2006年日本聖公会 『聖歌集』 を用いて考える

2006 年日本聖公会『聖歌集』を用いて考える
2006年日本聖公会 『聖歌集』 を用いて考える
― キリスト教の聖歌 (賛美歌) の歴史 ―
スコット ・ ショウ
加藤望、 加藤啓子訳
第 1 章 初期キリスト教会の音楽 序
2006 年発行の日本聖公会『聖歌集』1 に収められている会衆のための聖歌の源泉を辿っ
てゆくと、その誕生の時と場所は様々である。また、私たちが歌っている聖歌の言葉に焦
点を当てると、キリスト教以前(紀元前)数千年前の詩編の言葉から、3 世紀から 4 世紀
のキリスト教会初期のもの、更に私たちの時代である現代に書かれた言葉に至るまで、多
種多様の言葉との出会いがある。歌詩の言葉ほど長い歴史を担っていないものの、曲の方
も千年以上の時代の移り変わりの中で、作曲されてきた。歌詩と曲はキリスト者が集うい
たる所で創作され、書き継がれてきた。
この論文の目的は、読者の皆様に相当数にのぼる聖なる歌をどのように理解すればよい
かの一助となることにある。この『聖歌集』を利用する人にも、音楽的な好き嫌いがある
のは自然であり、私たちには歌い易い曲と歌い難い曲、また、場に相応しい曲と相応しく
ない曲ということについて異なる意見があるのも事実である。しかしながら、私たち会衆
が礼拝に集まる時、用いられる聖歌の厳選は出席者の個人的な好みによって狭められては
ならない。ある人が「よい」と思う聖歌が、
向こう側に座っている人に喜ばれるかどうか、
何の保証もない。聖歌の背景や歴史を知ることは、好みだけでは得られない聖歌に対して
のより広い見方、そしてより多様な種類の聖歌を味わう可能性をもたらすであろう。読者
はこれまで親しみのなかった(否むしろ嫌いだった)ジャンルの聖歌を考えるばかりか、
何が好き嫌いを分けたのかを考えなおす機会となるであろう。これは生涯の学びであり、
今ほどスタートによい「時」はない。
初代教会とその音楽の歴史
キリスト教会は初期の時代から礼拝において音楽を用いていた。コロサイの信徒への手
紙の 3 章 16 節にある「詩編と賛歌と霊的な歌により感謝して心から神をほめたたえなさ
1
『日本聖公会 聖歌集』 日本聖公会管区事務所、 2006 年。 以降 『聖歌集』 と記す。
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〈論文〉
い」
、この有名なパウロの言葉は、1 世紀の中葉迄は礼拝では現在の聖歌のようなもので
はなかったが、今とは異なる会衆の歌を用いていたことが記されている。
その頃から、キリスト者はユダヤ教の礼拝とは明らかに違う会衆の歌を創作していたよ
うである。曲の方は 10 世紀迄は書かれたものが記録として残されていないので、どんな
曲であったかは特定できない。しかしある程度類推することは可能である。あるものは詩
編であり、あるものは旧約聖書のモーゼの歌や新約聖書のマリアの歌やエフェソの信徒へ
の手紙 5 章 14 節の聖句を用いた詠唱のようなものであったと考えられる。その後にミサ
で唱える言葉も会衆に歌われるようになったであろうが、恐らくそれらの歌詩は今日の聖
歌のように節で構成され、一定の韻律(ミーター)に揃えられてはいなかったであろう。
また、旋律は単旋律で、無伴奏で歌われていたのではないだろうか。彼らがいかなる形で
歌っていたにしろ、彼らキリスト教徒は歌うことでよく知られていたのである。1 世紀の
ローマの執政官プリニウスは、当時のキリスト教徒らはキリストに歌を捧げて神とあがめ
たと記している。その他の資料にも、1 世紀から 4 世紀にかけてキリスト教徒らが歌って
きた事実がよく引き合いに出される。しかし、初代教会に書き記されたものは記録として
は残されていない。ある学者は、当時歌われていた歌は現在の中近東にある正教会の歌と
ある種の音楽的類似性があることを示唆している。正教会の教会音楽は口伝えで歌い継が
れてきており、それぞれの地域の言語で決してラテン語に換えられることなく教会で歌わ
れてきた。旋律は西洋音階ではなく、その歌い方もわずかな(半音程以下)抑揚や装飾音
を付けたもので、西洋音楽ではすでに失われてしまった方法である。興味深いことは、こ
れらの特徴の多くが伝統的な日本の音楽に存在しているという点である。私たちが日本の
伝統的な音楽の録音を聞くと、初代キリスト教会の音楽的な要素があると実感せざるを得
ないところもあり、それは現代という時代にキリスト教会の会衆が歌っている聖歌が、源
泉となる初代教会のものとはいかに異っているかということが明らかになることでもあ
る。
今日の私たちの聖歌の詩は、ほぼすべてが同じような形式を取っている。具体的な韻律
の配列(例えば、すべての節の一行目の歌詩は同じ数の音節で構成されている)があり、
一定の連節からなる歌詩で歌われている。そして、聖歌のメロディーとして旋律は比較的
短めになっており、それがかえって文学的な技法や聖歌の形式に通ずるものがなくても、
会衆が聖歌を覚えて共に歌うことをより可能にさせている。
二人の人物がこの種の原詩の創作に貢献している。一人はポアティエのヒラリウス、も
う一人はミラノのアンブロシウスで、ともに 4 世紀に活躍している。
『聖歌集』にはヒラ
リウスの聖歌(198 番 Beata nobis gaudia)が 1 曲とアンブロシウスの作品が数曲収めら
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れている。198 番 FINNART2 は近代的な旋律が付けられているが、アンブロシウスの歌
詞(9 番 SPLENDOR PATERNAE、10 番 NUNC SANCTE、20 番 RECTOR POTENS,
VERAX DEUS、196 番 VENI CREATOR)はグレゴリオの旋律で登場している。これら
がアンブロシウスの時代に歌われていた旋律であるかは疑わしいが、オリジナルの旋律の
要素を含んでいる可能性はある。聖歌集という点からいえば、これらは聖歌集の歩みの中
で、最も古い歌詩と旋律の組み合わせで千年以上も歌われ続けてきたのである。上記のグ
レゴリオ聖歌あるいはプレインチャントという名で親しまれてきた旋律については次の章
で詳しく触れることにする。
第 2 章 グレゴリアンチャント (グレゴリオ聖歌)
はじめに
グレゴリオ聖歌(もしくはプレインチャント、またはプレインソング)は西欧のキリス
ト教会における最も古い音楽である。千年以上も歌われ続けてきたこのグレゴリオ聖歌は
すべての西欧音楽の源泉ともなっている。さらに驚きに値することは、何世紀もの間グレ
ゴリオ聖歌は完全に聴覚による音楽であったことで、その言葉は人々の口から伝えられ、
記憶によって歌われ続けてきたのである。初めての楽譜作りの試みは 9 世紀もしくは 10
世紀頃になされたものの、元々の旋律を知らずに、楽譜を見て判読できるようになったの
は 11 世紀以降であると考えられている。数千にも及ぶグレゴリオ聖歌の存在を考えると、
これらの曲は礼拝で会衆に歌われるように作られたのではなく、むしろ訓練を受けた一部
の歌い手・聖歌隊によって歌われるものとして創作されてきたことが容易に想像できる。
しかしながら、
このことは会衆がグレゴリオ聖歌を歌っていなかったということではなく、
恐らくより歌い易い聖歌のようなシンプルな聖歌は一般会衆によって歌われ、難度の高い
歌は訓練を受けた聖歌隊によって奉唱されていたのであろう。
歴史
最終的にはすべての初期の西方教会の中心地となったところで歌われたものがグレゴリ
アンチャントと呼ばれている音楽である。イタリアだけをとっても旧ローマ、アンブロシ
ウス、グレゴリオなど独自のチャントを擁する数多くの教会があった。他にもモザラビ
チャント(スペイン)
、ゴールチャント(フランス)
