オーストリアへ行こう! (3)ハプスブルク家

オーストリアへ行こう!
「 ドイ ツ語 通信 」 2012年 度 版 より 転 載
( 1 ) オー ス ト レ イリ ア で は な い
ド イ ツ 語 圏 を旅 す る 人 の ため の ア ド バ イ スを 連 載 し ま す。 上 級 ク ラ ス履 修 者 は 今 年度 オ
ー ス ト リ ア へ 実際 に 行 く こ とを 目 指 し て 学 習し ま す 。 他 のク ラ ス の 人 にも 、 紙 面 で 気分 だ
け で も オ ー ス ト リ ア 旅 行 を 楽 し ん で も ら い ま し ょ う 。 オ ー ス ト リ ア は Österreich,ま た は
Oesterreich(エスターライヒ), Austria(アオストリア) と 言 いま す 。 オー ス トラ リ ア (Australia)と 混同 す る人
が い ます が 、 後者 は オウ ス ト レイ リ アと 発 音 しま す 。
( 2 ) オー ス ト リ ア へ の 飛 行 便
日 本 か ら オ ース ト リ ア へ 行く に は 、 あ え て言 う ま で も なく 、 飛 行 機 に乗 っ て 行 き ます 。
成 田 空 港 か ら 直 行 便 で オ ー ス ト リ ア の 首 都 ウ ィ ー ン ま で 直 行 便 で 約 11 時 間 か か り ま す 。
成 田 から 欧 州 行き の 直行 便 は ほと ん どす べ て 朝の 10 時頃 か ら 11 時 半 頃に 出 発 し、 現 地に
は 15 時か ら 18 時 頃 に到 着 し ます 。 日 本航 空 や全 日 空 は料 金 が高 い し 、ド イ ツ へ行 く ルフ
ト ハ ン ザ 航 空 同様 に 、 エ ア バス と い う 大 型 飛行 機 な の で 、エ コ ノ ミ ー ・ク ラ ス の 座 席で は
狭 く て息 苦 し い上 に 、場 所 が悪 い と トイ レ に自 由 に 行け ず 地獄 の 11 時 間と な りま す の で、
私 は よ ほ ど の こと が な い 限 り、 こ れ ら の 飛 行機 に は 乗 り ませ ん 。 好 き なの は ス イ ス 航空 、
つ い で ス カ ン ジナ ヴ ィ ア 航 空な ど で す 。 以 前は も っ ぱ ら フィ ン ラ ン ド 航空 の 飛 行 機 に乗 り
ま し た が 、 安 くて 安 心 と い う評 判 が 広 ま っ て座 席 が 確 保 しに く く な っ たこ と と 、 溜 まる ポ
イ ン トが ス イ ス航 空 等と は 系 統が 異 なる( 日 航と 同 じ)の で 、いま は まっ た く 乗り ま せん 。
オ ー ス ト リ アへ 行 く な ら ば、 オ ー ス ト リ ア航 空 が あ り ます 。 む か し はソ 連 の モ ス クワ 経
由 だ っ た の で すが 、 い ま は 日本 か ら 直 行 便 が出 て い ま す 。し か し 、 少 々値 段 が 高 い です 。
ス イ ス 航 空 で オー ス ト リ ア へ行 く と な る と 、チ ュ ー リ ヒ で乗 り 換 え て 少し 戻 る と い う欠 陥
が あ り ま す 。 なの で ス カ ン ジナ ヴ ィ ア 航 空 でデ ン マ ー ク のコ ペ ン ハ ー ゲン で 乗 り 換 えて ウ
ィ ー ン へ と い うほ う が 気 分 的に 良 い か も し れま せ ん 。 格 安の ド バ イ 経 由と か シ ン ガ ポー ル
経 由 も い ま は 安全 ・ 快 適 の よう で す が 、 私 は使 っ た こ と があ り ま せ ん 。有 名 だ し ヨ ーロ ッ
パ だ か ら と 言 って 、 ド イ ツ やス イ ス 、 オ ー スト リ ア へ 行 くの に ブ リ テ ィッ シ ュ ・ エ アウ エ
イ に 乗 る の は 阿呆 で す 。 2 時間 以 上 も 通 り 過ぎ て 、 2 時 間以 上 か け て 戻っ て く る な んて !
せ い ぜい オ ラ ンダ の スキ ポ ー ル空 港 乗り 換 え のK L M オラ ン ダ航 空 が 限度 で しょ う 。
ド イ ツ の フ ラン ク フ ル ト 国際 空 港 は 、 使 い勝 手 が 悪 い 空港 と し て 3 本指 に 入 る と 言わ れ
る( 1 位 はフ ィ リ ピン の マニ ラ 空港 だ と 思う )が 、
ウィーン空港は小さいからわかりやすいし、旧市
街 ま で市 街 電 車で 30 分 とか か ら ない の で便 利 だ。
空港からタクシーに乗ると、途中で大化学工業地
帯のような所を通るので不気味で、悪いタクシー
ドライバーに騙されてどこか変な所へつれて行か
れるのではないかとちょっと不安になる(じっさ
い に はそ ん な こと は ない )。
【 写 真 】ウ ィー ン 旧 市 街 の 中心 に 立 つ シ ュ テフ ァ ン 寺 院。
仲間と はぐれても ここを集合場所にす れば 必ず会える。
( 3) ハ プ ス ブ ル ク 家
オ ー ス ト リ アと 言 え ば ウ ィー ン 。 ウ ィ ー ンと 言 え ば ハ プス ブ ル ク 家 。オ ー ス ト リ アは ハ
プ ス ブ ル ク 家 の盛 衰 ぬ き に 語る こ と は で き ず、 そ の 事 跡 を見 な い で オ ース ト リ ア に 行っ た
ら 、 せ い ぜ い アル プ ス の 自 然を 見 る ぐ ら い の旅 に な る だ ろう 。 そ れ ぐ らい 、 オ ー ス トリ ア
と ハ プス ブ ル ク家 の 歴史 と は 切っ て も切 れ な い関 係 に ある 。
-1-
ま ず は ハ プ スブ ル ク 家 の 系図 ( 概 略 ) を 見て お き た い 。た だ し 、 紙 面の 都 合 で 、 今回 は
そ の 前半 の み。( と い う こ と 自体 が す ご い 。 1回 で は 語 れ な い ほど の ボ リ ュ ー ムが あ る 。)
1 . 第1 期 の ハプ ス ブル ク 家
ル ド ル フ 1 世 ( 1218-1291) ⇒ ア ル ブ レ ヒ ト 1 世 ( 1255-1308) … … ⇒ フ リ ー ド リ ヒ 3 世
(1415-1493)+ エ レ オ ノ ー レ ( ポ ル ト ガ ル 王 女 ) ⇒ マ ク シ ミ リ ア ン 1 世 (1459-1519)+ マ
リ ア ( ブ ル ゴ ー ニ ュ 公 女 ) ⇒ フ ィ リ ッ プ (1478-1508)+ フ ァ ー ナ ( ス ペ イ ン 王 女 ) ⇒ マ
リア(ハンガリー王妃)とイサベル(デンマーク王妃)とフェルディナント1世
( 1503-1564、 神 聖 ロ ー マ 皇 帝 )と カ ー ル 6 世 ( 1500-1558、 神 聖 ロ ー マ 皇 帝 ) と エ レ オ ノ
ー レ (ポ ル ト ガル 王 妃、 の ち フラ ン ス 王妃 ) とカ タ リ ーナ ( ポル ト ガ ル王 妃 )
このうち、カール6世とイサベル(ポルトガル王女)とのあいだに生まれた子ども
たちがスペイン・ハプスブルク家を形成。また、フェルディナント1世とアンナ(ハ
ンガリー王女)とのあいだに生まれた子どもたちがオーストリア・ハプスブルク家を
形成。
2 . オー ス ト リア ・ ハプ ス ブ ルク 家
フ ェ ル デ ィ ナ ン ト 1 世 の 子 マ ク シ ミ リ ア ン 2 世 (1527-1576)+ マ リ ア ( ス ペ イ ン ・ ハ
プ ス ブ ル ク 家 ) ⇒ フ ェ リ ペ 2 世 ( ス ペ イ ン H ) と ル ド ル フ 2 世 (1552-1612)と エ リ ザ ベ
ート(フランス・シャルル9世妃)ほか。このうち、フェルディナント1世の子カー
ル 2 世 ⇒ フ ェ ル デ ィ ナ ン ト 2 世 (1578-1637)と マ ル ガ レ ー テ ( ス ペ イ ン H フ ェ リ ペ 3 世
妃)とマリア・マッタレーナ(メディチ家トスカーナ大公妃)ほか。フェルディナン
ト2世の子フェルディナント3世と、マルガレーテの子マリアナとのあいだに生まれ
た 子 の う ち 、 レ オ ポ ル ト 1 世 (1640-1705)と エ レ オ ノ ー レ ( ノ イ ブ ル ク 公 女 ) と の あ い
だにヨーゼフ1世とカール6世が生まれ、カール6世とエリーザベト・クリスチーネ
と の あい だ に マリ ア ・テ レ ジ ア(1717-1780) が生 ま れる 。
オ ー ス ト リ アと 言 え ば ウ ィー ン 。 ウ ィ ー ンと 言 え ば … …と 言 わ れ る ハプ ス ブ ル ク 家の 歴
史 は 、じ つ は 、こ の 最後 の マ リア ・ テレ ジ ア から 始 ま る。
( 4 )ハ プ ス ブ ルク ・ロ ー ト リ ン ゲ ン 家
マ リ ー ・ ア ント ワ ネ ッ ト がフ ラ ン ス 革 命 のな か で ギ ロ チン に か け ら れた こ と は 有 名。 そ
れ だ け 見 る と 、彼 女 は 悲 劇 のヒ ロ イ ン の よ うだ が 、 歴 史 の趨 勢 か ら す ると 、 絶 対 王 政が 崩
壊 し 民 主 主 義 革命 に よ っ て 新た に 市 民 社 会 が登 場 す る 過 程の 一 齣 と 言 えな く も な い 。し か
し さ らに そ れ から 100 年 以上 経 ち、そ の 間 に「戦 争 の 世紀 」と 言 われ る 20 世 紀が あ り、21
世 紀 は ブ ッ シ ュ・ ア メ リ カ によ る 「 テ ロ と の闘 い 」 が 国 際法 も 正 義 も なし に 開 始 さ れ、 戦
争 と も侵 略 と も言 え ない 人 殺 しが む しろ 世 界 各地 に 広 まり 終 わり が 見 えな い 。東欧 や 南米 、
北 部 アフ リ カ で起 き た市 民 革 命も ア メリ カ CIA が 裏に 控 え てい る と 言わ れ る。 19 ~ 20 世
紀 は 民 族 革 命 、 民 族 戦 争 の 時 代 と 呼 ば れ る が 、 21 世 紀 は グ ロ ー バ リ ズ ム の 中 で だ れ が 何
の た めに 戦 っ てい る かが 見 え ない 。
翻 っ て 絶 対 王政 の 時 代 を 見る と 、 マ リ ア ・テ レ ジ ア は いっ さ い の 武 器を 持 た ず に 子ど も
を 産 む こ と で いわ ば 平 和 的 に領 土 を 広 げ た 。王 政 時 代 は 国の 指 導 者 が 外国 人 で あ る のは ご
く 普 通の こ と であ り 、い わ ば international だ っ た から 、 19 ~ 20 世紀 の Nationalism は 存 在し
な か っ た 。 し た が っ て 、 Nationstate( 民 族 国 家 ) も Nationalsozialismus( ナ チ ズ ム ) も な か っ
た 。 民 主 主 義 革命 で 指 導 者 は「 わ れ わ れ 」 の代 表 を ! と 言っ た と た ん 「わ れ わ れ 」 とは 誰
か が 問 わ れ て 排外 主 義 が 強 まっ た 。 こ う し てド イ ツ で は ユダ ヤ 人 絶 滅 作戦 が 展 開 さ れた 。
フランツ一世
マ リ ア ・ テ レ ジア
-2-
( ロ ート リ ン ゲ ン 公 )
ヨーゼフ二世
イザベラ
( オ ー ス ト リア 大 公 )
フェルナンド
マ リ ー ・ ア マ ー リエ
( パ ル マ 公女 )( パ ル マ 公 )
マ リ ー ・ア ン ト ワ ネ ッ ト
( パ ル マ 公妃 )
( フ ラ ン ス 王 妃)
カ ル ロス 五 世 ( ス ペ イ ン王 )
レ オ ポル ド 二 世
マ リ ア・ ル ド ヴ ィ カ
(スペイン王女)
フ ェ ル デ ィナ ン ト 三 世
フェルディナント五世
フェルナンド
( ナ ポ リ王 )
フランツ二世
フランツ・カール
マ リ ア・ テ レ ジ ア
ゾフィー
(バイエルン公女)
フ ラ ン ツ ・ ヨー ゼ フ
エ リ ザベ ー ト
マ リ ー・ カ ロ リ ー ネ
(ナポリ王妃)
マリー・レオポルディーネ
(ブラジル王妃)
フ ェ ルデ ィ ナ ン ト ・ マク シ ミ リ ア ン
マリー・ルイーズ
(ナポレオン妃)
カー ル ・ ル ー ト ヴィ ヒ
( バ イエ ル ン 公 女 )
フラ ン ツ ・ フ ェ ルデ ィ ナ ン ト
オ ッ ト ー ・フ ラ ン ツ ・ ヨ ーゼ フ
( 5) ま ず は ウ ィ ー ン へ
オ ー ス ト リ アへ 行 く と な れば 、 ま ず は 首 都ウ ィ ー ン へ 行か な け れ ば 話が 続 か な い 。詳 し
い 人 を 除 外 し て言 え ば 、 日 本で 知 ら れ て い るオ ー ス ト リ アの 街 と 言 え ば、 モ ー ツ ァ ルト の
生 誕 地 ザ ル ツ ブル ク 、 チ ロ ルア ル プ ス の 中 心イ ン ス ブ ル ック 、 世 界 遺 産指 定 の グ ラ ーツ ぐ
ら い では な い だろ う か。
ウ ィ ー ン へ 行く に は 、 一 般に 、 飛 行 機 と 鉄道 と 自 動 車 があ る が 、 私 は自 動 車 に 乗 らな い
