拶した。
本日茲ニ知事市長ヲ初メ各位ノ御臨場ノ下ニ盛大ナル送別宴ヲ私ノ為ニ開カレ
今挨拶ヲ述ブルハ私ノ光栄トスル次第デ恐縮ト申スノ外ナシ
今回自分ハ他ノ任地ヘ赴クニ付キ本席最後ノ別レノ御挨拶ヲ申サネバナラヌ事
ハ誠ニ感慨無量デアリマス
(…)私ハ別レニ當リ一種ノ慰安ヲ得タ事デ其レハ今回設立セントスル日佛文
化協會ニシテ之ハ皆様ノ犠牲的精神ノ御援助ニ依リ殆ンド事業ノ完成ヲ見ルニ
至リ之ニ依リ日佛間の友情益々親密ナル事ヲ得バ最モ幸甚トスル所ニシテ尚一
層本事業ニ努力サレム事ヲ希望シ最後ニ本協會ニ對シ私ノ友人タル稲畑會頭ノ
儘力ヲ厚ク感謝スルト共ニ必スヤ本協會ノ益々発展スル事ヲ確信スルモノデア
ル私ハ本國政府ニ之ヲ報告スルノ光栄ヲ有スルモノデアリマス
私ハ日本ヲ離ルルも私ノ事業ハ永遠ニ日本ヲ去ラヌ事ト思フ今後ハ一層公私共
御交情ヲ願フ
云々
(外務省外交史料館
1926d)
このようにクローデルは関西各界からの資金協力に感謝すると共に、特に稲畑
の名前を挙げている。関西日仏学館が開館する前年であったが、その設立計画
が順調に進んでいることに、クローデル自身非常に満足していたようである。
クローデルの発言通り、関西日仏学館はその設立から 90 年近く経った今日に
おいても、アンスティチュ・フランセ関西という名称の下に日仏交流の重要な
拠点であり続けている。
3.8
「関西日仏学館」という名称自体が示す深い意味
日仏双方の協力によって、フランスの対外的な文化交流機関である関西日仏
学館は、京都の九条山に 1927 年 10 月 22 日に開館した。恒久的な日仏文化交
流機関としては、1924 年 12 月 14 日設立の日仏会館に次ぐものである。この
「関西日仏学館」という名称については、それまでに設立された多くのフラン
ス学院に対して、いくつかの特異性がある。
30
第 1 に、関西日仏学館のフランス語表記は Institut franco-japonais du
Kansai であるが、ここに japonais が付されていることはそれまでに設立され
た他の多くのフランス学院と異なっている。というのも、フィレンツェ・フラ
ンス学院(Institut français de Florence)やプラハ・フランス学院(Institut
français de Prague)など、世界におけるフランス学院のほとんどの名称がフ
ランス学院に設置される都市名を付け加えたものになっていて、相手国名は付
されていないからである。フランス学院がフランス政府の公式機関であること
を踏まえれば、それらは自然な名称である。しかし関西の場合、稲畑が巨額の
私財をはたいて設立にこぎつけた経緯が、フランスの大学の支援によって成り
立つそれまでの他の多くのフランス学院と大きく異なる。日本人の貢献に応え
るという意味では、名称に japonais を加えたことも納得できる。
第 2 に、日本語表記では関西日仏学館より先に設立された他のすべての
Institut français がフランス学院とされるのに対して、京都の Institut だけが
学館と訳されている。関西日仏学館の設立過程における日本側の文書によると、
1927 年 3 月には「日佛文化學館」 11とし、その後同年 11 月には「関西」を付
け加えるとともに「文化」をその表記から削除した「関西日佛學館」12となっ
た(アジア歴史資料センター
1927-1928)。このように日本語表記では関西日
仏学館と初めから統一されていた訳ではなかったことが明らかになった。他方
で上記の両文書では既に Institut を「学館」との訳で固定させている。これで
は 1918 年の東京フランス学院計画において日仏間で交わされた「覚書」のな
かで Institut を「学院」と訳していたこととの整合性がとれない。従来から「学
院」としていた Institut の表記をあえて「学館」としたのは、東京の日仏「会
館」を意識した結果ではないだろうか。つまり日仏会館が日仏間の文化交流を
目的とする建物、言い換えれば「館」であったということである。建物をもっ
た恒久的施設をつくるという悲願が日仏会館の建設で達成された。稲畑が日仏
会館を意識して関西にも同様の施設を建てようとしたことは次のことばによく
表れている。
111927
年 3 月 2 日付京都府知事濱田恒之助から内務大臣臨時代理安達謙蔵他宛「日佛文化學館
創設ニ関スル件」,アジア歴史資料センター.
121927 年 11 月 17 日京都府知事大海原重義から内務大臣鈴木喜三郎他宛
「日仏學館ノ開館式ニ
関スル件」,アジア歴史資料センター.
31
(...)次に私は大阪に於ける有力者の援助を得まして、クローデル大使の慫慂
に基づき、東京にある日佛會館に對し、京都に日佛学館を設けて、我が國の學
生をして、佛國の文化に浴せしむる目的を以てこれが施設に着手しましたが
(...)