、フランクチャント(ドイツ)
、セー
ラム(イギリス)などがある。恐らくこれらの伝統のルーツはユダヤ教のシナゴーグ(会
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曲目 (チューン) の名前は大文字で表記。
7
〈論文〉
堂)で詠唱されていた聖書朗読にあるのであろう。4 世紀以降、ローマ教会で用いる言語
としてラテン語がギリシャ語にとって代わり、この時から西方教会の典礼と典礼音楽が独
自の発展をしていったと考えられている。その経緯に関しては様々な議論はあるが、恐ら
くイタリアの古いチャントをもつ楽派(旧ローマ?)のひとつが北アルプスに伝わり、そ
こでフランク王国での典礼の母体となっていたゴールの典礼がとって代えられたのではな
いかと推測されている。フランク王国の小ぺピン(在位 751-68)とシャルルマーニュ(在
位 768-814)の統治のもと、典礼において歌われるチャントの言葉と音楽の統一が精力的
に推し進められた。その目的はローマの正統的な伝統を取り入れ、それを帝国全土に普及
させることであったが、イタリアとフランクの間では実践において相違が生じざるを得な
かった。フランク王国の覇権が拡大するにつれ、彼らが用いるチャントが他のすべての伝
統に代わってローマ・カトリック教会の正式なチャントになっていった。結局のところ、
ローマに逆輸入された一連のチャントを私たちは現在グレゴリアンチャントと呼んでいる
のである。このチャントの普及が全土にゆき届き、確固たる成功を収めたのはフランク王
国で端を発した音楽の表記法の発明によるところが大である。
グレゴリアンチャントの旋律が西方教会中に採り入れられてからも、チャントの発展は
続いた。新しい典礼の創造は新しいチャントを作り出していった。記譜法の出現後数世紀
の間に、作曲家らはオルガヌムという名で知られている多声音楽(ポリフォニー)を作り
始めるようになり、依然グレゴリアンチャントの旋律に基づいたものではあったが、14
世紀までにはミサ曲全曲が多声音楽で書かれるようになった。無論、このような複雑な作
品と並行して、従来のグレゴリアンチャントも歌われ続けていた。以降の特筆すべき努力
としては、16 世紀、19 世紀にはこうした古いグレゴリアンチャントの本格的な復刻作業
が行われたこと、そして、20 世紀に入るとバチカンの典礼用音楽集の全集が出版された
ことがあげられる。しかしながら、第 2 バチカン公会議(1962-65)の決議によって、ロー
マ・カトリック教会の典礼の公式言語としてラテン語の使用を止めたことに伴い、グレゴ
リアンチャントも教会で認められた正式な音楽であるという役割を失ったのである。
今後、グレゴリアンチャントはローマ・カトリック教会において主力典礼音楽としての
役割を取り戻すことはもうないであろうが、特定のグレゴリオ聖歌は様々なキリスト教
の教派で歌い続けられている。聖公会では、19 世紀後期にいくつかのやさしいグレゴリ
オ聖歌を英訳したものを歌い始めている。
『聖歌集』においても 10 番 NUN SANCTE の
ようにとてもシンプルなものから、298 番 VENI CREATOR などのより旋律が複雑な曲
までおよそ 15 の中世のグレゴリオ聖歌の旋律が含まれている。さらに 64 番 VENI EMMANUEL、176 番 O FILII ET FILIAE、255 番 ADORO DEVOTE などのような後の時代
にグレゴリオのスタイルで書かれたものも含まれている。気付かれた方もおられるだろう
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が、
『聖歌集』ではグレゴリアンチャントを源泉とした旋律の聖歌には無伴奏の単旋律譜
と鍵盤楽器用の伴奏譜の 2 通りの楽譜が提供されている。これら伴奏譜を用いて歌うこ
とは不適当ではないが、これらが何世紀にもわたってユニゾンで無伴奏で歌われてきたこ
とを心に留めたい。無伴奏でグレゴリオ聖歌を歌うことは、ある意味ではそれを創りあげ
てきたキリスト者たちと私たちを結びつけるとも言えるのである。グレゴリオ聖歌の旋律
が原曲となっている聖歌は 7 番 /193 番 JAM LUCIS ORTO SIDERE、9 番 SPLENDOR
PATERNAE、10 番 NUNC SANCTE、20 番 RECTOR POTENS, VERAX DEUS、25
番 O LUX BEATA TRINITAS、40 番 TE LUCIS ANTE TERMINUM、71 番 DIVINUM
MYSTERIUM、115 番 URBS BEATA JERUSALEM、142 番 /254 番 PANGE LINGUA、
196 番 VENI CREATOR、253 番 /298 番 VERBUM SUPERNUM PRODIENS。
グレゴリアンチャントの種類
『聖歌集』に収められているすべてのグレゴリアンチャントは基本的には 3 つに分類さ
れる。第一の種類は最も親しみのある聖歌である。これらは中世の教会で会衆が知ってお
り、歌っていたものであろう。歌詩は節から成り立ち、一行ごとに決まった数の音節で作
られていて、
全節の歌詩はこの形式にのっとって創作されている。各節の歌詩に合わせて、
比較的短い旋律が用いられる。
第二のグレゴリアンチャントの種類はミサ曲の言葉そのものである。これらにはミサ通
常文(キリエ、大栄光の歌、ニケヤ信経、聖なるかな ― ベネディクトウス、神の小羊、
派遣唱)と共に、ミサ固有文(参入 < 入祭唱 >、昇階唱、アレルヤ唱、奉献唱、聖餐)の
主要部分が含まれていた。聖歌の言葉とは異なり、原文は歌い易い聖歌的なメロディに合
わせられるようにはアレンジされていない。また、これらの言葉を歌うメロディーははっ
きりした繰り返しや認識しやすい決まった形式がなく、始めから終わりまで流れるように
作られている傾向がある。このような特徴がミサ曲が会衆には歌いにくい理由である。事
実、中世の教会ではミサにおけるこの部分の歌唱は訓練を受けた聖歌隊が担っており、会
衆のものではなかった。会衆がミサにおいて式文用曲譜(チャント)の歌唱に参加するよ
うになったのは今からわずか 50 年ほど前の典礼の刷新が起こった 1960 年代以降のこと
である。
『聖歌集』の S40 はグレゴリアンチャントのミサ通常文全曲の例で、ローマ教会
で第 2 バチカン公会議まで歌われていた数百というミサ曲の一つである。
第三のグレゴリアンチャントの種類は詩編の曲である。ラテン語訳の聖書と同様に、詩
編の日本語訳も韻文の形式にはなっていない。例えば、ある詩編の一節の音節が 20 音節
からなる一方、他の節では音節が 20 以上あるいはそれ以下、というように一定ではない。
このため、特別な形式を使わずにこのような散文詩を歌うことは、本来困難である。し
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〈論文〉
かしながら幸いにも中世の教会が散文詩を歌う創意工夫をこらした。その例が『聖歌集』
S2-1、S5-1、S7-1、S8-1、S9-1、S10-1、S11-1,2、S18 である。
第 3 章 宗教改革の会衆音楽
ルーテル派のコラール (賛美歌)
プロテスタントの改革と言えば、一般的にはマルティン・ルターがローマ・カトリック
教会の慣行に抗議するために、あの有名な「95 箇条の論題」を書いた時、1517 年 10 月
31 日と符合する。ルターの行動はカトリック教会の内部からの改革という試みとして始
まったが、最終的にはローマと絶縁したプロテスタント教会の始まり、ドイツのルーテ
ル教会の創生という結果をもたらした。ローマ・カトリック教会のミサに基づきつつも、