の で 除 外 す る 。日 本 か ら 飛 行機 で 行 く な ら 、オ ー ス ト リ ア航 空 や J A L、 A N A の 直行 便
が 便 利 。 ウ ィ ーン 空 港 は 比 較的 小 さ い の で 迷わ な い し 、 空港 か ら 街 の 中心 ま で 鉄 道 が走 っ
て い るの で 有 り難 い 。
と こ ろ で 、 その 鉄 道 だ が 、フ ラ ン ス の パ リと 同 様 、 あ るい は 他 の ヨ ーロ ッ パ の 諸 都市 も
た い て い そ う だが 、 街 の 中 央は 旧 市 街 で そ の歴 史 遺 産 と 景観 を 守 る た めに 、 鉄 道 は 旧市 街
の 縁 まで し か 行か な い。し た が って 、パ リ で もミ ュ ンヒ ェ ンで も ウ ィー ン で もロ ー マで も 、
鉄 道 は こ れ ら の 街 の 駅 に 着 く と 、 そ れ よ り 先 に 行 け な い 「 終 着 駅 」( テ ル ミ ネ ) ホ ー ム に
入 る 。 そ こ か らさ ら に 別 の 都市 へ 行 く 列 車 は折 り 返 し て 行く の で 、 先 頭が 最 後 尾 に なり 最
後 尾 が 先 頭 に なる 。 た と え ば客 車 の 1 号 車 が機 関 車 の す ぐ後 ろ に 連 結 して い た ら 、 それ は
先 頭 車 両 だ か ら、 長 い ホ ー ムの う ち 駅 の 出 口に 一 番 近 い 便利 な と こ ろ に着 く わ け だ が、 ふ
た た び そ の 駅 から 出 発 す る とき に は 最 後 尾 の車 両 に な り 、次 の 終 着 駅 では 出 口 か ら 一番 遠
く の 不便 な と ころ に 着く と い うこ と にな る 。
ウ ィ ー ン の 場合 、 旧 市 街 の西 に 「 ウ ィ ー ン西 」 駅 が あ る。 こ こ で は ドイ ツ や ス イ スか ら
の 列 車 が 発 着 する 。 イ タ リ アや グ ラ ー ツ な どか ら の 列 車 は「 ウ ィ ー ン 南」 駅 で 発 着 する 。
-3-
ハ ン ガ リ ー な ど東 へ 行 く 列 車は 「 ウ ィ ー ン 東」 駅 で 発 着 する 。 少 し 前 まで の 東 京 で たと え
れ ば 、 東 北 や 上信 越 な ど 北 方へ は 上 野 駅 、 名古 屋 、 大 阪 など 西 方 へ は 東京 駅 、 甲 州 や信 州
へ は 新 宿 駅 か ら発 着 す る と いう の と 同 じ だ 。ウ ィ ー ン 空 港へ 列 車 で 行 くに は 、 あ る いは 空
港 か ら 列 車 で 来る と き は 、 東駅 だ 。 い ま は これ ら ど こ の 駅で も 路 面 電 車や 地 下 鉄 が 走っ て
い る から 、 さ ほど 困 るこ と は ない 。 ちな み に 、ウ ィ ー ン北 駅 とい う の はな い 。
む か し 北 ド イツ の キ ー ル に住 ん で い た 時 、は る ば る ウ ィー ン ま で 列 車で 来 た が ( 途中 で
ツ ェ レ や レ ー ゲ ン ス ブ ル ク に 寄 り な が ら )、 日 曜 日 で 両 替 商 な ど す べ て 閉 ま っ て い て 困 っ
た こ と が あ る 。当 時 は ま だ ユー ロ で は な く ドイ ツ は マ ル ク、 オ ー ス ト リア は グ ロ ッ シェ ン
で 通 貨 が 違 っ た。 ウ ィ ー ン に着 い て も オ ー スト リ ア の 通 貨を 持 っ て い ない の で 、 西 駅か ら
シ ュ テ フ ァ ン 寺院 近 く の ペ ンシ ョ ン へ 行 く のに 地 下 鉄 も 路面 電 車 も 乗 れな か っ た 。 ウィ ー
ン の 主 だ っ た とこ ろ は 意 外 と歩 い て 行 け る 距離 だ か ら と 観念 し 、 仕 方 なく 、 路 面 電 車の 停
車 場 で 数 え て 7駅 分 ほ ど 歩 いた 。 歩 い て い る途 中 で 自 動 現金 支 払 い 機 を見 つ け た 。 これ で
両 替 も で き る 仕組 み に な っ てい る の で 、 喜 んで 数 日 の 滞 在分 の 両 替 を した 。 金 額 は 忘れ た
が 、た とえ ば 10 万 円だ と し よう 。ド イツ で こ うい う 機械 を 使 うと 、50 マ ル ク紙 幣 何 枚、10
マ ル ク 紙 幣 何 枚、 5 マ ル ク 紙幣 何 枚 と い う よう に 使 い や すい 紙 幣 に 分 けら れ て 出 て くる 。
と こ ろ が な ん と ! ウ ィ ー ン の こ の 機 械 か ら は 10 万 円 相 当 の 紙 幣 が 1 枚 出 て き た だ け だ
っ た ! こ れ では 、 や っ と オー ス ト リ ア 通 貨を 手 に 入 れ ても 高 額 紙 幣 だか ら や っ ぱ り路 面
電 車 や 地 下 鉄 の切 符 は 買 え ない 。 結 局 、 ペ ンシ ョ ン ま で 荷物 を 持 っ て 歩き 通 す こ と にな っ
た 。 や れ や れ だが 、 先 に 書 いた よ う に 、 幸 い、 ウ ィ ー ン は比 較 的 小 さ な街 な の で 、 歩け な
い 距 離で は な い。こ の 経験 か ら 、そ の後 ウ ィ ーン に しば ら く滞 在 中 もあ ち こ ち歩 き 通し た 。
た と え ば 、 旧 市 街 つ ま り ウ ィ ー ン の 中 心 で あ る リ ン グ の な か は 、 直 径 で 歩 い て 30 分 も か
か ら な い 。 そ のな か に 、 シ ュテ フ ァ ン 寺 院 も王 宮 も 、 オ ペラ 座 も 楽 友 協会 も 、 美 術 館も 大
学 も 、 国 会 議 事堂 も 市 庁 舎 も、 そ の 他 ヴ ァ ーグ ナ ー 設 計 の郵 便 貯 金 局 もフ ン デ ル ト ヴァ サ
ー の 建 物 も す べて 入 る か リ ング に 面 し て い る。 ウ ィ ー ン の観 光 名 所 で リン グ よ り 離 れて い
る の は 、 ベ ル ベデ ー レ 宮 殿 (ク リ ム ト な ど の絵 が 見 ら れ る絵 画 館 ) と シェ ン ブ ル ン 宮殿 ぐ
ら い し か な い 。な の で 、 観 光は 自 分 の 足 で 〈歩 き ・ 見 て ・考 え る 〉 の が一 番 。 右 の地 図
は ウ ィ ー ン の リン グ 内 を 示 した も の で 、 中 央に シ ュ テ フ ァン 寺 院 が あ る。 高 い 建 物 なの で
遠 く か ら で も 見え る し 街 の 中心 に あ る の で 待ち 合 わ せ 場 所や は ぐ れ た 時の 再 集 合 場 所に 最
適 だ 。 寺 院 前 の広 場 に 地 下 鉄駅 も あ る 。 寺 院を 中 央 に お いて 南 北 に ま っす ぐ の び る 大通 り
が ケ ルン ト ナ ー通 り でい わ ば 銀座 街 だ。
(6 ) リ ン グ 通 り
「 ま ず は ウ ィー ン か ら 」 と前 回 書 い た が 、今 日 は 「 ま ずは 訂 正 か ら 」始 め な け れ ばな ら
な い 。 こ の 記 事は 記 憶 で 書 いて い る の で 記 憶違 い が あ る 。前 回 「 ウ ィ ーン 北 駅 は な い」 と
書 い た の は 間 違い で 、 北 駅 はあ っ た 。 中 心 から や や 外 れ た殺 風 景 な 駅 だっ た 。 も う 1つ 、
ウ ィ ー ン 国 際 空港 と 都 心 を 結ぶ 電 車 の 駅 は 「ウ ィ ー ン 中 央駅 」 の 間 違 いだ っ た 。 こ こに は
大 き な 長 距 離 バス タ ー ミ ナ ルも あ る 。 ウ ィ ーン の 中 心 の 西に あ る の で 「西 駅 」 か と 勝手 に
思 っ てし ま っ た。 以 上2 点 、 お詫 び して 訂 正 しま す 。
さ て、ウィ ー ン に着 い た ら、まず は 、ト ラ ム( 路面 電 車 )に 乗 って リ ング を 一 周し よ う。
リ ン グ と は 英 語同 様 「 輪 」 とい う 意 味 で 、 ウィ ー ン の 中 心( 旧 市 街 ) を囲 む 円 を 言 う。 ヨ
ー ロ ッ パ の 町 はか つ て 外 敵 から 身 を 守 る た めに 町 の 周 囲 に5 m ぐ ら い の壁 を 立 て た り、 日
本 の お 城 や 皇 居( 旧 江 戸 城 )の よ う に 堀 を めぐ ら し 土 手 を積 ん だ り し た。 ド イ ツ の 有名 な
観 光 地で あ る ロー テ ンブ ル ク やニ ュ ルン ベ ル クは い ま も周 囲 を高 い 壁 で囲 ま れて い る 。
(こ
れ ら 観 光 地 だ けで な く て も 、町 の 周 囲 を 高 い壁 で 囲 ま れ てい る と こ ろ はい ま で も た くさ ん
あ る 。ま た 、 ブレ ー メン や リ ュー ベ ック な ど はい ま で も堀 や 運河 で 囲 まれ て いる 。)
1857 年 暮 れ 皇 帝 フ ラ ン ツ ・ ヨ ー ゼ フ に よ り 宣 言 さ れ た ウ ィ ー ン 市 大 改 造 計 画 の も と 、
こ れ まで も 市 壁と 幅 500 m に 及ぶ 斜 堤 が撤 去 され 、 市 内と 市 外を つ な ぐリ ン グ 通り が 建設
-4-
さ れ た 。( リ ン グ 通 り の 歴 史 に つ い て は 山 之 内 克 子 『 ウ ィ ー ン ・ ブ ル ジ ョ ア の 時 代 か ら 世
紀 末 へ』 講 談 社現 代 新書 1995 年 が詳 し い 。記 事 が詰 ま り すぎ て やや 読 み にく い 。)
で 、 リ ン グ の中 が 旧 市 街 なの で 、 主 だ っ た観 光 地 は こ の中 か す ぐ そ の外 縁 に 集 中 して い
る 。 メ イ ン ス ト リ ー ト で あ る ケ ル ン ト ナ ー 通 り と の 交 差 点 、 オ ペ ラ 座 前 (1)か ら 時 計 回 り
の ト ラ ム に 乗 るこ と に し よ う。 ま ず 左 手 にシ ラ ー 広 場 (2)、 す ぐに 右 手 に ゲ ーテ 像 (3)と モ
ー ツ ァ ル ト 像(4)、 次に 左 手 に 美 術工 芸 館 (5)と 自 然 史 博物 館 (6)、 右 は 王 宮 (7)、 さ らに 市
民 広 場 (8)、 そ の 向 か い 側 ( 左 ) に 国 会 議 事 堂 (9)、 そ の 隣 左 手 に 市 庁 舎 ( 12 月 は ク リ ス
マ ス 市 が 開 か れ る ) (10)、 そ の 向 か い 側 ( 右 ) に 国 民劇 場 (11)、 す ぐ に 左 手 に ウィ ー ン 大
学 (11)と い う よ う に ぼ や ぼ や し て い る と 見 過 ご し て し ま う ほ ど つ ぎ つ ぎ と 名 所 が 登 場 す
る 。 シ ョ ッ テ ン リ ン グ と い う ト ラ ム の交 差 駅 (12)で し ば らく 停 ま っ た あと 、 右 手 に 株式 市
場 (13)、しば ら くし て 左 手に 運 河 (14)が見 え、ここ か らあ ま り 見栄 え のす る 建 物は な いが 、
運 河 を 離 れ て 右 に 曲 が っ て 南 下 す る と左 手 に 双 頭 の 鷲 が 掲 げ ら れた 政 府 機 関 (15)が 続き 、
そ れ か ら 大 き な 市 営 公 園 (16)が が 続 く 。 こ の 中 に シ ュ ト ラウ ス や シ ュ ーベ ル ト の 像 など が
あ る 。 つ ぎ が ベ ー ト ー ヴ ェ ン広 場 (17)、 そ し て 少 し カー ブ す る と 左 手 に 楽 友 協 会 (18)や 高
級 ホ テ ル が あ り 、 オ ペ ラ 座 に 戻 る 。 オペ ラ 座 に 戻 っ た ら 、 左 手 前の カ ー ル ス 広 場(19)へ 行
こ う 。 こ こ に 19 世 紀 の 建 築 家 オ ッ ト ー ・ ヴ ァ ー グ ナ が 設 計 し た ユ ー ゲ ン ト シ ュ テ ィ ー ル
の 地 下鉄 駅 (20)がい ま も 残る 。 わ ざわ ざ 立ち 寄 る 意義 は 絶対 に あ る。
(7) ケルントナー通り
ウ ィ ー ン の リン グ 内 に 入 ろう 。 オ ペ ラ 座 から シ ュ テ フ ァン 寺 院 ま で のメ イ ン ス ト リー ト
が Kärntnerstraße。 シ ュテ フ ァン 寺 院 から 細 くな っ て 運河 ま で 続く 道 は Rotenturmstraße。 シュ
テ フ ァ ン 寺院 か ら 約 20 m 手 前で ケ ル ン ト ナー 通 り から 左 に入 る と Grabenstraße。 こ れ らが
リ ン グ 内 に あ るい わ ば 銀 座 通り で 、 高 級 洋 服店 や 時 計 店 、宝 石 店 、 土 産物 屋 、 カ フ ェ等 が
並 ぶ 。 こ う い う店 は 、 カ フ ェ以 外 は 世 界 ど こで も 見 ら れ るブ ラ ン ド 店 なの で 、 わ ざ わざ ウ
ィ ー ンに 来 て まで 見 なく て も 良い よ うに 私 に は思 え る 。