(高梨編
1938,p.432)
これは 1926 年 12 月、稲畑が仏領インドシナを訪問した際に、ハノイ商業会議
所における招待会での挨拶の一部分ある。この発言は、関西日仏学館の計画に
ついて稲畑が主導していたことを示すとともに、関西日仏学館が日仏会館に対
置することを明言している。関西日仏学館の「館」は日仏会館の「館」からと
った可能性がある。
また、稲畑は 1936 年 5 月 27 日に行われた関西日仏学館新館の落成式後の所
感で、関西日仏学館について「館に來り學ぶもの」と述べる部分があり(高梨
1938,p.39)、関西日仏学館が学びの「場所」であることを示している。この
ように Institut を「学院」ではなく敢えて「学館」と表記した背景には、関西
にも日仏間の文化交流を行う場所があることを強調する狙いがあったと考える
ことができる。
第 3 に関西日仏学館という名称が示すように、このフランス学院は京都とい
う、設置された都市名を冠していない。フランス学院に都市名ではなく一地方
の名称を付することも異例である。それは関西日仏学館の成り立ちによるもの
だった。京都だけではなく広く大阪や神戸の政財界、教育関係者からの賛同と
協力を得たものであり、そのことに敬意を表するためであった13(ワッセルマ
ン
2014)。
このように、関西日仏学館という名称を構成する「関西」、「日仏」、「学館」
13なお、
クローデルによる 1927 年 1 月 10 日付の書簡には L’Institut
Franco-Japonais de Kyoto
とあり(Claudel 1995)、このことは計画段階で関西日仏学館を京都日仏学館とする案があっ
た可能性を示唆する。また、設立後約 10 年を経て関西日仏学館第 3 代館長ルイ・マルシャン
(Louis Marchand, 1875-1948)が新館建設を記念して書いた本の題目は「関西日佛學館新館」
(Le Nouvel Institut franco-japonais de Kyoto)とされている(Marchand 1937)。既に関西
日仏学館として開館しているにもかかわらず、原著では Kyoto とされていることの意図はよく
わからない。しかも日本語ではそれが「関西」と訳されているのだ。
32
という全ての部分が、この日仏文化交流機関の成り立ちを表わしているのであ
る。つまり「関西日仏学館」それ自体が、日仏両国間の親善と設立に貢献した
日本人への敬意を示しているのだ。この点でおいて、関西日仏学館は世界に展
開するフランス学院のうちでも、特別な地位を占めているのだ。
3.9
民間人による関西日仏学館への協力とインドシナ関税問題
本章では、リュエランの比叡山夏期大学構想に始まる関西日仏学館の設立が、
クローデルの熱い思いや日仏親善を願う関西各界による賛同と協力により実を
結んだ経緯について検討した。稲畑をはじめとする関西の有志による財政支援
は関西日仏学館の設立に欠かすことはできなかった。では彼らが多額の資金を
投入することで得られるメリットとは何だったのだろうか。
日仏交流の促進という観点から稲畑らが協力したと考えるのが一番自然であ
る。ただし、当時の 7 万円という多額の財産を投じるまでして積極的に貢献し
た背景の一つに、大阪商業会議所の代表として、インドシナ関税問題を是正し
たいとの思惑があったと捉えることもできるのである。実際、稲畑は関西日仏
学館の設立された 1927 年の前後、機会がある度に日仏親善とインドシナ関税
問題とを結び付けてフランス側の譲歩を引き出そうとした。次章では、フラン
スの植民地における同化関税制度(assimilation douanière )について検証し、
仏領インドシナと日本との間で懸案となっていたインドシナ関税問題について
論じたい。
33
第4章
4.1
仏領インドシナ関税制度と日仏関税交渉
はじめに
第 4 章では、日仏両国が、インドシナ関税問題における対立を長年に渡って
解決することができなかった背景を探るために、まずはフランスの植民地にお
ける同化関税制度について概観する。その上で、インドシナ関税問題を巡る日
仏交渉の過程について論じる。
1892 年の同化関税制度はフランス本国に利益をもたらす一方、仏領インドシ
ナには厳しい状況を生み出すものだったと言える。とくに、近隣の中国や日本
との貿易という観点から見れば、仏領インドシナの経済が受ける不利益は大き
かった。それでも仏領インドシナはフランス本国が決定する関税制度を受け入
れるしかなく、フランス本国の意向を無視して独自に諸外国と通商条約を締結
することはできなかった(満鐵東亞經濟調査局
1941)。
このようにして、仏領インドシナとの間に通商条約を締結できずにいた日本
は、仏領インドシナとの貿易において高関税が課されることになったのである。
日本がフランス本国のみならず仏領インドシナからも最恵国待遇を受けること
ができるようになるのには、1932 年の日本・インドシナ通商協定を待たねばな
らなかった。
4.2
同化関税制度の適用と仏領インドシナ
4.2.1
同化関税制度とは何か
仏 領 イ ン ド シ ナ の 関 税 制 度 の 基 礎 と は 、 同 化 関 税 制 度 ( assimilation
douanière)であり、これは 1892 年の法律によってその後半世紀に渡って植民
地貿易政策の基本的制度となった(河野
1943)。この同化関税政策は仏領イ
ンドシナへの本国商品の輸出を容易にしたが、その逆の流れを抑制するもので
あり、この意味で本国中心主義だった(河野
同上)。また、同化関税制度はフ
ランス本国から仏領インドシナへの輸出は無税であるのに対して、仏領インド
シナからフランス本国への輸出は課税されるという特徴を持つ。
さらに、外国商品の仏領インドシナへの輸出には、一般税率、最低税率、あ
るいは中間税率が課される(河野
1942)。このうち、一般税率は無条約国に、
34
最低税率又は中間税率が協定国に対して課税された(日本拓殖協會
1941)。
フランスの植民地は、この同化関税制度が適用される植民地とそれ以外の植民
地に分類された。
4.2.2
経済的リスクと利害関係の複雑性
1892 年の同化関税制度はフランス本国の利益拡大のためには有効であった
かもしれないが、他方で仏領インドシナにとって、それはこれまで東アジア諸
