転移の治療的意義 - 追手門学院大学 地域支援心理研究センター

加藤 征宏:転移の治療的意義
転移の治療的意義
― カウンセラーとの分離不安を示した事例を転移分析の視点から再考して ―
加藤 征宏
見過ごされ、抑圧されていたクライエントの
Ⅰ はじめに
過去の葛藤や欲求不満を意識化する過程を示
1.転移について
そうとするものである(舩岡,1999)。
転移(transference reactions)は、本質
舩岡(1999)は、転移が極幼少期の欲求不
的に幼少期のtraumaticな対象関係(object
満や葛藤と、現在の生活(present life)の
relationship)を源にした自我親和的で無意
媒体であると指摘しているが、転移神経症
識的な反応であり、そこには、ゆがめられ
(transference neurosis)と呼ばれるような
た対人知覚、感情、衝動、態度、想念(fan-
状態において(Freud,1905,1914,1916 17)、
tasies)や防衛などが含まれている(舩岡ら,
クライエントはカウンセラーに両親などの象
2000;Greenson,1967/1975,1976)。
徴をとらえ、その葛藤や欲求不満をカウンセ
また、転移は発達に伴って現実からのゆが
ラーとの関係のなかで活性化し再現するよう
みを大きくしながら強迫的に反復される反応
になる。同時に適切な共感的介入や解釈など
でもある。そして、それが繰り返されるの
を通して、自己の反応のゆがみに気がつき、
は、転移がその起源となる葛藤を抑圧し見
過去の欲求不満や葛藤を探索し始める(舩岡
過ごすとともに、現在の対象に置き換えて
ら,2000)。つまり、転移分析が進行するな
(displacement)、欲求を充足しようとする
かで、クライエントは見過ごし抑圧していた
ものだからである。この点から、転移は過去
過去のtraumaticな対象関係へと話題を展開
の対象関係が現在の対象、とりわけ、カウン
していくのである。
セラーに置き換えられた自我防衛機制であり、
これらを踏まえれば、効果的なカウンセリ
カウンセリングにおいて抵抗として機能する
ングの過程においては、転移がクライエント
といえる(舩岡ら,2000)。
に価値のある洞察をもたらせる媒体として、
その機能を発揮し、治療的意義を示すものだ
2.転移の開発とその分析
と考えられる。
転移は外的現実(outer reality)から逸脱
しゆがみをもつ反応であるが、それはクライ
エントにとっての内的現実(inner reality)
Ⅱ 研究の目的および方法
であり(Hartmann,1956)、クライエント
今回の資料は、The Technique of Psychoanal-
のhere and nowの見地からすれば現実であ
ytic Psychotherapy,Vol.1.(Langs,1973)
る(舩岡ら,2000)。
の沈黙(silence)および解釈(interpretation)
カウンセリングは、このような転移を汚れ
の節に引用されている、見捨てられ感に
なく一定の強度にまで開発することによって、
苦悩する3人の同性愛男性の事例(DS氏,
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追手門学院大学 心のクリニック紀要 第7号 2010
pp.369 371;DW氏,pp.381 382;FA氏,
分かった。患者の怒りにまつわる連想は、自
pp.462 463)である。
らの父親と兄によって拒絶されたことに関係
これらの事例に共通する特徴は、クライエ
ントがカウンセラーの休暇をtriggerとして
していた。これについてはそのときに解釈さ
れなかった。
同性愛行為などの行動化を繰り返す一方、そ
休暇後のセッションにおいて、患者は治療
の行動化を契機にカウンセリングが展開を見
を受けていることを父親や兄には秘密にし
せている点にある。
ていることを語った。また、家庭において、
見捨てられ不安に脅えるクライエントに
―明らかに同性愛を意味している言葉―“女
とって、休暇に代表されるカウンセラー
王”と呼ばれていることを話した。彼は父親
との分離(separation)が彼らの怒りを誘
と口論したこと、仕事上の幾つかの問題、そ
発し、破壊的な行動化を引き起こす隔離
して、女の子たちが彼を利用しているという
(deprivation)となり得ることは、精神分
感じを語った。彼の兄もまた彼を利用した。
析の治療において一般に知られている。ま
パーティーでは、皆が自分の噂をしており、
た、筆者の経験によれば、普段と違う時間に
自分のことを変な奴だと言っているように感
カウンセリングが変更されることによっても、
じていた。
クライエントは怒りを行動化することがあ
次のセッションで、DS氏はパーティーの
る。彼らが所有する見捨てられ不安を刺激せ
模様を詳しく語った。そして、そこでは大量
ず、行動化を完全に抑制することは極めて困
のマリファナを吸い、彼曰く“パラノイア”
難であるが、行動化を最小限に止め、それを
になってしまったと話した。彼は裸になり、
契機にクライエントの洞察が獲得される方向
排便をし、噂されたり、誰かに同性愛の行為
へとカウンセリングを展開させていくうえで
をしたり、それによって、父親が彼の面倒を
も、転移の理解とその分析は欠かすことがで
看るように忠告されることを想像した。また、
きない。
