長野大学紀要

長野大学紀要
第29巻第2号(通巻第110号)
長 野 大 学
2007年9月
長野大学紀要
第2
9巻第2号(通巻第1
1
0号)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
目
<論
次
文>
職場のメンタルヘルスと精神障害者の就労支援
──精神障害者の院外作業を通じて──
……………………………………………………上 平 忠 一・端 田 篤 人………1
「中年福祉」の必要性と今後の課題
─中年夫婦とのカウンセリングの事例を通じて─
…………………………………………………………………………小 川 憲 治………1
5
リベット工のロージーと女子挺身隊
―女子労働力戦時動員にかんする日米比較試論―
…………………………………………………………………………京 谷 栄 二………2
5
竹内好と魯迅、毛沢東 ……………………………………………………佐 々 木
!………45
知的障害者更生施設Aにおける宿泊旅行の取り組み
―利用者が宿泊旅行を主体的に選択するために―
…………………………………………………………………………鈴 木 政 史………5
9
立法の多様化と議会審査制度
―我が国における委任立法統制のあり方をめぐって―
…………………………………………………………………………田 中 祥 貴………7
3
<研 究 ノ ー ト>
市町村におけるデイケア活動の効果に関する一考察
―スタッフから見た効果―
……………………………………………………高 原 優美子・栗 原 浩 之………8
5
「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向けた
基礎的枠組み定立に関する研究
………………………………合 津 文 雄・海 野 恵美子・野 口 友紀子………8
9
<2006年度長野大学地域研究・一般研究助成金による研究報告>
(研究A)
シリコンバレーにおける先端産業の発展要因
──A.ザクシニアンの研究──
………………………………………………………………………京 谷 栄 二………1
0
3
東京都における市場化テストの歴史的位置とその論点 ……………久保木 匡 介………1
1
1
都市の空間と「観光資源」からみる地方都市の
周知なき課題についての研究
………………………………………………………………………小長谷 悠 紀………1
1
7
佐久鯉の稲田養鯉復活運動をめぐる地域環境学 ……………………佐 藤
哲………1
2
3
情報通信技術を利用した教室環境の双方向化に関する検討と構想
………………………………………………………………………平 岡 信 之………1
2
7
業界企業へのニュービジョンの提起とその際の課題 ………………森
俊 也………1
3
1
(研究B)
町村合併後の新上田市における国保・介護保険運営と
「健康で元気なまち創り」について
…………………………………………………海 野 恵美子・野 村 健一郎………1
3
9
(研究C)
流域環境保全の科学・倫理・政策 …………徳永 哲也・佐藤
哲・久保木匡介………1
4
5
長野大学紀要
第2
9巻第2号
1―1
4頁(1
0
3―1
1
6頁)2
0
0
7
職場のメンタルヘルスと精神障害者の就労支援
──精神障害者の院外作業を通じて──
Occupational Mental Health and Support of Persons
with Psychiatric disorders
上
平
忠
一*
UWADAIRA Chuichi
端
田
篤
人**
HASHIDA Atsuhito
来、統合失調症の就労について関心がもたれてい
目 次
る。
Ⅰ
はじめに
Ⅱ
対象と方法
スに従事し、その治療とリハビリテーションを実
Ⅲ
症例提示
践してきた。私たちの先行研究を述べると、精神
症例1.52歳、男性、統合失調症(鑑別不能
科病院における入退院実態9、10)、外来実態の調査
私たちは、これまで精神障害者のメンタルヘル
研究12)、あるいは精神科病院に長期に入院してい
型)F20.
3、糖尿病
症例2.65歳、男性、統合失調症(破瓜型)
援の在り方について報告2)を行ってきた。最近で
F20.
1、気管支喘息
症例3.55歳、男性、統合失調症(破瓜型)
の役割について発表をしてきた13)。
考察
!
"
広義の意味での職場のメンタルヘルスは、一般
精神障害者の作業療法について
統合失調症の院外作業および就労支援、
健康人の職場における精神的健康の保持向上、保
持増進、予防を意味している。職場の急激な変化
メンタルヘルスについて
Ⅴ
は、統合失調症の精神科リハビリテーション・生
活支援をめぐって地域精神保健における民生委員
F20.
1、高脂血症
Ⅳ
る患者の実態調査11)や精神障害者に対する就労支
は1990年代以降のバブル経済の崩壊後に顕著と
おわりに
なってきている。グローバルな企業間競争が熾烈
¿ はじめに
を極め、競争原理が支配する社会が到来してい
メンタルヘルスは狭義の意味で大きく分けて次
る。島8)は労働者のメンタルヘルスの現状と課題
の3つに大別できる。1つ目は第1次予防と呼ば
のテーマにおいて、以下のような急激な変化を列
れる精神障害の発生の予防であり、地域内の精神
挙し、今後のメンタルヘルス対策を論じている。
障害の発生率を減らすことである。2つ目は第2
1)雇用システムの変化:終身雇用制・年功序列
次予防と呼ばれる精神障害の早期発見と再発予防
制の終焉
であり、地域内の精神障害の有病率を下げること
2)人事評価システムの変化:アメリカ型の人事
である。最後に第3次予防と言われる精神障害者
評価の導入である、成果主義がより強いストレ
のリハビリテーションによる社会復帰の促進があ
スと過重労働をもたらしている。
る。2006年に障害者自立支援法が施行されて以
3)組織形態の変化:経営効率を重視した結果と
*社会福祉学部教授
**社会福祉学部講師
― 1 ―
1
0
4
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9巻第2号 2
0
0
7
して、組織には一層のフラット化とスリム化が
とるという労働者の側面が生じる。したがって、
みられる。ストレスへのバッファーとして機能
賃金の問題や労働災害の場合の責任の所在や補償
し、見守り、助言していた管理監督者が減少し
をどうするかを充分に検討しておくことが大切に
た結果、個々の労働者にはストレスがより直接
なる。
的に受けやすい構造となった。
À 対象と方法
4)働き方の変化:フレックス制の採用、裁量労
精神科病院に長期間在院した患者のなかで筆者
働制、派遣社員、請負社員
5)仕事内容の変化:産業構造が二次産業から三
の一人である上平が主治医として詳細に診察を行
次産業に移行し、工場での「ものづくり」から
い、ICD‐10により統合失調症の診断基準を満た
「サービス」に変わってきている。つまり、コ
し、入院中に院外作業を実施した症例3例を対象
ミュニケーションを要する職務内容になってき
として検討した。調査の方法として、直接の診察
ているといえる。
および病院の診療録や看護記録、ケースワーカー
6)仕事の場の変化:職場が工場からオフィスへ
記録を用いた。これらの症例について、性別、年
と移っている。最近では、在宅勤務も増えてき
齢、診断名、発病年齢、初診時状態、入院回数、
ている。こうした勤務形態は、労働者の一層の
入院期間、就労様態、職場変更回数、就労期間、
孤独化やコミュニケーションの不足を招いてい
就労内容などについて調査を行った。
る。
Á 症例提示
7)仕事仲間の変化:非正規社員が増加し、既に
日本の労働者の約1/3を占めるに至っている。
一般的に、正規社員に比べて非正規社員は、給
ここに院外作業を実施した3症例をプライバ
シー保護に配慮しながら詳しく提示する。
与などの労働条件において格差があり、そのこ
とが人間関係に影響を及ぼして、チームワーク
症例1 52歳、男性、無職(図1)
【診
断】
統合失調症(鑑別不能型)F20.
3、
のコミュニケーションが減少の一途をたどって
【生活歴】
地方都市に同胞4人の第2子として
いる。
出生。地元の小・中・高等学校(商業科)を中の
がとりにくいといった状況が生まれている。
8)対人関係の希薄化:IT 社会になり、対面で
糖尿病
9)技術水準(スペック)の変化:最近、正規社
上の学業成績で卒業。中学時代は、新聞配達のア
員に求められる技術水準(スペック)が高度に
ルバイトをして頑張っていた。高校時代には、演
なってきている。定期的な業務や簡単な業務は
劇部に入り、芸能人にあこがれ、親の反対を押し
派遣社員等の非正規社員が行うことになってき
切って、東京の演劇関係の学校を数校受験し、失
ている。
敗している。高校を卒業し、通信関係のアルバイ
このような職場の環境や構造の変化が職場ストレ
トを約1年間していた。
スとなり、一般健常人ばかりではなく、精神障害
病前性格:おとなしい、無口、小心、わがまま、
者に対する大きな変化を生じさせていると思われ
強情。
る。
【家族歴】
精神神経疾患の遺伝的負因はない。
【既往歴】
小学校時代、副鼻腔炎の手術。31歳
今回、私たちは精神障害者が精神科病院に在院
中に、地域にある病院外職場に出勤し作業を行う
と34歳の時に、痔瘻の 手 術。3
8歳、胃潰瘍の治
院外作業と呼ばれる人たちを対象として、院外作
療。
業のもっている機能や課題を調べる目的で本研究
【入院歴】
を行った。但し、院外作業を行う場合には、次の
回の入退院歴を有する。
2つの側面を慎重に配慮する必要がある。医療費
【現病歴】
高校卒業後19歳の時に、発症し、7
の支給を受けて入院加療中の患者が治療として作
19歳の春頃から、不眠が出現する。同時に、
業を行うという側面と、労働を提供し報酬を受け
「テレビを壊せば、時間が止まる」と時計やテレ
― 2 ―
上平忠一・端田篤人
年
齢
医
職場のメンタルヘルスと精神障害者の就労支援
療
1
8
1
9∼2
0
労
社 会 生 活
通信関係のアルバイト
年
A病院1回目入院
1 高校卒業、自宅
6ヶ月
2
0
2
1∼2
2
就
関西の装飾品卸会社
月
A病院2回目入院
1年5ヶ月
2
4∼2
5
A病院3回目入院
7ヶ月
2
5∼3
4
A病院4回目入院
6年7ヶ月
2
2∼2
4
スーパーストア
2ヶ 関西地区
2ヶ月
(2
5)
外勤;D製作所 1.
5ヶ月
(2
8)
外勤;E作業所
(3
0)
外勤;E作業所
1月
(3
0)
外勤;F鋳造
3ヶ月
(3
2)
外勤;G工業
3ヶ月
(3
3)
外勤;Hリース
3ヶ月
外勤;I寿司
2ヶ月
パート;I寿司
2ヶ月
(3
4)
外勤;J電業
2ヶ月
(3
5)
∼(3
8)
外勤;k精工
5年
(3
3)
3
4
B病院入院
2ヶ月
A病院5回目入院
6年3ヶ月
3
4
3
4∼4
1
(4
1)
外勤;I製作所
4
1∼4
3
I製作所
4
3
アルバイト
L管工
1ヶ月
1年1
0ヶ月
図1
自宅
市営住宅
4年5ヶ月
アルバイト
DC(デイケア)
A病院6回目入院
自宅
市営住宅
4
6∼5
0
5
2
中部地区
7月
DC(デイケア)
4
3∼4
6
5
0∼5
2
10
5
市営住宅
市営住宅
6ヶ月
症例1のライフサイクルからみた医療、就労、社会生活
ビを破損する。あるいは「仙人になろう」と思っ
が通じてしまう」
て近くの裏山に住むなど行動異常が出現した。
幻聴、支離滅裂思考、自生観念、作為体験、思
同年4月に、家人の要請により、第1回目の入
院となる。
考伝播、考想察知、興奮、空笑など多彩な精神症
状が認められ、緊張病性興奮状態であった。半年
このときの訴えは、次のようである。
後に軽快退院した。
「音がいろいろに聞こえるし、匂いもいろいろに
臭う」「電波のようなものが体に入ってきて、楽
しい」
20歳の12月頃から、関西にある装飾品卸会社に
数ヶ月間勤める。
21歳の5月末、数日間前から1日2―3時間し
「心の中で質問をすると、こうもりの声が聞こえ
る。こうもりの乗り移っている人は態度でわか
る」「自分のやっていることが、他の人にさせら
か眠れず、食欲不振が出現してきた。
21歳の6月、父親と受診し、自ら希望し2回目
入院となった。
れている感じ」「自分で予想もしなかった考えが
急に浮かんでくる」
「他の人の考えていることが
入院時所見は、抑うつ感情、自己卑下感、関係
被害妄想、思考伝播が認められた。
分る。また、テレビで写っている人と自分の意思
― 3 ―
2回目入院中の経過については、豊富な異常体
1
0
6
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
験を積極的に訴える時期が比較的長く波状に続い
33歳の7月、G工業が会社の都合で中止とな
たが、入院1年後には頑固な不眠を伴う自生観念
る。Hリースに変更し院外作業を続け、院外作業
の症状に収斂した。入院中に体重の増加(15kg)
に参加している間も、自生観念は持続し、不眠が
を示し、自生観念を残しながらも日常生活に支障
出現した。自生観念が強まると、苦痛を訴え、院
を認めずに退院した。
外作業を休むパターンがみられた。
23歳の12月より、中部地方にあるスーパースト
33歳の6月、I寿司に院外作業開始。疲労感を
アに入社した。投薬は郵送にて行なわれ、たまに
訴え、院外作業を休むことが多く、持続性に乏し
本人が診察を受けていた。その間、異常体験は減
かった。
少していた。
34歳の8月下旬に、B病院外科に肛門周囲膿瘍
24歳の3月、再び、不眠、自生観念が強まり、
勤務できないと会社を辞めて、帰郷した。
の手術のために転院し、2ヶ月間入院した。
35歳の1月から再びI寿司にパートとして勤務
24歳の4月末、3回目入院となる。入院時所見
する。
は、ほとんど疎通がとれず、思考伝播や幻聴が認
35歳の3月に入り、不眠、生活リズムのパター
められ、幻覚妄想状態を呈した。入院1ヵ月後、
ンの崩れ、仕事の段取りができなくなり、ボーと
異常体験は減少し、落ち着いてくる。
していることが目立ち、同年3月中旬に5回目入
入院半年後、父親の強い希望により、不完全寛
(注1)
解状態
で退院する。
院となる。5回目入院時の所見は、診察中に顕著
な途絶を伴う自我漏洩現象を呈し、自我障害を認
25歳の1月末、父、同胞と一緒に外来を 受 診
めた。その背後に、人格水準の低下を示した。
し、4回目入院となった。
ここで、5回目入院後の経過の概略について院
入院前日は、家を飛び出して、Z村まで行き、
外作業を中心に述べる。
全く知らない人家に侵入し、家人に連れ戻される
35歳の6月、院外作業(J電業)に参加。同年
という問題行動があった。「神 の 脳 を 持 っ て い
8月、同院外作業を中止。事業所から辞職を申し
る」「世界一偉い人間だ」「未来を想像している」
渡された。異常体験は依然として持続し、中等度
と述べ、幻覚妄想状態である。
残遺状態(注2)は継続する。
その後の6年3ヶ月間にわたる長期在院の中に
36歳の2月、院外作業再開し、K精工に半日勤
務する。
行われた院外作業の経過の概要を記載する。
入院7ヵ月後、院外作業(D製作所―旋盤、バリ
とり作業)に1∼2ケ月従事する。その間、院外
作業を些細な理由で休む。他患より借金をする。
身の回りの整理整頓ができず、ルーズで、乱雑で
36歳の4月、不眠が強いので、院外作業を1ヶ
月間休む。
36歳の5月から、月、水、金の隔日と院外作業
の形態を変更する。
外泊は年2回、主として盆と暮れに自宅に2泊
ある。女性に関心が強く、看護師を馬鹿にする言
3日で行なっている。
動がみられた。
28歳の10月、院外作業で、7ヶ月間にわたり E
38歳の7月、主治医から退院の話が出る。しか
し、退院後の家族の受け入れについては消極的で
製作所に行く。
29歳の10月、E製作所に院外作業再開。1ヵ月
ある。両親は兄夫婦に気兼ねし、とくに兄嫁に気
後に、辞める。同院外先で、「動作が遅い」と注
を使っている。父は自立をして生活いくように、
意される。「体が疲れるのに、注意されて、仕事
退院しても、実家に帰ってこないように本人を説
をやめたい」という。肉体的疲労と、人間関係の
得している。
このように、とくに親子の世代交代が進んだ後
悩みで院外作業を辞める。
30歳の4月、F鋳造に院外作業を再開する。作
業現場では、怪我をしやすく、火傷が多かった。
32歳の3月、院外作業所の変更し、F鋳造から
に家族の受け皿の脆弱化が顕著である。
39歳の2月、院外先の本人の職業評価は低い
が、本人は認識していない。
①会社に出勤してすぐにトイレに入り、30分以
半日勤務のG工業になる。
― 4 ―
上平忠一・端田篤人
職場のメンタルヘルスと精神障害者の就労支援
上こもっている。
1
0
7
合計入院期間は約16年に達する。その中で、院外
②仕事中も、しばしば3
0分以上喫煙をしてい
作業に従事していた期間は6年10ヶ月に及ぶ。
る。
現在も、異常体験が存続し、糖尿病を合併した
③仕事の効率は悪く、動作や手の動きが遅い。
中等度の残遺状態を示している。
39歳2月中旬、院外作業(K精工)が中止とな
4)ここで、本人の生活のしづらさを検証してみ
る。
る。
39歳の5月、職安経由で、I製 作 所 に ケ ー ス
①一般的就労が出来ず、社会生活を行なってい
ワーカーと一緒に面接。その結果、職場見習とい
る時にも、アルバイト程度の仕事しか従事で
う形で、雑役の仕事(ダンボールの組み立て)に
きなかった。生活の経済的基盤が出来ず、不
従事する。
安定な経過を示す。
39歳の6月下 旬 に、自 宅 か ら I 製 作 所 に 就 職
②対人関係では、被害的な考えが出現しやす
(パート)するために退院となる。
く、孤立しやすく、スムーズな人間関係を結
43歳の2月に、兄よりアパートに出ることを勧
ぶことが困難である。
められ、その後、市営住宅に1人での生活が始ま
③日常生活では、単身生活のために、食事管
り、A病院 DC(デイケア)に参加する。
43歳の4月
理、服薬自己管理、金銭管理など不十分であ
約2年勤務したI製作所を退社す
り、支援が必要である。
る。
④家族の支援では、世代交代のために得にくい
その後は、清掃作業、パチンコ店、設備業、郵
状況が出現している。
便物配達と多くの職場を転々とし、仕事は長続き
⑤再発が目立ち、成人に達してからの34年間の
しなかった。その間、異常体験が継続し、思考伝
人生のうち、16年47%が入院生活である。
播、自我漏洩現象を認めた。A病院の DC(デイ
ケア)は継続している。一方、1人暮らしのため
症例2 65歳、男性、無職(図2)
に、食事の管理、服薬自己管理、金銭管理が不十
【診
分であった。
管支喘息
断】
統合失調症(破瓜型)
(F20.
1)、気
43歳の10月、糖尿病の発症、治療を開始する。
【生活歴】
46歳の12月
本人がアルバイト先を探し、L管
男として出生し、下に妹2人がいる。地元の小・
工にアルバイトで勤務。その後、数年間、同設備
中・高等学校を中の上の学業成績で卒業。18歳頃
会社に雑役婦のような勤務していたが、会社の成
に、B製作所に勤務する。31歳頃に、見合い結婚
績が不良となり、50歳の時に解雇を言いわたされ
をした。36歳時に、協議離婚し、子ども2人は妻
る。
側に引き取られ、妻たちは母子寮にて生活を送
52歳の6月
P農園に1−2週間アルバイトで
働く。
52歳の10月
A県の地方に同胞3人の第1子、長
り、その後音信不通である。
病前性格:おとなしい、無口、小心、神経質(統
サラ金の借金と結婚詐欺にあい、
合失調症気質)。
借金130万円の返済催促の電話に怯え、入院を精
【家族歴】
神保健福祉士から勧められ、7回目入院となっ
の子どもである姪が統合失調症にて精神科病院に
た。現在、入院中である。
入院歴を有している。
【入院歴】
精神神経疾患の遺伝的負因では次妹
高校卒業後20歳の時に、発症し、10
症例1の小括
回の入院歴を有する。
1)52歳の男性、無職、入院中。
【既往歴】
2)診断は統合失調症(鑑別不能型)。
【現病歴】 20歳頃から、不眠、関係被害妄想、
3)現病歴:
幻聴が出現し、会社を休みがちとなり、第1回目
特記事項なし。
19歳頃に、幻覚妄想を伴う緊張病性興奮状態で
精神科病院および23歳のときに第2回目措置入院
発症する。その後、7回の入退院歴を有し、その
となる。その頃、電気ショック療法、インスリン
― 5 ―
1
0
8
長野大学紀要
年
齢
医
療
1
8
2
0∼2
1
第2
9巻第2号 2
0
0
7
就
労
B製作所
A病院1回目入院
1年5ヶ月
A病院2回目入院
1年1ヶ月
1年
2
2
2
3∼2
5
自宅
2
5∼3
8
町工場数箇所
3
1
自宅
見合い結婚
3
6
3
8∼4
0
協議離婚
A病院3回目入院
3年4ヶ月
外勤:C製作所
3年間
4
0∼4
3
4
3∼4
7
自宅
A病院4回目入院
食品関係
2ヶ月
D製作所
2ヶ月
アパート生活(関東地区)
3年5ヶ月
外勤:D電子工業
ヶ月
4
8∼5
1
自宅、家出
A病院5回目入院
3ヶ月
5
2
A病院6回目入院
2週間
5
2
A病院7回目入院
2ヶ月
自宅、上京
DC(デイケア)
E製菓
1ヶ月
F食品製造
数ヶ月
Hクリーニング
5
7
A病院8回目入院
5
8∼5
9
保健所の関与
5
9∼6
0
B病院入院
6
0
1年3
保健所の関与
5
1
5
3∼5
7
社 会 生 活
高校卒業、自宅
1ヶ月
4ヶ月
自宅
1年間
A病院9回目入院
中部地区の都市
5ヶ月
6
0∼6
5
生活訓練施設
図2
症例2のライフサイクルからみた医療、就労、社会生活
ショック療法を受けた。
することが決められ、退院に至った。
退院後、一時町工場に勤務し真面目に働いてい
たが、長続きせず職場を転々としていた。
1年後に、些細なことで社内対人トラブルを起
こし、同製作所を退社する。
38歳から、絶えず小声でぶつぶつつぶやき、自
43歳の7月頃から、自宅の物置き場にて、1人
室に閉居し、外に出ない。第3回目同意入院をす
暮らしをはじめ、家人や他人との交渉を嫌がり、
る。妄想、幻聴、連合弛緩、病識欠如、社会性関
自閉的な生活を送る。時々空笑がみられた。第4
心の低下、独語を認め、残遺状態である。
回目入院となった。約4年間の入院。この頃の治
3回目入院中に院外作業に従事する(C製作
所)。しかし、勤務先で無断欠勤の注意を受ける
療方針は、閉鎖病棟から開放病棟に出て、院外作
業に出るという一定の治療計画が作成された。
と、不機嫌となり作業をさぼる点がみられた。入
47歳の頃、気管支喘息に罹患。
院3年後の春、父親の面会時に、今後の治療方針
48歳のときに、
「夫が寝たきりなり、その看病
が立てられ、本人、職員、院外先の事業所の三者
が大変」と母親の強い希望で、退院となる。
が話し合い、①服薬を規則正しく行ない、外来通
退院後、約1年は外来に通院していた。しかし、
院をすること、②院外先の職場に規則正しく通勤
1年後、受診しなくなる。
― 6 ―
上平忠一・端田篤人
職場のメンタルヘルスと精神障害者の就労支援
1
0
9
51歳の5月、本人は家出をして、上京し、母親
58歳の12月に、妹2人が相談来院する。その日
から捜索願が提出された。その2日後に、大都会
の午後に、主治医たちが本人宅を訪問するもの
の銀行で貯金を引き出そうとして、F市のA町支
の、居留守であった。
店に問い合わせがあり、家族からの捜索願に基づ
59歳の年3月に、中部の大都市に自家用車で出
いて、S警察署に保護され、妹が身柄を引き取り
かけるが、途中でガス欠となり、路上駐車の車を
に行く。
窃盗し、運転しているところをH県警に逮捕され
51歳の7月、幻覚妄想を呈し、妹夫婦に暴力を
振るい、警察に保護されて5回目入院(医療保護
入院)となった。3ヶ月の入院中に、父親が死亡
する。
る。その地の精神科病院に措置入院となった。
60歳に、同病院から精神科病院に転院し、10回
目入院となった。
61歳の8月、自宅への退院前に、社会復帰施設
52歳の1月に入り、喘息が悪化し、不眠、「頭
を利用する方針をとる。
が踊ってダメだ」「頭の中身を も み 取 ら れ る 感
その理由は①本人が退院に強く希望していたこ
じ」と体感異常を訴え、同月23日(52歳)に本人
と、②母親が死亡し、妹2人は本人を引き取って
から希望して6回目入院の休息入院(2週間)お
面倒を見ることは出来ない、③本人の住める自宅
よびその年に2ヶ月の入院となった。
はあるが、本人1人では管理できない、④妹たち
退院後は、同精神科病院 DC に月に多いときに、
の希望は、本人が日常生活を規則正しく送れるよ
14∼15回参加する。職業適性検査のよれば、軽作
うに、社会復帰施設に入所して訓練をしてほし
業、簡易な技能、販売の仕事がかろうじて適任で
い。
あるという。その間に、職場を転々とする(製菓
業、製造業、クリーニング店)。
61歳の9月に、社会復帰施設生活訓練施設(C
援護寮)に入所となる。
56歳の8月頃から、怠薬をし始める。この頃か
ら、早朝覚醒が出現し、易怒的となり、母親との
【社会復帰施設(精神障害者生活訓練施設)での
経過について】
会話が少なくなり、仕事に行かなくなり、休む日
X年9月、服薬自己管理を勧める。
が多くなって自閉的な生活を送るようになる。ま
X+1年2月、妹(キーパーソン)宅に2泊3
た、母親の要請により、病院の PSW(精神保健
日の外泊をする。
福祉士)が訪問看護を実施する。しかし、突然
に、上京し、都内では、簡易宿泊施設に泊まり、
この頃、同室の T.N 氏に対して不平不満を述
べ、部屋換えを行なう。
仕事もせずに、無為・自閉の生活を送っていた。
57歳の8月、アパートの壁を叩いたりする奇行
X+1年9月、退所の希望がある。退寮にむけ
て支援をする。
が出現し、アパートの大家から妹に連絡が入る。
①服薬自己管理、薬の名前を覚える。
妹たちが上京をし、本人を当院精神科に受診さ
②食事の管理(自炊)など日常生活技能の支援
せ、同病院に第8回目入院となった。
X+1年11月、午後になると疲労感が出現しや
3
入院時血液検査で、赤血球数2
30万/mm 、ヘモ
すい。
グロビン7.
7g/dl、総蛋白6.
2g/dl を示し、鉄欠乏
性貧血、低蛋白血症が認められた。
「作業に出ると、周りの雰囲気が悪い。自分は
いじめられているような気がする」
「話し掛けて
4ヶ月後に、退院するが、約2年4ヶ月間外来
通院をしない。
も、無視される」と対人関係の障害を訴え、妄想
気分や被害念慮を認めた。
この時の対応は、保健所保健師の関与や病院の
さらに、「S金属で指を怪我した。そのことが今
PSW の訪問看護を説明し、医療ルートに乗るよ
でもひびいている。神経が麻痺をし、集中力が鈍
うに指導する。
くなっている」と自己不全感、身体違和感を有し
58歳の11月に、本人は母親に暴力を振るう。母
ている。
親はその暴力を回避するためにU病院に入院し、
本人は自宅に1人で生活を送っている。
X+1年12月、「謡が聞こえてくる」と幻聴や
「自分は外国人だ、両親も外国人である」と家族
― 7 ―
1
1
0
長野大学紀要
年
齢
医
第2
9巻第2号 2
0
0
7
療
就
労
A乾物店
2
2
B製作所
8ヶ月
自宅
2
3
C印刷
1週間
自宅
2
4
D食品加工
3年
自宅
2
7
E化学工場
1ヶ月
自宅
3
0
A乾物店
1年
自宅
3
1
A病院1回目入院
3
2
A病院2回目入院 1
9年5ヶ月
5年
社 会 生 活
1
6
中学卒、自宅
4ヶ月
3
5
外勤:F電業
5
2
農作業
1年
自宅
5
3
外来通院、保健所デイケア
農作業
自宅
5
4
外来通院、保健所デイケア
小規模作業所
自宅
図3
症例3のライフサイクルからみた医療、就労、社会生活
否認妄想や来歴否認妄想が認められた。さらに、
なった。その後、同病院精神科の DC に参加す
改名を強く希望し、市役所を訪れるという行動を
る。その間に、身体的故障感や不安・緊張状態に
とる。
て短期間の入退院を繰り返す。
アナテンゾール・デポー剤やハロペリドールと
ビペリデンの筋肉注射が頻回に行なわれた。
56歳の時に、再び上京し、無為・自閉的な生活
を送っていたが、問題行動が出没し8回目入院と
X+2年4月、なお改名の拘りが続くので、援
護寮では別称の使用を許可され、使用する。
なった。この時には、身体的に低蛋白血症、鉄欠
乏性貧血を生じ、栄養不足の状態を伴っていた。
X+3年1月、自宅に社会復帰できるように、
配食サービス、服薬自己管理、金銭管理など支援
プログラムを作成し、実施している。
退院後、外来通院がすぐに中断したために、家
人の相談や主治医の訪問が行なわれた。
59歳の時に、窃盗事件を起こし、別の病院に1
年間の措置入院となった。
症例2の小括
60歳の時に、転院となり、半年後に社会復帰施
4)65歳の男性、無職、社会復帰施設(援護寮)
入所中。
設援護寮に転出した。
7)就労支援は、A病院3回目入院と4回目入院
5)診断は統合失調症(破瓜型)(F20.
1)。
期間中に院外作業の形で行われた。
6)現病歴:
精神科リハビリテーションモデルとして、開放
20歳頃に、不眠、関係被害妄想、幻聴で発症す
病棟の院外作業が位置づけられていた。
る。その後、これまでに累計10回の入退院歴を有
前者の期間の院外作業には、C製作所に約3年
し、その合計入院期間は約12年に及ぶ。20歳と23
間勤務するが、無断欠勤や会社で注意を受けると
歳頃に2回入退院を繰り返し、一時町工場に勤務
不機嫌となり仕事をさぼる傾向が見られた。ある
するが、長続きせずに、職場を転々としていた。
いは社内トラブルから退社に至っている。
31歳の時に見合い結婚し、2子を儲けるが離婚。
38歳頃に、幻覚妄想、無為自閉を呈し、約3年
後者の期間の院外作業はD電子工場の工員とし
て1年3ヶ月勤務する。
間の入院生活を送り、上京し1年半アパート生活
8)精神障害者生活訓練施設では、地域に社会復
を経て、帰郷し親と同居する。しかし、空笑を伴
帰できるようにさまざまな支援プログラムが提
う自閉的生活が出現し43歳の時に、約3年間の4
供されている。
回目入院となった。
退院後、通院が途絶え、51歳の時に幻覚妄想状
態で警察に保護され、短期間の医療保護入院と
症例3 55歳、男性、無職(図3)
【診
― 8 ―
断】統合失調症(破瓜型) F20.
1、高脂
上平忠一・端田篤人
職場のメンタルヘルスと精神障害者の就労支援
血症
1
1
1
る。
【入院歴】
①31歳の時に、4ヶ月間、②32歳か
「自分の考えが漏れるようだし、考えが伝わ
ら52歳まで、19年5ヶ月間
る。」「テレビを見ても面白くない。自分がテレビ
【家族歴】
父の兄弟に精神病者が2人いて、治
に映されている感じがする」
「隠れて何かをやら
療を受けたことがある。母方の従兄弟に気分障害
れている感じがする」
「人とうまくできない。う
にて自殺をした女性が1人いる。精神神経疾患の
まくかかわれない」
遺伝負因は濃厚である。
思考伝播、関係被害妄想、対人障害、感情鈍
【既往歴】 34歳の時
時
頸部ジストニア、36歳の
麻、自発性低下を認めた。
全身性けいれん発作
【生活史】
薬物療法、精神療法、生活療法を施行する。し
A県の農村に一人子として出生し
かし、経済的理由により退院する。
た。幼少期は朗らかで、元気な子どもであった。
本人が6歳の時に、両親は離婚した。本人は9歳
人格水準の低下が継続し、幻聴が残存してい
た。
頃まで祖母に我儘に、溺愛されて養育された。9
退院後、自宅で無為の生活を続けていた。
歳頃に、祖母が死亡し、その後母親と一緒に生活
32歳の4月以降、外来の中断。
を始め、母子家庭であった。地元の小・中学校を
卒業する。成績は中の下であった。中学時代にバ
32歳の10月に、仕事に出ようと思うが、嘔気が
出てダメだと訴えて、再診する。
レー部に所属していた。中学卒業後、1年間簿記
その時の所見は、
「人に自分の悪口を言われて
専門学校に通う。その後の勤務実態は以下のよう
いる」
「人が後からついてくる」と幻聴や追跡妄
である。
想を訴えて、希死念慮を認めた。
16歳
A乾物店に約5年勤務する。22歳
作所に8ヶ 月 勤 務。23歳
る。24歳
B製
C印 刷 に1週 間 勤 め
D食品加工に3年勤務する。27歳
化学工場に1ヶ月勤務する。30歳
年勤務する。31歳
32歳の11月に、母親に付き添われて入院する。
再入院時の所見は、眉間にしわを寄せ、硬い表
E
情で、不眠、手指振戦、徘徊を認め、
「気持ちが
A乾物店に1
落ち着かない」
「人に写されている感じ、馬鹿に
同乾物屋を解雇される。
されている感じ、いじわるされている」と焦燥感
病前性格は、内気、非社交的、無口、嫌人的、
や関係被害妄想を訴えた。幻聴や思考障害(思考
引込み思案。
途絶)、自我障害(思考伝播、思考奪取)、抑うつ
【現病歴】
気分が認められた。
21歳頃に仕事に飽き、職場において会社の人び
薬物療法、精神療法、生活療法を実施するが、
とからいろいろ言われるといった関係被害念慮が
入院生活が長期化した。その間、母親は退院を希
出現し、それまで5年間勤務していたA乾物店の
望するが、本人は自信がないと退院を渋ってい
倉庫係りを辞職する。
る。あるいは、退院を勧められるが、
「家に行く
その後、自宅で無為に過ごしていることが多
い。
と幻聴が強まる」からと退院を渋る。対人関係は
消極的で、集団生活の中に溶け込むことができな
時々、職に就くが長くて3年、短い時は1週間
い。
と職場を転々としていた。
薬物療法では、フェノチアジン系薬物をはじめ
31歳の3月、自宅前に、送電線の鉄塔が 立 つ
として、ブチロフェノン系薬物など定型抗精神病
と、「こ ん な と こ ろ に 住 め な い」と 言 い 出 し た
薬を使用した。5
2歳の時に、非定型抗精神病薬オ
り、弁当を持って家を出るも、会社に出ていな
ランザピンを投与されて、幻覚妄想状態が改善し
い。出社拒否を示す。
退院に至った。
同年4月に、A乾物店を解雇される。
在院中は3
5歳の時に、院外作業(F産業に1年
31歳の5月にA病院精神科に第1回目入院とな
る。
間、単純作業)に従事していた。しか し、そ の
際、状態の悪化を示し閉鎖病棟に転棟した。ま
入院時所見は、幻覚妄想を伴う欠陥状態であ
た、調子のよいときには、OT(作業療法)、SST
― 9 ―
1
1
2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
(生活技能訓練)に参加する。
れる。最近では、ジグソーパズルやパソコンゲー
現在、残遺状態を残しながら、外来通院をして
いる。その傍ら、自宅近くの小規模作業所に通勤
ムなども行われ、さらに調理実習や音楽療法など
が取り入れられ多種多彩に展開されている。
し、週に1回保健所のデイケアに参加している。
920年代、ドイツの Simon,
大月ら6)によれば、1
高齢の母親は、認知症が発病し、最近、デイサー
H. は作業療法を体系化し、積極的活動療法 ak-
ビスに通所している。
tivere Krankenbehandlung とよび、①無為好褥の是
正、②病的思考の転導、③健康部分の助長、④勤
症例3の小括
労意欲への関心、⑤生活秩序の維持を強調し、社
1)55歳の男性、診断は統合失調症(破 瓜 型)
会性・責任性の獲得を意図した。また、アメリカ
では1956年、全米精神療法協会(AOTA)によっ
(F20.
1)である。
2)31歳の時に、短期間入院した。32歳の時に2
て、作業療法とは「精神力動に基づき、活動(作
回目入院し、約20年間継続して在院していた。
業)を媒介として治療的人間関係を促進される精
3)52歳で、退院し、現在まで、3年間外来通院
神療法の一種である」と定義されたという。
作業療法の適応は、統合失調症が最もよい適応
中である。
4)現在の状態は、統合失調症性残遺状態であ
である。近年は人格障害や不登校、学習障害や自
り、幻聴体験は背景に後退し、意欲低下、感情
閉症などの発達障害、さらにうつ病や神経症性障
鈍磨などの陰性症状が前景に出ている。
害、心身症などへの治療として行われている。
5)治療は、薬物療法と個人精神療法および生活
松井5)は作業療法の治療構造の特長について、
療 法 で あ る。薬 物 療 法 で は、ジ プ レ キ サ20
「作業という非常に変化に富んだ媒体を使うとい
mg、ベゲタミン A を使用し、個人精神療法で
うこと、面接室に固定された構造ではなく、場の
は、支持的精神療法を実施している。
移動範囲が大きな広がりを持っているというこ
6)小規模作業所、保健所デイケアなどの保健福
や表現が多用されるということであろう」と述べ
祉サービスを利用している。
ている。そして、作業療法の治療構造を規定する
 考 察
!
と、言語的交流も使うが、主として非言語的交流
5つの因子として、①時間の問題、②治療者と被
精神障害者の作業療法について
治療者の関係、③物理的条件、④作業、⑤個と集
今日の精神科治療の3本柱として薬物療法、精
団を列挙している。
神療法および作業療法が行われている。私たち精
"
それによれば、まず、①時間の問題として、
#一回のセッションの
$どの位
神科医が最も一般的に実施している治療は主に薬
週何回やるかという頻度、
物療法と精神療法である。しかし、長い歴史1)の
どの位の時間を使うかという治療時間、
ある作業療法が軽視されてよいという理由にはな
の期間を予定するかという治療期間の3つがあ
らない。ここでは、作業療法について言及する。
る。
作業療法は作業(occupation)と作業活動(ac-
次に、②治療者と被治療者の関係を考える場
tivity)を通じて病状の改善や生活能力の向上を
合、現実的な役割に基づく関係と、被治療者の心
目指す治療法であり、生産的作業、創作的作業、
内界に描かれている空想的なイメージと治療者と
構成的作業を中心とする諸活動を指している。一
の複雑な絡み合いによる関係を考えなくてはなら
方、広義の作業療法は、生活指導やレクリエーシ
ない。どちらの場合も、治療者と被治療者との間
ョン療法などを含む生活療法と同義語である。
に信頼関係が樹立していることが不可欠である。
生産的作業には箱折り、箱作り、袋張り、園
③物理的条件として、作業療法が病室で行われる
芸、農耕、印刷、木工、皮革細工、電気部品組立
か、病棟内の他の場所で行われるのか、あるいは
てなどがある。創作的作業には絵画、彫刻、陶
屋外、棟外作業室でやられるかによって、治療
芸、染色などの芸術的種目がある。また、構成的
者、被治療者の心理に異なった影響を与え、結果
作業とは、編み物、織物、手芸などの活動が含ま
として作業過程に影響を与える。④作業について
―1
0―
上平忠一・端田篤人
職場のメンタルヘルスと精神障害者の就労支援
1
1
3
は、作業療法が作業を媒介にした治療であるの
所、工場)に定期的に出勤し、作業を行う精神科
で、作業療法の治療構造の中心課題となる。松
治療の一形態であり、外勤作業とも呼ばれてい
5)
井 は以下のように作業の性質を10の観点から記
る。院外作業の場所や種類は精神科病院が所属す
載している。
る地域の事情によって異なる。
1)治療者と被治療者の物理的距離
私たちは院外作業の治療的位置づけに関し、入
2)治療者に対する依存性
院治療における就労支援のひとつとして把握し援
3)作業過程の複雑さ
助を行ってきた。但し、個別性を重視し、画一的
4)作業の広がり
治療に陥らないように配慮を十分にとりながら実
5)作業に要求される速度
施してきている。これまでの私たちの精神障害者
6)作業の結果
に対する院外作業の仕方についてみてみる。
7)作業の社会的意味と個人的意味
多くの統合失調症の症例において、入院してく
8)道具および材料
ると、まず閉鎖病棟に入り、心身の休養を主な目
9)作業の方向性と性質
的として薬物による鎮静療法が治療として実施さ
10)作業の中での言語的交流
れ、精神的に落ち着きを示してくると開放病棟に
最後に、⑤個と集団について考察を加えてい
転棟する。開放病棟において、完全寛解に達する
る。それによると、1)集団成員数、2)集団の
場合を除けば、院内寛解例や不完全寛解で症状が
閉鎖性と解放性、3)成員の等質性、4)集団内
ある程度改善した慢性症例に対する就労支援とい
交流の方向と質、5)集団間の交流、6)集団に
う形で、院外作業に従事させることをリハビリ
対する個人の態度、7)集団の目標、8)集団標
テーションモデルとして実践してきた。このリハ
準と価値を指摘し、集団の性質、個人と集団の関
ビリテーションモデルが社会的入院に対する大き
係、その治療的意味等を検討する機会を設けるこ
な対応策のひとつであると提供してきた。社会的
とである。
入院とは、治療により症状が改善し、入院してい
また、作業療法の治療過程は、治療者と被治療
る必要のない状態になっているものの、地域に受
者の交流と、作業を媒介とした操作と反応等が複
け皿がないために退院できずに入院を余儀なくさ
雑に力動的に絡み合って発展していく過程であ
せられていることをいう。
る5)。したがって、それを検討するために、評価
まず、院外作業の手順について記載する。
と目標と働きかけを行い、治療過程の捉え方、作
業種目の選択が重要となる。
!
本人の心身状況を考慮に入れて、作業に従事で
きる患者に対して、主治医の要請により、PSW
が働きかけて、本人の承諾を得て、外勤作業所の
統合失調症の院外作業および就労支援、メ
ンタルヘルスについて
見学を行い、主治医の許可を得て院外作業が開始
される。
職場のメンタルヘルスのひとつとして、精神障
次に、具体的な手順として、
"
#
$
%
&
'
3、
7)
害者の就労支援は重要である
。その場合、精神
障害者が休職する時の支援、休職中の支援、そし
て復職する時の支援が必要になる。さらに家族に
対する支援も配慮しなくてはならない。もちろん
就労支援以外にも、精神障害者単身生活者の支
援、住居福祉支援など地域生活支援を同時に考慮
していかなくてならない。
対象者の選別
対象者への働きかけ、
事業所の見学
事業所との面談
事業所への通勤
外勤開始後、作業状況の把握、確認
があげられる。
ここで、統合失調症の院外作業について論述し
事業所の開拓は、精神保健福祉士(PSW)の
てみよう。院外作業はある程度以上に症状が改善
役割であり、事業所の選択に当たり、留意すべき
した患者を対象に、社会復帰を目的として精神科
項目は、ア
病院に在院しながら、地域に存在する職場(作業
が患者に当てはまっていること、ウ
―1
1―
病院から通勤できる距離、イ
仕事
職場の安全
1
1
4
長野大学紀要
性、エ
第2
9巻第2号 2
0
0
7
事業所が精神障害者に対して理解がある
に、睡眠や食事も規則正しく整えなくてはい
ことが指摘できる。
けない。
また、院外作業の課題と限界として、
ア
2.職場になじむ身じまい、マナー、常識的な
新規事業所の開拓、確保、維持および事業
行動を身につける。仕事の内容に直接関係の
の安定的確保。
イ
ない場合でも、TPO を心得た勤務態度が望
患者側の問題として、院外作業に長期にわ
まれる。
たり従事し、退院に結びつかない事例が存在
3.出退勤などがルールどおりにでき、休み・
する。これらの人たちはあたかも院外作業寛
遅刻早退時の事前の連絡や仕事の報告ができ
解群といえるような一群がある。院外作業に
る。
従事することが必ずしも退院に結びつかない
4.仕事を覚えようという意欲、失敗してもメ
という限界がある。
ウ
ゲない気力を育てる
低賃金である。小遣い程度の金銭しか取得
この4つの中で、最も難しい項目は4の意欲を
できず、地域で生活するのは不十分な額であ
高めることであるといい、障害者の支援にあたる
る。
人たちが障害の当事者や自分自身に対しても諦め
が指摘できる。
ず、関係を持ち続けることが就労支援に対して肝
しかし、院外作業が必ずしもスムーズに運営で
要であると指摘している。
きるとは限らなかった。職場の変更や院外作業の
ここで、本症例の院外就状況の結果を調べてみ
中断が多くみられた。そこで、症例に応じて具体
ると、表1に示したように、症例1では院外作業
的に検討してみた。
初回従事時年齢が25歳であり、職場変更回数は1
0
症例1の在院中に行われた外勤作業の中断の理
由を調べてみると、
①
に及び、その種類は製作所の工員、作業所の工
些細な理由で休む。例えば、前日不眠、疲
労感などの身体的不調感を訴える。
②
と、仕事を辞めたいという。
という。
火傷が多かった。
を訴えて、仕事を休む。
の年齢が多い。また、院外作業従事期間は症例に
無断欠勤の注意を受けると、作業をさぼ
る。
より異なるものの、年単位の長期間化を生じてい
る。このことは、院外作業に従事することによ
些細なことで社内対人トラブルを生じる。
症例3では、
①
の工員である。以上の結果が示すように、院外作
業に従事する年齢は20歳代から3
0歳代の働き盛り
症例2では、
②
従事時年齢が35歳であり、職場変更回数は1回で
ある。院外作業従事期間は1年であり、電子工業
病的体験が継続し、自生観念に対する苦痛
①
及び、その種類は製作所の工員や電気部品組み立
て工場の作業員である。症例3では院外作業初回
作業現場で、怪我をしやすく、鋳造所では
⑤
回従事時年齢が38歳であり、職場変更回数は2回
である。院外作業従事期間の合計は4年3ヶ月に
肉体的な疲労、人間関係の悩みで辞めたい
④
員、あるいは鋳造所や電気部品組み立て工場の作
業員および雑役係である。症例2では院外作業初
仕事先で、「動作が鈍い」と注意を受ける
③
回である。院外作業従事期間の合計は6年1
0ヶ月
り、新たな課題を発生していることを示唆してい
る。その課題は院外作業従事寛解とでもいえるも
精神症状の悪化による。
のであり、皮肉にも社会的入院の一つの原因と
まとめると、院外作業の中断の理由は身体的不
なっていると考えられる。その改善策のために、
調、職場内の対人関係のトラブル、精神症状の悪
地域における受け皿が早急に樹立されることが望
化(症状の不安定)の3つの大別できる。
まれている。
4)
一方、金子 は職場定着のポイントとして、具
体的な4つの項目をあげているので、紹介する。
à おわりに
1.まず働くリズムと体力をつける。そのため
―1
2―
私たちは、精神科病院に長期間在院した統合失
上平忠一・端田篤人
職場のメンタルヘルスと精神障害者の就労支援
表1
1
1
5
症例の概要
症例1
症例2
症例3
性別
男性
男性
男性
年齢
5
2
6
5
診断名
糖尿病
発病年齢
初診時状態
5
5
統合失調症
(鑑別不能型)
F2
0.
3 統合失調症(破瓜型)
F2
0.
1
統合失調症(破瓜型)
F2
0.