国から輸入していた商品が簡単に入手できなくなると同時に、これらの国々か
ら報復措置がとられる危険をもはらんでいた(河野
1943)。地理的に近い中
国や日本といった東アジア諸国とは古来より交易や交流があったから、同化関
税制度はこれらの国々との関係においては亀裂を生じさせる危険があった。
もう尐し具体的に検討するならば、例えば、仏領インドシナの経済の要であ
る米の問題があった。仏領インドシナの貿易業者にとっては、近隣諸国にその
市場を見出すことが重要であった。しかし、このように外国の商品が仏領イン
ドシナに輸出されにくくなれば、逆に外国は仏領インドシナ米の輸入禁止措置
を採る可能性もあった。そこで仏領インドシナにおける米の貿易業者は、同化
関税制度から仏領インドシナにとって有利な関税への改正を求めるに至るのだ
(河野
同上)。なお、ここにおける貿易業者はマルセイユやボルドーといった
フランス本国に本社を構える、フランス本国からの移住民によって成り立つ(河
野
同上)。米の生産は現地民の手によって行われるのである。
このように、同化関税制度は、制度そのものの複雑性に加えて、利害関係が
入り組んでいる。別の言い方をすれば、同化関税制度を巡って仏領インドシナ
とフランス本国の対立という、単純な構図でこの問題を捉えることができない
ということである。フランス本国から仏領インドシナへの移住者の中にも、米
の貿易業者のように同化関税制度を改めて、外国と貿易を行いやすい制度を求
める者もいれば、インドシナ委員会といった民間の経済機関に属して、日本な
どとの関税交渉に対して反対運動を展開する者(海野
1983)もいた。そして
フランス側の利害関係の複雑性こそが、インドシナ関税問題の解決を阻む要因
となったのである。
35
4.3
インドシナ関税問題とフランスの警戒心
仏領インドシナとの貿易で課される高い関税は日本にとって大きな障害とな
っていた。それがインドシナ関税問題の本質であった。日本は一貫してフラン
スにこの問題の是正を促したが、フランスは国内においてもコンセンサスの一
致を見ず、交渉はなかなか進まなかった。ただ、日本の対インドシナ貿易は常
に輸入超過(片貿易)となっており、日本から仏領インドシナへの輸出が極端
に尐ない状態となっていたのである(海野
1983)。よって、日本側としては
この問題を何としても解決する必要があったのである。
日本側が交渉の相手としたのは、仏領インドシナ総督は言うまでもなく、仏
領インドシナの各商工会議所、またフランス本国政府並びに関係諸団体であっ
た。他方、仏領インドシナ総督が持つ裁量の限界については日仏両国とも認識
していた。すなわち、日本側はインドシナ関税問題の最終的な解決はパリにお
いて協議すべきものと考えていたし 14(外務省編
1925a)、フランス側もメル
ラン総督が本国より与えられる訓令の範囲内において日仏両国の関係を緊密な
らしめ得るとした15(外務省編
1925b)。
フランス政府が日本に対して最恵国待遇を仏領インドシナになかなか適用し
なかったのは、概ね以下の 4 点の理由に集約できる。
1) 日本が印度支那にフランス本国よりもはるかに近いこと。
2) 貿易上の運賃もフランス本国からに比べて日本からの方が安く済むと
いうこと。
3) 日本人の労働賃金が低いということ。
4) 日本政府が印度支那貿易に対して多額の補助金を出すことで輸出促進
に努めているということ。
(海野
1983、満鐵東亞經濟調査局
1941)
つまり、仏領インドシナと日本との貿易における地理的な利点や労働条件、
14「山県特派大使ニ対スル訓令ニ関スル件」
(1924
年 12 月 11 日在ハイフォン森領事発幣原外
務大臣宛通送第 150 号).
15「インドシナ総督邸晩餐会ニ於ケルメルラン総督ノ演説要旨報告ノ件」
.
36
日本政府の積極姿勢をフランス政府が警戒せずにはいられなかったということ
であろう。フランス側はインドシナ関税問題是正によって利益を得るのは日本
だけであるという考え方に支配されていた。よって政府間での協議は幾度とな
く行われたものの、なかなか交渉に進展を見ることはできなかった。
4.4
歴史的経緯
4.4.1
仏領インドシナ総督の訪日以前
幾年の日仏間における交渉や接触のなかで、インドシナ関税問題について提
起するのは日本側であった。フランス一国を相手としているはずなのに、日本
側は常にフランス本国と仏領インドシナの双方を交渉相手としなければならな
かった。それは交渉を複雑化させ、ときに行き詰まりをみせる原因ともなった。
フランスの本国側と仏領インドシナ側とがしばしばコンセンサスを得られなか
ったからである。
1907 年に結ばれた日仏協約では、日本はインドシナについても最恵国待遇を
認めるようフランス側に求めたが、これは協約本文ではなく、フランス側の提
案による「仏領印度支那ニ関スル宣言書」に明記された(濱口
2011a)。すな
わち、同年 6 月 10 日、パリにおいて「仏領印度支那ニ関スル宣誓書」が当時
の駐フランス大使の栗野慎一郎と外務大臣元老院議員ステファン・ピションと
の間で交わされた。ここにおいて「日本國政府及仏蘭西政府ハ日本國ト仏領印
度支那トノ關係ニ付通商條約ヲ締結セムカ爲商議ヲ開始スルコトヲ他日ニ譲リ
茲ニ協定スル所左ノ如シ」とされ(アジア歴史資料センター
1937,p.15)、
これによって通商上、日本の製品は不利な状況に置かれ続けた(海野
1983)。
さらに 1911 年の日仏通商航海条約でもインドシナは除外された。第 1 次世界
大戦時には仏領インドシナ総督としては日本に譲歩の姿勢を示したが(海野
同上)が、仏領インドシナ内の商業会議所やフランス本国のインドシナ委員会
等の強硬な反対運動があり、進展しなかった。先に述べたように、インドシナ
委員会は民間の経済機関であり、インドシナのフランス人およびフランス本国
の関係者が積極的に関与してインドシナの関税政策に決定的な影響力を及ぼし
ていた(海野
同上)。同委員会は、日仏間で関税交渉が行われると、幾度とな
く反対運動を展開し、その進展を阻害した。
37
4.4.2
仏領インドシナ総督の訪日
1924 年に仏領インドシナ総督であるメルラン一行が来日したのは、日本側の
組織である仏領印度支那協会の招待からであった(Claudel 1995)。当時のフ
