兼業から専業へ転換 バブル乗り規模拡大 産直で消費者と交流 近代化の

 夜明けとともに光と影の濃淡がはっきりした時代
だった。小豆が赤いダイヤと呼ばれ、市況が高くな
ると1年で格納庫が建ち、機械が新しくなった。一
方で、豊凶の差が激しかった。人知ではいかんとも
しがたい、つらく苦しい時期もあった。地域の中
で、刃こぼれするように農家をやめる人もいた。
畑作、酪農の兼業が多く、自分の農場も当時は牛
を飼っていた。作業中にフォークを足に刺してしま
い、父から「イヤイヤやってるからだ」と怒られ、
痛さよりも情けなくて泣いた思い出がある。
司会 農業ガイドが始まった昭和54年、そのこ
ろの十勝農業はどんな状況でしたか。
兼業から専業へ転換
矢野 昭和54年にJAめむろ組合長に就任した。30
年代、私が農業に就いたころは、馬の尻を追いなが
ら、全て手作業。30年代後半からようやくトラクタ
ーが導入され、画期的な第一歩だった。40年代半ば
から、ほとんどの農家にトラクターが入り、農業を
続けるには、規模拡大に相当な投資が必要だった。
農業をやめる人と、規模拡大、機械化した人が分
かれてきた。離農の苦しみを経験しながら、大きく
伸びていった時代だと思う。54年は酪農で初めて生
乳の生産調整が行われた年でもある。組合長になっ
て最初の仕事は牛乳の生産調整で、酪農家の皆さん
からお叱りを受けた。
50年代に大きく変わったのは、豆作中心から根菜
類、麦が伸びた。経営形態も酪農、畑作の兼業か
ら、専業への変わり目だった。
司会 当時と比べ、今の十勝農業はどうか。
経営者が若手中心
山口 酪農は個体販売中心や放牧など、いろんな形
態に取り組んでいる。十勝の農業生産額は農協以外
の取扱額を含めると、3000億円を超える。酪農・畜
産も生産額拡大に大きく貢献してきた。
後継者不足や高齢化が報じられているが、十勝は
全然違う。若者が高い所得を得られない経済環境の
中、家業の農業と比較し、農業に戻ってきている。
経営者も40代中心と若い。若い世代には経営感覚を
いち早く身に付けてほしい。農業は努力すれば応え
てくれる素晴らしい職業だ。
バブル乗り規模拡大
山口 昭和50年代は私の牧場も経営規模が小さく40
~50頭だった。58年には史上まれにみる大冷害があ
り、粗飼料の確保には本当に苦労した。後半はバブ
ルにも乗って規模拡大を進めた。高性能な機械を導
入し、毎年、10~15頭ずつ増頭した。当時の十勝の
平均は経産牛20~30頭、全部で50頭くらいが普通だ
った。
グローバル化進展
平 自分の農場では約20年前から、当時珍しかっ
た体験農園や観光農園に取り組んでいる。今、アジ
ア経済がとても元気で、中国、台湾など東アジアの
人たちの観光やビジネスにつなげるため、スタート
ラインに立ったところ。観光資源という観点から、
今までにない十勝農業のグローバル化が進もうとし
ている。
平成13年に道農協青年部協議会で導入した子供農
業体験が定着してきた。当時小学生だった子供が、
結婚して子供を育てる世代。植えた種が芽吹こうと
している。農業は大事、素晴らしいと思ってもらう
には教育が大事だ。
産直で消費者と交流
外山 昭和59年に帯広に嫁いだ年が、農産物の政策
価格(政府が決定する政府管掌作物の価格)が一番
高かった。夫は海外で農業実習し、サトウキビ原料
の砂糖に押され、米国でビートの作付けがなくなっ
た現実を見て、十勝にもそういう危機があるかもと
考えていた。どう付加価値を高めるか、産地直送も
視野に入れていた。60年代に入り、政策に左右され
ない部分を取り入れようと、消費者と直接関わる産
地直送を始めた。
女性が一翼を担う
外山 稲作と和牛肥育・繁殖農家に生まれ、主食の
米は食べてくれる人を想像しやすいが、嫁いだこ
ろ、十勝の農業は食べてくれる人を意識しづらいと
感じた。現在は大規模化の一方で、ファームレスト
ランなど、より消費者に近い農業となった。わが家
では、都市と農村の交流事業などをきっかけに、20
近代化の夜明け実感
平 あさま山荘事件(昭和47年)の時に大雪で、
馬そりで学校に行った。50年代は一気にトラクター
導入が始まり、子供心ながら農業近代化の夜明けを
感じた。
◆矢野 征男 氏
◆山口 良一 氏
1938年、芽室町生まれ。川西農業高校
(現帯広農業高校)卒。JAめむろ組合長
を1979年から30年間務め、90年ホクレン副
会長、99~2008年同会長。
1953年豊頃町生まれ。池田高校卒。2012
年から組合長。総頭数650頭(経産牛380
頭)を飼養する大規模酪農家。13年度は生
乳3770㌧を出荷。飼料畑は約160㌶。
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