ケ ル ン ト ナ ー通 り を 散 歩 して い て い つ も 〝へ え ー 〟 と 思う の は 、 所 々に い る ス ト リー ト
・ ミ ュ ー ジ シ ャン の 質 の 高 さだ 。 ス ト リ ー トミ ュ ー ジ シ ャン は ど こ の 町で も 見 か け るが 、
ロ シ ア 人 歌 手 以外 は た い て い下 手 だ な あ と 思う 。 ギ タ ー の弦 を 思 い っ きり ゆ る く し てベ ラ
ン ベ ラ ン と 弾 きな が ら 何 を 言っ て い る ん だ かと い う よ う な歌 を 歌 っ て いる 。 い ま や 世界 標
準 語 に な っ て いる カ ラ オ ケ のお か げ で 日 本 のス ト リ ー ト ミュ ー ジ シ ャ ンは テ レ ビ で 観る プ
ロ 歌 手 よ り 上 手い こ と が あ るが 、 ド イ ツ で そう い う 人 を 見た こ と が な い。 と こ ろ が …! さ
す が 音 楽 の 都 ウィ ー ン に は 、プ ロ か と 見 紛 うほ ど 上 手 い 人が い る 。 と くに 、 一 流 と 言わ れ
る ウ ィ ー ン の 音楽 大 学 の 学 生が 小 遣 い 稼 ぎ か練 習 か わ か らな い が 3 人 ぐら い で モ ー ツァ ル
ト の 曲 を 演 奏 して い る の を 聴く と プ ロ の ち ょっ と し た 野 外演 奏 会 の よ うだ 。 さ す が にこ う
い う 演 奏 は み なの 注 意 を 惹 き、 見 る 見 る 取 り巻 く 輪 が 大 きく な る 。 演 奏が 終 わ る と 、日 本
で は 拍 手 す る だけ で お 金 を あげ る 人 は あ ま り見 か け な い が、 ヨ ー ロ ッ パで は た と え 下手 で
も 私 たち か ら 見る と 驚く ほ ど みん な お金 を 上 げる 。 紙 幣( 10 か 20Euro) も数 枚 見 られ る 。
(8 ) シ ュテ フ ァン 寺 院 (Stephansdom)
リング通りに囲まれたウィーンの中心地のまさにど
真ん中にそびえ立つのがシュテファン寺院。市街から
少し離れたシェンブルン宮殿の裏庭のずっと奥に広が
る高台からもこの塔と屋根が見渡せる。写真を撮ろう
としても大きすぎて画面におさまらない。ケルンの大
聖 堂 より は 小 さい と して も 。
シュテファン寺院前の広場に地下鉄の駅の出入り口
もあるし、ケルントナー通りをオペラ座から歩いて行
-5-
っ て も 15 分 と か か ら な い か ら 、 と に か く 便 利 な と こ ろ に あ る 。 ウ ィ ー ン で 連 れ と は ぐ れ
たら こ の寺 院 の 前で 集 合す る こ とに す れ ば良 い 。
広 場 の 脇 に フ ィ ア カ ー (Fiaker)と 呼 ば れ る 辻 馬 車 が い つ も 数 台 停
まっ て い る 。 19 世 紀 に は 1000 台 あ っ たと 言 わ れる 。 リ ング 内 観光
にも っ てこ い の 乗り 物 とし て 人 気が あ る 。
シュテファン寺院は、昼間はたいてい入場自由だが、日曜日や
特別礼拝の日は入口付近までしか入れない。寺院のなかはヨーロ
ッパの他の寺院と特に変わったところは見られない。しかし、他
の教会ではけっして見られない特殊なイエス像がここにはあり、
一見の価値がある。左の写真だけ見ると、どこにでもあるイエス
像に 見 える が 、 じつ は これ は Zahnweh Herrgott と 呼 ば れ るイ エ ス像
で、顔が 歪 ん でい る の は磔 に あっ た 苦 しみ の ため で は なく 、Zahnweh
つま り 歯が 痛 い ため と 言わ れ て いる 。 詳 しい こ とは わ か らな い 。
( 9 )ウ ィ ン ナ ー コ ー ヒ ー
私 が 高 校 生 のこ ろ は ま だ 喫茶 店 は 大 人 か 不良 が 行 く 所 と思 わ れ て い た。 な の で 高 校の 帰
り に 3 、 4 人 の男 友 だ ち と 渋谷 の 裏 道 で 行 った 所 は 、 黒 蜜を し こ た ま かけ た あ ん み つを 全
部 食 べ ら れ た ら代 金 は 他 の 人が 払 う と い う ゲー ム を し た 甘味 処 だ っ た 。喫 茶 店 と い う所 へ
初 め て 行 っ た の は 大 学 生 に な っ て か ら だ が ( そ れ で も 年 に 数 回 程 度 )、 当 時 の コ ー ヒ ー は
苦 い だ け で ま ずか っ た ( 後 でわ か っ た が 、 当時 は 朝 コ ー ヒー を 作 っ て 客が 来 る と 温 め直 す
だ け だ っ た の で次 第 に 苦 く なる の だ ) の で 、コ コ ア ば か り飲 ん で い た (当 時 コ コ ア のほ う
が 安 か っ た 。 し か も 注 文 し て か ら の 手 作 り )。 二 十 歳 を 過 ぎ た こ ろ に 初 め て 「 ウ ィ ン ナ ー
コ ー ヒ ー 」 な るも の を 注 文 した 。 お 腹 が す いて い た の で ソー セ ー ジ が つい て い る か らち ょ
う ど 良 い と 思 った 。 し か し 、運 ば れ て き た のは コ ー ヒ ー だけ だ っ た 。 その こ ろ 「 ウ ィン ナ
ー 」 と は ウ ィ ンナ ー ソ ー セ ージ を 指 す と 思 い込 ん で い た 。後 で わ か っ たが 、 ウ ィ ン ナー コ
ー ヒ ー も ウ ィ ンナ ー ソ ー セ ージ も と も に 「 ウィ ー ン 風 の 」コ ー ヒ ー や ソー セ ー ジ に すぎ な
か っ た。 ウ ィ ンナ ー ソー セ ー ジ付 き のコ ー ヒ ーで は な かっ た 。
初 め て ウ ィ ーン へ 行 っ た 時ぜ ひ や り か っ たの は ウ ィ ン ナー コ ー ヒ ー を飲 む こ と と 、本 場
の ヴ ィー ナ ー シュ ニ ッツ ェ ル を食 べ るこ と だ った 。 Wiener Schnitzel は 「ウ ィ ー ン風 カ ツレ
ツ」のことで、ウィーン大学に留学していた友人
に連れられて行ったレストランで食べたそれは、
そ の 後も そ の 前も 50 回は 食 べ たな か でも 最 も おい
しかった。その後ウィーンに1ヶ月滞在した時、
ぜひあの店へと思ったが、どうしてもその店は見
つからなかった。つぶれたのかもしれない。これ
も後でわかったことだが、その店のシュニッツェ
ルがおいしかった理由はどうやらとんかつによく
似た味だったかららしい。現地独特の癖のある胡
椒 味 がし な か った か ら。
さて、ウィンナーコーヒーのほうはどうなった
か 。 ウ ィ ー ン に ウ ィ ン ナ ー コ ー ヒ ー は な か っ た ! よ く 考 え れ ば 当 然 か も 知 れ な い 。「 ウ
ィ ー ン風 の コ ーヒ ー 」とい う こ とは ウ ィ ーン で 飲む コ ー ヒー が みな そ う なの だ か ら。た だ 、
ウ ィ ー ン も リ ング 内 は 観 光 地だ か ら カ フ ェ のメ ニ ュ ー に ドイ ツ 語 だ け でな く 英 語 が 書か れ
ていることがある。それを頼りに調べるとウィンナーコーヒーは当地ではフランス語
Melange( メ ラ ー ン ジ ュ ) と 言 う こ と が わ か っ た 。 要 す る に ミ ル ク コ ー ヒ ー の こ と だ 。 ち
な み に 、 コ ー ヒー に ミ ル ク をた く さ ん 入 れ ても ミ ル ク コ ーヒ ー す な わ ちウ ィ ン ナ ー コー ヒ
ー に は な ら な い。 温 め た ミ ルク と コ ー ヒ ー を同 時 に 注 が なけ れ ば な ら ない 。 そ う し て初 め
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て 両 者 は 混 じ る ( melange)の だ 。 な に ご と も 現 地 へ 行 か な け れ ば わ か ら な い こ と は た く さ
ん あ る。 そ れ が旅 の 楽し み だ 。
( 10) ク リ ム ト
Wien と 聞 い て ど こ か 優 雅 な イ メ ー ジ を 抱 く の に は い く つ か の 要
因 が ある 。 女 帝 Maria Theresia 率 いる Habsburger の 王 宮 や Schönbrunn
宮 殿 、そ の 他 の宮 廷 文化 。 Wolfgang Amadeus Mozart や Ludwig van
Beethoven、 Johann Strauß な ど 著 名な 作 曲 家が 陸 続と 登 場 する 音 楽 の
都 。 さら に は Wiener Knabenchor( ウィ ー ン少 年 合 唱団 ) や 1949 年
制 作 の 映 画 The Third Man に 登 場 す る プ ラ ー タ 公 園 (Der Wiener
Prater)内 に あ る 大 観 覧 車 (Riesenrad。「 大 」 と 言 っ て も 1897 年 に 造
られた当時の評価であり、今見ると小さい)などなど。しかし、
こういった華やかな舞台にさらに逆説的に輪をかけたのが「世紀
末 」 とい う 言 葉を 世 に広 め た ウィ ー ンの 画 家 たち だ っ た。
代 表は 言 わ ずと 知 れた Gustav Klimt で 、 1897 年 に Wiener Secession
( ウ ィ ー ン 分 離派 ) と い う 新し い 芸 術 グ ル ープ を 結 成 し 次々 と 新 し い 試み を 展 開 し た。 そ
の ク リム ト が 生ま れ て今 年 は ちょ う ど 100 年 とい う 節 目の 年 にあ た る ので 、 ウ ィー ン では
生 誕 100 年 記 念 展示 が 各 地で 行 われ て い る。 最 も有 名 な 作品 Der Kuss( 接 吻 ) ほか 絵 画が
最
も
数
多
く
展
示
さ
れ
て
い
る
Belvedere 宮 殿 の 近代 絵 画 美術 館 で は7 月 13 日か ら 来 年1 月 16 日ま で 、 Oskar Kokoschka や
Egon Schiele の作 品 を 数多 く 集 める Leopold Museum で は 2月 24 日 か ら8 月 27 日 まで 、 造形
芸 術 が 多 い Künstler Haus で は 7 月 6 日 か ら 9 月 2 日 ま で 、 MAK(Museum und Labor für
angewandte Kunst 応 用 美 術館 ) では 3 月 21 日か ら 7 月 15 日 ま で、 そ し て、 オ ペ ラ座 と 市場
ナ ッ シュ マ ル クト の 中間 に 建 つ分 離 派美 術 館 では 3 月 23 日 か ら来 年 1月 13 日 まで 、 など
な ど 。分離 派 美術 館 の 地下 に ある 1902 年 作の ク リ ムト 画 Beethovenfires( 帯 状 装飾 )は 必見 。
代 表 作 「 接 吻 」も こ れ を 観 ると 単 独 の 作 品 では な く 一 連 のス ト ー リ ー の一 齣 で あ る こと が
わ か る。
世 紀末 芸 術 で忘 れ ては な ら ない の が建 築 家 Otto Wagner の 作品 群 だ が、 こ れ につ い ては
次 回 に紹 介 す るこ と にし よ う 。
(11) 建 築家 オ ッ ト ー ・ヴ ァ ー グ ナ ー
ウ ィ ー ン へ 行っ た ら 必 見 、と い う よ り も 、思 わ ず 目 を 向け て し ま う 建物 が あ る 。 巨大 な
シ ュ テ フ ァ ン 寺院 や 王 宮 、 宮殿 等 は 例 外 と して 、 い ま で もウ ィ ー ン の 人た ち の 日 常 生活 に
溶 け 込 み 日 々 利 用 さ れ て い る 建 物 ― ― そ れ が 、 19 世 紀 末 に 活 躍 し た 建 築 家 オ ッ ト ー ・ ヴ
ァ ー グ ナ ー 設 計に よ る 建 物 だ。 一 例 を 挙 げ れば 、 マ ヨ ル カハ ウ ス 。 壁 面の タ イ ル 画 が美 し
い こ の 建 物 は 庶民 の た め の アパ ー ト 。 郵 便 貯金 局 は 、 名 前の 通 り い ま でも ふ つ う に 使わ れ
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て い る 。 ほ か にも 鉄 道 高 架 鉄橋 、 駅 舎 、 教 会、 ホ ス ピ タ ルな ど が あ り 、弟 子 た ち の 作品 も
ウ ィ ーン 市 内 にい ま でも あ ち こち に 見ら れ る 。
( 12) ワ イ ン 酒 場
ウ ィ ー ン と 言え ば オ ー ス トリ ア の 首 都 、 ハプ ス ブ ル ク 帝国 の 中 心 地 、し た が っ て 大都 会
と い う イ メ ー ジ が あ る が 、 ト ラ ム ( 路 面 電 車 ) で 30 分 ガ タ ゴ ト 北 に 向 か っ て 走 る と 、 そ