ランスはインドシナの関税政策が日本に与えた打撃を認識しており、どうすれ
ば日本のフランスに対する不満を和らげることができるかを検討していた。す
なわち、第一次世界大戦後のフランス本国の関税の引き上げや、同化関税制度
のインドシナへの適用に対する日本の苦しみ、そして連合国だった日本が旧敵
国のドイツと同じ扱いを受けることへの不満という問題をいかにフランスが解
決することができるのかという課題があったのだ(海野
1983)。フランスが
メルラン総督を日本へ派遣した背景にはこうした日仏間の不協和音も影響して
いる。
メルラン総督と松五外務大臣との会談では何ら成果はなかったが、メルラン
来日時には非公式会談も行われ、何ら両国政府を拘束しない条件のもとに行わ
れたとしつつも、
「日本重要品カ仏領印度支那ニ於テ受クヘキ関税上ノ待遇並印
度支那特産品カ日本ニ於テ受クヘキ関税上ノ待遇ニ付キ略協定ニ達シ得ヘキ基
1924b,p.219)。
礎ヲ発見スルニ至」った16(外務省編
日本訪問を終えたメルランが発表した談話は仏領インドシナの日刊紙
France-Indochine(『フランス・アンドシンヌ』)に掲載され、その中でメルラ
ンは日本とインドシナとの貿易拡大について、交換条件の下に実施すべきとし
つつも、
「日本ニ承諾シ得ヘキ譲歩ト供与シ得ヘキ利益トヲ考究スルノ端緒ヲ作」
った17(外務省編
1924c,p.225)。
このように日本との交渉を終えてインドシナに戻ったメルランは、日本に対
する歩み寄りの姿勢を顕著にあらわし始めた。それでもサイゴンの反日勢力が
攻勢にでたために、事態が急速に進展することはなかった(海野
4.4.3
同上)。
仏領インドシナ総督の訪日後
翌年 1925 年 1 月には答礼使節として山縣伊三郎(1858-1927)一行が仏領
16「インドシナ関税問題ニ関スル日仏両国代表者ノ非公式会談ニ関スル件」
.
17「メルラン総督ノ日本訪問後ノ感想並ビニハノイ、サイゴン両商業会議所会頭談話ニ関スル
新聞記事報告ノ件」(通送第 85 号).
38
インドシナへ派遣された。因みに、この時に日本の商工会議所関係者が同行し
なかったことが、後の稲畑の仏領インドシナ訪問につながった。山縣らの派遣
によっても、大きな成果は得られなかった。
しかしながら同じ年の 4 月 14 日、ハノイ商業会議所名誉会頭のグラヴィッ
ツ ( Grawitz 生 没 年 等 調 査 中 ) は 、 ハ ノ イ の La revue économique
d’Extreme-Orient (『極東経済雑誌』)において、「関税ノ障壁ヲ低減スル事ハ
惹イテ印度支那全般ノ購買力ヲ増加スル所以ト為リ結局仏国ノ利益ニ帰着スル
事明ラカ察知セサルヘカラス」18として、日本と仏領インドシナとの関係の発
展に向けて前向きな意見を述べている(外務省編
1926a,p.138)。これを読
む限り、フランス側の対日交渉が揺れていたことが窺われる。
その後も交渉はなかなか進展をみせず、1929 年にはいわゆるキルシェ関税が
導入され、これは日本側がより一層厳しい状況に立たされることを意味した。
課税品目は増やされ、またフランス本国の最高税率以上の高率を多くの日本品
に適用しようとしたため、日本の対インドシナ輸出にとっては大打撃となった
のだ(海野
1983)。
しかし世界恐慌といった国際情勢も影響して 1930 年以降フランスは特に態
度を軟化させた。フランスは世界恐慌下で自国産業の衰退を恐れたが、それは
日本への譲歩という形で表面化した。さらには日本内地の米作事情も変化して、
それまで朝鮮米や台湾米に頼っていた日本が逆に米を輸出できるようになった
ことも影響している(海野
同上)。
このような状況下、1932 年 5 月 13 日に「日本國及印度支那間ノ貿易規定ヲ
暫定的ニ定ムル爲ノ日本國仏蘭西國間通商協定」(日本・インドシナ通商協定)
が結ばれた。第 1 条において「日本國ノ原産ニ係リ且之ヨリ來タル産品ニシテ
附属甲表ニ列記セラルルモノハ印度支那ヘノ輸入ニ當リ該表ニ指示セラルル所
ニ從ヒ最低税率ヲ又ハ一般税率ニ對スル輕減率ヲ享受スベシ」とされた(アジ
ア歴史資料センター
1932,第 8 画像)。この条約により、日本はインドシナ
に対し初めて条約国としての地位を得た。それは、インドシナ関税問題の一応
の解決を意味した。
「ハノイ商業会議所名誉会頭グラヴィッツノ日本・インドシナ関係談報告ノ件」(公第 264
号).
18
39
このように 1907 年の「仏領印度支那ニ関スル宣言書」で日本に対する仏領
インドシナの最恵国待遇が棚上げされてから、実に 25 年の時を経てようやく、
日本の要求が受け入れられることとなったのである。
4.5
官民が一体となって取り組んだインドシナ関税問題
本章では仏領インドシナにおける同化関税制度や、日仏間での懸案となって
いたインドシナ関税問題について、日仏交渉が行き詰まる原因や日仏交渉の歴
史的経緯について検証した。しかし、インドシナ関税問題で日本の主張を発信
したのは日本政府だけではなかった。例えば 1916 年 10 月 1 日に幣原外務大臣
から在フランスの石五大使に宛てられた電報をみると、民間からのインドシナ
関税問題の是正要求がいかに大きかったかを知ることができる。
「東京横浜大阪
神戸名古屋京都ノ六大商業会議所ハ其ノ合同決議ヲ以テ本件ノ解決促進ヲ要望
セルノミナラス南洋協会及印度支那協会ノ代表者モ痛切ニ之カ急速解決ノ要ヲ
述ヘ」た19(外務省編
1926b,p.156)。このように、商業会議所など民間組
織が総力を挙げてインドシナ関税問題に取り組んだのは、これを解決しないこ
とには商業会議所が主体となって進める仏領インドシナとの貿易の発展が見込
めないからであった。
次章では、インドシナ関税問題を巡る日仏交渉を稲畑に焦点をあてて検討し
たい。稲畑は大阪商業会議所会頭として、積極的に日仏両政府に向けて同問題
の是正を求めた。稲畑は関西日仏学館の設立による日仏交流の深化に貢献しな
がらも、インドシナ関税問題では日本の商工業界の要として日本の国益を追求
しなければならなかった。それは稲畑にとって一種のジレンマであったと言え
る。
1 回貿易会議ニ於ケル彼我交渉ニ関シ各方面ノ希望モアリ一層ノ尽力方要請ノ件」
(仏領
印度支那ニ関スル日仏商議近況).