プロテスタント信仰とドイツ語を反映した変化をもって礼拝形式を発展させていった。 ルーテル教会で用いられる音楽の傾向には、ルター自身の好みや志向が大きな影響を及ぼ
している。彼はプロではないが、有能な音楽家であり、ローマ・カトリック教会のミサの
音楽であったグレゴリアンチャントと同様に多声合唱曲にも真価を認める人物であった。
彼はルーテル教会の礼拝において極めて新しく重要な役割を会衆に担わせたのだが、一方
でまた、ラテン語のミサの中で、彼が考えた最も適切な部分を継承することにも尽力した。
ここではルーテル教会の礼拝について検証してみよう。
1526 年、ルターはドイツ・ミサもしくはドイツ語のミサ典礼書を出版した。このミサ
典礼書の内容は、人々に歌われる音楽に歩み寄ることを明示している。説教と主の祈り以
外ミサのすべてが歌われた。音楽はチャント(式文用曲譜)と聖歌(賛美歌)を組み合わ
せたものである。チャントはローマ・カトリック教会が使用していたものから選ばれたが、
ドイツ語に翻訳したものを用い、聖歌のような音楽がそこに参加している会衆みんなに
よって歌われるようになった。このことは、
かつて全く沈黙していた会衆であったローマ・
カトリック教会の礼拝者からの革命的な変化である。この新しく作られた聖歌タイプの会
衆の歌はコラールという名で知られている。コラールは一般会衆の賛美歌としてもミサ通
常式文の一部にも使用された。例えば、ラテン語のクレド(ニケア信経)はドイツ語に翻
訳され、賛美歌として一般会衆に歌われていた(Wir glauben all an einen Gott われらは
みなひとりの神を信ず)
。
『聖歌集』には、
この時代のコラールとして Agnus dei(アニュス・
デイ)
、あるいは神の小羊として知られる聖歌 372 番 O LAMM GOTTES, UNSCHULDIG が収められている。この詩を読むと、
ラテン語の原文の意訳であることは明らかである。
このドイツ・ミサは初期のもので、主に、主日礼拝よりも平日の礼拝に、また都市部の
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教区の教会よりも地方の村などの教会で用いられていた。ルターはラテン語を排除したい
と思っていたわけではない。大教会では、礼拝では部分的にラテン語を用いること、多声
音楽は聖歌隊によって奉唱されること、また、ドイツ語の賛美歌はすべての会衆によって
歌われることなどはごく普通に行われていた。しかしながら、このことは、会衆が礼拝に
かかわることこそが初期のルーテル教会において重要であったことを明確に表している。
私たちはここでコラール自体の音楽について考えてみよう。ルターがまず優先したこと
は、会衆が自信をもって歌える旋律の聖歌を創ることだった。いくつかのコラールはドイ
ツ人キリスト教徒に親しみのあるグレゴリオ聖歌の焼き直し版である。例えば、プレイン
ソング VENI REDEMPTOR GENITUM の旋律はドイツ語で歌われるコラールに改訂さ
れた。改訂版の中には NUN KOMM, DER HEIDEN HEILAND のように、
『聖歌集』に収
められているものもある(59 番)
。ここではハーモニーが付けられているが、オリジナル
曲は単旋律で無伴奏で歌われたであろう。この種のコラールでは、はじめの旋律形が最後
に繰り返されるという技法がしばしば用いられていることが、一目見てすぐにわかる。繰
り返しによってコラールを覚えやすくさせたのである。ルターらは古いメロディー素材を
再利用したコラールに加え、新たな旋律を作曲した。ルターが作曲した有名なメロディー
としては EIN’ FESTE BURG(453 番)がある。これは NUN KOMM, DER HEIDEN HEILAND の 2 倍の長さがある曲だが、2 段目の旋律は 1 段目の繰り返しであり、さらに、最
後の 2 小節の旋律は 1、2 行目の最後の 2 小節の繰り返しであり、すぐに歌えるように作
られていることがわかるであろう。もうひとつ覚えやすくしているのは、
「わが強き盾」
などの 3 箇所でオクターブを下降する音階が使われていることである。他には聖歌 58 番
WACHET AUF、60 番 WINCHESTER NEW、72 番 ES IST EIN ROS’ENTSPRUNGEN、
131 番 ERHALT UNS HERR、145 番 HERZLICH TUT MICH VERLANGEN、146 番
HERZLIEBSTER JESU、158 番 O TRAURIGKEIT、180 番 CHRIST IST ERSTANDEN、
188 番 ACH HERR, DU ALLERHOECHSTER GOTT などのコラール、あるいはコラー
ル的な旋律が『聖歌集』に収録されている。
韻律詩編
確かにルーテル派は第一次宗教改革時代に会衆が歌えるような音楽を創作したのである
が、
ルーテル派のみがそのような働きをしたプロテスタントのグループではなかった。
ジャ
ン・カルヴァン(1509-1564)と改革派教会もそれぞれの自国語で会衆のための独自の歌
の根幹を創作した。
カルヴァンはフランス人で、
もともとローマ・カトリック教徒だったが、
1530 年頃にプロテスタントに転回したことから、1534 年にはパリからスイスへの退去を
命じられた。その後、彼は活動拠点をストラスブルグに移し、その土地のフランス人避難
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〈論文〉
民社会の牧師となった。この一連の働きは、会衆歌の歴史の上で重要な役割を果たすこと
になる。カルヴァンが最初に会衆用の韻律詩編歌集 Alcuns Pseaulmes et cantiques mys en
chant を編纂し、
出版したのはこの土地であった。1541 年にカルヴァンはスイスのジュネー
ブに戻り、余生を土地の教会のための奉仕に尽力した。カルヴァン最後の韻律詩編歌を出
版したのは 1562 年で、聖書の詩編 150 編すべてがフランス語の韻文型で収められた。カ
ルヴァンによるこれらの出版物は、詩編を聖歌隊や一部の歌唱訓練を受けたグループが歌
うのではなく、一般会衆が歌うものとして編纂された最初のものである。
ルーテル派とは違って、カルヴァンと改革派の教会は会衆用音楽として、旧約聖書の詩
編の言葉を用いることを選択した。事実、いくつかの賛歌は別として、詩編は改革礼拝で
歌われることが認められた唯一の言葉である。詩編を歌うことの問題は、もちろん長さの
異なる音節で構成されている散文詩の形式であることにある。そのため大きなグループの
人々に自信をもって詩編を歌わせるために、詩の言葉を同じ長さの韻律に書き換えること
が必要となった。行ごとの言葉の長さを整えることで、聖歌のような旋律で歌うことが可
能になる訳である。例えば、日本聖公会の祈祷書の詩編 23 編の散文詩は、1 節の 1 行目
は 23 音節になっているが、2 節の 1 行目は 32 音節である。このことは、聖歌のような同
一の旋律を両方の節に使うことができないことを意味する。詩人カルヴァンは、韻律の長
さを揃えた詩編に書き直すことによってこの問題を解決させた。その例証がすべての小節
の 1 行目が 14 音節になっている聖歌 461 番 CRIMOND に見られる。
カルヴァンはルターのように音楽を愛する人物であったが、改革教会の礼拝では、オル
ガンやその他の楽器、聖歌隊、多声音楽、和声のついた会衆歌などを採り入れることを許
さなかった。実際、改革教会の礼拝で認められた音楽様式の種類といえば、出席者全員で
ユニゾン、無伴奏で歌う韻律詩編のみであった。無論、その他の種類のものも改革派教会
の信徒らによって創作され、親しまれたが、礼拝外で用いられたのである。