こ は も う 一 面 ブド ウ 畑 。 南 に行 っ て も ブ ド ウ畑 。 つ ま り はブ ド ウ 畑 に 囲ま れ た 都 市 と言 っ
て も 言 い 過 ぎ では な い 。 と 言う の は や や 言 い過 ぎ だ が 、 古く か ら の ブ ドウ 畑 と ワ イ ン酒 場
が あ るの は 事 実で 、 北に 行 く とあ る のが Heiligenstadt 、ここ は ベー ト ー ヴェ ン が 遺書 を 書い
た 所 と し て 有 名 。 南 に 行 く と あ る の が Baden、 こ こ は ベ ー ト ー ヴ ェ ン が 「 第 九 」 を 書 い た
所 と し て 有 名 。ベ ー ト ー ヴ ェン が ワ イ ン 好 きだ っ た か ど うか は 知 ら な いが 、 両 者 の 因縁 は
深 い 。今 回 は 北の ハ イリ ゲ ン シュ タ ット へ 行 こう 。
ト ラ ム で ド ナウ 運 河 沿 い に向 か う 路 線 で 行く と 、 途 中 で世 界 遺 産 に 登録 さ れ て い る近 代
建 築 の Marx-Haus ア パ ー ト の 前 を 通 る ので 、途 中 下 車 す るの も 良 い だ ろう 。 こ の ト ラム の
路 線 の 終 点 は Nußdorf、 直 訳 す る と ナ ッ ツ 村 。 こ の 背 後 に ブ ド ウ 畑 が 広 が っ て い る 。 こ こ
か ら 口 で は 表 せな い 複 雑 な 住宅 街 の 路 地 を 歩く と 、 ベ ー トー ヴ ェ ン が 住ん だ と い う 住宅 が
数 軒 見 つ か る だろ う 。 小 さ なワ イ ン 酒 場 も 点在 す る な か に、 ベ ー ト ー ヴェ ン の 有 名 な「 ハ
イ リ ゲ ン シ ュ タ ッ ト の 遺 書 」( コ ピ ー ) が 展 示 さ れ た ベ ー ト ー ヴ ェ ン ハ ウ ス が あ る 。 そ こ
か ら 少 し 下っ て Grinzing 通 り を ゆ る ゆる と 上 ると ワ イ ン酒 場 が数 軒 並 ぶ地 区 に でる 。 観光
バ ス も来 る ほ どの 観 光地 で 、ど の 店に 入 るか 迷 う 。11 月 に 新酒 が でき る と Heurige と 言 い、
杉 の 葉を 束 ね て門 口 に建 て る 。日 本 の杉 玉 と 同じ 発 想 。
ワイン酒場は屋外ビアホールと同様の雰囲気で長いす長テーブル。ちょっと違うのは、
ヨ ー ロ ッ パ の レス ト ラ ン で は珍 し く 、 食 べ 物は 敷 地 内 に ある 売 店 で 買 う。 売 ら れ て いる の
は 日 本 の お 総 菜の よ う な も ので 、 ハ ム や 焼 きソ ー セ ー ジ 、ス テ ー キ は もち ろ ん 、 焼 きジ ャ
ガ や サ ラ ダ 、 魚料 理 も あ る 。マ グ カ ッ プ の よう な 大 き め のコ ッ プ に な みな み と 注 が れた 新
酒 の ワ イ ン は 、ブ ド ウ ジ ュ ー ス の よ う な リ ン ゴ ジ ュ ー ス の よ う な 、 と に か く と て も フ ル ー
テ ィ ー で 、 渇 いた 喉 に 一 気 に流 し 込 み た く なる 。 し か し ワイ ン は ワ イ ン、 2 杯 目 に 速く も
ダ ウ ン 寸 前 に なる 。 甘 く て 美味 し い ワ イ ン は気 を つ け て 飲ま な け れ ば なら な い 。 千 鳥足 で
帰 る に は 、 往 路 と は 別 の ト ラ ム 37 番 で 行 こ う 。 な ん だ こ ん な に 近 か っ た の か 、 と 驚 く ほ
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ど あ っ と い う 間 に リ ン グ に 戻 れ る 。 も っ と も 、「 あ っ と い う 間 」 の あ い だ に 居 眠 り し た か
も し れな い が 。
( 13) ユ リ ウ ス ・ マ イ ン ル
ウィーンの中央、シュテファン寺院から
宮 殿 方向 へ 歩 いて 10 分 ぐら い のと こ ろ に高
級食料品店がある。それがユリウス・マイ
ン テ ル 。 創 業 者 の 名 前 に 由来 す る 。「 高級 」
食 材 だ け で な く大 衆 的 な 日 常食 料 品 も 売 っ てい る か ら 安 心し て 入 れ る 。そ れ に 、 こ こは ス
ー パ ーマ ー ケ ット な ので 自 由 に出 入 りし 見 学 する だ け でも 十 分楽 し め る。
こ の 店 が で き た の は 1862 年 に 遡 る 。 香 辛 料 店 と し て 初 代 ユ リ ウ ス ・ マ イ ン ル が 開 店 、
現 在 は 五 代 目 が経 営 し て い る。 煎 っ た コ ー ヒー 豆 を 売 っ たの は こ の 店 が最 初 。 そ れ まで は
青 い 豆 の ま ま 売ら れ て い た ので 、 味 は ま ち まち だ っ た 。 マイ ン ル が 焙 煎技 術 を 開 発 して 以
来 現 在ま で 、 ここ の コー ヒ ー 豆は 世 界的 に 知 られ て い る。 今 年は そ れ から 150 年 と い うこ
と で 記 念 セ ー ル を し て い る 。 戦 前 は ヨ ー ロ ッ パ に 1000 店 を 越 え る 支 店 を 開 い た が 、 ナ チ
に 反 対 し た た め弾 圧 を 受 け 、戦 後 に 復 興 し たが 、 オ ー ス トリ ア の 財 政 危機 の 影 響 を 受け て
い ま は ウ ィ ー ンの こ の 1 軒 にな っ た 。 も っ とも 、 ホ ー ム ペー ジ を 見 る と食 料 品 店 だ けで な
く 、 カ フ ェ 、 レ ス ト ラ ン 、 ワ イ ン バ ー 、 そ れ に な ん と Sushi-Bar ま で あ る ら し い 。 食 料 品
店 し か 行 っ た こと が な い が 、今 度 ウ ィ ー ン へ行 っ た ら レ スト ラ ン へ 行 って み よ う 。 ただ し
ミ シ ュラ ン 三 つ星 と いう か ら 無理 か もし れ な い。 か と いっ て スシ ・ バ ーは や めと く 。
と こ ろ で 、 ユリ ウ ス ・ マ イン ル で す ぐ に 思い 出 す の は 、二 世 の 夫 人 、日 本 人 声 楽 家の 田
中 路 子だ 。 今 も紅 茶 売り 場 に は彼 女 の名 前 を 冠し た 「 Michiko」 シリ ー ズ が売 ら れ てい る 。
田 中路 子 は 1909 年 生 。東京 音 楽 学校 本 科1 年 の 時に チ ェ リス ト 齋藤 秀 雄 と親 し くな り 、
妻 帯 者 と の 恋 を断 た せ る た め両 親 は 路 子 を ウィ ー ン へ 留 学さ せ た 。 ウ ィー ン 国 立 音 楽学 校
声楽科に入学し、ウィーン社交界に出入りしてユリウス・マイン
ル 二 世と 結 婚 した 。 マイ ン ル 57 歳、 路 子 は 21 歳 だ った 。 そ の後 、
離婚してヴィクトール・デ・コヴァと結婚してベルリンに住み、
多くの文化人をナチから匿い、施設日本大使館と呼ばれた。戦後
も文化人の世話を続け、指揮者の小澤征爾がベルリンで成功した
のも彼女の世話によるものだった。その後も含めた彼女の波瀾万
丈の生涯については、角田房子『ミチコ・タナカ 男たちへの賛
歌 』( 新潮 社 )に 詳 し い。
( 14) ウ ィ ー ン 大 学
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リ ン グ 通 り を時 計 回 り に 進む と 左 手 に 美 術館 、 国 会 議 事堂 、 市 庁 舎 と続 き 、 次 が ウィ ー
ン 大 学 本 館 。 ヨー ロ ッ パ の 古い 大 学 は ど こ もそ う だ が 、 キャ ン パ ス が 市内 あ ち こ ち に散 ら
ば っ てい る 。 ベル リ ン自 由 大 学の よ うに 民 家 が教 室 と いう と ころ も あ る。
ウ ィー ン 大 学の 創 立は 1365 年 、 ド イツ 語 圏 最古 の 大学 だ 。 ドイ ツ では 1386 年 創 立 のハ
イ デ ルベ ル ク 大学 が 最古 。ウ ィ ーン 大 学 のラ テ ン 語名 は Alma Mater Rudolphina Vindobonensis、
ル ド ル フ 四 世 が創 立 し た こ とに 由 来 す る 。 現在 の 学 部 は カト リ ッ ク 神 学部 、 福 音 神 学部 、
法 学 部、経 済学 部 、情 報 処理 、史学 ・ 文化 学 部、哲 学 ・教 養 学部 、心理 学 部、社 会科 学 部、
数 学 部、物理 学 部、化学 部 、地 球科 学 部 、生 命学 部 、翻 訳 学、スポ ー ツ科 学 、分 子 生物 学 。
留 学 で は な く観 光 つ い で にち ょ っ と 見 学 とい う こ と で あれ ば 、 本 館 を見 学 す れ ば 十分 だ
ろ う 。 正 面 階 段を 上 り 玄 関 ホー ル に 入 る だ けで 気 分 が 改 まる 。 右 に 受 付が あ る が 無 視し て
構 わ ず奥 へ 入 ると 左 右に 階 段 があ る 。階段 の 下に 戦 争 犠牲 者 を 追悼 す る反 戦 記 念碑 が ある 。
こ う い う も の は日 本 の 大 学 には 見 ら れ な い …… と 書 こ う とし た が 、 本 学に も 「 川 」 のあ る
エントランス階段の左の植え込みに戦没学
生追悼碑がある。それはともかくとして、
ま ず は階 段 を 上ら ず に廊 下 を 右に 向 かう と 、
中庭に面してぐるっと回廊になっており、
そ こ に歴 代 教 授の 胸 像や 立 像 が並 ん でい る 。
多少知識があれば、名前を知っているとい
う人もいるだろう。たとえばフロイト。私
が研究している国家学者のローレンツ・フ
ォン・シュタインの胸像ももちろんある。
回廊を一周したら、二階に上がり、授業
中 で な け れ ば 教室 を 覗 く と 良い だ ろ う 。 日 本の 階 段 教 室 より も 急 坂 で 驚く 。 人 気 教 授の 授
業 で は 先 生 の 足元 に ま で 学 生が 座 っ て 聴 講 して い る 。 ゼ ミ室 は 日 本 と 同じ で お も し ろく な
い 。ヨ ー ロッ パ の大 学 のト イ レ は広 く て 驚く が 、こ の本 館 は古 い の で狭 く て パッ と しな い 。
3 階 か 4 階 に 図書 室 が あ る 。ヨ ー ロ ッ パ の 大学 図 書 館 は どこ で も カ バ ンや コ ー ト は すべ て
ロ ッ カー に 入 れて 筆 記具 類 だ けし か 持ち 込 め ない の で 注意 。
一 通り 見 学 した ら 、学食 に も 寄り た い。た だし 本 館に は 狭い カ フ ェテ リ ア しか な いの で 、
い っ た ん 本 館 を出 て 左 に 行 きす ぐ に あ る 広 場に 面 し た 十 字路 ( 十 字 以 上あ る ) を 渡 らず に
そ の ま ま 左 に 曲が り 小 路 を 渡っ て す ぐ に 日 本で 言 う 文 学 部の 建 物 が あ る。 こ の 6 階 だか 何
階 だ か 忘 れ た が上 の ほ う に 学食 が あ る 。 た だし 、 私 の 経 験で は ド イ ツ 語圏 の な か で 一番 ま
ず い 学食 だ っ た。
( 15) ゼ ン メ リ ン グ 鉄道
今 週の 音 楽 がオ ー スト リ ア のチ ロ ル音 楽 な ら、こ の 連載 も チ ロル ・ アル プ ス とし た いが 、
残 念 な が ら こ こは 列 車 で 通 過し た だ け で 町 を歩 い た こ と がな い 。 な の で、 体 験 談 を もと に
し て 書い て い るこ の 連載 の 方 針に 反 する の で 、せっ か く の機 会 なが ら 、別 の 話題 に した い 。
ウ ィ ー ン 南 駅か ら は 、 南 にあ る 町 や 国 へ 向か う 列 車 が 発着 す る 。 南 駅か ら 徒 歩 5 分ほ ど
の と こ ろ に 一 時住 ん で い た ので し ば し ば 訪 ねた が 、 西 駅 など と 比 べ る と暗 い 感 じ が する 。
そ れ は と も か く と し て 、 オ ー ス ト リ ア 南 部 に あ る 世 界 遺 産 都 市 Graz へ 行 く に は 、 こ の
南 駅 か ら 、 途 中同 じ く ユ ネ スコ 世 界 遺 産 に 登録 さ れ て い るゼ ン メ リ ン グ鉄 道 路 線 を 通る 列
車 に 乗 る こ と にな る の で 、 二倍 楽 し め る 。 と、 思 っ て 行 った が 、 ほ ん らい の 目 的 は グラ ー
ツ 訪 問 な の で 急行 列 車 に 乗 った た め 、 ゼ ン メリ ン グ 鉄 道 の醍 醐 味 は 味 わえ な か っ た 。と い
う の も 、 ス イ ッチ バ ッ ク な どを 通 ら ず に あ っさ り と 難 所 を通 り 抜 け 、 えっ 、 も う 終 わり ?