1
気管支喘息
高脂血症
1
9歳
2
0歳
2
1歳
緊張病性興奮状態
幻覚妄想状態
関係被害念慮、無為・自閉
入院回数
入院期間(合計)
就労様態
7回
1
0回
2回
約1
6年
約1
2年
約1
9年5ヶ月
外勤作業
外勤作業
外勤作業
院外作業初回従事時年齢
2
5歳
3
8歳
3
5歳
院外作業先職場変更回数
1
0回
2回
1回
院外作業期間(合計)
6年1
0ヶ月
4年3ヶ月
1年
院外作業内容
製作所工員
製作所工員
電子工業工員
作業所工員
電子工業工員
鋳造作業
電気部品組み立て作業
雑用係
・学校・職場・地域の精神保健』臨床精神医学講座
調症の中で院外作業を実施した3症例を取り上げ
1
8、中山書店、1
9
9
8年、3
6
7
‐
3
7
5頁
て、性 別、年 齢、診 断 名、発 病 年 齢、初 診 時 状
態、入院回数、入院期間、就労様態、職場変更回
4)金子鮎子「事業所の立場と期待」野中猛、松為信
数、就労期間、就労内容などについて調査を行っ
雄編『精神障害者のための就労支援ガイドブック』
金剛出版、1
9
9
8年、1
6
2
‐
1
6
9頁
た。私たちは院外作業を精神障害者の就労支援の
一つのリハビリテーションモデルと把握し、その
5)松井紀和編著『精神科作業療法の手引き−診断か
ら治療まで−』牧野出版、1
9
7
8年
現状と課題について検討を加えた。
6)大月三郎、黒田重利、青木省三『第5版
精神医
学』文光堂、2
0
0
3年、3
8
5頁
注
7)大西守、廣尚典、市川佳居『職場のメンタルヘル
注1) 不完全寛解とは、主に統合失調症が不十分なが
ら良くなった状態を言う。
ス−1
0
0のレシピ−』金子書房、2
0
0
6年
8)島悟「労働者のメンタルヘルスの現状と課題−今
注2) 残遺状態とは、統合失調症性障害が進展してい
く中の慢性段階であり、長期間続く陰性症状を特
徴とする状態である。臨床症状の評価および社会
後のメンタルヘルス 対 策 の 在 り 方−」精 神 経 誌
1
0
9、2
0
0
7年、2
4
7
‐
2
5
3頁
9)上平忠一、萩原愛子、合津都子「一精神科病院に
適応度から、軽度、中等度、重度と分けられるこ
お け る 入 院 実 態」上 田 市 医 師 会 報
とが多い。
年、5
‐
8頁
第1
4巻、1
9
8
4
1
0)上平忠一「一精神科病院における退院実態」上田
引用文献
市医師会報
1)秋 元 波 留 夫 編 著『作 業 療 法 の 源 流』金 剛 出 版、
1
9
7
5年
年以上継続して入院中の患者の実態」日本精神科病
2)端田篤人「精神障害者に対する就労支援のあり方
に関する一考察」長野大学紀要
第1
5巻、1
9
8
5年、5
‐
8頁
1
1)上平忠一、神津直子、西沢明子「精神科病院に2
0
第2
7巻、2
0
0
5年、
院協会雑誌
第5巻、1
9
8
5年、5
3
‐
5
6頁
1
2)上平忠一、西川登代江、竹内勝美「一精神科病院
2
0
5
‐
2
1
2頁
における外来実態」上田市医師会報
3)金沢彰「職場の分裂病」大森健一、島悟編『家庭
―1
3―
年、1
2
‐
1
5頁
第1
7巻、1
9
8
7
1
1
6
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
1
3)上平忠一「地域精神保健福祉における民生委員の
役割について−統合失調症の精神科リハビリテーシ
―1
4―
ョン・生活支援をめぐって−」長野大学紀要
巻、2
0
0
5年、3
6
1
‐
3
7
1頁
第2
6
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第2
9巻第2号 1
5―2
3頁(1
1
7―1
2
5頁)2
0
0
7
「中年福祉」の必要性と今後の課題
─中年夫婦とのカウンセリングの事例を通じて─
A Trial Study of Social Welfare for Middle-aged People
小
川
憲
治*
Kenji Ogawa
なかでも「中年」が抱える問題は深刻である。
はじめに
男女を問わず、中年期の人々は人生の半ばを迎
かねてより、筆者は、約20年間の社会福祉教育
え、体力、気力の衰えを感じつつ、職場において
や心理臨床活動などを通じて、人生のライフサイ
は管理職などの重責を担う年代であり(しかし管
クル(発達段階)からみた社会福祉の援助対象者
理職が苦手で四苦八苦している人も多い)
、また
として、「児童福祉」(0歳から18歳まで)と「老
同時に家庭や地域でも子育てや老親介護などの諸
人福祉」(65歳以上)の間で制度的にも欠落して
問題をかかえ、2重苦、3重苦の人々も少なくな
いる、青年期(19歳から30歳台半ばまで)や中年
く、潜在的にもさまざまな相談援助を必要として
期(30歳台後半から50歳代後半の初老まで)の
いる世代といってもよいだろう。しかしながら、
人々を対象とした広義の社会福祉(相談援助)活
これまで医療、保健、産業臨床、心理臨床、法律
動(「青年福祉(仮称)」、「中年福祉(仮称)」)の
相談などの分野に比べ、社会福祉の分野において
必要性を折に触れて感じてきた。これまで、社会
は、「中年」に対する相談援助は、病気になった
福祉の対象者は、主に障害児・者、児童、老人、
り(医療福祉、精神保健福祉)
、怪我や病気で障
生活保護など、社会資源を活用した援助を必要と
害者になったり(障害者福祉)、さまざまな事情
1)
するいわゆる「社会的弱者」であり 、成人した
で働けなくなり経済的に生活が困窮したり(公的
青年や働き盛りの中年に対する相談援助は、これ
扶助(生活保護)
)しない限り、社会福祉の援助
まであまり必要性が感じられなかったのかもしれ
の対象外であったように思われる。しかしながら
ない。しかしながら、近年の都市化、核家族化、
現代社会においては、従来の社会福祉ではカバー
少子化、高齢化、IT 化など社会の急激な変化と
できなかった職場、家庭、地域の(少子化、高齢
共 に、「青 年」の 登 校 拒 否、引 き こ も り、ニ ー
化の問題を含んだ)諸問題を総合的にケアし、中
ト、出社拒否、摂食障害、抑うつ、共依存、ドメ
年期の人々が幸せで豊かな人生を実現するための
スティック・バイオレンス(DV)などの問題、
広義の社会福祉活動(「中年福祉」)が必要と思わ
「中年」の出社拒否、帰宅拒否、パワーハラスメ
れる。
ント、リストラ、神経症、うつ病、アルコール依
本稿では、筆者がこれまで臨床心理士(カウン
存症、自殺、過労死、DV、熟年離婚など職場や
セラー)として携わってきた民間相談機関での家
家庭における、青年期や中年期の問題が深刻化し
庭児童相談のカウンセリング事例、企業における
つつある。
メンタルヘルス・カウンセリングや看護師管理者
*社会福祉学部教授
―1
5―
1
1
8
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
研修等の体験、家庭児童相談研究活動の成果など
る人生の「思秋期」を迎えることになる。斉藤学
を拠り所として、臨床社会心理学(福祉心理学)
が「35歳というのは、主婦として家庭に入った女
および現象学的人間関係学の立場から、そうした
性が、職業に生きることを断念する最後の時期な
視点で、「中年福祉」の必要性と今後の課題を明
のだそうです。・・・末の子どもも自分の世界を
らかにしたいと思う。
持つようになり、ポッカリ空いた時間ができるよ
1. 中年の抱える問題と「中年福祉」の必
要性
うになって、かつての職場が懐かしく感じられる
ようになるのです。迷ったあげく仕事を諦める
と、現在の夫との生活が続くわけですが、こんな
男性にとっても、女性にとっても、35歳くらい
ことでいいのだろうか、とつくづく思うようにな
からの50歳台後半にかけての中年期(含む初老
ります。一体私はこの男となぜ一緒になったの
期)は、身体的変調を伴った心理的危機といって
か、この男の食事を用意して待つ生活に一体何の
も過言ではない。たとえば、精神科医斉藤学は
意味があるのか、と考え出すと空しくなって、食
2)
『家族依存症』の中で次のように述べている。
事のしたくもできなくなります。・・・完全癖の
「中年期にさしかかった人々の漠然とした人生へ
ある勝ち気な女性にとって、こんなふうに過ごす
の幻滅、停滞感、疲弊感、圧迫感、焦燥感などを
時間は屈辱的です。・・・もし、コップ1杯の酒
「中年危機(中年期の心理危機)
」といいます。
がこうした女性を生き返らせ、鼻歌まじりで家事
・・・ワーカホリックとして職場に過剰適応して
が進むとしたら、その女性はまっさかさまにアル
いた人が、窓際族になったり、昇進したり、同僚
コール依存症の奈落に落ちる素 質 を 持 っ て い
に先を越されたりしたことをきっかけとして、自
る。」と述べているように、アルコール依存症、
分の限界を実感し、仕事や職場に酔ったような状
ギャンブル依存症、買い物依存症などになった
態から醒める経験をすることがあります。そして
り、不倫をしたり、心の虚しさを紛らわさざるを
人生を直視するにつれて、幻滅と不安、憂鬱と無
得ない状況に陥りかねない危険性に直面している
気力に襲われます。たいていはこうした心理的障
と言ってもいいだろう。
害に頭痛、めまい、不眠などの身体的変調が伴い
臨床心理学者河合隼雄も『働きざかりの心理
ます。ワーカホリック男性の更年期障害などと冗
学』の中で、中年の危機について次のように述べ
談めかして呼ばれたり、上昇停止症候群、昇進う
3)
「「青年期問題」とか、「老人問題」に目
ている。
つ病、燃え つ き 症 候 群 な ど と 呼 ば れ た り し ま
を奪われて、中年はまったく問題がないかのごと
す。」このように、ストレスフルな職場に働く中
く扱われてきたが、中年―働き盛り―の問題はな
年男性の中年危機の問題は深刻化しているといっ
かなか深刻なのである。・・・昨年(昭和58年)
ても過言ではない。また管理職の役割を担わなく
の統計では、自殺者が若者に多かったのは昔のこ
てはならなくなった、職場のベテラン女子社員、
とであり、男子中年に自殺者が一番多いことが示
看護師、保育士、社会福祉士などの働く中年女性
されている。人間の寿命が長くなったことや、社
にとっても同様の問題(危機)に直面していると
会の変化があまりにも速くなったことによって、
いってもいいであろう。仕事と家庭の両立に奮闘
人生のなかばにおいて、一人の人間にかかってく
し、職場の問題だけでなく、家庭では、母親とし
る圧力が以前よりはるかに大となったのである。
て子どもの登校拒否、家庭内暴力、摂食障害、非
昔であれば、・・・人間の一生は誕生から死ぬま
行など子育ての問題で悩んだり、苦しんだり、妻
では、ひとつの山を越すような形をとることがで
として、嫁―姑問題や老親介護問題を抱えている
きた。ところが、たとえば、急激な技術革新が行
ケースも少なくない。
われると、中年は青年にすぐ追いこされてしまう
また子育てが一段落し、子どもが自立して巣
不安に脅かされる。・・・現代人の人生は、ひと
立った中年の専業主婦は、
「空の巣症候群」など
つの山を越すような曲線ではなく、二山も三山も
と言われる心の虚しさに苛まれたり、自身の人生
越えていくほどの覚悟を要するようになったので
の意味を問い直さざるを得なくなったり、いわゆ
ある。」
―1
6―
小川憲治
「中年福祉」の必要性と今後の課題
1
1
9
これまでこうした中年期の危機に陥った人々に
<来談までの経過(インテーク面接時に聴取)>
対する相談援助に関しては、精神科医、産業臨床
ここ数年、T 子は長女 K 子の不登校と夫 S 郎
医、企業や教員向けのカウンセラー(臨床心理
の暴君的な振る舞いと DV に悩んできた。長女が
士)などによって、医療や心理臨床の分野での取
誕生したときは、T 子が仕事をしていたこともあ
り組みが行われてきたように思われる。それに比
り、K 子は0歳から3歳まで保育園育ちであり、
べて、社会福祉の分野では、残念ながら、年々深
幼少の頃から自己主張の乏しい病弱な子どもで
刻化する、働き盛りである中年期の人々の危機に
あったという。K 子が4歳になった頃 T 子は仕
対する援助の必要性についての認識がいまだ不十
事をやめ専業主婦になり、子育てに専念したが、
分であるように思われる。職場や家庭の問題をか
両親とも教員だったこともあり、厳しく育ててし
かえ、苦悩する中年期の人々への相談援助活動に
まった。小学校3年生の頃、
「担任の先生がこわ
関しては、社会福祉の分野では、母子相談員、家
い」と訴え、たびたび学校を休むようになり(欠
庭児童相談員などによる相談援助活動(DV や虐
席は年間約50日)、その後も一進一退を繰り返
待、不登校など子育ての問題、家庭児童問題が中
し、5年生になってから、完全な不登校状態に
心課題であり、中年の親自身が主役(クライエン
陥ってしまった。いまだ夜尿も時々ある。K 子
ト)のケー ス ワ ー ク や カ ウ ン セ リ ン グ で は な
は、父 S 郎のことをすごく怖がっており、最近
い。)を除けば、
「中年危機」に対する相談援助
母 T 子が父 S 郎に殴られたとき、母親が死んで
は、これまでほとんど実践されてこなかったよう
しまうのではとすごく心配した。S 郎は数年前、
に思われる。しかしながら、今後は精神科医や臨
助教授に昇進してから、職場のストレスもあり、
床心理士との連携を図りながら、社会福祉の分野
妻 T 子に対して、急に怒り出したり、暴力を振
においても、従来の援助対象者だけでなく、苦悩
るうようになっていった。T 子も、夫に何をされ
する中年期の人々を対象とした「中年福祉」の実
るかわからないという不安から、親子で常にビク
践が必要であると思われる。
ビクして、過ごしているとのこと。S 郎の仕事
そこで次に、かつて筆者が家庭児童問題を専門
柄、教育相談所、児童相談所などの公的な相談機
とする民間相談機関 G 相談室の非常勤カウンセ
関に相談しにくい事情から、筆者がカウンセラー
ラー(Co)としてかかわった、中年夫婦(主と
をしていた民間の相談機関 G 相談室に来談した。
して妻 T 子(当初は登校拒否児の母親)
)とのカ
ウンセリングの事例4)を通じて、中年期の人々の
¹
抱える問題と「中年福祉」の必要性を考えていき
T 子との約4年間にわたる約70回のカウンセリ
たい。
ングおよび夫 S 郎との数回のカウンセリングの
2. 民間相談機関における中年夫婦に対す
る相談援助(カウンセリング)の事例を
通じて
¸
面接過程
事例概要
プロセスを通じて、中年男女の夫婦関係、親子関
係および生き方、働き方、相談援助のあり方など
の諸問題を考察していきたい。
(括弧[
]内は
カウンセラーの発言や所見を表す。)
<初回(インテーク面接)>X 年4月中旬
<クライエント>T 子(初回面接時43歳)、専業
T 子は小柄で地味な中年の母親であり、不安で
主婦(元幼稚園教諭(約10年間勤務)
)現在首都
いっぱいの様子であった。来談までの経過を聴取
圏の A 市在住。
したが、話があちこちに飛び、落ち着かなかっ
<主 訴>当 初 は 長 女 の 登 校 拒 否、夫 の 暴 力
た。来談までの経過を聴取した結果、長女 K 子
(DV:ドメスティック・バイオレンス)、2年目
の不登校の問題よりも、DV に苛まれている母親
以 降 は T 子 本 人 の 生 き 方、対 人 関 係 な ど の 悩
T 子のメンタルヘルスケアが最優先課題であると
み、人生後半の課題
痛感した。そこで、まずは T 子をクライエント
<家族構成>夫 S 郎(44歳、F 大学助教授)
、長
とする定期的なカウンセリングを行い、K 子の不
女 K 子(小学校6年生)
登校問題は、時間をかけて長期的に援助していく
―1
7―
1
2
0
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
ことに し た。
[次 回 以 降、親 子 で 来 談 し た と き
ですね」と T 子の決断を支持した。]
は、K 子のカウンセリング(プレイセラピー)は
<5回>5月下旬
若手のカウンセラーに担当してもらう(並行面
K 子は転校後2週間無事登校していたが、今朝
接)ことにした。]
(月曜日)転校後初めて K 子が登校を渋り欠席
<2回>4月下旬
してしまったとのこと。小動物の飼育を巡り、飼
B 小学校の K 子の担任の先生の対応が不十分
育委員会の2名の友人との関係(いじわるをされ
であり、誠実さが感じられないこともあり、実家
た)が問題の様子。
[疲れが出る頃です。新しい
近くの小学校に転校も考えているとのこと。
[転
環境に身体が音をあげたのでしょう。無理は禁物
校により好転することもあるが、不登校が繰り返
です。2、3日休養して、様子を見ましょう。]
されることも多いので、焦らず、冷静に対処方法
<6回>6月上旬
を考えていく必要があると助言した]
K 子は4日間欠席した後登校し、小学校で小動
また父 S 郎は長女の不登校問題に関して非協
物の飼育を楽しんでるとのこと。家でも「子犬を
力的であり、転校にも賛成していないとのこと。
飼いたい」と言い出し、S 郎は反対したが、日曜
T 子は、夫である S 郎の暴言、暴力をいつ も 怖
日に母子二人で子犬を買いに行き、家でも飼育を
がっており、心が休まらず、離婚も考えていると
始めた。S 郎もしぶしぶ了承した。6月に入って
のこと。[初回面接よりは、表情が和らぎ、話も
も登校を続け、3日には飼育委員会の友人とも放
あまり飛ばなくなり、大分落ち着いてきた様子で
課後公園で仲良く遊ぶようになり、今朝通学中の
あった。今後夫婦関係の問題をじっくり相談して
電車の中で、K 子が「もう送ってきてもらわなく
いくことにした。]
ていいよ」と言ったとのこと。
<3回>5月上旬
[K 子に自立心が芽生え、T 子と S 郎の夫婦関係
S 郎が以前より帰宅が遅くなった。泥酔して帰
にも多少の変化が感じられた。]
宅することも多い。S 郎は、K 子の 転 校 に つ い
<7回>6月中旬から<10回>7月中旬
て、前言を翻し、
「早く転校させちゃい」とプリ
[K 子 の 不 登 校 問 題 に 悩 む T 子 の 一 進 一 退 の
プリ怒っているとのこと。そこでしばらくは夫に
日々をサポートした。]
頼らず、T 子の叔母 E 子の協力の下、転校先の小
<11回>7月下旬
学校を探すことにした。そうしたら昨晩は S 郎
K 子は、この2ヶ月出席、欠席を繰り返しなが
に暴言を吐かれてもあまり怖く感じなかったとの
らも、何とか、登校し続け、今日終業式に出席し
こと。また T 子自身と K 子の、自己主張が苦手
夏休みを迎えることが出来、T 子もほっとしたと
で、喧嘩したり、NO が言えない、人に何かを頼
のこと。
[とにかく母子二人が夏休みまでだまし
むのも下手な対人関係の問題も明らかとなった。
だましやってこられたことを評価しつつ、その一
[ダメでもともとの精神で転校をトライしてみて
方で K 子はいまだ登校できなくて当たり前の状
はどうかとアドバイスし、K 子が小学6年生から
況(身体症状が出る)なので、児童精神科への受
中学生の間、楽しく、のびのびと過ごせる学校環
診を勧める。また K 子や T 子が S 郎に対してび
境を模索していくことにした。]
くびくして生活している状況の打開を(父子関
<4回>5月中旬
係、夫婦関係の改善を)図らなければ、根本的な
数日前に、T 子の叔母 E 子が住む、実家近くの
C 小学校に転校手続きをしたとのこと。家から約
解決は難しいと伝えた。]
<12回>8月中旬から<17回>10月下旬
30分の電車通学だが、E 子の家の近くに母子が寝
2学期に入っても、一進一退の状況が続き、T
泊りすることが可能なアパートを借りたとのこ
子が精神的に不安定になってきた。K 子の方は、
と。また幸運なことに、C 小学校の校長は T 子
相変わらず登校したり欠席したりの日々だが、児
の古い友人であり、歓迎されたとのこと。9日よ
童精神科医のサポートもあり、中学受験のことも
り T 子が付き添いで同行し、毎日登校している
考え始められるようになってきた。
とのこと。[「とりあえず転校が吉と出てよかった
<18回>11月上旬
―1
8―
小川憲治
「中年福祉」の必要性と今後の課題
T 子が不調のため、姪を心配した T 子の叔母 E
1
2
1
<30回>4月下旬
子が来談した。このところ T 子と S 郎が激しく
K 子は毎日登校しているとのこと。友人も出来
夫婦喧嘩しののしり合う状況が続き、K 子がおび
て、日曜日には早速友人6人で遊びに行ったとの
えているのを看過できず、何とかしたいと痛感し
こと。近くのテニススクールにも通い始めた。最
た。E 子の目から見ても、S 郎は外面はいいが、
近父 S 郎が K 子の茶碗を使ってお茶を飲んだの
プライドが高く、社会性に乏しい内弁慶であり、
をすごく嫌がった。生理的に嫌悪している様子。
自身のカウンセリングの必要性を否定し、来談も
しかしテニスに行くときは父に車で送ってもらう
見込めない状況にあるとのこと。T 子のケアが最
のはまんざらでもない様子。
[思春期特有のアン
優先課題であり、今後 E 子の協力を得ながら、
ビバレントな父子関係が見受けられる。]
カウンセリングを継続していくことにした。
夫 S 郎は5月中旬ならば、来談できるとのこ
<19回>11月中旬から<22回>12月下旬
と。
E 子の勧めにより T 子も精神科に通院し始め、
<31回>5月上旬
精神的に大分安定してきたとのこと。K 子の進路
来談するなり、夫 S 郎の問題を2
0分ほど切々
としては小規模な私立の女子校をめざすことにし
と語る。K 子はなんとか登校を続けている。入学
たとのこと。[夫婦関係の問題は今後長期的に改
後1ヶ月が経過し、T 子もひとまずほっとしたよ
善を図るようにすればいいので、K 子の中学受験
うだ。
「自宅の庭の薔薇の花が去年とは違って美
が終わるまで、小さなことには目をつぶり、S 郎
しく感じられるし、地に足が着いて歩ける感じで
との関係を荒立てないほうがいいとアドバイスし
す」と語った。近々 S 郎が来談するので「くれ
た。]
ぐれもよろしく御願いします」と語った。
<23回>X+1年1月中旬から<28回>3月下旬
<31−2回>5月中旬(S 郎との初めての面接)
K 子の中学受験はなんとか第3志望の D 学園
腰が低く、人当たりのよい、その一方で神経質
中学(小規模な女子校)に合格し一段落し、C 小
そうな、中年男性であった。一見したところ、家
学校を無事卒業したとのこと。その一方で、T 子
庭で妻子に暴言、暴力を振るうようには見えな
の S 郎に対する不満が募り、もっぱら夫に対す
い。まず Co(カウンセラー)が「ご多忙のとこ
る不満や愚痴を語り、T 子と S 郎の中年夫婦の問
ろ来談ありがとうございます。K 子さんが4月か
題が明らかになってきた。
ら、中学に通えるようになってよかったですね。
[攻撃的な暴君 S 郎のケチで金銭的に細かい肛
しかしまだ安心は出来ません。ご自身の父子関係
門期的性格や神経症的な行動傾向(部屋がきちん
やご夫婦の関係を、時間をかけて改善していただ
としてないと気がすまないところなど)が本ケー
かないと、また不登校になりかねないと思いま
スの根本にあり、その S 郎の存在をいやいやな
す。」と協力を要請した。また Co が「この1年
がらも看過し許してこざるを得なかった、自己主
間、K 子さんの不登校問題を含め、先生もご多忙
張の乏 し い T 子 の 対 人 関 係 の 拙 さ が 明 ら か と
で大変でしたね。」と問いかけると、「職場でも、
なった。]
教育研究だけでなく、入試業務や学生のさまざま
<29回>X+1年4月中旬
な問題に取り組まなきゃならないものですから・
K 子が無事 D 中学に入学し登校しはじめ、ひ
・・、大変です。また大学教員の子どもが不登校
とくぎりがついたとのこと。今後は、K 子の不登
なんて、恥ですし、酒を飲んで家に帰っても、つ
校問題のサポートをしていきながらも、カウンセ
まらないことでイライラしてしまい、妻や子ども
リングの中心課題を、T 子自身の対人関係や生き
に暴言を吐いたり、暴力を振るってしまいまし
方の問題にシフトしていくことを提案し、同意を
た。悪いとわかっているのに・・・情けないで
得た。
す。」とこれまでの苦しかった心境を語った。
また、本問題の根本的な解決に 向 け て、夫 S
S 郎の職場と家庭の狭間での苦悩を共感しつ
郎の協力が不可欠なため、
「一度来談いただきた
つ、その一方で「当分 Co として奥様を支えます
い」旨のカウンセラーからの書状を手渡した。
が、ご主人は仕事に没頭するだけではなく、可能
―1
9―
1
2
2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
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7
な範囲で家族関係の改善も図ってください。それ
までの約1年間
から、飲酒だけでなく、休日には健康的なリフレ
就職活動およびカルチャーセンターでのカウン
ッシュの機会(スポーツなど)を持つことをお勧
セリングの学習と取り組んでいる T 子自身の再
めします。」と助言した。
就職問題、中学3年になった K 子の高校受験問
<32回>X+1年5月 下 旬 か ら<57回>X+3年
題、夫婦関係の改善を図るためのカウンセリング
3月下旬までの約2年間
を行った。再就職については、S 郎の苦労を目の
T 子の生き方や夫婦関係の問題を中心課題とし
てカウンセリングを継続した。K 子か中学2年に
当たりにして、必ずしも教員でなくてもいいと思
えるようになったとのこと。
なった X+2年の5月頃、T 子が「そろそろ復職
この1年間で特筆すべきこととしては<64回>
しようという気になった」と話したので、T 子の
11月上旬のカウンセリングの際、夫とのことは
職歴(新卒で2年間幼稚園教諭、その後コンピ
「大分開き直った感じです」
、数日前に喧嘩した
ュータの専門学校で学び OL になったが、給料は
とき、夫に「K 子の義務教育もあと半年ですし、
いいが虚しさを感じ、再び別の幼稚園に8年近く
離婚しましょう」と言ってしまったとのことであ
勤め た。そ の 後 専業 主 婦。)を あ ら た め て 聴 取
る。それに対して夫は「だったら働け!」と暴言
し、時間をかけて T 子自身のライフ・キャリア
を吐いたが、翌日以降 S 郎の態度に変化が見受
カウンセリングを行っていくことにした。
けられ、暴言や暴力も少なくなり、K 子の問題や
さまざまな角度から話し合った結果、T 子は
家事についても協力的になってきたとのこと。
「S 郎の妻、K 子の母親だけでなく、これまでの
[T 子が S 郎に、これまで言えなかった気持ちを
経験を生かして教育現場でまた働きたいし、カウ
思い切って言えて本当によかったと思う。夫との
ンセリングの勉強もしたい」と今後の方向性を明
力関係がやっと対等に近くなったと実感した。]
らかにしたので、Co も T 子が再就職を目指すこ
とに賛成し援助していくことにした。
また2月に K 子が W 高校(女子校)に合格し
ほっとしたとのこと。K 子が父母の問題について
また S 郎とも必要に応じて数回カウンセリン
「離婚してもいいよ」といってくれた が、T 子
グを行い、父子関係や夫婦関係の問題だけでな
は、なかなか踏ん切りがつかず、夫婦関係を再度
く、S 郎の職場の対人関係とメンタルヘルスに関
見直し、
「このまま我慢してやっていくのも一案
しても相談に応じた。
ですね」と、一進一退を繰り返し、揺れている状
<58回>X+3年4月下旬
況であった。
「ご夫婦の問題は今すぐに結論を出
K 子が無事中学3年に進級した後、T 子は4月
さなくてもいいと思いますよ。両者が納得できる
中旬久しぶりに幼稚園教諭時代の仲間達と再会し
まで、働きながら時間をかけてお二人で考えて
たとのこと。「子育てがうまくいっていない家庭
いったらどうですか」と助言した。
(不登校、家庭内暴力など)が多かったので、K
<69回>X+4年4月下旬
子が復学し2年間も無事登校してくれてほんとう
K 子は W 高校入学後、元気で登校していると
によかったと思った」と語った。夫婦関係にも変
のこと。T 子は高校の PTA の役員にもなった。
化があった。S 郎がこの4月に教授に昇格したと
また5月より以前勤めていた幼稚園の園長の紹介
のこと。[Co も心より祝福した。
]その際、家で
で、近くの児童館の臨時職員として就職すること
は普段強気の S 郎が「不安だ。K 子がいないと
になったとのこと。主人は四苦八苦しながら大学
困る」などと珍しく妻に弱音を吐いたとのこと。
教授の仕事をがんばっています。最近昔から好き
T 子の「今までの私の人生ってなんだったの?」
だった趣味の釣りを再開しました。夫婦関係の問
という人生の苦悩が夫の出世によって救われた気
題については、
「今後時間をかけて考えていきた
が した と の こ と。
[T 子 も こ の2年 間 で 少 し づ
いし、夫とも向き合って話し合っていきたいと思
つ、夫に言いたいことを言えるようにもなってき
います」と語った。主訴の改善が見受けられたの
たようだ。]
で、次回4年間にわたったカウンセリングを終結
<5
9回>5月下旬から<68回>X+4年3月中旬
することにした。
―2
0―
小川憲治
「中年福祉」の必要性と今後の課題
<70回>6月上旬
1
2
3
た危機的な状況からは脱しつつあるが、やっと二
K 子はのびのびと登校しているとのこと。T 子
人で向き合い話が出来るようになってきたところ
も児童館で子供たちに囲まれて楽しく仕事をして
であり、今後時間をかけて夫婦のあり方をじっく
いるようだ。「必死で働いていた幼稚園教諭時代
りと話し合っていかねばならない両者の課題であ
には感じられなかった、親の心情や子ども達の姿
ろう。場合によっては、夫婦療法5)、家族療法、
や思いを、違った立場から、肌で感じることが出
離婚調停などの専門家の援助も必要であろう。
来るようになってよかったと思います。また大学
早坂泰次郎が『人間関係の心理学』で「日本人
教授として苦労して働いている主人のことも多少
は基本的に、
「世界―内―存在」
(ハイデガー)
」
は理解し、思いやれるようになってきました。
」
というより、むしろ「家族―内―存在」なのであ
と語った。そこで Co は「夫婦関係の問題は時間
り、「親子―内―存在」なのだ」と指摘している6)
をかけて話し合ってください。ご主人によろしく
が、この4年間のカウンセリングを通じて、T 子
お伝えください。必要があればまた相談に応じま
の生きる世界が K 子との「親子―内―存在」か
す。そのときはお二人でどうぞ。
」とアドバイス
ら中年女性としての豊かな「世界―内―存在」へ
し、終結した。
[その後は必要に応じて手紙でフ
と変容を遂げたのであり、同時に S 郎の生きる
ォローしていくことにした。]
世界も、仕事人間の教師とい う「職場―内−存
在」から、中年男性としての「世界―内―存在」
º
考察
へと変容したものと思われる。
T 子とのカウンセリングの事例は、中年の人々
また K 子もこの4年間で、母親との閉ざされ
を対象とする「中年福祉」(相談援助)の問題を
た「親子―内―存在」から、友人達との学校生活
考える上で、示唆に富む点が多い。
やテニススクールなど開かれた「世界―内―存
初めての来談当初の T 子は、長女の登校拒否
在」へと、共依存からの脱皮を遂げることが出来
と夫の DV(長年苦しんできた夫婦関係の病理)
たのはまことに幸いであった。もし K 子の登校
の問題で苦悩していたが、その背景には、人生の
拒否というきっかけが無かったら、例えば摂食障
「思秋期」を迎えた中年女性の典型的な心理的危
害に陥るなど、問題がさらに深刻化していた可能
機があったように思われる。T 子はカウンセリン
性も否定できないであろう。
グのプロセスを通じて、母子関係、夫婦関係など
現代社会に生きる中年夫婦とその家族への相談
自身の対人関係や人生後半の生き方を問い直しな
援助(「中年福祉」)の必要性を改めて再認識させ
がら、母親として K 子の登校拒否問題と取り組
られたカウンセリング事例であった。表面化した
み、S 郎の妻として DV を伴った不健康な夫婦関
問題(この事例では K 子の登校拒否)のみなら
係の改善をはかり、さらには、カウンセリングの
ず、多くの中年夫婦が直面している「中年危機」
勉強を始めたり、幼稚園教諭時代の友人と旧交を
の諸問題に焦点を当てた、相談援助活動(
「中年
温めたり、PTA の役員になったり、職業人とし
福祉」)の実践が広く求められよう。
て再就職を果たすことが出来るようになるなど
「中年危機」を脱しつつある。
3.「中年福祉」の実践と今後の課題
また夫である S 郎も、T 子と同様に、職場と家
これまで「中年福祉」の必要性を論じてきた
庭の狭間で、教師として、夫として、父親とし
が、ここでは相談援助の実践に向けての今後の課
て、中年男性の危機を迎えて苦悩していたが、K
題を明らかにしたいと思う。
子が復学し、「教育者の子どもの登校拒否問題」
を恥じていた心の負担をなんとか解消できたし、
¸
教授に昇進したり、10年ほど中断していた趣味の
中年の男女が直面している自身の問題、家族の
釣りを友人と楽しむようになったり、心身の健康
問題、職場の問題を相談したり、問題を抱えてい
を取り戻しつつあるようだ。
なくても「中年危機」の課題や自身の生き方を問
T 子と S 郎の夫婦関係については、DV を伴っ
相談機関、相談窓口の整備
い直したり、ライフキャリアカウンセリング7)を
―2
1―
1
2
4
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
受けることが出来るような相談機関、相談窓口の
し、地域の在宅支援センターや高齢者福祉施設
整備が今後必要である。
で、老親介護に苦悩する中年男女に対して、老親
これまで中年の男女自身を対象者(クライエン
ト)とした相談援助の実践は、精神科医療(病
の介護問題だけでなく、同様の相談援助の実践が
可能と思われる。
院、クリニック)
、産業臨床(企業のカウンセリ
¹ 「中年相談員」の専門性の確立
ングルームや産業医)
、母子相談、離婚相談など
限られた分野で、心身の病理やさまざまな問題を
これまで「中年危機」の問題に関しては、先に
抱えた、限られた人々にしか行われてこなかった
述べたように、精神科医(精神医学者)や臨床心
ように思われる。しかしながら、それらの相談援
理士(臨床心理学者)が相談援助活動の実践や
助は基本的には、心身の病気の治療、職場のトラ
8)
などの研究を重ねてきている
「臨床社会心理学」
ブル解消やメンタルヘルス対策、就労問題、母子
が、社会福祉の分野では、その実績があまり無
家庭問題、離婚問題など、どちらかといえば、単
く、今後中年を対象とした相談援助活動の専門性
一の問題の解決を目指した専門分野に限った相談
の確立が急務であろう。
援助である。産業臨床においては、職場の問題以
かつて筆者が「相談援助の現象学Ⅰ」のなか
外の私的な問題、子どもの登校拒否や老親介護の
で、社会福祉分野の相談援助の実践の特徴として
問題は相談援助の中心課題ではないし、家庭児童
「どちらかというと公的扶助、施設入所など社会
相談や高齢者介護相談においては、相談を持ち込
資源を活用した具体 的 な サ ー ビ ス(something-
んだ中年男女自身の「中年危機」の問題はやはり
ness)を提供する相談援助に頼りがちであり、そ
中心課題ではないのである。
うしたサービスの提供なしに精神的もしくは心理
そうした状況の中で、これまで働き盛りの中年
的な相談援助(nothingness)をおこなうカウンセ
男女を対象とした相談援助を行う、総合的な相談
リングの方法論的基盤の確立は未だ充分とは言え
機関や相談窓口の整備の必要性が十分認識されて
9)
と指摘したように、
「nothないように思われる」
こなかったように思われる。しかしながら、深刻
ingness」の積極的な意味を再認識し、専門性の確
化する苦悩する中年男女の抱えている諸問題や、
立を目指していくことが求められよう。
潜在化している「中年危機」の課題を対象とし
また専門性としては、文学、芸術などのさまざ
た、中年男女自身が抱えている問題や、子育てや
まな人間や社会に関する学問、人生哲学、中年心
老親介護など家庭問題、夫婦の問題、職場や仕事
理学(発達心 理 学)、精 神 科 医 療(サ イ コ セ ラ
の悩み、人生の悩み、生きがいやライフワークの
ピー)、教育相談や家庭児童相談(カウンセリン
模索などを、気軽に相談に応じてくれる、いわば
グ、家族療法)
、産業臨床(メンタルスヘルス・
家庭医的な、総合的な相談機関や相談窓口の設置
カウンセリング、キャリアカウンセリング)の資
がぜひ必要と思われる。
質や自助グループの運営や学校、家庭、職場の調
理想的には、中年を対象とした相談機関の設置
整能力などのソーシャルワーク等を統合した、ラ
が考えられるが、当面は、地域の福祉事務所や地
イフ・キャリア・カウンセリング、メンタルヘル
区センターに、これまで欠落していた、中年の
スヘルスカウンセリング、総合的なソーシャル
人々自身の相談に応じられる窓口を開設したり、
ワークの資質や豊かな人生経験と成熟した人間性
「中年相談員(仮称)
」を養成して配置すること
が求められる。そうした幅広い専門性を習得する
が考えられる。また産業臨床(企業のカウンセリ
ための教育研修プログラムの開発と実践が今後の
ングルーム)で実践されているメンタルヘルス対
課題であろう。
策や家庭児童相談機関や児童福祉施設などで、筆
º
者が T 子に対して行ってきたような、家庭児童
他機関との連携
相談だけではない、中年自身を対象としたライフ
しかし現実的には、そうした幅広い専門性を一
・キャリア・カウンセリングやケースワークの実
人の相談員が兼ね備えるのは無理がある。実際に
践も出来る相談員を養成することも考えられる
は、医療機関、産業臨床、職場、学校、警察、弁
―2
2―
小川憲治
「中年福祉」の必要性と今後の課題
護士、社会福祉施設・機関、民間相談機関、地域
1
2
5
動の実践と研究を展開していきたいと思う。
の人々などとの連携を図りながら、例えば、以前
に筆者が「家庭相談員」の調査研究(共同研究)
<注>
においても提案したが10)、家庭医(ホーム・ドク
1)古川考順・庄司洋子・安藤丈弘『社会福祉論』有
斐閣、1
9
9
3年
2)斉藤学『家族依存症』新潮文庫、1
9
9
9年
3)河合隼雄『働き盛りの心理学』PHP 文庫、1
8
8
4年
4)筆者がかつて民間相談機関 G 相談室の非常勤カウ
ンセラーとしてかかわったカウンセリング事例であ
る。クライエントのプライバシー保護のため、本筋
を逸脱しない程度に修正加工してある。本論文執筆
にあたり、カウンセリング事例を活用させていただ
いたクライエント T 子ご夫妻と G 相談室関係各位
に、この場を借りて深く感謝申し上げたい。
5)佐藤悦子『夫婦療法』金剛出版、1
9
9
9年
6)早坂泰次 郎『人 間 関 係 の 心 理 学』講 談 社 現 代 新
書、1
9
7
9年
7)ノーマン.C.ガイスバース他『ライフキャリアカ
ウンセリング』生産性出版、2
0
0
2年
8)小此木啓吾他編著『臨床社会心理学3(成熟と喪
失)
』
(現代のエスプリ別冊)至文堂、1
9
8
0年
9)小川憲治『IT 時代の人間関係とメンタルヘルス・
カウンセリング―現象学的臨床社会心理学(福祉心
理学)序説―』川島書店、2
0
0
2年、4
8頁
1
0)小川憲治「家庭児童相談員の活動状況と今後の課
題」
(『長野大学紀要』第1
7巻第1号)
、1
9
9
5年
1
1)小川憲治「職場の対人関係とメンタルヘルス―企
業におけるカウンセリングの事例を通じて」
(『長野
大学紀要』第2
8巻3・4号合併号)
、2
0
0
7年
ター)が専門医や専門病院との連携を図りながら
患者の治療やケアに応じる様に、自らの専門性が
不十分な問題については、援助者自身のネット
ワークを活用して、他機関との連携を図りなが
ら、多くの中年男女が直面している「中年危機」
の諸問題、苦悩している成人病、うつ病、神経症
などの心身の病理、出社拒否、帰宅拒否症、児童
虐待、DV、アルコール依存症、リストラ、熟年
離婚などの問題、親子関係、家族関係の悩み、家
庭児童問題(子どものいじめ、登校拒否、家庭内
暴力、摂食障害)、老親の介護問題などを対象と
した総合的な相談援助を目指していくことが必要
であろう。
おわりに
これまで、筆者が痛感してきた「中年福祉」の
必要性、相談援助のあり方、今後の課題などを考
察してきたが、まだそのスタートラインについた
ばかりである。今後、共鳴してくれる仲間と共
に、臨床心理士として、家庭児童相談(児童の両
親)、学生相談(学生の両親)、企業におけるメン
11)
タルヘルス・カウンセリング(社員や管理職)
など、苦悩する中年期の人々に対する相談援助活
―2
3―
長野大学紀要
第2
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5―4
3頁(1
2
7−1
4
5頁)2
0
0
7
リベット工のロージーと女子挺身隊
―女子労働力戦時動員にかんする日米比較試論―
“Rosie the Riveter” and “Joshi-Teishintai” :
On Comparison of the Mobilization of Women Workers
in the Pacific War Era between the USA and Japan
京
谷
栄
二*
Eiji Kyotani
From “The Life and Times of Rosie the Riveter,” a documentary film available at www.clarityfilms.org
「女性の職場は勇士の戦場」1
9
4
4年 「女
た ち の 昭 和 史」編 集 委 員 会 編 『〔写 真
集〕女たちの昭和史』
、大月書店、1
9
8
6.
p.
5
4
後の帰還に伴う彼女たちの労働市場からの排除を
序
描いた「リベット工のロージーの生活と時代」
第二次大戦中の軍需産業への女子労働者の大量
(The Life and Times of Rosie the Riveter)という記
動員、そして兵役に従事していた男子労働者の戦
録映画がアメリカにある1)。日本軍の真珠湾攻撃
*環境ツーリズム学部教授
―2
5―
1
2
8
長野大学紀要
第2
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7
From “The Life and Times of Rosie the Riveter,” a documentary film available at www.clarityfilms.org
以降戦線が太平洋全域へ拡大するのに伴い、成人
他方、太平洋をはさんだ同時代の日本の女子労
男子は次々と徴兵され工場から姿を消す。政府の
働者はいかなる運命をたどったのであろうか。本
プロパガンダは男子労働者を女子労働者によって
稿の後半においては、日米両国の第2次大戦下の
代替するために、家庭の婦人へ仕事につくように
軍需産業と女性労働者に関する分析を行なった佐
呼びかけ、工場労働へと彼女たちを駆り立てる。
藤千登勢の研究(佐藤2003)と、戦時期日本の女
しかし、戦争が終わり軍人の帰還、男子労働者の
子労働を分析した塩田咲子の研究(塩田1
984、
工場への復帰が始まると、手のひらを返したよう
2000)を検討し、太平洋戦争下の日本における動
に、政府のプロパガンダは婦人の家庭責任を強調
員過程を跡付けるとともに、女子労働力戦時動員
しはじめる。「8時間の孤児たち」
、「子供を取る
体制の日米比較を試みる。
か仕事を取るか」などのスローガンが新聞や映画
をとおして流布される。そして大量の婦人労働者
第1章 「リベット工のロージー」
太平洋戦争中に軍需産業に動員された女性たち
が企業からレイオフされ再雇用されることもな
の体験 を 描 い た 記 録 映 画「リ ベ ッ ト 工 の ロ ー
く、製造業の主要な職種から姿を消す。
この「リベット工のロージー」の物語を、社会
ジー」を紹介しよう。戦前は専業主婦であった
科学の手法であたかも再現したかのような研究が
り、衣服製造、陶器製造、農園作業、家庭のメイ
ある。労働におけるジェンダー研究をはじめ、近
ドなど伝統的な女子就業部門で働いていた多数の
年アメリカ社会学の労働研究において顕著な成果
女性が、1941年12月の太平洋戦争開始以降、戦線
を上げているルース・ミルクマンの出世作 Gen-
が拡大するのに伴い主要産業に動員される。第二
der at Work1987がそれである。本稿ではまず、
次大戦中の女性労働者数は1800万にのぼり、その
これらの作品の検討をとおして、アメリカ合衆国
内約600万人は就労体験のない新規参入者であっ
における太平洋戦争下の女子労働力戦時動員体制
た。重工業に従事する女性の数は大戦中に4.
6倍
を分析する。
に増え、軍需産業のみでも女性労働者数は3
00万
―2
6―
京谷栄二
リベット工のロージーと女子挺身隊
1
2
9
に達した。第二次大戦期の女性労働の変化は以上
その鋳物工場では以前に女性を雇ったことがな
の単に量的なものにとどまらず、労働内容と賃金
く、フォアマンも他の男性労働者も彼女たちに敵意
などの労働条件からジェンダーをめぐる意識にも
をいだき、あらゆる意地悪をした。機械がこわれた
及んだ。
時、男性ならば修理工がすぐにやってきて直す の
この記録映画をとおして観衆は、太平洋戦争期
のアメリカ合衆国の労働過程におけるジェンダー
に、女性の場合には一日がかりだった。(同上:2
4
‐
2
5)
状況の変化を知ることができるのだが、この映画
他方では、女性の進出に伴い変化する職場の状
には、実際に学校の授業などで利用する時のため
況を、ニューヨークで機械工として働いたセリア
に教師が使う、より詳細な資料が載せられたテキ
・ヤニシュが語る。
ストが付随して販売されている2)。以下、映画と
彼女が働いた部局では、最初は男性労働者は女性
テキストにもとづき、女性労働者の進出に伴い変
が彼らの仕事を奪うのではないかと恐れて、彼女た
化する当時の職場の状況を描写する3)。
ちにつらく当たった。女がいるから職場で服を脱げ
ないと文句をいって、半分裸になって働いた。しか
第1節
!
労働過程の変化
ししばらくすると、「ほとんどの男たちは私たちを受
労働力代替に伴う変化
け入れ、私たちを同僚として、組合の仲間として重
主要職種に従事していた男子労働者が徴兵され
んずるようになった。
」
(同上:2
2
‐
2
3)
るに連れ、男子労働者を女子労働者で代替するた
"
めに、長期の徒弟制は中止され、女子労働者が数
大量の女性労働者の戦時動員と並行して女性労
週間の訓練を受けて溶接工やプレス工やリベット
働者の組織化が進んだ。このことは確かに戦前と
工として働くようになった。
は違う女性労働者の権利向上のための新たな動き
この代替に伴う労働過程の変化が次のように描
女性労働者の組織化
を生み出したが、しかし依然として、男性労働者
の権利を優先する労働組合の姿勢が存続した。
かれている。
「戦時労働力として動員された女性たちは小柄で訓
女性労働組合員数は1939年の80万人から1945年
練を受けたこともなかったので、多くの産業ではこ
には300万人超に増大し、この過程において女性
の新しい労働力にあわせて生産過程を変更した。短
労働者の賃金など労働条件の改善が実施され、男
期間の訓練が長期の徒弟制にとってかわり、複雑な
性労働者との格差は縮小した。ブルックリンで溶
段階をもった作業は経験の少ない女性のために簡単
接工として働いていたローラ・ワイクセルの職場
な要素へと分解された。機械の高さは下げられ作業
では、「全ての者の賃金を8
0%引き上げた。その
に必要な腕が届く範囲も縮小された。いくつかの工
結果それまで5セント低い時給で働いていた黒人
場では照明が明るくなり、もっとも危険な機械や化
女性の賃金も平等になった。
」職場では男女平等
学薬品から作業者を守る対策も講じられた。
」
(M.
化の進行に伴い、労働者間の人種差別解消の動き
Frank et al.
1
9
8
2:6
3)
も進んだ。しかし女性組合員が増大したとはい
しかし伝統的なジェンダー観が存在する男性優
え、電機産業や縫製業のような女子雇用型産業は
位の職場で、女性労働者は男性労働者から円滑に
別にして、多くの産業では女性組合員が執行部に
受け入れられた訳ではない。オハイオの鋳物工場
参加することはなかった。
「ほとんどの場合、組
で働いたルース・ウルフは次のように証言する。
合の執行部は専ら男が占め、男が指導する体制が
この工場では賃金は、出来高と取り扱う部品の大
つづいた。」(同上:34)
きさで決められており、いつも男性が賃金の高い大
このように女性の労働条件が改善されながら
きな部品の仕事をしていた。しかしある日、彼女と
も、男性労働者の優先的権利が保持される状況が
同じ大きさの部品を作っている高齢の男性の賃金が
描かれる。
自分の賃金より高いのを発見して驚いた。彼女はそ
「労働組合の規約もまた、女性の就労を戦時下(du-
の男性より長い期間その職場で働いていたにも係ら
ration)のみに限る条文、あるいは女性の先任権を制
ず、彼女の賃金は徒弟のそれにとどめられていた。
限し、レイオフに際しては男性が職に留まる権利を
―2
7―
1
3
0
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
優先する条文をもっていた。女性に平等(もしくは
の拡大は、フランクリン・ローズベルト大統領を
ほぼ平等)な賃金を支払う政策も、主要には戻って
動かし、大統領が発令した上級指令(Executive
くる退役軍人のために高賃金を維持する目的で支持
Order)8802にもとづき1
941年に、公正雇用委員
された。1
9
4
3年の CIO の大会で女性に向って演説し
会(FEPC)が設立された。この委員会は防衛産
た UAW の幹部はこの考え方を表明している。彼は
業における人種、肌の色、民族的起源、宗教によ
こう強調した。『男たちが帰って来た時に良い条件で
る差別を禁止した。しかしこの措置は防衛産業の
働くために組合を維持していくのがあなたたちの役
みに限定されており、人種差別を禁止する連邦法
目だ。
』
」
(同上:3
6)
の成立は1964年の公民権法を待たねばならなかっ
女性労働者の拡大に伴う権利の向上は制限され
た。(同上:51)
たものであったとはいえ、電機産業の労働組合
女性の場合と同様に、戦時体制下で起きたこの
UE(United Electrical Workers)や、自動車産業の
ような人種差別是正の動きも戦争が終結に向うに
UAW(United Auto Wokers)における成果は、戦
連れ後退する。例えば、軍需産業の需要の減少が
後の改革への萌芽となった。UE では工場労働と
「黒人労働者に与えた影響は白人労働者の2.
5倍
家事という女性たちの二重の負担を軽減するため
であった。」また「防衛産業における差別を禁止
に、近辺の商店に開店時間の延長を求めたり、育
した FEPC が1
946年に廃止され、黒人労働者の雇
児のサービスに係ったりした。あるいは UAW の
用を白人と平等にすることに連邦政府は積極的な
女性たちは、女性労働者を教育するために女性局
関心を注がなくなった。
」この後退にもかかわら
Women’s Bureau を設置するのに成功した。この
ず、黒人たちが戦中に体験した平等への機運は、
女性局は「性や婚姻による差別を禁止」する労働
戦前に回帰することなく大きなうねりとなり、
協約のモデルを作り、1945年には他の組合とも協
1950年代と60年代の公民権運動へとつながったの
力して同一労働同一賃金を要求する法案 Pepper-
である。(同上:54)
Morse bill を議会に提出するためのロビー活動を
展開した。この法案自体は日の目をみなかった
第2節
が、しかしその精神は後の1963年の平等賃金連邦
法として結実した。(同上:36‐37)
女性の権利意識の覚醒
大量の女性労働者の産業への動員とそれに伴う
労働過程の変化は、女性たちの意識に顕著な変化
しかし女性労働者の権利向上にたいする労働組
を与えた。
合の制限された姿勢は、大量の軍人が戦場より帰
溶接工として働いていたローラ・ワイクセル
還した戦後の時期にあらわになった。すなわち、
は、同僚たちが共有していた熱い思いを回想す
戦時動員された女性労働者を解雇しようとした経
る。
営側の決定にたいして労働組合はあまり熱心に戦
「私たちは職場に入っていき、溶接工になった。そ
わず、その結果、女性労働者は男性より75%高い
の仕事は熟練というばかりでなく、芸術のようだっ
比率でレイオフされた。(同上:37)
た。それはとってもすばらしい仕事だった。一日の
!
黒人労働者にたいする差別の是正
終わりには、私はいつでも何かを成し遂げたと感じ
戦中の労働過程における平等化の進行は男女の
たわ。できあがった製品。目に見えるものがそこに
間だけでなく人種間でも進んだ。黒人組合員数は
あったわ。
」
(同上:1
7)
1945年には125万人を超え、1
940年の6倍に達し
あるいはサンフランシスコの造船所で働いてい
た。「1940年と4
5年の間に黒人女性労働者の比率
たリン・チャイルズは語る。
は6.
5%から18%へ増大し、彼らの賃金は戦前の
「第一に私は仕事が必要だったから仕事についた
10倍に上がった。黒人の熟練労働者の数はその間
わ。第二に、以前にやっていた仕事では感じられな
に倍増し、連邦政府で働く黒人の数も同様だっ
かった誇りを経験することができたから。第三に、
た。黒人家族の賃金収入も白人家族のそれの40%
戦争が続いていて、誰もが手助けになることは何で
から60%へ増大した。
」(同上:53‐54)また黒人
もしようと強く思っていたから。
」
(同上)
労働者の権利意識の高揚と労働組合内部での連帯
先に引用したニューヨークで機械工として働い
―2
8―
京谷栄二
リベット工のロージーと女子挺身隊
1
3
1
たセリア・ヤニシュはその後鋳型を作る工場へ
「次から次へと男たちは軍隊に招集されている。彼
移ったのだが、そこでの仕事が以前と異なる熟練
らの仕事は誰かがやらなければならない。今やらな
を必要とし彼女に自尊心を与えたと語っている。
ければならない。では誰 が や る の だ。あ な た た ち
「私はその仕事が好きだった。だって物を作るのだ
だ!その仕事を遂行し、男たちに必要とするものを
から。私はただ鍵にネジを差し込んでいたのじゃな
与えられるのは、あなたたち女性なのだ。
」
(同上:
い。それが精密な仕事だということはわかっていた
9
7)
し、熟練が必要だった。その仕事は、それ以前に私
女性労働者を募集する宣伝において特徴的なの
がもったことのなかった自尊心を与えてくれた。
」
は、工場労働を家事労働に譬えてその容易さをイ
(同上:2
4)
メージさせ、その気にさせる手法が多用されるこ
これらの証言は、戦時の労働体験が女性たちの
とである。「ナレーターは事実を歪めて、彼女た
間に、労働にたいする意識と自覚を高揚させ、同
ちを説き伏せ、工場の熟練労働は丁度家事労働の
時に誇りと自尊心を生んだことを示す。しかしこ
ようなものであるという印象を与えようとする。
のような労働過程におけるジェンダー関係の変化
ドリルのプレスを操作するのは『ジュースを絞る
は、生活過程における関係の変化を必ずしも伴わ
くらいに簡単だ』と説明される。」(同上:91)あ
なかった。依然として伝統的な家事労働における
るいは、上記の OWI の映画は次のように宣伝す
性別役割分業が存続したために、戦時の女性労働
る。
者たちは、産業における労働と家庭生活における
「兵器を作る仕事はおもしろいし、む ず か し く な
労働との「二重の負担」を背負い「二重の日課」
い。それ以上に、戦争の勝利に協力し、兵隊の命を
を遂行せねばならなかった。他方では、女性の間
救っているのだとわかる。ほとんどの仕事は家庭で
でのジェンダー観の覚醒は、男性の伝統的なジェ
使う道具と同じくらい観単にできる。掃除機を使え
ンダー観との間に軋轢を生み、このことが離婚の
る女性ならだれでもこの仕事に参加できます。
」
(同
原因にもなった(同上:63−75)。
上:9
8)
しかし政府も企業も、産業への女性動員は戦争
「私が夫に『仕事を手に入れたわ』と言ったら。夫
が続く限りにおいて必要なこと、したがって戦争
は怒り狂った。
」
(同上:7
0)
が終わればその必要性は消失し、復員する男性労
第3節
動員と排除をめぐるプロパガンダ
働者が職場に復帰すべきことを当初より認識して
この映画の秀逸な点は、戦争初期には戦時生産
いた。「戦争の末期には、男性労働者に彼女たち
増強のために大量の女性を動員する目的で、そし
の仕事を明け渡すように女性労働者を説得する大
て戦争末期には復員する男性のためにその女性た
量のプロパガンダが展開された。兵役の間に先任
ちを産業から排除する目的で政府が行ったプロパ
権を蓄積した退役軍人たちが再雇用されたばかり
ガンダを記録していることである。第二次大戦期
でなく、兵役に従事したことも、あるいは軍需産
にこれらの情報宣伝を担当したのは政府の戦時情
業で働いたこともない多くの男 性 が 雇 用 さ れ
報局(OWI)であった。
「OWI に与えられた責務
た。」(同上:94)このような考え方は労働組合内
の一つは、女性は戦時労働に従事できる、実際に
部 に も 流 布 し て い た。映 画 で は、機 械 工 組 合
従事しなければならない、という考え方を『売り
(Mechanists Union)のビル・ジャックという人
つける』ことだった。OWI の宣伝は、戦時生産
物が、ある工場の集会で次のように熱狂的に演説
労働に女性を募集し、個人的な事柄は犠牲にして
する場面が映される。
生産増強を遂行するように説得し、そして戦争が
「平和が来たとしてもあなたたちが失業して困ると
終わ る 時 に は 離 職 す る よ う に 彼女 た ち を 促 し
いうことはない。あなたたち女性は軍隊が夫を、兄
た。」(同上:89‐90)
弟を、息子を招聘したから雇われたのだ。この戦争
OWI が女性労働者を動員するために作成した
に勝利を収めたとき、どの兵士も自分の仕事を取り
映画”Wanted : Women War Workers”は次のよう
戻す。そしてあなた方、婦人たち、娘たちは家に戻
に訴える。
り、再び主婦となり母となる──あなたたちが雇わ
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7
れたとき約束したように。もしすべての産業がこの
止する力をもたなかった。女子と男子の先任権を
単純な政策を採用するなら、戦後の深刻な失業問題
区別した戦時中の措置は、女子の雇用の確保に不
など起こりはしない。
」
(同上)
利に作用した。
「戦時中の労働組合は、女性労働
戦後の労働過程からの女性労働者の排除と平行
者を熱意をもって迎え入れ、支援したとはいえ、
して、マスメディアは伝統的なジェンダー観にも
労使平和協定締結後は、戦時動員された女性労働
とづく女性像を流布するようになる。雑誌、新
者を解雇する経営側の決定にたいして熱心には戦
聞、ニュース映画などのメディアは、豊かな消費
わなかった。…(中略)…女性の戦時労働者は男
生活を誇示するとともに、その消費生活を守る女
性より75%高い比率でレイオフされ、戦後の経済
性の家庭役割を強調した。
不安の矢面に立たされることになった。」(同上:
「戦後の大衆文化は、外で働き続けようとする
37)「それゆえに、1
945年に平和生産が再開した
女性を、離婚、非行、犯罪等々、人々を悩ます問
とき、1年以内に1千8百万の女性労働者のう
題の原因となるわがままな女性であると描き非難
ち、325万人が自発的あるいは非自発的に職を
した。あるニュース映画はこう訴える。
去った──50万人ほどは二度と仕事に戻れなかっ
家族はもっぱら、家長であり稼ぎを 上 げ る 父 親
た。」(同上:19)
と、料理をし家を守り、子供を育てる母親のもとに
かくして主要産業の労働過程から女性労働者は
築かれる。結婚制度にもっとも破壊的に作用する現
排除され、家庭に押し戻されるか、伝統的な低賃
代生活の一つの傾向は、女性の経済的自立の増大で
金部門の職種に再び編入された。
「製造業の高賃
ある。両親共働きのところではどこでも子供たちは
金の職種は、退役軍人でもないし、先任権ももた
適切な監督としつけを受けずに置き去りにされてい
ない場合でさえ、男子労働者に優先的に確保され
る。
」
(同上:9
5)
た。その結果、女性は軽工業の低賃金職種か、レ
この時代に影響力をふるった心理学者であり、
ストランやホテルのサービス職種に戻ることを余
当時のベストセラー『現代の女性:失われた性』
儀なくされた。
」(同上:21)
の共著者マリニア・ファルンハム博士は、女性が
カリフォルニア州リッチモンドの造船所で溶接
労働力として参加することは家族生活の不幸の原
工として働いていたグラディス・ベルヒャーは、
因であると力説するデマゴーグとして活躍した
戦後さまざまな職業訓練を受けたにもかかわら
(同上:91)。映画の中で彼女は臆面もなく次の
ず、結局は調理場の仕事しか見つからなかった。
ように述べる。
「暑くてつらい仕事。重たいものを持ち上げて。造
「アメリカの女性を女らしさから遠のけ職業へ向か
船所の仕事よりずっとつらい仕事で、ずっと低い賃
わせる社会にとって破壊的な過程が、女性にも社会
金。
」
(同上)
にも多大な代償を負わせながら進行している。女性
映画の最後に、ニューヨークのブルックリンで
の役割を捨てることは、彼女たちから充実感を奪い
溶接工として働いていたローラ・ワイクセルが登
不幸にする。それは母親の愛を受けられずに子ども
場し、皮肉をこめて述懐する。
「多くのアメリカ
たちを不幸にする。それは本当の女性を伴侶とでき
人は、私たち女がこの国の生産にどれだけ貢献し
ずに夫たちを不幸にする。それどころか今や妻たち
たかをわかっていたのかも知れないけれど、だい
は彼らのライバルになる。
」
たい女が工場で働くなんて冗談だったのよ。」
当時のポスターが、このような伝統的ジェン
ダー観の復活を象徴する。
この章では記録映画「リベット工のロージー」
“Your Baby or Your Job”(子供を取るか、仕
事を取るか)
の分析をとおして、太平洋戦争中の女子労働力動
員が、労働過程のあり方を女子に適したものに変
復員する男子労働者の雇用を確保するために女
化させたり、女子労働者の組織化を進めたり、女
性労働者を排除しようとした政府と企業の政策、
性の労働者としての自覚と権利意識を高揚させる
そしてその排除をイデオロギーの面で支援したマ
など、労働過程におけるジェンダー関係に及ぼし
スメディア、さらに労働組合もまたこの排除を阻
た影響を描写した。この労働過程の変化について
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リベット工のロージーと女子挺身隊
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そして女たちはキッチンへ戻った
From “The Life and Times of Rosie the Riveter,” a documentary film available at www.clarityfilms.org
以下の二点を確認しておく。第一に、経営、労働
「特定の産業に視点を定めて性別職務分離を歴
組合、そして社会全体の男性優位の体制とイデオ
史的に研究する」彼女の方法は以下の利点をもつ
ロギーがその変化を制限していたこと。第二に、
とされる。第一に、性別職務分離が形成される過
制限されたものであったとはいえ、戦時中の変化
程とその分離が維持されていく構造を分析するこ
が戦後のアメリカ社会における男女平等を進める
とができる。第二に、産業間の体系的な比較分析
運動と政策につながったことである。
が可能になる。ここで対象とされるのは、女子雇
第2章 ルース・ミル ク マ ン:第2次 大 戦
期アメリカにおける性別職務分離の研究
第1節
ミルクマンのジェンダー研究の方法論
用の異なる型をもつ自動車産業と電機産業であ
る。第三に、性別職務分離にかんするマルクス主
義フェミニズムやラディカル経済学の決定論的な
理解の限界を示すことができる。それらと異な
前章で紹介した「リベット工のロージー」の物
り、ここでは、
「性による雇用の型を形成する、
語を、社会科学の手法であたかも再現したかのよ
その時々の歴史に固有な経済的、政治的、そして
うな研究が Ruth Milkman, Gender at Work,1987で
社会的な要因」が重視される。
ある。この著書は、アメリカの産業における性別
最後の各種の決定論に対する批判を敷衍しよ
職務分離(job segregation by sex)の第二次大戦前
う。第一に、ジュリエット・ミッチェルらの初期
における形成、戦中における転換、そして戦後に
のマルクス主義フェミニストは「女性を低賃金で
おける再構築を自動車産業と電機産業のケースス
消耗品の労働[力]として構成するのは、家族内
タディ を と お し て歴 史 的 に 分 析し た 傑 作 で あ
部の性別分業である」
([
る4)。まずミルクマンの方法論の特長を整理しよ
解、すなわち、家庭内の労働における性別分業か
う。
ら家庭外の社会的労働における分業を規定すると
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]内京谷)という見
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いう決定論におちいっていた(J. Mitchell1971)。
産業においては1900年前後に労働の単純化と熟練
第二に、リチャード・エドワーズらのラディカル
の解体が進み、大量の職種が男子労働者から女子
経済学者たちの労働市場分割論は、第一次セク
労働者へ切り替えられた。一方自動車産業では、
ターと第二次セクターへの労働市場の分割が性別
低賃金の女子労働力に依存する必要度が相対的に
職務分離を生むという決定論におちいり、性別分
低かった。この産業では移動組み立てラインによ
離は独自な問題としては論じられていない(R.
るフォード的生産方式の普及と、機械に強制され
Edwards1979,D. Gordon et al.1982)。また彼らの
る労働と引き換えに支払われる高賃金(フォード
議論においては、性別職務分離にかんする資本家
の“five dollar day”に象徴される)とが対を成すフ
階級の共通の利害と、他方における労働者階級の
ォーディズムが支配した。この高賃金政策は、男
共通の利害が所与のものとして前提されている。
は家庭にいる女子供を養うべきだというジェン
第三に、マルクス主義フェミニズム研究において
ダーイデオロギー、またそれと関連する「家族賃
画期を成したハイディ・ハルトマンの研究は、男
金」イデオロギーと結びついていた。このイデオ
子労働者と彼らが支配する労働組合が性別職務分
ロギーは経営者ばかりでなく「戦前の労働者階級
離を支持し、資本の利害を補強する役割を果たす
のコミュニティのなかで大きな影響力をもった理
ことを指摘した。この点で重要な研究であるが、
念であった。」(同上:23)
しかし彼女の議論は、家父長制の権力が労働市場
これらの理由により二つの産業には異なる女子
における女性の位置を規定するという決定論にお
雇用の型が形成されたが、しかし性別職務分離に
ちいっている(H. Hartman1976)。また彼女は、
ついては、女は軽い低賃金の仕事、男は重い高賃
「男子労働者の階級的利害とジェンダー利害とが
金の仕事に従事するという同様の区分が形成され
軋轢を起こすことを無視」している。男子労働者
た。この職務分離の形成には「性区分のイディオ
の階級的利害はジェンダー利害に勝ることもある
ム」(the ideom of sex-typing)が重要な役割を果た
し、ま た 逆 の 場 合 も あ る(Milkman1987:3‐
した。女子の工場労働を区分する「そのイディオ
5)
ムは、手先の器用さ、細部への注意力、単調さに
最後に、ミルクマンの方法論の独自性は、性別
耐える能力、そして結局は、男性と比べた女性の
分業を再生産し強化するイデオロギー的要因を分
体力のなさに集中する。」(同上:16)このような
析している点にある。性別分業が一度成立する
性別のパターンは一度成立すると簡単には変化せ
と、男子労働者ばかりでなく女子労働者もそれを
ず、1930年代大不況下の激変にもかかわらず強固
「自然なもの」として受容する傾向がある。
「性
に存続した。
7)。
別区分のイデオロギー(the ideology of sex-typing)
1935年に結成された産業別組織会議 CIO は、
はこのような力をもつ。」(同上:8)
「イデオロ
クラフト・ユニオニズムのアメリカ労働総同盟
ギー、とくに女の仕事と男の仕事を区分するイデ
AFL にたいして、インダストリアル・ユニオニ
ィオムが、特定の労働市場において形成された性
ズムの路線をとり、熟練、人種、性に関係なく組
別分業の再生産にとって、中心的な役割を果た
織化を進めたが、しかし女性の組織化と性差別の
す。」(同上:157)「秘書と看護婦は女だし、女で
解消は主要な課題とはならなかった。また大不況
あるべきだ。トラック運転手と建設労働者は男だ
の時代にアメリカ社会ではかえって、「『女の居場
し、男であるべきだ。これらは経営者ばかりでな
所は家庭である』というイデオロギー的言説」
くほとんどの労働者にとって検討するまでもない
(同上:28)が強化され、労働運動内部にも浸透
当たり前のことでありつづけている。」(同上)
した。圧倒的に多くの女子労働者をかかえる電機
産業では、必然的に全米電機労組 UE は女子労働
第2節
戦前における性別職務分離の形成
者に高い関心をもち、多くの地方支部で女性委員
1910年から40年まで一貫して自動車産業におけ
会が設置された。それにもかかわらず UE におい
る女子労働者の比率は5%前後であったのに対し
ても女性の活動家にたいする偏見と差別が存在
て、電機産業のそれは約3分の1であった。電機
し、女性の活動は制限されていた。また少数では
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あったが、全米自動車労組 UAW においても女性
どを強調するイディオムが相変わらず利用され
活動家が活躍した。1937年には29名の女子組合員
た。しかし戦線が拡大し男子労働者の徴兵が進む
がミシガン州の平等賃金法(Michigan’s equal pay
に連れて、男性が従事していた仕事に女性を従事
law)に GM が違反しているとして州政府に訴え
させざるをえなくなる。すると、この新たな動向
た。限られたものであったとはいえ、このような
と女性が繊細な仕事に向いているというイデオロ
女性たちの活動が来るべき戦中の時代に女性活動
ギーとの間の矛盾を解消するために、工場での仕
家が担う主導的地位の礎を築いた。
事と家庭での女性の仕事との新たなアナロジーが
しかしこの時代の両産業における男女平等な賃
加えられる。
「ポテトの皮がむければ、ドリルで
金を求める労働組合の運動は、低賃金の女子によ
穴をあけて栓をするのは簡単なことだ」などとい
る代替を避けようとする男子組合員の意向によっ
う言説が流布し、
「こういう仕方で実際どの仕事
て進められたものであった。したがってその目的
にも『女性の仕事』というレッテルを貼ることが
は性別職務分離の廃棄ではなく、その温存であっ
できた。」(同上:6
1)
た。このような運動の結果、
「労働組合が存在し
「家庭の仕事とのアナロジーのような言説が、
ない時代に作られた男女別に区分された賃金と先
以前は『男の仕事』であった作業に従事する女性
任権の仕組みは、多くの地方支部の契約において
の姿と伝統的な女性らしさのイメージとを有効に
制度化されることになった。」(同上:48)すなわ
調和させるのである。
」しかしこの男女の置き換
ち、性別分業をめぐる労働組合の運動は、
「意図
えは一時的なものであるべきだった。このイデオ
せざる結果として、産業における男女不平等の一
ロギー的言説は彼女たちを第一に女性として、次
般的な構造を強化することになった。
」(同上:
に労働者として規定しており、
「彼女たちは、戦
47)
争が終わり本当のその仕事の所有者が戻ってきた
ときには、優雅に『男の仕事』から退却するであ
第3節
戦時における女子労働者の動員と労働組
ろうという見通し」を明らかに含んでいた(同
合の対応
上:61‐63)。このような性別区分のイディオムを
太平洋戦争が始まり戦線が拡大するともに、男
経営が積極的に利用したとはいえ、労働組合も一
子労働力の不足を補うために大量の女子労働者が
般労働者もそれに抵抗しなかったのである。
工場労働へ動員されるようになる。1940年と44年
UAW は男性失業者の雇用を優先する立場か
の女子労働力比率を産業ごとに比較すると、その
ら、戦時の自動車産業への女子労働者の雇用に反
比率は鉄鋼業では6.
7%から22.
3%へ、電機産業
対した。その立場から先任権にもとづく再雇用の
では32.
2%から4
9.
1%へ。自動車産業では5.
7%
場合も組合は男性に優先権を与えたし、会社が男
から24.
4%へ、そして製造業全体では24.
1%から
性を好んで雇用することに対しても女性労働者の
33.
2%へ増大した(同上:50)。しかしこの増大
先任権を守ろうとはしなかった。そればかりでは
にもかかわらず性別職務分離は解消されず、男の
なく低賃金の女性労働者による置き換えを恐れ
仕事と女の仕事の境界線が移動し再編成されたた
て、1941年にミシガン州プリムスで起こったスト
だけであった。
ライキでは、UAW は経営に「UAW が男性の仕
自動車企業は戦争開始当初は白人男性の雇用に
事であると主張する、機械に携わる仕事からいっ
固執し女子を雇用したがらず、雇用したとしても
さいの女性を排除」することさえ要求した。しか
戦前どおりの一部の職種への充用にとどまった。
し戦時労働力不足のために大量の女子が雇用さ
例えばフォードのリヴァー・ルージ工場では1943
れ、従来の男女の職務区分の維持が困難になる
年1
2月に女子労働者の62%は416の職種のうちの
と、UAW は「同一労働同一賃金」(Eaual pay for
わずか20職種に従事していたにすぎない(同上:
Equal Work)を要求するように変わる。この路線
58)。そしてこのような区分を正当化するために
の転換も、第一に、女子労働者への代替の経営的
男性と異なる女性の特徴や能力、すなわち器用
効果を削減し、第二に、低賃金の女子が男子職に
さ、忍耐力、筋力の弱さ、反復作業を好む傾向な
従事することにより戦後男子労働者へ賃金引下げ
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の影響が及ぶのを避ける意図から行われた(同
の利害を前面に出すことはできず、自らの利害を
上:67‐77)。
男性労働者も含めた階級的脈絡につなげなければ
UAW と異なり多数の女子組合員をかかえてい
ならなかった。UE の1942年の大会においてある
た UE は、「最初から、同一労働同一賃金と賃金
女性活動家は次のように発言している。
「われわ
の男女間格差を縮小する要求」を掲げた。例えば
れは女性のためだけに戦っているのではない。わ
ウェスティングハウス社と UE の間で1
942年に、
れわれはこの組合が築き上げてきたすべての基準
男女の時間賃率の差を2セント縮小することが合
を守るために戦っているのだ。」(同上:84‐98)
意されており、またその年の終わりには、「『男性
職』に配置される女子には、議論の余地なく男子
第4節
戦後における男子労働者の帰還と女子労
働者の排除
の賃率で支払うこと」が合意されている。さらに
1945年 に UE が ゼ ネ ラ ル・エ レ ク ト リ ッ ク 社
アメリカの戦後の産業界では大量の女子が職場
(GE)とウェスティングハウス社を戦時労働委
から、あるいは男性の仕事から排除され、戦前の
員会 WLB に提訴した際に下された決定には、今
体制への復帰が起こった。これについて、通説は
日言う所の「コンパラブル・ワースによる平等な
次の二点を強調してきた。戦後女子の家庭役割が
賃金」(equal pay for comparable worth)の要求も
再び喧伝されたこと、および戦線より帰還した男
盛り込まれていた6)。しかし戦時に示された UE
子労働者を雇用し、女子労働者を排除するように
の男女賃金格差に対する関心の真意は、UAW と
労働組合が先任権の仕組みを操作したことであ
同じく「戦後の賃金構造と男子の賃率の保護」で
る。これにたいしてミルクマンは第一に、多数の
あった。上記の提訴において UE が提出した文書
女子が戦中に従事していた仕事にとどまることを
にはこう述べられている。
「兵役に赴いた6万人
望んだにもかかわらず、女子を「男子の仕事」か
の GE の労働者と2万6千人のウェスティングハ
ら排除し再雇用することを拒否した「経営の雇用
ウスの労働者が、彼らが戻る多くの職務が低賃金
政策」の役割を強調する。そして第二に、公式に
の女子 の 職 務 に 変え ら れ て い るの を 見 る だ ろ
は先任権にもとづき女子の仕事の権利を守ろうと
う。」(同上:77‐83)
した労働組合が、実際には、
「男子の仕事」に女
このように性別格差をめぐる戦時中の労働組合
子労働者を雇い入れることに反対したというその
運動の意味は制限されたものであったが、しかし
二律背反的な態度が、戦前の性別分業体制を再構
戦時をとおして労働組合内部における女性の影響
築する経営の政策を補強した点を強調する(同
力は決定的に拡大した。
上:100‐101)。
労働組合全体に占める女子組合員の数は1940年
産業別にみると、戦後の自動車産業においては
の80万人、9.
4%から1944年の300万人、21.
8%へ
大量の女子がレイオフされた結果、1945年4月に
飛躍的に増大し、執行部(とくに地方支部レベル
158,
100人、全体の22.
4%を占めた女子労働者は
の)における女子役員の増大が顕著であった。
1946年4月には61,
400人、9.
5%にまで減少した
UE の全国大会に選ばれた代議員に占める女性の
(同上:113)。他方で経営は、先任権とは無関係
数 は1941年 の25人、6.
3%か ら1944年 の104人、
に大量の退役軍人、とくに若い白人男性を雇い入
13.
3%へ増大し、1944年にはルース・ヤングが全
れ、同時に黒人男性の雇用も増やした。
国本部の初めての女性幹部に選出された。またこ
電機産業においてはやや事情が異なる。ここで
れよりは控えめではあったが UAW においても執
も女子労働者が男子より頻繁にレイオフされたと
行部への女子の進出は進んだ。しかしこのような
はいえ、戦後の消費財生産の再開にともない多数
変化にもかかわらず、一般的には女子の指導は下
の女子が再雇用された。すなわち1
945年4月に
部組織に押し込められて い た。「工 場 自 体 よ り
347,
200人、全体の47.
5%を占めた女子労働者は
ずっと、労 働 組 合 は 伝 統 的 に 男 の 世 界 で あ っ
1946年4月には1
81,
600人、39.
4%に一旦減少し
た。」そしてこれがまた女子にとっての組合活動
たが、1947年4月には216,
600人、38.