『聖歌集』には改革教会で用いられた詩編を歌うためのいくつかの旋律が見られる。聖
333 番 /559 番 OLD HUNDREDTH、
410 番 OLD 104TH は、
歌 209 番 /317 番 OLD 124TH、
もとはすべてジュネーブの改革派の会衆によって歌われた旋律である。その他、61 番
PSALM 42、237 番 ST. MICHAEL も使われたものと考えられる。
『聖歌集』には音韻数
を揃えた詩編の詩が多く含まれているが、その中でオリジナルのジュネーブ詩編歌の旋律
に対応するものはない。一般に、近代の聖公会は、アングリカンチャントの形式で散文の
詩編を歌う伝統があるためか、韻律詩編歌を用いることはあまりなかった。初期の聖公
会の礼拝においてジュネーブ形式の韻律詩編を用いた理由は、次章にて説明する。
『聖歌
集』の中で韻律化した、あるいは意訳された非ジュネーブの詩編歌は 304 番 LAUDATE
DOMINUM、332 番 ALDINE 、392 番 BROTHER JAMES’AIR、444 番 SANDON、
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461 番 CRIMOND、486 番 MARTYRDOM、556 番 ORTONVILLE、565 番 LAUDATE
OMNES GENTES、567 番 CONFITEMINI DOMINO である。
聖公会の会衆の歌
英国の教会の改革は長く激しい道のりを歩んできたと言っても過言ではない。よく耳に
するのは、その始まりは 1534 年のヘンリー 8 世の国王至上法の公布に端を発したという
ことだが、
事実上、
礼拝における改革は 1547 年のヘンリー 8 世の死後始まった。1549 年
「統
一令」が議会で可決され、すべての英国の教会は礼拝において英語の聖書と新たに出版さ
れた礼拝用の英語の祈祷書を用いることが義務付けられた。それ以前にすべての教会で用
いられていたラテン語は使用しないことになった。会衆のために神学的に適切な音声、歌
い易い音楽を提供するために行ったルターやカルヴァンの秩序だった努力と違って、英国
のやり方はまとまりがなく、ことに教区の教会(パリッシュ)ではそれが顕著であった。
英国教会は当時、
ルーテル派よりも改革派の伝統に傾倒していたため、
その産物がロバー
ト・クロウリーとトマス・スタンホールドによって出版された英語の韻律詩編歌集である。
これらは国をあげてのものではなく、むしろ個人の努力によるところが多かった。という
のも、1553 年のローマ・カトリック教徒のメアリー女王即位という出来事によって、ロー
マ教会とラテン語のミサに逆戻りしていったことが、新しい教会の動きを無力化したから
である。メアリー女王の統治はわずか 5 年で終わり、1558 年にエリザベス女王が即位し
てから英国教会はプロテスタントに回帰した。エリザベス女王の統治期間は英国の教会音
楽が最も繁栄した時代のひとつであったと認識されているが、その繁栄は大聖堂や王室、
大学の礼拝堂にのみ反映されていたということは確かなことである。会衆全体が歌うこと
を奨励するような組織的な試みが全国的に展開したわけではなかったようである。にもか
かわらず、
英語で韻律の詩編歌を歌うことは、
このエリザベス朝期間に急速に全国に広まっ
た。ジュネーブから輸入されたこれらの曲は会衆によってひどく速いテンポで歌われたた
め、女王らから、
「ジュネーブ・ジグ(軽快な舞踊曲)
」と呼ばれていた。
1562 年の英語の韻律化された『ジョン・デイによる詩編大全』の出版によって、英国
の教区の教会礼拝における韻律詩編歌の歌唱が後押しされた(この大全は『スタンホール
ド&ホプキンズ』
、または『オールド・ヴァージョン』としても知られている)
。これは詩
編 150 編すべてが包括されている初の英語韻律詩編歌集の出版で、それらを歌うための
48 の曲が収録された。この歌集には賛歌やいくつかの創作聖歌も収められていたが、中
でも、詩編歌が英国の会衆の歌う歌の未来を作る重要な役割を果たしたのである。他にも
詩編歌集はエリザベス女王の在位中に出版されているが、この全集こそが 1 世紀以上にわ
たってほとんどの会衆の歌唱の礎を築いたものである。
13
〈論文〉
歴史的に見ても、現代の聖公会は韻律詩編歌を用いることはあまりないということがわ
かるが、16 世紀から 18 世紀の間、代表的な英国教会の音楽といえば、事実上ユニゾンと
無伴奏の韻律詩編歌であった。英国教会の会衆歌の礎は、グレゴリアンチャントやルター
のコラールからもたらされたものではなく、ジュネーブの改革派教会からもたらされた韻
律詩編歌にあったのである。ジョン・ウェスレーやその他の人々による努力の成果が 18
世紀に現れるまで、聖歌は聖公会の教会で歌われることはなかった。
第 4 章 18 世紀のメソジスト派の聖歌
英語の最初の聖歌
およそ 200 年間(16 世紀から 18 世紀)
、聖公会の会衆の歌の歌詩に聖歌は含まれ
ず、韻律詩編を用いていた。それらが 16 世紀に初めて英国の教会に取り入れられた時
は心地よい軽快なテンポで歌われていたように思われるが、実際のところはこの後、数
世紀にわたり教会はあらゆる活力を失ってしまい、18 世紀までは英国の教会の会衆の
ための曲と言えば、むしろ活気の足りなさと極めて遅いテンポと不正確さで不評を買っ
ていた。それでも教会は現代音楽や詩編以外の言葉を用いることに抵抗を示し、ワッツ
やウェスレーらが聖書以外の歌詩や聖歌の歌唱を紹介し始めた時も聖公会は信仰的でな
い好ましくないものとして取り扱っていた。21 世紀の視点からこの問題を見ると、詩
編だけ歌う慣習は異常とも思える。詩編はキリスト生誕よりずっと以前に書かれてお
り、キリスト者の歴史体験を直に語っている訳ではない。その上礼拝で用いる 150 編
の詩編だけでは神学のあらゆる世界をカバーすることはできない。このような課題が
ウェスレー兄弟やワッツやその他の人々を悩ませ、結果として彼等が生きている人生
に身近なテーマに心を寄せた新しい多くの聖歌を創作することへと導くことになった。
アイザック・ワッツ(1674-1748)は非国教会の独立教会の牧師であった。後期 17 世
紀の初め、彼は聖歌の創作によって新しい会衆の歌を築くという役割を果たしたため、時
に「英国の聖歌の父」とも呼ばれている。彼の書いた約 750 の聖歌はキリスト者の体験
に基づいた歌詩であり、18 世紀初めに出版された 4 つの歌集に収められていた。彼の作
品は、当時広くゆきわたっていた礼拝において韻律詩編のみを歌うという習慣に対する挑
戦でもあったし、彼の作品の 1 つ「み栄のイエスの十字架を仰げば」
(370 番 ROCKINGHAM)のような聖歌では歌うキリスト者に自らの心の声を与えたとも言えるのかもしれな
い。ここでは焦点はイエスの十字架に当てられているが、
キリスト者の目を通してであり、
I(私)
・my(私の)
・mine(私のもの)という言葉が繰り返し用いられていることがわかる。
14
2006 年日本聖公会『聖歌集』を用いて考える
『聖歌集』にはワッツによって書かれた 7 つの詩、47 番 UNIVERSITY COLLEGE、68 番
WINCHESTER OLD、327 番 UNSER HERRSCHER、370 番 ROCKINGHAM、399 番
WARRINGTON、405 番 REDHEAD 45、452 番 DUKE STREET が収められている。
ワッツの足跡を追っていくと、二人の聖公会の聖職者ジョン・ウェスレー(1703-1791)
と彼の弟チャールズ(1707-1788)が教会の内部改革の必要性に気付き、考えていたこと
に繋がってくる。彼らの継承者は新しいプロテスタントの一派・メソジスト教会を創設し