と 思 う ま も な く平 地 に 着 い てし ま う か ら だ 。幸 い 、 冬 に 行っ た の で 雪 が舞 い そ れ な りに 楽
し め た が 、 ゼ ンメ リ ン グ 鉄 道そ の も の を 体 験す る に は 各 駅停 車 に 乗 り 、ロ ー カ ル 駅 で途 中
下 車 をし た り しな け れば な ら ない 。
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Semmering 鉄 道 と言 わ れ る区 間 は 41 ㎞ 、高 低差 459 m、トン ネ ル数 14、陸 橋 16、鉄橋 100。
開 通 は 1854 年 、 日 本 史 で 言 え ば 安 政 元 年 、 江 戸 時 代 末 期だ 。( 前頁 写 真 は 1900 年 撮 影 の
も の ) こ れ を 建設 し よ う と 思い 工 事 を 始 め た頃 は 、 い わ ば当 然 な が ら 、狂 気 の 沙 汰 と言 わ
れ た 。 な に し ろ硬 い 岩 盤 続 きの 山 を 通 り 抜 けな け れ ば な らな か っ た か らだ 。 し か も 当時 は
ま だ 運 行 す る のは 蒸 気 機 関 車だ か ら 、 勾 配 にも 工 夫 が 必 要だ っ た 。 場 所は 高 山 地 帯 で、 ゼ
ン メ リン グ 駅 の標 高 は海 抜 896 m、 冬 は 雪や 氷 の世 界 と なる 。 Wien - Graz 間 を 走る 急 行は
最 新 の列 車 だ が、ロ ー カル 線 で はい ま でも 戦 前か ら 使 用さ れ て いる 機 関車 や 客 車が 使 われ 、
メ イ ンテ ナ ン スも 手 作業 。 そ うい っ た点 も ユ ネス コ 世 界遺 産 登録 の 根 拠と な って い る 。
(16) Hundertwasser
オ ー ス ト リ ア の 芸 術 家 Hundertwasser を 漢 字 で 書 く と 「 百 水 」。 な ぜ そ ん な こ と を 言 う か
と 言 う と 、 彼 は作 品 に つ け る雅 号 に し ば し ばこ の 「 百 水 」を 使 っ て い るか ら だ 。 な ぜ漢 字
を 使 う か 。 1960 年 に 来 日 し 、 1962 年 に 日 本 人 女 性 と 結 婚 ( 二 人 目 。 の ち 離 婚 ) す る な ど
日 本 び い き だ か ら だ と 思 わ れ る 。 1928 年 12 月 に ウ ィ ー ン で 生 ま れ 。 本 名 は Friedrich
Stowasser。 一般 に は Friedensreich Hundertwasser と 称 して い る 。Friedensreich は 来 日 中に つ くっ
た 名 前 で 、 苗 字 と 合 わ せ て 「 百 水 豊 国 」 と 書 く 。 し か し 、 Frieden は 「 平 和 」 と い う 意 味
で あ り 、「 豊 か 」 と い う 意 味 は な い 。「 豊 か 」 は む し ろ 後 半 の reich で あ る 。 だ が こ れ を 名
詞 に す る と Reich で 「国 」 と い う 意味 だ か ら 、 Reich 一 言 で 「 豊か な 国」 を 表 し、「 豊 国」
と 称 す る に は Frieden は 要 ら な い 。 と 言 っ て も 、 本 名 は Friedrich だ か ら 、 そ れ を 残 し た の
だ ろ う。 彼 は 2000 年 2 月 に 豪華 旅 客線 ク イ ーン ・ エリ ザ ベ ス二 世 号 上で 死 んだ 。
父 親 は 彼 が 生 ま れ た 13 日 後 に 亡 く な り 、 母 親 が 人 で 育 て た が 、 彼 女 は ユ ダ ヤ 教 徒 で あ
る た め 、 ナ チ ス占 領 時 代 は 「ユ ダ ヤ 人 街 へ 追い や ら れ 、 その 地 下 室 で 暮ら し 始 め 」 ナチ の
親 衛 隊 の 足 音 に お び え た 、 と Wiki 日 本 語 版 に 書 か れ て い る 。 だ が 、 そ の ド イ ツ 語 版 を 読
む と 、「 彼 は カ ト リ ッ ク の 洗 礼 を 受 け 、 ヒ ト ラ ー ・ ユ ー ゲ ン ト に 加 盟 し た 」 と 書 か れ て い
る 。 話が 180 度 異な る 。 どっ ち が真 実 な のだ ろ うか 。
フ ン デ ル ト ヴァ サ ー の 絵 は独 特 の 線 を 持 つが 、 彼 が 設 計し た 建 造 物 も同 じ ラ イ ン で描 か
れ て い る 。 ウ ィ ー ン の 市 営 住 宅 や 記 念 館 は 有 名 だ が 、 1971 年 に 造 ら れ た ウ ィ ー ン の 清 掃
工 場 も 注 目 に 値す る 。 フ ン デル ト ヴ ァ サ ー 設計 の 清 掃 工 場と 言 え ば 大 阪舞 洲 の 清 掃 工場 も
有 名 だ 。 た だ し、 後 者 は 大 阪の 「 税 金 無 駄 遣い 」 の 象 徴 とし て 。 こ れ に対 し て 、 そ んな こ
と を 言 う 人 は 芸 術 が わ か っ て な い と 反 論 さ れ る が 、 芸 術 云 々 は と も か く と し て 、 2000 年
に 造 ら れ た こ の工 場 は ど う 見て も ウ ィ ー ン のそ れ と そ っ くり で 、 大 阪 のた め の オ リ ジナ ル
で は な い 。 だ から 、 フ ン デ ルト ヴ ァ サ ー に 改め て 高 額 の 設計 料 を 払 っ た点 に こ そ 「 税金 の
無 駄 使い 」 が 見ら れ ると 私 に は思 え る。
な お 、 彼 の 作品 は オ ー ス トリ ア や 日 本 だ けで な く 、 た とえ ば ド イ ツ 北部 の 比 較 的 小さ な
駅 Uelzen で も彼 の デザ イ ン が使 わ れ てい る (2000 年 か ら駅 名 を Hundertwasser-Bahnhof Uelzen
と 改 称)。
( 17) Naschmarkt
ナ ッ シ ュ マ ル ク ト 、 要 す る に 市 場 。 ウ ィ ー ン の リ ン ク の 南 、 分 離 派 美 術 館 か ら 徒 歩 10
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分 ほ ど の と こ ろに あ る 通 り の中 央 分 離 帯 に この 市 場 が 連 なり 、 さ ら に その 先 は 週 末 にの み
の 市 が開 か れ る。 こ の通 り の 片側 に は、 前 に 紹介 し た Otto Wagner が 19 世 紀 末 に設 計 し建
て ら れた ア パ ート が 2軒 建 っ てい る 。
む かし は 市 を開 く には 領 主 の許 可 が必 要 で 、いつ で も 開け る わけ で は なか っ た。だか ら 、
日 本 で も 「 五 日市 」 と か 「 十日 市 」 と か と いっ た 地 名 で 残っ て い る よ うに 、 毎 月 5 の日 だ
け 市 が 開 け る 等決 ま っ て い た。 ド イ ツ で は いま も 基 本 的 には 土 曜 日 の 午前 と 決 ま っ てい る
と こ ろ が 多 い が、 多 く の 市 が市 庁 舎 前 広 場 で開 か れ る の と関 係 す る 。 とい う の も 、 土日 は
官 公 庁が 休 み だか ら だ。と こ ろ が、一つ の 町 に広 場 が一 つ しか な い とい う こ とは な いか ら 、
水 曜 日 に は こ っち の 広 場 で とか と 、 少 し 大 きな 町 に な る と、 一 週 間 の うち 3 回 か 4 回ど こ
か で 市が 開 か れて お り、同 じ 人 が商 売 し てい る 。そ うし た 市を 開 く 商人 の 力 が強 く なる と 、
毎 回 市 場 に 商 品を 持 っ て 集 まっ て く る の で はな く 、 常 駐 する こ と に な る。 そ の 典 型 が、 ミ
ュ ン ヒ ェ ン の ヴィ ク ト ー リ アン マ ル ク ト と ウィ ー ン の こ のナ ッ シ ュ マ ルク ト だ 。 日 曜日 以
外 毎 日 朝 か ら 夕方 ま で 市 が 開か れ て お り 、 屋根 が な い 商 店街 み た い な もの だ 。 い ず れも 観
光 地 に な っ て いて 、 地 元 の 人が 多 く 買 う 店 もあ る が 、 ど う見 て も 観 光 客目 当 て と い う店 も
あ る 。 日 本 で も行 列 の で き る店 と そ う で な い店 が 隣 接 し てい る と い う 光景 を 見 る が 、こ う
し た 市 で も 客 が順 番 待 ち し てい る と こ ろ と 、客 が な ぜ か 寄り つ か な い で店 員 が 暇 そ うに し
て い る 店 が あ る。 ど こ が 違 うか 、 わ れ わ れ 長年 住 ん で い るわ け で は な い人 間 に は 判 別で き
な い 。 私 も 結 局、 並 ん で い る店 の ほ う が 評 判が 良 い の だ ろう と 思 っ て 、行 列 の う し ろに つ
く 。 だ か ら 、 ます ま す 人 だ かり が し て 繁 盛 する が 、 ほ ん とう に こ の 店 の商 品 が 良 い のか ど
う か は私 に は わか ら ない 。
写 真 に 見 ら れ る よ う に 屋 根 付 き の 店 が 多 い 。 ネ ッ ト に よ る と 2010 年 に イ ン フ ラ 整 備 し
た と い う か ら 、い ま は も っ とき れ い に な っ て、 或 る 意 味 つま ら な く な った か も し れ ない 。
の み の市 は 、 どう 見 ても ご み の市 。
な お 、 Naschmarkt の 歴 史 は 古 く 、1780 年 から 。 た だ し 場所 を 転 々 と しい ま の 所 に なっ た
の は 20 世紀 初 め 。naschen は 「 つ まみ 食 い する 」 とい う 意 味。
(18)
Graz
ウ ィー ン 南 駅か ら ゼン メ リ ング 鉄 道を 経 て グラ ー ツ へ、と い うル ー トを 前 に 紹介 し たが 、
そ の 後 2 回 、 話が ウ ィ ー ン に戻 っ て し ま っ た。 今 回 は ト ンネ ル を 越 え てグ ラ ー ツ に 行く こ
と に しよ う 。 ここ は 町ご と ユ ネス コ 世界 遺 産 に登 録 さ れて い る瀟 洒 な 観光 地 だ。
駅 か ら 旧 市 街へ は ち ょ っ と距 離 が あ る の で、 バ ス か 路 面電 車 に 乗 り たい 。 バ ス は どこ へ
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行 く か わ か ら ない と こ ろ が ある の で 、 路 面 電車 に し よ う 。駅 前 か ら 出 てい る 3 番 か 6番 の
電 車 に乗 る が 反対 方 向で は 困 るの で 、そ の 辺 の人 に fährt dieser Tram zum Stadtmitte?と か と尋
ね よ う 。 ム ー ア 川 ( Mur) を 渡 れ ば そ こ は 旧 市
街、中央広場前に着く。降りて路面電車の進
行方向へ行くと市庁舎などがある。逆に進み
ちょっと道が狭くなった所から、丘の上にあ
るお城までのケーブルカーが出ているので、
まずはそれに乗って丘の頂上へ出よう。眼下
に町が一望できる。少し下に有名な時計塔が
見 え る ( 写 真 )。 1588 年 に 建 造 が 始 ま っ た と
いうからかなり古い。時計塔を見ながら坂道
を徐々に下っていくとトンネルがあり、そこ
を通り抜けると旧市街に出る。さきほどの中
央 広 場 ま で行 か ず に 、 坂を 下 り た らす ぐ に 左へ 路 地(Hofgasse)を 入 る と、 創 業 1569 年 とい
う パ ン屋 さ ん (Bäckerei Edegger)が あ る 。せ っ かく だ か らお や つ用 に パ ンを 買 お う。 そ こか
ら 大 学 や ら 教 会や ら 、 な に しろ 町 中 が 世 界 遺産 だ か ら 見 るも の 写 真 の 被写 体 に 困 る こと は
な く 、かと い って 人 通 りが 途 絶 えた ら 行き 過 ぎな の で 教会 の 塔 を目 印 に戻 っ て 坂を 下 ると 、
市 庁 舎 な ど が 建ち 並 ぶ メ イ ンス ト リ ー ト に 戻れ る 。 こ の 市庁 舎 は 中 庭 に面 し た 回 廊 (下 の
写真)が名物で、グラーツに行ってこれを見
なかったら、何しに行ったの?と馬鹿にされ
るほど有名だ。ついでながら、大学の中庭の
回廊も美事で、被写体としてはこちらのほう
が 良 い よ う に 思 う ( カ ラ ー だ と )。 観 光 対 象 は
この辺り一帯に集まっているから裏道も含め
てぶらぶらと歩いておこう。レストランも、
やや古い伝統的な店がいくつかある。昼頃は
ど こ も混 ん で いる 。
私は行きそびれたが、ムーア川沿いに超近
代 的 なガ ラ ス 張り の Grazer Kunsthaus( ガラ ス の
芸術ホール)がある。そして中州にも、なん
と も 奇 抜 な 形 の Murinsel と い う 名 の 建 物 が あ
る 。 カ フ ェ や 劇 場 が 中 に あ る 。 こ れ らは 最 初 に
登 っ た お 城 か ら も 眼 下 に 見 下 ろ せ る 。時 間 が あ
れ ば ぜひ 立 ち 寄り た い。
さ て 、 旧 市 街 に あ る 観 光 名 所 も 集 中し て い る
か ら 3 時 間 も あ れ ば 一 通 り 見 終 わ る 、そ う し た
ら 、 中 央 広 場 か ら 7 番 の 路 面 電 車 に 乗っ て 駅 方
向 へ 戻 ろ う 。 た だ し 、 ま だ 帰 ら な い 。駅 を 通 り
過 ぎ 、 さ ら に ど ん ど ん 先 へ 進 み 約 20 分 ほ ど で
Schloss Eggenberg( エ ッゲ ン ベ ルク 城 。 写真 ) に着 く 。 周囲 を 森に 囲 ま れた 瀟 洒 なお 城 で、
広 い 前 庭 に な ぜか 孔 雀 が 数 羽放 し 飼 い さ れ てい る 。 一 般 のツ ア ー 客 は ここ ま で あ ま り来 な
い の で、 静 か だ。 グ ラー ツ で 時間 が あっ た ら ぜひ こ こ も立 ち 寄り た い 。
(19)
Melk
ド イ ツ か ら オー ス ト リ ア の首 都 ウ ィ ー ン へ鉄 道 で 旅 す ると き 、 一 般 には ド ナ ウ 川 に沿 っ
て 延 び る 鉄 路 を行 く 。 一 度 、ウ ィ ー ン か ら ハン ブ ル ク ま での 長 距 離 特 急に 乗 っ た こ とが あ