2%へ絶対
の限界ともなった。女性の活動家たちは女性のみ
数を増大させている(同上)
。しかし再雇用され
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たとはいえ、彼女たちは戦中に従事した「男性の
業における性別分業の全体を表現するイディオム
仕事」にではなく「女性の仕事」に雇用された。
を正当化することに手を貸すことになった。」(同
「女性が戦中に占拠した仕事にずっと男性に代
上:141‐3)このような経営と UAW の政治的状
わって従事することがたまたまあったが、しかし
況のなかで、女子の先任権を守る運動は挫折し、
より頻繁に、彼女たちは『男の仕事』から排除さ
戦前の性別分業が再構築されていったのである。
れ、そして以前に女性が従事していた低賃金の職
戦後の電機産業における雇用をめぐる労働者の
務に移された。」(同上:117)
分断は、自動車産業と異なり、男女の間ではなく
かくして、
「自動車産業においても電機産業に
既婚の女子労働者と未婚の女子労働者の間に生じ
おいても経営は戦前の性別分業を再構築したので
た。経営側ばかりでなく UE の地方支部において
ある。」(同上:118)
も、一部で既婚女子労働者を排除する差別的な動
このような経営実践に労働組合がどのように関
与したのか検討しよう。
きが起こった。これに対して女性組合員は抗議活
動を展開し、先任権が男子も含めて労働者全体に
自動車産業においては、戦後再編期に起こるで
もつ意味を強調した。性別分業をめぐる今ひとつ
あろう女子労働者のレイオフを予想して、UAW
の重要な闘争課題、戦時中に登場した「コンパラ
の女性活動家たちはレイオフと再雇用の両面にお
ブル・ワースによる平等な賃金」という画期的な
いて女子の先任権を強化する課題に運動の焦点を
課題が、自動車産業と異なり電機産業においては
絞った(同上:130)。この時、彼女たちはジェン
戦後に引き継がれた。例えばそれは1946年の UE
ダー的利害でなく階級的利害を優先させ先任権を
の大規模なストライキの主要な争点であった。女
守る戦略に訴えた。すなわち先任権の性別分離を
子労働者による代替にたいする男子組合員の脅威
認めると、経営側が実現しようとする「異なる職
がその運動が展開される動機の一つであったとは
務集団相互の間では先任権が通用しない制度」
いえ、女子組合員は女子に差別的な「二重賃金構
(noninterchangeable occupational group seniority)
造」が男子労働者の雇用に及ぼす影響を訴えるこ
を事実上認めることにつながり、男子労働者の利
とによって、平等な賃金に対する男子組合員の支
益も大きく損なわれることを訴えたのである(同
持を得ることに成功した。UE の女性活動家は当
上:133)。しかしこのような彼女たちの戦略は多
時の運動を回顧してこう述べる。
「これは女性の
くの場合成功しなかった。
「自動車では、失業の
問題ではあるが、すべての雇用労働者に共通する
脅威のゆえに男子労働者が職務の大部分を独占す
重要性をもつ問題である。これは『彼ら対われわ
るための手段として先任権における女性差別を利
れ』の問題ではないのだ。
」(同上:148)このよ
用した結果、男子労働者を女性の仕事の権利を守
うな運動の結果、1940年代後半に電機産業におけ
る戦 い に 動 員 す る こ と は き わ めて 困 難 で あ っ
る女子と男子の賃金格差は改善された。しかし性
た。」(同上:151)またこの困難には「性別区分
別分業をめぐる UE の闘争は、1
949年の UE と国
のイディオム」をめぐる、経営と UAW との攻防
際 電 機 労 組 IUE の 分 裂 に よ っ て 打 撃 を 受 け、
戦が関係していた。戦後経営側は従来のイディオ
1950年代以降は顕著な成果を上げることができな
ムを逆手にとって、女子を自発的に退職においや
かった(同上:149‐151)。
るためわざと重い困難な仕事に従事させた。この
以上いずれの産業においても、女性たちは男子
経営の策動に反対して UAW は、女子を「女子に
労働者と共通する階級的利害を前面に出して運動
適した仕事」
、「女子が行うことのできる十分に
を展開した。しかし性別分業の伝統が根強く存在
『軽い』仕事」に従事させるように要求した。
した自動車産業ばかりでなく電機産業において
「かくして争点は、性別分離の仕組みの正当性を
も、労働組合内部の弱さのゆえに顕著な効果を上
問うのではなく、女の仕事と男の仕事の間の境界
げることはできなかった。
「かくして戦時の変化
線をどこに引くかという問題になってしまった。
が与えた女性の経済的位置を永久に変えるための
丁度戦時動員の時と同じように、
『女の仕事』の
格好の機会は失われた。それに代わって、経営が
境界をめぐる闘争は、意図せざる結果として、産
戦前の線に沿って戦後の世界を再構築することに
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成功し、そして戦後の時期に展開された抗議運動
の研究は、前章の「リベット工のロージー」で描
は人々 の 記 憶 か らす ぐ に 消 え 去る こ と と な っ
かれた世界をより詳細に社会科学の手法をもちい
た。」(同上:152)
て解明したものといえる。
それでは、これまで叙述してきた太平洋戦争期
第5節
ミルクマンのジェンダー研究の意味
の女子労働力動員と戦後における再編は、日本に
今日、女性の職場進出やフェミニズムの興隆が
おいてはどのように進んだのであろうか。章をか
喧伝されているとはいえ、実際問題として、
「性
えてこの過程を分析するとともに、女子労働力戦
による職務分離と賃金の不平等」
、そしてそれと
時動員体制の日米比較を試みる。
結びついた「仕事の性区分(sex-typing)」は驚く
ほど根強く残存している。このような労働過程の
第3章 女子労働力戦時動員体制の日米比較
最初に、日本における女子労働力戦時動員過程
ジェンダー的構成を理解しその問題点を考える上
で、特定の産業に焦点を当てて歴史的に分析した
を概括する。
ミルクマンの実証研究がもつ意味は大きい。彼女
1938年4月1日に制定された国家総動員法は、
は既存の歴史研究、政府関係資料はもとより労働
その第4条において、
「政府ハ戦時ニ際シ国家総
組合の議事録からパンフレットに至るまでありと
動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国
あらゆる資料を駆使し、また当時の労働組合運動
臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムル事ヲ
で主要な役割を果たした女性活動家に対するイン
得」と規定した。これによって政府が戦時生産体
タビューも織り込みながら、それぞれの時代に労
制へ国民を勤労動員する法的根拠が与えられた
働過程におけるジェンダー的構成が形成された、
が、しかし当初動員の主要な対象とされたのは男
その「歴史的瞬間に動いていた経済的、政治的、
子であった9)。日本の軍事行動が東アジア全域へ
社会的諸力」(同上:157)を生き生きと描いてみ
と広がり、日米開戦が迫るなか、1941年に政府は
せる。さらにその筆致は、女の仕事と男の仕事を
戦時生産への勤労動員体制を強化するために女子
区分するイディオムの分析をとおして労働過程の
を積極的に動員する対策に着手する。すなわち、
ジェンダー構成のイデオロギー的次元を鮮明に映
勤労報国精神の確立高揚を目的とした「労務緊急
し出す。このような方法により、ジェンダーをめ
対 策 要 綱」(1941年8月29日 閣 議 決 定)に お い
ぐる経営と労働組合の関係、そして労働者の意識
て、勤労動員する女子労働者を拡大する方向が明
の変化を分析し、アメリカの労働過程におけるジ
示され、勤労報国隊として男子と並んで女子を動
ェンダー構成の歴史的変遷を解明したミルクマン
員する対策が進められた。その後太平洋戦争が拡
の研究は、ブレイヴァマンとブラウォイ以降の労
大の一途をたどるなか、徴兵で減少する男子労働
働過程論争において独自な位置を占めている7)8)。
者を代替する女子労働者の必要はますます拡大
し、1943年に政府は女子労働者の大量動員を開始
この章では自動車産業と電機産業を対象とした
する。その実施策として、9月13日の政府の次官
ミルクマンの研究をとおして、戦時における女子
会議で「女子勤労動員の促進に関する件」が決定
労働者による男子労働者の代替の進行とそれに伴
され、「ここに女子挺身隊が実現することとなっ
う労働過程の変化を、性別職務分離にかかわるイ
た。」(塩田1984:121)これら一連の政策によっ
デオロギーの次元や労働組合における女子組合員
て若年の未婚女子が戦時生産体制に大量動員され
の発言権の領域まで掘り下げて分析した。そして
る10)。
戦後の時代に戦前の体制を再構築しようとする経
他方では、1943年6月の「学徒戦時動員体制確
営側の攻勢にたいして、男性優位の考え方を保持
立要綱」および10月の「教育ニ関スル戦時非常措
する労働組合が有効な活動を展開できず、かえっ
置方策」により学徒を戦時生産に勤労動員する体
て経営側の政策を補強する役割を果たし、戦前の
制が整えられた。1944年に入るとすぐに「緊急学
性別職務分離体制がアメリカ合衆国の産業におい
徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され(1月18
て再構築される過程を分析した。このミルクマン
日)、中等学校以上の生徒たちの、軍需生産、輸
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リベット工のロージーと女子挺身隊
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送、衛生、食糧増産などへの勤労動員が開始され
められた。」これにもとづき翌春には既に、「各都
た。かくして女子挺身隊と並んで女子生徒たちも
道府県単位で女子勤労動員協議会が結成され、…
また戦時労働力として動員される。
(中略)…それぞれの協議会は中央から割り当て
このような日本における戦時女子労働力の動員
られた動員数を確保するために懸命に活動し、学
過程と合衆国の動員過程とを包括的に比較検討し
校や隣組などあらゆるルートを通じて対象者の絞
た優れた研究として佐藤2003がある。また戦時下
り込みと説得にあたった。
」このように進められ
の女子労働にかんする先駆的研究として塩田1984
た動員過程のなかで、
「最も多くの未婚女子を動
および200
0がある。以下これらの研究に学びつ
員したのは、女学校単位で結成された卒業生の挺
つ、アメリカ合衆国と日本における動員過程の比
身隊」であり、次いで地域単位の女子挺身隊、そ
較を試みる。
して一部のものが職域別挺身隊として組織され
!
自発と統制
た。これら三種類の女子挺身隊が「全国各地で
合衆国では、労働力不足が深刻化している地域
次々と結成され、終戦までに47万2573人もの女性
に限定して、あくまでも本人の自発的な意思にも
が組織的に軍需産業へ動員されるに至った。」(同
とづいて女子労働者は戦時生産体制へ動員され
上:73‐6)
た。佐藤は次のように述べる。
「これらの地域を
合衆国との比較をとおして、佐藤は日本の動員
限定して行われた女性の登録は、あくまでも女性
政策の特徴を次のように結論する。
「このような
の自発的な協力を前提としており、法的な拘束力
国家的な統制による包括的な労務動員政策が『日
を伴うものではなかった。」(佐藤2003:40)そし
本型』の総動員体制の柱であった。」(同上:80)
て「最後まで、男性も女性も自発的に軍需産業へ
"
就業するよう行政が誘導していくことが労務動員
太平洋戦争下において、以上の相違はもちつつ
の基本となった。」(同上:70)
母性主義イデオロギーの違い
も日米両国において女子労働力の戦時生産体制へ
これに対して日本では、強力な国家統制による
女子労働力の動員が実施された。
の動員が進んだ。他方この進展が、家庭において
子供を育てる女性役割を強調する母性主義イデオ
まず、労働力の全国的な登録が最後まで行なわ
れなかった合衆国と異なり、日本では太平洋戦争
ロギーとのディレンマを絶えず孕んでいたのは、
日米両国に共通する事情であった。
開始前に既に国民登録が実施され、以後登録対象
合衆国では、アメリカ民主主義を支える基盤と
が拡大されていった。すなわち、1941年8月に閣
しての家庭における女性の役割が強調された結
議決定された「労務緊急対策要綱」にもとづき、
果、小さな子をもつ母親は動員の対象外とされ、
「16歳から40歳の男性と16歳から25歳未満の未婚
未婚女性と戦争未亡人が対象とされた。戦線が拡
女性を対象にした青壮年国民登録が全国的に実施
大し、徴兵が急増するにつれて労働徴用の法制化
された。」ここから、1944年2月の「国民職業能
が日程にのぼり、オースティン=ワズワース法案
力申告令改正」まで、登録対象が漸次拡大され、
が、1943年2月議会に提出された時も、この法案
「『一元的普遍的 な』国 民 登 録 制 度 が 確 立 さ れ
にたいする賛成論、反対論ともに、女性の家庭役
た。」
(同上:40‐41)
割と母性を強調し、賛成派にあっても、子育て中
第二に、女子労働力を戦時動員する国家統制
は、主に地域組織と学校組織をとおして貫徹され
の女性が対象から除外されることは「暗黙の了
解」であった(佐藤2003:48‐54)。
た。政府は1943年9月に決定した「女子勤労動員
他方日本においては、この母性主義イデオロ
の促進に関する件」において、市町村長、町内
ギーが、天皇制国家主義に裏打ちされてより強力
会、部落会、婦人団体、学校長などとの協力の下
な形で表れる。皇国民、とくに兵士を生み育てる
で、女子勤労挺身隊を自主的に結成させ、団体的
「母性の国家的使命」が強調され、この母性こそ
に出動させる制度を採用し、
「この決定は翌月、
が、「東亜共栄圏ヲ建設シテ其ノ悠久ニシテ健全
通牒として厚生省の労働局長から各都道府県知事
ナル発展ヲ図ルハ皇国ノ使命ナリ」を謳う戦時の
へ送られ、地域レベルでの女子挺身隊の結成が進
人口政策を実現する核であった(
「人口政策確立
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要綱」1941年1月22日閣議決定)
。女子労働力戦
ける生産過程を比較する。合衆国の航空機産業で
時動員体制は母性を核とする人口政策と両立する
は、1
910年代以降自動車産業において発展した
ものであらねばならず、したがって政府は最後ま
──自動車王ヘンリー・フォードに象徴される
で女子徴用に消極的であった。厚生大臣小泉親彦
──「ライン生産方式を、航空機生産に応用し、
は「家族制度の維持という理由から女性の労働徴
女性を中心とした非熟練労働者の数を増やしなが
用に対し消極的な姿勢を表明」していたし、東条
ら、軍 用 機 の 増 産 に 成 功 し た。
」(佐 藤2003:
英機首相自身が帝国議会において「国家統制力を
149)技術革新を進め、生産過程の基盤を変化さ
以って[女性を]勤労部面に駆り立てる事は家族
せることにより、女子労働者を単純労働力として
制度の破壊であり日本には許すべからざる」こと
全面的かつ体系的に利用することを可能にした合
11)
──現実に
であると述べている(同上:6
3‐4)
衆国とは対照的に、
「戦時期の日本では、主要航
はこの発言とは裏腹に、既述のように日本におけ
空機メーカーのいくつかの工場において、
『擬似
る女子労働力動員はきわめて国家統制の性格の強
的な』流れ作業方式が導入されたにすぎず、生産
いものであった。
方式の転換による軍用機の増産は十分に進まな
日本ではこのような強固な母性主義イデオロ
かった。」(同上:155)
ギーにより動員の対象は専ら、家庭における主婦
佐藤が日本の例を「擬似的」と規定するのは、
役割をもつ既婚女性以外の若年の未婚女性に限定
「機械化を伴った近代的なライン生産というより
された。他方合衆国では、未婚の若い女性のみな
も、むしろ労働集約的な作業を細分化し、それを
らず子育てが終わった既婚女性も大量に動員され
順に配列しただけの非常に単純な流れ作業」で
た結果、戦争中の女子労働力の年齢構成は日本と
あったためである。それではなぜ日本では生産過
は大きく異なり、いわゆる「M 字型」になった
程の更新が擬似的なものにとどまったのか。佐藤
12)
(同上:72、309) 。
は以下の理由を上げる。①ライン生産方式を採用
さらに労務管理の面をみると、日本では勤労動
するために必要な、「綿密な作業分析に基づいた
員された女性(学徒も含む)にたいする「良妻賢
工程管理」を行なうノウハウが蓄積されていな
母」教育が重視され、工場は「女性が特性を磨き
かった。②調達された資金が生産機数のノルマを
将来、良き妻・賢い母になるための準備をする
達成するための工場の拡張に費やされ、技術革新
場」として期待された。佐藤が事例としてあげる
のための資金が欠如していた。③「熟練工の多く
中島飛行機の女性労働者は、
「一日の仕事の後、
が、労働過程の細分化や分業による作業の単純化
料理、裁 縫、読 書、手 紙 の 書 き 方、生 け 花、茶
に抵抗した」。④大量生産方式の導入に必要な性
道、手芸、作法の練習など、実に多岐にわたる活
能の良い単能工作機械が不足し、戦前の万能工作
動に参加した。」(同上:242‐244)戦時動員され
機械が依然として使用されていた。⑤生産する機
た女子労働者に対して、男子労働者とは異なり、
種が多様で、部品の互換性も低く、大量生産に不
一時的な代替労働力との位置づけから単能工とし
可欠な「設計の統一と部品の標準化」が志向され
て速成するための職業訓練しか行なわれなかった
なかった。⑥最後に、下請工場の技術水準と生産
点は日米両国に共通するが、日本の戦時女子労働
性が低く、「本社工場との間で有機的な分業を行
者教育では、教育訓練がその内容において貧弱で
なうことができなかったため」である。
(同上:
あったばかりでなく、合衆国の職場では行なわれ
155‐157、162)
なかった「良妻賢母」教育が重視された13)。そし
かくして女性労働者を全面的・体系的に活用し
て十分な教育訓練も行なわれずに、若年女子が大
えた合衆国と異なり、戦時日本の航空機産業は、
量に不慣れな軍需産業の現場労働に投入された結
女性労働者を一部の作業に集中的に活用しただけ
果、女子挺身隊や女子生徒が働く職場では労働災
であった15)。
"
害が頻発した14)。
!
生産過程の変化
戦後の女性排除キャンペーン
本稿の前半において、合衆国では戦争末期に至
佐藤の研究に依拠して、戦時の航空機産業にお
ると、戦線から復員する男性労働者の雇用を確保
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リベット工のロージーと女子挺身隊
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するために、手の平を返したように、生産過程か
かった。かくして現実には戦前来の賃金の男女間
ら女子労働者を排除し、家庭へ復帰させるキャン
格差が温存されたのだが、しかし、同一労働同一
ペーンが展開されたことを分析したが、戦後の日
賃金を求めるこれらの一連の動向が、この問題に
本においても同様の状況が生じた。
「厚生大臣の
たいする社会の関心を高めたことは重要な事実で
芦田均は同年末[1
945年]の閣議で今後さらに
あり、その遺産が、1963年の同一賃金に関する連
1320万人の復員兵の帰還が予想されると述べ、女
邦法の制定、そして人種、宗教、性別などによる
性、高齢者、若年者はできるだけ速やかに成人男
差別的な扱いを禁止した1964年の公民権法の制定
性に職を譲り、職場での混乱を避けるように呼び
へと受け継がれた(佐藤2003:186‐191)。
かけた。…(中略)…その後、厚生省は女性に対
他方日本でも、同一労働同一賃金という用語こ
し、メディアを通じて繰り返し極力『家庭へ復
そ使われなかったが、男女の賃金格差を解消すべ
帰』するよう訴えた。このように女性は、戦地か
きという議論が生まれた。徴兵が進むにつれて、
ら帰還する兵士に職を譲り、速やかに家庭へ帰る
女性の重化学工業分野への進出が進み、男性と同
よう呼びかけるキャンペーンは、合衆国でも日本
じ、もしくは類似した職種に従事する傾向が広が
でも、基本的に内容に変わりはなかった。」(佐藤
る中で、女子労働者の勤労意欲を高め戦時生産体
2003:271 [
!
16)
]内京谷)
制を増強する必要から、厚生省、経営者、労働科
男女同一労働同一賃金をめぐって
学者などの間では女子の賃金を男子と平等化する
女子労働者が生産過程に次々と動員されたこと
必 要 が 主 張 さ れ た(同 上:195‐6、塩 田2000:
は、男女の賃金格差の問題を浮き彫りにし、女子
18)。しかしこれらの議論が現実の格差是正を進
労働者の意欲を高め生産性を向上させるために、
めることはほとんどなかった。実際には、年功制
この格差を解消する「男女同一労働同一賃金」実
による固定給制と扶養家族数に基づく生活給制が
現の課題が浮上した。まず合衆国におけるこの動
実施された結果、勤続年数が短く扶養家族をもつ
向を分析する。
ものも少ない女性は不利を蒙り、女性が新たに進
大量の女子労働者の戦時動員は「同一労働同一
賃金」実現の必要を高めたが、しかし実際にはそ
出した重化学工業の部門においても明確な格差が
形成された(佐藤2003:196‐8)。
の原則の影響は限られたものであった。全国戦時
日本においてはこの女性賃金をめぐる戦中の動
労働委員会 NWLB は1942年に、
「『質と量が同等
向は戦後にどのようにつながったのであろうか。
である同一ないしは類似した作業』に従事してい
敗戦直後のアメリカ合衆国による占領政策の下
る労働者の間で性別による賃金格差がある場合、
で、1947年に労働基準法が制定され、その第4条
企業はこの格差を NWLB の命令を待たずに自主
「男女同一賃金の原則」において「世界で最も早
的に是正するよう勧告する」命令を出したが、企
い男女同一賃金法」(同上:290)が誕生した。し
業の側にはこの勧告の実施を怠るさまざまな抜け
かしこの法制度上の理念とは裏腹に、現実におい
道があった。また労働組合の同一賃金原則の要求
ては明瞭な男女格差をもつ賃金制度が戦後の時代
も、前章において分析したように、女性の立場か
に広がった。敗戦直後の労働運動を指導した日本
らではなく、戦時期の女性による代替が、戦後帰
産業別労働組合会議の主力部隊であった日本電気
還する男性労働者の賃金低下をもたらすことを懸
産業労働組合協議会は、年齢と家族数を主要な決
念して行なわれた。そもそも経営者は女性の仕事
定要素とする賃金方式を経営側に要求して実現
を恣意的に低く評価する傾向があったし、職長の
し、同様の賃金体系が他産業へも普及した。いわ
昇給評価においても女性は低く評価されがちで
ゆる「電産型賃金」であるが、年齢別最低生活保
あった。また法制度の次元でも同一賃金原則樹立
証給を特徴とするこの賃金制度は、実際には男女
の試みは限られたものであり、いくつかの州で同
間の格差を帰結した。佐藤は同一労働同一賃金を
一労働同一賃金法が制定されたにすぎず──しか
めぐる戦後日本の動向を次のように評価する。
も法的拘束力の弱い──、連邦レベルでは1
944年
「このように戦後の日本では男女同一賃金の原則
に下院に法案が提出されたが、結局成立に至らな
が法制化により理念化されてしまい、現実的な賃
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金格差是正の取り組みは遅々として進まなかっ
動員体制を比較検討した。両国の間で共通点と相
た。」(同上:292)
違を伴いながら進んだ女子労働力戦時動員は、戦
以上の同一労働同一賃金をめぐる日本とアメリ
後の時代にそれぞれの国の女子労働のあり方に影
カ合衆国の動向を比較して、限界があったとはい
響を及ぼした。アメリカ合衆国においては、経
え、労働組合運動や法制度に影響を与えたアメリ
営、労働組合、法制度の面で限界があったとはい
カ合衆国の動向とは異なり、その胎動はみられた
え、戦時の体験は、女性の権利意識の高揚、ペイ
ものの、ほとんど現実的な成果をもたらすことな
・エクィティの運動、さらに性のみならず人種、
く終わった戦時日本の動向は、この点においては
民族、宗教などアメリカ社会の差別的構造の是正
戦後へ影響を与えるほどのものではなかったと筆
へ向かう動きへつながった。日本における動向は
者は考える17)。
これより制限されたものであったが、戦時の体験
ただし以下の二点は、戦時日本の女子労働力動
は労働基準法における女子労働者保護条項の作成
員が戦後の女子労働のあり方に与えた影響として
に、また社会的には女子労働に対するイデオロ
特筆すべきである。
ギーに影響を与えた。
第一に、戦後の労働基準法における女子労働者
本稿で分析した戦前から戦時への変化、さらに
保護に与えた影響である。塩田は、戦中に内務省
その戦後への影響を考えると、女子労働力戦時動
社会局労務官として工場監督に従事した谷野せつ
員にかんする研究はより活発に展開されて然るべ
の回想を取り上げ、戦中の動向が労働基準法の女
きである。日本では塩田咲子や佐藤千登勢らの先
子保護条項作成へつながったことを指摘している
駆的研究があるものの、その数と内容においてま
(塩田2000:24)。谷野の証言によれば、彼女は
だ不足している。アメリカ合衆国の研究において
戦中の体験にもとづいて、戦後厚生省労働基準課
みられるような包括的な手法、すなわち政府・企
長として労働基準法の制定作業を主管した寺本廣
業・労働組合などの資料はもとより、当事者の手
作に、生理休暇の必要性を主張した(西1985:
記、ヒアリング、あるいは当時の記録映画など多
141‐2)。
様な資料を駆使した方法をとおして、日本の戦時
第二に、女性が働くことに対するイデオロギー
動員体制を、それを支えた女子労働者の意識と論
に与えた影響である。戦時において大量の女子労
理の次元にまで深めて、生き生きと描写する研究
働者が、男子が主要な労働力であった重化学工業
の展開が求められている18)。
や交通などの産業分野に進出し、男子に劣ること
なく職業労働を担ったことは、それまでの女子労
註
働を蔑視する風潮を突破する効果を上げた。塩田
1)The Life and Times of Rosie the Riveter, produced and
はこの重要性を次のように指摘している。
「いず
directed by Connie Field, Clarity Films, Berkeley, Califor-
れにせよ、女子の天職が出産と家庭にあることを
nia,
1
9
8
0.
もって、紡績女工に代表される女子労働者を蔑視
2)Miriam Frank, Marilyn Ziebarth, and Connie Field. The
し、大正期に登場してきたホワイトカラー職種の
Life and Times of Rosie the Riveter : The Story of Three
Million Working Women During World War Ⅱ,Clarity
女性たちをも貧困ゆえに働かざるをえない女性た
Educational Productions, Emeryville, California.
1
9
8
2.
こ
ちとみなしてきた『女子労働蔑視の社会通念』が
のテキストより写真を転載することを許可してくれ
否定されたことの意義はきわめて大きい。」(塩田
2000:14)
た Clarity Films の Connie Field に感謝する。
3)この記録映画は、戦争中に防衛産業で働いた以下
の5人の女性が当時の状況を回想しながら進行 す
小 括
る。ニューヨークのブルックリンで溶接工として働
本稿の第1章と第2章において、アメリカ合衆
いていた Lora Weixel、カリフォルニア州ロスアンジ
国における太平洋戦争下の女子労働力動員体制を
ェルスの兵器工場で働いていた Margaret Wright、サ
分析し、第3章においては、同時代の日本におけ
ンフランシスコの造船所で働いていた Lyn Childs、リ
る女子労働力動員体制を振り返るとともに両国の
ッチモンドの造船所で働いていた Gladys Belcher、そ
―4
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京谷栄二
リベット工のロージーと女子挺身隊
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3
してミシガン州デトロイトの鋳物工場で働いていた
手段」であったのに対して、大量の女子労働力が伝
Wanita Allen である。教師用テキストでは、これ以外
統的に雇用されてきた電機産業においては、「主要な
にも多数の女性労働者の証言が載せられている。
問題は賃金差別であり、そしてペイ・エクィティも
4)1
9
7
0年代後半から9
0年代の英語圏の社会科学にお
しくはコンパラブル・ワースの運動が最も有効な戦
い て、ハ リ ー・ブ レ イ ヴ ァ マ ン の『労 働 と 独 占 資
略であった。
」
(同上:1
5
8)しかしながら、製造業全
本』
(H.Braverman1
9
7
4)を契機に「労働過程論争」
体で雇用が削減されつづけている現状では、しばし
が起こった。ルース・ミルクマンは、労働過程論争
ば女子にたいする雇用の割り当て制であると理解さ
で活躍したマイケル・ブラウォイの指導の下にカリ
れがちなアファーマティヴ・アクションは男子労働
フォルニア大学バークレー校で Ph.D を取得した後、
者の支持を得るのが困難な戦略であり、ペイ・エク
ニューヨークのクィーンズ・カレッジを経て、現在
ィティの方が全体の合意を得やすいより適切な選択
はカリフォルニア大学ロサンゼルス校の社会学教授
肢である。ペイ・エクィティの運動は「性別職務分
と労使関係研究所所長の職にある。本稿で取り上げ
離の正当性を突き崩すのに大きな働きをしたし、
るミルクマンの研究は、労働過程論争にジェンダー
人々の意識を女性の低賃金の根本的な原因である性
研究の視角から大きな影響を与えた。なお労働過程
差別にも向けさせた。
」
(同上:1
5
9)なお本稿では次
論争については、京谷1
9
9
3、1
9
9
5を参照されたい。
章の末尾において、日米両国で女子労働力戦時動員
5)このようにミルクマンは明らかに、労働過程にか
体制が「男女同一労働同一賃金」という政策課題に
与えた影響を分析する。
かわる要因をとおして性別職務分離を分析する視座
を基本に据える。木本喜美子によれば、イギリスの
8)今日のわが国の企業における性別職務分離の実態
フェミニズム研究者は1
9
7
0年代後半に既に家庭内性
については木本喜美子2
0
0
3が参考になる。ケースス
別分業を基礎におく視座を克服して、労働過程に視
タディにもとづいてその実態を解明した木本の研究
座を据えた研究を開始している。ミルクマンもこの
はわが国のジェンダー研究に画期をなすものであ
視座を共有している。しかし英語圏のジェンダー研
る。しかし労働過程のジェンダー構成に労働組合が
究のこのような視座の転換にも関わらず、日本にお
どのように関与したのかを追究する視角が木本にお
いては1
9
9
0年代に入ってなお家庭内の性別分業が議
いては希薄である。筆者が知る限り、木本のみなら
論の中心に据えられていた。木本は日本のジェ ン
ず従来の日本のジェンダー研究には、労働過程のジ
ダー研究におけるこの理論的欠陥を批判している
ェンダー構成に労働組合がどのように関与したのか
(木本2
0
0
3:1
4
‐
3
0)
。
を体系的に分析した研究がみられない。この点にお
いてもミルクマンの研究は、われわれにとってよき
6)コンパラブル・ワースについて今日の日本の研究
手本を示している。
に目を転ずると、ペイ・エクィティ研究会1
9
9
7は、
その視点からわが国ではじめて行われた示唆に富む
9)国家総動員法にもとづき1
9
3
9年1月7日に交付さ
実証研究である。またこの調査研究で主要な役割を
れた国民職業能力申告令において申告の対象とされ
果たした森ます美は、商社における性別職務分離と
たのは、「年齢満十六年以上五十年未満ノ帝国臣民タ
賃金格差の是正、賃金差別の京ガス訴訟における意
ル男子」であった。
見書作成など、社会的実践との結びつきのなか で
1
0)動員対象となる女子の年齢は、戦局に応じて拡大
「同一価値労働同一賃金原則の日本への適用可能性
された。1
9
4
1年8月の「労務緊急対策要綱」におい
を 追 究」し た 意 欲 的 な 著 書 を 発 表 し て い る(森
て は、「満 十 六 年 以 上 二 十 五 年 未 満」
、同 年1
1月 の
2
0
0
5)
。
「国民勤労報国協力令」においては、「年齢十四年以
上二十五年未満ノ女子(妻及届出ヲ為サザルモ事実
7)Gender at Work の最後に、ミルクマンは性別分業
の克服をめざす「アファーマティヴ・アクションと
上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル女子ヲ除ク)
」
、さら
ペイ・エクィティ」という二つの主要な政策的課題
に1
9
4
4年3月の「女子挺身隊制度強化対策要綱」以
を検討し、今日の状況には「ペイ・エクィティ」の
降は、「隊員の対象を2
5歳未満から1
2∼4
0歳未満の無
戦略がより適切であると結論する。両者は、仕事の
配偶者に範囲を拡張した。
」
(塩田2
0
0
0:1
9)動員対
性別分離を排除するために1
9
7
0年代と8
0年代に取り
象が最後まで、未婚および無配偶者の女子に限定さ
組まれた重要な運動であった。明確な性別分離が支
れている点については、皇国史観と結びついた家族
配してきた自動車産業では「昇進と雇用におけるア
主義イデオロギーとの関連において後述する。
ファーマティヴ・アクションが変革のための主要な
1
1)この点については塩田2
0
0
0:2
0
‐
2
1も参照された
―4
1―
1
4
4
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
イン生産方式の中で作業を細分化・単純化すること
い。
1
2)日本において既述の人口政策と女子労働力動員と
によって『女性の仕事』が創出されたのに対し、日
のディレンマを解消するためには、家庭役割と職業
本ではいくつかの主要メーカーの工場で、分断され
労働の両立に必要な「職場の労働条件、家庭や社会
た工程の中で『女性に適する』と見なされた作業に
の生活条件の改善」が行なわれねばならなかった。
女性が集中的に配置されていた。
」
(佐藤2
0
0
3:1
7
2)
しかし政府はこの課題を達成するための明確な対策
1
6)日米両国で同様の女性排除キャンペーンが展開さ
を立てようとはせずに、「とりあえずは結婚・出産・
れた他方では、女性が就業しなければならない経済
家事役割を免かれている未婚女子の就労を奨励」し
的理由は戦後の日本の方が強かったと、佐藤は指摘
た(塩田2
0
0
0:8
‐
9)
。母性主義イデオロギーの影響
している(同:2
7
1)
。
のみならずこのことも、日本における女子労働力戦
1
7)塩田は、戦時中に厚生省が女子の低賃金にたいす
る批判的見解をもっていたことを、厚生省勤労 局
時動員が若年の未婚女性に偏った要因である。
1
3)佐藤が調査を行なった航空機産業をみると、戦時
「女子勤務管理講習会資料」と厚生省技師・金子美
の合衆国において女子労働者の養成に大きな役割を
雄の言説をとおして指摘し、次のように積極的に評
果たした民間の職業訓練校では、「まず一種類の職種
価する。「これは女子労働政策史上、男女同一労働同
だけを8週間から1
3週間かけて習得し、終了後直ち
一賃金につながる最初の明示で、戦後労働基準法の
に航空機工場へ就職することを目指すコース」が運
第4条につながったと思われる。
」
(塩田2
0
0
0:1
8)
用されていたのに対して、日本の航空機工場では、
本文でみたように、戦時生産体制強化の観点から男
「基本訓練と技能訓練を合わせても1
0日から2週間
女の賃金格差解消の必要が論じられたのは事実であ
程度が一般的であった。
」
(佐藤:2
0
5
‐
2
0
9)このよう
るが、しかしその議論が労働基準法第4条「男女同
に、実際に行なわれた職業訓練の内実において、両
一賃金の原則」の作成につながったと判断するには
国の間に明瞭な違いが存在していた。
より慎重な検討が必要である。敗戦直後に厚生省労
1
4)航空機の工場で旋盤作業に従事した女子高生は当
政局理事官として労働基準法の制定に従事した松本
時の作業を次のように振り返る。「これらの作業では
岩吉の記録(松本1
9
8
1)を読む限り、労働基準法に
いつも切り子が出ます。それは木毛のような形状の
国際的にも先進的な内容が盛り込まれた直接の要因
ものですが、鉄の切れはしですからとても危険なの
は、国際水準に合致する労働保護法を作成しようと
です。うっかりしていると顔に当たったり、手が切
した当時の担当者たちの気概であった。労働基準課
れたりするのです。ただただ恐怖のみの毎日で し
課長としてこの制定作業を指導した寺本廣作はワイ
た。
」
(関・遠藤1
9
9
4:6
3)今ひとつ、学校内に設置
マール憲法の精神を実現させるという熱意をもち、
された縫製工場で軍服を縫っていた女子高生の手
彼の熱意が労働基準法の「労働条件の原則」第1条
記。「ある日、私は電動ミシンを動かしていた。どう
の 規 定「人 た る に 値 す る 生 活」に 結 実 し た(同:
してこうなったか定かではないが、電動ミシンの針
1
2
7,3
1
5,3
3
4)
。寺本のみならず担当者全員が、戦
が布を押さえていた左手の人差し指の爪を突き抜け
前の「その苦い経験から、…(中略)…、今後は困
てしまったのだ。針が折れる……血が流れる。だれ
難 が あ っ て も 国 際 的 水 準 に よ る こ と を 決 意」し
かに連れられて近くの医者へ行く。戦中の物資不足
(同:1
2)
、「国際水準の労働基準を取り入れること
のため麻酔薬がなくて、医者はペンチのようなもの
が、日本再生の早道であるとの確信のもとに」制定
で、いきなり針を抜き、爪もはいでしまった。私は
作業に励んだ(同:1
5
3)
。また労働法制審議会小委
あまりのショックと痛さで、顔面蒼白となり倒れこ
員会の末弘巌太郎委員長も国際水準に合致する法案
を作成する強い決意をもっていた(同:1
2
3
‐
4)
。他
んでしまった。
」
(同:9
8)
1
5)この違いを佐藤は以下のように整理する。「合衆国
方では、戦後急成長し勢力を拡大する労働運動も先
の航空機メーカーは自動車産業のライン方式を応用
進的な労働保護法を生む要因であった。1
9
4
6年の戦
することによって、女性の労働力を応用しながら軍
後第1回メーデーにおけるスローガンには「男女同
用機の量産を行なうことに成功したのに対し、日本
一労働同一賃金」の要求が盛り込まれていた。先の
の航空機メーカーは、軍用機の生産に部分的な流れ
寺本廣作は、当時の厚生大臣河合良成が、「そうした
作業方式を取り入れたにすぎず、非熟練な女性の労
ほうはいとして盛り上がっている労働保護法制定の
働力を全体的な生産システムの中に統合することは
要請を受け入れることによって、労働情勢を緩和し
できなかった。そして合衆国の航空機工場では、ラ
たいという政治的配慮を払っておられたことはまち
―4
2―
京谷栄二
リベット工のロージーと女子挺身隊
1
4
5
木本喜美子『女性労働とマネジメント』
、勁草書房、
がいない」
、と述べている(同:3
2
3)
。
なお、戦時動員された女子労働者の賃金にかんす
る塩田の見解には、1
9
8
4年と2
0
0
0年の研究の間で視
点の移動がみられる。後者においては、男女同一労
2
0
0
3.
京 谷 栄 二『フ レ キ シ ビ リ テ ィ と は な に か』
、窓 社、
1
9
9
3.
働同一賃金の嚆矢としての意義が主張されるのにた
────「ポスト・ブレイヴァマンのアメリカ労働社
いして、前者の研究では、女子挺身隊の労働にたい
会学──M.ブラウォイとその批判者たち」
、日本労
する報酬が賃金では な く「謝 礼 金」と し て 支 払 わ
働社会学会『日本労働社会学会会報』1
8号、1
9
9
5.
れ、「賃労働ではなく奉仕労働として位置づけ」られ
松本岩吉『労働基準法が世に出るまで』
、労務行政研究
ていた点が強調される(塩田1
9
8
4:1
2
4)
。
所、1
9
8
1.
1
8)本研究は「2
0
0
5年度長野大学地域研究・一般研究
Milkman, Ruth.(ed.
)Women, Work and Protest : A Cen-
助成金」を受けて行なわれたものであることを最後
tury of U.S. Women’s Labor History, London and New
に記すとともに、本稿の修正のために貴重な助言を
York : Routledge,1
9
8
5.
いただいた長野大学紀要編集委員会に謝意を表す
────. Gender at Work : The Dynamics of Job Segrega-
る。なお、本稿第2章の執筆には、筆者が社会政策
tion by Sex during World War II, Urbana and Chicago :
学会第1
0
9回大会(大阪市立大学、2
0
0
4年1
0月1
6日・
1
7日)に提出した論文「ルース・ミルクマン
University of Illinois Press,1
9
8
7.
『リ
──. “Rosie the Riveter Revisited : Management’s Postwar
ベット工のロージー』から『工場への訣別』まで」
Purge of Women Automobile Workers,” in Nelson
の一部を利用している。
Lichtenstein and Stephen Meyer eds. On the Line : Essays
in the History of Auto Work, Urbana and Chicago : Uni-
参考文献
versity of Illinois Press,1
9
8
9.
Braverman, Harry. Labor and Monopoly Capital. New York :
Mitchell, Juliet. Woman’s Estate, New York : Pantheon
Books,
1
9
7
1.
Monthly Review Press,1
9
7
4.富沢賢治訳『労働と独占
森ます美『日本の性差別賃金』
、有斐閣、2
0
0
5.
資本』
、岩波書店、1
9
7
8.
Burawoy, Michael. Manufacturing Consent. Chicago : Uni-
西清子編『占領下の日本 婦 人 政 策──そ の 歴 史 と 証
言』
、ドメス出版、1
9
8
5.
versity of Chicago Press,1
9
7
9.
Edwards, Richard. Contested Terrain : The Transformation
「女たちの昭和史」編集委員会編
ペイ・エクィティ研究会
Basic Books,1
9
7
9.
lion Working Women During World War Ⅱ,Clarity
1
9
9
7.
佐藤千登勢『軍需産業と女性労働──第二次世界大戦
下の日米比較』
、彩流社、2
0
0
3.
Educational Productions, Emeryville, California,1
9
8
2.
Gordon, David, Richard Edwards, and Michael Reich. Seg-
「商社における職務の分析
とペイ・エクィティ」
、ペイ・エクィティ研究会、
Frank, Miriam, Marilyn Ziebarth, and Connie Field. The Life
and Times of Rosie the Riveter : The Story of Three Mil-
『[写真集]女たち
の昭和史』
、大月書店、1
9
8
6.
of the Workplace in the Twentieth Century, New York :
関幸子・遠藤岬編『女学生の太平洋戦争──長野県勤
労動員女子学徒の手記』
、信濃毎日新聞社、1
9
9
4.
mented Work, Divided Workers, New York : Cambridge
塩田咲子「戦時期日本の女子労働について」
、高崎経済
University Press,1
9
8
2.
大学『高崎経済大学論集』第2
7巻第1号、1
9
8
4.
Hartman, Heidi. “Capitalism, Patriarchy and Job Segregation
by Sex,” in Women and the Workplace, eds. Martha Blax-
────『日本の社会政策とジェンダー──男女平等
all and Barbara Reagan, Chicago : University of Chicago
Press,1
9
7
6.
―4
3―
の経済基盤』
、日本評論社、2
0
0
0.
長野大学紀要
第2
9巻第2号 4
5―5
7頁(1
4
7―1
5
9頁)2
0
0
7
竹内好と魯迅、毛沢東
Yoshimi TAKEUCHI et Lao She, Mao Ze Dong
佐 々 木
!
*
SASAKI Thoru
おきたい。
まえがき
長野県日中友好協会の井出正一会長が書いた
あれほど愛着とともに評価していた、抵抗を通し
「再認識される竹内好氏」という文章を、日中友
て近代化せんとする中国の土を、戦後一度も踏もう
好協会の機関紙である「日本と中国」3月6日号
としなかった竹内氏の真意・心境はどこにあったの
で見つけた。私が注目した部分は次のようなとこ
だろうか。
ろである。
竹内好は、何故中国へ行かなかったのだろう
「よろこびと、悲しみと、怒りと、失望のまざり
あった気持ち」で迎えた8・1
5は「私にとって、屈
か。と言う疑問は、私が彼の年譜を細かく見てい
て疑問に思った点でもある。
辱の事件」だったと回想する(全集第1
3巻7
7頁)
(竹
また、年譜を作成している間に気がついたこと
内好)氏の思想は、日本が軍国主義から民主主義へ
は、政治の世界に何度も誘われていながら、すべ
変わった“解放の日”と考え た 一 般 国 民 や 多 く の
てを断っている。何故だろうかと言う疑問がわい
「進歩的文化人」と異なる独自性──それは私には
てきた。
!
難解極まるものであったが何故か魅力も感じられた
──を持っていた。
1 生い立ちと大阪高校時代
竹内好は、1910(明43)年10月2日、長野県南
!
傍点の部分の「私」は井出会長であることは言
佐久郡臼田町(現佐久市)にて誕生した。ところ
うまでもない。井出会長が「難解極まるもので
がその一ヶ月前の9月に父母は入籍している。す
あったが何故か魅力も感じられた」という思いを
なわち、父親の伊藤武一は、竹内家に入籍、起よ
抱いたのは、その前の文章である。すなわち日本
しと養子縁組をしたのである。この父親である伊
の敗戦の記念日である8月15日に「よろこびと、
藤武一は、松本近在の出身で家業は医者であっ
悲しみと、怒りと、失望のまざりあった気持ち」
た。松本中学卒業後、長野税務監督局雇として臼
の状態となった竹内好が「屈辱の事件」と見なし
田税務署勤務となり臼田町に居住していた。1885
たことである。竹内好がこのような考えを抱いた
年(明治18)生まれで、竹内好の母親である起よ
ことについては、おって見てゆきたい。
しも同じく1
885年生まれで、東京の渡邉女学校
そしてもう一つの部分である。これも引用して
(現東京家政大学)を卒業している。また、この
*企業情報学部教授
―4
5―
1
4
8
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
竹内宗家は代々臼田にある上諏訪社の神職を営ん
佐々木部長と対立。1
0月2
2日、短歌数首と小作争議
でいたが、起よしの父、銀次郎は、臼田町長をつ
を扱った小説が不許可となる。1
1月2
4日、『帝陵』編
とめた竹内繁家から分家して、手広く商売を営ん
集委員の室清(文甲三年)
、上武圭一、壇辻浩、中道
だ。二男二女があり、起よしはその末子であっ
一男(以上文甲二年)
、山田浩(理丙一年)の五人が
た。二人の息子はともに分家し、姉むつは早世し
授業中に呼び出され、特高によって阿倍野署に留置
たため、伊藤武一を婿養子に迎えた。銀次郎はこ
された。警察は、『帝陵』五号掲載の三篇(「村のピ
の土地に、富屋の屋号で質屋、瀬戸物屋、酒屋、
オニール」
「延線」
「生くる」
)を左傾作品とみなし、
料理屋、旅館、唐物屋などを経営して羽振りがよ
作者の本名を追及するのみだった。上武、壇辻、中
かった。養子に入った武一はその資産を相続し
道と読書会のメンバ ー の 小 崎 俊、渡 辺 恵、藤 沢 彬
た。武一は、新潟の長岡、飯田そして東京へと転
は、生徒を特高に引き渡した学校当局の責任追及を
勤した後に退職した。そして義父の資産を利用し
全校に訴え、各新聞社にも取材を要請。1
1月2
5日、
て、新たな事業を始めたのが1915年(大正4)で
全校生徒を対象とした東京帝大教授河合栄治郎の思
竹内好が五歳の時である。そして1924年(大正
想善導講演会が終り、退席すると、校友会理事の俣
13)11月、14歳の時、母親を失っている。
野博夫(文乙三年)や小崎が、事情を訴え、ストに
さて当の本人である竹内好は、1927年(大正
突入。竹内は「『神聖なる授業中に生徒五名を警察に
2)、17歳で中学4年のとき、一高と三高の受験
引き渡した』学校当局」を糾弾する演説をする。糾
を失敗している。そして翌年4月に大阪高等学校
弾された生徒主事は、事態を鎮めるために警察に駆
の文科甲類(英語を専修、乙類は独語、丙類は仏
けつけ、五人を釈放させた。1
1月2
7日、午前一時、
語)に入学している。ちなみに一高は、東京大学
投票のすえ、ストは解除。学校側は主謀者として竹
教養学部の前身であり、第二高等学校は東北大学
内と保田与重郎を認めたが、この終熄により、犠牲
教養部、第三高等学校は京都大学教養部、第四高
者 と は な ら な か っ た。(
「竹 内 好 全 集」第1
7巻、
等学校は金沢大学、第五高等学校は熊本大学であ
1
9
8
2。年譜抄録)
る。すなわち当時の一ランク上の高等学校には進
めなかったということである。しかし三年後に
ここに出てきた「帝陵」とは寮の機関誌であ
は、東京帝国大学文学部支那文学科に入学してい
る。そしてやはり「全集」に収録されている『校
る。
友会誌』の後記を引用しておく。
この大阪高校に入学したときに知り合って親し
くなった友人に保田与重郎(1910・明43∼1981・
予告の「現代思潮批判」は原稿が集らない為に中
昭56、文芸評論家で古典文学を専攻)
、田中克己
止した。一つには僕の最初の計画が散漫で無理 が
(1911・明44∼1992・平4、詩 人 で 東 洋 史 学
あった為だからあやまる。だが何と不勉強者ばかり
者)、杉 浦 正 一 郎(1911・明44∼195
7・昭32、九
だろう。
州大学教授)、室清らがいる。
十号の編輯は鎌田がやった。大きな 論 文 ば か り
この大阪高等学校に在学中の大きな事件は1930
年(昭和5)の校友会雑誌をめぐっての事件であ
る。『竹内好全集第17巻』(筑摩書房、1982)に掲
載されている年譜を次に抄録する。
だ。幸い理科の投稿があった。批判は別として理科
の諸君にもっとフレッシュな動きを望みたい。
小説は一篇集って検閲でやられた。内容は農村の
疲弊と小作争議を通じて少年たちが、ピオニールの
結成にまで意識を高めてゆく経路を、荒いタッチで
1
9
3
0(昭5)2
0歳
スケッチしたもの。僕らが良いと思うものが余す所
1月、校友会学芸部委員。学芸部は機関誌『校友
なく奪われてゆく。斯くて吾々の雑誌も定跡を辿り
会雑誌』を年二回発行(部長:佐々木恒清教授)
。
はじめた。人々は真の学芸運動の為に学芸部を見棄
「学芸部として、論の喚起、正統な批評の機関であ
てねばならなくなったのだろうか。それとも単なる
る校友会誌」とする竹内の編集方針に対して慎重論
吾々は無能だろうか。委員に方向を与えよ。吾々に
が 多 く、実 現 せ ず。5月 下 旬、会 誌 編 集 に 際 し、
は只この事実から、吾々の世界観を形づくる冷かな
―4
6―
佐々木
!
竹内好と魯迅、毛沢東
手元に残ったとする作品は「男たち」という作
現実の断片を拾い得るに過ぎぬ。各研究会も沈滞期
に入った。新人を待つ。
1
4
9
品である。この引用文から察すると「村のピオ
第十号(1
9
3
0・1
1)
(『竹内好全集第1
7巻』筑摩書房1
9
8
2.
9。7
2頁)
ニール」は竹内好の作品と見てもよいかもしれな
いが、不明である。
ピ オ ニ ー ル は、ロ シ ア 語 の ピ オ ネ ー ル
竹内好の高校時代のエピソードはこのくらいに
(pioner)を用いたもので、ソ連の共産主義少年
しておきたい。これらのエピソードからどんな若
団のことをいう。この組織は、1922年創設され、
者像が浮かんでくるか。
全連邦的に組織され、学校とも連絡を保ち、青少
年を実践的な活動を通じて訓練した。
竹内好が展開した「交友会誌」の編集方針は、
「学芸部として、輿論の喚起、正統な批評の機関
11月24日に「帝陵」の編集員が特高に引っ張ら
である校友会誌」という位置づけである。これに
れた 原 因 の ひ と つ に、
「村 の ピ オ ニ ー ル」が 関
対して友人たちは慎重論を唱えた。このエピソー
わっていると思われる。上に引用した編集後記に
ドだけでも竹内自身が「自治を要求して暴れた」
記された「検閲でやられた」作品は、続く文章で
と書くのはまさしく、竹内好が突出していたこと
「村のピオニール」と推測できる。しかしこの作
を示す証しとなる。このことは多くの若者、とり
品は誰の作か不明である。竹内好が亡くなる直前
わけ学生たちの自己主張、そして当時の社会主
に書いたと思われる「悔其少作」と題したエッ
義、共産主義に傾倒していた考え方を行動に表し
セーがある。これは1977年5月号の雑誌「潮」に
たその一つであると見なしてよい。ご存じの通り
遺稿の一つとして掲載されたものである。その一
1930年代初めは、さらなる軍国主義、そして戦争
部分を引用する。
に突入する直前と見なしてもいい時代である。翌
年の1931年9月18日には「満州事変」柳条湖事件
ご多分にもれず当時の大阪高等学校にも文芸部だ
が起きている。社会での縛りがきつくなり、非合
か学芸部だかがあって、年二回『校友会雑誌』を出
理な言い分がまかり通る時代には、いつの世でも
した。部長が日本史の教授で、生徒委員は二名、各
そうであるが、敏感な若者たちは反発するのが常
年度文甲一、文乙一である。たぶん部長教授が作文
である。まさしく竹内好はその一人であった。
の兼任だったのかもしれない。一年のときの作文の
成績を勘考して天降りに委員を任命したように思
2 中国への関心
う。文甲から私が、文乙から K が選ばれた。……略
1931(昭6)年4月、東京帝国大学文学部支那
……二年のときは先輩の見習い、三年で実務を担当
文学科に入学した。このときに武田泰淳と知り合
する。K はともかくとして、私は温厚な部長にずい
い、以後友人となる。この武田泰淳(1912・明45
ぶん手を焼かせた。そのことを書くと長くなるので
∼1976・昭51)は、第一次戦後派作家として活躍
省く。要するに自治を要求してあばれたわけだ。
した小説家である。
私の記憶では、投稿がさっぱり集らぬので、自分
竹内好は、芥川龍之介の『支那遊記』、『中央公
が穴埋めに書いたのか、それとも投稿があまりに幼
論』での長岡克暁の「蒋介石の支那」、『支那小説
稚なので、没にして自分で書いたのか、どちらかで
集』に収録されている魯迅の「阿 Q 正伝」など
ある。後者かもしれない。なにしろプロレタリア文
の中国関連のものを読んで触発されたようであ
学まがいの作文が校誌にのったのは大阪高等学校で
る。そのためか翌年には外務省の事業である「朝
は私の在任中だけだった。
鮮満州見学旅行」に参加している。途中から一行
ながおかかつあき
「中国文学研究会」以前の作で活字になったもの
と別れての中国滞在はさらに40日ほどになる。こ
は、長篇(!)ではこの一篇だけである。原本は失
れを機に中国文学に本格的に携わるようになる。
われてキリヌキだけが手もとに残った。
そして支那文学科で現代文学の研究に取り組んだ
(「悔 其 少 作」
『竹 内 好 全 集 第1
7巻』筑 摩 書 房
のは、彼ただ一人で、卒業論文に「郁達夫研究」
1
9
8
2.
9。5
8頁)
を書き上げた。
いく た っ ぷ
この郁達夫は(1
896∼1945)中国近代的小説
―4
7―
1
5
0
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
家、散文家、詩人である。浙江省富陽の生まれ
すなわち竹内好は、この論文の中で郁達夫が過
で、3歳の頃に父親が亡くなり、一家6人は貧し
ごした八高時代も含めての苦しみが、単に彼だけ
い生活を送った。早くから古典文学に親しみ、杭
に現れたのではなく、若者としての苦しみを時代
州育英書院在学中に辛亥革命が勃発したことで、
との関連の中で、作品を通して明示した。それは
帰郷する。1913年、日本へ渡り、東京第一高等学
詩人的な苦しみであった。さらに郁達夫が革命文
校予科、名古屋第八高等学校医科、東京帝国大学
学を支持しても、革命文学家とはなり得ないこと
経済学科で正式な国費留学生として学び、郭沫若
を指摘した。しかし、その課程で郁達夫が自らの
はクラスメイトだった。1921年、郭沫若らと共に
小説家としての考え、作法を確立したことを論証
「創造社」を創設し、1
922年、帰国後、「創造季
している。同じことを竹内好自身にもそれがあっ
刊」などの雑誌の編集に携わった。八高時代の自
たと言えるような気がする。すなわち文学や詩を
分をモデルに異国に学ぶ孤独な青年の性の悶えと
志す若者は、作品のなかに作者が描き出したどろ
弱小民族の悲哀を描いた『沈淪』という問題作を
どろした人間の醜い部分を多く見ているはずであ
1922年に出版した。その後、北京大学や広州中山
る。その反動として、きれいなもの理想的なもの
大学で教えた。魯迅と出会って影響を受け、1927
を現実の社会、時代と比較しながら、若者は求め
年、創造社を脱退し、1928年、魯迅と共に月刊誌
がちである。竹内好は「郁達夫研究」を通じて自
「奔流」を編集、外国文学の紹介に力を注いだ。
らの姿を映し出したと言える。
その後、武漢で抗日救亡活動に参加、香港、南洋
このような論文を書かせ、さらには魯迅の作品
群島一帯でも、抗日愛国宣伝活動に従事するもの
の翻訳を始め、中国文学研究者の第一人者となっ
の、シンガポール陥落ののちスマトラ島へ亡命し
たきっかけと動機はなんであったか。回想録から
た。日本語に精通しているため、日本憲兵の通訳
見ていく。
をさせられた。しかし多くの華僑を助けたため、
後に、日本憲兵によって逮捕され、1945年殺害さ
最初は1954年(昭29)9月9日の毎日新聞に掲
載されたものを紹介する。
ちんりん
れた。49歳だった。代表作は「沈淪」、『春風沈酔
はんはん や
の夜』、『范々夜』、『還魂記』などがある。
お前はなぜ中国文学をやるようになったか、とい
竹内好がこの作家のどこの部分に興味を持った
う質問を時々うけるが、動機の説明ほど、しにくい
かといえば、魯迅の影響を受けて、1927年に「創
ものはない。私の場合は、偶 然 の 要 素 の 方 が 大 き
造社」を辞めるまでの前期の苦悶の時代である。
い。大学で支那文学科をえらんだのは、いちばんは
この卒業論文を詳しく紹介したい思いに駆られる
いりやすかったからで、もともと勉強する気などな
が、それはしないで、結語の一部分を引用してお
かった。当時、支那文学科の学生には、中国旅行の
きたい。
便宜が与えられる制度があった。この制度を利用し
て、青年期の逃避欲を満足させたことが、結果とし
郁達夫──彼は苦悶の詩人であった。彼は自己の
て私を中国に結びつけたまでである。
苦悶を真摯なる態度を以て追求し、大胆な表現の中
私は中国で、生きている人間を見た。それは感動
に曝露することによって中国文壇に異常なる影響を
的な出来事であった。私は、この人間の心を知りた
齎した。何故ならば彼の苦悶は同時代の青年の社会
いと願った。そこで仲間を語らって、大学でやらな
的苦悶の集約であったからである。だが、中国社会
い現代文学の研究をはじめた。これが中国文学研究
の進化の急速さは永久に彼の苦悶を今日の苦悶とし
会で、仲間には岡崎俊夫や武田泰淳がいる。中国文
て止めることは出来なかった。時代の転換期に於て
学研究会の経営と、雑誌『中国文学』の編集に、私
彼は新しい苦悶の渦中に飛込むことなく、自己の歩
は青春の総エネルギイを注ぎこんだといっていい。
んだ道を固守することによって苦悶から脱却したの
そしてそのことを私は悔いていない。(
「私の著作と
である。(
「郁達夫研究」
『竹内好全集第1
7巻』筑摩書
思 索」
『竹 内 好 全 集 第1
3巻』筑 摩 書 房1
9
8
1.
9。2
7
9
房1
9
8
2.
9。1
6
0頁)
頁)
―4
8―
佐々木
!
竹内好と魯迅、毛沢東
1
5
1
「いちばんはいりやすかったから」とするの
に理解したい、一歩でもその中に踏み込んでみ た
は、無試験だったようである。そして官費の援助
い、ということであった。行 き ず り の 男 た ち 女 た
で国外旅行まででき、そのことがこの学科で学ぶ
ち、朝晩顔をあわせる下宿のボーイたち、彼らが私
のではなく、入る動機であったようだ。そして中
にとって人間的な魅力を増していけばいくほど、ま
国に行き、考え方を変えたのである。その選択は
すます私は彼らとの内的な疎隔が不安になり、もど
彼にとって後悔をもたらすものではなかった。そ
かしくなった。たしかに私と彼らの間には共通 の
して引用後半の冒頭の部分には「私は中国で、生
ルールが働いていることを感じるのだが、そのルー
きている人間を見た。それは感動的な出来事で
ルを取り出すことができない。そのルールは文学に
あった。私は、この人間の心を知りたいと願っ
よってしか取り出せないことを、経験から私は確信
た。そこで仲間を語らって、大学でやらない現代
していた。だからヤミクモに文学書をあさったわけ
文学の研究をはじめた。」と、ある。この部分を
だが、哀しいかな予備知識がないので、手ごたえが
より詳しく語ったものがある。それを引用する。
ない。入るべき門が発見できない。そして日がたっ
ていった。
私が最初に中国へ行ったのは、一九三二年の夏で
中国文学の知識が皆無だったと私は書いたが、い
ある。そのとき私はまだ学生だった。籍だけは中国
ま年表をしらべてみると、当時すでに魯迅や胡適の
文学科においていたが、本気で中国文学をやろうと
訳は日本で出ており、私もそれを読んでいたはずで
いう気はなく、中国にたいして関心もなかった。た
ある。だから皆無というのは正確ではない。ある種
だ、この旅行には旅費の補助があったので、その制
の既成概念はあったはずである。ただそれが、実際
度を利用して青年期特有の放浪癖を満たそうとした
の目で見る民衆生活の状態とあまりに大きくかけち
だけである。ところが、たま た ま 行 き つ い た 北 京
がっていたところから、ショックを受けたというべ
で、そこの風物と人間とが私を魅了した。期限がき
きだろう。白紙ではなく、イ メ ー ジ は あ る こ と は
ても私は日本へ帰る気になれなかった。家にせびっ
あったのだ。ただ役に立たなかった。だから最初の
て追加の旅費を送ってもらって、寒くなるギリギリ
イメージはこわすほかなかったのである。ピラミッ
まで単独旅行者として北京に居残った。そして毎日
ドの頂点だけが宙にういていた。その架空のイメー
あてもなく街をほっつき歩いた。私の中国との結び
ジを御破算にして、ピラミッドの底辺からもう一度
つきは、このときにはじまる。
煉瓦を積みなおさなければならなかった。とも か
街を歩いていて本屋にぶつかると、つとめて新刊
く、自分は何も知らないという実感は痛切にあ っ
の文学書をあさり、財布のゆるすかぎり買い込 ん
た。このとき買って帰った本の中では、張資平の小
だ。当時、私の中国文学に関 す る 知 識 は 皆 無 に 近
説がいちばん数が多かったくらいだから、皆無でな
かった。大学では近代以後の文学はあつかっておら
いまでも私の知識が貧弱きわまるものだったことだ
ず、古い文学は私の方で敬遠した。雑誌などにも、
けは確かである。(
「孫文観の問題点」
『竹内好全集第
新しい中国文学の紹介は、見るに堪えるものはほと
5巻』筑摩書房1
9
8
2.
9。2
5頁)
んどのらなかった。どんな作家がいて、どんなもの
を書いているのか、皆目わからない。文学研究会と
手探り状態で北京へ行ったわけである。それと
創造社の区別さえ知らなかった。だから本を買うと
いうのも大学で学ぶのは古いもの、すなわち漢詩
いっても、こちらに規準があって選ぶのではない。
や漢文であり、文人たちの名前でいうならば、李
読まれていそうなもの、代表的作品らしいものを勘
白や杜甫など昔の人たちばかりであったわけだ。
で見分けるのである。日本からの留学生は何人か北
上の引用文の中で「創造社」を知らないと書いて
京に住んでいたが、彼らは古い本のことは知ってい
いるが、先ほど見た郁達夫の略歴を見たときに出
ても、新しい本で何を読めばいいか、何が読まれて
てきたもので、郁達夫と郭沫若が作った出版社で
いるか、そういうことは概して風馬牛だった。中国
ある。しかし知らないということは問題とならな
人の友人はまだいない。暗中摸索のほかなかった。
い。知識として知らなかっただけのことである。
私の目的は、中国人の心をつかみたい、自分なり
竹内好にとって北京の地にいて、自分の身の回り
―4
9―
1
5
2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
には人間が沢山いて、皆それぞれに生活してい
たかを見ていく。
る。その人たちとコミュニケーションができない
この「魯迅論」では魯迅が死んだことを念頭に
ばかりでなく、その人たちの心がよく分からな
置いて書いてはいない。この「魯迅論」の冒頭は
い。彼らに魅力があるにもかかわらず、である。
次のように始まる。
この「人間的な魅力」とは何か。この引用文の続
きを見てもよく分からない。さりとて他の作品を
魯迅の毒舌は大抵のものが怖れている。冷嘲と呼
探すわけには時間がなさ過ぎる。仮にこの「魅
ばれ、一たび筆鋒に触れれば骨を刺す寒さを論敵は
力」は日本人にないとすればどんなことになるだ
覚悟しなければならない。(
「魯迅論」
『竹内好全集第
ろうか。一応そのように考えておきたい。なぜな
1
4巻』筑摩書房1
9
8
1.
1
2。3
7頁)
らば、竹内好は小説ばかりでなく中国に生涯つき
これに続く文章で竹内好は、論敵を厳しい「毒
あったのだから。
また、引用では「生きている人間を見た」と書
舌」に曝していくうちに文章がうまくなっていく
いている。「生きている人間」なら日本にもいた
と評している。それを魯迅の「自然のままの冷酷
はずである。その日本では見つけることなく中国
な表情と見るべき」と断言している。魯迅が用い
で見つけた。と言うことは当時の日本人にはなく
る武器は「諷刺と逆説」で、「網にひっかかって
て、中国人にあったものは何か。もちろん貧富の
くる獲物」を翻弄させ、「容赦なくとどめを刺
差は日本にも中国にもあった。しかし明確に「こ
す」と言い、「骨の髄までしゃぶる執拗な食い下
れこれである」とは指摘していない。そしてそれ
がりと、貪婪さを持っている」と、魯迅には残酷
を見つけるのが文学であると見なしている。ただ
さがあるといわんばかりの書き方である。このよ
彼にとって明確になったことは、
「自分自身が何
うな魯迅の攻撃の対象は、後期の「創造社」の
も知らない」と言うことだけであった。これが彼
「思い上がった革命文学ぶり」に対してであっ
に中国を学ぶことに導いたわけである。
た。なぜこんなにも厳しかったのか。
そして二度目の中国滞在は、日中全面戦争の発
端となった北京郊外で起きた盧溝橋事件のため、
「あの時、自分は、マルクス主義の射撃法を心得
予定より三ヶ月遅れた1937年10月27日からであ
たものが現れて自分を狙撃してくれるのを待ってい
る。この滞在は、翌々年の1939年10月15日まで続
た、しかし、とうとう出て来なかった。
」
(「対於左翼
いた。ただし、この年の初めの2月には東京に
作家連盟的意見」
)
戻っている。父親の願いで見合いのために戻った
これは左連の成立大会席上での演説である。ポオ
のであるが、父親が亡くなってしまったため、3
ズはあるが、珍しく弱気な、不測の中に真実を洩し
月下旬に北京に戻る。そして同じ6月の上旬に、
たところがないでもない。誰もが結局、マルクス主
父親の遺骨埋葬と婚約破棄のため一ヶ月ほど日本
義を理解していなかったのである。魯迅は勿論──
にいて、7月半ばには北京に戻った。
むしろ彼は最後の人であった。大体、あのような辛
辣な逆説が生れるということ自体が、激しい自己矛
3 魯迅とのこと
盾の結果としてしか理解の方法がない。他人に向け
竹内好が初めて魯迅のことを書いたのは、1936
る刃ならばもっと柔くていい筈である。革命文学を
年(昭11)で、26歳の時である。夏には信州佐久
揶揄した時は、自ら革命を理解するために力めてい
に来ており、魯迅の作品を何点か読み、9月には
た 時 で あ っ た。創 造 社 に し て も が、余 裕 あ っ て
「魯迅論」に取りかかった。そして10月19日に魯
「奥服赫変」や「
迅が亡くなったことを聞いて、予定していた「魯
い。……略……血みどろなのは魯迅だけでなく、創
迅特集号」の「中国文学月報20号」に、急遽、魯
造社だけでなく、無論、段祺瑞に殺された女師大の
迅の書いた「死」を翻訳し、哀悼の意を表して、
学生 劉 和珍(魯迅「紀念劉和珍君」
)だけではない
掲載した。この特集号は偶然であったようだ。
のだ。怖るべき俗論は、魯迅を先覚者に仕立てるこ
この時の竹内好には魯迅がどのように映ってい
―5
0―
つと
アウフヘーベン
!魯 迅」を 振 か ざ し た の で は な
ドン
だん き ずい
りゅう わ ちん
とで、もし魯迅が英雄であるとすれば、正にその反
佐々木
!