たが、ウェスレー兄弟は聖公会にとどまった。メソジスト運動のトレードマークのひとつ
は、屋内であろうと屋外であろうと、礼拝の中で参加者が心を込めて元気に歌うことだっ
た。聖公会の教会がテンポが遅く、高揚感のない詩編歌の歌唱に陥っているのに対し、メ
ソジスト派の人々が創り出した新しい聖歌と曲は彼らに続く者たちを鼓舞した。当然なが
ら、この事が聖公会側に妬まれ、
「1762 小冊子」には「神聖を汚すメソジストの歌い方」
という題の章があり、教会でポピュラーバラードのような曲を歌うメソジストを非難して
いる。果たして、メソジストの旋律は本当にそんなに悪かったのだろうか。1742 年に出
13 曲がドイツコラー
版された彼らの最初の聖歌集には 43 の曲が含まれている。そのうち、
ルから、19 曲が英国の詩編歌の旋律から、10 は様々なものに由来する曲、そして 1 曲が
ゲオルグ・F・ヘンデルのオペラから採り入れたものであった。このメソジストの最初の
曲集から、
『聖歌集』にある 4 曲を検証することができる。8 番 WINCHESTER NEW、
159 番 EASTER HYMN OLD、229 番 BEDFORD、348 番 HANOVER である。21 世紀
の観察者の目と耳に触れても、いわゆる中傷じみた不快さは全くない。当時聖公会の人々
を怒らせた曲の類は聖歌集から消え去り、今日の聖歌集では用いられていないとも考えら
れる。ウェスレーの存命中、さらに 3 つの聖歌の曲集が出版され、最後の曲集は 1781 年
に発表されている。ユニゾンで無伴奏の聖歌だけを収めた最初の曲集と比べて、最後の曲
集では、ベースの旋律が加わり、18 世紀末の和声付き聖歌への要望が反映されたもので
あった。今日私たちが歌うものに近い会衆聖歌の形式を見てみよう。
『聖歌集』には後期
メソジスト聖歌の代表的な形式として 2 つの曲、56 番 HELMSLEY と 346 番 LEONI が
ある。
最後にもう一つ理解されるべきメソジストの伝統は会衆のための聖歌に向かうウェス
レーたちの姿勢である。すべての人々が礼拝に参加すること、そして礼拝の聖歌の意味を
理解すること。いろいろ教えがある中でメソジスト派が説教者に指導、伝えた使命は下記
のことである。
①会衆に相応しい聖歌を選ぶこと。
②会衆に聖歌の旋律の一音符一音符を丁寧に教えること。
15
〈論文〉
③間違った歌い方はその場で直すこと。
④適時聖歌の半ばで休止させ、
歌い終わった箇所が良く理解できたかを確認すること。
⑤長く歌わせ過ぎないこと ― ウェスレーの聖歌(歌詩)は長いので、一度に 5 ~ 6 節以上は歌わない。
現在私たちはメソジスト派の聖歌の曲を歌うことはあまりないが、その歌詩は未だ影響
力がある。
中でも私たちに重要な点は会衆の聖歌に向かう姿勢とそれによる励ましである。
恐らく今日の私たちはこのジョン・ウェスレーの手法から学ぶべきことが多々あるのでは
ないだろうか。
第 5 章 19 世紀から 20 世紀の初期にかけての英国の聖歌集
近代の聖公会聖歌集のルーツ
ここに至るまで私たちは、初代教会のキリスト者から 18 世紀までの凡そ 1700 年の「教
会音楽」を考察してきた。程度の差こそあれ、カバーされてきたすべてのジャンルの聖歌
が聖歌集に影響を与えてきた。しかしながら、仮に日本聖公会という全国にまたがる教会
である主日に歌われていたすべての聖歌が記録してあるとすれば、その中の多くの聖歌は
これらの初期の伝統ではなく 19 世紀のものであることは一目瞭然であろう。聖公会の教
会がやっと韻律詩編歌を越えて聖歌を歌うことを許し、なおかつ奨励したことをきっかけ
に非常に大きな潜在的創作意欲が解放されたと言える。このことが、結果として一般的に
今日の教会で多くの人が「普通」の聖歌と思うところの礎を築くことに繫がったのである。
メソジスト派が 1740 年代から聖歌集を公表してきたにもかかわらず、聖公会の教会は
韻律詩編歌の使用を断念するのにすらそれ以上の時を要している。1810 年にコッテリル
による『韻律詩編歌と聖歌集』は「不適切」という理由で教会から使用を拒否され、それ
によって韻律詩編歌対聖歌という相反する勢力による論争は、法廷に持ち込まれるまでに
至った。そして 10 年後の 1820 年に、教会で聖歌を歌うことは「違法ではない」
、特に礼
拝の前と後に歌うのであれば、という判決が下った。この 1820 年代の中途半端な聖歌歌
詩の承認を受けて、1830 年代には新しい聖歌が堰を切ったように創られ、聖公会の教会
で採用されるようになった。1830 年代に見られた教会の最終的な聖歌歌詩への穏当な対
応と英国でオックスフォード運動が起こったタイミングは決して偶然の産物ではない。こ
の運動の試みはオックスフォード大学の聖職者たちによって死にかけている聖公会の教会
を再生しようと繰り広げられたものだった。この新しい勢力とエネルギーは聖餐の執行と
16
2006 年日本聖公会『聖歌集』を用いて考える
共に礼拝に伴うべき相応しい音楽の創造に注がれ分け与えられた。以後数十年という期間
にわたって聖公会の教会は訓練された聖歌隊と、後にはオルガンも加わった支えと導きの
おかげもあり、会衆の聖歌歌唱という新たな伝統を創造する道を歩むことになる。
英国で間違いなく国家的に認知された最初の聖歌集は 1861 年に出版された Hymns Ancient and Modern である。この出版物は非常に人気を博し、出版後最初の 7 年間で 4 ~ 5
百万部を売り上げた。それまでの聖歌の出版物とは違い、多様な時期と場所で生まれた聖
歌が収められたこと、また、内容の構成においても、今日私たちが規範と考える教会暦の
順に聖歌が並べられたことなど、今日の聖歌集の形へと整えられたのである。しかし、こ
こで私たちにとって最も重要な点は、この聖歌集には新しく作曲されてきた数々の聖歌
の曲が含まれており、その多くが今日の私たちの会衆歌唱の伝統の基礎を形作っている
ことである。ここには当時のそうそうたる一流の音楽家が名を連ねている。サミュエル・
セバスチャン・ウェスレー(1810-1876)
、ジョン・ゴス(1800-1880)
、ウィリアム・ヘ
ンリー・モンク(1823-1889)
、ジョン・バッカス・ダイクス (1823-1876)、その他であ
る。これらの作曲家は、概ねメロディーをサポートし歌い手を引っ張っていくような豊
かなハーモニーで作曲している。このスタイルの例として 285 番 /391 番 AURELIA と
31 番 EVENTIDE が挙げられる。面白い試みをしてみよう。これらのひとつを始めから
終わりまでメロディーのみを弾いてみる、それから今度はハーモニーを付けて弾いてみる
のだ。確かにユニゾンで無伴奏で歌うこともできるのだが、メロディーとハーモニーの組
み合わせこそがこのような曲を壮大にすることがわかるであろう。この時期に世に出た曲
としては 24 番 RIVAULX、36 番 PAX DEI、50 番 MERTON、126 番 ST. PHILIP、130
番 ST. BEES、 136 番 ST. DROSTANE、 140 番 GETHSEMANE、 157 番 ST. CROSS、
200 番 NICAEA、233 番 BEATITUDO、251 番 UNDE ET MEMORES、309 番 LAUDA
ANIMA、 342 番 MELITA、 343 番 STRENGTH AND STAY、 352 番 ST. AGNES、 368
番 GERONTIUS、400 番 ST. OSWALD、516 番 LUX BENIGNA などが含まれる。
英国の聖歌創作期に影響力の強かったその他の英国の聖歌集と言えば、The English
Hymnal(1906)である。そして、