る が 、 そ の と き 、 な ぜ か 列 車 は こ の 近 道 を 通 ら ず Innsbruck を 経 由 し チ ロ ル 山 脈 を 抜 け ボ
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ー デ ン 湖 畔 の Bregenz か ら ド イ ツ に 入 っ た 。 午 前 5 時 頃 出 発 し て 目 的 地 キ ー ル には 夜 着 い
た 十 数 時 間 の 列車 の 旅 だ っ た。 こ う い う の はた ぶ ん 珍 し いだ ろ う 。 ド イツ か ら ウ ィ ーン へ
と 言 えば 、 ふ つう は 、München か ら Salzburg を 経て 行 くか 、 Nürnberg か ら Passau、 Linz を 経
て 行 くド ナ ウ 川ル ー トを と る 。
で 、 オ ー ス トリ ア の 鉄 道 幹線 の 一 つ で あ るこ の ド ナ ウ 川ル ー ト だ が 、ラ イ ン 下 り のよ う
に 車 窓 か ら ド ナウ 川 の 流 れ を見 る の を 楽 し みに す る と 、 期待 を 裏 切 ら れる 。 地 図 を 見れ ば
明 ら か だ が 、 ドナ ウ 川 が 鉄 道路 線 の 近 く を 流れ て い る の は確 か な の だ が、 車 窓 か ら 眺め る
に し て は や や 遠い 。 し か も 川は 低 い 所 を 流 れる か ら 、 山 のよ う に 離 れ ても 見 え る と いう こ
と は な い 。 Linz も ド ナ ウ 河 畔 の 町 だ が 車 窓 か ら
は川が見えない。美しき青きドナウが車窓から
見 え る の は 、 ド イ ツ 国 境 の Passau 付 近 と 、 Linz
と Wien の 中 間に あ る Pöchlam 付 近 、 そ して 今 回
紹 介 する Melk 付近 だ け だ。 ユ ネス コ 世 界遺 産 に
登 録 され て い るド ナ ウの Wachau 渓 谷 を 見た け れ
ば 、 こ の 幹 線 か ら は ず れ て メ ル ク か ら Krems 経
由 の ロー カ ル 線に 乗 らな け れ ばな ら ない 。
さて、列車がいよいよメルクに近づくとドナ
ウ川を見逃しまいとわくわくするが、いざメル
ク に 着 く 寸 前 にな る と ド ナ ウ川 の こ と を す っか り 忘 れ て しま う 。 な ぜ か。 目 の 前 の 高台 に
大 き な メ ル ク 修道 院 が 聳 え 立ち 、 そ の 黄 色 の配 色 の 美 し さに 目 を 奪 わ れて し ま う か らだ 。
こ の 路線 を 通 るた び に、あ あ、い つ かこ こ で 途中 下 車 して み たい 、と 思い つ つ 通り 過 ぎた 。
2005 年 に 一 年間 研 究 休暇 を もら っ た 際、 11 月 か ら 12 月 に かけ て Wien で 過 ご した の を機
会 に 、 よ う や く念 願 の メ ル ク修 道 院 訪 問 の 夢を 果 た し た 。期 待 通 り で あっ た が 、 残 念な が
ら こ の 年 の 冬 は 院 内 の ガ イ ド ツ ア ー が な く 、 修 道 院 の 内 部 に は 入 れ な か っ た 。( も っ と も
玄 関や 廊下 、中 庭等 へは誰 でも いつ でも 入れ る。)
オ ー ス ト リ ア有 数 の バ ロ ック 建 築 で あ る メル ク 修 道 院 (11 世 紀 設立 。 いま の建 物 は 1745
年のもの)はとにかく丘の上に聳え立っているので、地図も何も持っていなくても駅から
道 に 迷 う こ と はな い 。 駅 か らゆ る い 坂 を 下 り道 な り に 曲 がる と 、 ド ナ ウ川 の 支 流 メ ルク 川
に 出 る 。 こ の 橋や 川 向 こ う から 修 道 院 を 眺 める の も 良 い 。さ ら に 少 し 先へ 歩 い て ド ナウ 川
を 見 る の も も ちろ ん 良 い 。 ただ し 、 修 道 院 へ行 く に は 行 き過 ぎ で 、 メ ルク 川 に 出 る 前に 広
場 が あ る の で 、そ こ を 右 折 して 商 店 街 ( と いう ほ ど 店 が ない ) を ゆ る ゆる と 登 り 、 適当 な
所 か ら左 に 入 る路 地 を登 る と 修道 院 に着 く 。な お 、こ の 商 店街 に あ る小 さ なレ ス ト ラン(パ
ン 屋 だ っ た か パ ン 屋 の 隣 だ っ た か ) の Apfelstrudel は ウ ィ ー ン で 食 べ た ど の 店 の そ れ よ り も
お い しか っ た。
(好 みの 問題 なの でみ なさん が行 って そう 思う かは わか らな いし、7 年前 の話 )
ち な みに 、 こ の町 は 修道 院 と ドナ ウ 川以 外 は 観光 名 所 (ドイ ツ語 で言 う Sehenswürdigkeit〔見
る 価 値 が あ る 〕) が な い 。( 小 さ な 商 店 を 眺 め る の も 楽 し い が 。) 列 車 で こ の ま ま ウ ィ ー ン へ
戻 る のは も っ たい な いの で 、 上述 の クレ ム ス 経由 に す れば ド ナウ 川 の 鉄橋 で 渡れ る 。
( 20)
Salzburg
ザ ル ツ ブ ル ク と 言 え ば モ ー ツ ァ ル ト。 モ ー ツ
ァ ル ト と 言 え ば ザ ル ツ ブ ル ク 、 と い うほ ど 、 こ
の 町 は モ ー ツ ァ ル ト の 生 誕 地 で あ る こと を 宣 伝
に 使 っ て い る 。 映 画 フ ァ ン な ら サ ウ ンド ・ オ ブ
・ ミ ュ ー ジ ッ ク を 思 い 出 す と 思 う が 、ザ ル ツ ブ
ル ク の 観 光 パ ン フ レ ッ ト に も 載 っ て いな い 。 も
ち ろ ん ミ ラ ベ ル 宮 殿 と か 映 画 の 舞 台 に使 わ れ た
所 は ザ ル ツ ブ ル ク の 観 光 の 目 玉 だ し 、ト ラ ッ プ
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一 家 が か つ て 住ん で い た 家 (町 か ら 遠 い ) は現 在 ホ テ ル とし て 使 わ れ てい る か ら 、 それ ら
を 訪 ねる 旅 は でき る 。
ザ ル ツ ブ ル ク は ウ ィ ー ン か ら 特 急 列 車 で 約 3 時 間 、 ミ ュ ン ヒ ェ ン か ら だ と 1 時 間 40 分
ほ ど で 行 け る から 、 ど ち ら かと 言 え ば ド イ ツ観 光 の つ い でと い う 感 覚 だ。 ミ ュ ン ヒ ェン か
ら の 列 車 が 比 較的 大 き な 渓 谷を 渡 っ た ら す ぐに ザ ル ツ ブ ルク の 駅 に 着 く。 ド イ ツ 国 境に あ
る た め、 ド イ ツ国 内 有効 の 自 由乗 降 割引 切 符 (German Rail Pass と か Bayern Ticket)で オ ース
ト リ アの ザ ル ツブ ル クま で 行 ける 。
中 央 駅 は 町 か ら 少 し 離 れ て い る が 、 徒 歩 10 分 ほ ど で ミ ラ ベ ル 宮 殿 に 着 く 。 宮 殿 は 市 庁
舎 と し て 利 用 され て い る の で、 土 曜 日 な ど とく に 結 婚 式 の届 け に 来 た カッ プ ル を し ばし ば
見 か け る 。 ウ エデ ィ ン グ ド レス を 着 て 宮 殿 の庭 を 歩 き 写 真を 撮 る の が お決 ま り の コ ース ら
し い 。 夏 は バ ラ園 が き れ い だ。 バ ラ 園 か ら 少し 遠 く に ホ ーエ ン ザ ル ツ ブル ク 城 が 見 える の
で 格 好 の 撮 影 地で あ る こ と はま ち が い な い 。隣 接 し て マ リオ ネ ッ ト 劇 場( 人 形 遣 い )が あ
る。
そこからすぐのマカルト小橋を渡ってザルツブルク川の左岸に出るとすぐに
Getreidegasse( 穀 物 小 路 )。 こ こ で ウ ィ ン ド ウ シ ョ ッ ピ ン グ と と も に 店 の 看 板 見 学 が 楽 し め
る 。 こ の 小 路 をち ょ こ ち ょ こと 歩 い て 廻 っ てい る う ち に 広場 に 出 た ら 、目 の 前 に 黄 色の 建
物 が 目 に 入 る 。こ れ が モ ー ツァ ル ト が 生 ま れた 家 だ 。 い まは 記 念 館 に なっ て い る 。 さら に
大 聖 堂 、 大 司 教館 、 美 術 館 など に 寄 っ て い ると お 城 の 麓 に着 く 。 お 城 は山 の 上 に あ るが 、
ケ ー ブル カ ー があ る ので あ っ とい う 間に 山 の 上へ 。お 城の 銃 砲 口か ら 旧市 街 が 一望 で きる 。
帰 り は 坂 道 を 歩 い て 降 り よ う 。 途 中 に 客 席 数 1600 と い う ビ ア ホ ー ル が あ る の で 、 ぜ ひ
立 ち 寄 り た い 。大 き い か ら と言 っ て 料 理 が いい 加 減 と い うこ と は な い 。大 小 さ ま ざ まな 部
屋 が あ り テ ラ ス も あ る の で 、 店 内 を 見 学 す る だ け で も 楽 し い 。 1926 年 創 設 と い う か ら ヨ
ー ロ ッパ で は さほ ど 古い 店 で はな い 。
ザ ル ツ ブ ル クの 名 所 は か たま っ て 存 在 す るの で 、 ミ ュ ンヒ ェ ン か ら 日帰 り で 見 て 回る こ
と が でき る 。
( 21) Baden
バーデンと言えば、西南ドイツの高級保
養 地 Baden Baden を 思 い 出す 人 が多 い が 、ウ
ィ ー ン郊 外 に も高 級 保養 地 バ ーデ ン があ る 。
Baden は 英 語 の bath で お 風 呂 な い し 温 泉 を
意 味 す る 。 ド イ ツ の 地 名 に Baden と い う 字
が付く所が多いが、その地名の所には温泉
がある。スイスの温泉で日本でも知られて
い る のは Bad Ragaz。 ア ルプ ス の少 女 ハ イジ
は、幼くして両親が死んだ後、お母さんの
妹 で あ る デ ー テに 育 て ら れ たが 、 デ ー テ は アル ム の お じ いさ ん に ハ イ ジを 預 け る ま でこ の
ラ ガ ー ツ 温 泉 で働 い て ハ イ ジを 育 て て い た のだ 。 ド イ ツ にも ス イ ス に もオ ー ス ト リ アに も
温 泉 が あ る な ら、 地 震 も あ りそ う だ が 、 こ れら の 国 で は 過去 数 十 年 間 震度 2 程 度 の 地震 で
さ え ま ず 起 き ない 。 そ れ は 、レ ス ト ラ ン や カフ ェ や デ パ ート で の ワ イ ング ラ ス や 酒 瓶の 置
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き方を見ればわかる。こん な置 き方をしたら日本だった
ら毎月一度は棚から落ちて 割れ る。ウィーン郊外のこの
バーデンが開かれたのは古 代ロ ーマ時代。ドイツのトリ
アにカラカラ浴場跡がある がこ れももちろん古代ローマ
人 の もの 。
それはともかくとして、 ウィ ーンの中心から路面電車
で南へ約1時間でバーデン に着 く。ただし、帰りに気づ
い た のだ が 、 路面 電 車以 外 に S-Bahn も 通じ て おり 、 こ れ
に 乗 れば ウ ィ ーン の 中心 へ 30 分ぐ ら い で着 く 。国 鉄 の 車
窓 の 景色 は 一 面ず っ とブ ド ウ 畑。
バ ー デ ン は 19 世 紀 に ハ プ ス ブ ル ク 家 の 夏 の 保 養 地 と し て 整 備 さ れ 、 モ ー ツ ァ ル ト や シ
ュ ト ラ ウ ス な ど音 楽 家 も 通 った 。 こ の 地 で 最も 有 名 な 話 題は 、 ベ ー ト ーヴ ェ ン が こ こで 交
響 曲 第 九 を 作 曲 し た こ と 。 い ま 記 念 館 に な っ て い る 家 か ら 徒 歩 10 分 ぐ ら い の と こ ろ に カ
ジ ノ と 温 泉 が あ り 、 川 沿 い に 徒 歩 30 分 ぐ ら い の と こ ろ に は 野 外 温 泉 施 設 Thermalstrandbad
が あ る。 こ こ とカ ジ ノの 中 間 にあ る Doblhoffpark と い う 小さ な 池 のあ る 公 園の 一 角に 約 600
種 20000 本 の バ ラ が 植 え ら れ て い る 庭 があ る ( 写 真 )。 残 念 なが ら 、 私 が 行 った の は 12 月
だ っ た の で 枝 しか な か っ た 。温 泉 に 入 る な らと も か く 、 ここ は 夏 に 行 くべ き と こ ろ かも し
れ な い。
ど の 辺 か 、 行け ば 思 い 出 せる と 思 う が 、 途中 に あ ま り おい し そ う で はな い 日 本 食 レス ト
ラ ン が あ り 、 そ の す ぐ 近 く に あ る Konditrei( 自 家 製 ケ ー キ が 食 べ ら れ る カ フ ェ )は お 薦 め
( 場 所 は Pelz Gasse、 店 名 は cafe Konditrei Ullmann と あ る)。
( 22)Gulasch
こ こ に 書 く 記事 は す べ て 自分 が 行 っ た こ との あ る 所 と する 原 則 を 自 分で 決 め て い る。 ド
イ ツ は ほ ぼ 全 国を 見 て 歩 い たが 、 オ ー ス ト リア は あ ま り 知ら な い の で そろ そ ろ 記 事 のネ タ
が 切 れ て き た 。も っ と も ウ ィー ン に は 3 回 行き 、 1 回 は 1ヶ 月 、 他 の 2回 は 2 週 間 滞在 し
た の で、ま だ まだ 書 くこ と が ある 。なの で 、ふ たた び ウィ ー ン のこ と を書 く こ とに し よう 。
今 日 の テ ー マ は Gulasch。 と 言 っ て も 日 本 で は 聞 き 慣 れ な い 単 語 だ ろ う 。 こ れ は ハ ン ガ
リ ー 風 ビ ー フ シチ ュ ー の こ と。 ウ ィ ー ン で グラ ー シ ュ を 食べ よ う ( つ いで な が ら 、 欧米 語
で は ス ー プ や シチ ュ ー は 「 飲む 」 と 言 わ ず に「 食 べ る 」 と言 う ) と 思 った ら 、 リ ン グ内 中
央 に ある シ ュ テフ ァ ン寺 院 の 裏、 モ ーツ ァ ル トハ ウ ス を過 ぎ て路 地 を さら に 100 m ぐ らい