竹内好と魯迅、毛沢東
1
5
3
対の理由こそ、自己を分裂のまま受取る凡庸さの故
にはショックを与えた。これ以前にも、西欧の近代
にこそ、彼は英雄でなければならない。(同)
小説を模倣した作品がなかったわけではないが、
「狂
人日記」はそれらとは異質のものであった。中国文
魯迅が論敵を激しく追求することは、竹内好に
学はこの作品の出現によってはじめて創造の主体を
してみれば、魯迅が自分自身に向けた攻撃の言葉
確立できたのである。……略……
と映ったのである。自己の内部にある矛盾を解決
「狂人日記」は、伝記の項で説明したように、魯
するために、論敵に仕掛けて、それに対する逆襲
迅の事実上の(習作をのぞいて)第一作であるばか
を受けて、自己の内部の弱さを克服しようとして
りでなく、近代文学としての中国文学の方向を打ち
いたと竹内好は指摘する。そのような状態の魯迅
出した最初の作品である。ここで狂人の手記という
を曲解して「先覚者」に仕立ててはならないとも
仮託が設けられているのは、そうせずには内容的に
警告している。むしろ、分裂している自分のあり
も形式的にも思い切った破壊が行なえないからであ
のままを受けとめ、それを乗り越えようとしてい
る。儒教倫理の虚偽を外側から暴露するだけなら、
るが故に「英雄」と見なすべきだとしている。
他の同時代者が行なったように、普通の叙事文でも
そしてどんな点が矛盾であるかを、作品「狂人
書けるはずだが、その虚偽が自己をもむしばんでい
日記」と「阿 Q 正伝」を通じて明らかにする。
る、自分が被害者であるばかりでなく加害者である
「狂人日記」は主人公である「おれ」が兄を始め
という、徹底した認識以上の行為的立場を打ち出す
とした村人たちが、
「おれ」を喰うのではないか
ためには、どうしても主人公を狂人に仕立てるほか
という恐れを、日付のない日記として書いてい
方法がなかった。またいっぽう、文語に反対するた
る。この処女作の位置づけを竹内好の文章から見
めに口語であれば何でもよいとする当時の新時代の
ておく。「筑摩世界文学大系62 魯迅・茅盾」(筑
風潮に魯迅は疑いをもっていたので、その批判を寓
摩書房,1958)に掲載された魯迅を解説した文章
するうえにも狂人の文体に仮託する必要があった。
である。
(「筑 摩 世 界 文 学 大 系6
2 魯 迅・茅 盾」筑 摩 書
房,1
9
5
8。4
4
4頁)
この魯迅の沈潜時代は、反動期のインテリゲンツ
ィア全体に共通する精神状況だった。政治上の変革
この引用の最後の部分でわかるかと思うが、旧
が阻止されたために、彼らのエネルギーは内攻 し
来のすべてを打破するのみならず、自己の内部に
て、新しい制度のなかに温存されている古い価値観
も巣喰っているものを破壊するのに「狂人」を必
の根底をくつがえす運動となって、目に見えぬ破壊
要とし、その心情をあらわにするために「日記」
力をたくわえていったのである。この内面的変革運
としたわけだ。この「日記」の最後の方に「四千
動は、主として二つの目標にむかって漸次集中され
年の食人の歴史を持つおれ。はじめはわからな
た。その一つは、儒教的倫理観であり、もう一つは
かったが、いまわかった。真実の人間のえがた
伝統の美意識である。どちらも、運動としては清末
さ。」とある。この部分で、否定すべきものが自
以来すでに数十年の歴史をもち、しだいに深まって
分の内部にあると言うことが理解できる。
いったものである。1
9
1
0年代の後半にいたって、そ
竹内好が書いた「魯迅論」に戻る。
れがついに爆発点に達した。そして文学革命、ある
いは五・四文化革命とよばれる旧文化の全的否定の
「狂人日記」が迎えられた 熱 狂 ぶ り は 右 の 言 葉
運動となってあらわれた。この運動の渦中に突如と
(省略)に尽きている。このことからは次の二つの
してあらわれ、文化革命の実質的勝利を自己証明し
ことが言われなければならない。即ち、新文学の最
た記念碑が、魯迅の「狂人日記」であった。「狂人日
初の作品であった、という意味は、文学者としての
記」は、内 容、形 式 と も に ま っ た く 新 し い 作 品 で
自覚をこめた最初の態度であったこと、それにも拘
あって、あまりに新しいがゆえに、その価値転換の
らず、第二に、イデオロギイ的には当時の進歩した
意味がつかめず、同時代のあいだでしばらく批評の
智識階級層にいくらも先んじてはいなかったこと。
対象にならなかったほどである。しかし、若い世代
……略……
―5
1―
1
5
4
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
「狂人日記」は、封建的桎梏に対する呪詛ではあ
仮定を提出している。
るが、その反抗心理は、本能的、衝動的の憎悪に止
り、個人主義的な自由な環境への渇求を明かにして
この仮定は一見、根拠のない妄説のように受取れ
いない。だから、大衆感情の組織者ではあっても、
るかもしれないが、前に書いたように、彼の逆説的
先駆としての意義は甚だ稀薄なものとなる。大体、
筆法、アフォリズム形式が、自己矛盾の表現である
彼の作品につきまとう東洋風の陰翳は、生活に溶込
とした見方に立てば、魯迅が阿 Q の中に自己の戯画
んだ民間風習に由来するものであろうが、儒教的で
を眺めるということが、そう不自然でない妥当性を
ないまでも、特に倫理的色彩に於て、気質的に、近
持ち来すと思う。ここでは、阿 Q 的存在は当然、魯
代意識の反対者たる百姓根性を多分に脱けきれぬも
迅の批判の対象になっているのだが、阿 Q も亦、自
のがある。(
「魯迅論」
『竹内好全集第1
4巻』筑摩書房
然主義作家魯迅(たとえば「祝福」
)の批判者として
1
9
8
1.
1
2。4
0頁)
登場しているのである。「阿 Q」のテエマが、革命は
成功した、しかし革命は成功しなかった、という点
すなわち「狂人日記」は新しい文学の最初のも
にあることを注目しなければならない。「狂人日記」
のであるが、その新しさを支える精神、または考
では、否定的情熱として作家の生命を燃やした矛盾
え方は特に突き抜けた先進性はなかった、と言う
が、ここでは、政治とイデオロギイの乖離という歴
竹内好の指摘である。その指摘を竹内はさらに敷
史的事実を借りて自己批判をやっているのである。
衍して、引用の最後の部分にあるようなことまで
だから、この人間的成長──歴史に伴って曝露され
断言する。「特に倫理的色彩に於て、気質的に、
てゆく自己矛盾──の反面には、作家としての燃焼
近代意識の反対者たる百姓根性を多分に脱けきれ
が終焉に近づくという悲劇が隠されているのかもし
ぬものがある。」これを意識した魯迅は、自分の
れない。事実、これから魯迅の「彷徨」が始ってい
内部にある「百姓根性」を何とか払拭したかった
る。これが悲劇なら、現代の中国文学全体が悲劇で
という指摘である。このような状態にある魯迅を
あるとも言えるのである。(同、4
2頁)
さらに竹内好は言う。
とにかく魯迅は、
「阿 Q 正伝」の中に自分を含
魯迅が理想家ではないという致命傷を負ってい
めて否定すべき中国を描き出したのだ。このこと
る。いい換えれば、魯迅の場合は、設定された目的
を知った竹内好は、魯迅を必ずしも先進的な革命
意識なり、行動の規範なりを持たなかった。気質の
的な作家とは捉えてはいない。魯迅が描き出す世
上で大差のない周作人が、北欧風の自由思想を取入
界は、魯迅自身を含めて中国文学の置かれた現状
れて、一種ニュアンスある個人的虚無哲学を作り上
をあらわしているという指摘である。そして魯迅
げたのに較べると、魯迅の方は、あくまで文学者の
は「文学の優位性を信じていない」ことを指摘
生活であり、それだけ観念的思索の訓練を欠いた十
し、体験から若者たちに「西欧の近代精神に触れ
八世紀的遺臭を伴っている。一歩を先んじたかもし
ること」を勧め、
「文学を政治主義的偏向から守
れないが、超ゆべく要請された十歩を、時代から超
る」としている。
え得なかった。……略……これが魯迅の宿命的矛盾
であり、魯迅に表現された意味で、現代中国文学の
4 毛沢東への視線
竹内好が初めて毛沢東について書き、発表した
矛盾でもある。(同、4
1頁)
ものと思われるものが『魯迅と毛沢東』である。
このような魯迅の心の内を、竹内好は、
「阿 Q
これは1947年(昭和22)9月に発行された「新日
正伝」でいっそう明確にしている、と言う。阿 Q
本文学」(新日本文学会刊)に掲載された。そし
の存在は諷刺的であるとした上で、阿 Q の性格
てほぼ四年後の1951年(昭和26)4月号の「中央
は当時の中国人の誰もが、その全部をあるいは一
公論」に「評伝毛沢東」を発表した。この後者の
部を持っているという指摘に同意した上で、
「阿
評伝の中で描き出された毛沢東を見る。
Q は魯迅自身の引き裂かれた分身」ではないかと
―5
2―
この評伝の組み立ては「1出生」「2時代区分
佐々木
!
竹内好と魯迅、毛沢東
1
5
5
と英雄崇拝の儀礼」「3家からの脱出」「4郷土文
る。その時、毛沢東は19歳で、魯迅は31歳であっ
化」「5学 習 態 度に つ い て」
「6旅 行・結 婚・鍛
た。いくつかの学校を転校してきた毛沢東は、最
錬」「7無からの創造」「8自己改造の問題」とい
後の師範学校を卒業するのであるが、竹内好は、
う見出しになっており、それらの見出しにした
毛沢東がその師範学校へ入学する前に半年ほどの
がって書かれている。時に応じてジャーナリスト
行動を報告している。それは省立図書館での読書
のエドガー・スノウの書いたものを証言として用
で、「あらゆる種類の書物を思う存分に読み、健
い、おおむね肯定的、好意的にそして客観的に書
啖な知識欲を満たした」と書いている。そして毛
かれている。
沢東の習慣となった新聞を丹念に読むことも付け
少年時代の行動から毛沢東の特徴を述べている
部分を最初に引用する。
加えて、それらすべてが毛沢東に大きな効果が
あったと竹内好は断言する。
毛沢東の少年時代の行動と、そこにあらわれてい
なぜ効果を挙げえたか。私は、中国の革命という
る意識の特徴的性格を、もし強いて階級的に分析す
主体的目標を堅持して放さなかったからだと思う。
るならば、おそらく非常に中農的といえるのではな
辛亥革命までのかれは、前に書いたように、素朴な
いかと思う。もしかれが貧農(あるいは小作農)の
愛国青年だった。この世代のすべての青年と同様、
子なら、いかに知識欲が旺盛でも、学生生活にあこ
かれもまた滅亡に瀕した祖国の危機を救いたいとい
がれるはずはなかった。家からの脱出は、せいぜい
う念願から出発した。腐敗した官僚絶対権力を倒す
父親と同様、兵士にでも応募するしか実現方法がな
ことによって国民的統一と対外独立を実現できるも
いわけだ。学問へのあこがれそのものが中農的地盤
のと信じた。しかし、辛亥革命は、名目的な共和制
に属している。すでに科挙の時代は去っていたが、
をもたらしただけで、実質的にはかえって分裂と侵
学生はやはり士大夫(官僚)候補者と同一視される
略の危機を深めた。単純なナショナリズムだけでは
社会的地位を保っていた。そして科挙に応じうる最
如何ともしがたいこと、なんらかの内部変革が必要
低身分が中農だった。少年毛沢東をとらえていた未
なことに、かれもまた気づいた。生きる道を発見し
来の夢は、立身出世というより、一種の経世家的な
なければならない。この死活の観点からかれは一切
理想であったと思われるが、その理想の実現のため
の事象を見、この観点に向って一切を集中し、調整
には野良仕事は不向きで、学問という余裕ある通路
した。世界は自己との関係で問題になるので、それ
を経なければならず、それには直接の労働から自分
以外の思弁はかれには用がなかった。すでにある種
を解放する必要があった。この場合、学問が有利な
の社会思想が、このころかれに芽生えている。社会
立身出世の道だという科挙以来の伝統の功利主義が
主義というコトバ(当時は社会改良主義の意味で使
しょうたん
父親にあったと想像される。はじめ毛沢東を湘 潭の
われたのだが)も新聞によって学んでいる。かれの
米屋に奉公させるつもりだった父親は、息子の熱心
内部で形成されつつある「何をなすべきか」が、現
な説得に負けて、湘郷に出来た新式の学校へ入学さ
象界の混沌をおのずから秩序立て、集約的な世界像
せることに結局は同意した。これが毛沢東の十六歳
をかれを中心として描いていったのである。(同、
の年で、かれはこうして家からの脱出に成功した。
2
8
8頁)
(「評伝
毛沢東」
『竹内好全集第五巻』筑摩書房、
つまり、愛国心やナショナリズムだけでは革命
1
9
8
1.
4。2
7
3頁)
は成功しない。「何らかの内部変革が必要」、そし
そして毛沢東に影響を与えた三つの事件を紹介
て「生きる道を発見しなければならない」と、竹
しており、それらはいずれも農民の暴動である。
内好は毛沢東が見なしたことを代弁している。こ
しかし竹内好は決定的なものではないと否定し、
の部分の証拠となるような文章が提示されていな
この当時は多くの若者と同様に外国の侵略に反発
いので、探してみたい気が起きる。引用文の中に
する「憂国」の若者の一人であったことを指摘す
「この死活の観点からかれは一切の事象を見、こ
る。1911年の辛亥革命の中心的人物は孫文であ
の観点に向って一切を集中し、調整した」とある
―5
3―
1
5
6
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
が、整風運動や文化革命に対する理解を、竹内好
する理解が、毛沢東をして魯迅を高く評価させて
はこのような毛沢東の考えを基にしていると思え
いる、と竹内好が見なす内容である。その論理の
る。しかしこのような私の考えは、より竹内好の
展開を追ってみる。中心的なテーマは「文学と政
思索をたどることでくつがえるかもしれない。
治」で、毛沢東が魯迅を利用しているという考え
とにかく、このように毛沢東の進むべき道を定
めた後、毛沢東の基本思想に言及する。
を、竹内好の文学理解と政治に対する考えをもっ
て論じながら否定している。文学に対する理解度
が深い毛沢東が、いわゆる革命作家ではない魯迅
純粋毛沢東とは何か。それは、敵は強大であって
を高く評価し、魯迅に共通点を見いだしていると
我は弱小であるという認識と、しかも我は不敗であ
いう指摘である。次の引用が、その『魯迅と毛沢
るという確信の矛盾の組合せから成る。これこそ、
東』という文章の初めの部分である。
毛沢東思想の根本であり、原動力であって、かつ、
今日の中共の一切の理論と実践の源をなすものであ
日本の文学の観点から毛沢東を眺める眺め方に、
る。それは半封建、半植民地の中国の現実の革命の
二通りあるように思う。(もちろん、無関心なものは
中から引き出されたもっとも高い、もっとも包括的
論外だ。
)ひとつは、毛沢東の文学論を正しいものと
な原理であり、したがって普遍的真理である。それ
して、環境の隔りからくる個々の当てはめ方のちが
は物心両面の一切の事象と、個人から国家に至る一
いはあるにしても、全体としては、その精神および
切の関係を規定する根本法則であって、実践による
方法を含めて、全的にそれを学ぼうとするもの。ひ
内容づけによってそれ自体が生成発展する。
とつは、さまざまな理由からそれを拒否するもの。
「中国革命の敵は、非常に強大である。
」したがっ
そのさまざまな理由のなかで、いちばん根本になっ
て「中国の革命勢力がまたたくうちに組織され、中
ているのは、毛沢東の文学論は政治主義的偏向であ
国の革命闘争がたちまちのうちに勝利しうると考え
る、あるいは、毛沢東の文学 論 の 解 釈 が そ う で あ
る見方は正しくない」
(『中国革命と中国共産党』
)
。
る、あるいは、少くも今日の日本文学の問題として
これまでの革命の失敗の原因は、この認識をもた
はそうである、という見方かららしい。そして、こ
なかったことにあった。意識的にせよ無意識的にせ
の対立する見方の生れる根本は、毛沢東の文学論の
よ、敵の力を小さく評価しようとして、主観内部に
集中的表現である「文学は政治に従属する」という
幻影をこしらえた。そこから猪突主義がうまれた。
一句にあるらしい。そして、この一句の解釈が人に
猪突に失敗すると、現実認識の誤りに気づかずに、
よって異ることと絡みあって、毛沢東の魯迅への評
逆に不敗の信念に動揺を来たして、そこから敗北主
価が問題にされるようである。つまり、毛沢東は政
義がうまれた。(同、3
0
4頁)
治的に魯迅を利用しているのではないか、毛沢東の
魯迅への傾倒が政治的意図から出たものでないにし
言い換えれば、敵は強くて大きい、しかし俺は
ても、少くも彼の文学論、あるいは文化政策のなか
絶対に勝つ、という思いである。決して敵を侮ら
では政治的に利用されているのではないか、それは
ず、正確に把握する、という現実認識が重要であ
毛沢東が偉大な政治家であることを立証するけれど
ると言うことになる。この考え方は何も革命に限
も、文学の内部の問題としては、それはまちがいで
らない。人が生きていくに当たって当然のことで
はないか、政治的な解釈を文学の内部へ持ち込むこ
ある。
とは、あるいは文学の問題を政治的に組立てること
さて、毛沢東に関することがらは、このくらい
は、文学における無制約な人間の発展を息づま ら
にしておいて、先ほど言った『魯迅と毛沢東』を
せ、文学の近代化を害うことにならないか、という
中心に見る。竹内好が何故このような標題で書い
さまざまの疑念があるように思 う。(
「魯 迅 と 毛 沢
たのか興味もあるし、魯迅は毛沢東より12歳ほど
東」
『竹 内 好 全 集 第 五 巻』筑 摩 書 房、1
9
8
1.
4。2
5
1
年齢が上であり、この二人は会ってないはずだか
頁)
ら。
この『魯迅と毛沢東』では、毛沢東の文学に対
―5
4―
この部分が問題提起の部分である。毛沢東の
佐々木
!
竹内好と魯迅、毛沢東
1
5
7
「文学は政治に従属する」と言う言葉の理解をめ
言葉は原語であろう。日本語に訳せば規準に当ると
ぐっての波紋から生じたものである。すなわち毛
思う)があって、一つは政治的標準であり、もう一
沢東の文学理論を受け入れるか、あるいは拒否す
つは芸術 的 標 準 で あ る。
」
「……す べ て 政 治 標 準 を
るかという問題提起である。この後、竹内好はこ
もって第一位に置き、芸術標準をもって第二位に置
の「文学は政治に従属する」と言う言葉の理解を
く……」というところである。……略……ここのと
示す。
ころは、前後をよく見て判断する必要がある。
前後の文脈から判断し、また、その論が吐かれた
毛沢東の文学論は、毛沢東という人の立場を考え
時と場所とを考えあわせてみれば、それは、全き存
れば、正しいと私は思う。「文学が政治に従属する」
在としてある芸術を意識の内部で分裂させる主観主
という言葉は、文学の外に政治があって、政治が文
義でもなければ、芸術以外のものを芸術へ持ち込む
学に命令する、という意 味 で あ ろ う か。毛 の 文 章
政治的偏向でもないことがわかる。彼は実に、敵か
(「現段階における中国 文 芸 の 方 向」
)を よ く 読 め
ら文学を守るために、文学の純粋さをかばうた め
ば、そうでないことがわかる。「文学が政治に従属す
に、その論を吐いているのだ。当時、中共は、外か
る」とは、文学が具体的な歴史的世界の所産である
らの侵略と、内からの官僚独裁の危険という、内外
こと、自我実現として無限に個を越えてゆく文学の
二面の敵にたいして戦っていた。戦争は、あらゆる
営みが、それ自体として歴史的、社会的に制約され
ものを政治的にする。侵略者は、侵略のために芸術
ていること、しかもその制約を突き破るところに文
を利用するし、それに抵抗せぬ芸術は、抵抗せぬこ
学は文学となること、その文学を成り立たせる包括
とによって侵略に利用される。それは私たちの骨身
的な場所として政治があるという意味で、文学は政
にしみた体験だ。毛沢東が名を挙げている二人の文
治に従属するのだと私は思う。(同、2
5
2頁)
学者、周作人と張資平とは、政治一般を拒否したが
ために敵の政治に奉仕したではないか。毛は、文学
別な言い方をしてみる。文学はその時代を反映
が文学として伸びてゆくために敵と戦わなければな
すると言うことである。すなわち小説家や詩人
らぬこと、戦うことによって、よりよく伸びるため
は、いつの時代にもいるが、それぞれ人間として
の根張りが強くなることを、文学の立場から、文学
一定の時代に生きている個人である。その彼らの
擁護の立場から、論じているのだと私は思う。(同、
発想は、その時代の思想、習慣、知的な蓄積物が
2
5
3頁)
源となっている。それらが「制約」であるわけ
だ。にもかかわらず普遍的なありようを示す人間
これも毛沢東の言葉の理解である。中ほどにあ
が描かれれば、その時代の「制約」を突き抜け
る「全き存在としてある芸術」とは、優れた芸術
る。例を挙げれば、紫式部の「源氏物語」やギリ
作品が、それ自身の持つ独特な世界を指してい
シアのホメーロスが書いた「オデッセウス」など
る。そこには他のどんなものも入り込む余地がな
を初めとして時代を超え、国境を越えた作品が存
いのだ。これを二つの基準、すなわち政治と芸術
在する。そのような作品を生み出す土壌が政治に
の基準をもって判定するという主観的な考え方で
よって作られる、と理解してよいだろう。このよ
はないと言っているわけだ。そして政治基準を第
うな理解にそっている毛沢東は文学をつぶすどこ
一位に置くと言うことは政治的に判断すると言う
ろか、伸びるように手をさしのべていると、竹内
ことではない。むしろ文学が利用されてはならぬ
好には見え、「彼はあくまでも文学的である。」と
ために、政治に関心を持たねばならず、すなわち
さえ言う。
防御の姿勢を保ちながら芸術的な作品を創造する
そのように捉えながらも、竹内好は気になる部
ことだ。ただし、ここに私の考えを付け加えてお
きたい。その芸術的な作品が「人間を賛美し、生
分を指摘する。
きる勇気を与え、人間の真実を描き出したもの」
しかし、その毛沢東の文学論のなかで、私が不審
であること、ここに文学の本質があると思う。
に思った条がある。「文芸批評には二つの標準(この
―5
5―
そして竹内好は、毛沢東の文学理解に、魯迅と
1
5
8
長野大学紀要
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9巻第2号 2
0
0
7
の接点を見出した。
また、自分をも許さなかった。彼に甘やかされぬこ
とを不満に感じた青年の多くが、彼にそむいたほど
毛沢東の魯迅への傾倒の深さは、なみなみならぬ
である。しかし彼は、青年に苛酷なものを要求はし
もので、しかも彼は、実に文 学 的 に 魯 迅 を 見 て い
なかった。彼は「ただ一歩を」
、しかし「限りない一
る。毛の人間形成の根抵に、魯迅が重要な要素に加
歩を」求めただけだ。……略……「真実さえあれば
わっていたろうとい う 気 が す る。魯 迅 が「狂 人 日
い い。ほ か に 何 も い ら ぬ」と も 彼 は い っ た。彼 は
記」を発表したとき、毛は北京図書館の助理をして
「表紙に騎馬の英雄を描いた」革命文学の雑誌を憎
いた。「狂人日記」の発表されたより少し前の同じ
み、「拳固を頭より大きく描く」プロレタリア画家を
『新青年』に、匿名の寄稿をしたこともある。彼の
憎んだ。
魯迅にたいする尊敬は、魯迅の文学生涯の開始と同
すべてそれらを、毛沢東は知り、そのすべてに尊
時にはじまり、継続し、高まり、事ごとに彼はそこ
敬を捧げた、と私は思う。毛もまた、看板を信用せ
から励ましと教訓を汲み取っていたようである。
ぬことに確信を持つ 人 だ。そ し て「真 実 だ け で 十
……略……魯迅は前進した。そして毛沢東も前進し
分」な人だ。だからこそ、彼は人間的に魯迅を見、
た。文学に無限の高まりを要求した魯迅は、一度も
魯迅の苦闘に感動し、『資本論』をよまぬ魯迅を「マ
現状に満足したことがなかった。彼は一度も休息し
ルクス主義的」と評しえたのだろう。「私は古い人間
なかった。……略……毛もまた、彼の理想のために
だ」と魯迅はいった。「だから古い社会の悪いところ
現状を破壊しつづけた。今もしているらしい。恐し
をよく知っている」と。彼は身をもって古い社会を
いほど現実主義的な理想主義者という点で、この二
滅ぼそうとした。「憎むもののために生きる」という
人は共通である。魯迅が死んだとき、多くの青年が
彼の思想が、そこから生れた。そのことを、毛沢東
泣いたが、もっとも心から泣いた一人は、毛であっ
は見抜いているらしい。魯迅は、個を否定すること
たろうと思う。
によって、個を越え、階級を越え、歴史を越えた。
毛沢東は、魯迅を追憶した彼の講演の中で、三つ
それを毛は、彼自身の切実な体験によって知ってい
の点を指摘して高く評価している。第一は政治的遠
る。……略……文学を深く愛した毛は、文学の現状
見、第二は闘争精神、第三は犠牲的精神。これは正
に満足せず、より高いものを、より厳しいものを、
しいと私は思う。このような簡潔な言葉で正確に魯
彼ら(丁玲や蕭軍)に求めた。「魯迅を見よ」と彼は
迅を評価することは、よほど深く魯迅を見つめ、文
いった。それは「人民を見よ」というのと同義語で
学の味を噛みしめ、その断言を肉体の底から湧き上
ある。魯迅は政治を越えた。文学は政治を越えるべ
らせるだけの豊富な生活体験を持った人でなければ
きものである。越えるべきものとして政治を「知ら
むずかしいことを、私自身が魯迅研究者の一人とし
ねばならぬ」
。知ることは自由になることである。
て、とくに切実に感じる。毛は、魯迅を「中国第一
(同、2
5
5頁)
等の聖人」とまで呼んでいる。そして「共産党の組
織内の人ではないが、その思想、行動、著作はすべ
この引用の最後の部分はわかりにくいかもしれ
てマルクス主義化されている」と評している。その
ない。すでに知られているように、魯迅は仙台で
魯迅は一度も自分がマルクス主義者だと宣言したこ
人間の肉体を治す医者になることをやめ、中国社
とはないのだが。(同、2
5
4頁)
会を直すことを決意した。しかし政治体制など社
会の仕組みを直すことではなかった。革命によっ
では、竹内好は毛沢東と魯迅の接点が、どのよ
うな内容であったかを見る。
て政治体制を変えることは可能であっても、それ
を支える人々の心が病んでいては、その体制を維
持することは不可能である。だからこの引用文に
魯迅は、文学に限りなく高いものを求めた。そし
あ る「個」と は、『阿 Q 正 伝』の 主 人 公 で あ る
てそれへ向って一歩一歩努力をつづけた。進歩を妨
「阿 Q」であり、すなわち自らを含めた中国人一
げるものは、何者をも許さなかった。彼は、敵を許
般である。この同じことを毛沢東は革命運動の中
さなかったばかりでなく、味方をも許さなかった。
で見知っていたのだ。それ故に「文学」が人々の
―5
6―
佐々木
!
竹内好と魯迅、毛沢東
1
5
9
心の病を治すと信じ、魯迅を讃え、高く評価した
たことを批判する。すなわち、毛沢東が「文学は
のである。もちろん今言った「心の病」とは、本
政治に従属する」といった意味を曲解したと。そ
当の病気のことではなく、長年中国人に染みつい
して中野重治のことば「文学者は、日本人の人間
ている、悪習はもちろんのこと、そして悪しき考
としての成長にどんな制限をも決して与えてはな
えから始まってあらゆる否定すべきものを棄てな
らぬ」
(「日本文学の諸問題」
)を使いながら、党
ければならない。それをしなければ「より良くな
がこのような、すなわち「政治に従うべき」とし
らない」と言うことになる。そして、さらに竹内
てはならない、と締めくくっている。
好は、二人を次の引用のように捉える。
言葉とは、本質的にはコミュニケーションの手
段である。文学はこれを用いて表現される。より
魯迅は徹底して偶像を排斥した。主人持ちとなる
正確に言うならば、文学作品は、作者の主観に基
こと、ドレイとなることから、身もだえして逃れよ
づいて作られた世界である。言葉についてもう一
うとした。文学者にとって、偶像とは言葉である。
歩踏み込んで考えてみると、その役割をもう少し
彼は言葉の支配から自由になるために苦闘した。毛
分類できる。われわれ人間がものごとを認識する
もまた、徹底して偶像を排斥した。政治家の偶像は
ための手段でもあり、ものごとを抽象的であれ、
「思想」である。彼は思想に身をまかせずに、それ
具体的であれ、創造するために考えるための手段
を越えるためにそれと戦った。実に徹底して彼らは
でもある。竹内好の言う、
「言葉の支配」とはコ
自由人であった。自由人としての自己を打ち出して
ミュニケーションとものごとの認識に重点を置く
ゆく過程がそのまま民族の歴史になったような人た
ことになると思える。ものごとを創造するために
ちである。(同、2
5
8頁)
考えることが、人間の心の病を治すのに役立つと
思えるからだ。つまりこのことがさまざまな因習
このような理解を竹内好が進めていき、最後の
にとらわれない「自由」を意味することになる。
部分で鮮やかに断罪する。当時の日本共産党員で
(本論は、長野県日中学術 交 流 委 員 会 主 催 の 第1
0期
ある野坂参三が「延安における民衆芸術」という
「日本と中国を考える連続市民講座」
(2
0
0
7年4月2
1
講演で「政治が第一で芸術が第二であり、した
日)において「竹内好と中国」という演題で講義され
がって芸術は政治にしたがふべきである」と言っ
たものである。
)
―5
7―
長野大学紀要
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9巻第2号 5
9―7
1頁(1
6
1―1
7
3頁)2
0
0
7
知的障害者更生施設Aにおける宿泊旅行の取り組み
―利用者が宿泊旅行を主体的に選択するために―
An Approach of Trip in Rehabilitation Institution A
for Mentally Challenged Person
―For User’s Independent-choice of Trip―
鈴
木
政
史*
Masashi Suzuki
ムシフトしていく中で、宿泊旅行においてもその
はじめに
目的を指導・訓練から社会経験の習得・拡大、社
知的障害者更生施設・知的障害者デイサービス
会性の向上、余暇の充実などへと変容していかな
1)
を持つ人が利用する
などの知的に「しょうがい」
ければならない。加えて、今後の社会福祉施設に
社会福祉施設では、社会経験の拡大や社会性の向
おいてはノーマライゼーションの原理・権利擁護
上を目的として利用者全員を対象とした宿泊旅行
などの面から、日常生活に関する様々な事柄を利
2)
を行っている 。しかし、社会福祉施設における
用者が主体的に選択することができるようにして
宿泊旅行の多くは宿泊訓練やバスハイクなどであ
いくことが求められている。
り、集団で実施することが多い。このような集団
こうした現状を背景として、知的障害者更生施
での活動は個人の要望を反映することが難しく、
設A(以下、A施設)においても社会経験の習得
施設の利用者が宿泊旅行の旅行先・メンバー・旅
・拡大と余暇の充実を目的として宿泊旅行を実施
行の時期などを主体的に選択することは困難であ
してきた。A施設における宿泊旅行は小規模なグ
る。
ループで様々な場所を旅行するという、従来の全
しかし、社会福祉施設における宿泊旅行は、本
体活動・行事である集団での宿泊旅行よりは、よ
来、ノーマライゼーションの原理および社会シス
りノーマライゼーションの原理に近いものであっ
テム的統合の観点3)からすれば、民間の旅行会社
た。しかし、A施設におけるこれまでの宿泊旅行
が提供する旅行プランのように、有限ではあるが
は、事前に利用者の宿泊旅行に関するニーズ調査
いくつかの選択肢の中から宿泊旅行の旅行先・内
を行うものの、宿泊旅行の旅行先・メンバー・時
容・費用・時期・交通手段などの旅行に関する
期等については施設主体で決定しており、利用者
様々な事柄を利用者が選択し参加するものであ
が宿泊旅行に関する事柄を主体的に選択すること
り、様々な人で構成された小規模なグループ、或
は困難であった。
いは個人で行われるべきものである4)。また、社
そこで、A施設では「利用者が宿泊旅行を主体
会福祉施設における日中活動の目的が指導・訓練
的に選択し参加する」ことを目的として、
「宿泊
からリハビリテーションや社会経験の習得・拡
旅行プロジェクトチーム」を組織して宿泊旅行の
大、社会性の向上、余暇の充実などへとパラダイ
あり方を検討し、宿泊旅行の新たな提供形態を実
*社会福祉演習・実習室助手
―5
9―
1
6
2
長野大学紀要
表1
第2
9巻第2号 2
0
0
7
平成1
6年度の宿泊旅行実施状況
期日
利用者数
7/1・2
1
0
青梅
7/8・9
3
伊豆伊東
8/1
0・1
1
4
施設内宿泊
9/2・3
3
軽井沢
9/9・1
0
3
箱根
9/2
9∼1
0/1
9
東京ディズニーシー
1
0/1
3∼1
5
7
鬼怒川
1
0/2
8・2
9
1
0
東京ディズニーシー
1
1/1
7∼1
9
7
東京ディズニーシー・ランド
1
1/2
4∼2
6
4
木更津
1
2/2・3
6
お台場
2/2
3∼2
5
6
大阪ユニバーサルスタジオ
3/2∼4
7
伊豆熱川
施した。
旅行先
用者は宿泊旅行に関するアンケートによって具体
本研究は、A施設における「利用者の主体的選
的な旅行先・時期・内容などの希望を施設側に伝
択の保障」を目的とした宿泊旅行の新たな取り組
えることはできるが、宿泊旅行に関して選択でき
みについての実践研究報告であり、ノーマライ
る部分は施設側から提示された宿泊旅行に「参加
ゼーションの原理に基づいた社会福祉施設におけ
する」か「参加しない」の二択であった。
る宿泊旅行の新たな提供形態を考察・検証したも
このようにA施設におけるこれまでの宿泊旅行
のである。
は、利用者の主体的選択が尊重されているとは言
¿.A施設におけるこれまでの宿泊旅行
い難い状況であり、利用者が毎年、様々な季節に
様々な場所に宿泊旅行に行くことが可能であって
A施設では利用者の社会経験の習得・拡大、余
も、宿泊旅行に関する事柄を利用者が主体的に選
暇の充実を目的として、宿泊旅行が充実したもの
択することができなければノーマライゼーション
となるように様々な地域に小規模なグループで行
の原理を具現化することは困難である。
く宿泊旅行(一人につき2泊旅行を年1回、また
そこで、A施設では宿泊旅行を利用者が主体的
は1泊旅行を年2回)を実施してきた、平成16年
に選択することができるように「宿泊旅行プロジ
度のA施設における宿泊旅行の実施状況が表1で
ェクトチーム」を組織し、宿泊旅行の提供方法を
ある。
検討することとなった。
し か し、「宿 泊 旅 行 に 関 する ア ン ケ ー ト(図
この「宿泊旅行プロジェクトチーム」における
1)」を実施して利用者のニーズを調査し、施設
検討課題は「利用者が宿泊旅行を主体的に選択す
側で利用者の相性や「しょうがい」の程度などを
るためにはどのような提供方法が適切か」という
考慮するものの、宿泊旅行における旅行先・メン
ことである。
バー・日程などは利用者のニーズに基づいて施設
À.新たな宿泊旅行提供方法の取り組み
主体で決定していた。これはノーマライゼーショ
この「宿泊旅行プロジェクトチーム」による検
ンの原理や社会システム的統合、および、権利擁
護の面から見ても施設の主体者である利用者の自
討の結果、
己決定が尊重されているとは言い難い。また、利
①利用者のニーズを把握するために「宿泊旅行ア
―6
0―
鈴木政史
知的障害者更生施設Aにおける宿泊旅行の取り組み
りょ こう
かん
旅行に関するアンケート
挨拶文・アンケートの締め切りなど
きりとり
りょ こう
旅行アンケート
し
めい
氏名
くだ
どれかひとつに○(まる)をつけて下さい。
はく
かい
1泊を2回
はく
かい
2泊を1回
どちらでもよい
た
い
けん
よう ぼう
き にゅう
その他、ご意見・ご要望がございましたらご記入ください。
図1
宿泊旅行に関するアンケート
―6
1―
1
6
3
1
6
4
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
①宿泊旅行アンケート
②旅行先候補・時期の決定
③旅行先希望調査
④旅行先・日程・同行者の決定
⑤宿泊旅行の情報提供
宿泊旅行に不参加
⑥宿泊旅行の実施
図2
A 施設における宿泊旅行のフローチャート
ンケート」を実施する。
てもらう。また、自由解答欄を設定し、提示し
②宿泊旅行アンケートに基づいて利用者のニーズ
た選択肢以外のニーズも記入してもらった。加
を分析し、旅行先希望調査を実施する。
えて、心身に重度の「しょうがい」を持ち医療
③旅行先希望調査に基づいて、旅行先・メンバー
的ケアが必要な利用者の体調面への配慮から、
・日程等を決定する。
宿泊旅行への参加が難しい時期の有無と具体的
④宿泊旅行の詳細な情報を利用者に提示して宿泊
旅行への参加・不参加を確認し、最終的な調整
な時期を記入してもらった。
②旅行先の候補・時期の決定
を行い宿泊旅行を実施する。
①の宿泊旅行アンケートに基づいて、具体的
という決定がなされた。
な旅行先の候補と可能な限り提示できる時期を
A施設における宿泊旅行の新たな取り組みのフ
ローチャートを表したものが図2である。
施設側で決定した。
③旅行先希望調査(宿泊先・旅行の時期の提示・
①宿泊旅行アンケート(利用者のニーズ調査)
選択)
最初に宿泊旅行における利用者のニーズを把
②で決定した具体的な宿泊旅行の旅行先・内
握するために、「宿泊旅行アンケート(図3)」
容と時期を「旅行先希望調 査1、2(図4−
を行った。このアンケートでは大まかな宿泊旅
1、図4−2)」に よ っ て 提 示 し、旅 行 形 式
行の旅行先・内容等の選択肢を提示し、どのよ
(1泊および2泊)と利用者が参加したい宿泊
うなところに行きたいかなどを利用者に選択し
旅行を選択してもらった。旅行先については第
―6
2―
鈴木政史
りようしゃ
ほ ご しゃ
知的障害者更生施設Aにおける宿泊旅行の取り組み
1
6
5
みな さま
利用者・保護者の皆様へ
へいせい
ねん ど
しゅくはく
ねが
平成17年度 宿泊旅行アンケートのお願い
挨拶文・アンケートの締め切りなど
なか
きぼう
ないよう
かこ
※ A∼Hの中で希望される内容を○(まる)で囲んでください。
し めい
氏名
い
Q.1 どんなところへ行きたいですか?
かん せん
あそ
A. テーマパークで遊ぶ
きん こう
おん せん
しょく じ
C. 近郊のシティホテルでゆっくり食事
でん しゃ
ふね
ひ こう き
と ない
い
ご
しば い
み
F. 都内でミュージカルや芝居を観る
し せつ ないしゅくはく
い
G. 今年限りのイベントに行く
ほか
かん こう ち
D. やっぱり温泉・観光地
E. 電車( )船( )飛行機( )で行く
こ としかぎ
や きゅう
B. スポーツ観戦(サッカー、野球など)
H. 施設内宿泊
き ぼう
Q.2 この他に御希望がありますか?
さん か
むずか
じ
き
Q.3 参加の難しい時期はありますか?
がつ ごろ
・はい
月頃
・いいえ
きょうりょく
ご協力ありがとうございました。
図3
宿泊旅行アンケート
―6
3―
1
6
6
長野大学紀要
りようしゃ
ほ ご しゃ
第2
9巻第2号 2
0
0
7
みな さま
利用者・保護者の皆様へ
へい せい
ねん ど
しゅくはく りょこう き ぼうちょう さ
平成17年度 宿泊旅行希望調査
せん じつ
きょうりょく
しゅく はく りょ こう
しゅう けい けっ か
もと
先日ご協力いただいた「宿泊旅行についてアンケート」の集計結果に基づいて、
りょ こう さき
こう ほ
あ
りょ こう けい しき
かい すう
はく すう
えら
ない よう
ばん ごう
き
ぼう
旅行先の候補を挙げました。旅行形式(回数、泊数)と選ばれた内容の番号を希望
じゅん
き にゅう
き
ぼう にん ずう
あ
じょうきょう
じっ し
順に記入してください。また、希望人数やホテルの空き状況によって実施できない
き
かく
はっ せい
ば あい
りょうしょう
企画が発生する場合がありますのでご了承ください。
し めい
氏名
りょ こう けい しき
き
ぼう
つ
◆どの旅行形式を希望されますか?A∼Dに○を付けてください。
はく りょ こう
かい
A. 2泊旅行を1回
はく りょ こう
かい
B. 1泊旅行を1回
はく りょ こう
かい
C. 1泊旅行を2回
りょ こう
き
ぼう
D. 旅行を希望しない
じょう き
き ぼう
りょ こう けい しき
てき ごう
らん
き ぼう
りょ こう さき
き にゅう
◆上記の希望された旅行形式にあわせ適合する欄の希望する旅行先を記入して下さい。
はく りょ こう
らん
えら
A…「2泊旅行」の欄から1つ選んでください。
はく りょ こう
らん
えら
B…「1泊旅行」の欄から1つ選んでください。
はく りょ こう
らん
えら
C…「1泊旅行」の欄から2つ選んでください。
1
図4−1
旅行先希望調査1
―6
4―
鈴木政史
知的障害者更生施設Aにおける宿泊旅行の取り組み
はく りょ こう
2泊旅行
ほっ かい どう
さっ ぽろ
がつ
がつ
1. 北海道/札幌(8月∼9月)
みや
ぎ
まつ しま
がつ
がつ
2. 宮城/松島(10月∼11月)
ち
ば
く じゅう く
り
はま
がつ
がつ
3. 千葉/九十九里浜(7月∼8月)
やま なし
ふ
じ きゅう
がつ
がつ
4. 山梨/富士急ハイランドパーク(10月∼11月)
しず おか
い
ず
こう げん
がつ
がつ
5. 静岡/伊豆高原(11月∼12月)
なが
の
かる
い
ざわ
がつ
がつ
6. 長野/軽井沢(7月∼8月)
なが
の
しん しゅうかみ こう
ち
がつ
がつ
7. 長野/信州上高地(6月∼7月)
あい ち
ばん ぱく
あい
ち きゅう はく
がつ
がつ
8. 愛知/万博「愛・地球博」(8月∼9月)
おお さか
がつ
がつ
9. 大阪/ユニバーサルスタジオ(2月∼3月)
ひょう ご
こう
べ
がつ
がつ
10. 兵庫/神戸(1月∼2月)
だい
き ぼう
だい
き ぼう
だい
き ぼう
第1希望[ ] 第2希望[ ] 第3希望[ ]
はく りょ こう
1泊旅行
にい がた
えち
ご
ゆ ざわ
がつ
がつ
1. 新潟/越後湯沢(9月∼10月)
とち
ぎ
な
す
がつ
がつ
2. 栃木/那須ハイランドパーク(10月∼11月)
ぐん
ま
くさ つ おん せん
がつ
がつ
3. 群馬/草津温泉(1月∼2月)
とうきょう
とうきょう
がつ
がつ
4. 東京/東京ディズニーリゾート(11月∼12月)
か
な
がわ
よこ はまちゅう か がい
がつ
がつ
5. 神奈川/横浜中華街(6月∼7月)
か
な がわ
み
うら かい がん
がつ
がつ
6. 神奈川/三浦海岸(7月∼8月)
か
な がわ
はっ けい じま
がつ
がつ
7. 神奈川/八景島シーパラダイス(9月∼10月)
やま なし
かわ ぐち
こ
がつ
がつ
8. 山梨/河口湖(8月∼9月)
い
ず
しも
だ おん せん
がつ
がつ
9. 伊豆/下田温泉(2月∼3月)
あい
ち
な
ご
や
がつ
がつ
10. 愛知/名古屋(6月∼7月)
だい
き ぼう
だい
き ぼう
だい
き ぼう
第1希望[ / ] 第2希望[ / ] 第3希望[ / ]
て
すう
がつ
にち
へん じ
※お手数ですが、 月 日( )までにご返事ください。
2
※ 旅行先・時期は例であり、A施設が実際に提示した宿泊旅行の候補地・時期とは異なる。
図4−2
旅行先希望調査2
―6
5―
1
6
7
1
6
8
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
3希望まで記入してもらった。
旅行先希望調査の結果が図7である。この旅行
④旅行先・日程、同行者の決定
先希望調査によって利用者に宿泊旅行の具体的な
③の旅行先希望調査に基づいて、平成17年度
候補地を提示すると、利用者のニーズは宿泊旅行
のA施設における宿泊旅行の旅行先・日程・メ
)
25%)、ディズニーリ
アンケートと同様に温泉5(
ンバー・同行者を決定した。
ゾート(2
3%)、近郊ホテル(1
2%)の希望が高
⑤宿泊旅行の情報提供(利用者への宿泊旅行の詳
かったが、その他の旅行先については希望が分散
した。また、いくつかの候補地については利用者
細の提示と参加・不参加の確認)
④で決定した宿泊旅行の旅行先・日程・メン
が希望しない旅行先も見られた。
バー・同行者などの詳細を「宿泊旅行のお知ら
この旅行先希望調査の結果に基づいて、A施設
せ(図5)」によって利用者に提示し、利用者
が実施した平成17年度の宿泊旅行実施状況が表2
に宿泊旅行への参加・不参加を確認した。
である。平成1
7年度は1
5回の宿泊旅行を実施し
た。
⑥宿泊旅行の実施
A施設における宿泊旅行の取り組みでは、利用
Á.結果および、宿泊旅行の実施状況
者の宿泊旅行に関するニーズは宿泊旅行アンケー
1.宿泊旅行アンケートの集計結果
トと旅行先希望調査では同じような結果となっ
A施設において、宿泊旅行における利用者の
た。しかし、宿泊旅行における個人のニーズは多
ニーズを把握するために行った宿泊旅行アンケー
様であり、事前に宿泊旅行アンケートを行い利用
トの結果を示したのが図6である。この宿泊旅行
者の宿泊旅行に関するニーズを把握し、それに基
ア ン ケ ー ト で は、温 泉(28%)・テ ー マ パ ー ク
づいた旅行先希望調査によって宿泊旅行の旅行先
(27%)・近郊ホテル(19%)などのニーズが高
・時期の選択肢を事前に提示することで利用者の
い結果となった。また、具体的な旅行先の希望は
主体的選択を保障することが重要である。
「愛・地球博」「伊東のハトヤ」「沖縄・北海道な
Â.今後の課題
ど」「ディズニーリゾート」「ハイキング」
「関東
このA施設における新たな宿泊旅行の取り組み
近郊」などであった。
は、ノーマライゼーションの原理に基づいて社会
2.旅行先希望調査
宿泊旅行アンケートの結果を元にA施設におけ
福祉施設で提供される宿泊旅行をこれまで以上に
る平成17年度の宿泊旅行の旅行先の候補・時期を
利用者主体へと改革し、宿泊旅行における利用者
利用者に提示し、旅行先希望調査を行った。
の自己決定を保障することが目的であった。この
平成17年度のA施設における旅行先希望調査で
利用者が宿泊旅行を主体的に選択するという目的
は以下の22ヵ所の旅行先を候補地として提示し
を果たすため、A施設では宿泊旅行の提供形態を
た。
再検証し、事前に宿泊旅行の旅行先の候補・時期
などの概要を提示して利用者に主体的に選択して
大阪/ユニバーサルスタジオ・愛知/
「愛・地球
もらうことで、宿泊旅行に関する一部ではあるが
博」・沖縄/冬の琉球・宮城/仙台の旅・栃木/
利用者の自己決定を保障することが可能となった
りんどう湖ファミリー牧場&温泉・静岡/下田温
のである。
泉・長野/軽井沢・神奈川/八景島・神奈川/箱
しかしながら、宿泊旅行に同行する支援者・宿
根・東京/東京ディズニーリゾー ト・東 京/ミ
泊旅行の内容・食事・交通手段までは施設の支援
ュージカル・東京/東京ドームホテル(スポーツ
体制・年間スケジュール・予算等の関係から、施
観戦)・東京/近郊ホテル・神奈川/大磯ロング
設主体で決定した。また、心身に重度の「しょう
ビーチ・神奈川/横浜ランドマークタワー・群馬
がい」を持つ利用者は、体調面への配慮から夏季
/伊香保または草津・山梨/河口湖・静岡/ハト
・冬季の参加、長距離の移動等が難しく宿泊旅行
ヤ・花火大会・神奈川/三浦または鎌倉・東京/
の選択の幅が狭められてしまった。結果、医療的
浅草・施設内宿泊
ケアを必要とする利用者の選択肢が限定的であった。
―6
6―
鈴木政史
りようしゃ
ほ ご しゃ
知的障害者更生施設Aにおける宿泊旅行の取り組み
1
6
9
みな さま
利用者・保護者の皆様へ
へい せい
ねん ど
しゅくはく りょこう
し
平成17年度 宿泊旅行のお知らせ
こん ねん
ど
りょ こう さき
き
し
いっ ぱく りょ こう
かい
今年度の旅行先が決まりましたのでお知らせいたします。なお、一泊旅行を2回
かた
ほん
し
よう し
まい
くば
かく にん
の方は本お知らせ用紙を2枚お配りいたしておりますのでご確認ください。
しつ もん
ふ めい
てん
て
すう
りょ こう たん とう
しょくいん
し
ご質問、ご不明な点がございましたらお手数ですが、旅行担当の職員までお知ら
せください。
き
記
にっ てい
ねん
へい せい
がつ
にち
すい
がつ
にち
きん
①日程 平成17年10月12日(水)から10月14日(金)
い
さき
やま なし けん
ふ
じ きゅう
②行き先 山梨県/富士急ハイランドパーク
さん
か
③参加メンバー
り
よう しゃ
利用者 Aさん Bさん Cさん Dさん
しょく いん
職員 Eさん Fさん Gさん
ボランティア Hさん
い じょう
以上
りょ こう
さん
か
ば あい
がつ
にち
れん らく
*この旅行に参加なされない場合は 月 日( )までにご連絡ください。
図5
宿泊旅行のお知らせ
―6
7―
1
7
0
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
1%
温泉・観光地
3%
テーマパーク
3%
7%
近郊ホテル
28%
12%
公共交通機関
施設内宿泊
都内観劇
今年限りのイベント
19%
スポーツ観戦
27%
図6
宿泊旅行アンケート結果
ディズニーリゾート
近郊ホテル
5%
沖縄
3% 3%
りんどう湖
23%
5%
ハトヤ
ユニバーサルスタジオ
6%
箱根
6%
愛・地球博
12%
7%
施設内宿泊
仙台
大磯ロングビーチ
7%
8%
7%
河口湖
8%
図7
下田温泉
旅行希望先調査結果
こうした結果から、今後はより詳細な宿泊旅行
でいかなければならない。
の情報を提示することと、宿泊旅行の内容や交通
具体的には、
手段、食事など選択できる項目を拡充し、より利
①宿泊旅行の詳細な内容提示と選択(食事・観
用者主体で宿泊旅行が実施できるように取り組ん
―6
8―
光内容・宿泊先・交通手段など)
鈴木政史
知的障害者更生施設Aにおける宿泊旅行の取り組み
表2
1
7
1
平成1
7年度の宿泊旅行実施状況
期日
利用者数
旅行先
6/1
6・1
7
8
東京ディズニーリゾート
7/7・8
4
近郊ホテル
8/4・5
4
大磯ロングビーチ
8/9∼1
1
5
りんどう湖
8/2
5・2
6
5
施設内宿泊
9/7∼9
5
愛・地球博
9/2
1・2
2
6
箱根
1
0/6・7
1
1
東京ディズニーリゾート
1
0/2
0・2
1
6
近郊ホテル
1
0/3
1∼1
1/2
4
仙台
1
1/1
7・1
8
4
河口湖
1
1/2
1・2
2
5
伊東ハトヤ
1
1/3
0∼1
2/2
3
伊豆下田温泉
2/1∼3
8
沖縄
2/2
2∼2
4
6
大阪ユニバーサルスタジオ
②宿泊旅行の時期の自由な選択
自由に選択できるシステムを構築しなければなら
③医療的ケアを必要とする人への対応
ない。また、③の医療的ケアを必要とする心身に
④宿泊旅行のメンバーと同行する支援者の選択
重度の「しょうがい」を持つ人への対応は、地域
の4点を実現していくことが必要であり、今後の
生活環境のバリアフリー化と共に、宿泊旅行への
課題である。
看護師の同行や、支援者の医療および医療機器の
こうした課題に対応するためには、より詳細な
知識・技術の向上などの支援・援助体制を整備し
宿泊旅行に関する情報を利用者に提供すること
て、医療的ケアを必要とする利用者の宿泊旅行の
と、宿泊旅行に関する様々な事柄を選択できるよ
充実を進めていくことが必要である。しかしなが
うに改革していくことが必要である。①の宿泊旅
ら、④の同行する支援者の選択は社会福祉施設に
行の内容の選択は、情報提供の段階で食事・観光
おける支援・援助システムの改革が行われない限
内容・宿泊先・交通手段などの宿泊旅行の内容を
り困難であると考えられる6)。
利用者に提示することが可能であれば、利用者が
将来的には「しょうがい」のあるなしにかかわ
その情報を基に宿泊旅行を選択することが可能で
らず、民間の旅行会社を利用して7)様々な人と共
ある。更に、食事や観光内容・宿泊先・交通手段
に、或いは個人で宿泊旅行に行くことが望ましい
などの選択できる項目を拡充し、宿泊旅行に関す
が、現状では「しょうがい」を持つ人が個人で民
る事柄を利用者が自由に選択することが可能であ
間の旅行会社の旅行プランなどに参加することに
れば余暇としての宿泊旅行がより充実したものと
は様々な課題があることが予想される8)。このた
なる。そして、②の宿泊旅行の時期の選択につい
め社会経験の習得・拡大、社会性の向上や余暇の
ては、本来、旅行の時期を選択するということ
充実を目的としたサービスの一環として、社会福
は、旅行に行く上で重要な要因のひとつであり、
祉施設において宿泊旅行を提供することが必要で
宿泊旅行の時期を施設の年間スケジュール等に
ある。また、社会福祉施設には年間スケジュール
よって施設主体で設定するのではなく、利用者が
・予算・職員数などに制約があるが、宿泊旅行を
―6
9―
1
7
2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
施設サービスとして提供する限り、サービスの多
様性の確保と利用者の自己決定を保障する必要が
ある。今回のA施設における宿泊旅行の取り組み
のように、今後の社会福祉施設における宿泊旅行
においては、旅行先・観光内容・時期・交通手段
などの様々な事柄をより明確に提示し、利用者が
宿泊旅行を主体的に選択できるようにしていかな
ければならない。
おわりに
本研究のA施設における宿泊旅行への取り組み
では、民間の旅行会社の旅行プランに社会福祉施
設で提供されている宿泊旅行を近づけようとした
結果である。A施設における宿泊旅行の取り組み
は「利用者がいくつかの宿泊旅行から参加したい
宿泊旅行を主体的に選び参加する」という当たり
前のことに取り組んだにすぎないが、結果として
利用者の選択肢を広げ利用者の主体的選択を実現
することが可能となった。
今後の社会福祉施設には宿泊旅行だけでなく、
施設における日中活動・外出・食事・支援者と
いった様々な事柄・サービスを利用者が主体的に
選択できるような取り組みを続けていくことが求
められており、それがノーマライゼーションの原
理の具現化に向けた重要な取り組みとなるのでは
ないだろうか。そして、これからの社会福祉には
社会的に支援・援助が必要な人が地域社会から孤
立しないように、社会福祉施設や余暇活動などの
生 活 環 境 を 地 域 社 会 に 統 合 し、年 齢 や 性 別、
「しょうがい」のあるなしに関わらず、様々な人
が共に歩むことができる共生社会を実現すると共
に、複雑・多様化するニーズに対応するために、
社会福祉サービスの選択肢を拡充しサービスの利
用者が社会福祉サービスを主体的に選択できるよ
うにしていかなければならない。そのためには、
社会福祉サービスをよりノーマルな状態に近づけ
ると共に、サービスを提供する側が、限られた資
源のなかで可能な限りの選択肢を提示してサービ
スの利用者に選択してもらうという視点が必要で
ある。
注
1)
「障害」という用語は「障」
、「害」ともに否定的な
イ メ ー ジ が あ り、諸 外 国 で は Disabled(障 害 者)
、
Handicapped(社会的不利・ハンディキャップ)など
から新たな用語として Challenged Person(挑戦する
人)などへと変容しているが、「ハンディを持つ人」
や「挑戦する人」といった表現も障害者を適切にあ
らわしているとは言い難い。そこで、本研究では法
律の条文や制度などの名称以外は仮に障害を「しょ
うがい」
、障害者を「しょうがい」を持つ人と表記す
る。なお、今後、こうした表現は変更される可能性
があるため、括弧付けで表記する。
2)鈴木(2
0
0
5:3
4)が実施した「東京都内知的障害
者通所更生施設・知的障害者デイサービスの日中活
動調査」では、東京都内の知的障害者通所更生施設
の全体の1
3.
5%の施設が全体活動・行事として旅行
を行っている。これは施設で実施されている全体活
動・行事の中ではもっとも高い数値である。
3)Bengt(1
9
9
8:2
6、1
0
4)はノーマライゼーション
の原理のひとつとして、「知的障害者本人の選択や願
い、要求が可能な限り十分に配慮され、尊重されな
ければならない。
」と述べている。また、統合の定義
のひとつとして、「自己決定が尊重され、成長、成熟
し、自己実現の機会を得ること。
」という社会システ
ム的統合を挙げている。
4)社会福祉施設におけ る す べ て の 行 事・活 動 が、
様々な人から構成される小規模なグループで行われ
るべきであるかどうかは議論の余地があるが、河東
田・杉田(2
0
0
2:4
7)は「知的障害をもつ人々だけ
が集まって日中を過ごし、仕事の内容も十分に選べ
ないのはノーマルなことではない。
」と述べている。
ま た、鈴 木(2
0
0
5:4
8−4
9、5
1−5
2)は 知 的 に
「しょうがい」を持つ人の社会的孤立や社会福祉施
設の閉鎖性を解消するためには社会福祉施設が地域
社会と協働することが不可欠であり、社会福祉施設
の小規模化は施設の利用者のサービスの選択肢を広
げることが可能であると述べている。
5)りんどう湖・ハトヤ・箱根・下田温泉を合計した
もの。
6)鈴木(2
0
0
5:2
5、5
5−5
6)が実施した「東京都 内
知的障害者通所更生施設・知的障害者デイサービス
の日中活動調査」では、東京都内の知的障害者通所
更生施設の7
2.