その編者の一人が偉大なイギリスの作曲家レイフ・ヴォー
ン・ウィリアムズ(1872-1958)である。彼は単に編者であっただけではなく、聖歌集の
ために新しい聖歌を作曲し、かつ英国の民謡の編曲もしている。彼の努力のお蔭で、全体
的にこの曲集の音楽的な質が大変高くなっていると言える。また、彼の影響は日本聖公
会の『聖歌集』にも見られる。同聖歌集には彼の作品 11 曲が含まれており、内容は以下
の 3 つに分類される。①すでに存在した旋律に和声を付けた曲(5 番 CHRISTE SANCTORUM、219 番 LASST UNS ERFREUEN) ②伝統的な英国のメロディーの編曲(86 番
FOREST GREEN、236 番 THE TRUTH FROM ABOVE、408 番 MONK’S GATE、508
17
〈論文〉
番 KINGSFOLD)③創作曲(173 番 SALVE FESTA DIES、204 番 SINE NOMINE、207
番 KING’S WESTON、384 番 DOWN AMPNEY、523 番 RANDOLPH)
。レイフ・ヴォー
ン・ウィリアムズの独自の作品群は別として、同聖歌集にはグレゴリオ聖歌のメロディー
も数多く掲載されている。この点において、
この聖歌集は聖公会の高教会(ハイチャーチ)
側には高く評価された。また、ドイツのコラールは英訳で収められ、もちろん Hymns Ancient & Modern に載っている一般によく受け入れられている(標準的な)19 世紀英国の
曲も収められている。ある意味で聖歌集というものは、各時代・時期から聖歌の歌詩、旋
律を寄せ集め、包括的且つバランスのとれているこの聖歌集の伝統の立場をとっているの
である。
何故この 2 つの英国の聖歌集が他の伝統的な曲集よりも日本のキリスト者たちに多大な
影響を与えたのだろうか。それは Hymns Ancient & Modern の出版が特に英国に端を発し
たプロテスタントの宣教師の活動時期と符合しているからのようである。聖公会の宣教師
らが伝道に訪れる世界の先々隅々にこの聖歌集はお供をしたわけである。日本も無論その
例外ではなかった。その端的な影響は日本聖公会聖歌集の内容だけではなく、英語から直
訳した『古今聖歌集』という題名に見ることができる。
第 6 章 20 世紀以前のアメリカの聖歌の曲
スピリチュアル (霊歌) - 白人と黒人
18 世紀の英国と同様に、英国植民地であったアメリカの会衆の音楽は韻律詩編を歌う
ことであった。当時の文献によると、極めて遅いテンポが会衆らにそれぞれが隣の人と同
時に且つ即興的に歌うことを競い合うよう導かせたということである。聖歌の曲が 19 世
紀の古典的な曲に移り変わっていた英国とは異なり、米国における状況は異なったタイプ
の聖歌曲を創り出していた。訓練された音楽指導者が不足していたために、地方の牧師ら
は独学で身につけた指導者に頼っていた。農民であった彼らもしくは彼女らは、閑な時期
に地域から地域に移動して聖歌指導に携わっていたと言う。聖歌をより容易に読んで理
解させるために、シェイプノート ( 形音符 ) という名で知られている方策が開発された。
これは音符の頭の形を異なった 4 つの図形で表し、音階のそれぞれの音がわかるようにし
たものである。このいわゆるシェイプノートの聖歌集は、後の 1 世紀半にわたって数百冊
も出版された。西洋における作曲の決まりごとにはほとんど配慮が払われておらず、多く
のメロディーは 5 音階 ( 鍵盤の黒鍵の音符を使用 ) が幅広く用いられた。これらの旋律
は「ホワイトスピリチュアル」と呼ばれ、20 世紀以前のまさにアメリカ独自の創作であっ
18
2006 年日本聖公会『聖歌集』を用いて考える
た。
『聖歌集』には、この種のシェイプノートの曲、424 番 MORNING SONG と 540 番
NEW BRITAIN が入っている。特に後者は詩の「アメージンググレース」のタイトルで
日本で広範囲に知られ親しまれている。興味深いことに、
『聖歌集』には 20 世紀のアメ
リカ人の作曲家によってこのスタイルで作曲されている 2 曲の聖歌がある。二人の作曲家
リチャード・プルー (332 番 ALDINE) とジェリー・ハンコック (337 番 SANDRIA) は、
そのメロディーの作り方と強いリズム感という点でホワイトスピリチュアルとの類似性を
色濃く反映した曲を創り出している。
一方、ブラックスピリチュアルとはホワイトスピリチュアルとは全く違った状況で生み
出された聖歌だ。基本的には奴隷にされ、文盲であった民衆による創造の賜物であろう。
表面的にはキリスト者のテーマが表現されていると思われがちだが、そこには仲間の奴隷
たちにしか汲み取れない隠された意味が含まれている。これらの曲の多くは即興的に作ら
れ、口伝えで受け継がれてきた。
「音楽的な流れ」と「歌われ方」という両面で、西アフ
リカに源流をもつ要素があると考えられている。これらの歌が知名度を得て広まったのは
19 世紀になって努力の甲斐あって口伝えの歌が譜面に表記されることになってからのこ
とであり、主にアフロ−アメリカン社会の外で知られていった。
『聖歌集』に収められてい
るのは 147 番 WERE YOU THERE と 259 番 LET US BREAK BREAD である。
19 世紀の聖歌の曲の主流
推察するところによると、主流であったアメリカの聖歌の曲は 19 世紀のイギリスの聖
歌よりもずっと多くの影響を日本のキリスト教の会衆歌に及ぼしている。黒人と白人の双
方のスピリチュアルの曲もわずかながら『聖歌集』に見られるものの、後述に見られるよ
うな種の聖歌が多数派のようである。
現地のアメリカよりもヨーロッパのスタイルにこだわろうとした作曲家らによる聖歌の
曲は、主流を占めており、それらの多くは日本のほとんどのプロテスタント教派の賛美歌
集によく見られる。ローウェル・メーソン (1792-1872) は洗練されていないシェイプノー
トを使うことを否定し、1500 以上に及ぶ聖歌曲の創作活動という過程で彼が見極めたと
ころの「正統」な聖歌の作曲を試みた。彼の曲は歌い手と聴き手に受け入れられ易い旋律
とリフレインで創られていた。それは一つの共同体のみんなの想いというよりも歌い手の
内なる個の想いに焦点をあてようとしている意図が感じられる。この類いの曲は『聖歌
集』にも収められ、広く知られよく歌われてもいる。その例が 450 番 OLIVET と 519 番
BETHANY である。
もう一人の多作の作曲家はウイリアム・ブラッドベリー (1816-1868) である。彼は前
19
〈論文〉
述のメーソン流に少なくとも 800 余り旋律を書いているが、しばしばその心を捉える(覚
えやすい)メロディーとリフレイン(繰りかえし)が人気を博していた。不思議にも作品
の多くは日曜学校のために作曲されたものの、彼の意に反して、大人の礼拝に使われるよ
うになったようである。クラシック音楽という視点から様式を分析すると、贔屓目に見
ても極めて単純な曲の部類に属すると言わざるを得ないが、19 世紀のプロテスタントの
信仰復興礼拝でしばしば用いられ、
「ホワイトゴスペル」として分類されている。ブラッ
ドベリーの曲は、484 番 THE SOLID ROCK に 498 番 JESUS LOVES ME と 520 番 HE
LEADETH ME である。
ブラッドべリーのスタイルを受け継いだ作曲家は、ドワイト・ムーディー (1837-1899)、
イラ・サンキー (1840-1908)、フィリップ・ブリス (1838-1876) そしてウイリアム・ドー
ン (1832-1915) で、いずれも 19 世紀に活躍している。彼らは大胆にもすべての旋律をホ
ワイトゴスペルスタイルで作り出しており、その代表的な聖歌が 437 番 WONDERFUL