行 っ た と こ ろ に あ る Gulaschmuseum が 、 迷 わ ず に 行 き 着 け て 便 利 だ 。 店 名 が 「 グ ラ ー シ ュ
博 物 館 」 と い うぐ ら い だ か ら、 種 類 も 豊 富 。そ の せ い か 、日 本 で 売 ら れて い る 観 光 ガイ ド
ブ ッ クに も 必 ず載 っ てい る の で日 本 人客 も 多 く、隣 席 も 日本 人 、と いう こ と も珍 し くな い 。
最 近 は メ ニ ュ ーに 日 本 語 が 書か れ て い る 。 写真 を 撮 っ て もな ん だ か わ から な い の で 手元 に
な い が、 ネ ッ トか ら 拾っ て い ちお う 載せ て お く。
1997 年 11 月 に ウ ィー ン へ 行 っ た 際、 初 め て こ の店 に 一 人 で 行っ て 食 べ て い たら 、 日本
人 の 若 い 夫 婦 が食 べ 終 え て 店を 出 た 。 が 、 ちょ っ と し て 旦那 さ ん が 戻 って き て 私 に 話し か
け て きた 。
「 ど こか で お 会い し たこ と あ りま す よね 。」と い う。ま っ たく 見 覚 えが な い。
「失
礼 だ け ど 、 思 い 出 せ ま せ ん 。 大 学 に 勤 め て い る の で 、 そ こ で 会 っ た か も し れ な い 。」 と 言
う と 、 彼 曰 く 、自 分 は 法 政 大学 の 工 学 部 を 出て い ま 豊 橋 で働 い て い る 、と 。 ち ょ う どそ の
年 の 3月 ま で 私は 法 政大 学 の 工学 部 でも 教 え てい た の で、
「 な ら ば、そこ で 」と 思 った が 、
年 代 が 違 う 。 そん な こ ん だ でた だ の 他 人 の そら 似 だ っ た らし い が 、 こ れも ご 縁 と 名 刺を 交
換 し た 。 た っ たそ れ だ け の こと だ が 、 な ぜ かい ま だ に 毎 年年 賀 状 を 出 し合 っ て 近 況 報告 を
し て い る 。 こ のご 夫 妻 は オ ース ト リ ア が 大 好き で あ ち こ ち旅 行 し て い るが 、 そ の 後 2年 ほ
ど 奥 様 が 入 院 して 行 け な く なっ た と 残 念 が って い た 。 幸 い奥 様 は 快 癒 され た が 、 今 度は 彼
が 仕 事 に 忙 殺 して 行 け ず 、 いま は 彼 を 置 い て奥 様 だ け 友 だち と 一 緒 に オー ス ト リ ア へ行 っ
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て い る と か 。 まあ 、 ど う で も良 い 話 で は あ るが 、 外 国 に 行く と 思 わ ぬ 出来 事 や 出 会 いが あ
る 、 とい う 一 例。
( 23) Augarten
トラムがウィーン大学前を通り過ぎるとすぐ
に 右 に 大 き く 曲 が り Schottentor 駅 に 着 く 。 路 面
電車が交差するターミナル駅だ。リング通りを
そ の ま ま 進 む と 次 の 駅 が Schottenring で す ぐ 目 の
前にドナウ運河が流れる。ここでリング通りと
別れて運河の橋を渡りまっすぐに進むとアウガ
ル テ ン 公 園 に 着 く 。 1654 年 に 建 て ら れ た 白 亜 の
宮殿があり、かつてモーツァルトやベートーヴ
ェ ン も こ こ で コン サ ー ト を 開い た 。 女 帝 マ リア ・ テ レ ジ アが 狩 猟 で 訪 れ、 彼 女 の 命 によ り
設 立 さ れ た ハ プス ブ ル ク 家 御用 達 の 磁 器 工 房も あ る 。 建 物の 正 面 に 展 示室 兼 売 店 が あり 、
セ ン ス の 良 い 磁器 を 購 入 す るこ と が で き る 。ヨ ー ロ ッ パ にコ ー ヒ ー を もた ら し た の はト ル
コ 軍 だが 、 磁 器に よ るコ ー ヒ ーカ ッ プを 初 め て作 っ た のが こ の工 場 だ と言 わ れて い る 。
ア ウ ガ ル テ ンの 敷 地 内 に はさ ら に 、 ウ ィ ーン 少 年 合 唱 団の 宿 舎 が あ るら し い が 、 立入 禁
止 ど こ ろ か 垣 根越 し に さ え も中 が 覗 け な い 。野 次 馬 根 性 で二 度 見 に 行 った が ど う し ても 見
つ か ら ず 、 偶 々入 り 口 が 開 いて い た 或 る 会 社の 駐 車 場 の 垣根 越 し に か すか に 中 を 垣 間見 た
だ け で終 わ っ た。( 右 写真 )
ウ ィ ー ン 少 年 合 唱 団 の 宿 舎 は 、 必 死 の 努 力 (?)も む な し く 見 ら れ な か っ た が 、 逆 に 嫌 で
も 目 に入 る の がウ ィ ーン の 高 射砲 台 の塔 (Wiener Flaktürme)だ 。と て つ もな く 大 きく 、 しか
も な ん と も 不 気味 な 存 在 だ 。こ れ さ え 目 に 入ら な け れ ば 、の ん び り 散 歩の で き る 良 い公 園
な の だ が … … 。( 下 の 写 真 に 、 高 射 砲 塔 の 右 に 白 い 煙 を 吐 い て い る 塔 は 、 以 前 紹 介 し た 、
フ ン デル ト ヴ ァサ ー が建 築 し た清 掃 工場 の 煙 突。)
ア ウ ガ ル テ ン公 園 か ら 東 南に の び る 道 路 を進 む と 、 ウ ィー ン 北 駅 に 着く 。 駅 を 含 めて さ
らに東南方向に広大な面
積の森が広がるが、これ
はプラーター公園だ。か
なり広いと思えるアウガ
ルテン公園が4つぐらい
入るほど広大な森で、か
つてはハプスブルク家の
狩猟場だった。この公園
の 小 さな 一 角に 、映画「 第
三の男」で一躍有名にな
っ た 大観 覧 車 (das Wiener Risenrad)があ る 。「大 (riesen)」と 言 って も 、 いま の 日 本の 観 覧車
と 比 べ た ら ミ ニと 言 う べ き かも し れ な い 。 とは 言 え 、 こ れが 造 ら れ た 年代 を 思 え ば 、や は
り 「 大 」 と 言 う べ き だ ろ う 。 な ん と 、こ れ は 1897 年 建 設で 、 す で に 100 年 以 上ま わ っ て
い る のだ 。 最 高地 点 は 65 m だ と いう 。
( 24)オ ー ス ト リ ア 国 立 図 書 館
Österreichische Nationalbibliothek 王 宮 の 一 角に あ る。どの ガ イ ドブ ッ クに も 紹介 さ れ てお り 、
し か も 必 ず 「 世 界 一 美 し い 図 書 館 」 と 書 か れ て い る 。 ネ ッ ト の ブ ロ グ な ど で も 、「 ま さ に
そ の 通 り だ っ た」 と い う 絶 賛の 感 想 ば か り なら ぶ 。 ス イ スの ザ ン ク ト ・ガ レ ン 修 道 院の 図
書 館 は ユ ネ ス コ世 界 遺 産 と なっ て い る が 、 ここ は 規 模 が 違う 。 と い う わけ で 、 い ま やこ こ
は ウ ィ ー ン 観 光の 目 玉 の 一 つで あ る こ と は 間違 い な い 。 いま は 、 図 書 館と 言 っ て も 本を 借
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り た り 読 ん だ りす る の で は なく 、 入 場 料 7 ユー ロ か か る 観光 ス ポ ッ ト に堕 し て い る 。と は
言 え 、や は り 行っ て みた い 。
観 光 ス ポ ッ トと 言 っ て も 、図 書 館 す べ て がそ う な の で はな い 。 い ま でも 図 書 館 と して の
機 能 を 果 た し て い る 部 門 が あ る 。 19 世 紀 前 半 の 文 献 調 査 の た め に 私 は こ こ に 2 週 間 通 っ
た こ と が あ る 。だ い ぶ 前 の こと な の で 、 入 り口 が ど う だ った か 忘 れ た が、 観 光 ス ポ ット と
は 別 だ っ た 気 がす る 。 薄 暗 い館 内 に 入 り 、 右手 の ロ ッ カ ール ー ム に 手 荷物 を 預 け て 左の 小
さ な 部 屋 に 行 き、 そ こ で 手 書き 文 書 を 読 ん だり 、 ど こ か ずっ と 奥 の 部 屋で 古 い 新 聞 を読 ん
だ り し た 記 憶 がす る 。 少 な くと も 観 光 客 は いな か っ た と 思う の で 、 た ぶん 入 り 口 が 違う の
だ ろ う。 あ る いは 、 月日 が 経 ち、 ほ んら い の 図書 館 機 能は 他 に移 し た のか も しれ な い 。
2005 年 の 冬 に ウ ィ ー ン へ 行 っ た 時 は 、 ウ ィ
ー ン 大 学 公 文 書 館 に 通 っ た 。 こ れ は 中央 郵 便 局
の 裏 手 に あ り 、 か な り 古 い 建 物 だ ( 右 写 真 )。
こ こ で は 、 ウ ィ ー ン 大 学 の 古 い 教 務 記録 や 講 義
要 項 な ど を 調 べ た 。 古 い せ い か 、 ド アが 閉 ま る
音 が す さ ま じ く 、 静 寂 が 支 配 す る 閲 覧室 に い た
せ い か 、 外 か ら 誰 か が 来 た こ と が ド アが 閉 ま る
す さ ま じ い 音 で す ぐ わ か っ た 。 職 員 にと っ て は
便 利 かも し れ ない 。
ウ ィ ー ン 大 学 図 書 館 は 、 本 館 の 2 階の 奥 に あ
っ た が、狭い の で、近 くに 別 館 がい く つか あ る。
毎 日 通 っ た 1996 年 当 時 は ま だ 電 子 化 が 進 ん で お ら ず 、 図 書 を 借 り る に は 図 書 カ ー ド で 調
べ な け れ ば な らな か っ た が 、そ れ が 、 そ の 図書 を 購 入 し た当 時 に 作 ら れた ま ま の カ ード な
の で お そ ろ し く黄 ば ん で い て、 し か も 手 書 きな の で 、 読 むの に か な り 時間 が か か っ た。 い
ま で は 手 書 き 文書 に も 慣 れ たが 、 当 時 は 難 儀し た 。 と は 言え 、 所 詮 は 書名 な の で ほ とん ど
は す でに わ か って い たの で 、 無事 に 本を 借 り て読 む こ とが で きた 。
ヨ ー ロ ッ パ の大 学 図 書 館 や国 立 図 書 館 は いず れ も 歴 史 が古 く 、 し か もほ ぼ 昔 の ス タイ ル
を 残 し て い る ので 、 入 る と 一気 に 「 学 問 の 殿堂 」 に い る 気分 に な れ る 。ヨ ー ロ ッ パ 旅行 を
し た ら 、 ぜ ひ 図 書 館 に 足 を 踏 み 入 れ て 、「 学 問 の 殿 堂 」 と い う か 「 学 問 の 伝 統 」 の 重 み を
肌 で 感 じ て 欲 しい 。 ち な み に、 市 の 公 共 図 書館 は 日 本 と さし て 変 わ り がな い の で 、 そう し
た 伝 統の 重 み は味 わ えな い 。
( 25) ク リ ス マ ス 市
ウ ィー ン 市 庁舎 前 の市 (Wiener Christkindlmarkt am Rathausplatz)が 最 も 盛大 。 観 光客 目 当て
も あ って 、 第 一 Advent よ り前 の 11 月 17 日 に他 に 先 駆け て 始 まる 。 終了 は 12 月 24 日 。市
庁 舎 前 の 広 場 にた く さ ん の 屋台 が 並 ぶ だ け でな く 、 観 覧 車や メ リ ー ゴ ーラ ン ド な ど の遊 具
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も 運 ば れ 、 市 庁舎 内 の 部 屋 では 子 ど も た ち が工 作 を し た りク ッ キ ー を 焼い た り す る こと が
で き る。 ク リ スマ ス ツリ ー は 翌年 1 月 6 日 まで 立 て られ て いる 。
シ ェン ブ ル ン宮 殿 広場 の 市 (Kulturmarkt- & Weihnachtsmarkt Schloß Schönbrunn)は 11 月 24 日
か ら 12 月 26 日ま で 。敷 地 が 広い の で 、逆 に 、た っ た これ だ け? と い うガ ッ カ リ観 も ある
が 、 暗 く な っ てか ら 行 け ば ライ ト ア ッ プ さ れた 宮 殿 が 美 しく 、 そ れ な りに 絵 に な る 。こ こ
で は 、ク リ ス マス 市 終了 後 、 12 月 28 日 か ら 1 月 1 日 ま で 新年 の 市 が開 か れる 。
ベ ルベ デ ー レ宮 殿 のク リ ス マス 村 (Weihnachtsdorf vor dem Schloß Belvedere)。 ド イツ 語 では
「 宮 殿 の 前 (vor)」 と 書 か れ て い る が 、 実 感 と し て は 宮 殿 の 「 裏 庭 」 と い う 感 じ 。 宮 殿 の
前 に 広 大 な 庭 園が あ り 、 こ ちら が 「 前 」 の よう に 見 え る が、 た し か に ここ は 庭 だ か ら入 り
口 は 裏 に あ り 、そ こ が 宮 殿 の「 前 」 な の だ 。市 の 数 は さ ほど 多 く な い が、 敷 地 が 狭 いの で
混 ん でな ん と なく 賑 わっ て い るよ う に見 え る 。11 月 23 日 か ら 12 月 23 日 まで 。
ほ か に も 、 リ ン グ 内 で 2 箇 所 、 2 つ の 博 物 館 に 挟 ま れ た マ リ ア テ レ ジ ア 広 場 、カ ー ル ス
教 会 前、 レ オ ポル ド 美術 館 脇 など で もク リ ス マス 市 が 開か れ てい る 。
( 26) 中央 墓 地(Zentralfriedhof)
外 国 人 は 遺 族や 親 族 で な いと 墓 参 り は し ない ら し い が 、日 本 人 は 有 名人 の 墓 参 り を名 所
見 学 と 同 じ 感 覚で 行 う か ら 、と き ど き 驚 か れる 。 と は 言 え、 墓 地 の 入 り口 付 近 に 配 置図 が
あ っ て 、 有 名 人の 墓 の 位 置 が記 さ れ て い る こと が あ る か ら、 や は り 不 特定 多 数 の 人 が来 る
のだろう。古い墓地だと木が生い茂って森のようになっている
所があるが、教会付置の墓地などは明るく、公園のようだ。森
のような墓地も含めて、遺族・親族、その他墓地管理人がせっ
せと花を植えたり整備したりしているので、植物園のようで美
しい。