自分の仕事について黙想した後、男性の友だ
上記の事例は、沈黙や解釈などの介入
ちを妊娠させたこと、頭に針金を巻きつけて
(intervention)の技法との関連からすでに
いたために他人の考えを聞くことができたこ
検討されているが、今回は、転移分析の視点
と、小さなペニスのために他人から笑われた
からそれらを再考し、転移が治療的意義をも
こと、そして、警官が彼を入院させるために
つことを示したいと思う。
やって来たことなどを“興奮した状態”に
なっているときに想像したことも付け加えた。
さらに父親と口論したことも思い出した。
Ⅲ 事 例
このセッションにおいて、治療者が休暇前
1.DS氏の事例
後の患者の分離反応に対する解釈に失敗した
DS氏は、境界例の障害をもった青年であ
ことで、急性の退行体験が部分的に促進され
り、自らの同性愛が他人に知られるのではな
た。この出来事に対する反応に見られる想念
いかと苦悩していた。治療者は長期休暇に出
は、現時点でこれまで以上に明瞭であり、ま
掛けた。治療者と別れる直前に、患者は自ら
た未発達な段階のものである。それらは排便
の仕事をすっかり変更して治療にやって来ら
の怒り、養育されることへの憧れ、治療者の
れないようにしてしまったのである。これは、
妊娠による一体感を求める願望、そして、小
治療者によって見捨てられたことにまつわる
さなペニスのために拒否されたという感情に
怒りを行動化しようとしたものであることが
まつわる指標と考えられる。患者は急性の同
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加藤 征宏:転移の治療的意義
性愛パニックの状態にあると思われた。さら
3.FA氏の事例
に詳細な材料が獲得できれば、明らかに有効
であろう。
FA氏は同性愛の青年であった。治療者は
長期休暇に出掛けていたが、休暇後の最初の
続くセッションで、DS氏は、男性性器を
セッションのときに、患者は1年間、治療に
掴んで自分のものにしてしまいたいと願う、
来ないで旅行に出掛けたいという心境を語っ
十代の頃の同性愛想念を含む男性関係を明ら
た。彼は性的不能であることを怖れており、
かにした。すなわち、彼は父親が冷淡で時々
自分が魅力的で他人から好まれる人間である
突然に家族を見捨てることや、自分に対して
ことを確信しようとしてバーで青年を誘って
無関心であることにまつわる感情を含めなが
いた。彼はより親密な家族の結びつきを切望
ら、このことを整然と語ったのである。最終
すると同時に、大好きなおじの死を思い出し
的に治療者は、自らの沈黙を破って、治療者
た。治療者は彼の性的欲求にまつわる混乱を
の休暇によって誘発された患者の同性愛的で
指摘したところ、患者は黙想した。
父親に関係する想念や思慕の念、およびそれ
FA氏は次のセッションに15分遅刻したが、
に伴う不安や怒りについて解釈し、そして、
それは列車の乗り換えに失敗したからだと
患者の不安が軽減されたのである。
言った。治療者は、最近の長期休暇のことを
怒っているのではないかと話したが、FA氏
2.DW氏の事例
はそれを否定した。彼は自己の性的な問題に
DW氏は重度の性格障害をもった同性愛の
青年であり、治療者が3週間の休暇に出掛け
うんざりしており、それらについてさらに黙
想した。
たとき、すでに約1年の治療を受けていた。
治療者が休暇から戻ってきたときのセッショ
ンで、最初に彼は治療のない間元気に過ごし
ていたと語ったが、その間に同性愛体験を繰
Ⅳ 考 察
1.見捨てられ不安の防衛と怒りの表出
り返し、それが満足のいくもので、無害なも
転移神経症と呼ばれる状態において、クラ
のであったと強く合理化したのであった。し
イエントは烈しく退行し(Greenson, 1967/
かしながら、最後の体験は全体的に烈しい怒
1975,1976)、カウンセラーを極幼少期の重
りを伴う統制不能感や敵対的な誘惑の認めら
要な対象である父親などの象徴としてとらえ
れるものであり、患者に自己と自己の行動に
始める。このようななか、数週間、カウンセ
対して恐怖心を抱かせるものであった。患者
リングがおこなわれないという現実を突きつ
はさらに初期の頃の治療者との分離反応とし
けられたことによって、抑圧してきた見捨て
て、同じような罪障感に駆られた同性愛のエ
られ不安が誘発され、怒りを行動化したので
ピソードを持っていることを語った。それは
ある。
見捨てる治療者―父親に対する復讐心のある
たとえば、DS氏は、仕事を変更して休暇
局面であった。セッションの最後に患者は父
前のカウンセリングにやって来れないように
親について語った。父親は彼に車を貸すため
してしまい、DW氏は、休暇中に同性愛体験
に家にいるという約束をしていたが、その日
を繰り返したのである。さらにFA氏は、休
父親は家にいなかったのである。そのために
暇中にバーで青年を誘うという行為をおこな
患者は激怒したのである。
うとともに、休暇後のカウンセリングに15分
遅刻したのである。
ここに示した行動化の背後に隠されている
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追手門学院大学 心のクリニック紀要 第7号 2010
クライエントの怒りを明確化しようとして、
突然に家族を見捨てることや、自分に対して
それぞれのカウンセラーは介入をおこなって
無関心であることにまつわる感情も話し始め
いるものと推測されるが、「最近の長期休暇