19「第
40
第5章
5.1
稲畑のジレンマ―日仏親善と国益追求の狭間で―
はじめに
本章では、インドシナ関税問題における日仏交渉で、一民間人として稲畑が
果たした役割について検討する。
現在でこそ大企業の本社機能の多くは東京に一極集中しているが、20 世紀前
半は状況が異なっていた。関西系の財閥も存在したし、戦前の大阪は大大阪と
呼ばれるほど経済が発達していた。大阪の発展は第一次世界大戦の勃発以降と
見られ、この大戦の好景気をもっとも多く享受したのが大阪であった。紡績工
業や金属工業がとくに発達し、大正 15 年には大阪は工業生産額が 11 億 6399
万余円に達し、東京を凌いで日本一の地位についた(関西経済連合会
1976)。
大阪には稲畑のような大実業家が誕生する土壌があったのだ。
その関西の実業界で中心的な存在だった大阪商業会議所は、1923 年から
1929 年にかけてフランス各省代表を招いて講演会や歓迎晩餐会を開催したり、
フランス実業団歓迎会と日仏両国通商に関し懇談したり、さらには仏領インド
シナとの貿易の発展につき懇談会を開催するなど(大阪商工会議所
1979)、
フランスとの間に独自の民間外交を展開していた。
5.2
稲畑とフランス
稲畑とフランスとの関わりは、稲畑が関西日仏学館設立に取り組むはるか以
前に遡る。フランス語習得やフランス留学などといった若い頃の経験は確実に
稲畑を親仏家にした。
「仏蘭西は云わば私の育つた家といふべきものであります」
(大阪商業会議所
1927a,p.3)と稲畑自身が述べている。稲畑は明治 10
年 11 月 20 日、京都府の派遣留学生として、他の 7 名の留学生と共に染色技術
を学びにフランスへ出航した。リヨン近郊にある工業予備校を優秀な成績で卒
業した後、リヨンのジャン・マルナス染工場で徒弟として実習した。その後、
リヨン大学で染色学を学ぶなど、計 8 年間、フランスで留学生活を送った(宮
本
1986)。
稲畑は帰国後、京都府へ就職し、その後京都織物株式会社に転職、さらに独
立開業するなどし、その事業において大成功を収めた(宮本
41
同上)。こうして
稲畑は関西の実業家として頭角をあらわし、また大阪商工会議所の前身である
大阪商業会議所のトップとして政財界で存在感を高めるに至った。稲畑が当時
関西と海外との貿易について提言することは日本経済の行方にも直結したであ
ろうし、それは経済界のみならず日本の政治外交へもある程度の影響を与えた
だろう。一民間人としては異色を放つ存在であったに違いない。また 1926 年
以降は貴族院議員としても活躍した。
稲畑は実業家並びに政治家として日本の国益追求に奔走したが、対仏関係に
おいては常に日仏間の親善を深めることを忘れなかった。一度は失敗に終わっ
た資金集めの巻き返しを図った稲畑の尽力がなければ関西日仏学館の誕生を見
ることはなかったかもしれない。
稲畑は、日仏親善に努めながらも同時に、日仏間に存在した懸案の解決を図
るため日仏両政府に対して積極的に提言した。関西日仏学館の設立に向けての
協力を惜しまないことで、逆にインドシナ関税問題ではフランスが譲歩するこ
とを期待した。関西日仏学館の設立後には、稲畑はインドシナ関税問題ではフ
ランス政府に対して強硬姿勢で臨んだ。この問題で稲畑がフランス政府に求め
たのは「反省」だった。クローデルとの蜜月からは想像しにくい態度である。
稲畑にとってインドシナ関税問題の解決は、1910 年代から 1930 年代に至る
約 20 年間の最関心事であった(大阪商工会議所
1932)。日仏間でインドシナ
関税問題を巡る交渉がもっとも活発な時期だったと言える 1920 年代に、日仏
会館と関西日仏学館という 2 つの大きな日仏文化交流機関が誕生した。時期が
重なったことは偶然ではなかった。フランス政府は、東京では日仏会館を設立
するためにインドシナ関税問題の是正をちらつかせて日本の協力を引き出そう
としたし(濱口
2013)、稲畑も関西日仏学館の設立によって、対フランスの
関税交渉を有利に進めようとした。
5.3
インドシナ関税問題を巡る稲畑の主張と関西日仏学館
ではインドシナ関税問題について稲畑は具体的にどのような主張を展開して
いたのか、その具体的内容を時系列的に検討したい。ここでは第一に 1926 年 3