WORDS、465 番 PEACE、496 番 PRENTISS、506 番 KENOSIS、518 番 DOANE、535
番 BLESSED ASSURANCE である。
ブラックゴスペルは 20 世紀初期に生まれたアメリカ合衆国の非常に重要且つ独自の創
造である。ブラックスピリチュアルの伝統とブルースの要素が混合されて誕生し、世に出
現したブラックゴスペルのスタイルの音楽は、良かれ悪しかれアメリカでも日本でも主要
な教派の聖歌集には載せられてはいない。しかしながら、ブラックゴスペルは世界中の俗
に言う流行りのポップミュージックにいとも多大な影響を与えており、それ故、アメリカ
と日本両国において、大多数の人々に馴染みがないとは言えない音楽なのである。
第 7 章 我らの時代の聖歌 ( 同時代の聖歌 )
日本の作詩者、 作曲者による聖歌
19 世紀に至るまでの「聖歌の旅」を終えて、
初期のキリスト教会に始まり、
私たちはやっ
と現代という我らの時代に辿り着いた。この 21 世紀の『聖歌集』にはどのような新しい
風と波が見られるのだろうか? 最も特筆すべきことは、日本人によって書かれた詩と曲
が聖歌集の舞台に登場したことであろう。この人たちの貢献があって日本聖公会は自らの
「声」を発掘したと言うことができる。580 曲のうち 83 曲余りが日本人によって書かれて
おり ( 全体の 14%)、聖歌集発行時に作者の 3 分の 2 以上は存命であった。ほとんどの作
者は 1 作、数名の作者が数作以上の創作を手がけた。中でも最も多作の作者は 7 作の青木
2 番手が 5 作の宮﨑光と鈴木伸明で聖歌集改訂委員会は 10 作の作詩に携わっている。
瑞恵、
20
2006 年日本聖公会『聖歌集』を用いて考える
過去の時代と現場で作者が創作した詩を歌うことと共に、この聖歌集の利用者は 20 世紀
の日本の諸相の中でキリストと出会った作者たちの言葉を味わうことができる。
日本聖公会の前作『古今聖歌集』の言葉が文語体であったのに対し、改訂版はほぼ口語
体(現代語)で書かれている。このような傾向というものは 20 世紀の海外の新しい聖歌
の言葉にも多々見られる。いわゆる親しみのある言葉遣いで作詩をすると、しばしば人
間の反応は驚きを隠せない。例えば、
「教会でこんな普段着の言葉遣いはいいんだろうか」
というようなことが繰り返し問われるし、新しい聖歌集が世に出ると、
「昔のものとは質
が違ってしまった」とよく言われる。しかし質というものは極めて主観的な要素があり、
たとえ理解が不十分であろうと親しみのあるものを愛し、親しみのないものを嫌うのは人
間の本性であろう。
恐らく私たちは理解できるかどうかにより焦点をあてるべきであろう。
定義しづらい質を問うよりも教会の使命としてずっと切実な課題は言葉がまさに 21 世紀
の人間とその歌い手の魂に語りかけているかである。この視点に立ってこそ、現代の言葉
で作詞された作品群が盛り込まれたこと自体が聖歌の進歩に繋がってゆくはずである。
理解の問題に加え、日本聖公会の 1990 年『祈祷書』3 の神学に相応しい新たな詩を提供
する必要があった。礼拝をその存在の中心としている教会においては、新しい祈祷書の発
行は最も重要な出来事だからである。礼拝が焦点をあてた新しい神学の概念と変化は会衆
の歌の言葉に反映されなければならない。新しい祈祷書が新しい聖歌の必要を生み出すこ
とを誇張すべきではないだろうが、288 番 MOINES、289 番 JOYFUL BIRTH の例に見
られるように、新たに加えられた「誕生感謝の祈り」は、その礼拝のための新しい聖歌の
創作に結びついた。詩、
曲いずれもこの『聖歌集』のために新たに創作されたものである。
新しい聖歌が現代語で書かれたという事実に加えて、幾つかの作品は日本が抱える歴史
的課題を取り上げて私たちに語りかけている。次の 3 作品はそれぞれ戦争体験とその原風
景に言及したものである。421 番 HEIWA NO KANE、422 番 NAGASAKI NO SORA と
423 番 NUCHIDU TAKARA。この種の日本を語った詩作は日本聖公会の前作の聖歌集に
はなかったものである。
一方、日本人によって作曲された旋律に関しては、30 名の作曲家が作曲を手がけ、発
行時 (2006 年 ) には 24 名が存命であった。その 30 名の作者が手がけた作品は合わせて
73 曲あり、そのうち 46 曲は彼ら・彼女らのオリジナル曲である。大多数の作者が作曲し
たのは一作だが、4 名のプロの作曲家が聖歌集の中の全オリジナル曲のほぼ半数を手がけ
ている。宮﨑道 (7 作 ) と宮﨑尚志 (5 作 ) それに鈴木隆太 (5 作 ) と坂本日菜 (4 作 ) で
ある。オリジナル曲に加え、鈴木隆太は他に 20 曲の編曲にも携わっている。これらの統
計的な記録から、どのような音楽が聖歌集のために創り出されたかを見ることができる。
3
『日本聖公会 祈禱書 口語』 日本聖公会、 1991 年。 以降 『祈禱書』 と記す。
21
〈論文〉
20 世紀の初期と言えば、音楽における歴史的周期から見ると、戦国乱世のような雑然
とした時期であった。17 世紀から発展的に継承されてきた和声法は基本的には断ち切ら
れ、それに代わり新たな技法が取り入れられた。極端な不協和音が当時のトレードマーク
となり、新しい音楽を理解し評価できる者とそれに全く理解を示さない者との間に大きな
溝を生んだのである。教会音楽について言えば、幾つかの新しいスタイルは特にオルガン
曲を通して、また、オルガン曲のものより少なめだが合唱曲を通して教会にも存在の場を
見出した。しかしながら、会衆の聖歌に関しては、新しいスタイルのものは実際のところ
全く取り入れられていない。20 世紀の前半期に発行された聖歌集には主に初期の音楽的
素材が取り入れられた。様々な新しい詩と曲があたかも堰を切ったように登場したのは
20 世紀後半で極端な不協和音と前衛的な曲風がその幕を降ろす時期でもあった。会衆の
ために教会に取り入れられた音楽はその時点では非宗教的な現代クラシックの作曲スタイ
ルには見向きもしなかった。日本聖公会の聖歌集は 20 世紀の終わりから準備が始められ
たこともあり、過度に現代的なスタイルのものやヘビーなポピュラー音楽(フォーク・ゴ
スペル・ロック等)を取り入れることはなかった。その代わりに初期のスタイルにルーツ
のある曲でありつつ、現代の要素を含む現代風アレンジがされたものが収められた。
ここで、
『聖歌集』に貢献した 3 人の作曲家による聖歌曲(チューン)を考察してみよう。
ほとんどの新しい聖歌曲はこの 3 人によるものである 4 。
宮﨑道は様々な異なった音楽のスタイルによって 7 曲を創作している。ユースアセンブ
リー(青年大会)による詩につけた 2 曲、172 番 ANOTOKI、576 番 WAKACHIAERU
においては、ポップスやミュージカルを意識した優しい和声形式を用いている。2 曲とも
おりかえしがあるが、これにより歌い手はすぐに曲を覚え、自信をもって歌うことができ
る。宮﨑の作品のうちの 4 曲には 19 世紀アメリカの聖歌のスタイルの影響が強く現れて
いる。6/8 拍子の 374 番 KOKORO NO TOBIRA と 472 番 JOSHUA はホワイトスピリ
チュアル(既述)を連想させる一方、186 番 PANKUZU はブラッドベリー他、同時代の
作曲家の聖歌を思い起こさせる。また、力強い行進曲風の 412 番 AMOS は 1830 年アメ
リカの曲 WEBB「立てよ いざ立て 主のつわもの」の雰囲気を感じさせる。宮﨑はまた、
487 番 OMONI では(完全にではないが)通称ヨナ抜きと呼ばれる 5 音音階の形式を用
いているが、これは NEW BRITAIN(540 番)のような初期アメリカの聖歌に類似してい