る。他方、DW氏は父親が自分に車を貸すた
のことを怒っているのではないか」という
めに家にいる約束をしたものの、その日父親
FA氏に向けての発言は、こうした介入の一
は家におらず、激怒したことを想起し、FA
例と考えられる。
氏は大好きなおじが死んだことを思い出した
このようにクライエントがカウンセラーか
のである。
ら見捨てられたと思い込んで、報復的に怒
これらの発言から、性的欲求の混乱とも関
りを行動化せざるを得なかったのは、過去
連する、父親などへの烈しい攻撃性とその攻
の対象と現在の対象を混乱させ(Fenichel,
撃性の深層にある深刻で悲惨な父性愛の欠落、
1945a)、カウンセラーを父親などの像と
さらには、親の愛の欠落に伴うよるべなさ
同一であるかのように反応したためである
(helplessness)を意識化する方向へとクラ
(Greenson, 1967/1975,1976)。言い換え
イエントの探索が進んでいることを理解でき
れば、DS氏が明らかにしている「男性性器
る。
を掴んで自分のものとしたい」という想念
舩岡ら(2000)は、クライエントの話題
に表わされるような同性愛的な願望をカウ
が従来の自我(ego)では受容できず抑圧さ
ンセラーに向けて、その充足を求め(Bird,
れていたtraumaticな愛の飢餓、恐怖、攻撃
1957;Fenichel,1945b;Freud,1914;
性へと展開し、クライエントがこのような
Greenacre,1950)、自己の見捨てられ不安
traumaticな記憶を再生し改めて体験し直し、
を防衛しようとしたためである。
その苦悩を自我に統合して、カウンセリング
が完成を迎えることを指摘している。
2.転移分析の進行
今回取り上げた事例のクライエントも、転
クライエントは、カウンセラーの一貫した
移を媒体にして、父親などとの関係に起因す
控えめで共感的態度に直面し、また、カウン
る深刻で悲惨な離別体験とよるべなさに接近
セラーの分析的自我(analytic ego)と発達
しながら、自己の同性愛的で攻撃的な衝動に
的同一視をおこなうとともに、適切な共感的
ついての洞察を獲得し始めており、DS氏に
介入や解釈を通して、自己の反応のゆがみに
至っては、不安の軽減が認められるまでに
気づき(舩岡ら,2000)、自己の攻撃性の発
なっている。なお、DS氏が「女の子たちが
生因を探索しようとする。
自分を利用しているという感じ」を語り、異
このような転移分析の過程を辿りながら、
性への攻撃性を表現しようとしていることに
DS氏を始めとする3人のクライエントも見
伺われるが、この後、カウンセリングでは、
過ごし抑圧していた過去のtraumaticな対象
母親を含む女性に対する攻撃衝動もクライエ
関係へと話題を展開していったのである。た
ントに意識化されていったのではないかと思
とえば、DS氏は家庭では女王と呼ばれ、父
われる。そして、両親などに向けての攻撃的
親とは口論が絶えず兄から利用されていると
な衝動が実感をもって語られるにつれて、見
感じていることや、パーティーの際に大量の
捨てられ不安から生じているクライエントの
マリファナを吸いながら、裸になり、排便や
苦悩が解決されていったと推察される。
同性愛の行為をし、それによって、父親が自
分の面倒を看るように忠告されるという想念
を語るようになる。また、父親が冷淡で時々
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加藤 征宏:転移の治療的意義
Ⅴ おわりに
転移は、クライエントが見過ごし、抑圧せ
ざるを得なかったtraumaticな過去の経験を
カウンセラーが深く理解するとともに、クラ
イエントがそれを探求するための極めて重要
な鍵となる。つまり、転移を媒体として、ク
ライエントは苦悩の症因となる記憶を再生し、
それを自我に統合していくことができるので
あり、この意味において、転移は治療的意義
をもっている。
謝 辞
事例の翻訳および転載・使用につい
舩岡三郎・中田洋子(2000).転移の意義.関西
心理学会第112回大会発表論文集,52.
Greenacre, P. (1950). General problems of acting
out. Trauma, Growth, and Personality. New
York:Norton, 1952, pp. 224 236.
Greenson, R. R. (1967). The Technique and
Practice of Psychoanalysis, Vol. 1. New York:
International Universities.(舩岡三郎(訳)
(1975):転移−その臨床像.社会問題研究,
25,343 355.)(舩岡三郎(訳)(1976):転移
−その理論.社会問題研究,26,195 218.)
Hartmann, H. (1956). Note on the reality principle. Essays on Ego Psychology. New York:
International Universities, 1964, pp. 241 267.
Langs, R. (1973). The Technique of Psychoanalytic Psychotherapy, Vol. 1. New York:Jason
Aronson.
て、快諾を頂きました米国の精神分析家、