月 17 日の貴族院委員会における発言、第二に 1926 年 12 月 27 日の仏領イン
ドシナ訪問時における発言、第三に 1927 年 11 月 8 日にラジオ放送で述べた仏
42
領インドシナ訪問についての所感、第四に 1930 年 2 月 17 日に大阪商工会議所
主催で開催した駐日フランス代理大使歓送会での挨拶から、稲畑の主張を分析
したい。これらは関西日仏学館の開館(1927 年 10 月 22 日)前後に跨ってい
る。インドシナ関税問題について稲畑が徐々に批判の矛先をフランス側に向け
ていったのである。
5.3.1
貴族院委員会での質疑
稲畑は、大阪商業会議所会頭だった 1926 年 1 月、貴族院議員に勅任された
(大阪商工会議所
1979b)。勅任後まだ間もない同年 3 月 17 日、早速、稲畑
は貴族院の関税定率法中改正法律案特別委員会でインドシナ関税問題について
発言する機会を得て、国務大臣の幣原喜重郎に次のように質疑した。
(…)此將來我貿易品ノ輸入品ト致シマシテ、相當發展ノ見込ノアル佛領印度
支那ニ於キマシテ、我國ノ商品ニ對シテハ、從來特ニ關税ノ障壁ヲ高クシ居ル
ノデアリマス、之ヲ改メルト云フコトハ非常ニ必要ナコトデ、
(…)從來外務當
局ハ無論我々民間ノ者共ニ於キマシテモ、及バズナガラ、盡力ヲ致シテ居ッタ
ンデアリマスガ、先般印度支那總督「メルラン」氏ガ日本ノ訪問トナリマシテ、
續イテ我ガ國カラハ答禮ノ特使トシテ山縣公爵ガ御出掛ケニナッタンデアリマ
ス、
(…)我々ハ心中非常ニ喜ンデ居ッタノデアリマスガ、其後何等ノ音沙汰モ
ゴザリマセヌノデ、如何ナル理由ニナッテ居ルカ、誠ニ不審デ居ル次第デアリ
マス、(…)政府ハ此事ニ付キマシテハ如何ナル御考デアリマスルカ(…)
(貴族院編
1988,p.322)
稲畑はインドシナ関税問題を是正すべきことを訴えた上で、メルラン総督一
行の来日に続く山縣答礼使節の仏領インドシナへの派遣の後、日仏交渉が行き
詰まっていることに苛立ちをつのらせた。稲畑は日仏交渉で日本側が関税問題
に加えて、仏領インドシナにおける土地の開墾や企業の利権といった複数の問
題を取り上げることが原因で肝心の関税問題が進展しないのではないかと、日
本政府の対応に問題があるとみたのである。ここではフランス政府への批判は
まだ見受けられない。
43
5.3.2
仏領インドシナ訪問時の発言
その後、稲畑は 1926 年 12 月から大阪商業会議所を代表して仏領インドシナ
を訪問した。1925 年 1 月に山縣伊三郎らが政府よりメルラン総督一行の来日に
対する答礼として仏領インドシナへ派遣されたが、その中に商業会議所が入っ
ていなかった(高梨
1938)ためである。稲畑らも答礼という名目で現地を訪
問したものの、
「その内實に於ては多年の懸案である日本對仏領印度支那間の關
税改正を促進することが、眼目」であった(高梨
同上,p.426)。稲畑は現
地の商業会議所との間で日仏間の経済問題について話し合うなど、積極的に民
間外交を進めた。
同年 12 月 27 日、ハノイ商業会議所の招待で同商業会議所を訪問した稲畑は、
同商業会議所のア・ペロー会頭(生没年等調査中)が挨拶のことばを述べた後
に発言する機会を得た。まず同会頭は「将来吾が佛國思想の宣傳の中心ともな
るべき且つ吾が同胞が家族的の接待を受け得べき日佛學館を京都に設立する事
に關して、目下尚閣下の御援助を得てゐる事と思ひます」(大阪商業会議所
1927a,p.1)として、稲畑の関西日仏学館設立への協力に対して感謝の意を
伝えるとともに、日本と仏領インドシナ間の貿易拡大の必要性を訴えかけた。
それに対して稲畑は挨拶の前半で早速インドシナ関税問題について触れた。
(…)惟ふに兩國の利害關係は聊かも反してはゐませぬ。即ち印度支那に於き
ましては兩國の輸出入關係は相類似してゐると思ふのであります。其れが爲、
仏蘭西品に對して適用せられてゐる保護を拒否する必要は尐しもありませぬが、
併し吾が國に適用されてゐる國定税率は、他國のものより以上不利になつてゐ
る事は、異論の餘地がありませぬ。故に恩惠の條約を得る爲には、諸賢の御懇
情に俟つより外はないのであります。其の御懇情は、これまで凡ての點に於て、
相互に根據を築いて來ました兩國に取つて、必ずや有利なる結果を齎す事を信
じて疑はないのであります。(...)