3%の施設が支援者を選ぶことができ
ない。鈴木はこうした状況を改革するためには、施
設機能を日中活動機 能 と 支 援(援 助)機 能 に 分 割
し、個別支援(援助)者システムの構築が必要であ
ると述べている。
7)Bengt(1
9
9
8:2
4)はノーマライゼーションの原理
のひとつとして、「余暇活動は、純粋に休養や楽しみ
のためであれ、個人的教育的意味合いを持つもので
あれ、リハビリテーションの目的のためという意味
で一般の地域施設を利用すべきである。
」と述べてい
―7
0―
鈴木政史
知的障害者更生施設Aにおける宿泊旅行の取り組み
る。
8)例えば、強度行動「しょうがい」や差別・偏見、
バリアフリー環境の 不 備、支 援・援 助 者 の 確 保 な
ど。
参考文献
Bengt Nirje(1967,1969,1970,1971,1972,1976,1980,
1
9
8
2,1
9
8
5,1
9
9
3,1
9
9
8)The normalization principle
papers(=2
0
0
4 河東田博 橋本由紀子 杉田 穏 子
他 訳編『新訂版 ノーマライゼーションの原理
−普遍化と社会変革を求めて』現代書館)
Edwin Jones, Jonathan Perry and Kathy Lowe, et al
(1
9
9
6)Active Support-A Handbook for Planning Daily
Activities and Support Arrangements for People with
learning Disabilities(=2
0
0
3 中 野 敏 子 監 訳・編
1
7
3
『参加から始める知的障害のある人の暮らし−支援
を高めるアクティブサポート−』相川書房)
Wolf Wolfensberger(1
9
8
1)The principle of Normalization
in human Services National Institute on Mental Retardation
(=1
9
9
6 中 園 康 夫・清 水 貞 夫 編 訳『ノ ー マ リ
ゼーション−社会福祉サービスの本質』学苑社)
河東田博・孫良・杉田穏子ほか著(2
0
0
2)
『ヨーロッパ
における施設解体−スウェーデン・英・独と日本の
現状』現代書館
鈴木政史(2
0
0
5)
『知的に重い「障がい」を持つ人々の
日中活動に関する研究−日中活動の選択と共生社会
の実現に向けて−』東北福祉大学大学院 総合福祉
学研究科 2
0
0
4年度修士論文
古川孝順(2
0
0
4)
『社会福祉の運営 組織と過程』有斐
閣
―7
1―
長野大学紀要
第2
9巻第2号 7
3―8
3頁(1
7
5−1
8
5頁)2
0
0
7
立法の多様化と議会審査制度
―我が国における委任立法統制のあり方をめぐって―
Diversification of Legislation and Legislative Scrutiny
田
中
祥
貴*
TANAKA Yoshitaka
国家(administrative state)*1では、この立法権委
はじめに
任が日常的に行われ、立法権委任抜きには現実の
近代立憲主義の確立以降、国民主権原理を採用
行政実務は成り立たないのが現状である。即ち、
する民主主義社会では、治者と被治者の間に自同
現代における立法事項の著しい多様化によって、
性が担保されていることが要求され、自ずから、
もはやすべての立法過程を議会の主導のもとに専
国民の権利義務を定める法規範の定立は、国民の
管処理することが不可能な状況に至っている。勿
自律的意思に基づくことを前提としている。我が
論、それは我が国も例外ではない。例えば、2006
国の憲法においても、その第41条で国民を代表す
年に我が国で成立した法令の内訳を見てみると、
る「国会」を「唯一の立法機関」と位置付けてい
議会制定法1
37本に対して政省令(規則を含む)
る趣旨は、かかる文脈から理解することができ
は1751本に及んでおり、政省令の対法律比は実に
る。まさに、この治者と被治者の自同性原理(自
約13倍の規模となっている*2。このデータはここ
己統治原理)は、民主主義社会の中核を構成する
数年の推移からみて平均的な数値である。また一
要素と認識されてきた。
方で、かかる量的規模の問題に止まらず、権限委
しかしながら、今日、かかる民主主義の根本原
任の質的問題も看過し得ない。通例、我が国の委
理が形骸化しているのは何れの先進国にも共通し
任実務では、その内容が極めて一般的・抽象的
てみられる現象である。その背景には、19世紀末
で、行政機関に被委任権限の指標を与えることも
以降の資本主義国家の変貌に伴い、国家のあり様
ない。さらに最近では、立法目的すら政省令に委
が消極国家から積極国家へと大きく変遷したこと
任するという常軌を逸した事例 す ら 生 じ て い
が挙げられる。即ち、それに伴う国家機能の著し
る*3。かように我が国の行政立法は、質的にも量
い多様化は立法事項の飛躍的増大及び専門化をも
的にも本来の議会制定法を圧倒的に凌駕してお
たらし、結果として、専門性・機動性を担保しな
り、もはや静観を許さぬ状況にある。
い議会の政策決定能力を相対的に低下させ、他方
かかる立法権委任の状況を所与のものとして、
で、高度な専門性・機動性に支えられた行政機関
我が国の憲法規範を振り返ってみれば、立法権委
への実質的政策決定機能の委譲を不可避のものと
任の態様によっては、当然、既存の憲法規範との
したのである。そしてそれは、本来、立法府が担
間に厳しい緊張関係を生起させることとなる*4。
うべき法規範の定立機能を行政機関に委任する
即ち、「唯一の立法機関」という国会の憲法的定
「立法権委任」の問題を生起せしめた。現代行政
位に鑑みて、実質的立法権が他の国家機関に委譲
*社会福祉学部准教授
―7
3―
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されている事態は、勿論、我が国の憲法が予定す
化すれば以下の如くである。即ち、連邦議会の何
るところではない。ここに行政実務の効率性・機
れか一院による単独決議(simple resolution)又は
動性を担保すべき現実的要請と民主主義原理を担
両院による賛同決議(concurrent resolution)、若し
保すべき憲法的要請を如何に調整するかという難
くは特定の委員会決定、その何れかに基づくもの
問が立ちはだかる。この点、前述した委任実務の
が一般的であるが、さらに稀な場合には、特定委
状況を所与のものとすれば、通常、議会が担うべ
員会の長が下す決定に基づくものも存在する。ま
き機能は主として委任立法への監督・統制に向け
た 連 邦 議 会 に 示 さ れ た 執 行 案(executive
られるべきであり、就中、委任立法問題と憲法規
posal)への意思表示は、一定期間内(通常6
0日
範との調整という文脈では、今後、議会の事後的
乃至90日以内)に、連邦議会が「承認」決議を下
審査・承認制度のあり方が検討されなければなら
さなければ、当該執行案は発効し得ないと積極的
ない。
に示される場合(承認型)と、期間内に連邦議会
pro-
かかる視座から、本稿は、これまでの憲法学が
から「否認」決議が下されなければ、執行案は効
固執してきた「唯一の立法機関」論に過度に傾倒
力を発すると消極的にしか示されない場合(否認
することなく、寧ろ、その背景にある古典的権力
型)とがある。多様な議会拒否権制度であるが、
分立観念からの脱却を図りながら、我が国の立法
いずれの行使形態にも共通する重要な特徴とし
過程を静態的にではなく動態的に捉え直すもので
て、通常の立法手続を経ないこと、即ち、大統領
ある。即ち、多様化する立法事項の問題状況を踏
への提出要件*6を満たすことなく、連邦議会が執
まえつつ、我が国で民主主義原理を実体的に再生
行府及び行政機関の行為を修正又は廃棄し得る点
するに最も合目的的な方法論を多面的に模索する
に留意しなければならない。
ことに主眼を置いている。以下では、現代行政国
家の病理を克服すべく、積極的に議会制民主主義
(2)議会拒否権制度の背景
の再構築を図ってきたアメリカ及びイギリスの法
アメリカ合衆国でかかる議会拒否権制度が台頭
制度を検討し、我が国での委任立法に対する議会
してきた背景としては、以下のような要因が挙げ
統制論のあるべき方向性を比較考察してゆきた
られる。まず主要な要因の一つは、
「行政国家」
い。
の出現である。即ち、アメリカ合衆国では、1930
年代以降、連邦議会は、一連の New Deal 政策を
遂行する為に、その実施機関として数多くの独立
1.アメリカの議会拒否権制度(legislative
veto)
規制委員会(independent regulatory commission)
を創設すると共に、当該行政委員会に対して広範
な権限委任を行った。その反面で、専門性及び機
(1)議会拒否権の制度枠組
動性を担保し得ない連邦議会の立法機能は必然的
アメリカ合衆国では、質的・量的に拡大する委
に空洞化してゆき、事実上、自らの立法権を放棄
任立法に対して連邦議会が積極的な統制を加えた
した状況が常態化していた。また他方で、かかる
経験を有する。これまで連邦議会は、その統制手
無制約な立法権委任の拡大を阻止すべく、
「委任
段 と し て、議 会 拒 否 権 制 度(legislative veto)を
法理(delegation
多用してきた。議会拒否権制度とは、連邦議会が
査を試みた連邦最高裁の古典的司法理論も破綻を
自らの権限を執行府又は行政機関に委任する際
迎えることで*7、アメリカの規制行政は拡大の一
に、当該権限委任に基づく執行案又は行政案に対
途を辿っていったのである。就中、1960年代末に
する最終的な決定権を連邦議会に留保すること
至ると、アメリカの規制行政は、New Deal 期以
で、例えば、独立行政機関の規則制定権等を民主
降の経済的規制に止まらず、環境保護・消費生活
的に統制することを目的とした連邦議会の審査制
・公衆衛生等の社会的規制の分野にまで範囲を拡
度を指称する*5。この議会拒否権の行使形態は、
大してゆくこととなる。そしてこの過度に広範な
各授権法の個別規定に基づき多様であるが、類型
規制行政は、逆に1970年代後半に至ると、長引く
―7
4―
doctrine)」を基軸とした厳格審
田中祥貴
立法の多様化と議会審査制度
1
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不況と失業率の増加を背景に、アメリカ国民の中
長官の裁量権 に 留 保 さ れ た 同 法 第244条(c)−
で規制行政に対する反発を誘発する結果をもたら
1,2*14の議会拒否権条項の合憲性が問題とされ
した。かかる規制行政に対する不満が、行政委員
た。Burger 主席判事の筆による法廷意見は、大
会の規則制定権を対象とした議会拒否権の制度化
要以下の論拠に基づき、当該議会拒否権条項を合
へと一つ結実したと言える。
衆国憲法第1条第7節における立法手続違反と判
さらに今一つの要因としては、所謂、1970年代
断し以て違憲判決を下した。
の「大統領帝政(imperial presidency)」と呼ばれ
法廷意見は、移民国籍法第2
44条(c)−2に基
る状況が看取される。取り分け「ベトナム戦争」
づく議会拒否権が、合衆国憲法第1条7節の手続
や「ウォーターゲート事件」という一連の経験
要件が適用されるべき立法行為か否かは、その形
は、アメリカ国民に執行府への深い不信感を募ら
式ではなく、「その性質及び効果において立法的
せることとなり、結果、執行府への統制を求める
とみなし得る事項を包含しているか否か」に求め
声が俄に高まっていったのである。かかる執行府
られるべきであると言及した上で*15、本件議会拒
への不信は、やがて1973年戦争権限法*8及び1976
否権行使は、その目的及び効果において、本質的
年国家緊急事態法*9の制定という象徴的な出来事
に立法的であると判断した。この点、法廷意見
に結実してゆく。即ち、アメリカ合衆国において
は、本質的に立法的か否かの基準を「立法府外の
は、独立宣言以来、大統領が、連邦議会の戦争宣
人々の法的権利・法的義務・法的関係を変更せし
言を待つことなく、大統領令によって海外へ軍隊
める目的と効果を有する」行為であったかという
を派遣するという経験はまさに2
00回を越えてお
要素に求めている*16。さらに、法廷意見は、かか
り*10、連邦議会の統制を離れて一人歩きをする大
る見解を補強するために次の2点を指摘する。即
統領の軍事行動に対して、連邦議会は、当該戦争
ち、移民国籍法第2
44条(c)−2が存在しなけれ
権限法の制定を以て議会拒否権による統制を加え
ば、司法長官の決定を覆すには新たな法律を制定
たのであった*11。
しなければならない点、また司法長官の決定を拒
以上の1970年代における「行政国家」及び「大
否するという行為には、通常の立法手続でのみ行
統領帝政」と呼ばれる状況に対する国民の不信に
い得る政策決定的要素が含まれる点を挙げてい
呼応して、連邦議会は、それらへの統制手段とし
る*17。その結果、本件議会拒否権は立法行為であ
て議会拒否権制度を位置付け、1970年代以降、俄
る以上、合衆国憲法第1条7節所定の「両院の決
に、議会拒否権制度を多用する傾向を見せるので
議」と「大統領への提出」要件を求める立法手続
ある。しかしながら、連邦議会の胸一つで、即
に則って行使される必要がある。それにも拘わら
ち、執行府の拒否権を回避する形式で、執行府又
ず、その何れの手続要件も欠いているが故に、本
は行政機関の諸行為を廃棄し得る議会拒否権は、
件では立法手続違反として違憲判決が下されたの
当然、執行府との相関関係における憲法上の権限
である。
バランスを連邦議会側に大きくシフトさせる制度
以上が Chadha 事件判決の概略であるが、法廷
であり、重大な憲法問題を内包していたのは紛れ
意見が示した「立法府外の人々の法的権利・法的
もない事実であった。それ故に、議会拒否権の行
義務・法的関係を変更」したか否かという基準に
使は執行府に対する連邦議会の権限踰越行為(執
拠れば、現存する議会拒否権の全てがその範疇に
行権侵害)であり憲法上許容され得ないとの批判
包含される結果となる。そして、大統領への提出
が執行府から相次ぎ、やがて議会拒否権制度の合
要件を省略する点に特徴を有する議会拒否権は、
憲性をめぐる争いは連邦最高裁へと持ち込まれる
すべて第1条所定の立法手続に違反する違憲無効
こととなる。
な制度として評価されることと な っ た の で あ
る*18。
(3)I.N.S. vs. Chadha 事件判決*12
本件では、移民国籍法(Immigration and Nation-
(4)Chadha 事件判決以降
ality Act)第244条(a)−1の規定
*13
に基づく司法
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議会拒否権制度が現実の委任実務において如何
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に重要な政治制度であろうとも、結果的に、1983
会の承諾ではなく、特定の議会委員会の承諾を行
年最高裁判決を以て違憲無効と評価されるに至っ
成案の成立要件としている。具体的には、議会拒
たことは否定し得ない事実である。しかしここで
否権条項が合同決議に基づく手続を取る事例は稀
看過してはならないのは、この判決を契機に議会
であり、その大方は、歳出授権委員会(authori-
拒否権制度を招来した従来の政治的要因が消滅し
zation committees)或いは歳出承認委員会(appro-
た訳ではないという現実である。即ち、1983年以
priation committees)による承認決議を要件とする
降も専門性及び機動性を要請する現代行政は、依
手続を取っている。その設置傾向は、数多くの制
然として連邦議会に対して広範な裁量権限を行政
定法において頻繁に見受けられ*22、また今日でも
機関に委任することを不可避としており、他方で
その傾向に変化はない様である*23。
民主政確保の観点から、連邦議会は、かかる行政
では、これらの委員会拒否権は、何故にその法
裁量に対して何らかの統制の必要性を認識してい
的有効性を担保し得るのか、その手続的問題は、
たのである。かかる状況の下で、連邦議会は新た
以下の連邦議会の内部規則(internal
な行政統制手段を模索しなければならなかった。
て解消し得ると考えられる。即ち、連邦議会は、
この点、結論から言えば、連邦議会は、行政統
内部規則を以て委員会の事前承諾なしには、行政
制手段としての議会拒否権制度を手放しはしな
案の実施に必要な基金の歳出授権、或いは歳出承
かった。勿論、Chadha 事件判決に応じて、連邦
認が出来ないと定めることが可能である。この場
議会は数多くの議会拒否権条項を削除せざるを得
合、実際的な効果において、委員会の決議は、執
なかったが、他方で、それと同時に、連邦議会
行案又は行政案の効力を左右するものであるが、
は、Chadha 事件判決には抵触しない様に修正を
手続的には、飽くまでも連邦議会の予算支出権限
加えた新たな議会拒否権条項を数多く設置して
を拘束するに過ぎない。従って、「立法府外の
いったのである。連邦議会は、Chadha 事件判決
人々の法的権利・法的義務・法的関係を変更せし
直後から1984年の第98回議会休会までの16ヶ月間
める目的と効果を有する」手続すべてに憲法上の
に、53の議会拒否権条項を設置しており、更に、
立法手続を要求する Chadha 事件判決を所与のも
その後1996年の第104回議会の終了までには、凡
のとしつつも、委員会決定が連邦議会を名宛人と
そ400に上る議会拒否権条項を新たに設置してい
する限りは、当該議会拒否権条項には何らの憲法
る*19。
問題も惹起し得ないのである*24。
rules)を以
ここでは、連邦議会が以上の議会拒否権制度を
但し、実際には、連邦議会が通常の歳出承認手
維持することを可能にした要因を手続的側面と実
続を通じた統制を加えるまでもなく、行政機関が
体的側面双方から考察してみたい。まず手続的側
連邦議会の意向を先取りして、連邦議会の方針に
面についてみれば、Chadha 事件判決以降、連邦
沿った行政案を提示するのが通例である。即ち、
議会が、当該最高裁判決に応じて議会拒否権制度
連邦議会と行政機関の権限関係から考察すれば、
の再構築を試みた手法としては、従来の議会拒否
Chadha 事件判決以後の議会拒否権制度という連
権条項を合同決議(joint
resolution)形式のもの
邦議会の審査制度を実体的に機能せしめてきた要
へと置換したことが指摘し得る*20。当該合同決議
因は、まさに憲法上、連邦議会が有する予算権限
は、連邦議会の両院による賛同決議(concurrent
に帰結するものと評価し得る。敷衍すれば、執行
resolution)を経た後、大統領の承認を待って初め
府又は行政機関の政策を実施するには、概して、
てその効力を発する手続であることから、第1条
連邦予算の支出を必然的に伴うが、憲法上、予算
所定の立法手続を侵害することは有り得ない。即
編成過程における連邦議会の主導性が確立されて
ち、Chadha 事件判決で提起された憲法問題と理
いる合衆国では、連邦政府が予算を支出するに
論上全く抵触しない合同決議を統制手段として採
は、事前の連邦議会による歳出承認が必要とされ
*21
るのである*25。従って、連邦議会が歳出承認権限
尤も、Chadha 事件判決以降、設置された議会
という強力な行政統制手段を保持している以上、
拒否権条項の殆どは、手続的便宜性から、連邦議
行政機関は、円滑な行政運営を担保する為に、連
用したものが一つである
。
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田中祥貴
立法の多様化と議会審査制度
邦議会の意向を蔑ろにすることは許されないので
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(2)議会の審査制度*28
議会が委任立法を審査する形態は大別して次の
ある。その結果、かかる両者の権限関係は、議会
拒否権制度を非公式な領域へと導くことも少なく
3つの類型に整理できる。
ない。この場合、両者の権限関係が、制定法上の
①単純提出手続(bare laying procedure)
ものではなく、非公式な性質のものである以上、
これは、制定された委任立法が、その発効前に
行政機関は当該協定により法的拘束を受けること
議会へ提出されることが義務付けられる手続であ
もなく、憲法問題を生起しないことは言うまでも
り、原則として、議会の承認決議を待つことなく
ない。
所定の期日を迎えれば自動的にその効力を発する
手続である。この手続は、アメリカでは reportand-wait 制度として知られ議会拒否権制度の代替
2.イギリスの制定法的文書法(the Statutory Instruments Act)
手段として利用されている。あくまでも、委任立
法に対する議会の注意を喚起することが目的で、
この手続による直接的統制の枠組は設けられては
(1)議会の委任立法統制
いない。
行政の委任立法に対する議会統制が制度的に最
②否認型手続(negative resolution procedure)
も整備され積極的に運用されているのは、言うま
この否認型手続はさらに2類型に細分化し得
でもなく、議会拒否権制度の母国イギリスであ
る。即ち、(a)制定後の委任立法に対する審査手
る。他の先進諸国と同様に、19世紀後半以降、議
続と(b)制定前段階における委任立法の草案に
会主権を伝統とするイギリスでも行政府による委
対する審査手続である。まず前者に関しては、そ
任立法が飛躍的に増大し、議会制民主主義の形骸
の議会への提出後40日以内に、庶民院(House of
*26
。まずその
Commons)又は貴族院(House of Lords)の何れ
初期におけるイギリス議会は、1893年規則公開法
か一院が否認する決議を下した場合、当該委任立
(the Rules Publication Act1893)の制定を以て委任
法の効力は取り消される。尚、その際には、一括
立法への対応に臨んでいる。即ち、同法では、
での否認決議が認められるのみで、部分的な取消
「制定法的規則・命令(statutory rules and
化を抑止する方法が模索されてきた
or-
や修正の決議は認められていない。また後者に関
ders)」という概念で行政立法を一元的に捉え、
しては、草案の議会提出後40日以内に同じく否認
その制定手続と発効前の公布に関する原則を規定
決議が下された場合には、行政府はその委任立法
している*27。
を制定することができないとされている。近年の
さらにイギリスで委任立法の増殖が顕著になる
傾向において、議会審査手続の中では、この否認
のは二つの世界大戦を契機としてである。そこで
型手続が最も一般的で全体の約6
5%を占めてい
イギリス議会は、就中、第二次世界大戦以降の広
る*29。その理由は、否認型手続は議会の審査負担
範な立法権委任に対して、1893年規則公開法に代
を軽減する利点があるからであろう。即ち、専門
わって、1946年制定法的文書法(the Statutory In-
技術性及び迅速性・機動性を要求される委任立法
struments Act)を制定し、委任立法に対する事前
が議会の承認を待たなければ効力を発しないとす
又は事後の議会統制を制度化することで委任立法
れば、年間に1500件を超える委任立法を議会にす
への議会統制が強化されてきている。各個別の委
べて精査させることは議会の処理能力を超えるで
任立法が議会の審査を受けるか否かは、それぞれ
あろうし、またそれでは行政効率が損なわれる危
の授権法(parent act)によって規定される。そし
険性が高い。そこで重要度の高くない委任事項に
て授権法によって議会審査が義務付けられる場合
ついては、いざとなれば否認決議での統制を可能
には、上記1946年法の手続に従うこととなる。当
としながら、不作為によっても行政案の発効を妨
該1946年法に基づく委任立法の統制手続は、議会
げない否認型手続が議会には好都合となるのであ
の審査と委員会の審査とに大別され、その具体的
る。
内容は以下の通りである。
③承認型手続(affirmative resolution procedure)
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この承認型手続はさらに3類型に細分化し得
政策方針に関する審査を行うことを目的とした常
る。即ち、
(a)制定後の委任立法に対する審査手
設委員会が両院で設置されている。まず庶民院で
続、(b)制定前段階における委任立法の草案に対
は、1973年に制定法的文書常任委員会(Standing
する審査手続、及び(c)制定後の委任立法に対す
Committee on Statutory Instruments、以下 SIsC)が
る期限を付した審査手続である。第一に、制定後
設置され、一方で貴族院では、1992年の委任権限
の委任立法に関しては、これを議会に提出させ議
審査特別委員会(Select Committee on the Scrutiny
会の承認決議を得て初めてその効力を発するとい
of
う手続がある(類型(a))。さらにこの承認型手
2001年の委任権限・規制緩和特別委員会(Select
続には、議会へ提出後28日又は40日の期限を付し
Committee on Delegated Powers and Regulatory Re-
て、その期限内に議会の承認決議が得られれば発
form、以下 DPRRC)に加えて、2
003年には貴族
効するが、期限内に承認決議が得られなければ自
院に制定法的文書特別委員会(Select
動的に当該委任立法は廃棄されるという場合もあ
on the Merits of
る(類型(c))。第二に、制定前段階の草案を議
MSIsC)が創設され、今日に至っている。但し、
会に提出させて、その承認決議が得られた場合に
これらの委員会の審査機能が強化されても、アメ
草案は成立しまた効力を発するとする場合がある
リカの委員会拒否権の如くに委任立法の成否に関
(類型(b))。
Delegated
Powers)設置及びこれを改組した
Statutory
Committee
Instruments、以下
わる決定をする権限は付与されず、あくまでも議
院の注意を喚起するのみで最終的な決定を下すの
(3)委員会の審査制度
は各議院である。
実際の委任実務を考えると、上記の議会総体で
最後に、この委任立法審査の実効性について言
委任立法を審査するという手法は、委任立法がそ
及しておくと、通例、議会の行政統制という文脈
もそも要求されるその専門技術性や迅速性・機動
においては、議院内閣制の場合であれば、議会対
性の要因と親和的とは言い難く、審査を実効化す
内閣という構図ではなく、議会内与党と内閣を同
る為にもまた行政効率を担保する為にも、多くの
一視して、内閣(議会内与党)対議会内野党の構
委任立法審査は議会の専門委員会に付託されるこ
図で捉えるのが一般的である。勿論、保守党・労
ととならざるを得ない。かつて貴族院では1925年
働党という討議的かつ持続可能な二大政党制が確
に特別命令委員会(Special Order Committee)を
立しているイギリスでは、議会内野党が果たす行
設置し、一方の庶民院では1944年に制定法的文書
政統制機能は極めて重要な意味を持つ。但し、庶
特別委員会(Select Committee on Statutory Instru-
民院において、如何に野党の行政監督が厳格なも
ment)を設置して、それぞれの議院に提出された
のであっても、内閣は、議会内において相対的多
委任立法を専門的に審査させ、問題のある委任立
数を占める与党を利用することで、最終的には自
法を議会に報告させるという手続を採用してき
らの委任立法を承認させることが可能である。そ
た。ところが、これらの手続では両議院の各委員
こで重要視されるのが貴族院の監督機能である。
会で別個の審査を行う手続に重複や齟齬が生じる
取り分け1999年の貴族院改革以降は、かつての庶
との問題点が指摘され、1973年にはこれらを統合
民院に対する拒否(veto)機 能 か ら 審 査(scru-
する制定法的文書合同委員会(Joint Committee on
tiny)機能へとその基軸を変遷させながら、貴族
Statutory Instruments、以下 JCSI)が創設されるに
院は法案の審査機能強化を図ってきている。そし
至 っ て い る。当 該 委 員 会 は、委 任 立 法 の 実 体
て実際に、DPRRC 及び MSIsC を通じた貴族院の
(merits)審査は付託されず、その審査事項は技術
審査は、委任立法の統制に関して十分な実を挙げ
*30
的事項に限られる
ており*31、当該委員会の設置以降、不適切な権限
。
この点、従前の JCSI は委任立法の技術的審査
に限定され、委任立法の内容の是非を審査し得な
委任の 濫 用・逸 脱 が 大 き く 抑 制 さ れ て き て い
る*32。
いという問題が改めて指摘され、それを補完する
趣旨から、委任立法の実体審査やその背後にある
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田中祥貴
立法の多様化と議会審査制度
3.小括(両制度比較)
1
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1
連の立法過程は連邦議会が完全な主導権を握りつ
つ進められる。そして実質的な審議は、各々の所
アメリカ連邦議会とイギリス議会は共に、行政
管事項を専門的に取り扱う議会委員会が中心とな
府の委任立法に対してその監督統制機能を積極的
り、それを受けて本会議では形式的審議のみとな
に整備・運用してきた経験を有するが、その審査
るのが通例である。さらにアメリカでは政党規律
方法をめぐっては大きな制度的相違がある。概し
が弱いため、イギリスのような議会内野党による
て、委任立法に対する議会統制には、現代行政国
政府統制という枠組は実効的とは言えない。また
家における行政権の肥大化を抑制する権力分立的
政党規律が弱いが故に、事前に少人数の協議もな
趣旨と、形骸化する議会の立法機能を補充再生す
しに本会議での審議を行えば収拾がつかなくなる
る民主主義的趣旨からの意味付けが行われる。さ
畏れもある。これらの制度枠組が委任立法の議会
らにこれらの趣旨が促進されることで、延いて
審査制度にも反映されて、アメリカでは委員会中
は、法の支配や国民の権利保障が全うされる効果
心主義、またイギリスでは本会議中心主義に基づ
をも伴う。
く統制が基軸となっているのであろう。
この点、アメリカとイギリスでは議会審査制度
さらにアメリカとイギリスの両制度を実体的次
が設けられた経緯、及びその法的趣旨の捉え方に
元から考察してみると、まずアメリカ連邦議会に
相違がある様に看取される。即ち、アメリカでは
よる行政統制が効果的に機能しているのは、まさ
そもそも「委任法理」を補完する制度として発足
に歳出授権及び歳出承認権限という予算権限を形
したものが、やがて連邦議会と執行府間の抑制・
式的にも実質的にも連邦議会が握っているからに
均衡を強く意識した制度へと傾倒してゆき、強い
他ならない。即ち、予算と法律が別の法形式に基
て言えば、権力分立的視座からこれを捉える傾向
づく予算法形式説を採用する我が国とは異なり、
が強い。その結果、連邦議会が執行府に対する効
アメリカでは、予算は法律そのものであり*33、
果的な統制を図るためには、必然的に、総体的な
従って、連邦議会がその起案から承認までの一連
本会議よりも専門性・機動性に優れた委員会が中
の過程で完全な主導権を保持している。かかる強
心となり、委員会拒否権が多用されることとな
大な歳出承認権限を背景として、行政機関は自ら
る。その一方で、イギリスでは、委任立法の質的
の必要な政策を実現するために、連邦議会の意向
・量的拡大による議会制民主主義の空洞化を抑制
に従わざるを得ない事情がある。他方で、イギリ
するという民主主義的視座から、これを整備・運
スでも、形式上、予算は法律の形式をとるが、実
用してきた傾向が強く、その議会主義復権という
質的には、我が国と同様に責任内閣制ゆえに政府
文脈からは、委員会単位ではなく両院本会議に基
が主導で毎年度の予算編成を行い、それを議会が
づく制度設計が合目的的となる。
承認するという手続過程を経る。またイギリスで
勿論、かかる議会審査制度の相違は、両国の議
は、1911年議会法(Parliament Act)の成立以降、
会制度そのものに起因するものでもある。即ち、
歳 入・歳 出 法 案 に 相 当 す る 財 政 法 案(Money
イギリスの議会では、いわゆる議院内閣制の下で
Bill)に関しては、庶民院で可決後、少なくとも
内閣が政策決定の主導権を握りつつ、それを具体
会期終了の1ヶ月前に貴族院に送付されれば、当
化する立法過程においても、議会内与党との協働
該法案は貴族院の同意が無くとも成立するという
を以て法律案の提起・審議・決議までの一連の立
制度枠組を採用しており、貴族院は庶民院が可決
法過程を先導する。そして、そもそも伝統的に本
した財政法案を拒否し得ない。つまり、事実上、
会議中心主義を採用するイギリスでは、委員会審
イギリス議会での予算審査は形式審査であって、
議の占める比重は少ないため、その政策審議は
政府予算案が議会で否決されることはあり得ず、
もっぱら議院本会議の場で行われ、内閣(与党)
行政統制という文脈ではアメリカの如き制度背景
の政策案を野党が監督する制度枠組になってい
を有していないと言える。
る。それに対して、アメリカの連邦議会では、憲
法上、執行府には法律案の提案権すら存せず、一
―7
9―
1
8
2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
結びにかえて
て抱えている。これまでの改革過程では、国会の
権限強化を置き去りする形で、首相及び内閣機能
以上のアメリカ及びイギリスにおける法制度の
の強化のみが推し進められてきたのが実情であ
相違点を踏まえつつ、日本国憲法下の統治機構に
る。かかる状況の中で、今後、強化された内閣機
とってどちらの法制度が親和性を有し、今後、我
能と抑制・均衡関係を維持し得るだけの国会権限
が国の議会審査制度はいずれの先例に倣うべき
のあり方を再検討する必要がある。委任立法に対
か、その目指すべき方向性に関して若干の検討を
する国会の実質的な監督機能を担保するには、国
加えることで本稿の結びと代えたい。日本国憲法
会と執行府間のパワーバランス維持を志向したア
は、イギリスと同じく議院内閣制を採用している
メリカ型の権力分立的視座を看過することはでき
が、その一方で、戦後、実際上の国会運営に関し
ない。即ち、実効的な行政統制を行うには、その
ては、かつての帝国議会時代における本会議中心
運用上、専門性・機動性を担保した委員会の役割
主義とは異なり、現在の国会はアメリカの制度を
が不可避であり、かかる文脈においては、我が国
導入して委員会中心主義を採用している。
の委任実務でもその統制には委員会中心主義を基
この点で、まず我が国においては、委任立法の
軸とした制度運用を図らざるを得ない。そしてそ
質的・量的拡大に歯止めを掛けられぬ状況の中
の場合に生起し得る憲法手続上の諸問題に関して
で、国会を「唯一の立法機関」と位置付ける憲法
は、1983年 Chadha 事件判決以降におけるアメリ
規範の要請から、議会制民主主義の復権を図るこ
カの一連の経験が、多大な示唆を提供してくれ
とは目下の急務である。さらに我が国では、その
る。イギリスではそもそも議会主権の伝統に基づ
委任立法に対して積極的な議会の事後的承認を要
き委任立法への議会統制は憲法上の問題を提起し
求する制度は、災害対策基本法1
09条4項に見ら
得ないが、我が国では形式主 義(formalism*34)
れるのみで、委任立法統制という文脈では極めて
的見解に依拠する傾向が強いため、権力分立原理
未成熟な状況にある。かかる文脈からは、イギリ
や立法手続の諸原則等から、アメリカに類似した
ス型議会審査制度から得られる示唆は極めて大き
諸々の憲法問題が生起する蓋然性は否めない。我
い。即ち、国民代表機関から行政機関への政策決
が国で議会審査制度を展開するに際して、そのた
定機能の委譲は、政策決定過程における国民の同
めの実体上・手続上の憲法問題を解消する作業は
意機能を失わせるに止まらず、民主的正当性を欠
アメリカの憲法解釈論から多くのものを学ばねば
いた行政機関による無責任政治を助長する。議会
ならない*35。
民主政治に含意される責任政治の原則では、各々
最後に、昨今の国会改革の流れからみると、我
個別の政策展開における最終的な政策責任の所在
が国の議会制度論は、1999年国会審議活性化法に
を明確にする必要がある。従って、委任立法を通
基づく改革に如実に現れている様に*36、ウエスト
じた政策展開においても、その最終的決定権を国
ミンスター・モデルを志向して展開されてきた。
会に留保することで、政策責任の匿名化を避ける
かかる文脈では、総体的な制度枠組に関しては、
ことが重要となる。さらに「唯一の立法機関」と
確かに、憲法統治構造を同じくするイギリス型の
いう国会の憲法的定位に鑑みれば、委任立法への
議会審査制度の方がやはり親和的であると言えよ
統制主体には委員会ではなく、国会が設定される
う。但し、我が国では、ウエストミンスター・モ
ことが相応しく、ここにイギリスの法制度に親和
デルを志向しながらも、それを支える二大政党制
性を看取し得る。
等の政治的土壌は未だ整備されておらず、また我
しかしまた一方で、我が国の統治機構は、1998
が国とイギリスにおける統治機構上の制度的相違
年の中央省庁等改革基本法の施行等を経て2001年
は少なくないのが現実である*37。実際、前述した
には省庁再編を伴う行政組織改革が実施され、首
我が国の統治構造の特殊性に鑑みれば、我が国で
相及び内閣機能の拡充強化は大きく推進されてき
の議会審査制度のあり方についても、アメリカ型
たものの、それらに対応した国会の行政監督機能
又はイギリス型の二者択一的な議論で完結し得る
の拡充強化が図られてこなかった経緯を問題とし
とは言い難く、またその様に即断すべきでもな
―8
0―
田中祥貴
立法の多様化と議会審査制度
1
8
3
い。さらに重要なことは、議会の行政統制機能と
法権に限られず、個別法律(private law)に基づく特
民主的機能の拡充強化はそもそも不即不離の関係
定個人や団体を名宛人とした規範定立をも範疇と
にあり、議会審査制度は権力分立的要素と民主主
し、さらには連邦憲法第1条第8節1
8項をめぐる最
義的要素が重層的に折り重なる構造を有している
高裁の包括的解釈 see M’Culloch vs. Maryland ,1
7
U.S.
3
1
6,4
2
1(1
8
1
9)
.に基づき拡大された極めて広
ことである。換言すれば、所与の憲法規範を保全
範な概念である。かかる広範な立法概念を前提とし
するため、一般的抽象的委任立法に国会の事後承
て、連邦議会の議会拒否権を通じた統制は、行政立
認を形式的に取り付ければ済まされるという問題
法のみならず、様々な行政裁量にも及ぼされて き
ではなく、より実質的に、行政裁量への民主的統
た。尚、当該制度に関する詳細な検討は、拙稿「合
制を担保する制度構築を図る必要性があることは
衆国連邦議会による行政統制‐議会拒否権制度の運
言うまでもない。そこでイギリス議会審査制度の
用をめぐって‐」六甲台論集(法学政治学篇)第4
4
枠組に準拠しつつも、その実際の制度運用に実効
巻第3号6
1頁以下を参照されたい。
性を担保せしめるには、やはり我が国の議会制が
*6
See U.S. CONST. art.
1,§7,cl.2.
有する特殊性を踏まえつつ、アメリカ議会拒否権
*7
連邦最高裁は、当初 New Deal 政策における立法
制度の経験をそこに反映させることが不可避であ
権委任に関して、「合衆国憲法第1条の前提から、連
ると言わざるを得ないであろう*38。
邦議会が他の機関に対して、本質的な立法機能を放
棄または委譲することは許されないが、但し、柔軟
性及び現実性の観点から、立法府が授権法に①受任
注
*1
機関が実現すべき政策内容を明示すると共に、②当
本稿では、「行政国家」という概念に関しては、
該機関が被委任権限を行使する際の基準を設置して
現代の統治機構における憲法現実を適切に把握する
いる場合には、本質的立法権の放棄には当たらず、
趣旨から、「本来、統治の出力過程(執行)の公式的
その範囲に限ってのみ権限委任が認められる」とい
担い手たる行政が、同時に入力過程、即ち政治(国
う「委任法理」を以て厳格審査を行っていたのであ
家基本政策の形成過程)にも進出して、主導的且つ
る see Panama Refining Co. vs. Ryan, 2
9
3 U.S. 3
8
8
決定的役割を営む国家類型を意味する」
(手島孝「行
(1
9
3
5)
. ; Schechter Poultry Corp. vs. U.S., 2
9
5 U.S.
4
9
5
政国家の法理」1
3頁)という定義を採用するものと
(1
9
3
5)
. ; Currin vs. Wallace, 3
0
6 U.S. 1(1
9
3
9)
. ; U.S.
する。
*2
vs. Rock Royal Corp., 3
0
7 U.S. 5
3
3(1
9
3
9); Sunshine
平成1
8年法令解説資料総覧の別冊「法令索引」
Anthracite Coal vs. Adkins,3
1
0U.S. 3
8
1(1
9
4
0)
.。しか
から集計した数値である。
*3
し1
9
4
0年代以降、連邦最高裁の審査は消極的なもの
稲葉威雄「会社法のどこが問題か」世界2
0
0
6年
へと転換すると伴に、当該法理も Marshall 判事をし
1
1月号1
2
8頁以下参照。
*4
て「現実的要請から、事実上、破棄された、絶滅寸
勿論、我が国を含め多くの国では、議会が他の
前の状態」にあると言わしめる程に形骸化してゆく
国家機関に立法機能を全く委任できないとは解され
のである see4
1
5 U.S.3
4
5, at3
5
2
‐
5
3(Marshall, J., con-
ず、性質上、議会審議に馴染まない専門技術的・細
目的事項や政治的中立性が求められる事項、その他
curring)
(1
9
7
4)
。
*8
にも状況の変化に即応すべき機動性が要求される事
項は、その委任事項が個別具体的に特定されている
*9
限りにおいて、立法権委 任 は 認 め ら れ る が、他 方
で、一般的抽象的な白地委任は許容され得ないと考
National Emergencies Act of 1
9
7
6, Pub. L. No.
9
4
‐
4
1
2,9
0Stat.1
2
5
5(1
9
7
6)
.
*1
0 山田康夫「アメリカ合衆国憲法における戦争権
えられている。しかし現実には、行政機関への委任
に際して、その目的や被委任権限行使の基準も何等
War Power Resolution of 1
9
7
3, Pub. L. No.
9
3
‐
1
4
8,
8
7Stat.5
5
5(1
9
7
3)
.
限」
『奥 原 唯 弘 教 授 還 暦 記 念 論 文 集1』2
0
0頁
(1
9
8
9)
.
定められない委任が常態化している。その詳細は、
*1
1 「戦争宣言又は特別の制定法の授権なく、合衆国
拙稿「委任立法と憲法4
1条」長野大学紀要2
8巻2号
軍が合衆国の領域、属領、及び準州外で敵対行為に
2
5頁以下を参照されたい。
従事している時、如何なる場合にも連邦議会が両院
*5
ここで問題となる連邦議会から委任される立法
権限とは、一般的抽象的規範の定立たる趣旨での立
―8
1―
賛同決議によって命じた場合には、大統領はかかる
軍隊を撤退しなければならない。
」
(第5条 c 項)
.
1
8
4
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
*1
2 Immigration and Naturalization Service vs. Chadha,
定期間内に連邦議会の何れか一院が「承認」決議を
1
0
3S.Ct.2
7
6
4(1
9
8
3)
.
下さなければ、執行案は廃棄されることを意味して
*1
3 移民国籍法第2
4
4条(a)
−1は、不法滞在の外国
おり、実質的には、消極的意思表示に基づく従来の
人に強制退去手続が取られたとしても、「7年以上の
一院拒否権制度と何ら差異が無いものとして、議会
事実上の在留、人格の道徳的善良性、強制退去され
の行政統制にとって極めて有利に機能する。尚、さ
た場合の極度の困窮」という3つの要件を司法長官
らに詳細な事例検証については、拙稿・前掲注(5)
を
が認定した場合には、当該強制退去手続は停止し得
参照されたい。
るという救済規定を設けていた。See8U.S.C.§1
2
5
4
*2
2 この点、議会調査局による議会拒否権条項の調
(a)
−1(1
9
8
2)
.
査資料があるので以下のものを参照されたい。See
*1
4 第2
4
4条(c)
−1は、司法長官の強制退去停止決
定を連邦議会へ報告する義務を課しており、また同
1
9
8
3C.R. S. Rev.
3
3
‐
3
4(Fall,1
9
8
3)
.
*2
3 拙稿「権力分立と憲法解釈」六甲台論集(法学
条(c)
−2では、当該司法長官の決定は、連邦議会
政治学篇)第4
9巻第1号1頁以下参照。
の何れか一院によって「否決」されなかった場合に
*2
4 FISHER, supra note1
9, at1
5
6.
限り、効力を発するものと定められていた。即ち、
*2
5 See U.S. CONST., art.Ⅰ,§9, cl.7.
一院による議会拒否権を構成していたのである See8
*2
6 委任立法の増加傾向は今日も継続しており、例
U.S.C.§1
2
5
4(c)
−1,2(1
9
8
2)
。
えば、その数は1
9
1
0年には2
1
8本であった も の が、
*1
5 Chadha,1
0
3S. Ct.2
7
8
4.
1
9
6
0年には7
3
3本、さらに1
9
9
8年には1
5
7
6本にまで及
*1
6 Id .
び、2
0世紀の初期と後期では実に7倍以上の増殖で
*1
7 Id . at2
7
8
5
‐
8
6.
ある。VERNON BOGDANOR, THE BRITISH CONSTITUTION IN
*1
8 事実、連邦最高裁は、Chadha 事件判決直後、独
立行政委員会の規則制定権限に対する議会拒否権条
THE TWENTIETH CENTURY2
2
1(2
0
0
3)
.
*2
7 BRADLEY & EWING, CONSTITUTIONAL AND ADMINIS-
項についても、Process Gas Consumers Group vs. Con-
4
9(1
3th
TRATIVE LAW6
ed.2
0
0
3)
.
sumer Energy Council of America 事件判決 see 1
0
3 S.
*2
8 前述の Legislative Veto という用語は、アメリカ
Ct.
3
5
5
6(1
9
8
3)
.及び United States Senate vs. Federal
では執行府・行政機関に対する議会の拒否権という
Trade Commission 事件判決 see 1
0
3 S.Ct.3
5
5
6(1
9
8
3)
.
文脈で用いられるが、イギリスでは庶民院に対する
において、それぞれ天然ガス政策法(Natural Gas Poli-
貴族院の拒否権という文脈で用いられる場合がある
cy Act)第2
0
2条 c 項に規定された一院拒否権条項、
ので、本稿ではイギリスに関しては議会審査権とい
連邦取引委員会改革法(Federal Trade Commission Improvements Act)第2
1条 f 項1号に規定された二院拒
う用語を使用するものとする。
7, at 6
5
7. ;
*2
9 BRADLEY & EWING, supra note 2
否権条項を違憲とした控訴審判決を略式で認容して
6,
at2
2
1.
BOGDANOR, supra note2
いる。
ちなみに、単純提出手続は議会統制という要素が脆
*1
9 LOUIS FISHER, CONSTITUTIONAL CONFLICTS BETWEEN
弱なことから利用される比率は低く全体の 約4%
CONGRESS AND THE PRESIDENT1
5
7(1
9
9
7)
.
で、ついで承認型手続はその議会の審査負担の大き
*2
0 Louis Fisher, The Legialative Veto : Invalidated, It
さから特に重要な委任事項にのみ付され全体の約
Survives,5
6Law & Contemp. Probs.2
7
3, 28
6(1
9
9
3)
.
1
2%、残りの約1
9%は議会への提出を求められてい
*2
1 この合同決議に基づく議会拒否権は、留保され
ない。八木保夫「イギリス議会による委任立法の事
る形態によって、その及ぼす影響力は全く異なるも
後的統制」議会政治研究2
1号9
5頁参照。
のとなる。即ち、「否認」型の合同決議に基づく場
*3
0 合同審査委員会の審査は次の7項目に及び、こ
合、大統領が両院決議に拒否権を発動すれば、連邦
れらに該当する場合に議会の注意を喚起するための
議会は、それを覆す(override)ために、さらに両院
7, at
報告を行う see BRADLEY & EWING, supra note 2
で各々3分の2以上の多数を獲得せねばならなくな
6
5
9。
る。かかる状況は連邦議会側に対して大きな負担を
(a) 当該委任立法が歳入に負担を課す、又は政府に
債務負担行為を義務付けていること
課すものとなる。他方、「承認」型の合同決議に基づ
く場合、執行府案を発効させる為には、一定期間内
(b) 議会制定法によって当該委任立法が裁判所の審
査から除外されていること
に連邦議会の両院による「承認」という積極的意思
表示を得なければならない。これは裏を返せば、一
(c) 当該委任立法が授権法で認めていない 遡 及 効
―8
2―
田中祥貴
立法の多様化と議会審査制度
1
8
5
(2
3)
を参照されたい。
(retrospective effect)を有すること
(d) 当該委任立法の公布又は議会への提出に不当な
*3
5 この詳細は拙稿・前掲注(4)
を参照されたい。
*3
6 この法律では、イギリス議会に倣って、国会に
遅延があったこと
(e) 当該委任立法が委任された権限の範囲内のもの
国家基本政策委員会(党首討論)が設置され、また
であることに疑問がある、又は委任された権限を通
政府委員制度を廃して副大臣・大臣政務官制度が新
たに創設された。
常ではない方法で行使するものであること
(f) 何らかの理由で当該委任立法の形式又は趣旨に
*3
7 蓋し、イギリスでは一つの内閣における政治任
用ポストは平均で1
3
0に上り(山口二郎「イギリスの
説明を要すること
政治
(g) 当該委任立法の起草に欠陥があること
日本の政治」6
3頁以下(1
9
9
8)
)
、与党議員の
相当数が行政府の正規の役職に就任するため、与党
以上のうちで報告理由として一般的なものは(e)
(f)
及び内閣で形成される意思は一体のものと看取され
(g)
で、その他の理由で報告されるのは稀である。
*3
1 See id . at6
5
8.
るが、我が国ではイギリスほどの与党と内閣の一体
*3
2 See BOGDANOR, supra note2
6, at2
2
3.
性は確保されず、例えば、内閣提出法案が自民党の
*3
3 「国庫からの支出はすべて法律で定める歳出予算
政務調査会や総務会におけるインフォーマルな与党
審査によって修正を受けることも少なくない。
に従ってのみ行われる」see U.S. CONST., art.Ⅰ,§9,
*3
8 尚、イギリス型の法制度を採用するには、ウエ
cl.
7.
*3
4 権力分立原理の解釈基準に関して、アメリカ公
ストミンスター・モデルを支える討議的な二大政党
法学では、国家権力作用の相互排他的な権限領域の
制を実体的に担保してきた政党制や選挙制度のあり
確立を志向する「形式主義的(formalism)
」見解と、
方への考察、並びに特殊イギリス的な貴族院を抱え
各権力作用の核心を侵害しない範囲で相互の権限領
る二院制の現状を踏まえる必要がある。その上で、
域の共有と牽制を志向する「機能主義的(functional-
我が国における議会審査制度の可能性を精査するこ
ism)
」見解が存する。この点、我が国の憲法学は、
とが不可避であるが、これらの実体的に踏み込んだ
従来、形式主義的権力分立観を前提とする傾向にあ
考察に関しては、別稿を予定しているのでそちらに
るものと評価し得る。尚、この議論の詳細は前掲注
譲るものとする。
―8
3―
長野大学紀要
第2
9巻第2号 8
5―8
8頁(1
8
7―1
9
0頁)2
0
0
7
市町村におけるデイケア活動の効果に関する一考察
―スタッフから見た効果―
A study on Effect of Day-Care Activity at a Local Government
高
原
優美子*
Takahara Yumiko
1.目的
栗
原
浩
之**
Kurihara Hiroyuki
3.市町村デイケア活動の効果
行政機関において、精神障害をもつ当事者を対
(1)地域生活を安定して送っていくための場所
象に実施しているデイケア活動は、1968年に川崎
窪田2)は、精神科デイケアのねらいとして「グ
市大師保健所における保健所デイケアが最初であ
ループの助けを借りて人の中で暮らすことに自信
1)
り、1
9
8
7年度に正式に事業化された 。地域保健法
をつけて、1人ひとりのメンバーの個性を発揮し
の施行以降、保健所再編が活発化し、保健所デイ
てもらう」ことを述べているが、これは市町村デ
ケアは徐々に縮小傾向を辿っていくこととなる
イケアにも相当するものであろう。インタビュー
が、一方で、保健所の代替的な役割を担う等の目
調査において、P 市町村では実際に、通所するこ
的から、市町村におけるデイケア(以下、市町村
とによって不安定だった症状が緩和し、地域生活
デイケア)が普及していった。また、保健所デイ
が安定して送れるようになった利用者がいるとの
ケアを実施している地域であっても、保健所まで
話が聞かれた。社会的リハビリテーションの有効
の距離が遠く、交通の利便性が良くない地域で
性が市町村デイケアからうかがうことができる3)。
は、市町村デイケアを実施しているケースもあ
る。本稿ではこうした地域に密着して活動を続け
(2)利用者にとって、地域住民としてのアイデ
ンティティを得られる場所
る市町村デイケアがどのような活動を行っている
のか理解を深めるとともに、従事しているスタッ
市町村デイケアは、週1回∼月1回と活動の幅
フから見た活動の効果について探ることを目的と
はさまざまである。活動回数が多いとは言い難
した。
く、利用者の多くは医療機関デイケアへの通院や
福祉的就労といった他の資源と併用していること
2.市町村デイケア活動の事例
が特徴的である。
平成19年6月に、3ヵ所の市町村デイケアに従
また、V 市町村では、デイケア利用日以外に就
事するスタッフ(保健師)を対象とし、活動状況
労している当事者2名から話しを聞くことができ
が明らかとなるための設問を作成し、それをもと
たが、それぞれがデイケアを「息抜きの場」と回
にインタビュー調査を行った。
(表1)に結果を
答しており、日頃、他の通所資源へ通っている利
要約した。
用者同士が住民として定期的に顔を合わせる場
所、いわば「寄り合い」のような役割を担ってい
*社会福祉演習・実習室助手
**同上
―8
5―
1
8
8
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
(表1)市町村デイケアの概要とスタッフへのインタビュー調査結果の要約
P 市町村
Q 市町村
V 市町村
対象地域の人口
約7,
0
0
0人
約2
4,
0
0
0人
約4,
0
0
0人
開始年度
平成6年度
平成1
0年度
平成1
0年度
実施の経緯
市町村内に通所資源がなかっ
たことにより、保健所保健師
の支援により創設された。
保健所からの働きかけに よ
る。地域保健法施行の影響が
大きい。
保健所からの働きかけに よ
る。周囲にデイケアをはじめ
る市町村があったため。
活動回数
週1回(開始当初は隔週だっ
たが、利用者からの希望があ
り週1回となった)
隔週
月1回
利用者数
登録という形式はとっておら
ず、随時参加可能。1回につ
き5∼8人が参加。
1回につき4∼5人が参加。
1回につき3∼4人が参加。
主治医のすすめが前提。登録
居住地は問わない。
者は7人。居住地は問わない。
利用者の状況
半数の利用者が市外の医療機
関デイケアや作業所との併用
医療機関デイケアとの併用が
多い。
ほとんどの利用者が市内の事
業所・企業就労との併用
スタッフ
保健師1人(場合によって、
保健師がもう1人加わる)
保健師2人
保健師1人
予算
需用費(数万円程度)
数万円程度(県が指定する事
業に係る予算の按分)
年間数万円・市単独
プログラムの特徴
畑作業が多い。下半期は畑で
収穫したものの調理やゲーム
や温泉等。
ス ポ ー ツ、絵 手 紙、レ ク リ
エーション、調理実習等
主に調理実習
ネットワーク
近隣市町村との交流プログラ
ムを実施。
近隣市町村との交流プログラ
ムを実施。ボランティアの参
加有。
近隣市町村との交流プログラ
ムを実施。市内の社会資源と
の連携。
スタッフが感じて
いる効果
通所がきっかけで、生活の
しづらさが改善し、地域生活
が安定する。
利用者の状態把握ができる
こと。
!
"
!利用者が主体的に企画を行
コミュニケーションの広がり
うことができるようになった。
住民としての社会参加の一
助、集まれる場所。
"
!働きたい希望に応えたい。 !ボランティアの高齢化によ
!ボランティアの高齢化によ 地域社会との接点をもっても
スタッフが感じて
いる課題
り活動への参加がなくなりつ
つある。
個別目標の設定等を行う必
要性がある。
"
らうための支援が必要。
通所距離がネックとなって
いる。そのためスタッフが帰
りの送迎を行っている。
"
り活動への参加がなくなりつ
つある。育成が必要。
ピアカウンセリングや生活
訓練を実施したい。
"
る様子がうかがわれた。こうしたことから、利用
に行ったりすることからプログラムが地域の特色
者にとっては、デイケアが地域住民としてのアイ
を醸し出しているのではないだろうか。市町村デ
デンティティを得られる場所ともなり得るものと
イケアは、地域の姿を映し出す鏡であり、文化を
いえる。
反映している活動と考えられる。
プログラムはデイケアごとに異なっており、内
容はさまざまである。P 市町村は皆ができるも
(3)他のデイケア等との交流プログラムを通じ
の、地域と接点がもてるものという理由からプロ
て、利用者の生活の幅を広げることが可能と
グラムで畑作業がはじまったことが特徴的であ
なる場所
る。秋には収穫したものを皆で調理したり、温泉
―8
6―
利用人数が少数である市町村デイケアは、その
高原優美子・栗原浩之
市町村におけるデイケア活動の効果に関する一考察
一定所得以下
生活保護世帯
市町村民税非課税
本人所得≦80万
中間所得層
市町村民税非課税
本人所得>80万
一定所得以上
所得税額30万円
相当未満
所得税非課税
所得区分④
負担上限額
医療保険の自己負担限度額(※1)
所得区分①
負担0円
所得区分②
負担上限額
2,500円
所得区分③
負担上限額
5,000円
負担上限額
10,000円
育成医療の
経過措置
1
8
9
負担上限額
40,200円
(所得税額30万円相当以上)
所得区分⑤
公費負担の対象外
(医療保険の負担割合
・負担限度額)
重 度 か つ 継 続 (※2)
所得区分④
負担上限額
5,000円
所得区分④
負担上限額
10,000円
所得区分⑤ ※3
負担上限額
20,000円
自己負担については1割負担( 部分)。ただし、所得水準に応じて負担の上限額を設定。
※1 ①再設定を認める場合や拒否する場合の要件については、今後、実証的な研究結果に基づき、制度施行後概ね1年以内に明確
にする。
※2 ①当面の重度かつ継続の範囲…別途定める。
②重度かつ継続の対象については、実証的な研究成果を踏まえ、順次見直し、対象の明確化を図る。
※3 「一定所得以上」かつ「重度かつ継続」の者(所得区分¼’
)に対する経過措置は、施行後3年を経た段階で医療実態等を踏ま
えて見直す。
図1
自立支援医療費制度の概要
規模の小ささから、グループとしての力動に限界
ているため、市の施策に反映させられる可能性を
があることは否定できない。また、P 市町村及び
秘めていることも確かである。市町村職員と精神
V 市町村の課題としてあげられているとおり、利
障害をもつ当事者が身近にコミュニケーションを
用者とボランティアの高齢化がすすんでいること
とることによって、デイケアには市町村が展開し
から、今後は、新たなメンバーが増えない限り、
ようとしている施策とニーズの乖離を防止する効
グループ活動が難しくなってしまう可能性も当然
果もあろう。
予測される。しかしながら、インタビューした3
ヵ所のデイケアでは、他のデイケア等との交流プ
(5)利用にあたっての経済的な問題が解消され
ログラムをそれぞれ実施しており、グループの閉
る。
塞性打開につながっていくのではないかと考えら
2006年度に施行された障害者自立支援法に伴
れる。新たな人々とのつながりは、インフォーマ
い、社会福祉法人減免制度や税額に応じた自己負
ルな場面での交流へと発展していくことで、利用
担上限額が設けられてはいるが、施設利用にあ
者の生活の幅が広がっていくことになろう。交流
たっては1割負担が原則となった。
機会を発端として、知り合った当事者たちが、地
また、医療機関デイケア利用等に係る通院医療
域の人たちや大学との連携を通じながら、主体的
費にあたっても1割負担へと移行され、同法で規
にニーズ調査を行った例も見られる4)。市町村デ
5)
のとお
定されている自立支援医療費制度(図1)
イケアはボランティアが入ったり、外出プログラ
りとなった。1回の利用料が精神障害者通院医療
ム等、地域資源とのつながりがある。さらに、当
費公費負担制度であれば0.
5割の自己負担額で
事者グループをつなぐ、いわば「媒介」にもなっ
あったため、実質2倍へと負担が増えたことにな
ていくのである。
る。もっとも、この制度は1割負担を原則として
いながらも、市町村民税が課税対象ではないケー
(4)利用者の隠れたニーズを把握することがで
きる。
スや、市町村民税の所得割が生じていながらも重
度かつ継続区分に該当する際には、月額上限額が
グループ場面での何気ないコミュニケーション
設定されており、負担額緩和措置が設けられてい
から、個別面接場面では聞かれなかったエピソー
る。また、自治体によっては、自己負担分に係る
ドを耳にする機会は多い。それが利用者の隠れた
補助を実施しているところがあるため、制度利用
ニーズということもある。また、デイケアは、集
者にとって一律の負担増とは言い難い点を付け加
団を対象としてのニーズを把握できる役割ももっ
えておきたい。しかしながら、自己負担額補助制
―8
7―
1
9
0
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
度に該当しない者や、制度そのものを有しない自
といった支援技術を包括的な視点から実践する立
治体に居住する者にとっては、経済的負担が重く
場にある。そのような中で、デイケア活動は、自
のしかかることは事実であろう。このような場合
治体が精神障害者福祉施策にとりくむ上での基盤
に、利用料を求められない市町村デイケアのよう
をなす活動に位置づけられるものといえよう。
な、行政サービスによる通所資源はますます貴重
注
なものとなっていくものと考えられる。
1)日本デイケア学会編『精神科デイケア Q&A』中央
5.おわりに
法規 2
0
0
5.P.
1
3∼2
3
本稿は、市町村デイケア活動の効果に関する一
2)窪田彰「デイケアにおける集団精神療法」
『精神科
考察を述べてきた。
「小さなグループ」が大きな
臨床サービス』Vol.
3 No.
3 星和書店 2
0
0
3.P.
効果をもっていることがうかがえた。一方で、ス
タッフそれぞれが課題としてあげた生活技術の獲
得や就労準備を目的としたプログラム作りは、利
用者のニーズや将来に向けた展望から考えられて
3
1
6∼3
1
8
3)後藤雅博「社会的適用」蜂矢英彦ほか監修『精神
障害リハビリテーション学』金剛出版 2
0
0
0.P.
6
1
4)上野容子ほか『障害者福祉計画策定に反映させる
精神保健福祉ニーズ分析:狭山市・入間市在住の当
おり、今後ますます充実した活動へと変化を遂げ
事者アンケート集計結果から』東京家政大学研究紀
ていくことが予想される。市町村担当者は、さま
ざまな問題を抱えた個別相談の対応からグループ
要4
7 2
0
0
7.
2 P.
1
3
9∼1
4
8
5)
(図1)は、厚生労働省障害者福祉主管課長会議資
への支援、そして地域にむけた働きかけや組織化
―8
8―
料2
0
0
5.
4を一部改定したものである。
長野大学紀要
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9巻第2号 8
9―1
0
1頁(1
9
1―2
0
3頁)2
0
0
7
「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向けた
基礎的枠組み定立に関する研究
Study for Thesis of Fundamental Frameworks to Constract Practical and
Theoretical Approach on “Community-Baced Welfare for Social Inclusion”
合
津
文
(代表者) 海
雄*1
Fumio Gozu
野
恵美子*2 野
Emiko Umino
1.本研究の目的
口
友紀子*3
Yukiko Noguchi
2.泰阜型在宅福祉の到達点
2000(平成12)年4月に施行された「社会福祉
(1)泰阜型在宅福祉形成の歴史
法」において、わが国の社会福祉は地域福祉を基
本年度研究対象とした地域は、保健・医療・福
軸として展開される方向が示された。しかしなが
祉の連結による高齢者在宅福祉の推進体制と、村
ら、その実践と理論に関する研究は、今日の社会
独自施策によって介護保険制度利用における利用
福祉を取り巻く環境の変化、すなわち社会福祉分
者負担の軽減等を実施している長野県下伊那郡泰
野における地方分権の象徴ともいうべき市町村合
阜村(松島貞治村長)である。泰阜村は長野県の
併、社会保障構造改革および社会福祉基礎構造改
南部、天竜川の東側に位置しており、2006(平成
革という大きな流れを十分踏まえた上で行われて
18)年10月1日現在の概況は、人口2,
004人、う
いるとはいいがたい1)。これまで具体化された改
ち高齢者人口7
58人で高齢化率は3
7.
8%となって
革が目指す方向は、市町村行政の効率的運営、
「福
いる。村の総面積64.
54 のうち、林野率が8
7%
祉の措置」から「利用契約方式」への移行、つま
の山村であり、住宅用地は約1%にすぎない地域
り社会福祉分野における分権化と市場原理の導入
である。村には19の集落が散在し、しかも天竜川
である。このような状況下での喫急の課題は、今
河畔の3
20m から分外山山麓 の7
70m と、標高差
後の社会福祉の基盤となると考えられる地域福祉
が450m あるというきわめて厳しい条件の中で住
の新たな実践と理論の構築であることは明らかで
民が生活を営んでいる。近年の状況としては、村
あろう。こうした現状認識に基づいて、本研究に
の財政を削減するために、助役を廃止して村長が
おいては新たな実践および理論としての「共生型
これを兼務しているほか、市町村合併には参加せ
地域福祉」を構築することを最終的な目標とする
ず独立した村政(自律)の道をいち早く表明した
が、今年度学内で採択を受けた地域研究・一般研
ことでも注目を集めてきた。また、泰阜村は、経
究 C においてはその準備作業として、最小自治
済成長の影で取り残されてきた高齢者の「長年住
体単位であり、人びとが生活の場とする「村」に
み慣れたこの村で、そして自分の家で最期まで暮
研究対象を絞り込み、
「共に生きる」地域福祉の
らし続けたい」という強い願いと想いを実現させ
実践および理論の基礎的枠組み定立に向けたエッ
ることを目指し、一貫して在宅福祉の充実を図っ
センスを抽出しようとするものである。
てきた村として全国的にも有名である2)。
!
*1社会福祉学部教授、地域共生福祉研究所副所長
*2浦和大学総合福祉学部教授(社会福祉学部教授2
0
0
7.
3.
3
1退職)
*3社会福祉学部准教授
―8
9―
1
9
2
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9巻第2号 2
0
0
7
泰阜型在宅福祉は、1984(昭和59)年2月、泰
療業務を行いながら社会福祉協議会の中心的な組
阜村診療所に網野皓之医師が着任し、劣悪な高齢
織である指定通所介護事業所(デイサービスセン
者の生活実態に触れて、高齢者が幸福に生活を送
ター)の所長を兼務してその業務に従事している
るためには医療の提供だけでなく生活そのものの
こと、③社会福祉協議会の事務局長が保健福祉支
支援が必要であるという認識を持ったところから
援センターに合築された診療所の事務長を兼務し
出発している。同年5月、非常勤のホームヘル
ていること、があげられる。さらに、機関・団体
パー3名によって、軽トラックに風呂桶を積んだ
の上部レベルに目を向けると、村長が社会福祉協
在宅入浴サービスを開始して以来、泰阜村診療所
議会の会長を兼務しており、泰阜村議会議長と診
と村外の中核病院への送迎の無料化、訪問看護の
療所長の2名が副会長を兼務している。このよう
導入、給食サービスと地域デイサービスの開始、村
に、まず三者はソフト面およびハード面(社会福
単独による老人医療費の無料化(診療所窓口負担
祉協議会と泰阜村診療所が保健福祉支援センター
分)などの施策を順次展開してきた。1990(平成
に合築され、役場と隣接している。
)双方の一体
4)年には、ショートステイと高齢単身世帯や高
化が図られていることがわかる。
齢者のみの世帯のための給食施設の運営も開始し
また、個別のサービス提供体制をみると、社会
ている。こうして展開されてきた泰阜村の在宅福
福祉協議会内部に指定居宅介護支援事業所、指定
祉の基本理念は、先進地北欧に学びながら、①通
通所介護事業所、保健事業部門、指定訪問介護事
常生活の継続(ノーマライゼーション)
、②社会
業所、ショートステイ居住部門、指定訪問入浴介
参加の促進、③自己決定の尊重、を具現化するこ
護事業所(訪問介護員兼務)
、および指定訪問看
3)
とであるとされる 。この理念を、高齢者ケアサ
護事業所(診療所看護師を含む)が設置されてお
ービスに関わるスタッフが相互に確認しながら各
り、これらのサービスの利用者である高齢者のか
種の在宅福祉事業を推進してきている。こうした
かりつけ医は、その大半が泰阜村診療所であると
基本理念は、1994(平成6)年4月に開所した特
同時に、病状の急変時の対応などにも初期医療と
別養護老人ホーム「やすおか荘」の運営、2
0
0
0(平
して診療所長があたっている点に特徴があるとい
成12)年4月の介護保険制度導入を経た現在もな
える。在宅福祉コーディネーターは、毎週1回各
お受け継がれている(資料1参照)。
サービスの主任クラスを集めた会議を開催するな
ど、社会福祉協議会および泰阜村診療所で把握し
(2)高齢者ケアサービスの提供システム
た情報や、提供しているサービスの内容等の検討
はじめに、現在の泰阜村における高齢者ケア
を実施する主体となっている。また、地域包括支
サービス提供システムを概観しておくこととした
援センターの職員との緊密な連絡・連携が保たれ
い。その全体像は資料2に示すとおりである。泰
ていることからも、ケアサービス提供の一元化が
阜村診療所、泰阜村社会福祉協議会、泰阜村役場
積極的に推進されてきていることがわかる。
住民福祉課はそれぞれ独立した機関・団体であり
こうした高齢者ケアサービス提供システムを構
ながらも、相互に連携を図ることのできる体制が
築することと同時に、泰阜村においては「ケア付
整えられている。すなわち、①2002(平成14)年
き住宅」を用意するなど高齢者の住宅保障にも積
10月、泰阜村役場住民福祉課に在宅介護支援セン
極的に取り組んでいる。これは、自宅で暮らすこ
ター(2006(平成1
8)年4月からは「地域包括支
とを望みながらも一人暮らしの寂しさや、不安を
援センター」に組織改変)が設置されたが、この
感じている高齢者に対する配慮という一面もあわ
組織に配置された職員が、隣接する保健福祉セン
せ持っている。このように、保健・医療・福祉の
ター内の社会福祉協議会に出向して事務所を置
連結による統合的なサービス提供体制の確立、お
き、社会福祉協議会の在宅保健・福祉部門および
よび住宅保障の両者を的確に組み合わせることに
各種サービス提供を統括する「在宅福祉コーディ
よって、最期まで在宅での一人暮らしを実現でき
ネーター」4名(介護支援専門員が兼務)と緊密
る施策を整えているという点も泰阜村の注目すべ
な連携体制を構築していること、②診療所長が診
き特徴であるといえる。これら一つひとつの取り
―9
0―
合津・海野・野口
「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向けた基礎的枠組み定立に関する研究
1
9
3
組みを通じて、泰阜村においては、国保直営診療
いることになる。さらに、介護保険制度における
施設としての泰阜村診療所と、合築された保健福
要介護度別利用上限額を超えた場合でも、利用者
祉支援センター内にある社会福祉協議会を拠点と
全額負担分を村が肩代わりする。このように、間
し、ワンフロアで保健・医療・福祉の一元的な高
接的であってもさまざまな金銭的支援を実施する
齢者ケアサービス提供システムが形成され、それ
ことにより、月50,
000円あれば自宅で生活を送る
をバックアップする形態をとりながら行政組織の
ことができる村単独施策が整備されているのであ
機能も変化してきた。さらに、住宅保障施策や住
る。次節で紹介する「泰阜村住民ヒアリング調査
民参加推進等の取り組みを関連付けながら「在宅
結果」でも明らかとなるが、高齢者の就労率は決
福祉の村」が形成されてきたのである。
して高いとはいえず、単独または夫婦のみで基礎
年金を下回る水準の年金生活を余儀なくされてい
(3)村単独の高齢者医療・福祉関連施策
る人びとも少なくない。このような高齢者にとっ
次に、介護保険関連対策を含めた泰阜村単独の
保健・医療・福祉施策について整理しておくこと
にしよう。まず医療関連では、泰阜村内の70歳以
上の高齢者が診療所に受診する場合、あるいは診
療所医師による往診を受けた場合においては、ど
ては、金銭給付に代わる独自施策の実施が不可欠
であることは言及するまでもないであろう。
3.泰阜村住民ヒアリング調査結果
(1)ヒアリング調査の目的
れだけ医療費がかかっても利用者の自己負担分は
泰阜村においては、独自の高齢者ケアサービス
1回につき500円、月4回を限度として5回目以
提供システムと高齢者福祉関連施策が順次整備さ
降はすべて無料であり、本来高齢者本人が自己負
れ、それぞれが人びとの生活を支える大きな力と
担すべき額はすべて村が肩代わりする。この額の
なっていることは事実である。とりわけ介護保険
中には、当然のことながら薬剤費等も含まれてい
に関連する独自施策等は、全国的にも他に例がな
る。つまり、どれだけ高額な治療や投薬を受けた
い点から「行政主導による在宅福祉の村」と表現
としても、それが泰阜村診療所の診療範囲内であ
されることがしばしばある5)。行政主導とは、「日
れば、利用者は月2,
000円以上の医療費の負担は
本の行政学には政策過程と政治過程が行政を中心
必要ないこととなる。また、交通手段に乏しい高
に展開されるとする行政主導論のパラダイムが存
齢者への対応として、泰阜村診療所では、無料送
在する6)」とされるように、今回の研究班による
迎を随時行っている。同時に高齢者の交通手段の
ヒアリング調査の席でも、松島貞治村長は「小さ
確保についても熱心な取り組みが行われてきてい
な村では行政が先頭に立ち、村民を引っ張ってい
る。一般の市町村は高齢者の交通手段の確保のた
かなくては…」という行政フォワード論を掲げて
めに、タクシー券の配布あるいは無料福祉バスの
いた。さらに、「必要なことはここまでくると大
運行のいずれかを行っている場合が多い。しかし
体わかるので村行政が必要なことを考えて行って
泰阜村においては、山間僻地で徒歩による移動が
いる。」と明言していた。一方、佐々木学診療所
困難であり、なおかつ公共交通機関が皆無に等し
長は、住民ニーズの把握方法について、
「社会福
いこともあり、タクシー券の配布および無料福祉
祉協議会の職員が現場で利用者宅を訪問した際に
バス運行の両者が実施されており、高齢者はその
ニーズを把握する。」と述べていた7)。
用途によりそれぞれのサービスを使い分けて活用
泰阜村は「徹底した在宅福祉・在宅医療で畳の
することができるのである。タクシー券・福祉バ
上で死ぬことを目指す」、「首長と診療所長のリー
スともに利用率は高値を示している4)。
ダーシップで高齢者の保健・医療・福祉施策に取
一方、介護保険制度関連については、介護保険
り組む」
、「現場・専門家中心で高齢者保健福祉
制度によるケアサービス利用時の法定1割の自己
サービスを提供する」という施策の特徴から、
「在
負担金のうち60%を村が負担する仕組みを整えて
宅徹底タイプ」
、「選択肢のある在宅福祉」の村と
いる。すなわち利用者は、全介護保険制度利用に
いわれている8)。こうした点から泰阜村の地域福
かかる費用のうち1
00分の4のみを負担すればよ
祉形成の中核となっているのは、村長をはじめと
―9
1―
1
9
4
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
する行政、診療所長、および社会福祉協議会の専
調査結果については、資料3の表−1から表−
門職員であり、住民はサービスの受け手でしかな
12としてその詳細を報告しているが、調査から得
いようにも感じられる。しかしながら、
「共に生
られた結果の概略を以下に掲げておきたい。
きる」地域福祉が具現化されている地域自治体に
① 表−1より、世帯構造および世帯類型として
おいては、行政機関やケアサービス提供機関・団
もっとも多いのは、やはり単独世帯および夫婦
体だけでなく、地域福祉推進に住民が何らかの形
のみの世帯に代表される高齢者世帯であり、被
でその担い手として参画・関与しているか、ある
調査世帯全体の4
7.