以上がドイツ語圏の墓地一般の状況だが、ウィーンのはずれ
にあるこの中央墓地の一角はどう見ても、れっきとした観光名
所 に なっ て い る。 リ ング か ら は路 面 電車 を 乗 り継 い で 30 分 以上
かかる町外れにあるが、なにしろ大きいし有名だから、行くの
に迷うことはない。われわれ部外者がこの墓地を訪れる目的は
な ん と 言 っ て も 著 名 な 音 楽 家 の 墓 が あ る か ら で 、 Ludwig van
Beethoven, Frantz Schubert, Johann Strauß 父 子、 Josef Sturauß, Johannes
Brahms, Josef Lanner, Christoph Willibald Ritter von Gluck 等 々 。Mozart
の 墓 地は Sankt Marx 墓 地 に ある が 、 中央 墓 地の 正 面 中央 に 祈 念
碑 が 立っ て い る。
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左か ら 、 ブ ラ ー ムス 、 ヨ ー ゼ フ ・シ ュ ト ラ ウ ス 、 シュ ー ベ ル ト の 墓
( 27)ウ ィ ー ン の 冬
夏のドイツで最も暑い地域は西南ドイツ、つまり
バーデン・ヴゥルテンブルク州で、とくにライン川
に 近 い一 帯 で、ベ ルリ ン の気 温 が 28 度 ぐ ら いの と き、
フ ラ イ ブ ル ク の 気 温 は 34 度 ぐ ら い に な っ て い る 。 で
は、冬のドイツで最も寒い地域は、山岳地帯を除い
て、どこか。ミュンヒェンを州都とする南部ドイツ
のバイエルン地方か東部のザクセン州辺りで、いず
れ に 日 較 差 が 激 し い 。 晴 れ る と 日 中 は 20 度 ぐ ら い ま
で 上 が る が 、 未 明 は 氷 点 下 10 度 以 下 と な る こ と も 珍 し く な い 。 標 高 が 高 い せ い も あ る 。
平 均 す る と 、 ブレ ー メ ン や シュ レ ス ヴ ィ ヒ ・ホ ル シ ュ タ イン 州 な ど 北 ドイ ツ が 温 か い。 海
の お 陰 だ 。 な らば 、 ス イ ス やオ ー ス ト リ ア はど う か 。 い ずれ も ア ル プ スが 連 な る か ら涼 し
げ に 思 え る が 、チ ュ ー リ ヒ やベ ル ン 、 ザ ル ツブ ル ク 、 ウ ィー ン な ど 麓 の町 で は 、 夏 はド イ
ツ よ り 暑 い 。 理由 は 簡 単 。 ドイ ツ よ り 南 に ある か ら だ 。 では 冬 は ど う か。 海 が な い し標 高
も 高 い か ら 寒 いが 南 に あ る から 温 か い と いう 二 つ の 要 素が 加 わ り ほ どほ ど と な る 。( 写 真 右
上 は う っ す らと 雪 が 積 も り 凍っ て 坂 を 歩 け ない 国 会 議 事 堂 。右 下 は ウ ィ ー ン 大学 の 中 庭 。)
言 いそ び れ たが 、ドイ ツ で もス イ ス、オ ー スト リ ア でも 、暖 房装 置 が充 実 し てい る から 、
外 は 寒 く て も 屋内 で は T シ ャツ で 過 ご せ る 。そ の 点 で は 、東 京 で 冬 を 過ご す よ り も はる か
に 温 かく 快 適 だ。
( 28) さ て
2012 年 12 月 23 日か ら 31 日 まで 、「 ドイ ツ 語お よ び ドイ ツ 語圏 社 会 事情 応 用 2」 の 受講
生 の うち 3 名 と オー ス ト リア へ 行き ま し た。
雨 や 曇 天 続 き で 、 晴 れ た の は 29 日 と 30 日
だけでしたが、ウィーン市内各地で開かれ
た ク リス マ ス 市、ク リ ム ト生 誕 150 年記 念 、
その他ユネスコ世界遺産に登録されている
ウィーン旧市街、シェンブルン宮殿、モー
ツァルトの生誕地ザルツブルクを〈歩き・
見 て ・考 え 〉てき ま し た。そ の 様 子は 私 の HP
で公開してあります。ご笑覧下さい。
http://www2.toyo.ac.jp/~stein/wien2012.html
オーストリアはヨーロッパで三本指に入
るほど治安が良いと言われています。みな
さ ん も 、 ド イ ツ語 圏 の 旅 を した い け れ ど 不 安も あ る 、 と いう 人 は ま ず オー ス ト リ ア を訪 れ
る と 良 い で し ょう 。 た だ し 、欠 点 も あ り ま す。 ウ ィ ー ン もザ ル ツ ブ ル クも 世 界 的 に 有数 の
観 光 地 な の で 、物 価 が 高 い 、と く に レ ス ト ラン や カ フ ェ の値 段 が 、 ド イツ の 中 小 都 市と 比
べ て 三 割 増 し ぐら い に 思 え る点 で す 。 店 員 も観 光 地 ず れ して い る し 、 客も じ っ さ い 観光 客
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ら し い ひ と が 多 く ( 自 分 も そ う で す が )、 現 地 の 一 般 市 民 と 親 し く 話 を す る 機 会 が 得 に く
い で す 。 ち ょ っと そ ば に い る誰 か に 話 し か けて も 、 ド イ ツ語 が 通 じ な い。 ド イ ツ 語 圏以 外
からの観光客だからです。でもまあ、初めての海外
旅行というひとにはそれで良いかもしれません。な
ん と 言っ て も 諺の 通 り、百 聞は 一 見 にし か ず、で す。
現地の空気を吸って初めてわかるということがらが
たくさんあります。また、授業やこの通信でも何度
かとりあげ紹介した〝とっさのひとこと〟も、それ
ぞれの立場や関係性のなかで自分なりに体得してゆ
くべきものだし、言い換えれば、そうして身体で覚
えてゆくものです。会話練習帳を暗記しても、その
通りに会話が行われる場面はめったにありません。
さて、オーストリアの旅の紹介もあと1回を残す
のみとなりました。最新の経験に基づき、ウィーン
市 内 から 国 際 空港 (Wien Schwechat Flh.)への 交 通を 紹 介 しま し ょう 。 い まや 市 内 縦横 に 走り
し か も 深 夜 以 外ほ ぼ 5 分 お きに 走 っ て い る 地下 鉄 で 、 ま ずは 空 港 ま で 最も 安 全 に 行 ける 鉄
道 発 着駅 へ 行 きま す 。地 下 鉄 では Wien-West 駅 や Stefanplatz 駅 を 通 る3 号 線 か、 Schönbrunn
駅 や Karlsplatz 駅、 Schwedenplatz 駅 な どを 通 る4 号 線 で Landstraße 駅 へ 行き ま す 。こ の 駅は
オ ー スト リ ア 国鉄 で は Wien Mitte( ウ ィ ーン 中 央 駅) と 言い ま す 。こ こ か ら CAT(City Air
Train)で 約 16 分 で 空 港 に 着 き ま す 。12 ユ ー ロ と高 い で す が 最も 安 全 着 実 です し 、 Mitte 駅
で は チェ ッ ク イン だ けで な く トラ ン クを 預 け るこ と も でき ま す。運 行 間隔 は 30 分 に 1 本 。
逆 に 最も お 薦 めし な いの が S-Bahn( 市 内高 速 鉄道 ) に 乗る こ とで す 。 4ユ ー ロ と安 い です
が 、 の ろ の ろ 運転 で 、 途 中 駅の 停 車 時 間 が 長い こ と が あ りま す し 、 今 回私 た ち が 到 着時 に
遭遇したように途中駅で運行停止ということもありえます。比較的安くて便利なのは
Schweden Platz か ら 出 て い る バ ス で す が 、 今 回 ま じ め に 調 べ ま せ ん で し た が 、 乗 り 場 が わ
か り に く い 。 時間 に よ っ て は交 通 渋 滞 に 巻 き込 ま れ な い とも 限 り ま せ ん。 空 港 は 改 修し て
と て も近 代 的 にな っ たた め 、 かえ っ て昔 よ り わか り に くく な った 気 が しま す 。
最 終回
世 界 中 が 変 わり つ つ あ る 。オ ー ス ト リ ア も変 わ っ た 。 良く 言 え ば 、 近代 的 に な っ た。 悪
く 言 え ば 、 世 界中 ど こ で も 似た よ う な 光 景 にな っ た 。 ウ ィー ン も き れ いに な っ た 。 まず ウ
ィ ー ン の シ ュ ヴェ ヒ ャ ト 国 際空 港 が 拡 大 し さら に き れ い にな っ た 。 な ので 、 ど こ が どう な
の か 或 る 意 味 でわ か り に く くな っ た 。 も ち ろん 慣 れ れ ば 別だ が 、 海 外 から の 旅 行 客 はそ う
し ょ っ ち ゅ う 来る わ け で は ない の で 、 一 目 でわ か る よ う にし て 欲 し い 。デ ン マ ー ク のコ ペ
ン ハ ー ゲ ン の 空港 も 、 か つ ては 小 さ く て 初 めて 来 て も す ぐに 全 体 が 理 解で き た が 、 いま は
空 港 に着 い て から 飛 行機 に 乗 るゲ ー トま で 1 ㎞近 く 構 内を 歩 かな け れ ばな ら ない 。
商 店 街 を 歩 けば 、 世 界 中 に展 開 し て い る 有名 ブ ラ ン ド 店が 並 ぶ 。 音 楽の 都 ウ ィ ー ンだ ろ
う が 、 名 実 共 に充 実 し た 国 際都 市 ル ク セ ン ブル ク だ ろ う が、 北 ド イ ツ の港 町 キ ー ル だろ う
が 、 そ し て 東 京の 銀 座 や 新 宿で も 、 だ い た い同 じ 店 が 並 んで い る 。 ま た、 そ れ と 同 じ店 が
成 田 を 含 め て 世 界 中 の (と 言 う ほ ど 知 っ て い る わ け で は も ち ろ ん な い が ) 空 港 内 で 見 ら れ
る 。 これ を グ ロー バ ル化 ( 地 球規 模 化) と い うの だ ろ う。
か つ て ザ ル ツブ ル ク の 小 さな 駅 舎 を 出 た らす ぐ に 左 に 曲が り 、 線 路 のガ ー ド に 沿 って し
ば ら く 歩 き 、 2 つ 目 の 角 を 左 に曲 が れ ば 直 に ミ ラ ベ ル 宮 殿 に 着 い た が 、 ザ ル ツ ブル ク 駅 も
近 代 化 し て 大 きく な り 、 駅 前に は バ ス タ ー ミナ ル が 出 来 て、 駅 前 か ら 左へ 行 く と い う道 が
ど こ にあ る か わか り づら く な った 。
も ち ろ ん 悪 いこ と ば か り では な い 。 ウ ィ ーン の 地 下 鉄 網は 充 実 し 、 早朝 か ら 深 夜 まで ほ
ぼ 5 分お き に 規則 通 り運 行 し てい る 。 東京 の 都営 線 よ りも 頻 繁に 走 っ てい る し 、車 内 もこ
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ぎ れ いだ 。ト ラ ム( 路 面 電車 )も だ いぶ き れい な 車 両が 増 えた し 、ス ピー ド もア ッ プ した 。
( 道 路 を 走 っ てい る た め 急 ブレ ー キ を か け る時 が あ り 、 僕ら が 乗 っ た トラ ム で 突 然 急ブ レ
ー キ を か け た た め に 頭 を ぶ つ け た の か 後 ろ の 車 両 で 意 識 を 失 い 倒 れ た 人 が い た 。) オ ー ス
ト リ ア 国 鉄 の 近 代 化 も め ざ ま し く 、 Railjet と い う 特 急 列 車 が 新 幹 線 を 猛 ス ピ ー ド で 疾 駆 す
る 。 ス イ ス 国 鉄も 同 様 で 、 チュ ー リ ヒ か ら だと ス イ ス 国 内す べ て の 町 へほ ぼ 日 帰 り で往 復
で き る 。 そ の 代わ り 、 ス イ ス名 物 の ア ル プ スも 湖 も あ ま り見 え ず 、 ト ンネ ル ば か り 走っ て
い る 。 ラ イ ン 川の 水 源 近 く にあ る 名 勝 フ ル カ峠 な ど ま っ たく 気 づ か ぬ うち に 列 車 は 通り 過
ぎ る 。 ア ル プ スや 湖 を 車 窓 から 見 て 楽 し み たか っ た ら 、 ロー カ ル 線 に 乗る か 、 氷 河 特急 そ
の 他 の 観 光 用 列車 に 乗 ら な けれ ば な ら な い 。オ ー ス ト リ ア国 鉄 も そ う なっ た の を 、 うか つ
に も 知 ら な か っ た 。 た し か に 、 7 年 ほ ど 前 に ウ ィ ー ン か ら グ ラ ー ツ へ 行 く 途 中 で通 る 世 界
遺 産 登 録 さ れ たゼ ン メ リ ン グ鉄 道 路 線 を 急 行で 通 っ た と き、 な ん だ こ んな も ん か と 期待 は
ず れ を 味 わ っ たが 、 こ れ も 世界 遺 産 登 録 さ れて い る 路 線 とは 別 に 敷 か れた 新 幹 線 を 通っ た
よ う だ っ た 。 今回 、 ウ ィ ー ンか ら ザ ル ツ ブ ルク へ 列 車 で 移動 す る 際 、 途中 で 見 ら れ るメ ル
ク の 修 道 院 と ドナ ウ 川 を 楽 しみ に し て 、 そ こを 通 過 す る のを カ メ ラ を 構え て 待 っ た が、 い
つ の 間 に か 通 り過 ぎ て し ま った 。 あ ん な 大 きな 黄 色 の 修 道院 を 見 逃 す わけ は な い 。 帰宅 し
て 地 図 を 見 る と、 ご 多 分 に 漏れ ず 、 こ こ も 新幹 線 が 敷 か れて 修 道 院 か らだ い ぶ 遠 く を、 し
か も 一部 ト ン ネル で 通り 過 ぎ るこ と がわ か っ た。嗚 呼 ! 旅 の 楽し み は 、や はり 原 則通 り 、
歩 く こ と 、 そ して ロ ー カ ル 線に 乗 る こ と 、 そし て 地 元 の おじ ち ゃ ん 、 おば ち ゃ ん と 話を す
る こ と で し か 味わ え な い だ ろう 。 そ れ は 日 本で の 旅 も 同 じだ 。 近 代 化 は画 一 化 で あ り、 そ
うではない世界を垣間見るのが旅の本来の
目的 で あ り楽 し みで あ る にち が いな い 。
Gute Reise!
Bon voyage!
左は メ ル クの 町 の地 図 。
中央少し右上に修道院がある。中央を左右に横
切る線がオーストリア国鉄のローカル線線路。
地図の下に新幹線の線路とトンネルが描かれて
いる。その下は高速道路。左上も高速道路。地
図の上端のさらにちょっと上にドナウ川が流れ
ている。
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