Dr.Robert Langsに厚く感謝を申し上げます。
引用文献
Bird, B. (1957). A specific peculiarity of acting
out. Journal of American Psychoanalytic
Association, 5, 630 647.
Fenichel, O. (1945a). The Psychoanalytic
Theory of Neurosis. New York:Norton.
Fenichel, O. (1945b). Neurotic acting out. The
Collected Papers of Otto Fenichel, Second
Series. London:Routledge & Kegan Paul,
1955. pp. 296 304.
Freud, S. (1905). Psychical (or mental)
treatment. The Standard Edition of The
Complete Psychological Works of Sigmund
Freud, Vol. 7. London:Hogarth, 1953. pp.
281 302.
Freud, S. (1914). Remembering, repeating
and working-through. The Standard Edition
of The Complete Psychological Works of
Sigmund Freud, Vol. 12. London:Hogarth,
1958. pp. 145 156.
Freud, S. (1916 17). Introductory lectures on
psycho-analysis. The Standard Edition of The
Complete Psychological Works of Sigmund
Freud, Vol.15,16. London:Hogarth, 1961, 1963.
舩岡三郎(1999).児童学と転移(Transference)
と大人学.児童学研究,29,1&2.
ABSTRACT
Dr. Robert Langs (1973) examined
three separate cases of young male clients
who suffered from feelings of desertion
in his paper on the uses of silence and
interpretation as intervention techniques.
The clients showed transference reactions,
including homosexual behavior as a result
of separation from their counselors.
The purpose of this paper is to consider
these cases with specific reference to
transference reactions, and to reassess the
therapeutic significance of transference
reactions.
After considering the aforementioned
cases, the following conclusions were
drawn:
Transference reactions were key to
understanding the clients' behavior.
They offered the counselor an invaluable
opportunity to understand past experiences
that were previously inaccessible, and
allowed the clients to access subconscious
memories. In other words, transference
reactions became the vehicle for valuable
client insight. During the transference
neurosis period of the therapy cycle,
through proper handling and interpretation
of transference reactions, the client's ego
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追手門学院大学 心のクリニック紀要 第7号 2010
which was passive in the original instance,
actively reproduced the event and slowly
learned to cope with it.
Above all, we have considered that transference reactions demonstrate therapeutic
significance.
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