1%を占めている。しかしそ
いは、住民がかかえる諸種の生活ニーズを行政や
の一方で、3世代世帯の割合も2
1.
8%と決して
サービス提供機関・組織に伝達される仕組みや人
少ないとはいえない。
的資源が存在していると考えられる。そうした点
② 表−2より、世帯主の就労状況は農業を含め
を前提として、研究班が事前調査の段階である集
ても31.
0%と高いとはいえず、また多くの世帯
落の生活状況に関するヒアリング調査を実施した
が就労収入よりも、年金に依拠した生活を営ん
ところ、集落ごと定期的に懇談会が開催され、自
でいることがわかる。とりわけ国民年金受給世
治会長を通して行政に対してさまざまな意見が出
帯が54.
5%ともっとも高いのが特徴的である。
されているという実情を知ることができた。たと
③ 表−5、表−6より、近隣との互助活動を中
えば住民が懇談会を通じ、一集落だけでなく、村
心とした交流、とりわけ助け合いの活動が「あ
全体において同様の懇談会が開催され住民のニー
り」、「ときどきあり」を合わせると8
8.
5%と非
ズが何らかの形で伝達・反映されており、行政が
常に高い比率を示しており、この点から住民相
施策を実施しているとするならば、それは「共生
互による地域福祉活動が日々の生活の中で行わ
型地域福祉」の基盤となる「共に生きる」を具体
れていることがわかる。また、福祉関係のボラ
化する実践といえるという仮説のもと、その実態
ンティア活動に携わっている住民も34.
5%と
把握のための住民ヒアリング調査を実施した。
なっており、住民はサービスの受け手としてだ
けの存在ではなく自発・無償のサービス提供が
(2)ヒアリング調査の結果と分析
村民同士で行われていることが明らかとなる。
本報告書の最終頁に、資料4として添付してあ
④ 表−7、表−8および表−10では、現在や将
るのが今回のヒアリング調査の調査用紙およびそ
来の生活上に不安に思うこととして、とりわけ
の内容である。調査者、調査時期、調査対象およ
自分や配偶者の健康管理(1
6.
1%)や終末期を
び調査方法等は、資料3「泰阜村住民ヒアリング
含めた老後の生活をどう過ごすか(9.
2%)、村
調査
調査結果集計表」に記載してあるとおりで
の少子高齢化や離村する若者の増加(同)など
ある。今回の調査においては、泰阜村全19の集落
があげられているが、一方で特に不安に思うこ
のすべてから、同じ比率により単純無作為で調査
とはないとする住民も2
8.
7%と比較的多く、さ
対象世帯を抽出し、調査員が訪問して直接聞き取
らに現在の村の施策に6
0.
9%が十分満足、支持
りを行う形式で調査を実施した。調査対象は、村
すると回答している。そしてそうした村の施策
の全703世帯の約12.
4%となっている。ヒアリン
や近隣住民相互の地域福祉活動によって、住み
グ調査の具体的な内容は、世帯構造および世帯類
慣れた自宅でできる限り暮らし続けたいと願う
型といった基礎的事項のほか、主として、高齢者
住民が56.
4%と6割近くを占めている。
の生活実態と互助活動の状況、ボランティア活動
⑤ 表−11、表−12から、3
4.
5%の住民がこれま
への参加の状況、将来の不安やそれに対応する村
でに村の在宅福祉施策に対して意見を出したこ
の福祉施策に対する考え方やスタンス、今後村が
とがある、と回答していることがわかる。他の
選択すべき方向性、そして行政過程への参加の度
地域自治体における調査との比較はできないと
合いに関する質問を中心としており、調査は、長
しても、3割を超える住民が、村政のあり方に
野大学社会福祉学部合津専門ゼミナールの学生2
ついて直接・間接的に意見を述べているのは決
人1組で、個別訪問する形態で実施した。
して少ない数値ではないといえるであろう。ま
―9
2―
合津・海野・野口
「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向けた基礎的枠組み定立に関する研究
1
9
5
た、現在の施策に対して訴えたい意見があると
し、「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向け
回答している住民も27.
6%存在する。こうした
た基礎的枠組みを定立していく作業が不可欠であ
意見をどのようにして行政に伝えていくかにつ
ることを再認識しなければならない。
いて、個別の回答を点検すると、集落懇談会に
今回の調査については、単純集計に加えてより
おいて行政職員に意見を述べる、あるいは直接
詳細な結果を得るためのクロス集計を実施するほ
村長や村会議員、医療提供体制に関しては診療
か、住民からの聞き取りによって得られた個別意
所長と対話するなどがあげられている。
見についてもさらに分析を加え、調査報告書とし
て別にまとめることを予定している。その「泰阜
4.本年度研究結果のまとめ
村住民ヒアリング調査
調査結果報告書」は、研
今回の調査結果を踏まえると、泰阜村は、いわ
究班およびヒアリング調査に参加した学生ととも
ゆる行政主導という手法によって在宅福祉が推進
に、泰阜村松島貞治村長、佐々木学診療所長をは
されてきたのではなく、その独自の施策展開の背
じめ、村役場住民福祉課や社会福祉協議会の関係
景には、高齢化の進展により高齢者世帯が増加す
職員各位、そして調査に協力していただいた住民
る村の状況のもとで、住民による自発的な地域福
の方々に直接手渡したいと考えている。
祉活動やボランティア活動、直接・間接的な行政
に対する意見の伝達が行われており、そうした活
【注】
動とそれを受けて具体化される村の独自施策、社
1)近年の地域福祉実践・理論としては、①「住民の
会福祉協議会による高齢者ケアサービスの提供が
主体力や住民組織・当事者組織に共通する要件とし
同一の目的、すなわち「住み慣れた自宅でできる
て「自治」概念があると仮説設定」し、「公私協働を
限り暮らし続けたい」という住民の願いを実現し
含めた総体としての地域福祉実践は、公共的営為の
ていくという目的のもとに、それぞれが役割分担
一部であり、それゆえに地域福祉概念には“あらた
な「公共」の構築”を含む」とする「自治型地域福
して展開されてきたことが実証できた。
祉論」
、②福祉教育、ボランティア学習、住民参加と
こうした展開から、
「住民主体」原則を基本に
主体形成ならびにコミュニティ・ソーシャルワーク
据えながら、①行政機関、②ケアサービス提供機
に力点をおいて「2
1世紀の社会福祉シ ス テ ム の 基
関や団体、③地域住民、それぞれのセクターが互
本」
、「新 し い 社 会 福 祉 サ ー ビ ス と し て の 地 域 福
いにその機能と役割を果たしながら協働し、課題
祉」とした「参加型地域福祉論」がある。しかしな
を把握してそれに対処しつつ、よりよい地域生活
がら、この二者は、1
9
9
0年代に立論された理論であ
の実現を目指していくという、地域福祉のあり方
る。当然、社会・経済の動向に対応してその実践や
本来の姿を確認することができる。換言するなら
理論の内容は補強されてきているが、その立論後に
ば、どのセクターの参画・関与が欠けても、地域
実施された社会保障構造改革や社会福祉基礎構造改
福祉向上に向けた実践は成り立たないことになる
革と、それがもたらした福祉環境の変化を踏まえた
のである。2000(平成12)年の介護保険制度施行
ものとは必ずしもいえないのである。この点に本研
以降、サービス提供における行政機関の役割と責
究班の問題意識があることを付言しておく必要があ
ろう。右田紀久惠『自治型地域福祉の理論』ミネル
任は後退し、ケアサービス提供機関や団体・事業
ヴァ書房,2
0
0
5年,7および1
3頁、大橋謙 策「2
1世
者が民間参入を含めて多様化してきている。しか
紀ゆとり型社会システムづくりと地域福祉実践」日
しながら、このような時代であるがゆえに、地域
本地域福祉研究所監修/大橋謙策・宮城孝編『社会
住民相互の「共生」
、住民と行政機関、ケアサー
福祉基礎構造改革と地域福祉の実践』東洋堂企画出
ビス提供機関や団体・事業者による「共生」の取
版社,1
9
9
8年,3
4−3
5頁。
り組みがますます重要になると考えられる。した
2)泰阜村に関する文献・資料等は数多いが、とりあ
がって今後、「共生型地域福祉」の実践と理論を
えずは、網野皓之『みんな家で死にたいんだに―福
構築していくにあたって、われわれは、最小自治
祉村・泰阜村の1
2年』日本評論社,1
9
9
6年、佐々木
体単位である「村」だけでなく、さまざまな規模
学「病院死
の地域自治体を対象として同様の調査活動を実施
保地域医療学会優秀研究論文集』全国国民健康保険
―9
3―
特養死
そして在宅死」
『第6回全国国
1
9
6
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
診療施設協議会,2
0
0
2年、松島貞治『新版「安心の
6)村松岐夫『行政学教科書』有斐閣,1
9
9
9年,1
0頁。
村」は自律の村』自治体研究社,2
0
0
4年、山岸周作
7)研 究 班 は2
0
0
6(平 成1
8)年9月1
1日 午 前9時3
0分
『地域における保健・医療・福祉の統合的サービス提
より泰阜村役場にて松島貞治村長、1
3日午後4時よ
供システムといわゆる「長野県モデル」との相関関
り泰阜村保健福祉支援センターにおいて佐々木学診
係に関する一考察』信州大学大学院経済・社会政策
療所長と面談、ヒアリング調査を実施した。
科学研究科修士学位論文,2
0
0
5年などを一読された
8)玉里恵美子「「尊厳ある老いと死」を理念に ― 泰
阜村」水谷利亮編著『「介護保険」から「保健福祉の
い。
3)
『Yasuoka
まちづくり」へ―小さな自治 体 の チ ャ レ ン ジ に 学
Report ― 自分らしい老い年を迎えるた
ぶ』自治体研究社,2
0
0
1年,9
5頁参照。
めに』泰阜村,1
9
9
7年のほか、村田隆一「中山間地
域における高齢者の地域ケアシステム」
『中山間地域
の活性化と高齢者ケアシステムの形成』平成1
1年度
【執筆分担】
∼平成1
3年度科学研究費補助金(基盤研究)研究成
果報告書,2
0
0
2年,3
3−3
5頁を参照。
本報告書の執筆は、1および3を合津が、2を野口
が分担担当したほか、調査集計は海野が担当した。
4)社会福祉法人泰阜村社会福祉協議会『平成1
8年度
事業報告書』2
0
0
7年,7頁参照。
5)松島貞治「新たな自治のスタイルを模索して」日
本自治体労働組合総連合政策運動局編『小さくても
元気な自治体』自治体研究社,2
0
0
2年,4
8頁、「あっ
【研究費補助】
本研究は、平成1
8年度長野大学地域研究・一般研究
助成金による助成を受けて実施したものである。
たかいご」No.
3
7,2−5頁など。
―9
4―
合津・海野・野口
資料1
西暦
「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向けた基礎的枠組み定立に関する研究
19
7
泰阜村保健・医療・福祉関連施策等の歴史
和暦
1
9
8
4 S5
9
月
施
策
お
よ
び
活
動
の
動
き
2 ・網野皓之医師、泰阜村診療所に着任
・ホームヘルパー3名(非常勤)
・看護師2名・訪問指導員1名(非常勤)配置
5 ・軽トラックによる在宅訪問入浴サービス開始
1
9
8
5 S6
0
4 ・在宅訪問入浴ヘルパー1名(非常勤)採用
1
9
8
6 S6
1
4 ・泰阜村診療所と近隣中核病院への患者送迎無料化の実施
1
9
8
7 S6
2
4 ・在宅訪問看護開始にあたり看護師2名(非常勤)採用
1
9
8
8 S6
3
4 ・保健衛生グループを廃止し保健福祉グループへ発展的改組、診療所を核とした保健・医療・福
祉の統合的活動の開始
・保健衛生グループ発足(統合的保健・医療提供の開始)
6 ・給食サービス開始
・地域デイサービス開始(「痴呆高齢者を囲む地域の会」発足)
7 ・老人医療費無料化実施(診療所窓口負担の無料化:村単独施策)
1
9
8
9 H1
4 ・訪問看護師3名を常勤化
・ホームヘルパー1名を常勤化、3名非常勤
・集団検診の廃止と無料の個別施設健康診断の開始
・国民健康保険税の引き下げ(1
9
9
2年まで世帯平均6万円の減額)実施
・福祉問題検討会の設置
1
9
9
0 H2
1 ・廃屋を活用したケア付き住宅の実験的実施
4 ・訪問看護師4名常勤化、3名非常勤
・ホームヘルパー2名常勤化、5名非常勤(在宅訪問入浴ヘルパーを含む)
1
2 ・村行政組織改組により保健福祉課発足
1
9
9
1 H3
4 ・ホームヘルパー4名常勤化、5名非常勤
1
9
9
2 H4
2 ・ショートステイ、高齢者のための給食施設運営開始(旧郵便局跡を「デイホームかたくり」
に)
、寮母1名配置
3 ・ケア付き住宅2棟完成
4 ・泰阜村診療所に常勤看護師1名配置
8 ・泰阜村診療所に医療無線局を開局
1
9
9
3 H5
4 ・福祉にとって保健は「意味あるものとしない」というスタンスに
1
9
9
4 H6
4 ・特別養護老人ホーム「やすおか荘」開所
・ホームヘルプサービスにおいて「夜間ケア」を開始
8 ・松島貞治氏が村長に就任
1
9
9
5 H7
4 ・ホームヘルパー7名常勤化、3名非常勤
1
0 ・無料福祉バスの運行を開始
1
2 ・網野皓之医師退職(正式退職は1
9
9
6年2月)
・泰阜村診療所常勤看護師を2名から3名に増員
1
9
9
6 H8
4 ・ホームヘルパー7名常勤化、4名非常勤
1
9
9
7 H9
4 ・2
4時間ホームヘルプサービス開始(夜間専門ホームヘルパー4名増員)
5 ・ホームヘルパー8名常勤化、3名非常勤
・訪問看護師3名常勤化、非常勤3名
1
0 ・佐々木学医師、泰阜村診療所に着任
1
9
9
8 H1
0
4 ・泰阜村在宅福祉支援センター開始(佐々木診療所長が所長を兼務)
1
9
9
9 H1
1
3 ・南部地区訪問看護ステーション「さくら」開所
4 ・在宅福祉支援センターにてデイサービス開始
2
0
0
0 H1
2
5 ・泰阜村保健福祉支援センター・泰阜村国保診療所(新施設)完成
2
0
0
3 H1
3
4 ・高齢者支援ハウス(村単独ショートステイ施設)開所
※泰阜村保健福祉課・泰阜村診療所において聞き取り:野口作成。
―9
5―
1
9
8
資料2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
泰阜村における高齢者ケアサービス提供システム
泰阜村役場住民福祉課
村 長
住 民 係(2名)
生活環境係(1名)
南 支 所(1名)
保健福祉係(4名)
北・南保育所
社会就労センター(3名)
課 長
*地域包括支援センター(職員1名:社協出向)
兼務
※役場・センターは隣接
泰阜村保健福祉支援センター・診療所(合築)
泰阜村社会福祉協議会
指定居宅介護支援事業所(3名)
会 長
指定通所介護事業所(8名)
*地域包括支援センター
事業部門
副会長
(兼)通所介護
事業所所長
保健事業部門(2名)
連携
在宅福祉コーディネーター
(4名)
介護支援専門員等が兼務
指定訪問介護事業所(8名)
ショートステイ居住部門(1名)
地域グループ支援事業
訪問入浴(2名:訪問介護員兼務)
やすらぎ通所(2名)
訪問看護ステーション(休止中)
兼務
事務部門
事務局長
事務局(2名)
福祉バス(1名)
協働
兼務
泰阜村診療所
事 務 長
診療所長
地域グループ・住民参加
社会福祉協議会による活動支援
○ お風呂とおしゃべりの会
○ 高町長寿会
○ 高齢者お楽しみ会
看護師(2名)
訪問看護事業所
(社協より派遣)
役場住民福祉課による活動支援
○ 梨久保の会
○ 安気の会
※ 泰阜村住民福祉課・泰阜村社会福祉協議会・泰阜村診療所において聞き取り:合津作成。
―9
6―
合津・海野・野口
資料3
「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向けた基礎的枠組み定立に関する研究
泰阜村住民ヒアリング調査
調査者:長野大学社会福祉学部
1
9
9
調査結果集計表
合津文雄・合津専門ゼミナール学生
調査時期:平成1
8年9月1
1日(月)∼1
3日(水)
調査対象:長野県下伊那郡泰阜村1
9集落に居住する世帯 8
7世帯(全7
0
3世帯中)
調査方法:標本調査、単純無作為抽出法
表−1
世帯構造および世帯類型
①世帯構造
(単位:世帯、%)
夫婦のみの
帯
夫婦と未婚
の子のみの
世
帯
ひとり親と
未婚の子の
世
帯
単独世帯
世
世 帯
3 世
代
その他の
世
帯
世
計
帯
数
1
9
2
6
2
1
1
9
2
0
8
7
構成比率
2
1.
9
2
9.
9
2.
3
1.
1
2
1.
8
2
3.
9
1
0
0.
0
②世帯類型
(単位:世帯、%)
高 齢
世
世 帯
者
その他の
母子世帯
父子世帯
帯
計
世
帯
(再掲)
高齢者の
いる世帯
(再掲)
高齢者の
いない世帯
数
4
1
2
0
4
4
8
7
7
7
1
0
構成比率
4
7.
1
2.
3
0
5
0.
6
1
0
0.
0
8
8.
5
1
1.
5
③人員別世帯数、世帯人員
(単位:世帯、%、人)
1人世帯
2人世帯
3人世帯
4人世帯
5人世帯
6人世帯
7人世帯
数
1
9
2
9
1
3
9
1
1
5
1
8
7
構成比率
2
1.
9
3
3.
4
1
4.
9
1
0.
4
1
2.
6
5.
7
1.
1
1
0
0.
0
1
9
5
8
3
9
3
6
5
5
3
0
7
2
4
4
世 帯
総 人
表−2
員
計
就労状況、生活状態
①世帯主の就労
(単位:世帯、%)
就労あり
就労なし
不
明
計
(農業含む)
世 帯
数
2
7
5
8
2
8
7
構成比率
3
1.
0
6
6.
7
2.
3
1
0
0.
0
②高齢者のいる世帯の年金等受給状況
(単位:世帯、%)
国民年金
厚生年金
共 済 等
重複受給
遺族年金
無 年 金
数
4
2
1
6
3
1
2
1
2
1
7
7
構成比率
5
4.
5
2
0.
8
3.
9
1
5.
6
1.
3
2.
6
1.
3
1
0
0.
0
世 帯
―9
7―
不
明
計
2
0
0
表−3
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
通院等の状況(主として高齢者)
(単位:世帯、%)
泰阜村診療所
村外医療機関
数
2
1
構成比率
2
4.
2
世 帯
表−4
そ
の
他
通 院 な し
計
2
4
1
4
1
8
7
2
7.
6
1.
1
4
7.
1
1
0
0.
0
買い物や通院の際の主な交通手段
(単位:世帯、%)
自家用車
(自分で
運転)
世 帯
自家用車
(家族が
運転)
診療所の
福祉バス
そ の 他
バ イ ク
タクシー
車(送迎)
計
(徒歩等)
数
3
9
2
3
9
6
4
2
4
87
構成比率
4
4.
8
2
6.
4
1
0.
4
6.
9
4.
6
2.
3
4.
6
1
0
0.
0
表−5
近隣との交流(互助活動)の有無
(単位:世帯、%)
あ
り
ときどきあり
ほとんどなし
数
3
8
3
9
7
3
8
7
構成比率
4
3.
7
4
4.
8
8.
0
3.
5
1
0
0.
0
世 帯
表−6
な
し
計
何らかのボランティア活動に携わっているか(過去の経験を含めて)
(単位:世帯、%)
福祉関係の
そ の 他 の
ボランティア
ボランティア
数
3
0
2
1
3
2
4
8
7
構成比率
3
4.
5
2
4.
1
3
6.
8
4.
6
1
0
0.
0
活動経験なし
世 帯
―9
8―
そ
の
他
計
合津・海野・野口
表−7
「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向けた基礎的枠組み定立に関する研究
現在または将来の生活上不安に思うこと
(単位:世帯、%)
世 帯 数
構成比率
自分や配偶者の健康や病気
1
4
1
6.
1
老後の生活(終末期を含めて)をどう過ごすか
8
9.
2
村の少子高齢化や離村する若者の増加
8
9.
2
村の医療供給体制がこのまま続くか
6
6.
9
合併によるサービスの低下・不足
5
5.
7
4.
6
単身生活になり頼れる人がいなくなる
4
生活のために必要な収入
4
4.
6
その他(農作物の被害、緊急時の交通状況など)
1
3
1
4.
9
特に不安に思うことはない
2
5
2
8.
7
8
7
1
0
0.
0
計
表−8
村の在宅福祉施策についてどう思うか
(単位:世帯、%)
世 帯 数
現在の施策に十分満足している、支持する
5
3
構成比率
6
0.
9
現在の施策にほぼ満足している
5
5.
7
現在の施策ではまだ十分ではなくさらなる拡充が必要
4
4.
6
現在の施策には満足していない、改革が必要
5
5.
7
財政面や支出の点でかなり無理がある
6
6.
9
他の施策(児童・障害者等)も充実させるべき
4
4.
6
よくわからない、特に関心がない
7
8.
0
そ
3
3.
5
8
7
1
0
0.
0
の
他
計
表−9
村の自立(自律)は今後も存続できると思うか
(単位:世帯、%)
世 帯 数
難しいと思う(いずれは合併せざるを得ない)
3
7
構成比率
4
2.
5
存続していける(してほしい)と思う
2
8
3
2.
2
よくわからない、特に関心がない
1
3
1
4.
9
そ
の
他
7
8.
0
無
回
答
2
2.
3
8
7
1
0
0.
0
計
―9
9―
2
0
1
2
0
2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
表−1
0 老後の生活をどのようにイメージするか
(単位:世帯、%)
世 帯 数
住み慣れた自宅でできる限り暮らし続けたい
構成比率
4
9
5
6.
4
都市部に転居した子どもの家に行くことになる
9
1
0.
4
施設入所や病院での生活もやむを得ないと思う
7
8.
0
自宅で暮らすか施設に入所するかは家族の考えに任せる
2
2.
3
その時になってみないとわからない、考えていない
6
6.
9
2
2.
3
そ
自宅で暮らすか施設に入所するか迷っている
の
他
1
1
1
2.
6
無
回
答
1
1.
1
8
7
1
0
0.
0
計
表−1
1 村の在宅福祉施策に対して意見を出したことはあるか
(単位:世帯、%)
世 帯 数
構成比率
意見を出したことがある
3
0
3
4.
5
意見を出したことはない
5
7
6
5.
5
無
回
答
計
0
0.
0
8
7
1
0
0.
0
表−1
2 現在の村の在宅福祉施策に対して意見はあるか
(単位:世帯、%)
世 帯 数
構成比率
訴えたい意見がある
2
4
2
7.
6
特別意見はない
6
2
7
1.
3
無
回
答
計
1
1.
1
8
7
1
0
0.
0
※調査集計は海野が担当、表は合津が作成。
―1
0
0―
合津・海野・野口
資料4
「共生型地域福祉」の実践と理論構築に向けた基礎的枠組み定立に関する研究
泰阜村住民ヒアリング調査
調査票
世帯番号
集落名
被調査者の年齢
1.世帯人数
家族の内訳
① 年齢
② 年齢
③ 年齢
④ 年齢
性別
人
性別
性別
性別
性別
2.就労・生活状態
就 労
年 金
子等からの仕送り
男
男
男
男
有
無
国民年金
有
無
女
女
女
女
世帯主との続柄
世帯主との続柄
世帯主との続柄
世帯主との続柄
職種
厚生年金
その他年金・共済等
3.健康状況(通院状況等)
4.買い物や通院の際、主な交通手段は何ですか。(不便さ含む)
5.日々の生活の中で、ご近所との交流はありますか。(互助活動等について)
6.何らかのボランティア活動に携わっていますか。(過去に携わった経験を含めて)
7.現在または将来の生活で不安に思うことは何ですか。
8.泰阜村の在宅福祉を重視する施策についてどう思いますか。(なるべく具体的に)
9.今後も泰阜村は村として存続していけると思いますか。
1
0.老後のイメージとしてどのようなものをお持ちですか。(どこでどのように暮らすか)
1
1.これまでに、村の福祉施策に対して意見を出したことがありますか。
有
無
有の場合、どのような手段・方法で伝えましたか。
1
2.現在の村の福祉施策に対して意見はありますか。
有
無
有の場合、どのような手段・方法で伝えたいと思いますか。
―1
0
1―
男
女
20
3
長野大学紀要
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0
3―1
0
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0
5―2
1
1頁)2
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0
7
シリコンバレーにおける先端産業の発展要因
──A.ザクシニアンの研究──
The Factors of the Industrial Development in Silicon Valley :
On the Research of Annalee Saxenian
京
谷
栄
二*
Eiji Kyotani
かし1980年代におけるこの危機への対応が二つの
はじめに
地域に明瞭な差を生み出した。シリコンバレーの
20世紀的大量生産体制に代わる選択肢が求めら
ハイテク企業は1986年と1990年の間に市場価値を
れる現代に、M.ピオレと C.セイベルは産業発
250億ドル増大させたのにたいして、ルート128の
展にとって地域コミュニティがもつ意味を再発見
企業はわずか1
0億ドル増大させたにすぎなかっ
した(M.Piore and C.Sabel 1984)。彼らは地域産
た。雇用の面では、シリコンバレーが1
975年と
業研究に新しい視角を提供したが、しかし彼ら自
1990年の間に、15万ほどのハイテク関連の新しい
身が特定の地域の産業を詳細に分析したわけでは
職を生み出したのにたいして、ルート1
28のその
なかった。A.ザクシニアンは彼らの分析視角を
数は3分の1ほどにとどまった。シリコンバレー
生かしつつ、20世紀末に世界の先端産業のメッカ
に拠点をもつ企業の1990年のエレクトロニクス製
となったシリコンバレーの産業システムを克明に
品の輸出高は、合衆国全体のほぼ3分の1に当た
分析した。
る110億ドルを超えたのにたいして、ルート128の
ザクシニアンがシリコンバレー研究の第一人者
それは46億ドルにすぎなかった。かくして、1990
としての地位を不動のものとしたのは、合衆国の
年までにルート128は急成長するエレクトロニク
二つの代表的な先端産業の集積地、西海岸カリフ
ス企業の集積地としての地位をシリコンバレーと
ォルニア州・サンフランシスコ湾岸地域のシリコ
テキサスに奪われたのである(Saxenian1994:
ンバレーと東海岸マサチューセッツ州・ボストン
2)。
郊外のルート128を比較した研究 Regional Advan-
ザクシニアンは、シリコンバレーの成功の要因
tage : Culture and Competition in Silicon Valley and
とルート128の停滞の要因を、「地域経済の社会構
Route 128.
1994によってである。彼女はその比較
造と制度」を軸に分析し、シリコンバレーが「地
研究において、ルート128にたいするシリコンバ
域ネットワーク基盤の産業システム」(同上:
レーの成功を明らかにするとともに、その成功の
2)であるのにたいして、ルート1
28は「独立企
要因を解明した。
業基盤の産業システム」
(同上:4)であると規
1970年代に、エレクトロニクスの技術革新にお
定する。前者においては、企業の枠をこえて情報
ける世界の指導者としての地位を獲得した合衆国
が流れ共有されるのにたいして、後者においては
のシリコンバレーとルート128は、1980年代初め
情報は企業秘密として企業の中に閉じ込められ
に国際競争の激化に起因する危機に直面した。し
る。後者は、「安定した市場と緩やかな技術変
*環境ツーリズム学部教授
―1
0
3―
2
0
6
長野大学紀要
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9巻第2号 2
0
0
7
化」の時代に適合する時代遅れのものであり、前
いるという考え方が、この地域の多くの技術者の
者こそが、「急速に変化する市場と技術」に適合
信条となった。」(同上:34)
するシステムであると、ザクシニアンは結論す
る。
このような規範と行動様式をもつ技術者は個々
の企業にたいする帰属意識と忠誠心をもたない。
1.シリコンバレーの地域ネットワークモ
デル
彼らが抱く帰属意識は自らが属する技術者ネット
ワークにたいしてであり、彼らが抱く忠誠心は、
技術革新を推進するという自らの職業(craft)に
シリコンバレーの産業システムを第一に特徴付
たいしてである。また地域の文化も経済的成功よ
けるのは、企業間および技術者間に張り巡らされ
りは、チップの開発や製造技術の開発などの技術
たネットワークの存在とその役割である。企業間
的達成を重んじる特徴がある(同上:38)。
では、機械がこわれたり、材料が不足したりなど
ここに存在する社会的ネットワーク、専門家の
の緊急時に近隣の企業が支援するというインフ
ネットワークは、
「共通の言語をもち、その意味
ォーマルな協力と、クロスライセンス(特許実施
を理解しあう共同体」である。個々の企業ではな
権の相 互 許 諾)
、技 術 供 与、ジ ョ イ ン ト ベ ン チ
くこのネットワークこそが地域の経済活動の核心
ャーなどのフォーマルな協力が行なわれている。
なのである(同上:37)
他方技術者は企業の枠を超えて交流し、競争相
多様な情報が交換され、技術革新と経営革新を
手、顧客、市場、技術などにかんする情報を交換
促進するこのような企業と技術者のネットワーク
しあう。
は、シリコンバレーの産業を多様な構造に進化さ
このようなネットワークの形成に貢献したのが
せる。1970年代の終わりには既に、半導体製造、
マイクロチップの発明家ロバート・ノイス博士が
コンピュータシステム、ソフトウェア、コンピ
1957年に設立したフェアチャイルド・セミコンダ
ュータ関連主要器材および周辺機器、検査・計測
クター社である。この会社で経験と訓練をつんだ
機器、テレコミュニケーション器材、医療電子機
多くの技術者が起業し、擬似家族的な関係で結ば
器、金属加工、機械加工、製造請負企業など多種
れ た 企 業 間 ネ ッ ト ワ ー ク を 形 成 し た(同 上:
類の部門の企業が活躍していた。同時にこの多様
31)。またコンピュータ技術者の交流ネットワー
な産業構造を構成する主要な主体は大企業ではな
クとしては、1973年に設立された the
Homebrew
く小規模企業である。シリコンバレーの70%の企
Computer Club が有名であり、若手のコンピュー
業が従業員規模1
0人未満、85%が100人未満であ
タ愛好者が集まったこのクラブからは、アップル
る。そしてまた多数の小規模企業が織り成すシリ
をはじめ20を超えるコンピュータ企業が誕生し
コンバレーの多様な産業構造、
「破片のような多
た。コンピュータ技術者が頻繁に集い、情報交換
様な産業構造」(industrial fragmentation and diver-
を行なった交流の場としては、マウンテンビュー
sification)が、エレクトロニクス産業分野の起業
市の“ワゴンウィール・パブ”がよく知られてい
をさらに促進する。すなわちこの産業構造は、起
る。
業家たちにとって事業に必要な多様な資源を調達
同時に上記の技術者ネットワークは、転職した
しやすい環境を形成する(同上:43‐44)。
い技術者、自ら起業したい技術者にとっては仕事
シリコンバレーのこのような「地域ネットワー
と事業にかんする重要な情報源として機能する。
ク基盤の産業システム」が、絶えざる技術革新と
シリコンバレーの技術者の間では転職(job hop-
その普及を促し、ルート1
28にたいする優位を形
ping)が盛んで、一社に勤続するのはせいぜ い
成した。
2、3年であり、定着ではなく移動が、あるいは
起業(start-up)が規範となっている。
「シリコン
2.ルート1
2
8の独立企業モデル
バレーで好まれるキャリア選択は、大企業に入る
ザクシニアンは、シリコンバレーの「地域ネッ
ことではなく、小企業に入るか起業することであ
トワーク基盤の産業システム」にたいして、ボス
る。小規模な革新的企業の方が大企業より優って
トン郊外のルート1
28地域は「独立企業基盤の産
―1
0
4―
京谷栄二
シリコンバレーにおける先端産業の発展要因
業システム」であると規定する。
2
0
7
いた。
この地域が属するニューイングランドの17世紀
人材を外部労働市場から調達し、多様な構造を
に由来する保守的な清教徒文化のもとでは、個人
もつ地域の産業から資源を調達し、情報を外部の
のアイデンティティは家族と出身階級によって形
ネットワークから調達するシリコンバレーの企業
成され、そして家族と近隣コミュニティへの紐帯
と異なり、ルート1
28の企業のモデルは、すべて
が重視される。このような社会的属性を重視する
の経営資源を内部で調達する自給自足型の企業
文化のもとでは、その属性をこえたネットワーク
(the self sufficient firm)である。例えば、コンピ
は 形 成 さ れ に く い。ま た、自 立 と 自 省(self-
ュータを自ら設計しソフトウェアを開発し、ほと
reliance and self-reflection)を尊び、他者へ頼るこ
んどの部品と周辺機器を内製し、最終組み立ても
とを潔しとしない清教徒の伝統もネットワーク形
行なうような企業である(同上:69‐72)。
成の障害となる。この文化的背景のもとでは、シ
シリコンバレーの「地域ネットワーク基盤の産
リコンバレーにみられるような、企業の枠をこ
業システム」にたいしてルート1
28の「独立企業
え、仕事と私生活の区分をこえ、経営者や技術者
基盤の産業システム」では、企業の枠を超えて、
が支援しあうネットワークは形成されにくい。こ
経営者や技術者の間で情報が行き交うネットワー
こでは経営者や技術者のライフスタイルは、仕事
クが存在せず、多様な人材を供給する外部労働市
が終わると家庭に帰ってすごすという「非常に伝
場が発達せず、起業が生む多様な産業構造も欠如
統的な郊外型の専門職者のライフスタイル」
(同
していた。このような産業システムは、技術革新
上:61)であり、シリコンバレーの“ワゴ ン ウ
と経営革新の推進と普及の障害となり、20世紀末
ィール・パブ”に集まったような技術者の交流は
から2
1世紀にかけて、IT 企業の経営環境がめま
生まれない。
ぐるしく変化する時代に適合性を失ったのであ
保守的な文化の伝統は、労働市場の構造と経営
の様式をも規定する。「ルート128では安定と企業
忠誠心が実験やリスクをおかすことより尊ばれ
る。
3.地域文化の違い
企業の枠をこえたネットワークが発達したシリ
る。」(同上:62)ここでの理想的なキャリアパス
は大企業内部での昇進であり、転職する場合で
コンバレーと閉鎖的な独立企業が発達したルート
も、他の大企業への移動であり、小企業や新興企
128の相違には、両地域の文化的特性が深く関係
業への移動はほとんどみられない。このように内
している。俗に、「普段着文化のカリフォルニ
部労働市場が重視される結果、シリコンバレーと
ア」(“laid back” California)と「正装文化の東海
違って、外部労働市場は発達しなかったし、起業
岸」(“buttoned up” East Coast)と対比されるが、
もずっと少数であった。すなわち、ルート1
28で
私見によれば両地域の異なる文化特性の形成に果
は技術革新を促すこれらの重要な要因が欠如して
たした人種構成の役割が重要である。表1にみら
表1
白人
(その内ヒスパニック*)
黒人
アメリカインディアン
アジア系
ハワイ・太平洋諸島系
2以上の人種
人種構成の相違
(2
0
0
5年)
カリフォルニア
マサチューセッツ
7
7.
0%
(3
5.
2)
6.
7
1.
2
1
2.
2
0.
4
2.
4
8
6.
7%
( 7.
9)
6.
9
0.
3
4.
7
0.
1
1.
3
U.S. Census Bureau “State & County Quick Facts”
http : //quickfacts.census.gov/gfd/states/
*
ヒスパニック系はスペイン・ラテンアメリカ出身を指す
―1
0
5―
合衆国全体
8
0.
2%
(1
4.
4)
1
2.
8
1.
0
4.
3
0.
2
1.
5
2
0
8
長野大学紀要
第2
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0
0
7
れるようにカリフォルニア州に比べて、ルート
職業構成を示した表2によれば、インド系、中国
128が位置するマサチューセッツ州は非ヒスパニ
系は白人に比して、専門職が多く、経営管理職が
ック系の白人が主流の、人種的多様性がより少な
少ない。またそれぞれの人種内での構成をみる
い社会である。白人主流の社会が保守的な清教徒
と、専門知識と高度な熟練を要する経営管理職・
文化を維持し、他方で、人種の混交が進んだカリ
専門職・技術職の従事者が、それらをあまり必要
フォルニアが開放的で多様な文化を発達させ、そ
としない半熟練職従事者にたいして圧倒的に多い
の地域文化を基盤に企業の枠に囚われないネット
ことがわかる。このように多くのアジア系移民
ワークが発展したと考えられる。
が、伝統的な低熟練労働力ではなく、高度な専門
カリフォルニアの人種と文化の多様性が、シリ
職者として活躍している背景には、彼らの学歴の
コンバレーの先端産業の発達にどのように貢献し
高さが関係する。シリコンバレーのハイテク産業
たのか、シリコンバレーのアジア系の経営者と技
で働く人々の学歴を人種別にみると、修士号もし
術者を調査したザクシニアンのもう一つの研究を
くは博士号取得者の比率が白人で1
8%にたいし
検討しよう。
て、インド系で55%、中国系で40%ときわめて高
い(Saxenian1999:17)。
4.
「新しいアジア系移民」の役割
アジア系経営者の比重を調べると、インド系、
ザクシニアンは Silicon Valley’s New Immigrant
中国系の CEO が経営する企業がそれぞれ774社、
Entrepreneurs.
1999において、「新しいアジア系移
2,
001社である。これはシリコンバレーのハイテ
民」の役割を分析している。ここでいう「新し
ク企業総数の24%に当たり、市場では全体の販売
い」とは、19世紀中葉以降つづいたアジア諸国か
額の17%、雇用では1
4%を占める(1
998年)。シ
らの移民、鉄道建設や農業労働などに従事した低
リコンバレーのハイテク産業におけるアジア系移
熟練労働力としての移民ではなく、エレクトロニ
民の活躍は、起業の多さによっても示される。イ
クス産業の経営者や技術者などの「専門的職業」
ンド系、中国系の起業家は年々増大しており、
に従事する「高熟練労働力」としてのアジア系移
1995年から98年にかけてシリコンバレーのハイテ
民を意味する。
ク産業で起業した4,
063社の内、インド系が3
85
シリコンバレーのハイテク産業に従事する科学
者と技術者の内、合衆国出身者が68%、合衆国以
社、9%、中国系が8
09社、20%と両者あわせて
30%余を占める(同上:23‐24)。
外の出身者が32%、その内21%がアジア諸国の出
このようにアジア系移民はシリコンバレーのハ
身であり、さらにアジア諸国の内中国出身とイン
イテク産業の発展を支える重要な主体となってい
ド出身がそれぞれ51%と23%を占める。人種別の
る。
表2
シリコンバレーのハイテク産業における人種別職業構成(19
9
0年)
インド系
中国系
白人
実数
%
実数
%
実数
%
経営管理職
専門職
技術職
半熟練職
1,
8
1
0
3,
2
4
9
8
1
8
1,
4
1
8
2
4
4
5
1
1
1
9
4,
9
4
6
7,
8
3
4
3,
0
2
7
1,
8
6
0
2
6
4
1
1
6
1
8
8
8,
3
2
8
5
0,
9
7
7
2
3,
9
9
9
3
8,
8
6
5
4
6
2
7
1
3
1
5
計
7,
2
9
5
1
0
0
1
9,
2
1
8
1
0
0
1
9
1,
2
1
7
1
0
0
資料出所:U.S. census1
9
9
0PUMS
概数のため計が1
0
0にならない場合がある。
注:Saxenian 1
9
9
9,p1
8,Table 2.
5より作成。ただしその表の“managerial”と“administrative”の違いが明確でないため両者をあわせて「経営
管理職」とした。
―1
0
6―
京谷栄二
シリコンバレーにおける先端産業の発展要因
さて、移民がその国で生活するために、民族同
士でネットワークを形成して助け合う民族戦略
2
0
9
ラの全体を強化する役割を果たしていると結論す
る。
(ethnic strategy)を展開することはよく知られて
筆者自身この結論に同意するが、しかし2000年
いる。シリコンバレーにおける「ハイテク移民労
代に入り、IT バブル経済が崩壊して以降、シリ
働者」もこの戦略を踏襲し、地域内のみならず、
コンバレーのハイテク産業の衰退が急速に進んで
太平洋を越えて出身地の本国との間にネットワー
いる。京谷2
005で示唆したように、この一因は
クを張り巡らしている。インド系、中国系の経営
アジア系移民のグローバルネットワークをとおし
者と技術者が結成したネットワークをいくつか紹
てシリコンバレーのハイテク産業の仕事がアジア
介しよう。インド系では、Silicon Valley Indian
の IT 新興地域にオフショアされていることにあ
Association(設 立 年1991/会 員 数
る。いわば、ザクシニアンの研究が解明した事態
Professional
1,
000──以下同)、The Indus Entrepreneur(1992
/560)、中国系では Chinese Institute of Engineers
(1979/1,
000)、Asian American Manufacturers
Association(1980/700)、North America Taiwan-
は、その後皮肉な展開を示したのである1)。
5.シリコンバレー研究と坂城町研究との
比較
Association(1991/400)、North
冒頭でも紹介したが、大量生産体制のもとで硬
America Chinese Semiconductor Association(1996
直した専門化にかわる「柔軟な専門化」を提唱し
/600)など多数に上る(同上:29‐30)。
たピオレとセイベルの理論は、日本の産業地域の
ese
Engineers
これらのネットワークをとおして、労働市場、
研究にも影響を及ぼした。MIT の大学院でセイ
就職、技術、資材、成功モデルなどさまざまなビ
ベルの指導を受けた D.フリードマンは、中小企
ジネス情報が構成員の間で共有されるのみなら
業の競争力に焦点を当てて日本の高度経済成長の
ず、ベンチャーキャピトルとは違った投資家が紹
要因を分析した The Misunderstood Miracle.
1988を
介されたり、投資を受けるための信用が提供され
著し、そのなかで小企業の柔軟な生産戦略が地域
たりもする。さらにそのネットワークは本国との
産業の発展をもたらした事例として長野県坂城町
架け橋にもなる。アジア系移民の経営者は、言語
を取り上げた。筆者自身長期にわたり坂城町の製
能力、文化理解、人脈などにおいて、本国の市場
造業の調査を実施し、フリードマンの研究の誤謬
と取引する上で他のハイテク企業経営者より競走
や欠点──彼が無視した低賃金と長時間労働の実
上優位に立つ。本国とシリコンバレーとの間で、
態、地域の企業家の交流を支える社会学的基盤な
資本と熟練と技術の流れを促進する彼らの活動を
ど──を明らかにするとともに、IT 技術革新と
とおして、両地域の間で「双方向的な地域産業の
グローバリズムが急速に展開する21世紀初頭の坂
発展」(reciprocal regional industrialization)が起こ
城町の現状を分析してきた2)。
る(同上:56)。具体的には台湾では新竹との間
最後に、ザクシニアンのシリコンバレー研究と
で、インドではバンガロールとハイデラバードと
筆者の坂城研究とを比較して、両地域の産業コミ
シリコンバレーの間でこのような展開が進んでい
ュニティの相違と類似を確認しておく。
る。したがってザクシニアンは、アジア諸国から
第一にシリコンバレーと坂城町が依拠する産業
アメリカ合衆国への専門職者の移民は、従来問題
分野の違いである。前者はエレクトロニクスの先
視された「頭脳流出」(“brain drain”)ではなく、
端技術にもとづく産業であるのにたいして、後者
「頭脳還流」(“brain circulation”)を促進している
は機械部品の切削加工を中心とした機械分野の伝
と主張する(同上:vi)。
統的な技術にもとづく金属機械産業である。当然
ザクシニアンは以上の分析をとおして、シリコ
に両者では依拠する技術段階が異なる。
ンバレーのハイテク産業に今や欠くことのできな
第二に地域の産業コミュニティを形成する主体
い位置を占め、アジアのハイテク産業地域との双
の相違である。シリコンバレーでは高学歴(大学
方向的な経済活動を展開するアジア系移民の経営
卒業、大学院修了)の技術者、もしくは技術者出
者と技術者は、カリフォルニア州の経済的インフ
身の起業家がネットワークをとおして交流し、
―1
0
7―
2
1
0
長野大学紀要
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0
7
「技術者共同体」(a technical community)を形成
ネットワークはシリコンバレーと同様に、技術や
していた。これにたいして坂城町では小企業経営
市場に関する情報交換の場として機能している。
者の間にネットワークが形成されているのだが、
ただし、坂城町の企業間のフォーマルな関係につ
その多くは高卒であり、彼ら自身が以前は他社の
いては、シリコンバレーとは異なり企業自体では
工場で労働していた熟練労働者である。したがっ
なく、自治体(町)
、および商工会、財団法人さ
て筆者は仮にこの産業共同体を「熟練職共同体」
かきテクノセンター、坂城テクノハート共同組合
(a craft community)と名づける。
などの公的団体が主要な役割を果たしている。自
第三に、上の主体の相違は両者が従事する労働
治体とこれらの団体が企業のために、資金面での
の質的相違と密着している。シリコンバレーの技
支援、技術支援、共同事業の推進などを行なって
術者の労働はエレクトロニクスの高度な専門的・
きた。1980年代初めにこの町の小企業の間で、他
科学的知識にもとづく労働である。坂城町の小企
の地域にさきがけて NC、MC などのコンピュー
業経営者は、自ら起業する前に、坂城町や近隣の
タ制御機械の導入が進み、地方の小さな町の名を
長野県東信地域の企業、あるいは京浜工業地帯の
全国に轟かせたのも、坂城町の企業間のこのよう
企業などで金属製品の切削加工に必要な技術と熟
なフォーマル・インフォーマルなネットワークが
練を修得している。すなわち彼らの労働は経験を
功を奏した結果である4)5)。
とおして蓄積される熟練にもとづく労働である。
ここで小企業経営者の「労働」と表現すると首を
註
かしげる読者がいるかもしれないが、坂城町の小
1)ザクシニアンの研究にもとづき、シリコンバレー
企業経営者はみずから機械を操作して製品加工を
の労働市場を研究した A. Hyde2
0
0
3、ヴェンチャー
行なう直接労働に従事するし、その操作方法や加
・キャピタルなどを分析した M. Kenney2
0
0
0も参照
工方法を従業員に教育もする。実質的には彼らは
自らが経営する工場の労働者の中心となって労働
されたい。
2)著者の坂城町の地域と産業にかんする研究につい
する、いわば、経営者であると同時に労働者であ
て は、京 谷1
9
9
7、2
0
0
0お よ び Kyotani1
9
9
6、2
0
0
1を
る3)。あるいは分業に着目すれば、このような小
参照されたい。
企業においては、企業の経営管理を行なう経営者
3)坂城町のみならず他の地域の小企業を調査して
の役割と、直接生産過程を担う労働者の役割とが
も、社内では自らが技術開発や商品開発の先頭に立
明確に分離されていないともいえよう。
ち、また社外では営業に出向いて市場情報を収集す
第四に、上の相違にかかわらず企業間ネット
るような一人何役もこなし活躍する経営者に出会
ワークのあり様と機能は類似している。まず、企
う。著者はこのような経営者を「率先垂範型」の経
業間ネットワークの形成にシリコンバレーの老舗
営者と呼んでいる。
半導体企業フェアチャイルド社が果たしたのと同
4)坂城町の小企業経営者相互のネットワークを形成
様の役割を、坂城町でも太平洋戦争時に東京から
する社会的要因は、近隣における地縁関係、学校の
疎開してきた企業、戦後すぐに地元出身者が設立
同窓生の関係、起業のために同じ職場で苦労したも
した企業などの老舗企業が果たした。具体的に
の同士の関係などのインファールな社会的関係であ
は、宮野鉄工所、長野大崎製作所、中島オールプ
る。また坂城町のみならず長野県東部では、伝統的
リシジョン、柳沢精機製作所、日精樹脂工業など
な庶民金融の集まりであった「無尽講」が、今日で
の地元老舗企業の従業員が、高度経済成長期の
は形を変えて、交際を継続させる方法として存続し
196
0年代から70年代半ばにかけて次々と独立開業
ている。上記のネットワークの形成にはこのような
しこの地に起業ブームが起こり、これらの出自を
地域の生活文化も寄与している。詳しくは京谷1
9
9
7
ともにする小企業同士の間でネットワークが形成
を参照されたい。
された(坂城町・坂城町商工会『テクノハートさ
5)坂城町でもいくつかの企業(地元では比較的規模
か き──坂 城 町 工 業 発 達 史──』1988:330‐
の大きい企業)で、日系ブラジル人と中国人研修生
333)。そして坂城町の企業間のインフォーマルな
が労働力として活用されているが、彼らはあまり熟
―1
0
8―
京谷栄二
シリコンバレーにおける先端産業の発展要因
2
1
1
練を必要としない労働に低賃金で従事している。本
ジネス・タウン長野県坂城町──」
、社会政策学会編
文において取り上げたシリコンバレーの「新しい移
『社会政策学会誌
民労働者」に比べれば、「伝統的な移民労働者」のあ
り方に近い。敷衍すれば、日本の産業構造全体が、
社会構造の変動と労働
問題』ミネルヴァ書房、2
0
0
0年.
────「IT バブル崩壊後のシリコンバレー」
、長野大
海外からの労働力が主要な主体として活躍するシリ
コンバレーとは異なり、それを周辺的な労働力とし
第4号
学『長野大学紀要』第2
7巻第2号、2
0
0
5年.
Kyotani, Eiji. “Sociological Foundations of Inter-Firm Coop-
てしか位置づけていない。
eration : the Case of Sakaki, a Manufacturing Town in Japan.” Presented at the 1
4th International Labour Process
文献
Conference, Aston University, Birmingham, U.K., March
Friedman, David. The Misunderstood Miracle, Ithaca and
2
7
‐
2
9,1
9
9
6.
London : Cornell University Press,1
9
8
8(
.丸山惠也監
────. “For the Resurgence of Small Firms in Sakaki, a
訳『誤解された日本の奇跡』ミネルヴァ書房、1
9
9
2
Venture Business Town in a Rural Area of Japan.” Pre-
年.
)
sented at the1
9th International Labour Process Conference,
Royal Holloway, University of London, Egham Surrey, U.
Hyde, Alan. Working in Silicon Valley, New York & Lon-
K., March2
6
‐
2
8,2
0
0
1.
don : M.E. Sharpe,2
0
0
3.
Kenney, Martin. ed. Understanding Silicon Valley, Palo
Piore, Michael and Sabel, Charles, The Second Industrial Di-
Alto : Stanford University Press,2
0
0
0(加藤敏春監訳
vide, New York : Basic Books, Inc.
,1
9
8
4.
(山之内靖
『シリコンバレーは死 ん だ か』日 本 経 済 評 論 社、
他訳『第二の産業分水嶺』筑摩書房、1
9
9
3年.
)
2
0
0
2年)
Saxenian, Annalee. Regional Advantage, Cambridge and
London : Harvard Universtiy Press,1
9
9
4.
京谷栄二「現代資本主義の変容と地域社会──坂城町
モデルの社会学的分析──」
、長野大学『長野大学紀
────. Silicon Valley’s New Immigrant Entrepreneurs,
要』第1
8巻第4号、1
9
9
7年.
San Francisco : Public Policy Institute of California,
────「転換期の地域と企業──ヴェンチャー・ビ
1
9
9
9.