(大阪商業会議所
同上,p.2)
貴族院委員会とは異なり、ここでは訴えかける相手はフランス側である。柔ら
かくではあるが、稲畑はインドシナ関税問題でフランスが日本に譲歩すべき旨
44
を伝えている。そしてそれは日本だけではなくフランスにも好結果をもたらす
と主張したのである。日本では着々と関西日仏学館の計画が進んでいた頃では
あるが、この時点でも稲畑はあからさまにフランス政府を批判することはなか
った。稲畑は日本の法典整備や軍備増強へのフランスの貢献についても触れ、
さらに関西日仏学館の設立や日仏間の通商条約にも触れた。
5.3.3
仏領インドシナ訪問後の所感
1927 年 11 月 8 日、仏領インドシナ訪問を終えた稲畑は大阪中央放送局のラ
ジオ放送で現地訪問の意義について語った。それは同年 10 月 22 日に関西日仏
学館が開館した直後のことだった。
(…)此の會見には、答禮の意味以外に更に重大な要件があつたのであります。
それは何であるかと申しますと、日佛通商條約に關連しまして、印度支那に於
ける、日本品に對する關税を改正して貰ひたいと云う、我が当業者の要求を提
出し、從來の不當な條約を改正して、彼我の通商貿易を促進すると云うことが
眞の目的であつたのであります。元來仏蘭西政府は、その植民地である印度支
那に於て、支那商品以外の外國商品に對して、過重の關税を課して居るのであ
ります。我が國の貿易業者は、久しく此の不當なる關税に苦しんでゐまして、
之れが我が國の對印度支那貿易を阻碍する所の、一大障壁となつて居るのであ
ります。(…)
(大阪商業会議所
1927,p.11)
稲畑は大阪商業会議所会頭としての仏領インドシナ訪問の真の目的がインドシ
ナ関税問題の改善にあったとした。
「不当」という言葉を二度も使ってフランス
側の対応を強く批判している。ここでは 1 年半前の貴族院委員会で日本政府の
対応を疑問視したときの発言とは打って変わって、インドシナ関税問題につい
てのフランス政府の責任を強調している。つまり関西日仏学館の開館を跨いだ
この 1 年半の間に、稲畑はインドシナ関税問題についての批判の矛先を日本政
府からフランス政府へと転換したことがわかるのだ。
しかし稲畑は仏領インドシナでのフランス側との会見が上手く運んだとして、
45
問題解決に期待を示し、その上で以下のように続けた。
(…)此の問題につきましては、特に我が大阪が、最も緊切なる関係を有し居
りますので、大阪商業会議所に於きましても、従来、機会ある毎に、佛国の反
省を促したのでありますが、其の努力の報いられる日も、遠くないであらうと
思ひます。殊に今回、京都九条山に関西日仏学館を建設しまして、二三日前に、
仏国大使、清浦子爵、藤田男爵、前知事中川望氏その他の名士、並に大阪知名
の士が参列して、盛大なる開館式を挙行したのでありますが、この関西日仏学
館は、主として大阪の有志者の寄付金で出来たものでありまして、此の大阪人
の美挙は、佛国に大反響を起し、此の日仏通商条約改正の上にも、好結果を来
すことが想像せられるのであります。私は此の機会に於きまして、大阪方面の
寄付者諸君に対して、謹んで感謝の意を表する次第であります。(…)
(大阪商業会議所
1927,p.11)
稲畑は自身が主導した関西日仏学館設立へ向けた資金集めと、同学館が無事
に開館式を迎えたことを称賛したが、ここで注目したいのは関西日仏学館の設
立への協力がインドシナ関税問題を解決へと導くという趣旨の発言を行ってい
る点である。つまり稲畑には、日仏学館設立に向けて日本側が協力することに
より、インドシナ関税問題でのフランス側の譲歩を取り付けようとの思惑があ
ったのである。しかし、関西日仏学館の設立における功績の大きさに鑑みれば、
そのような期待を持つことは自然であったとも言える。
図らずも、インドシナ関税問題は関西日仏学館の開館後も一向に改善の気配
をみせなかったのである。稲畑がフランス側に不満を露わにするのは当然だっ
た。
5.3.4
駐日フランス代理大使歓送会における挨拶
インドシナ関税問題は関西日仏学館の設立後 2 年以上を経た 1930 年におい
ても改善されないままだった。同年 2 月 17 日、大阪商工会議所の主催により
大阪で在日フランス臨時大使のための歓送午餐会が開かれた。稲畑は同会議所
の会頭として挨拶したなかで、仏領インドシナと大阪の貿易関係が極めて密接
46
であるとしたうえで次のように述べた。
(…)只併しながら我々が久しく叫んで居りまする佛領印度支那の關税改正が、
米穀問題の爲めに未だ解決せられず、近頃になつて却つて關税が增加せられ、
其の結果、印度支那と大阪との貿易は、目下著しく減退してゐるのであります。
私は多年佛國の親友として日佛親善の爲めに微力を盡しつつあるのであります
るが、其の効果なく、貿易が右の如く次第に面白からあぬ状態となつて來まし
たことは、誠に遺憾に堪へぬ所であります。
(…)相互間に貿易關係を密接にし
てこそ始めて眞の親善が望まれるのであります。
(大阪商工会議所
1930,p.12-13)
稲畑はインドシナ関税問題が以前よりも悪化したことを指摘して、日仏親善の
ために尽力しても同問題の解決につながらず不満である旨を臨時大使に伝えた。
稲畑はこの発言の約 2 年前に関西日仏学館の開館を実現しており、ここにおけ
る日仏親善としては、関西日仏学館の設立への貢献と考えることがもっとも自
然なのである。稲畑は日仏親善の前提としての日本と仏領インドシナ間の貿易
を強調している。
5.4
稲畑のジレンマ
本章ではフランスと深い関わりをもつ稲畑に焦点をあてて、稲畑が親仏家と
して積極的に関西日仏学館の計画に貢献すると同時に、関西の経済界の代表と
して、インドシナ関税問題における日仏交渉に臨まなければならなかったこと
を検討した。稲畑は当時の日仏交流における代表的な人物の一人であったが、
同時に日仏交渉における日本側の代表者の一人でもあった。それは稲畑にとっ
て一種のジレンマであったとも考えられる。
インドシナ関税問題が行き詰まりを見せていたことについて、稲畑は関西日
仏学館の設立前には日本政府の対応に疑問を呈していたが、設立後にはフラン
ス政府の責任を強調した。つまり、稲畑は関西日仏学館の設立という功績によ
って、インドシナ関税問題では逆に、フランスからの譲歩を得ようと期待した
のである。それは、関西きっての親仏家であると同時に関西の経済界を代表す
47
る稲畑が、日仏両国の間で非常に辛い立場に置かれていたことを意味するに他
ならない。第一に関西日仏学館の設立を日仏交流の成果としてみるべきである
一方、本章で稲畑の発言を分析した結果、インドシナ関税問題も 1 つの要因と
してかかわっていたことと結論付けることができるのである。
48
第6章
6.1
結論
まとめ