る。宮﨑は自身の音楽語法と日本のキリスト者たちに親しまれている新旧の聖歌の様式を
織り交ぜることによって歌い手がすぐに歌いこなすことができる聖歌曲を創り出すことに
成功していると言えるであろう。
4
以下 3 名の作曲者が聖歌の曲を作るにあたっての考えについて、 2010 年 8 月、 電話においてのインタビュー
で語った。
22
2006 年日本聖公会『聖歌集』を用いて考える
坂本日菜もまた様々なスタイルで聖歌曲を書いているが、その音楽の影響は宮﨑のそ
れとは異なっている。98 番 CECILIA は意図的にドリア調という中世の時代を思わせる
形式が用いられており、
「使用は任意」として付けられているデスカントが歌われる時に、
西洋音楽の最初期のポリフォニー形式であるオルガヌムが作り出されてその効果は特に明
98 番と同じ詩につけた 99 番 MAGGIE には、
らかである。一方、
日本語の自然なイントネー
ションを保とうとする坂本の姿勢が見られる。曲のスタイルには 98 番とは対照的に伝統
的な英国のクリスマスキャロルの雰囲気が感じられる。さらに 185 番 ST. BENEDICT は、
心地よい軽やかな旋律で、西ヨーロッパに伝わる民謡に類似しているといえよう。また調
性の変ニ長調は詩の神秘性を反映するために周到に考えられ選ばれたものだ。曲譜の 1、
2 段目、3、4 段目はそれぞれメロディーが繰り返されているため、歌い手にとっては覚
えやすい。坂本の作品の中で 20 世紀の様式で書かれている聖歌が 132 番 INVOCATION
である。坂本は巧みに不協和音を用い、青木瑞恵による大斎の詩の感性を見事に表現して
いる。声部 2 箇所に見られる完全な休符は聖歌においては稀な手法だが、歌い手が歌った
ばかりの言葉を黙想するような余韻を加える働きがある。
一冊の聖歌集として音楽の面においてさらに厚みを加えたのは鈴木隆太の作品群 ― 5
曲のオリジナル曲と 20 の伴奏譜の作曲及び編曲 ― である。宮﨑と坂本とは対照的に彼
の新しい 5 つの聖歌曲はひとつの音楽語法によって貫かれている。作者は『古今聖歌集』
に見られる典型的 19 世紀聖歌の様式の影響を引き出しつつも彼独自の和声用法とを融合
させているのである。4 声部構成の伝統的な和声進行といった確立された形式と穏やかな
不協和音との組み合わせは彼の聖歌曲のトレードマークとも言えるであろう。分析してみ
ると、38 番 YAMATE、120 番 MANIN、489 番 YOKOHAMA には不協和音が比較的多
く使用されているのだが、聴く者の耳には全体としてハーモニーの豊かさが印象に強く、
不協の音程はさほど気にならない。しかし 288 番 MOINES と 458 番 BLUFF では不協和
音はあまり使われておらず、従ってこの 2 曲はより伝統的な響きをもつ。また、旋律に関
して、鈴木は作曲に際し日本語の抑揚がメロディーラインの上がり下がりに寄り沿うこと
を非常に意識していたことがうかがえる。
鈴木はオリジナル作品のほかに 20 の聖歌の伴奏譜の作曲、あるいは編曲を自身の聖歌
と同じ手法で手がけている。もともと伴奏譜のない聖歌、例えばグレゴリオ聖歌のような
曲には新たに伴奏譜を創り、他の聖歌についてはオーガニストにとってより弾きやすいよ
うに原曲の伴奏譜を編曲し直した。原曲の伴奏譜の音の構成や組み立てを簡易化したり、
あるいは歌う会衆にとってよりとっつき易い和声に調整するなどの手法をもって、日本聖
公会の奏楽者や会衆の状態に配慮した実に適切なアレンジをしている。
最後にひとつ追記しておきたいことは、日本人の聖歌作曲家がどのように現代語の日
23
〈論文〉
本語の詩に曲をつけるかということについてである。現代語の詩においては、文語に比
べると 1 文(1 行)はより多くの音節(シラブル)からなっており、場合によってはこれ
らを歌うためにはより多くの音符が必要になり、時にはメロディーに 8 分音符が増える
という結果になる。そのいくつかの例が 185 番 ST. BENEDICT、363 番 GARIRAYA NO
KAZE、
421番 HEIWA NO KANEなどであるが、
このように8分音符を多用するメロディー
は日本では珍しくはない。西洋の曲でこの形式に類似している例は 13 番 SHAKE UP、
243番 GOD’S TABLE、
375番 THOMAS MERTON、
426番 JERUSALEMなどに見られる。
日本人以外の作詞家と作曲家による聖歌
英国の古典と見なされて『古今聖歌集』に収められなかった曲が『聖歌集』のレパー
トリーに新たに加えられた。ヴォーン・ウイリアムズの作品は『古今聖歌集』では 3 作
だけだったが、新しい『聖歌集』には 18 作の作曲と編曲が載せられている。他のイギリ
スの作曲家が手がけた素晴らしい曲も取り上げられている。パリー (304 番 LAUDATE
DOMINUM、339 番 RUSTINGTON、426 番 JERUSALEM、511 番 REPTON)、スタン
フォード (305 番 /376 番 ENGELBERG)、それに、ホルスト (100 番 CRANHAM、532
番 THAXTED) 等がその代表格であろう。いわゆる「我らの時代」に近い作品となって
いる新しい聖歌はジョン・ベル (1949-) の選集である。彼はしばしば詩と曲の双方を創
作する類稀な作曲家で、彼の作品は言葉と音楽の両者を通して我らの時代に深く語りかけ
てくる。独自の音楽スタイルを持つ彼の代表作のひとつ 243 番 GOD’S TABLE は、感動
的なリズム感のある韻文が音楽的なリフレインと調和した出色の聖歌である。
英国圏以外の音楽の伝統がある聖歌もこれまでの聖歌集よりも数多く収録されている。
中でもアジアから発信された聖歌は、179 番 JIA-OU、258 番 CATUROG NA NONOY、
284 番 BOKDEORA SINRANG SINBU、303 番 ROSEWOOD、324 番 HON-SHIN、418
番 FRIEND(PANANAGUTAN)、514 番 HANUNIME BURUMTARA、534 番 HONSHIN CHANSONG、564 番 O-SO-SO。それ以外にも、それぞれの伝統を継承した音楽
的で詩的な数多くの聖歌が新たに日本聖公会の『聖歌集』に収められているが、この論文
の範囲ではないためすべてを紹介することはできない。
あとがき ( エピローグ )
2006 年に、日本聖公会『聖歌集』の到来(出現)という出来事によって、日本のキリ
スト教は礼拝のために極めて自在な新しい本を授かった。この一冊の本はイギリスとアメ
リカの歴史的なルーツと共に聖公会の伝統の中にしっかりと錨を降ろしたことにとどまら
ず、最も重要な聖歌の歴史を代表する曲目の幅を広げることに寄与した。この『聖歌集』
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2006 年日本聖公会『聖歌集』を用いて考える
は歌を通じてキリスト者の人生について新鮮な光景を描くと共に、我らの時代に書かれた
「詩」と「曲」を贈って下さった。日本というこの国で、
多くの作詩者と作曲者の貢献によっ
てついに日本の教会にその声が届けられた。日本の教会が、世界の聖歌学に寄与し、そし
て日本のキリスト者が集う教会が、自分たちの聖歌とともに世界の異なった「時と場」に
おいて創造された聖歌を歌う日の到来が望まれる。この一冊の本はその道しるべとなるこ
とだろう。
【立教学院教会音楽ディレクター/立教学院諸聖徒礼拝堂聖歌隊長/
立教大学文学部キリスト教学科教授/立教大学教会音楽研究所所長】
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