―1
0
9―
長野大学紀要
第2
9巻第2号 1
1
1―1
1
6頁(2
1
3―2
1
8頁)2
0
0
7
東京都における市場化テストの歴史的位置とその論点
Public Manegement Reform and Market Testing in Tokyo :
historical perspective
久保木
匡
介*
KUBOKI Kyousuke
を梃子として、NPM が公共サービス領域におけ
目 次
はじめに
1
る普遍的なシステムとして機能する段階に入った
報告の課題
ことを検証する。
小泉政権における公共サービスの民間開放
と市場化テスト
2
ている公共サービスの質の劣化、公共性の喪失、
石原都政における構造改革の進行
公務労働者の労働条件の劣悪化に対するオルタナ
3 2005年東京都「行財政改革指針」と市場化
テスト
4
3)公共サービスの民間開放政策から現実に生じ
ティブとして、TUPE の仕組みづくりと入 札 改
革、公契約条例の導入の意義について簡単に検討
市場化テストの論点―公共性と公務労働、
TUPE、入札改革
する。
1 小泉政権における公共サービスの民間
開放と市場化テスト
はじめに 報告の課題
1−)
本報告の課題は次の点にまとめられる。
構造改革路線と NPM
1)小泉政権による構造改革路線は、公共サービ
2001(平成13)年に発足した小泉政権は、
「構
スの領域においてはニュー・パブリック・マネジ
造改革」のスローガンのもと、NPM 型の行財政
メント(New Public Management、以下 NPM)と
改革を本格化させた。まず、2001年の経済財政諮
総称される行政改革の理念・運動として現れた
問会議「基本方針」において、NPM がはじめて
が、一連の NPM 改革の中で市場化テストはどの
中央政府の文書に登場し、事実上行政改革の方針
ような役割を果たすのかを明らかにすることであ
として位置づけられた。
る。
同方針は、
「政策プロセスの改革」として新し
2)東京都は1999年の石原都政の成立以来、国に
い 行 政 手 法=NPM の 導 入 を 奨 励 し た。そ こ で
先駆けて公共サービス領域における NPM 改革を
は、「国民は、納税者として公共サービスの費用
進め、地方自治体における構造改革の先導的な地
を負担しており、公共サービスを提供する行政に
位を築いてきたが、その中で市場化テストがどの
とって国民はいわば顧客である。国民は納税の対
ように具体化されてきているのかを明らかにする
価として最も価値のある公共サービスを受ける権
ことである。これによって、地方自治体において
利を有し、行政は顧客である国民の満足度の最大
もマネジメント・サイクルと市場化テストの導入
化を追求する必要がある。
」として、顧客志向の
*環境ツーリズム学部講師
―1
1
1―
2
1
4
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
行政の重要性が説かれている。同方針では「競争
1−+
NPM 改革における市場化テストの位置
原理の導入」、「業績/成果による評価」、「企画立
以上のような個々の「官製市場の開放」政策の
案と実施の分離」という理念のもと、さまざまな
「限界」を突破するものとして提起されたのが市
形で公共サービスに企業経営方式、あるいは民間
場化テストである。市場化テストとは、従来行政
企業そのものを導入することを推奨したのであ
機関の仕事とされてきた業務に民間との入札を導
る。
入し、競争原理の中でより効率的なサービスを提
これを機に、小泉政権は NPM 型行政改革の導
供できるようにする仕組みである。そして従来の
入をさまざまな形で推進した。小泉政権における
規制緩和・民間開放の手法に比して重要なのは、
NPM 改革の特徴は、第一に、財界が求める「官
この市場化テストが「すべての官業を対象とし
製市場の開放」路線を具体化する中で、次々と新
て」「横断的に」行われるものとして提起されて
しい改革手法を導入したこと、第二に、中央政府
いることである。
のみならず地方自治体が改革の対象とされ、地方
指定管理者制度を含む一連の公共サービスの市
自治体の NPM 改革が「地方分権」改革と密接に
場開放政策は、総合規制改革会議および規制改革
連関しながら進行したこと、である。
・民間開放推進会議の求める市場開放の規模とス
そのねらいは、規制改革・民間開放推進会議の
ピードからすれば、物足りないものであった。た
言葉を使えば、「官製市場の開放による『民主導
とえば指定管理者制度の場合、個別の「公物管理
の経済 社 会 の 実 現』
」で あ り、従 来 行 政 機 関 が
法」との法的整理が行われていないため、すべて
担ってきたサービスを大胆に市場開放することに
の地方公共団体の施設について管理・運営を行う
よって、一方では財政の効率化および「選択と集
ことができるわけではない。また構造改革特区制
中」を行い、他方では民間企業にビジネスチャン
度の場合、特定の地域における特例制度に止まっ
スを拡大することにある。
ており、認定申請は地方公共団体のみで、民間が
直接行うことができない。このような個々の市場
1−*
地方自治体における NPM 改革
開放政策の抱える限界を突破し、より横断的な
小泉政権の NPM 改革は、中央省庁のサービス
や機構だけでなく、地方自治体の組織やサービス
「官業の市場開放」政策として提起されたのが市
場化テストであった。
をも、その大きな対象とした。
市場化テストは、2003(平成15)年の総合規制
その具体的な手法は、すでに1999年に導入され
改革会議による「規制改革に関する第3次答申」
た PFI 制 度 に 加 え、構 造 改 革 特 区 制 度(2
002
およびそれを受けて閣議決定された「規制改革推
年)、指定管理者制度(2003年)、地方独立行政法
進三カ年計画」によって、その導入が本格的に検
人 制 度 な ど が あ る。特 に、小 泉 政 権 の 自 治 体
討・準備されることとなった。2004(平成16)年
NPM 改革でもっとも大規模に行われたものとし
に発足した規制改革・民間開放推進会議は、教育
て、自治体が保有・管理する公の施設の管理運営
・福祉・医療の各分野における「官製市場」の民
を民間事業者に幅広く開放する指定管理者制度の
間開放推進に精力を傾けると同時に、市場化テス
導入が挙げられる。2003(平成15)年、地方自治
トについても各省庁に対して対象事業の洗い出し
法の244条「公の施設の管理」の改正により、従
を強力に迫った。これにより市場化テストは2005
来の「管理委託制度」では公益法人等しか担うこ
(平成17)年度からいくつかのパイロット事業に
とのできなかった公の施設の管理運営が、民間の
おいてその導入が開始され、2006(平成18)年5
事業者に広く開放されることとなった。指定管理
月の通常国会において「公共サービス効率化法
者制度の導入は、自治体の担う公共サービスの管
(正式名称「競争の導入による公共サービスの改
理を、民間事業者による「経営」に置換する点、
革に関する法律」)」としてついに法制化されたの
公共サービスが一種の市場として民間事業者に開
である。
放される点において、NPM 的であるといえる。
同時に、この市場化テストでは、地方自治体ま
でが伝統的な「官」のシステムの一部として認識
―1
1
2―
久保木匡介
東京都における市場化テストの歴史的位置とその論点
され、その業務の市場開放が求められた。
革の方向性」
、「第2
すなわち、「公共サービス効率化法」は、地方
治論∼」
「第3
自治体について以下のような内容を含んでいた。
2
1
5
自治制度の改革∼東京発自
行財政システムの改革」
、「第4
今後の改革の進め方」である。
第一に、特定公共サービスと呼ばれる各事務事業
(職業紹介事業、国民年金保険料徴収業務、戸籍
2−*
等の登録証明事務の各事務事業)について、自治
体が市場化テスト=官民競争入札の実施を判断す
都政の構造改革と市場化テスト
以下では、「第3
行財政システムの改革」で
具体的に提起されている内容を検討する。
る こ と(32−34条)。ひ と た び 国 が「特 定 公 共
「1
原点に立ち返り官民の役割分担を見直
サービス」に選定すれば、自治体は競争入札の導
す」の冒頭では、可能な限りありとあらゆる行政
入をはじめ、
「民間事業者の創意と工夫を反映」
サービスを「民間開放」する方針が描かれてい
することが求められる(第5条)。第二に、この
る。特に、本来「行政が責任を負うべき事業」や
市場化テスト導入の判断と共に、各自治体は「公
「行政の責任で実施すべき事業」、つまり公権力
共サービス全般の不断の見直し」
(3条1)をせ
の行使、安全性や中立性が求められる事務、さら
まられ、「必要ないものは廃止」(同2)すること
には政策立案に関する事務にいたるまで、徹底し
も検討するとされていること、である。
て民間開放の対象にしていくことが強調されてい
2 石原都政における構造改革の進行と市
場化テスト
2−)
石原都政の構造改革路線
る。
これは単に行政機構のスリム化・効率化を
実現するためだけではなく、
「新たなビジネスチ
ャンスを創出し、民間市場の活性化を促してい
く」(42ページ)ために行われるものである。こ
東京都では、青島都政後半から1999年以降の石
こに小泉政権の民間開放路線をリードしてきた財
原都政にかけて、グローバル・シティにふさわし
界の行政改革論議と同様のものであり、そのため
い東京づくりの一環として様々な行政改革が取り
に利用できる国の制度はすべて活用していくとい
組まれた。それらに共通する特徴は、1)戦略機
うのが、「指針」の立場である。
能の強化や行政評価、マネジメント・サイクルの
以上のような「官民の役割分担の見なおし」=
導入といった都行政と都庁の企業経営化、2)グ
「行政の民間開放」を進めていくために、東京都
ローバリズムのもたらす国際競争に勝ち抜くべ
が最重要視しているのが「東京都版市場化テス
く、都の有する行財政資源の選択と集中をおこな
ト」の導入である。
うこと、3)都の行う公共サービスに市場競争の
まず「指針」では、
「18年度に、官民が競い合
原理を導入し、公民の役割分担の見直しと公共
い「東京都版市場化テスト」のモデル事業を選定
サービスの効率化を行い、他方では民間のビジネ
し、早期に実施する」(42ページ)としている。
スチャンスを拡大すること、などである。
重要なことは、東京都が国の市場化テストの基
東京都が2005年11月に発表した「行財政改革の
本理念を踏まえながら、独自に市場化テストの事
新たな指針」は、第二期石原都政にあって全面展
業選定を行おうとしていることである。
「指針」
開を遂げた NPM 改革を、文字通り公共サービス
は次のように述べる。
の隅々にまで行き渡らせることによってこれを
「職業訓練分野など、法令などにより民間開放が
「完成」させるものである。同時に、その第2章
困難とされてきた事業に関し、直営と民間委託の
では、都区制度改革論議や地方制度調査会がうち
比較検討を行い、18年度中に官民の競い合いの実
だした道州制論議をにらんだ自治制度改革が提案
現方法を工夫して「東京版市場化テスト」のモデ
されており、現在の自治体行政の「構造改革」を
ル事業を選定し、早期に実施する。」
提起すると同時に、自治の枠組みそのものの改編
「また、速やかな制度導入を図るため、モデル事
を提起するものとなっている。
業と平行して18年度に市場化テスト対象事業の洗
「指針」は以下のような四部構成となってい
る。すなわち、
「第1
い出しを行う。」(42ページ)
時代変革の潮流と都政改
―1
1
3―
国の「公共サービス改革法」では、地方公共団
2
1
6
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
体における市場化テストの導入について、その対
着手されている。
象を「特定公共サービス」に限定している。この
第一に、戦略経営部門の確立・強化として、知
「特定公共サービス」とは、戸籍法、地方税法、
事本局を中心としたトップ・マネジメント部門の
外国人登録法、住民基本台帳法等の各種証明書等
構築と強化が行われている。つまり、東京都が有
の交付請求の受付と引渡しの6業務である。これ
する行政組織や公共施設、財政、ヒト、情報と
に対し、東京都「指針」では、職業訓練分野など
いった行財政資源の配分や運用は、知事本局・総
「公共サービス改革法」が直接には想定していな
務局・財務局の三者が戦略的な観点から一括して
い事業も含めて、新たな市場化テストのモデル事
行うということである。この「戦略経営」の中心
業を選定し、独自の市場化テストを展開すること
となるのが、知事本局である。
を企図しているのである。
第二に、組織、人事、予算などの「分権」化で
以上のような「東京版市場化テスト」に加え、
ある。NPN 型行政改革では、以上のようなトッ
2005年「指針」では、指定管理者制度の活用を始
プダウンのマネジメント体制を確立しながら、組
め、様々な手法を用いて行政の民間開放の推進を
織の中・下級単位に対して一定の権限を委譲する
すすめることを掲げた。特に指定管理者制度につ
組織改革が行われるのが一般的である。この「分
いては、「公の施設の管理について、法令により
権」化は、各部局ごとの予算シーリング枠の設定
直営が義務付けられている施設を除き、1
9年度か
と、各部局ごとに人件費や経費削減分を事業費や
ら直営施設にも指定管理者制度の活用を図ってい
翌年度予算に計上できる「インセンティブ」の付
く」(43ページ)として、従来管理委託制度の下
与によって、戦略経営部門が各部局をコントロー
で運営されていた公の施設に加え、現在東京都の
ルする仕組みが担保されている。
直営で運営している公の施設についても、指定管
理者制度を導入することが示されている。
第三に、行政評価を通じた PDCA サイクルの
確立である。「指針」では、「新たな公会計制度の
導入にともない、事務事業評価制度や事業別バラ
2−+
PDCA サイクルの確立と市場化テスト
05年「指針」では、「2
ンスシートなどを活用した事後検証の仕組みを充
新たな都庁マネジメ
実させ、予算・計画などにおける PDCA サイク
ントを構築する」(47ページ以下)において、個
ルの機能を強化する」としている。
「行政評価」
別サービスを統括する行政組織そのものを企業経
を用いた PDCA サイクルとは、知事本局という
営のスタイルに転換させることを重視している。
戦略経営部門によるコントロールのサイクルに他
これによって都庁は、グローバリゼーションに対
ならない。
応した国際競争力を確保するために行財政資源の
以上のようなマネジメント・サイクルの中で、
「選択と集中」を行う「戦略経営本部」にその性
東京都の公共サービスは絶えず見直されることに
格を転換するものと考えられる。
なるが、市場化テストはこの「内部の」マネジメ
05年3月の総務省「地方行革指針」では、「行
ント・サイクルを、個々のサービス分野に関わる
政ニーズへの迅速かつ的確な対応を可能にする組
市場競争を通じた「外部の」マネジメント・サイ
織」づくりを各自治体に求めている。ここでは、
クルで補完することとなる。総じて、東京都の05
「住民ニーズへの的確な対応」と「スピーディー
年「指針」は、行政評価を中心とした新たなマネ
な意思決定・対応」が重視され、その観点から組
ジメント・サイクルを通じて、
「戦略経営本部」
織編制のフラット化、柔軟化が提起される一方、
としての知事部局によるコントロールを強化する
政 策・施 策・事 務 事 業 に 対 し て PDCA(Plan
とともに、その過程で都の行う公共サービスの見
Check Action Do)サイクルにもとづく見なおし体
直しを絶えず行い、市場化テストを中心とした民
制の確立が推奨されている。
間開放の手法によって都のサービスの「選択と集
このような国の行革指針と軌を一にして、東京
中」を進めていくことを提起していると考えられ
都におけるマネジメント・サイクルの導入は行わ
る。これは NPM 改革が従来の官僚システムを
れようとしている。具体的には、以下の取組みが
「破壊する」運動から、より普遍的な行政のシス
―1
1
4―
久保木匡介
東京都における市場化テストの歴史的位置とその論点
2
1
7
テムとして定着する段階に入っているのではない
た LEC 大学における専任教員配置不備の問題/
かと考えられる。
建築基準法の確認審査機関の民営化と耐震偽装事
件における同機関の機能不全/公立保育所の民営
2−,
東京都市場化テストの現状
化と職員の大量退職問題など)
。市場化テストを
東京都は2006年(平成18年)度には、市場化テ
含め、公共サービスを民間開放する場合に、
「丸
ストのモデル事業として、都立職業能力開発セン
投げ」でない公共性確保の具体的なあり方につい
ター(旧都立技術専門校)の公共職業訓練業務に
て、制度化を含めた検討が求められている。
ついて「官民競争入札」を実施した。入札方法は
第二に、公共サービスに従事する労働者の雇用
法律に定めのあるとおり、総合評価一般競争入札
や労働条件をいかに確保するのかという問題であ
方式で行われ、対象科目ごとに民間事業者と東京
る。市場化テストが実施された結果、民間事業者
都対象業務所管部署(産業労働局雇用就業部及び
が従来の行政サービスを実施することになれば、
各技術専門校)の提案内容を比較して、
「質と価
当該業務に従事していた国家公務員・地方公務員
格を総合的に評価し、最も有利な提案をした者を
は、①分限免職されるか、②配置転換による業務
選定」(東 京 都 ホ ー ム ペ ー ジ)し た と さ れ て い
変更か、③退職後に当該サービスを引き継ぐ民間
る。落札した民間事業者は
事業者に再雇用されるか、のいずれかになる。配
平成19年4月から事
業を開始している。
置転換による雇用の継続については、
「市場化テ
さらに2007年5月には、今後市場化テストを本
スト法」の4
8条で努力規定が盛り込まれたもの
格導入していくにあたり、東京都が対象事業選定
の、すべての公務員の雇用を保証するものではな
の参考とするため、都の事務事業全般に関し、民
い。
間で実施可能と考えられるものや、民間での実施
官民競争入札を1
980年代から導入したイギリス
を可能とするための条件などについて、意見募集
では、業務が民間企業に落札されるとき、それま
を行っている。これは市場化テストに限らず、最
で保証されていた雇用条件や、年金等の公的な身
近いくつかの自治体で取り組まれている「民間提
分保障等が無視されたり、継続して引き継がれな
案型」の行政改革であり、民間で実施可能と考え
かったりするケースが生じ、訴訟問題にまで発展
られる事務事業の内容や、民間での実施を可能と
した。ヨーロッパには、業務が現状のまま移譲さ
するための条件、従来の実施状況に関する情報の
れた場合、労働者の賃金や労働時間、年金といっ
開示、参入を阻害する法令の規制緩和などについ
た雇用条件も新雇用主が引き継がなければならな
て、幅広く民間からの提案を受け付けている。
いという原則=TUPE(Transfer of Undertakings for
4 市場化テストの論点―公共性と公務労
働、TUPE、入札改革
令された)がある。保守党政権下のイギリスで
最後に、市場化テストに代表される公共サービ
化の過程でこれが遵守されるべきかどうかが争点
スの民間開放政策がはらむ問題点について触れた
となった。1
997年以降の労働党政権では、公共
い。
サービスの民営化に際して TUPE が遵守されるこ
Protection of Employment、81年に EC によって指
は、市場化テストを含む官民競争入札による民営
第一に、公共サービスの民間開放について様々
とが確認されている。日本でも、ヨーロッパにお
な手法が整備されたが、行政機関は、民間事業者
ける TUPE のような基準を日本で確立することが
にゆだねられた公共サービスの公共性をいかに確
急務となっている。
保するのかという点である。近年、市場化テスト
最後に、第一の点と第二の点を解決する一つの
に限らず公共サービスの民間委託や民営化にとも
方法として注目されている自治体の入札改革につ
ない、サービスの公共性が著しく後退する事例が
いて触れておきたい。すでに東京都の市場化テス
後を絶たない(埼玉県ふじみの市におけるプール
トで総合評価方式による入札が行われていること
事故で、管理を受託した業者が安全配慮義務を
を述べたが、総合評価方式は、落札者の決定の際
怠っていた例/構造改革特区制度で大学認可され
に、価格だけでなく様々な社会的価値の実現を基
―1
1
5―
2
1
8
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
準として設けるものである。現在総合評価方式で
労働基準を具体化・実質化する方向と一致しうる
想定されているおもな社会的価値とは、環境保全
ものであり注目される。現在の公契約条例の運動
のための具体的取組みや客観的な達成目標、採用
は、もっぱら民営化対象サービスにおける自治体
や事業における男女共同参画の実施、障害者雇用
労働者の労働条件を維持する見地から取り組まれ
など福祉施策の実施、および公正労働基準であ
ているが、これを公共サービスの質の確保と結び
る。特に公正労働基準は、公共サービスに従事す
つけて取り組むことで、地域住民と公務員・公務
る労働者に適正な労働条件を保障するというだけ
労働者との分断という事態が打開できるのではな
でなく、人件費の圧縮によるダンピングを防ぎ、
いかと考えられる。
公共サービスを担う労働の質の劣化を防ぐという
社会的意義を持ちうる。
この総合評価方式を実質化することで、価格の
みによる公共サービスの落札者の決定をふせぎ、
仮に民営化された場合でも公共サービスの質につ
いて「公的な」コントロールを行うことが可能に
なる。もちろん、上記に掲げた社会的価値は一般
的なものであり、個別の公共サービスごとに確保
されるべき公共性が入札条件に盛り込まれるべき
である。
また、自治体の発注する公共事業について入札
を行う際に、受注業者が達成すべき労働者の賃金
をはじめとする処遇について条例化を行うことを
求める公契約条例の運動が各地で取り組まれてい
る。この運動は入札における総合評価方式の公正
参考文献
尾林芳匡(2
0
0
6)
『自治体民営化と公共サービスの質』
自治体研究社
榊原秀訓ほか(2
0
0
6)
『イギリスの市場化テストと日本
の行政』自治体研究社
佐々木信夫(2
0
0
6)
『東京都政−明日への検証−』岩波
新書
自治体問題研究所(2
0
0
6)
『NPM 改革の実像と公務・
公共性』自治体研究社
進藤兵・久保木匡介(2
0
0
4)
『地方自治構造改革とニ
ュー・パブリック・マネジメント』
東京自治問題研究所
武藤博巳(2
0
0
6)
『自治体の入札改革−政策入札、価格
基準から社会的基準へ−』イマジン出版
渡辺治ほか(2
0
0
4)
『ポリティーク0
8 石原慎太郎研
究』旬報社
―1
1
6―
長野大学紀要
第2
9巻第2号 1
1
7―1
2
1頁(2
1
9―2
2
3頁)2
0
0
7
都市の空間と「観光資源」からみる地方都市の
周知なき課題についての研究
A Local City Problem on the Cityscape Characteristic
overlooked and ‘Tourist Resources’ Taken up
小長谷
悠
紀*
KONAGAYA Yuki
して、その時代/社会の集団的規範あるいはその
1.研究の背景と目的
施政者の思考などが、観光資源のサルベージに方
筆者が本学に着任した2006年春、市町村合併に
向性を与えてきており、それらは必ずしもツーリ
より美ヶ原、菅平の南北の高原観光地、湯治客の
ストの需要に同時期において一致するものではな
多い鹿教湯温泉などの著名な既存観光地を内包す
いこと、しかしながら、すくいあげられ宣伝され
ることとなった新・上田市が誕生した。本学環境
るようになった観光資源が、それらが宣伝の対象
ツーリズム学部の新設もあり、市政はもとより周
とされていくことで個人の価値としても内面化さ
辺地域社会において観光振興施策への関心が高
れていく傾向もみとめた。
「箱が用意されると、
まってくることが予想された。なお、こうした周
大衆はそこへ向かう」傾向への観察・批判は、既
辺観光地を行政区に含むことで駅周辺市街地はそ
に1960年代のドキュメンタリーでもなされている
れらの「玄関口」としても言及されるようになっ
(「レジャーの断面」:最近では『NHK アーカイ
たが、概観するに、多くの地方都市にみられる中
ヴス』200
7年1月21日放送)。そして、今日なお
心市街地商店街の衰退傾向は上田でも明らかなよ
その傾向は脱しきれていないと筆者は考えてい
うに見えた。
る。
こうした状況をふまえ、本研究は、当初上田市
したがって、観光資源調査においては、行政の
がその中心市街地活性化を視野に入れ観光諸施策
計画書や一般に流布されている観光情報などにそ
を施していく際の方向性を探ることを念頭に、上
の多くを依存するのは避けるべきと考えた。そこ
田市周辺の観光資源の所在・構成状況を把握する
で、そうした資料集めの常套手段と併行し、
「参
調査を進めるとともに、内外の観光・リゾート都
与観察者」として自身をさだめ、
「私」が見た上
市の状況などを参照し、観光に関連して上田とい
田(周辺)の印象を書き留めていくことにした。
う都市の持つ空間や諸要素について検討していく
転入直後の「私」が、観光し、まち歩きをし、あ
こととした1)。
るいは人々と話すなかで、
「上田とはこういう町
なのか」との認識に通じたと思われた遭遇(見る
2.研究の方法
!
もの、聞くもの、良かれ悪しかれ感興を得たも
観光資源の調査
の)を書き留めていく。自身の感じ方をツーリス
かつて筆者は、
「観光資源」としての認定の傾
2)
向やその要因について考察した経緯がある 。そ
ト一般に重ねる軽挙は避けるが、初めて訪れたま
だ知らぬことが多いまちを歩いたとき、一個人と
*環境ツーリズム学部准教授
―1
1
7―
2
2
0
長野大学紀要
表1
分類
第2
9巻第2号 2
0
0
7
上田市の観光について「語られやすいもの」
語られがちなもの
推察される要因
観光資源
・周辺のゆたかな自然(概ね一括り) 馴染んだ観光資源分類
・別所・鹿教湯をはじめ周辺に多数あ
こういうものが観光資源とな
る温泉(地)
るという前例に即した「前へ習
・合併して行政区になった菅平、美ヶ え」的な判断
原高原観光地
・城・城下町としての上田、
・ナショナリズムと歴史性
信濃国分寺など江戸期以前の史跡
歴史的なものでは、次いで、近代以
・近代化産業遺産への評価の認知
降の養蚕・製糸業関連や古い洋館など
が語られている。
・そば、りんご、川魚料理
・冷蔵貯蔵庫で延命されて供される
「産地・信州のりんご」
・リバーフロント、リバーサイドシ
ティなど、親水空間としての評価の
認知
・川(近代の史的遺産や文化などと同
様、語られる対象としては近年、遅れ
て加わってきた)※
など
観光戦略︵用語、概念︶
※
備考(今後の研究思索のメモなど)
グリーンツーリズム
流行りの観光まちづくり戦略
里山
ニューツーリズム
コンベンション誘致
コンパクトシティ
フィルムコミッション(映画の町)
ゲートシティ(玄関口)
中心市街地活性化
にぎわい拠点づくり
など
・ゲートシティは、国策(新幹線、
インターチェンジ)のもたらした新
しい立地条件である。
比較的近年になって見いだされ、それについての語りにおいても開拓の余地を残しているであろう「川」につ
いては、2
0
0
7年3月「千曲川流域学会」シンポジウム(於長野大学)の中で概略ながら考察も含めて報告した。
しての「私」が、どんなもの(こと)がそこにお
この他、市の観光行政については、6月にゼミ
いて印象的なものとして目にうつったかを記録
学生を連れて商工観光部観光課に聞き取りを実施
し、それらを同時並行で収集していく観光パンフ
したのを皮切りに、年度後期に市の総合基本計画
レットや観光行政動向の情報と照らすことで、少
と観光ビジョン策定の委員に着任したことで、筆
なくとも2種の視野における違いを浮き上がらせ
者自身も意見しながらではあるが、やはり参与観
ることができよう。それは、現行政が売っていき
察の場を得た。また、参席かなった市民活動グ
たいと考えている「観光資源」や観光活性化に解
ループの場や1年間の居住中に知り合ったまちの
決していくべきと意識している「課題」に対す
人や市域内外の観光関係者らの声も参考した。
!
る、視野の広がりあるいは狭小性について確認す
比較対象地域事例の探索
るはじめの一歩となる。参与観察期間は2007年3
上田市の比較対象となるような都市や地域の事
月までの1年間とした。1年間の居住の間に筆者
例研究、その他でも参考となる所見などを探すに
のニューカマーとしての性質は薄れていくかもし
あたっては、文献研究を行った。主に他地の観光
れないが、観光という事象において季節性は無視
事例にもとづいた所見や都市論、および人々のま
できない。
なざしの変遷などについてふれられることの多い
―1
1
8―
小長谷悠紀
都市の空間と「観光資源」からみる地方都市の周知なき課題についての研究
表2
2
2
1
上田市の観光について「およそ語られないもの」
およそ語られないもの
推察される要因
備考(今後の研究思索のメモなど)
・空(の青さ)や稜線
こういうものが観光資源とな ・市観光課は鮎釣りなどの遊漁者を
・少雨性気候
るという前例が見いだしづら 観光入り込み客とは認識していな
・既に多く集客もある「釣り盛んな川辺」 く、射程から外れた。
かった。
・とんかつ店、カレー店
外国食材店(ブラジル、韓国など)
・工業都市としての上田
・外国人の居住
伝統や古い歴史のイメージと
相反する。
など
風景論や特定事象に関する社会史などを、まず国
ら坂を歩き出せば予想外に外国人居住者の姿をみ
内の観光研究系統の学会、日本社会学会などの学
とめ、別の日には幹線道路沿いのブラジル料理や
会誌、ネット書店アマゾンのキーワード検索を利
韓国料理の食材店などに目がいく。それらから
用し、また、入手した文書から芋蔓式にも蒐集し
「私」は上田市の持つ、来るまでは知らなかった
た。
「工業都市としての展開」
「多国籍の居住者」の
顔に気がつき、その種の認識も深めていく。しか
3.観光資源の調査から
!
し、このようなまちの顔は、市の観光客誘致の計
語られるもの、語られないもの
画やその他でも市民の地域への誇りや愛着を醸成
1年間の観察は、当初より見込んだように、
する意図などが示される諸施策の文面、および観
「よそ者」筆者個人の見るところと行政やまちの
光情報などとして「見にきてよ」と対外発信され
人たちの観光資源や観光関連の課題の認識の間の
る場にはほとんど描かれていないことにも気づ
「ずれ」を示すことになった。言い換えると、筆
く。
者から見たとき、それは、観光に関連して「語ら
れるもの」と「語られないもの」がある状況とし
なお、表1と表2は、図1のように一般化され
る。
て意識される(表1・2)。
語られる
実態あるもの
(観光資源認知
のあるもの)
表2に挙げたのは、ニ ュ ー カ マ ーの「私」に
とって「上田とはこういう町なのか」という認識
を持つ印象的な材料となったと自覚されたにも関
語られないが
実態あるもの
わらず、観光行政や市民活動の場ではついぞ他の
人の側から聞かされることがなかったものであ
語られる
実態なきもの
(用語、概念)
る3)。
ちなみに、上田の(少なくとも市街地周辺が享
−
受する)「空(の青さ)」や主に秋から冬の晴天時
図1
におけるクリアな「稜線」
、概して雨や湿気に悩
まされることもない「少雨性気候」
、既に多くの
"
集客もある「釣りの舞台としての川辺」などは、
語りと実態の有無
研究課題の絞り込み
こちらから口にすれば、役所でも市民活動の集い
近代観光の歴史の研究者 M・ボワイエによる
の場でも、「それも、上田のよいところ」とあい
次のような警告が想起された。
「現代の観光開発
づちが打たれるものであった。
に関する既存研究は、例外なく『既存のもの』の
一方、「私」が休日にドライブしていくと、工
分析に始まっている。…(中略)…どんな場所も
場城下町のような地区を見いだす。また、駅前か
どんなモニュメントもそれ自体では『観光的な使
―1
1
9―
2
2
2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
命』など負っていない。それには人間の言葉が必
への旅行熱の高まりは、アイデンティティを追求
要なのだ」
(Boyer,2000=成澤訳2006:120)。本
する文化ナショナリズムの一形態であるという所
研究の次段階は、このように意識された①「語ら
見も引いてみせる(ibid:231)。また、そこにお
れるもの」の語られやすさと、②ある種の事象が
いて「観光を介したまちづくりという政策セット
「語られないもの」へふりわけられている要因に
は、経済的活性化をもたらすのみならず、
『他の
光をあてていく。併せて、③ある種のもの/こと
地域にはない個性』
『地域イメージ作り』を探究
が語られ、ある種のもの/ことが語られずにい
していくことを通して、住民の地域に対する誇り
る、その状況から生じるベクトルについても目を
や愛着をも再活性化することにつながる、とされ
こらしていくことにした。
る」(五十嵐、2003:2
29)。
そこからが面白い。彼は、
「本物の日本」とし
4.比較対象事例地域の探索から
!
て商品化された「下町」の一部が、戦略的に誘導
選定都市/地域
されたものではないグローバル化の奔流によって
一方、これまでに、上田という都市を考察する
変貌し始めていることへ注意をうながす5)。そし
際に参照する候補地として6つの都市/地域を選
て、こう結論する。下町は本来の下町の機能を
定した。松本、軽井沢、ケアンズ(豪)、東京の
失っていない。だからこそ今も「どこのナニモン
下 町(上 野・浅 草・谷 中)、京 都、坂 城 町 で あ
かわからない」出郷者(今は外国人)の場で有り
る。このうち、前3者は、主に、中央市街地衰退
続けている。そして、今「上野」は試され て い
化の問題にひきつけ「ゲートシティ(玄関口)
」
る。かつて東北や信越から来た人たちを迎えたと
という概念に関連しての比較検討を行っていく。
きと同じくらいにフレキシブルに、
「下町」らし
この3都市については文献蒐集途上なので詳述し
く「寛容としなやかさ」をもって、外国人を包摂
ないが、1990年代の上信越道と長野新幹線開通後
できるよう地域を鍛えなおせるかと。
2)京都ネイティブの景観保全への貢献と副作
の軽井沢駅周辺と旧軽井沢商店街の変容について
用
は四釜敦子の修士論文「別荘地軽井沢の観光地化
野田(2000)の京都への考察は、雑駁さをおそ
過程に関する研究」に詳しい。下町と京都は、そ
れぞれ五十嵐(200
3)、野田(2000)による興味
れずに要約すれば、次のようになる。
深い研究を見いだした。坂城町は、後述する野田
京都について、マスメディア上では、紋切り型
分析に出逢ったことで、参考地域に加えた。五十
の「観光都市」、「古都」としての「語り」が先行
嵐と野田の分析については以下に記そう。
するが、京都は「観光都市」であるとともに、西
"
陣織をはじめとする「伝統産業」と、電子部品や
参考される2種の都市分析
1)東京の下町の「役割」
計測機器などの「ハイテク産業が混在する「産業
サスキア・サッセンの論じるグローバルシティ
都市」である。京都の「町屋」
「町並み」と「景
としての東京を受け、五十嵐(2003)は、上野・
観」などの保全は、
「町衆=京都ネイティブ」の
浅草・谷中など、台東区のいわゆる「下町」をと
「張り」と「気概」に依存して守られてきた部分
りあげて論じる。まず、石原都政においてより顕
がある。一方で、こうした人々の「地 元」意 識
著に「千客万来の世界都市」をめざすこととなっ
は、多くの人々を「よそ者」として排除し、また
た東京都が、そこにおいて商品化される「下町」
自治体としての京都の枠組みのなかで周辺部との
らしい景観や生活文化、人々の気風などを、海外
間に緊張を生んできた。
からの観光客・ビジネス客にアピールできるまで
に保全し続けることを「下町」に強く要請したと
5.小括
述べる4)。こうした様相を、五十嵐は「本質的に
2006年度の研究では、まず、上田の観光やまち
ナショナルな構造」ととらえ、クラマー(1997)
を見つめた1年間の参与観察と資料収集を経て、
による「日本の周縁部は『失われたほんとうの日
「語られるもの」
(実態あり/なし)とそこにあ
本』の保管庫とみなされて」いて、そうした場所
るけれども「語られないもの」というカテゴライ
―1
2
0―
小長谷悠紀
都市の空間と「観光資源」からみる地方都市の周知なき課題についての研究
ズを行い、そこから研究の次段階の方向性を示し
た。すなわち、①「語られるもの」の語られやす
2
2
3
の研究−新上田市エリアの適合性および関連観光資
源調査−」
。
さと、②ある種の事象が「語られないもの」へふ
2)発 表 済 み の も の で は、小 長 谷(2
0
0
2)研 究 ノ ー
りわけられている要因に光をあてていくこと、お
ト:新旧旅行案内書に見る函館エリアの観光対象.
よび、ある種のもの(こと)が語られ、ある種の
もの(こと)が語られずにいる③その状況から生
じるベクトルについて検討することである。ま
た、上田を意識しつつも上田以外の都市/地域へ
目を向けたことからは、主には文献研究を通じ、
『立 教 大 学 大 学 院 観 光 学 研 究 課 紀 要』4,pp.
3
7
‐
4
1、小長谷、武井、安島(2
0
0
1)美瑛町における丘
陵農地の観光対象化と観光地形成.『日本観光研究学
会発表論文集』1
6,pp.
1
8
1
‐
1
8
4.
など
3)2表が網羅的と言うつもりは毛頭無い。しかし、
居住者や近年多少なり訪れた人が見たならば、個別
都市/地域や都市の見方について参考対象を得
項目の是非は別としても、上田周辺の観光の文脈の
た。
なかで「よく語られるもの」と「およそ語られぬも
ここまで記してきた所見については、筆者のな
の」
、あるいは表1のような「語られやすいもの」に
かでも未消化部分を残すと感じられるものの、こ
比して「あまり語られぬもの」があることはみとめ
れから研究を進めていく上で持論を組み上げてい
られるだろう。
くための材は概ね揃ったとみている。今後の方向
4)
「フレキシブルで透明なオフィス街となって、金融
性としては、観光振興を意識する地方都市が今日
や情報産業を呼び込む都市中枢になることなどまっ
置かれている状況について論旨と構成を整理した
たく期待されていない。浅草や上野、谷中は全く逆
後、そこに見込まれる地方都市の危うい状況につ
いて学術的に論述できるデータを揃えていく。
に、街路の1本1本、景観の1つ1つに、複製不可
能な意味と物語をできる限り充填し、商品化してい
くという方向で、いわばフレキシブルな都市空間で
ないことをもって東京という都市の魅力を高めるこ
【主な引用参考文献】
と に 貢 献 す る よ う、要 請 さ れ て い る」
(五 十 嵐、
五十嵐泰正(2
0
0
3)
「グローバル化の中の『下町』
」
『現
2
0
0
3:2
3
0)
代思想』3
1(6)
、2
2
5
‐
2
3
7.
5)1
9
9
0年代初頭の上野公園に集まるイラン人の報道
野田浩資(2
0
0
0)
「歴史都市と景観問題」片桐新自編
『歴史的環境の社会学』新曜社、5
1
‐
7
8.
が記憶に新しいが、昨今はインドネシア人が集 ま
り、その屋台もでている。湯島駅周辺は韓国人ホス
Boyer, M.
1
9
9
9:Le Tourisme de L’an2
0
0
0.
Presses Univer-
テスが客引きをし、彼女らも利用する焼肉店などが
Lyon.(=成澤広幸訳『観光のラビリン
つらなる。アメ横センタービルはアジア各地やアフ
sitaires
de
ス』法政大学出版局)
リカの食材・雑貨店の集結地となり、台湾からの来
客も増えて中国語の売り子がいる。御徒町ではイン
注
ド人が宝飾店をかまえる。
1)助成申請書に記載の仮題は、「リゾート空間モデル
―1
2
1―
長野大学紀要
第2
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2
3―1
2
6頁(2
2
5―2
2
8頁)2
0
0
7
佐久鯉の稲田養鯉復活運動をめぐる地域環境学
Community and Environment Studies on Rehabilitation of
Traditional Aquaculture Systems of Carp Using Paddy Fields
佐
藤
哲*
Tetsu Sato
り、伝統的な農家の副業としての鯉養殖は見るこ
1.はじめに
とができない。本研究は稲田養鯉復活をめざす地
環境保全と良好な自然環境を活用した地域振興
域グループ「佐久の鯉人倶楽部」と申請者が、稲
に地域レベルから取り組むに当たって、地域環境
田養鯉の水田環境、下流環境へのインパクト、上
の現状についての科学的知識が生産され、それが
流域の水環境に関する科学的調査、ならびにその
地域住民と共有されていること、地域住民と科学
調査結果の佐久鯉振興への活用について、密接な
者が密接な相互作用を保ち、環境問題と地域振興
相互関係を保ちながら研究し、その成果を実際の
にかかわる意思決定の課程で真に必要な知識を十
佐久鯉産業の振興と地域の水環境の改善に生かそ
分に活用することが、合理的な意思決定に決定的
うとするものである。このような地域住民と科学
に重要である。地域レベルの環境問題解決に役立
者の共同作業による実践的な知識生産の試みは、
つ実践的な知の枠組みを、著者は「地域環境学」
著者らが沖縄県石垣市で WWF サンゴ礁保護研究
と名づけて提唱している。この地域社会に密着し
センターと共同で試行している例があるが、それ
た実践的な科学のありかたは、既存の学術体系と
以外には体系的になされているものはほとんどな
は異なるものであり、現在、その科学論としての
い。佐久鯉の地域環境学研究によって、良好な自
整備が進行中である。
然環境を生かした地域振興に関する新たなモデル
長野県佐久地方の伝統的な稲田養鯉は、地域環
が提示されることが期待できる。
境学の枠組みにたいへん適している。伝統的な佐
久鯉は千曲川水系の清冽な水に依存し、減農薬の
研究の初年度である18年度は、研究基盤の形成
稲田を活用した養鯉であるため水田および下流環
と稲田養鯉をめぐる地域環境の基礎的知見の獲得
境にも好影響をもたらすものと考えられる。環境
を目的とした。初年度の研究成果に基づき、詳細
に好影響をもたらす養鯉であるということの科学
な水田環境、流域環境研究と、その成果の産業と
的な証拠が得られれば、それは地域社会における
しての佐久鯉振興と水域環境の改善への応用の可
稲田養鯉へのインセンティブと佐久鯉のブランド
能性を検討する。
イメージの向上、および地域の千曲川水系全体へ
の関心の喚起に貢献しうる。一方、産業としての
2.方法
佐久鯉養殖は、価格競争のためにほとんど途絶
伝統的な稲田養鯉が盛んであった佐久市桜井地
え、現在では少数の専業養殖家が残るのみであ
区において、佐久の鯉人倶楽部による稲田養鯉復
*環境ツーリズム学部教授
―1
2
3―
2
2
6
長野大学紀要
第2
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0
0
7
活運動の現状を、実地調査と聞き取りによって調
や地元産の食材で、提供される日本酒は出資者の
査した。実地調査においては当歳種苗の養育池に
農家が無農薬栽培した酒米をつかって地元の酒造
おける管理作業と、秋の越冬池への移送作業を観
会社でつくられたものである。
察した。聞き取りは佐久の鯉人倶楽部会員と、鯉
佐久の鯉人倶楽部の活動は、地域振興活動とし
人倶楽部の活動を支援する佐久商工会議所に対し
て佐久商工会議所の支援を受け、多くのメディア
て実施した。佐久市内の水環境にかかわる多様な
の注目を集めている。高度な養鯉技術が保存され
産業の可能性を把握するために、酒造会社1社、
ており、養鯉に適した水田環境、水源、越冬池な
水車メーカー1社においても聞き取りを行った。
どもよく保全ないし管理されていて、産業として
また、稲田養鯉に用いられている水田の生物多様
の佐久鯉を復活させる条件は整っている。
性調査の可能性を検討するための予備調査、なら
佐久商工会議所は佐久鯉の復活が地域社会の活
びに桜井地区の水路と養殖池の現状に関する予備
性化に重要な役割を果たすものと認識し、地域産
調査を行った。
業として、特産品としての佐久鯉に大きな可能性
を見ている。しかし、会員の高齢化に伴い、後継
3.結果
者の育成が、地域産業としての成長を目指すうえ
佐久の鯉人倶楽部の稲田養鯉復活の活動は、
で大きな課題となっている。また、環境と健康に
「生まれも育ちも佐久の鯉」の復活をかかげて平
配慮した鯉養殖であるという点で消費者のニーズ
成16年に始まったもので、メンバーの自宅敷地内
にこたえる潜在性はあるが、通常2年間で出荷サ
にある池で長年にわたって飼育されてきた親魚に
イズになる鯉を低水温で3年間かけて育てる養殖
産卵させた卵から、伝統的な育成技術を用いて3
なので、高付加価値の鯉製品の流通経路が必要で
年間で出荷サイズの「切鯉」を育成することをめ
ある。マーケティング戦略の整備も十分とは言え
ざすものである。会員数は130名を超え、その大
ない。佐久鯉の稲田養鯉は、かつては近隣の8
00
半は高齢者である。採卵から孵化、仔稚魚の育
ヘクタールほどの水田のほとんどすべてで行わ
成、給仕や鳥類による食害防止作業、越冬のため
れ、昭和初期には東京への出荷が300トンに達す
の移送など、養鯉作業のすべてを会員有志のボラ
るなど、産業としての隆盛を極めていた。しか
ンティア活動として実施している。また、佐久鯉
し、佐久の鯉人倶楽部が目指している佐久鯉の復
の養殖以外にも地域の美化運動などに取り組んで
活とは、必ずしもこのような大型の地域産業の復
いる。発足から3年後の18年度に最初の佐久育ち
活ではなく、地域の再生のシンボルとしての稲田
の鯉を出荷するまでを一区切りとした活動だった
養鯉と捉えるのが適切である。
が、生育状況が思わしくなかったため、出荷を一
鯉人倶楽部会員への聞き取りからは、特に伝統
年遅らせた。現在、4年目以降の活動について計
的な佐久鯉の味に対する強い愛着を見て取ること
画の再検討作業が行われている。
ができた。佐久鯉の復活を試みるそもそもの動機
この活動に参加している農家4件が出資して、
として、昔の佐久鯉の味をもう一度味わいたいこ
桜井地区の民家を利用して伝統的な佐久鯉料理を
とを挙げる人が大半であった。また、佐久鯉の歴
提供する鯉料理店を営業している。社長、料理長
史と伝統自体への関心も高かった。佐久鯉の発祥
以下、すべての従業員が出資者の農家であり、農
が18世紀末までさかのぼること、昭和初期に地域
作業の合間を利用して、週末だけの完全予約制の
の特産品として一世を風靡したことが、懐かしさ
営業を行っている。提供される鯉は桜井地区の養
をもって語られた。佐久鯉の栄養価に対する言及
鯉池で十分に育成されたもので、品質は本来の佐
も多かった。特に妊産婦に対する栄養補給の効
久鯉と変わらないという。かつて鯉の飼料に使わ
果、高栄養価の食品であることに由来する延命効
れていたカイコの蛹が佐久鯉の味のよさを決めて
果に対して、高い誇りを持ち、価値を見出してい
いたという認識から、調理前の鯉には中国産のさ
た。特に佐久地方が長寿の郷であることへの誇り
なぎ粉を飼料に加えることにこだわっているとい
と佐久鯉への愛着が一体となっているように見受
う。また、鯉以外の食材の大半が自家栽培の野菜
けられる。
―1
2
4―
佐藤
哲
佐久鯉の稲田養鯉復活運動をめぐる地域環境学
佐久の人々が川の魚などの生物に対して深い愛
着を持っているという認識も共通していた。佐久
2
2
7
のために田の水深を深くすることが、稲の生育に
好影響を与えているという認識も見られた。
の鯉人倶楽部の会長(役頭)である M 氏によれ
豊富で清冽な水を意識的に活用しようという動
ば、佐久では川で鯉の姿を見ることはなく、その
きは、他の産業分野においても見ることができ
理由はみつけたらすぐに捕獲して食用にするため
た。佐久は日本酒の生産が盛んであり、市内に13
である。川や水田は多くの食材を提供してきた。
軒の蔵元がある。酒造家の多くは酒造に適した水
サワガニ、ドジョウ、ジンケンなどに加え、タニ
源からの水を利用している。好適な水源があると
シやゲンゴロウ(ガムシ)も食用に供され、独特
いうことが、酒造業を盛んにした大きな原因だっ
の食文化を形成してきた。また、佐久市内の若い
たものと考えられる。また、臼田地区の酒造家で
世代の中には、現在でも川遊びが残されており、
は、水源の重要性を強く認識し、その水源が集落
川における魚の掴み取りを楽しむ人も多いとい
にも豊富な水を提供していることを誇りと感じて
う。これは、長野大学の佐久出身の学生の証言か
いるようだった。この酒造家は前述のように、佐
らも確認された。
久の鯉人倶楽部と共同で無農薬栽培した酒米を
佐久の水環境に対しても、その水質のよさ、水
使った製品を発売し、それが鯉人倶楽部メンバー
源の豊富さに対する強い誇りが感じられた。実際
が経営する鯉料理店で提供されている。豊富な水
に現在でも佐久の公共水道の水源はすべて地下水
が流れる水路を活用して水車の利用を推進しよう
で、大半が生活地区よりも標高が高い地点の井戸
とする企業も現れている。水車の技術と石臼の技
と湧水から取水されているという。この水と低水
術をあわせて、蕎麦などの製粉に水車の活用を促
温の生育環境が、佐久鯉の味を高めているという
し、石臼挽きの豆腐などを販売し、さらには小さ
認識も共通していた。M 氏によれば、佐久地域
な水路でも利用可能な水車を利用した小型水力発
では一般に水に対する関心が高く、近隣の水路に
電装置の開発も進めているという。
油分が流れたりすると大きな騒ぎになる。こう
豊富な水に支えられた水田は、無農薬化の推進
いった関心の高さが、佐久市が全国に先駆けて雑
の影響を受けて、生物多様性に富んだ環境を形成
排水の共同処理を導入できた原因なのではないか
しているようであった。鯉養殖に利用され無農薬
という。桜井地区には縦横に水路が走り、それが
化された水田で10月に観察したところ、ドジョウ
分岐されて人家の敷地内に引き込まれ、かつては
(成魚)
、フナなどの幼魚(外来種ブルーギルの
そこですべての洗い物などの水仕事が行われてい
幼魚も含む)
、タイコウチ、ミズカマキリ、コオ
た。現在でもその名残を残す民家が多く、特に敷
イムシ、ゲンゴロウ、マツモムシ、複数のトンボ
地内に池を持つ民家が50軒近く残っている。この
のヤゴなどの多様な水生昆虫、タニシなどの貝類
地区では、かつては家を建てる際には水路がある
が容易に観察できた。水田は特に養鯉に使われる
土地に建てることを年長者から諭されたという。
場合にはそれぞれ特有の構造を持つことから、生
稲田養鯉は農業の無農薬化にも大きな役割を果
物多様性を定量的に把握することは困難だが、出
たしてきたものと思われる。かつて稲田養鯉が盛
んだった時期には、各地で高濃度の農薬が使われ
ていたにもかかわらず、佐久においては鯉に実害
現種の比較は可能であろうと思われた。
5.考察
がない程度まで減農薬化が試みられていたとい
以上の予備調査の結果から、佐久鯉は地域社会
う。また、高濃度の農薬が使われていた期間が短
の中で、豊かな水環境の象徴、自然環境と結びつ
かったという証言もあった。佐久の鯉人倶楽部会
いた伝統と文化の象徴、自然環境を活用した新た
員には、無農薬化を達成した農家もあり、特殊栽
な産業と地域振興のポテンシャルの象徴としての
培米として高付加価値をつけて出荷している例も
役割をはたしているものと考えられる。このよう
ある。水田で鯉を飼育することによる除草効果
な地域環境の象徴としての存在を「環境アイコン
も、稲田養鯉の副次的効果として認識されてい
(Environmental Icon)」と呼ぶ。環境アイコンは
た。鯉が水草を食べ、土地を掘り返すこと、養鯉
自然環境の価値を象徴する存在であるだけでな
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7
く、地域社会の多様な利害関係者に共通する地域
する水環境について、どのような研究を優先して
への誇りと愛着の結節点でもある。豊かな自然環
実施すべきだろうか?
境を象徴する環境アイコンは、地域レベルで環境
久鯉を育てることによる水環境や生態系へのイン
保全と地域振興の両立を目指す活動の中でも意識
パクト、食品としての佐久鯉の栄養価や安全性と
するしないにかかわらず活用されている。多様な
健康維持への効果、水にかかわる地域社会の伝統
利害をもつ地域の関係者による合意形成の基盤と
と文化の価値についての研究が、地域社会にとっ
して、多くの利害関係者が関心を共有する象徴的
て優先度が高い関心事であるものと推察できた。
な環境アイコンの存在が重要な機能を持ちうる。
また、佐久鯉養殖を産業として成立させるために
多様な環境問題に関わる困難な合意形成のプロセ
必要なさまざまな方策や、後継者育成の道筋につ
スを円滑に進め、合理的な意思決定を可能にする
いての知識も、広く求められているものと考えら
ツールとして、環境アイコンの活用が効果的であ
れた。これらの考察に基づき、1
9年度において
る。
は、稲田養鯉という手法によって水田の生物多様
今回の予備調査から、佐
佐久鯉は、地域の豊かで清冽な水環境がはぐく
性にどのような影響が現れるかを検討する生物多
むものであり、まさに水環境を象徴する存在であ
様性調査と、佐久鯉の旨み物質や栄養価と汚染物
る。優れた水環境はおいしい飲料水、米や酒、多
質の蓄積を他の地域の鯉と比較して、佐久鯉養殖
様な水生生物にかかわる食文化を提供する。鯉を
のどのような要素が佐久鯉の食品としての価値に
水田で飼育するという佐久鯉の特徴は、無農薬
影響を与えているかの分析を、最優先の課題とし
化、減農薬化を通じて、安全な食品を求めるとい
たい。これらの研究によって、佐久鯉養殖が地域
う現代社会のニーズにも対応する。水を活用した
の自然環境に与える効果と、自然環境の中の佐久
水車や発電など、新たな産業の芽生えもある。一
鯉の食品としての価値を高める要因の一端が明ら
方で佐久鯉は地域が誇る伝統的な特産物であり、
かになることが期待できる。その知識が地域社会
いったんすたれた佐久鯉の伝統を復活させようと
に共有されることで、地域の伝統文化としての佐
いう動きは、地域社会の広範な共感を呼ぶ。佐久
久鯉養殖の合理性が明らかになり、佐久鯉を環境
鯉を環境アイコンとして活用することで、佐久の
アイコンとして活用した地域の自然環境の保全と
豊かな水環境の保全と、水環境がもたらすさまざ
地域振興のための活動を強化できるだろう。ま
まな便益と地域振興のポテンシャルを両立させる
た、環境にやさしく健康維持に効果的であるとい
ことができる。水環境の保全とそれにかかわる地
う佐久鯉の付加価値が明らかになれば、産業とし
域の伝統文化の再興をはかるために、佐久鯉を活
ての佐久鯉養殖に大きなインセンティブを与え、
用して地域社会の中で自然環境に対する誇りと愛
後継者の育成にも効果を発揮するだろう。地域社
着を強化し、自然環境を保全しつつそれを活用し
会へのこのようなポジティブな効果が期待できる
た地域振興をはかることが重要な鍵となるだろ
研究を意識的に優先して行い、その成果を地域社
う。
会と共有して実践活動に生かすという地域環境学
地域社会の自然環境に対する関心を喚起し、誇
りと愛着を強化するために、佐久鯉とそれが象徴
の手法が、佐久鯉の復活を基盤とする地域社会の
持続的な発展に貢献できることを期待したい。
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情報通信技術を利用した教室環境の双方向化に関する検討と構想
The Conception of the Bidirectional Classroom Support System
平
岡
信
之*
Nobuyuki HIRAOKA
いので教室にわざわざ時間を決めて集まる必要が
1 本研究の背景
なくなる。
筆者は今般、長野大学地域研究補助金による助
1.
3 教員の役割の変化
成を得て、18年度より双方向型教室環境の研究に
教員は、比喩的に言えば、学習者の前を歩いて
着手した。初年度はその実現のための予備調査と
先導して目的の場所に連れて行くという役割を
問題点の整理を試みたのでここに報告する。本研
持っていた。しかし、先に道を教えられては試行
究は、以下のような筆者の状況認識と、その中で
錯誤をしたり発見したりすることはできない。今
の教育実践において不自由を感じていたことが出
は、教員はむしろ、彼らの後ろをついていくのが
発点となっている。
仕事になってきたと言える。定められた経路に
1.
1 情報過多と学習の意味の変化
沿って学習者を導くときは、その経路の周辺の土
インターネットが普及し、情報過多の時代に
地鑑さえあれば事足りるが、後ろをついて行きつ
なっている。知識ないし情報が、一部の階層(研
つ必要に応じてアドバイスを出すといった場合に
究者や教員)に限定して偏在していた時代には、
は、学習者が迷い込むかも知れない様々な場所を
その知識を伝達することが教育という営みの最大
含めて、いわば街全体に関する土地鑑を持ってお
のテーマであったが、昨今の教室で語られる内容
くことが必要になるため、この意味でこの時代の
は、ネットのどこかに置いてある情報と大差ない
教員の負担はより大きくなっていることになる。
ことがままある。学習者がめざすべき目標も、知
1.
4 学生の資質の変化
識を多く吸収することではなく、知識をうまく見
主観的見解だが、そんな社会状況の変化とは裏
つけ出し活用するという技術の比重が高くなって
腹に昨今の学生は概して自律性が低下してきてい
きた。
るように見える。<講義→レポート提出→評価が
1.
2 教室の意味の再考
返ってくる>というターンアラウンドタイム一週
そんな中で教室という場所の意味も再考する必
間の双方向コミュニケーションだけでは学習意欲
要がある。技術習得のためには、知識の一方的伝
の継続が困難になってきている。そのため、教員
達よりも、各自が試行錯誤の経験の中で発見を積
のもう1つの役割として、その場にいて学生の行
み重ねることが重要になる。一方的な伝達なら
動を見ていることを明に暗に示し、リアルタイム
ば、マスメディアやネットメディアが仲立ちに
のコミュニケーションを活発化することも重要と
なっても昨今の技術では情報の質の低下は起きな
なってくる。
*企業情報学部准教授
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1.
5 文房具としてのコンピュータの普及
前提となっていた。教室にパソコンが持ち込まれ
コンピュータを活用する教育が、情報処理関係
ると、旧来の教室スタイルでは各学生のパソコン
の科目に限定した特殊なものではなく、各学部の
画面が向こうを向いていて見えないため、そこで
あらゆる授業に共通の普遍的なものになりつつあ
何が行われているかも知ることができない。
る。そのため本研究は目的を特化した設備を持つ
3.
2 誰がどこにいるか問題
教室を必要としないことを前提とする。
困った状態(例えば迷子状態)の学生がいたと
きに、その学生に応じた助言をする、そのために
2 本研究の目的
学生のカルテを呼びだしたり、学生の画面に情報
情報通信技術を活用した教育にかかる実践研究
をポップアップさせたりといった操作を行うこと
は各機関で盛んに行われている。教員と学生の間
になる。その際に、何の支援ツールもない場合、
の双方向コミュニケーションもその中で重要な
その学生の名前や ID、パソコンの ア ド レ ス を
テーマとなっている。しかしその多くは遠隔授業
知っておいてそれをリストから発見したり手入力
をめざす中での双方化である。インターネットは
したりすることが必要となり、これは授業中の現
距離による壁をとりはずし、教育を含めて様々な
場での操作としてはリズムを崩す煩雑なものにな
分野で遠隔的なアクティビティを創生しようとし
る。誰がどこに着席しているかを一目で見ること
ているが、
ができ(できればクリック操作に応答するアクテ
1)遠隔授業の実用化と普及は、地域の教育機関
ィブな)座席表が画面に表示できればその負荷を
の存在意義を低下させる可能性がある。この方
軽減できる。ただしこの座席表の作成は一筋縄で
向性は地域研究の趣旨とは反対の異議を持つこ
はいかないようである。
とになる。
2)遠隔授業における双方向化の技術は限定され
た条件下での使い勝手を想定されており教室と
4 シンプルな解答とその代案およびそれ
らの検討
上記の問題に対する解答として、以下のような
いう現場にそのまま適用可能でないことがあ
案を検討した。
る。
という理由から、本研究では、遠隔化を視野に入
4.
1 学生の行動把握
れつつも、ひとところに集まった教室という場所
1)後方からの授業。こういう配置の教室を採用
での適用を中心にテーマ設定を行いたい。この条
している学校もある。ただしこの場合は、逆に
件下で、前章に述べたような時代の要請にマッチ
学生の顔や視線は見えない。また学生からも教
した教育目標の実践を効率的に行うために、教室
員が直接語りかけている実感を持つことができ
に持ち込まれた各受講者のパソコンを最大限に活
ない。他に、ティーチングアシスタントとの二
用する方策を探っていく。
人三脚(この場合、TA と教員との間のコミュ
ニケーションが別の課題となる)
、教員が適宜
3 解決すべき問題
場所を移動する(教卓+提示用 PC ごと移動す
ここでは、以下の2つの問題に絞り込むことに
るか、提示用 PC を何らかの方法で遠隔操作す
する。
るか、必要に応じて教壇に駆け戻るかといった
3.
1 誰が何をしてるか問題
選択になる)といった古典的な策はあるが、本
パソコンを自由に使わせるときに、それぞれの
研究ではこれに代わるものを追及する。
学生がいま何をしているのか(ゲーム等に興じて
2)遠隔操作ソフトウェアの利用。コンピュータ
いないかも含めて)把握しておくことが重要に
の遠隔操作を目的としたネットワークソフトウ
なってくる。パソコン時代以前は、対面して授業
ェアが古くから使われてきている。その多くは
を行う際に、その視線や顔つきが重要な情報とな
市販ソフトウェアであるがフリーで利用できる
るので、教員は話しながら教壇から全体を見渡す
ものとして VNC がある。VNC は基本的には1
ことで情報収集を同時にこなすというのが暗黙の
対1の通信を行うものであるため、学生全体の
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2
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平岡信之
情報通信技術を利用した教室環境の双方向化に関する検討と構想
2
3
1
行動モニタを行うためには人数分のピアを起動
る。ただし USB メモリは「持ち帰りたくな
させる必要があり、通信量やメモリ消費が多く
るデバイス」の1つであるため運用上の問題
なる。またその管理が煩雑となるため本研究の
は発生するだろう。
目的にはそのまま適用できない。なお、VNC
(c)カメラ、バーコードリーダ等の外付けデバ
の派生ソフトに Multi VNC があり、これ は 上
イスでも認識可能なタグはあるが、各学生に
記の問題の解決を試みた版である。ただ、動作
それを持たせるのは無理がある。
環境が Linux であるため、Windows を標準で使
(d)人手を1つ介入させる(学生が座席に記さ
うことが多い一般的な授業にそのまま適用でき
れた座席番号を入力する)方法もあり、これ
ない。
が現時点では最も実現性が高い。
3)監視ソフトウェアの利用。企業における情報
3)パソコンまたは人にタグをつける。電気的に
流出のリスクに対する防御策としてユーザの行
アクティブなタグは実用的でないのでパッシブ
動を監視するソフトウェアが最近広く使われ始
なものに限定すると、タグの種類として、バー
めている。
コード(2次元、3次元)、非接触 IC チップ、
4)通信の監視。受講者のパソコン上で、または
RF タグといった可能性がある。電波による通
外部のパソコンを LAN に接続して、パケット
信を行うデバイスの場合、指向性がないため、
モニタにより受講者の通信を監視(盗聴に近い
タグの位置を認識して情報を集積させる仕組み
手法であるが)することができる。或いは、
の実現は簡単ではないが、適切な通信距離(座
Proxy サーバ(受講者機または LAN 内のサー
席間の距離程度)に調整した上で、センサーを
バ 機)の 動 作 を す る ソ フ ト ウ ェ ア を 使 っ て
持って教室内を移動して走査することで、位置
HTTP の通信記録を抽出することができる。
認識を行える可能性がある。バーコード例えば
5)専用ソフトウェアの採用。これは後の章で再
天井カメラで識別する技術についても今後検討
度述べる。上記の既存技術の流用がいずれも帯
に短しの状況であり、予想通りではあるが、専
用にソフトウェアを作ることが最も有効だろう
して行く。
5 支援ソフトウェアの構想
今後の研究として、上記の学生の行動把握を支
と思われる。
4.
2 座席表の自動(または効率的な手動)構成
援するソフトウェアを試作し評価していく計画で
1)指定席にするという考え方がある。これだと
ある。試作するソフトウェアは以下の2つのコン
座席表はすでにできているのでこの問題は最初
ポーネントからなる。
から存在しない。
5.
1 受講者側プログラム:受講者の操作情報を
2)座席にタグをつける。座席に固定的に設置さ
送出するプログラム。送出する情報は3段階
れたデバイスを学生パソコンに接続して認識さ
の粒度レベルに分類し、それぞれのレベル毎
せ、その情報を一箇所で集中管理すると座席表
に個別のアプローチで情報抽出を行う。上記
が自動構成できる。
4bの問題のための座席情報送出プログラム
も兼ねる。
(a)有線 LAN による接続(これは下記3のパ
ソコン側タグと見ることもできる)はすぐに
1)低レベル画面のキャプチャ情報(ビットマッ
でも適用可能な技術ではあるが、昨今は無線
プイメージ)
、マウス及びキーボードのイベン
ト、TCP コネクション上の生データ
LAN の普及に伴い有線 LAN 設備の撤去が進
2)中レベルファイル I/O、URL へのアクセス
んでおり、この解の将来性はない。
(b)他に現時点で普及度の高いインターフェー
3)高レベル
プログラムの起動と終了
スとして USB、Blue tooth(今後の普及の見
5.
2 教卓側コンソールプログラム:受講者側プ
通しはグレーであるが)が活用できる可能性
ログラムから送出された情報を教卓機で集積
がある。市販の技術で対応する方法としては
し分析したものを一覧表示するソフトウェ
USB メ モ リ を 各 座 席 に 配 備 す る 方 法 が あ
ア。相手を指定して IM や VNC など の P2P
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コミュニケーション系のプログラムを起動す
き事項が多いことに気づかされる。受講者の行動
るランチャーの機能も持つ。
を監視することの倫理的問題や、一種のスパイウ
なお、ソフトウェア開発は ruby 言語を用いて
行う予定である。
ェアに近い動作をする受講者側プログラムをスパ
イウェア検出プログラムで検疫されてしまわない
か、といった検討も含めて、今後さらに調査は必
6 おわりに
要になるだろう。
調査を進めれば進めるほど、本研究で考慮すべ
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業界企業へのニュービジョンの提起とその際の課題
Submission and its Problem of a New Vision to an Existing Company
森
俊
也*
Shunya MORI
自己革新が必要となるもののその契機等を示して
1.本研究の背景と問題意識
いないこと、さらにはそれらの道を別々の道とし
変貌する世界の経済や社会の状況を洞察しなが
て提起していることである。筆者はその既存企業
ら創発的にマネジメントの役割や概念、その方策
の革新と新規参入というものは相即的なものと捉
を提示してきたのが P. F.ドラッカー(Peter Ferdi-
えている。
nand Drucker)である。本研究では、そのような
かような問題意識をもち本研究では、同業界企
彼が次社会(知識社会)における金融サービス
業の今後に関する彼なりの提起を補足する意味
業1)をいかに認識し、今後の新たな経営的方向性
で、同業界企業が実際的にイノベーションを展開
をいかに提起しているのかを明らかにすると共
できるよう、取り組む事業・採る道とそれに向か
に、同業界を取り巻く諸環境の変化を踏まえなが
う契機について統合的に考察する。
ら彼の考察を補足する。まず、これまで社会や経
済、企業経営に対して彼が果たしてきた重要な貢
2.ドラッカーの貢献と彼の考察上の視角
献や、これまで一貫して保持してきた彼の考察上
マネジメントを発明したと言われるドラッカー
の視角について確認し、金融サービス業の考察に
は、社会や経済の流れというものを的確に見通
おいてもそれらが見受けられることを明らかにす
し、それらに即応したマネジメントを導き出して
る。また、このような彼なりの評価できる点があ
きた。彼なりのマネジメントの考え方は、GM や
る一方で、補足すべき点も見られる。それは、彼
GE をはじめとする米国の優良企業のみならず、
が同業界の新たな方向性として訴求すべき市場
わが国の各種企業に対して多大な影響を与え、そ
や、取り組むべき事業、採り得る道を提起してい
れら企業の企業目的・事業目的や経営戦略の策定
るものの、その方向へと向かう具体的な契機等が
に関して甚大な貢献をもたらしてきた。具体的に
示されていないという点である。彼は同業界の今
言えば、ドラッカーは、これまで多くの企業人や
後の道として3つあると提起しているが、そのう
経済学者において前提とされてきた企業・事業の
ちの「第2の 道」(新 規 企 業 に 取 っ て 代 わ ら れ
目的としての利益を明確に否定し、それは、目的
る)と「第3の道」(既存企業が自らイノベーシ
(purpose)ではなく条件(limiting factor)である
ョンを図る)が現実的な道であるとしている。こ
と し た 上 で(Drucker、1954、p.
35.)、企 業・事
こでの問題は、新規参入者は既存企業を脅かす存
業の目的を「顧客の創造」(create a customer)と
在としてのみ捉えていること、また、既存企業は
規定している(Ibid., p.
37.)。したがって、企業
*企業情報学部准教授
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・事業目的はそれぞれの企業の外部にあり、企業
は「社会の一機関」(an organ of society)である
3.ドラッカーにおける
「金融サービス業」
の認識
ことを彼は示唆し、当該目的自体を各種組織体の
ドラッカーは『ネクスト・ソサエティ』
(Man-
経営に浸透させると同時に、彼がその達成のため
aging in the Next Society、2002)において、次の
のエンジンとして提示した「マーケティング」と
社会は、
「知識社会」
(Knowledge
「イノベーション」という2つの概念は、現代企
り、知識や情報が前提となり高度に競争的な社会
業においては、戦略的経営や価値創造経営を展開
になるとしている。また、同社会は、高年人口の
していく際の基底として位置づけられている。ま
増加と若年人口の急減に伴う雇用形態の変化、若
た、ドラッカーは、経営戦略の構成要素として競
年中心の市場から中高年中心の市場への変化、知
争優位性やシナジーとともに広く認識されている
識労働者への主役の交代、等の大きな特徴をも
「ドメイン」
(domain)を策定・決定することの
ち、これらの急激な変化を把握しながら行動して
重要性を1
950年代という早い時期に提唱してい
いくことが求められることを示唆している。彼
る。つまり、
「われわれの事業とは何か、それは
は、そのような特徴をもつ次社会におけるビジネ
いかにあるべきか」といった事業・生存領域の定
スチャンスとして、とりわけ「金融サービス業」
義を十分に検討することの必要性を示唆し、以上
(Financial Services)を取り上げその方向性につ
の問いについて社会の状況を踏まえて正しく答え
いて具体化させている。その業界を取り上げる理
ることがトップ・マネジメントの責務としている
由は、先進国の産業の多くが知識サービス産業化
(Ibid., pp.
49‐50.)
。
すると い う 状 況 で、そ れ ら 先 進 諸 国 に お い て
3)
であ
Society)
ドラッカーの貢献は、経営学の重要な概念の提
GDP への寄与が大きく、それらの社会・経済・
示のみではない。彼なりの社会というものを重視
経営というものを支える主たる存在として同業界
した経営学や、社会動態分析を基にした経営学も
を位置づけているためである。また彼は、次社会
多くの経営者や研究者において高く評価されてい
の極めて重要な存在となるのが IT(Information
る。彼 は 自 分 自 身 を「社 会 生 態 学 者」
(social
4)
であり、IT の進展により
Technology:情報技術)
ecologist)と称しているように、経営の未来を語
高度な競争状態にさらされる(既存の企業におい
る上でもその社会の生態に関わる十分な分析・検
ては大きな変化が要求される)業界として同業界
討を心掛けている。また、彼は社会的問題の解決
を捉えているためである。IT の進展・発展によ
に貢献することがマネジメントの役割であり、上
り知識が容易・迅速・広範囲に伝達され5)、各種
記したように企業の目的としての利益を否定して
組織体の競争力はグローバルレベルとなる。事
いる。さらに、彼は企業・政府のみでは解決でき
実、同業界では、情報が市場を支配し、知識や情
ない程、社会的問題が広がりを見せている状況2)
報を生産・移転させるようなビジネス6)が業界・
を踏まえ、学校や NPO を含めた各種組織体の経
業態・国を超えて展開されている。わが国同業界
営の未来を語ろうとしている。かくして彼は、各
においても、内外市場分断、業務分野、金利の規
種組織体の経営問題を包含した複合的な社会的問
制の撤廃という規制的要因と、ICT(Information
題を取り扱い、それらの実態と共にその克服・解
7)
and Communication Technology:情報通信技術)
決を探究し、未来の方向性を提示するという姿勢
や FT(Financial
を堅持してきたのである。以下では、この考察上
的な活用という技術的要因により、国外事業の内
の視座を持ちながら経済や社会、また様々な業界
容拡充と取扱量増加を図る銀行や、銀行事業へ新
の経営を言及してきたドラッカーが、次社会の金
たに参入する異業種・異業態企業も見られるよう
融サービス業というものをいかに位置づけている
になり、これまでの業界・業態・地域を超えた高
のかを検討すると同時に、その考察において補完
度な競争が展開されている。したがって、次社会
すべき点について具体化する。
はいかなる境界もなく、様々な組織体が知識や情
8)
Technology:金融技術)
の積極
報という生産手段を同様に入手できる社会とな
り、ドラッカーは、それら知識・情報を基盤とし
―1
3
2―
森
俊也
業界企業へのニュービジョンの提起とその際の課題
2
3
5
高度な競争が展開される代表的な産業として金融
術をもとに革新を図りながら取組むべき事業につ
サービス業を位置づけている。彼はそう位置づけ
いて提起している。
た上で、業界・業界企業のこれまでの知見や行動
特性、業界を取り巻く環境変化を斟酌し、知識社
4.
2. 採りうる選択肢の提案:評価される点2
会において同業界企業が採りうる道や選択肢を示
ドラッカーは図表2のようにイノベーションの
している。しかし、このような有用な提案がある
領域や中身について具体化した上で、金融サービ
一方で、その方向へと向かう「契機・きっかけ」
ス産業の既存企業が生き残るために採り得る3つ
が示されていないなど補足すべき点もみられる。
の道を提示している。第1に、かつてうまくいっ
4.ドラッカーが捉える金融サービス業の認
識において評価される点と補足すべき点
4.
1. われわれの事業の解明:評価される点1
ていたやり方を守り続けるという道である
(Drucker、2002、pp.
14
1‐142.)。し か し、こ の
やり方は世界が社会・経済・テクノロジーなどあ
まりにも多くの変化が進行している現況において
ドラッカーは、現在において金融サービス業の
不可能であり、いつまでも変わらずにいられるわ
中枢を担うロンドン「シティ」の再生に関わる経
けがないことを彼は指摘している。かくして、産
緯や、金融サービス業のビジネスの国境を越えた
業としては生き残れるかもしれないが、衰退して
地理的拡大について指摘し、同業界を取り巻く社
いくことは避けられないということを彼は危惧し
会環境の変化はめまぐるしく、今後この業界が繁
ている。また第2に、金融サービス業が外部から
栄するためには根本的なイノベーションが不可欠
の革新的参入業者や新興企業に取って代わられる
となることを主張している。彼は、そのイノベー
という道である(Ibid., p.
142.)。これは、かつて
ションに関連して、金融サービス業に所属する企
のシティにおける多くの英国企業のように、諸外
業においては、1970年以降、革新が行われてこな
国企業の完全子会社等になるという形で創造的な
かった事実について言及している(図表1)
。こ
破壊者に相当に早いペースで乗っ取られるという
のように30年の長期にわたり革新が行われてこな
パターンである。さらに第3に、他から創造的な
かった状況9)に鑑み、彼は金融サービス企業にお
破壊をされるのではなく、自ら変革を担い「創造
けるイノベーションの具体化を試みながら「われ
的破壊」(creative destruction)を進めるという道
われの事業とは何か」について言及し、今後の同
である(Ibid., p.
142.)。
業界において収益の柱となる事業や市場について
ドラッカーの見解を筆者なりに纏めれば、同業
解明している。彼は、金融サービス業を取り巻く
界の今後においては、第1の道は各種環境の変化
大きな変化やその流れというものを明らかにした
している現状や、今後のそれらの更なる変化を想
上で、今後の同業界において収益性の高い3つの
定すれば現実的ではなく、第2の道あるいは第3
事業機会を実際に提示している(図表2)
。この
の道を選択肢として考えねばならないことにな
ように彼は、知識社会において金融サービス企業
る。したがって、既存の金融サービス業が自覚的
が訴求すべき市場や、様々な知識・情報や情報技
にイノベーションの必要性に気付かず、経営や事
図表1.1
9
7
0年以前の金融サービス業界における段階的なイノベーション
(Drucker,1
9
9
9;Drucker,2
0
0
2)
5
0年代以前
5
0年代
●ユーロ・ダラーやユーロ債という金融商品が登場し同産業が成長
●最初の現代的な年金基金が誕生しそれに伴い機関投資家という存在が発生
●企業年金基金ブームが生まれ機関投資家が主役へと成長
●敵対的な企業買収の仕掛けや管理を中心とするプライベートバンキングが誕生
6
0年代
●法定通貨になりつつあるクレジット・カードが誕生
●強力なリーダーシップとそれをもとにした情報の積極活用によるシティバンクの
グローバル銀行化
―1
3
3―
2
3
6
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
図表2.金融サービス業における事業機会<(Drucker,2
0
0
2)の見解をもとに革新度ごとに筆者が整理>
!中高年中流個人投資
人口構成上大部分を占める顧客層を対象にした事業。人口構成上割合が高ければ個々の
家市場分野[p.
1
4
3.