本研究は日仏文化交流機関の原点を、1928 年 2 月から 4 月にかけて日仏間
で交わされて合意に達した覚書まで遡り、それ以降の日仏会館計画、その後の
関西日仏学館計画、これらの機関の設立とかかわりのあったインドシナ関税問
題などについて論じてきた。
19 世紀後半以降、ヨーロッパの主要国を中心として国際的な文化交流が広く
行われるようになった。フランス政府も文化交流を目的として 1907 年以降、
フランス学院を東ヨーロッパ諸国をはじめとして世界各都市に設立した。日仏
会館や関西日仏学館もフランスの文化外交政策の一環と捉えることができ、こ
れらの機関の設立は、日仏間の文化交流史において極めて重要である。
日仏の研究者が集って学術的交流を図るための恒久的な施設を日本に設立し
ようという計画は 1918 年 2 月 12 日の在日フランス大使館による「覚書」に始
まった。以降、1919 年のリヨン大学を中心とする派遣団が来日し、1924 年 12
月に東京には当初計画していた Institut とは異なる、研究機関としての要素が
強い日仏会館が設立された。日仏両国は東京に日本で最初の恒久的な日仏文化
交流機関を設立することができたのだ。
その後、関西にも日仏文化交流機関を設置しようとしたのがクローデルやリ
ュエラン、稲畑等だった。また、それは Maison で満足できなかったクローデ
ルが Institut の設立にこだわった結果と見ることもできる。リュエランは当初、
夏期のみ開講される施設を検討したが、稲畑らの協力の結果予想以上に資金が
集まり、一時的な施設では関西の賛同者に対して期待に応えることができない
こともあり、1927 年 10 月に京都に関西日仏学館を設立するに至った。
日仏交流の成果としてこれらの日仏文化交流機関の設立をみることができる
一方で、1920 年代当時、日仏両国はインドシナ関税問題を抱えていた。日本が
仏領インドシナとの貿易で高関税を課せられる状況に対し、日本政府や大阪を
はじめとする日本の商工業界はフランスとの交渉でこの問題を解決しようとし
た。
日本側はインドシナ関税問題でフランス側の譲歩を得るために、日仏会館の
49
設立に際しては日本の民間組織である仏領印度支那協会が資金協力した。また、
関西日仏学館は稲畑をはじめとする関西の各界有志による資金協力の協力によ
り設立することができた。稲畑は日仏親善の一環としての関西日仏学館の設立
に協力することにより、日仏間の懸案だったインドシナ関税問題ではフランス
の譲歩を得ようとしたのだ。フランスを人一倍愛する稲畑は、同時にフランス
を相手に日本の国益を追求しなければならなかったのである。
このように、1920 年代に誕生した日仏会館と関西日仏学館は、日仏両国が文
化交流を目的として設立したと考えることができる一方で、フランスは日本で
フランス語教育の普及や、それによる間接的な影響によって生まれる経済的効
果を狙っていた。他方でこれらの日仏文化交流機関の背景に関わる 1 つの要因
として、日仏間の経済的問題を解決したい日本側の政治的な思惑があったこと
も明白になった。日仏文化交流機関の設立背景は、非常に複雑である。
6.2
今日における文化外交の意義
本研究では主に日仏会館と関西日仏学館という日仏文化交流の 2 大拠点の起
源と設立過程を検討した。ドローは文化が「国家にとっては信用と権威の重要
な要素」であるとするが(ドロー
1965,p.36)、それは 21 世紀の今日にお
いてはますます重要な意味を持つ。国家が再び文化の力に頼らなければならな
い時代がやってきた。特に中国やインドなどといった新興国が経済成長や軍事
力増強といったハードな面において国際社会で発言力を増す中で、これまで世
界を牽引してきた欧州諸国や日本などがこうした諸国との差別化を図るために
は、文化外交政策によって国外に魅力を発信することが必要である。
そのような意味では、学術、言語、芸術、食文化、各種講演会などあらゆる
文化を駆使して国外の人々を魅了し続けるフランスの文化外交政策は世界をリ
ードしている。今日の日本におけるアンスティチュ・フランセはこうしたフラ
ンス文化の対外普及を体現する代表的な拠点である。例えば、アンスティチュ・
フランセ関西では、フランス語教育を大きな柱としつつも、京都フランス音楽
アカデミーやパリ祭、ワインセミナー等、京都にいながらにしてフランスを味
わうことができる。このように文化交流には様々な形態があるが、アンスティ
チュ・フランセを見ることで、日仏文化交流の最前線であり、フランス政府に
50
よる洗練された文化外交政策を目の当たりにすることができるのである。
6.3
今後の課題
本研究は先行研究を参考としつつ、外務省記録など、外務省外交史料館所蔵
の文書にあたって日仏間の交渉や日仏文化交流機関の設立過程を検証した。し
かし日仏会館設立で重要な役割を果たした澁澤榮一(1840-1931)については
触れることができなかった。また関西日仏学館についてはその起源となる政府
間文書を見つけることはできなかった。
クローデルによる関西日仏学館の構想は日仏会館の開館直後からあった
(Claudel 1995)。しかしクローデルによる Institut への言及は、日仏会館の
開館以前にも見られた。クローデルの Institut 構想に関する新たな文書にあた
ることができれば、関西日仏学館の起源を知ることができるはずである。リュ
エランの比叡山夏期大学構想は Institut の設立を望んでいたクローデルにとっ
ては最善な施設ではなかったはずだ。フランス学院(Institut français)は恒
久的な文化交流機関であり、一時的な施設である比叡山の構想が却下となった
のは当然である。確かに、想像以上に日本人からの賛同が集まったことが、恒
久的な機関の設立へと導いたことは一つの要因だ。しかし、その背景には、外
交官としてのクローデルの意向も反映されているはずだ。
このような経緯を明らかにし、分析をすることで、文化的に益々接近しつつ
ある今日の日仏関係の背景の一端を解明することができる。それはまた今後の
日仏文化交流を進める上でも何らかの示唆を与えると考えられる。
51
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本研究は先生方をはじめとして、多くの方々からのご指導及びご支援をいた
だくことによって進めることができました。
指導教員である西山教行先生には、研究計画から論文の書き方、文献の収集、
修士論文に至るまでご指導をいただきました。
また外国語教育論講座の先生方や院生の方々、研究室の皆様からはご指導を
いただくと共に、研究を進める上で日頃よりアドバイスをいただきました。
文献の収集にあたっては大学図書館の職員の方々にお世話になりました。
皆様に心より感謝申し上げます。
60