] 投資額が少なくても全体としてみれば大きな投資額となるため、そのような中流層に焦
点を絞り込みながらそれらの各種のニーズに即応した事業展開が求められることを彼は
指摘している。市場の大きさという視点で同事業を提起しているため、働きさえすれば
"自 己 勘 定 取 引(ト
レーディング)事業
よく(only hard work)何の革新をも必要としない市場分野。
貸している資金と借りている資金の満期のズレを埋め、リスクの最小化を狙いとする事
業(株式・債券・デリバティブ・通貨・商品取引等の事業)
。同分野は、単に努力や働
分野[pp.
1
3
6−1
3
7.
] くことのみで高収益が達成される(1)の事業よりは革新性はあるものの、金融機関と
して蓄積してきた金融市場におけるノウハウを活用できるため、その程度はそれほどで
#中規模企業の財務管
理のアウトソーシン
はない。
中規模の企業からの財務関連業務のアウトソーシングを請ける事業。ドラッカーは、先
進国の経済で多数派を占めるのは中規模企業であるという認識のもと、それら企業は、
グ 事 業 分 野[pp.
1
4
4 製品、技術、マーケティング面では効率的な展開ができる規模であるものの、とりわけ
−1
4
5.
]
財務管理面については、殆どの中規模企業で必要な能力を支えるには規模が不足してお
り、資金の生産性やキャッシュフローには安定性がないことを指摘する。それらを請負
い、クライアントの財務ニーズをさらに証券化した商品は、上記(2)における中流階
級のリテール投資家にとって魅力的な投資商品となるため、(3)と(2)を相即的に
考えていくことが不可欠となる。本格的にはビジネス化されてはいない分野であるため
(2)より革新度は高くなる。
業の革新を他国や他業界の革新者に任せてしまえ
道」、の2つがあるとしている。筆者はこのドラ
ば、かつてのシティの状況と同様に第2の道とな
ッカーが示す見解について2つの課題・問題があ
る。また、イノベーションの必要性を何某かの
ると考える(図表3)
。まず1つ目として、金融
「きっかけ」により気付き、自覚的に経営や事業
サービスという業界が新規参入者により駆逐され
の革新を行うということになれば第3の道という
たり、または乗っ取られたりすることは現実には
ことになる。このように彼は金融サービス業が今
考えられにくいのではないかという点である。ま
後において生き続ける道を提示している。単にそ
た、新規参入者をそういった位置づけで捉えるこ
れぞれの道を導出しているのではなく、金融サー
とのみで良いのかという点である。わが国におい
ビス業界のおかれている社会・経営環境の変化、
て異業種から新規参入した企業について確認する
業界のこれまでの経験的な知見や業界企業の行動
と、業績を安定化させている企業がある一方で、
特性などを斟酌しながら方向性を提案しているの
多くの企業は「新規」ということによる顧客獲得
である。
費用の膨大さや、新規参入者の好条件(高金利、
5.金融サービス業の採り得る道の提起と
それに関する課題:業界企業の新たな方
向性のみではないその方向へと向かう契
機の提起
安価手数料)による商品設計、さらには、チャネ
ルの限定による顧客誘引の難しさ、などの要因に
より苦戦している。また、新規企業の中には既存
企業を買収しビジネスを展開するケースも見られ
るが、業界全体を乗っ取るまでには至っていな
ドラッカーは金融サービス業が採り得る道(生
い。このような新規参入の状況であれば、ドラッ
き残る道)として、第1の道は適切ではなく、第
カーは、業界がそれら参入者に駆逐されてはいな
2の「金融サービス産業が外部からの革新的な参
い状況であり、業界企業の収益が圧迫されてはい
入企業 や 新 興 企 業に 取 っ て 代 わら れ る と い う
ない状況として理解するであろう。何故ならば、
道」、第3の「既存の金融サービス業自らがイノ
彼は、M.E. ポーター(Porter、1980;1985)など
ベーシ ョ ン を 担 い創 造 的 破 壊 を進 め る と い う
と同様に、新規参入という事態や新規参入者を既
―1
3
4―
森
俊也
業界企業へのニュービジョンの提起とその際の課題
2
3
7
図表3.金融サービス業が採り得る道とそれに関する問題
<それぞれの「場合」
「問題」については,(Drucker,2
0
0
2)の見解を踏まえて筆者が導出>
第1の道
かつてうまくいっていたやり方を守り続けるという道
⇒社会・経済・テクノロジー・政治などの大きな変化の中で、これまでのやり方を堅持する場合
第2の道
金融サービス業が外部からの革新的参入業者や新興企業に取って代わられるという道
⇒既存の金融サービス業が自覚的にイノベーションの必要性に気付かず、経営や事業の革新を他
国や他業界の革新者に任せてしまった場合
<問題>
①新規参入者が実際に既存業界を乗っ取り得るのか
②新規参入者について既存業界を乗っ取る存在として位置づけるのみでよいのか
第3の道
他から創造的な破壊をされるのではなく,自ら変革を担い「創造的破壊」を進めるという道
⇒イノベーションの必要性を何某かのきっかけや契機により気付き、自覚的に経営や事業の革新
を行った場合
<問題>
第2の道と第3の道は相互関連的ではないのか(新規参入をきっかけにして既存企業のセルフ
イノベーションが図られるのではないのか)
存業界のシェアを奪い既存企業の収益を圧迫する
環境の変化」というものが起因となり、競争相手
存在として捉えているためである。しかし、その
の経営や戦略を前向きに分析することで既存企業
ような既存業界や既存企業による新規参入者の見
のイノベーションが図られ得ると考えられる10)。
方のみで良いのであろうか。筆者は、シェアを奪
かくして、新規参入者について、業界を乗っ取り
い収益を圧迫しなければ既存企業はそれらの存在
既存企業を脅かす存在として位置づけるのではな
を無視して構わないわけではないと考える。収益
く、既存企業が自身のイノベーションを図る上で
への圧迫という従来の競争戦略的な見方や視角も
の契機として位置づけ、新規参入者と既存企業の
勿論必要であるが、新規参入者のマーケットイン
セルフイノベーションを相互関連的なものと捉え
志向の事業展開から既存企業が学習することがで
ることがより重要になるであろう。
きる様々な効果(学習を通して得られる既存企業
知識・情報が事業遂行における基底となり、高
におけるイノベーション機会の発見)に着目して
度な競争が展開されうる金融サービス企業におい
いくことがより重要であるように思われるのであ
ては、内外環境の変化を熟慮しドラッカーが提起
る。
するような「われわれの事業や採る道」を解明
また2つ目は、彼が示す金融サービス業の「第
し、その方向へと各機能を統合させながら変革し
2の道」(新規企業に取って代わられる)と「第
ていくことが不可欠となる。しかし、その方向性
3の道」(既存企業が 自 ら イ ノ ベ ー シ ョ ン を 図
のみでは不十分であり、それとともに、業界への
る)というのは別々のものではなく、極めて相互
新規参入に代表されるような外部・競争環境の大
関連的なものではないかという点である。何故な
きな変化をそこへと向かう契機として捉え、イノ
らば、何の契機・きっかけもなく、ドラッカーが
ベーションを具現化していくことが極めて重要と
指摘するような、既存の金融サービス企業がそれ
なるであろう。
自体でセルフイノベーションを図ることは難しい
と筆者は理解するからである。それら企業自らが
<主要参考文献>
イノベーションを行うことが生き残りの方法であ
Drucker, P. F.(1
9
5
4)
、The Practice of Management, Harper
ると彼により提示されてはいるものの、具体的な
契機等については提示されてはいない。何かを
きっかけにして、それらの企業の種々の革新が図
られることになるため、
「新規参入者という競争
Business.
(上 田 惇 生 訳『新 訳
現 代 の 経 営』
(上・
下)ダイヤモンド社、1
9
9
6。
)
Drucker, P. F.(1
9
9
9)
、Innovate or Die、1
9
9
9Annual Essay
and Report The Conference Board.
(エァクレーレン・沢
―1
3
5―
2
3
8
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
0
7
崎冬日訳「金融再編時代を生き抜く成長戦略」
『週刊
品が一般に取り扱われているためである。また、そ
ダイヤモンド』1
9
9
9・1
2・4。
)
のような金融商品を提供していく際には単にカネの
Drucker, P. F.
(2
0
0
2)
、Managing in the Next Society, Tru-
視点から捉えるのみでは不十分であり、それらが何
man Talley Books St. Martin’s Press(上田淳生訳『ネク
のために取引・購入・決済されるのか(多くがモノ
スト・ソサエティ』ダイヤモンド社、2
0
0
2。
)
・サービスの消費に利用される)という視点から業
小西龍治(2
0
0
0)
、「ICT(情報通信技術)革命と 金 融
業」
『邦銀──勝者への選択──』金融財政事情研究
会。
界を捉えることが必要となるためである。
2)教 育 問 題、人 口 構 造 の 問 題、労 働 者 の ラ イ フ・
ワークキャリアの問題、政治問題、福祉問題、さら
河野大機(1
9
9
4)
、『ドラッカー経営論の体系化』
(上
巻)三嶺書房。
に最近では情報化問題などを含めた社会的問題。
3)彼によれば、次社会である知識社会は、(1)
知識は
河野大機(1
9
9
5)
、『ドラッカー経営論の体系化』
(下
巻)三嶺書房。
資金よりも容易に移動するためいかなる境界もない
社会、(2)
万人に教育の機会が与えられるために上へ
松藤賢二郎(2
0
0
4)
、「知識経済におけるドラッカー経
の移動が自由な社会、(3)
万人が生産手段としての知
営管理論」
『日本経営学会・第7
8回大会報告要旨集』
識を手に入れ成功と失敗が並存する社会、という3
(所収)
。
森
つの特徴を持つことから、組織にとっても人間各人
俊也(2
0
0
3)
、「わが国銀行業界の競争時代におけ
る戦略的枠組み」日本経営学会編『経営学論集第7
3
集』千倉書房。
森
にとっても、高度に競争的な社会になるとしている
(Drucker、2
0
0
2、pp.
2
3
7
‐
2
3
8.
)
。
4)デジタル技術やインターネットに代表される通信
俊也(2
0
0
5a)
、「変革期の企業におけるイノベーシ
技術。IT の活用により、1)ネットや端末を中心と
ョンの視点」日本経営学会編『経営学論集第7
5集』
したデリバリー・チャネルの強化・展開、2)顧客
千倉書房。
の行動や心理をもとにしたニーズ分析やデータベー
森
俊也(2
0
0
5b)
、「規制業界における競争の認識とパ
スの構築、3)決済・勘定システムの構築、等が可
ラダイムの転換」
『Journal Of Business Management
能となる。かくして、金融・銀行以外の企業におい
(日本経営学会誌)
』第1
5号、千倉書房。
ても、IT を有効に活用することによりこれまでより
森
俊也(2
0
0
6)
、「競争戦略フレームワークにかかわ
る一考察」
『長野大学紀要』第2
8巻、第2号。
容易に金融・銀行事業に参入することができるよう
になっている。つまり、M.E. ポーターが指摘する参
Porter, M.E.(1
9
8
0)
、Competitive Strategy : Techniques for
入障壁(①規模の経済、②独自の製品特性、③ブラ
Analyzing Industries and Competitors, The Free Press.
ンド・アイデンティティ、④顧客にとっての乗換え
(土岐坤・中辻萬治・服部照夫訳『競争の戦略』ダ
コスト、⑤参入に必要な資本、⑥流通チャネルの確
イヤモンド社、1
9
8
2。
)
保、⑦絶対的なコスト優位、⑧独自の学習経験、⑨
Porter, M.E.(1
9
8
5)
、Competitive Advantage : Creating and
独自の製品設計による低コスト生産など)を低める
Sustaining Superior Performance, The Free Press.(土岐坤
ことが可能となっており、数多くの企業による競争
・中辻萬治・小野寺武夫訳『競争優位の戦略』ダイ
が展開されることになる。
ヤモンド社、1
9
8
5。
)
5)9
0年 代 に お け る IT の 発 達 に よ り、銀 行 業 で は
高 瀬 恭 介(1
9
9
9)
、『金 融 変 革 と 銀 行 経 営』日 本 評 論
社。
ATM の処理やクレジットカードに代表されるような
「決済の電子化」を促進させることになった。また
最近では、電子化された決済データがデジタル化さ
注
れ、マーケティングに応用・活用されている。すな
1)筆 者 は「金 融 サ ー ビ ス 業」を「銀 行、証 券、信
わち、「決済の電子化」から「決済の情報化」を可能
託、保険などの金融商品を提供するとともに、金融
にさせ、この結果、金融商品のみならず金融以外の
はモノ・サービスの消費に利用されるものと認 識
あらゆる商品・サービスをデジタル化された電子決
し、モノ・サービス・カネを一体的に提供しながら
済手段によって統合的に把握することが可能とな
新たな事業機会の創造を図ろうとする業界」と定義
り、さらにインターネットの活用により情報化され
する。本稿において銀行業や銀行サービス業として
た決済データを様々なデータと容易に、しかも双方
いないのは、業務分野等をはじめとする規制の崩壊
向的に統合することが可能となっている。
により銀行業においても証券、保険を含む異業態商
6)一般企業から銀行事業へ参入したソニー銀行の事
―1
3
6―
森
俊也
業界企業へのニュービジョンの提起とその際の課題
2
3
9
例から見出されるように、銀行事業により決済情報
与え、変化の範囲は極めて広範であり、その奥行き
を獲得し、その情報から既存の商品・サービスの売
は深い(投資形態、業界構造、大銀行と中小銀行と
れ筋を特定したり、新商品・サービスの開発に結び
の関係、銀行機能、等)としている。
つけようとしている。ソニーグループにおいては、
8)高度な数理理論とコンピュータを使い新商品の開
ネットをキーワードにしながらハードとソフトと銀
発やリスクの分析を行う技術。この活用により企業
行を一体化させることにより、シナジーを達成する
は、リスクの計量化や分析、顧客のリスクニーズに
とともに、銀行にて得た情報をハードとソフトの構
もとづいた新商品の開発が可能となる。金融業・銀
成を考える上で、また新たなものを開発する上での
行業においては、預金・貸出業務に加えてリスク仲
機会としている。つまり、顧客の決済情報を獲得す
介業務を中核にすえることが不可欠となり、不確実
ることで、ソニーの商品の購入傾向を掴み、それら
性の高い多種のリスクをとる必要があるため、FT の
の商品を強化したり、新商品の開発に着手すること
取り込みと効果的な活用、さらには自社独自の開発
ができる。また、決済情報により、ソニー以外の商
が事業遂行上極めて重要となる。
品の決済がなされた場合には、現在、どのような商
9)7
0年以降は改善程度のものしか行われていないと
品が購入されているのか、またその中でソニーの競
ドラッカーは認識している。一般にはデリバティブ
合商品がないのかを理解することができ、ひいては
が革新と認識されてはいるものの、その提供が顧客
自社に追加すべき商品の検討や自社の商品・サービ
のためのサービス目的ではなく投機の際の収益性の
スの見直しをする契機と位置づけている。とこ ろ
強化とリスク低減というトレーダーのためのもので
で、決済情報のマーケティング活動への活用・利用
あると彼は理解しており、その革新性の程度への彼
は「個人情報保護」の観点からすれば困難を伴うこ
の評価は低いものとなっている。
とになる。現実に社会では、情報の誠実な利用がな
1
0)拙稿(2
0
0
6)は、わが国銀行業界への新規参入者
されなかったり、不正に流出されたりするケースも
(流通系・エレクトロニクス系からの参入銀行)の
多く見られることから、個人において情報を保護し
戦略・戦術を既存企業が前向きに学習・分析するこ
ようという作用が働くためである。上記したよ う
との効果を明らかにしている。例えば、新規参入者
に、収集した情報等は社会に有用な商品・サービス
の参入上の狙い・目的・計画、具体的な取組み等を
の開発の機会になる可能性を秘めている。またそれ
分析することで、大手企業を主要顧客として店舗や
らを我々が使用し、便益にもなり得る。このような
ATM を中心として提供してきた既存企業のビジネス
状況が形成されれば、個人の情報の提供は促進され
モデルの転換が必至となり、知識・情報産業化する
るであろう。かくして、企業や社会は個人の情報に
金融サービス業のイノベーション課題が見出される
ついて誠実に対応し、目的を明確にしながら活用し
ことになる。また、新規参入者の参入上の狙い・目
ていくという姿勢を確立していくことが求められる
的等を検討することで、それら参入者が当該業界と
であろう。それに連動し、誠実なところに情報がさ
いうものをいかに規定しているのかが分かり、同業
らに集まり(個人の立場から言うと「流し」
)
、その
界における既存企業の経営・事業展開上の方向性が
情報を用いて有効なビジネスが展開されることによ
導き出されることになる。新規参入者を学習・分析
り、情報の相互作用が始まり、それにより初めて情
することにより単に金融商品を提供する「金融業・
報活用社会(情報化社会)となるのではないかと考
銀行業」から、顧客へのモノ・サービスとカネの一
えられる。
体的な提供を志向し、顧客に関わる知識・情報を有
7)高瀬(1
9
9
9)によれば、コンピュータ技術と情報
効に活用しながら次の事業機会を追求していく「金
通信技術を融合した「情報通信技術」は、銀行業務
融サービス業」という新たな経営的方向性が見出さ
のインフラストラクチャーとなり、銀行業務そのも
れる。
のに体化されて銀行業務やその機能に大きな変容を
―1
3
7―
長野大学紀要
第2
9巻第2号 1
3
9―1
4
3頁(2
4
1―2
4
5頁)2
0
0
7
町村合併後の新上田市における国保・介護保険運営と
「健康で元気なまち創り」について
On the National Health Insurance and Nursing-care Insurance
Administration and the “healty and cheerful City Plan”
in New Ueda City after the Merger Towns and Village
海
野
恵美子*
野
村
Emiko Umino
健一郎**(文責:海野)
Kenichirou Nomura
ム化としての行政改革や行政と住民の協働による
¿ 研究の目的
まちづくりを施政方針に掲げ、取り組むべき具体
旧上田市は、地方分権改革推進法による国の地
的課題として産業や地域の人々の絆や文化といっ
方分権改革に基づき、旧丸子町・旧真田町・旧武
た社会的・経済的・文化的側面も含む「人」「産
石村の旧3町村と対等合併し、2006年3月6日、
業」「地域」のトータルな「健康で元気なまち創
新上田市として再出発した。国の町村合併の基本
り」を挙げている。財源縮小下で市場化と住民自
的ねらいは、行政業務の市場化(公から民へ)や
治により少子高齢化に必要なサービスをどのよう
分権化(国から地方へ)で行政のスリム化(
“小
に提供しようとするのか、また、その課題は何か
さな政府”化)と人的コスト削減を図り、グロー
を上田市の事例を通して検討することは、他の多
バルな市場競争に打ち克つ中央集権的市場社会1)
くの市町村が直面している課題を明確にすること
化を推進することであり、このために、地方の国
にも繋がるはずである。そこで、市が保険者であ
からの財政的自立、縮小する行政サービスを埋め
る国保・介護保険運営を中心に、介護・医療保険
るための行政と住民の協働によるまちづくり、自
制度改正も含めて合併に伴う新上田市の医療・介
立支援の理念の下での国の策定した基本方針に
護施策の動向を検討した上で、行財政の効率化と
従っての地方自治体による実施計画の立案・実施
いう状況の中での「健康で元気なまち創り」の課
等が求められている。この方針の下、社会保険の
題についてまとめることを本研究の目的とした。
領域では、自立支援・(疾病・介護)予防重視に
À 研究の方法と分担
よる介護費及び医療費抑制の適正化に向けて2005
年の介護保険法改正、2006年の医療保険制度改正
研究方法に関しては、合併に至る経緯をふまえ
が行われ、実施責任者の地方自治体は財政難の下
ての新上田市の「健康で元気なまち創り」の基本
でのサービス水準の維持・向上という難しい保険
方針や具体的施策について明確にした上で、医療
運営を迫られている。こうした国の方針に基本的
については、国保の保険財政運営、地域協議会に
に従いつつ市町村合併を進めてきた新上田市の新
おける医療に関する要望、健康創り計画等を検討
市長(旧上田市長)は、「健康元気都市『新生上
し、介護については、旧3町村のこれまでの取り
田』の創造と挑戦」をスローガンに、行政のスリ
組みと合併後の変化を中心に聞き取りや資料収集
*浦和大学総合福祉学部教授(社会福祉学部教授2
0
0
7.
3.
3
1退職)
**社会福祉学部教授
―1
3
9―
2
4
2
長野大学紀要
をした。
第2
9巻第2号 2
0
0
7
は海野)
。他方、行政のスリム化としての行財政
研究分担に関しては、旧町村や合併前の居宅介
改革については、国の方針通り、指定管理者制度
護サービス及び福祉のまちづくりの中核的事業者
等による「民間委託等の推進」
・第三セクター見
である、社会福祉協議会等への聴き取りは海野と
直し・経費節減・定員管理の適正化・事務事業の
野村が共同で担ったが、本稿文責は海野、社会福
整理等により、5年間で職員数を4.
6%削減して
祉協議会に関わるより詳細な分析は野村が別途分
給与の適正化を進めることを「集中改革プラン」
担し執筆した。
とし、このために一般企業で実施されてきた「目
Á 研究結果
標管理制度」
、成果重視の「行政評価制度」
、「職
1.合併に伴う新上田市の基本方針
導入するとしている(2006.
12.
25「第一次上田市
員提案制度」といった個々の職員向け管理手法を
旧3町村と旧上田市は、1971年の旧広域行政事
行政改革大綱」)。
務組合への参加、介護保険法への対応としての
1998年の上田地域広域連合への再組織化とこれに
2.基本方針の実施状況と課題
よる介護認定業務及び老人福祉施設(特別養護老
1)地域自治センター及び地域協議会における分
人ホームと養護老人ホーム)の共同運営等、行政
権的自治の実施状況
事務上、長く密接な関係をもってきた。しかし、
上記のように5年間で徐々に行政のスリム化を
『上田市・丸子町・真田町・武石村
新市将来構
図る方針なので、合併後1年間での大幅なサービ
想』2003によると、
「広域連合が本質的にかかえ
スの低下は回避されている。また、地域自治セン
ている弱み」
(責任所在の不明確さ、利害対立の
ターが旧3町村では旧役場に、旧上田市では主に
際の調整困難、存在の見えにくさ等)があると言
公民館に設置されたことにより、ワンストップで
う。日常生活圏の拡大、少子高齢化等による住民
行政サービスが提供され、新設の地域協議会もこ
ニーズの高度化の一方での地域活力低下や厳しい
こで開催され、住民自治の拠点として動きはじめ
財政状況等から合併の機運が高まったが、反面、
ている。地域協議会の最初の業務は「第一次上田
2003年の旧真田町での住民調査では「合併必要無
市総合計画
地 域 ま ち づ く り 方 針」へ の 答 申
し」が「必要有り」を上回る動きがあり、合併に
(2007.
2.
9に市長へ答申。会議内容は、逐次、イ
よる地域の個性の喪失や地域格差拡大等も懸念さ
ンターネット上で公開されている。)であった
れたため、
「新設対等合併」が合意された。これ
が、その後も自主的にまちづくりのプランを出す
に基づいて旧3町村と旧上田市4地区に設置され
等の動きや、塩田・武石地域協議会からは医療
たのが、身近なサービスの提供と住民自治の拠点
(特に産科)・介護施設の充実や増大する高齢者
となる地域自治センターと、a.合併不安解消、
負担への支援、真田地域協議会からは地域自治セ
b.住民の自治及び行政との協働意識高揚、c.
ンターへの権限・予算付与等を付帯意見として出
分権型自治の体制づくりを目的とする地域協議会
す等、特に旧町村を中心に分権型自治への関心や
である。特に、地域協議会は、①条例で新市独自
期待は大きい。これに対して、財源抑制下での行
制度として期限を設けず、②旧町村だけでなく旧
政運営や調整機関としての地域協議会連絡会議の
市も含めた地域に設置し、委員も③公募委員を含
対応が注目される。なお、
「住民自治の推進や住
め(但し、市長の選任制)、④市の非常勤職員と
民と行政の協働によるまちづくり」が地域協議会
して報酬を支給し(任期2年)、⑤協議会でまと
の審議事項の規定に挙げられているが、「合併協
まった答申・意見等は実施計画・予算措置・事業
定書」では種々の保健福祉計画(「高齢者保健福
実施に移され、⑥協議会からの発案で9協議会の
祉総合計画(高齢者保健福祉計画、介護保険事業
調整・情報共有機関としての各協議会の正副委員
計画)」・「地域福祉計画」
・「障害者計画」・「健康
を構成員とする地域協議会連絡会議(仮称)
(無
づくり計画」等)は従来の計画策定委員会での検
報酬)も設置される等の点で、住民自治の点から
討事項で、地域協議会での検討事項にはなってい
は全国的にも先進的取り組みと評価できる(下線
ない。更に、新市を想定して3年間の計画として
―1
4
0―
海野恵美子・野村健一郎
町村合併後の新上田市における国保・介護保険運営と「健康で元気なまち創り」について 2
4
3
策定された「上田市高齢者保健福祉総合計画」で
にも営利事業のようには人件費の削減ができな
「他の計画との整合性」を謳い(
『いきいき安心
かったことにあるとされており(野村の別稿参
プラン』上田市、2
006.
3)、上記「総合計画」に
照)、これを踏まえるならば、コスト低下がサー
関する協議会での協議でも高齢者保健・医療・福
ビス低下とならないよう、今後の指定管理者制度
祉がまちづくりの重要な課題として挙げられてい
の運用については、①一定のサービス水準を保障
るが、「上田市高齢者保健福祉総合計画」
・「地域
するコストでの委託とすること、②地域経済の活
福祉計画」、加えて社会福祉協議会作成の「地域
性化による地元職場の確保という点からも、上田
福祉活動計画」も従来の策定方式を踏襲したまま
地域広域連合が事業者選考基準としてこれまで挙
で地域協議会の議論とは全く無関係に作成されて
げてきた地元に密着した事業者を考慮する等の配
いる。個人→小地域→市全体へと住民のニーズの
慮も必要ではなかろうか。
ボトムアップ化で計画の総合化を図ることが分権
型自治の時代の地域計画づくりであるとすれば、
3.合併後の国保運営状況と課題
地域協議会を住民自治の拠点としていくために
合併後は数年かけて国保税率を均一化するとの
も、各地域の保健医療福祉等の諸計画策定をまち
合併協定書の方針に従い、旧町村の国保税率は
づくり計画の一環として地域協議会の審議事項に
2006・2007年とも不均一税率とした。税率改定、
入れることや、地域協議会を活用した諸計画の策
特に合併後初の2006.
4の改訂では、高齢化の一層
定方法への転換等、地域を基礎にした分権型自治
の進展と医療保険制度改正による高齢者医療支出
にふさわしいボトムアップ型の計画策定方式の構
増の一方、国庫負担削減、非正規雇用者増加等に
築が早急の課題であろう。関連して、介護の領域
よる保険料収納率低下等があり、積立金を下ろし
では、2005年の介護保険法改正で中学校区を単位
ても前年比連続かつ20%強の引き上げ見込みとな
とする「日常生活圏域の設定」によるサービス基
り合併への風当たりが強まることも予想されたた
盤整備が法定化され、上田市では、地域自治セン
め、上田市初の一般会計からの繰り入れで10%台
ター設置地域とほぼ重なる1
0地域を該当地域とし
の引き上げ率に抑えるとともに国保会計の赤字化
そこに地域包括支援センターを置いているので、
を回避した。他の税を含めた2007年度は、2005年
両者の管轄区域との整合性や地域包括支援セン
10月施行の保険財政安定化事業の通年化や公的年
ターと地域協議会との連絡調整を図る課題はある
金・国保特別控除引き下げ等の制度改正により、
が、ボトムアップ型のニーズ把握や計画作成を行
単年度収支は黒字となり、国保税率は平均0.
9%
うことは可能となっている。
の引き下げ、所得割は不変、資産割については、
2)行政のスリム化としての行財政改革の実施状
長野・松本市が廃止していることも踏まえて、税
況と介護・地域福祉への影響
率引き下げが実現した。合併という特殊事情が背
上記の行政のスリム化策として広域連合が運営
景にあったからとも言えるが、このように財政状
していた老人施設(特別養護老人ホーム・養護老
況に応じた柔軟な税の保険会計への投入が保険財
人ホーム)及び社会福祉協議会に委託してきた居
政の危機的状況に効果的に機能したということ
宅介護サービスに指定管理者制度が導入され、前
は、今後の国保運営に教訓を残したと言えよう。
者は地元医療法人、後者は全国展開している営利
平成20年度以降は、2006年医療保険制度改正で、
事業者に経営委託された。社会福祉協議会は、赤
75歳以上の後期高齢者では各県1つの広域連合
字化した訪問介護・訪問入浴事業からは撤退し
が、65歳以上74歳の前期高齢者では都道府県を単
て、公正中立性が求められている地域包括支援セ
位とする財政調整制度により市町村が共同で責任
ンター事業等の「公共性」とボランティア活用と
を負うことになるが、他方で、40歳以上の成人被
いった「自主性」に重点を置く事業への転換を図
保険者には保険者に健診・保健指導を義務付け個
る等、経営の効率化に努めている。しかし、社会
人毎の健康管理を徹底して医療費抑制を進めるこ
福祉協議会の訪問介護事業赤字化の主因は、介護
とになるため、国保保険者の市町村にはこの面で
報酬の削減に対して介護の質の低下を避けるため
の管理責任が増すことになる。長野県内での一人
―1
4
1―
2
4
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長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
0
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7
あたり医療費は、旧武石村では低いが旧丸子町で
されてきた旧上田市地域では従来通り地域包括支
は県内一高く旧上田市も高い部類に入るが、その
援センターの多くが民間委託化されており、3年
主な理由は病院数の多さに起因するとされていた
後の改訂では、新市の民営化推進方針もあり、旧
が(旧町村保健機関での聴き取りに拠る)
、国の
3町村の地域包括支援センターも民間委託化に向
医療費抑制策下でこうした現在の相対的には潤沢
かう可能性が強く、この点を危惧する声や、小地
な医療環境が崩壊しないよう、また、新市の「健
域故に一人一人の生活を丸ごと把握して気心が知
康で元気なまちづくり」を文字通り実現するため
れた健康づくりを実践してきた旧町村の保健活動
にも、短期的な支出削減ではなく長期的な視野か
が失われていく懸念も聞かれた。更に、介護保険
ら、産科等の分野別アンバランスの解消や医療圏
法改正で新規サービスとなった介護予防サービス
域・介護の日常生活圏域・まちづくり拠点である
の中には、「おたっしゃ教室」「男性クッキング」
地域協議会の区域等、単位となる地域の整合性を
等、旧町村で評価されてきた事業が取り入れられ
確保しつつ、医療・保健・福祉の専門的資源・人
たりしている一方、旧町村では存在感が大きかっ
材の適材適所の配置・活用による効率的な地域ケ
た社会福祉協議会も合併協定書の取り決めに従っ
アシステムを構築し、これを土台にまちづくりと
て合併後に統合された結果、地域での高齢者と子
一体化した住民参加型の健康づくりを進めること
供とのふれあい活動等を行う人材が手薄となり、
が急務であろう。
事業の存続を危ぶむ声も聞かれた。こうした住民
収納率の低下と増大する多額の未納額(2003で
からも支持された成果もあった保健士・社会福祉
7.
9億円で調定額の2割弱)等で問題であった国
協議会職員等による保健・地域福祉活動を営利事
保保険料収納対策では、2
007年にコンビニ収納
業者や住民活動がどのように維持・発展させてい
と、保育・介護保険料も含めて個々の滞納状況を
くのか、目下の検討課題であろう。
一元管理し滞納整理支援も行う収納管理センター
財政面では、2007年度の介護納付金課税額は、
の新設を予定しているが、後者の運営では、支払
国保税と同様の減額改定で、資産割は国保税とは
い能力の明確化を前提として、国保における不安
異なり廃止されたが、65歳以上の介護保険料につ
定就業者の増加という現状からも、
「歩く区役所
いては、区分も旧上田市と旧真田町で5段階、旧
の窓口」として集金以外にも住民の生活相談に乗
丸子町と旧武石村は6段階だったが、合併後の
り長期滞納を防いでいるとされる名古屋市の国保
2006の改正では高所得者の負担を大きくして7段
推進員制度の取り組みも参考になる。また、国が
階とする一方、区分1の最低所得層の負担も旧上
規定する保険料の決め方(地方税法で応益割合を
田市では年額0.
6万引き上げられた。国保税より
規定)の見直し等も含めた低所得者対策の抜本的
も収納率が高い介護保険料普通徴収についても、
な検討が“皆保険”の維持には必要であろう。
上記のように、新市では、国保と一緒に収納管理
センターによる収納管理とする予定だが、これに
4.合併後の介護保険の運営状況と課題
ついても上記の国保と同様の指摘ができよう。
上記のように、2
005年の介護保険法改正があっ
たため、2006年3月の合併時に3年間の「上田市
 終わりにあたって
紙幅の限りがあるため、われわれの希望・期待
高齢者保健福祉総合計画」が策定された。サービ
ス基盤整備については、上記のように、旧市町村
を提示することで結びとしたい。
の従来計画を大きくは変えないことが基本的方針
合併が行財政の効率化をその主要目的としてい
であり、旧3町村での聞き取りでも、基本的には
る以上、医療・介護サービスへの負の影響の懸念
大きな変更は無いとのことであった。但し、合併
も大きいが、「対等合併」による「分権型自治」、
前は旧3町村とも在宅介護支援センターを行政直
総合的な「健康で元気なまち創り」という新市の
営で運営するなど行政主体の介護運営をしてきた
方針や、日本の家事援助サービス発祥の地でもあ
ので、この点は合併後も踏襲されてはいるもの
るという旧上田市の歴史的文化的独自性も活かす
の、基幹型在宅支援センターの多くが民間委託化
ならば、市場化重視よりも非営利・住民自治重視
―1
4
2―
海野恵美子・野村健一郎
町村合併後の新上田市における国保・介護保険運営と「健康で元気なまち創り」について 2
4
5
の福祉の多元化と、生活を支える医療・保健・福
注
祉サービスの充実(介護における家事援助サービ
1) 中央集権的市場社会とは、「行政と民間のパート
スの保障を含む)により、地域において若者や女
ナーシップの名の下に地方行政を民間営利企業に解
性の働く場の確保と安心して高齢者が老いる場の
放し、地方自治の広域化とスリム化を図りつつ、権
保障とを両立させることが上田市民の期待に沿っ
限と負担を地方に移しながら、より強力で『小さな
た少子・高齢化対策につながると考える。このよ
政府』をつくろうとする」
「集権的市場社会(重森
暁「地方分権と住民自治」
『総合福祉研究』2
5号、
うな方向での改革を期待したい。
2
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0
4年1
1月)である。
―1
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長野大学紀要
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5
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3頁)2
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7
流域環境保全の科学・倫理・政策
Science, Ethics and Policies of River Basin Conservation
徳永
哲也(代表)*1・佐藤
哲*2・久保木匡介*3
Tetsuya TOKUNAGA,Tetsu SATO,Kyosuke KUBOKI
いて、優先して保全すべき自然環境、優先して管
目 次
理すべき自然資源をどのようにして決定すること
1.広域環境問題をめぐる合意形成の科学的基
盤──流域環境保全をめぐって
ができるだろうか?
どのような自然環境が価値
あるものであり、優先して保全ないし管理されな
2.流域環境を考える倫理の手がかり──合意
形成への思考力
ければならないか、という問題は、価値にかかわ
る問題であって、科学は直接にその答えを与える
3.河川管理を通じた環境保全における流域自
治体間連携の課題
わけではない。広域的な空間における価値は、関
与者(ステークホルダー)の合意によって決定さ
れる。科学的知識は合意形成の際に合理的な根拠
1.広域環境問題をめぐる合意形成の科学
的基盤──流域環境保全をめぐって
を与えるという役割を持つ。多様なステークホル
ダー間の合意形成に有効な科学として注目される
のが、特定の問題に関連する既存の知見を総合的
地理的に広範な影響を持つ環境問題は、自治
に分析するアセスメント科学である。アセスメン
体、国家などの行政単位の枠を超えた広域的な対
ト科学は新しい研究を行うわけではなく、既存の
策と管理が必要であることが多い。時として利害
知識を活用して特定の問題に答えるために分析を
を異にする複数の行政機関と多様なステークホル
行うことによって、知識のユーザーであるステー
ダーの間で、合理的な意思決定を合意に基づいて
クホルダーが必要とする科学的知見をもたらすこ
行うために、説得性の高い高品位の科学的知識が
とが特徴である。流域環境の場合なら、たとえば
果たす役割は重要である。国際河川や湖沼、また
生物多様性の保全と資源の有効利用の観点から優
は複数の行政単位にまたがる大河川や湖沼の流域
先して保全・管理すべき地域を特定するという問
を例に、どのような科学がステークホルダー間の
題に答えるために、アセスメント科学が適用され
合意による合理的な意思決定に貢献しうるかを検
る。ここでは、東アフリカ・マラウィ湖の流域環
討した。
境において、特に湖の生物多様性を保全するため
の水中保護区の候補地の選定を目指して行われた
¸
流域レベルにおけるアセスメント科学
「マラウィ湖エコリージョンプログラム(Lake
流域という大きな地理的広がりを持つ空間にお
Malawi Ecoregion Program)」の手法と成果を分析
*1環境ツーリズム学部教授
*2環境ツーリズム学部教授
*3環境ツーリズム学部専任講師
―1
4
5―
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8
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
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0
7
し、流域を単位としたアセスメント科学の特徴に
ついて検討する。
アセスメント科学の第3の特徴は、生産された
知識のユーザーを明瞭に定義し、ユーザーを意識
アセスメント科学の第1の特徴は、明瞭な答え
した知識生産を行う点である。時には、知識の
るべき問題を持ち、それに答えるために必要なあ
ユーザーが実際の研究プロセスに参加することも
らゆる情報を活用しようとするところにある。し
ある。マラウィ湖プログラムの場合、知識の最も
たがって、答えるべき問題が明瞭でない状態で探
重要なユーザーは関係国の環境行政機関であり、
索的なアプローチをとることは稀だが、時には問
最終的な政策決定者である。また、保護区設立後
題点のあぶり出しを目的とした事前調査の段階も
の管理運営を効果的に行うために、地域社会のス
含むこともある。マラウィ湖エコリージョンプロ
テークホルダーも重要な知識のユーザーとして想
グラム(以下マラウィ湖プログラムと略す)の場
定されなければならない。科学者間で合意された
合、3カ国が国境を接する国際湖沼であるマラウ
流域環境の価値について、最終的にはこれらの知
ィ湖において、生物多様性の衰退という環境問題
識のユーザーが理解して合意することが求められ
の解決を図るために、関係国の合意の下に生物多
るために、ユーザーを意識した知識生産が重要な
様性保全にとって重要な湖域を明らかにして、複
要素となるのである。
数の保護区の候補地を示すことが、答えるべき問
¹
題であった。特にマラウィ湖の世界的に貴重な魚
流域環境の総合評価手法
類群集を保全することが重要なので、南アフリカ
評価項目として何を採用するかについても、科
のローズ大学においてマラウィ湖魚類の生態と生
学者間の合意が重要である。マラウィ湖プログラ
物多様性を研究してきたグループが中心となっ
ムの場合、生物多様性の保全が最終目標であるか
た。目的がはっきりと定義されても、必要な科学
らといって、地域ごとに生物の種数を明らかにす
的知識が必ずしも十分でない可能性もある。その
るだけでは、保護区の候補地を明らかにするには
ような場合に専門家による追加調査を容易にする
ほとんど役に立たないことは明白である。生物多
ためにも、当初から当該の問題に対する高い専門
様性が豊かな湖域がわかったとして、それに対し
性を有するグループがアセスメントを実施するこ
何らかの脅威が存在するか、その脅威は保護区制
とが必要である。またアセスメントに用いられる
定によって取り除けるか、保護区管理に必要な地
情報には未発表データが必要とされる場合も多々
域社会のインセンティブは存在するか、生物多様
あるので、オリジナルな研究成果を保有する第一
性保全と資源管理を行うための基盤があるか、保
線の研究者が参加することが重要である。
護区制定に伴って地域社会に何らかの経済効果が
アセスメント科学の第2の特徴は、科学者間の
期待できるか、などの側面を総合的に評価し、納
合意が重視される点である。科学は客観的に事実
得性の高い知識を提供しなければ、生物多様性の
を明らかにするのだから合意の手続きは必要な
保全という本来の目的の達成はおぼつかない。ど
い、とする古典的な科学観は、現実社会の前では
のような項目を評価し、それをどのような重み付
通用しない。科学は一定の制約条件のもとで事実
けをもって分析に供するか、という問題は、アセ
を明らかにするが、合理的な制約条件を導く際に
スメントのそもそもの目的を達成できるか否かを
は社会的な背景や価値観、利害が大きく影響す
大きく左右する。
る。そもそもアセスメントの目的を決定すること
マラウィ湖プログラムは、生物多様性評価のた
自体が、価値にかかわる問題である。マラウィ湖
めのマルチタクサ・アプローチ(Multi-taxa
プログラムの場合、関係する3カ国の科学者が合
proach)、生態系の統合性を保持するための重要
意の下に価値の高い湖域を明らかにすること、各
湖域を評価するための生態系機能評価、生物多様
国政府が保護区の候補地について合意して実現に
性への脅威と保全のポテンシャルを明らかにする
移すことが最終的な目的である。そのために、3
ための流域環境評価と人間活動評価を採用した。
カ国の研究者が協同して作業に当たり合意形成を
マルチタクサ・アプローチとは、複数の生物群の
はかることが重視されるのである。
それぞれについて生物多様性保全にとって重要な
―1
4
6―
Ap-
徳永・佐藤・久保木
流域環境保全の科学・倫理・政策
2
4
9
湖域を同定し、それらの重複から最重要湖域を明
に依存して事が進められることは否めない。環境
らかにするものである。生態系機能評価とは、単
政策の決定となればなおさらである。そこで重要
に生物の分布だけではなく、生物の生活史の中で
なのは、価値的なものが絡むことを恐れて排除し
重要な機能を果たす繁殖場所、採餌場所、重要な
ようと腐心するのではなく、どんな価値づけがな
生物間相互作用が起こる場所などを考慮して重要
されているかを意識し、利害調整を公明正大に行
湖域を検討するものである。これらの生物学的
う倫理的議論を折に触れて交わしておくことであ
データに加えて、湖の環境の重大な影響を与える
る。この章では、価値にかかわらざるをえない環
流入河川の流域における土地利用と侵食、漁業活
境の倫理を、河川流域のような広域でどう語れる
動や観光など人間活動のインパクトを重ね合わせ
かを素描する。
て、生物多様性保全の上で重要であり、かつ、何
らかの脅威が存在し、その脅威を取り除くために
¸
保護区制定が有効である地域を候補地として選定
まず、
「自然そのものに絶対的価値がある」と
したのである。
自然という価値の倫理的議論
いった主張は、歴史(文化)相対主義者から痛烈
に批判される。環境倫理学には「自然の権利」を
º
まとめ・・・流域環境をめぐる科学と価値
めぐる議論があり、山河の生物たちの生存権を、
科学的な合理性を担保しつつ環境問題の解決策
さらには山河のありのままの姿の存在権を認めよ
を検討するという作業は、科学が流域レベルでの
という立場をとる論者もいる。しかしその論を検
意思決定に必要な価値の問題に関与するという状
討してみると、
「あるべき自然」のモデルとなる
況をもたらす。アセスメント科学は、
(1)流域
地域と時代を暗黙のうちに想定していることが多
環境の価値に関する説得性の高い高品位の知識を
い。
生産することができる、
(2)知識生産のプロセ
人間以外の生物の権利という論法を、例えば希
スにおいて科学者と知識のユーザーによる合意形
少種保護などの文脈で使うことは可能だが、それ
成が行われる、(3)流域の価値を保全するため
は一つのフィクションとして人間の頭脳で編み出
の実現性ある政策オプションが検討される、とい
したものであることは自覚しておいた方がよい。
う特徴を持つ。これらの特徴によって、アセスメ
現実には、増え過ぎたり減り過ぎたりしつつある
ント科学が生産する知識は異なる価値に依拠する
生物種を人間の判断と技術で管理せざるをえない
多様なステークホルダー間の合意に基づく意思決
場合が多い。
「ありのままの自然」を聖域として
定に活用できる品質を備えることになり、その結
守る箇所をいくつか設けることも妙案だが、それ
果、知識のユーザーによって活用されて問題解決
とて「世界自然遺産」のような現代的知恵なので
に貢献できる可能性をもつことになる。アセスメ
ある。
ント科学のこのような性質を理解したうえで、問
流域環境に関して言うならば、河川自体が長い
題解決の現場で適切に活用していくことが、切迫
歴史の中ではその姿を変えているし、人間とのか
した環境問題に対する流域という広域レベルから
かわりが始まってからは、漁業なり護岸なり水路
の取り組みに有効であるものと考えられる。
建設なりの手が入っている。上流域、中流域、下
流域でかかわりかたは違うし、時代とともに変遷
している。
「ダムをなるべく作らないように」と
2.流域環境を考える倫理の手がかり
か「昔の鮎が戻ってくるように」といった表現に
1の「広域環境問題をめぐる合意形成の科学的
も、その「程度」を想定していることを自覚し、
基盤」で指摘したとおり、流域環境保全のような
「ちょうどよい」加減を目的意識的に議論した方
広域問題にはアセスメント科学が一定の役割を果
がいいだろう。
たすが、科学だから価値自由的に客観的事実が引
現実問題としては、この5
0年や100年の変化を
き出される、というものではない。調査研究の社
振り返って、流域民の生業、健康、人口規模、生
会的背景から科学者の出自まで、ある種の価値観
活水準を確認し、生態系と流域生活をトータルに
―1
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2
5
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長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
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考え直すことになるだろう。これから加速度的な
あれ、相手の生活に資することで成り立つ営みが
変容が予測されるならば、
「ほどよい流域環境」
最も安定する。その相互依存をどう見据えるか
をまさに価値判断して、科学的知識と政治的対策
が、生活から生まれる倫理を作る。そして、人は
を噛み合わせていくことになる。その際に人間共
記憶を受け継ぎ文化に磨き上げるから、信用ある
同の倫理が、またレトリックとしては「自然に従
営みは次世代にも修正されつつ受け継がれる。知
う」倫理が、原理論として要請される。人間とて
恵が働けば、次世代への受け渡しも考えながら今
一枚岩で は な い し、「従 う」あ る い は「共 生 す
の営みを鍛え上げるだろう。
る」自然はもっと輪郭が確定しない。そこを課題
例えば、上流域の生活汚水や有害廃棄物が下流
として整理しながら議論するとき、倫理学は科学
域に悪影響を及ぼす可能性があるとき、一方的な
や政策学とも出会い、役割の検討を求められるこ
加害−被害関係で考えるのでなく、上流域の上下
とになる。
水道その他の生活財がいかに確保されるかを相互
交流の中で考え直す方が得策だろう。また例え
¹
人と人の利害の倫理的議論
ば、山間部の森林伐採が沿岸部に治水不安を起こ
すでに述べ始めていることだが、人間どうしで
すとしたら、沿岸部住民は山の木材を自分たちも
も環境へのかかわりかたは違うし、利害は対立し
消費していることを自覚しながら、山間部の生活
やすい。流域環境という場面では、上中下流、生
がどうすれば成り立つかを、ときに間伐作業にも
業、災害危険度、自然観などによって、人々の立
協力しながら考え直す道は取れるだろう。
場は複雑に交錯する。最終的には、産業界や生活
倫理的議論は抽象的になりやすいが、水と空気
者の声も聞いたということにして政治的選択がな
のやり取りという極めて素朴な次元から今日的環
されるのだが、たんに利害調整の「落としどこ
境の中の共存生活を考えることで、倫理と現実は
ろ」を見つけるだけでは、我々が問題視している
十分切り結べると考える。そこに科学的検証を裏
環境の改善には届かないように思える。そこで、
付けることで、政策的課題に反映させる可能性も
足元を立て直す倫理的議論が必要とされる。
開けるだろう。
本 来、「倫」「理」と は「人 間 共 同 体」の「筋
目」を意味し、個人の内面的な「徳目」とはレベ
ルの違う集団合意的な約束了解と考えられる。環
境問題も根本は倫理だと言われるが、現実には、
3.河川管理を通じた環境保全における流
域自治体間連携の課題
¸
成長しながら二酸化炭素を減らす技術だとか、経
済対立を悪化させない政治的駆け引きなどに、話
河川法の枠組みと河川管理主体の「変遷」
①河川管理の国家による一元化
題が集中しがちである。そこで、流域環境という
明治時代、日本が中央集権的な近代国家として
本テーマに即した場合、倫理から語ることはいか
確立する過程において、川は中央政府およびその
に果たされるのだろうか。
下部機構としての地方自治体が管理する「公物
限られた紙幅で要点だけを述べればこうなる。
(現在の公の施設)」として位置づけられた。
「利害にとらわれず根本からの倫理を考えよ」と
1896年に成立した旧河川法は、従来地域同士の協
主張しても空回りに終わりやすい。むしろ「利害
議(対立)にゆだねられていた水利用について、
を広く大きく考え直す中で安定的な合意とその実
国家、特に主務官庁である内務省が一元的に管理
践を紡ぎ出そう」と主張することで、歩み寄りや
する体制を確立した。
すい議論の場が作れると考える。
人の生活はその人の生業の狭い空間だけで成り
②開発主義による集権的河川管理への地域の包摂
立っているのではない。農林業であれ水産業であ
戦後の開発政策の中で、ダム建設を中心とした
れ、流通や消費の大きな環が回り続けることで安
河川開発はその中心を占めており、中央政府が打
定的に成り立つ。信用や許容もその環の中で生ま
ち出す地域開発プロジェクトに各地域と自治体が
れる。上流域対下流域であれ、沿岸部対山間部で
競って「参加」する構図が戦後の中央集権的河川
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8―
徳永・佐藤・久保木
流域環境保全の科学・倫理・政策
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5
1
管理体制を支えることになった。1950年に制定さ
な河川整備の基本となるべき方針を示す「河川整
れた国土総合開発法に基づき、まず主要河川の開
備基本方針」と、今後20∼30年間の具体的な河川
発を行う特定地域総合開発計画が開始されたが、
整備の内容を示す「河川整備計画」が策定される
これには51地域からの計画指定の申請が出され、
ことになった。最も重要なのは、後者について
22地域が最終的に指定を受けた。
は、地方公共団体の長、地域住民等の意見を反映
このような状況下で、1964年、明治以来続いて
する手続きが導入されたことである。さらに、河
きた河川法が改正された。従来の河川管理法では
川整備計画の策定過程は公開され、個別の事業計
府県知事が河川管理を行うことになっており、複
画の根拠も開示されるようになった。
数の府県を流れる河川の場合、上下流域の利害対
この法改正を受けて、全国各地の河川流域で
立を調整する制度が存在しなかった。1964年法で
「流域委員会」が設立された。流域委員会の目的
は、河川の管理を従来の「区間管理主義」から、
は、直接には河川整備計画における学識経験者の
上流から下流までの水系単位で河川を管理する
意見の反映であるが、実際の流域委員会の構成は
「水系管理主義」へ転換し、一級河川は建設大臣
地域ごとに多様である。
が直接管理することになった。また、二級河川の
管理者は都道府県知事が位置づけられたが、この
②新河川法における住民、自治体参画の課題:淀
管理業務は建設大臣の機関委任事務だったので、
川水系流域委員会の苦闘
実質的には建設省の管理下に置かれていたと考え
各地の流域委員会の中で最も先進的な取組とし
ることができる。したがって、1964年法は、明治
てあげられることが多いのが、淀川水系流域委員
以来の河川管理の中央集権化をさらに強化し、建
会である。同委員会は、琵琶湖から瀬田川、宇治
設省のもとに河川管理権限を一元化したといえ
川を経て大阪湾に注ぐ淀川までの流域をカバーす
る。
る流域委員会であるが、学識経験者だけでなく、
NPO や地域住民なども委員として委員会を構成
③戦後河川法体制における自治体、住民参加の欠
している。淀川水系流域委員会は6年間で5
00回
如
以上の審議を重ねてきた。その審議情報のほとん
河川法が改正される1997年以前、河川管理者は
どはホームページ上で公開されている。
ダムやおもな河川工事を行う際に水系全体の工事
同委員会の審議で最も注目を集めたのがダム建
実施基本計画を作成することとされていた。計画
設事業を柱とする治水や利水事業の可否について
作成に当たっては河川審議会の意見を聴取するこ
である。2005年に委員会がまとめた提言では、計
ととなっていたが、流域の市町村長や住民の意見
画中のダム事業すべてを中止することが妥当との
を反映させる機会は制度化されていなかった。住
見解が示された。これを受けて国土交通省は、余
民には計画の大枠が決定した段階で立ち入り調査
野川ダム、大戸川ダムの建設中止、川上ダムと丹
の協議に関わる説明会や、基本協定に関わる説明
生ダムの規模縮小を発表した。
会が開かれるだけであり、この住民意見の反映手
しかし、この脱ダムの動きに対する流域自治体
続の欠如はしばしば、行政と住民との衝突の原因
の立場は分かれている。滋賀県は当初、流域の安
となった。
全性を理由に流域委員会の見解に反対したが、
2006年に誕生した嘉田由紀子知事の下で、県下の
¹ 1997年河川法改正と流域管理における住民
ダム計画をすべて凍結させる態度を表明した。こ
参加、自治体参加
れに下流の京都府や京都市は支持を表明したが、
①1997年河川法の改正
上流の大津市、彦根市、多賀町などは建設促進を
1997年(平成9年)の河川法改正に伴い、これ
主張して反対した。2007年3月に行われた淀川流
までの「治水」
「利水」に加えて「河川環境の整
域市町村長懇談会では、流域委員会が専門家によ
備と保全」が法の目的に追加された。また、これ
る意見のみを取り上げ、流域自治体や住民の意向
までの「工事実施基本計画」に代わって、長期的
を反映されていないとの懸念も複数示された。流
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2
長野大学紀要
第2
9巻第2号 2
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域委員会は国土交通省の各地方整備局の諮問機関
1996年に策定された流域振興の総合対策指針であ
であり、河川整備計画の作成にあたって主に学識
る「清流四万十川総合プラン21(1996−2005年
経験者あるいは住民の意見を反映させることが主
度)」に基づくものである。
要な任務となっている。この委員会で示される見
条例は高知県内の四万十川流域のうち、7市町
解に対して流域自治体の意見調整や合意形成を今
村[四万十市(旧中村市、旧西土佐村)
・窪川町
後どのように行っていくのかが問われている。
・梼原町・大野見村・津野町(旧東津野村)
・大
一方、国土交通省は淀川流域委員会の委員の任
正町・十和村]における区域を対象としている。
期が切れる2007年1月で委員会を休止させること
これらの市町村では、それぞれ独自に生活排水対
を決めた。これに対しては、河川計画への流域住
策や野外活動対策などの共通内容を盛り込んだ市
民の意見反映システムとして機能してきた「淀川
町村条例「四万十川の保全及び振興に関する基本
方式」を否定するものとして強い批判が生じてい
条例」が、2002年3月から6月にかけて新たに制
る。
定された。なお、愛媛県の流域4町村(三間町、
広見町、松野町、日吉村)においても、
「四万十
º
流域環境保全のためのネットワークの形成
流域における自治体間の連携を発展させるうえ
川流域の河川をきれいにする条例」が、2002年10
月に各町村ごとに制定されている。
で注目すべきもう一つの動きは、1990年前後より
県の条例で特徴的なのは、
「予防」「循環」「共
に各地で形成された市民・住民グループによる流
生」「固有」「参加」を基本原則として、四万十川
域を単位とした様々な連携の動きである。
と一体的な生態系・景観を形成している地域など
1991年に結成された神奈川県の鶴見川流域ネッ
を、保全のための方策を重点的に行う「重点地
トワーキングは、水質汚濁全国ワースト3にはい
域」(「清流・水辺・生き物回廊地区」
「景観保全
る鶴見川を再生させようとする市民グループが、
・森林等資源活用地区」
「人と自然の共生モデル
河川管理者の建設省や自治体と連携して河川整備
地区」「原生林保全地区」)として指定し、開発規
や環境保全を推進しようとするものだった。
制などを流域単位で行っていることである。ま
中部地方(愛知県)を流れる矢作川では、1970
た、「清流基準」として、環境基本法に定められ
年代から水質汚濁に対して開発規制を求め監視活
た生物化学的酸素要求量(BOD)などの環境基
動を行う反公害型の流域住民による連携組織が存
準のほかに、清流度、チッソ、りん、水生生物に
在した(矢作川沿岸水質保全対策協議会)
。1980
よる新たな清流保全目標を設定している。
年代後半より、市民グループが中心となって行う
筏下り大会をきっかけに、水質汚濁に対して自ら
②熊本県を流れる菊池川でも、流域の自治体が統
の侵害された権利を主張する従来タイプの環境保
一して環境保全に取り組む条例を制定した。菊池
全運動から、川と人間の係わり合いを取り戻す環
川は、阿蘇外輪山に源を発し菊池郡市・山鹿市と
境権に根ざした流域づくりの運動へ転換が行われ
周辺の町を通り玉名市で有明海に注ぐ全長7
1km
つつある。
の一級河川である。高度成長時代に入り、菊池川
本流域や有明海の汚濁が進み、菊池川の下流域・
»
流域の自治体間連携のモデルケース:四万
十川と菊池川
海岸部にかけては汚泥が蓄積し、シジミやアサリ
貝などは死滅した。
流域の環境保全に対する自治体間の連携が共通
このため1987年、最下流の玉名市が独自の浄化
の条例に結実した例として、高知県の四万十川
条例を検討しはじめた。下流の水質を改善するに
と、熊本県の菊池川に触れておきたい。
は流域全体に働きかけ、上流から流域全体の浄化
①高知県の四万十川では、2001年に「四万十川の
運動を展開する必要があるとの認識から、上流域
保全および流域の振興に関する基本条例」が制定
の自治体へ同様の動きを促す運動が始まった。
され、県と流域市町村が協同して流域の環境保全
1989年10月に流域21市町村の首長、住民代表が集
と振興に取り組むことが定められている。これは
まり、「菊池川サミット」を開催し、「菊池川流域
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0―
徳永・佐藤・久保木
流域環境保全の科学・倫理・政策
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5
3
同盟」が結成された。この同盟は、建設省と熊本
【参考文献】
県をアドバイザーに、住民代表と21市町村が河川
アラン・ドレ ン グ リ ン ほ か 編、井 上 有 一 ほ か 訳『デ
ィープ・エコロジー─生き方 か ら 考 え る 環 境 の 思
を浄化する目的で結成したものである。
想』昭和堂、2
0
0
1年
「菊池川サミット」では、統一の河川浄化条例
を制定するための共同宣言が行われた。そして
ローレンス・プリングル著、田
199
2年、全国で初めての流域自治体による統一
はあるか』NHK 出版、1
9
9
5年
の、「河川を美しくする条例」が施行された。「河
川を美しくする条例」では、水質汚濁を5年間で
50%減少させるという目標を定め、各自治体が河
川浄化に努め目標をクリアし現在に至っている。
ジェームズ・ラブロック著、竹村健一訳『ガイアの復
讐』中央公論新社、2
0
0
6年
鬼頭秀一『自然保護を問いなおす─環境倫理とネット
ワーク』筑摩書房、1
9
9
6年
帯谷博明『ダム建設をめぐる環境運動と地域再生─対
流域の自治体が環境保全について具体的な目標
を条例で共有して取り組むケースは珍しく、その
立と協働のダイナミズム』昭和堂、2
0
0
4年
嘉田由紀子編『水をめぐる人と自然─日本と世界の現
合意形成のプロセスについては今後の研究課題と
したい。
!治子訳『動物に権利
場から』有斐閣、2
0
0
3年
高
知
県 HP.http : //www.pref.kochi.jp/∼shimanto/3_1
aramashi/aramashi.html
菊 池 川 流 域 同 盟 HP.http : //www.kikutigawa.hinokuninet.jp/
―1
5
1―
長野大学紀要編集規程
(名称および発行)
第1条 本誌を「長野大学紀要」
(以下「本紀要」という。
)
と称し、年4回発行することを原則とする。
(目的)
第2条 長野大学において教員が行っている研究および本学で実施された共同研究や受託研究の成果を学
内外に紹介し、長野大学の教育・研究活動の活性化に寄与することを目的とする。
(編集委員会)
第3条 長野大学図書館運営委員会のもとに、長野大学紀要編集委員会(以下「編集委員会」という。
)
を
置く。編集委員会委員長は図書館運営委員会委員長が兼ねる。
2.本紀要の原稿の募集・編集は編集委員会が行う。
(投稿資格)
第4条 投稿できる者は原則として本学の専任教員および実習助手とする。ただし、本学の非常勤講師等
も投稿することができる。
(投稿原稿)
第5条 本紀要に掲載する原稿は他に未発表のものに限り、種類は次の各号に掲げるものとする。
論 文
研究ノート
書 評
その他の編集委員会の認めたもの
(著作権)
第6条 本紀要に掲載された論文等の著作権の取り扱いは、以下のとおりとする。
著作権は著者に帰属する。
著者は著作物の複製権と公衆送信権の行使を大学に委託する。
(論文等のネットワーク上での公開)
第7条 本紀要に掲載された論文等は、原則として電子化し、長野大学ホームページ等を通じてネット
ワーク上に公開する。
(配布)
第8条 発行された紀要は専任教員、実習助手および非常勤講師等へ配布する。
(抜刷)
第9条 執筆者には抜刷5
0部を配布する。ただし、5
0部をこえる分については執筆者がその費用を負担す
るものとする。
(執筆要領)
第1
0条 原稿は別に定める執筆要領にしたがうこととする。
(改廃)
第1
1条 この規程の改廃は、評議会の承認を得なければならない。
附則
本規程は平成5年7月1日から施行する。
本規程は平成1
7年4月1日から施行する。
!
"
#
$
!
"
編集委員会
委員長
大野
委
禹在
員
晃
勇,神尾裕治,栗田明良,斎藤
シモンズ・マーガレット,野原
光
2007年9月30日
発行
長野大学紀要
第29巻第2号(通巻第1
1
0号)
編
集
発行所
長野大学紀要編集委員会
長
野
大
学
長野県上田市下之郷6
5
8−1
TEL (0
2
6
8)
3
9−0
0
0
5
印
刷
蔦 友 印 刷 株 式 会 社
長 野 市 平 林 1−3
4−4
3
TEL (0
2
6)
2
4
3−2
3
5
1
功,
BULLETIN OF NAGANO UNIVERSITY
Vol.
2
9,No.
2,September 2
0
0
7
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
CONTENTS
Articles
Occupational Mental Health and Support of Persons with Psychiatric disorders
UWADAIRA Chuichi・HASHIDA Atsuhito ………………………………………………1
A Trial Study of Social Welfare for Middle-aged People
Kenji Ogawa …………………………………………………………………………………1
5
“Rosie the Riveter” and “Joshi-Teishintai” :
On Comparison of the Mobilization of Women Workers
in the Pacific War Era between the USA and Japan
Eiji Kyotani …………………………………………………………………………………2
5
Yoshimi TAKEUCHI et Lao She, Mao Ze Dong
SASAKI Thoru ……………………………………………………………………………4
5
An Approach of Trip in Rehabilitation Institution A for Mentally Challenged Person
―For User’s Independent-choice of Trip―
Masashi Suzuki………………………………………………………………………………5
9
Diversification of Legislation and Legislative Scrutiny
TANAKA Yoshitaka ………………………………………………………………………7
3
Notes
A study on Effect of Day-Care Activity at a Local Government
Takahara Yumiko・Kurihara Hiroyuki ……………………………………………………8
5
Study for Thesis of Fundamental Frameworks to Constract Practical and
Theoretical Approach on “Community-Baced Welfare for Social Inclusion”
Fumio Gozu・Emiko Umino・Yukiko Noguchi……………………………………………8
9
Reports
The Factors of the Industrial Development in Silicon Valley :
On the Research of Annalee Saxenian
Eiji Kyotani…………………………………………………………………………………1
0
3
Public Management Reform and Market Testing in Tokyo :
historical perspective
KUBOKI Kyousuke ………………………………………………………………………1
1
1
A Local City Problem on the Cityscape Characteristic
overlooked and ‘Tourist Resources’ Taken up
KONAGAYA Yuki ………………………………………………………………………1
1
7
Community and Environment Studies on Rehabilitation of
Traditional Aquaculture Systems of Carp Using Paddy Fields
Tetsu Sato …………………………………………………………………………………1
2
3
The Conception of the Bidirectional Classroom Support System
Nobuyuki HIRAOKA………………………………………………………………………1
2
7
Submission and its Problem of a New Vision to an Existing Company
Shunya MORI………………………………………………………………………………1
3
1
On the National Health Insurance and Nursing-care Insurance
Administration and the “healty and cheerful City Plan”
in New Ueda City after the Merger Towns and Village
Emiko Umino・Kenichirou Nomura ………………………………………………………1
3
9
Science, Ethics and Policies of River Basin Conservation
Tetsuya TOKUNAGA・Tetsu SATO・Kyosuke KUBOKI ………………………………1
4
5