グスタフ・マーラー:21世紀の予見者

グスタフ・マーラー:
2
1世紀の予見者
東京交通短期大学 研究紀要第1
2
号 2
00
5.3
Ⅰ
Gustav Mahler, der Voyantdes 21.Jahrhunderts
―Erinnerung von Nathalie-Bauer-Lechner―
芹 澤 純
June Serisawa
〔1
89
0年10月末、ナタリーは離婚して、始めてブタペストにマーラーを訪問、マーラーは王立ハンガ
リア・オペラ劇場監督。1
9
02年1月、マーラーとアルマの婚約で、マーラーの世界から去る、それまで
1
2年間の忠実な記録〕
ハンブルク訪問、復活祭に
189
6年4月2−6日
“花々が私に話すこと”
この間からマーラーは、彼の第三シンフォニーの主要部の書きおえた部分を演奏することに骨折って
いた、そして草稿の楽譜を清書し始めていた。私の滞在中、彼は“花々が私に話すこと”という曲にか
かっていた。
この曲がどんな風に響くようになるか、あなたに御想像つかないでしょうよ! 私がそこで書いたも
のは丁度花々がそうであるよう、何の屈託もなかった。それは高い所で揺れ動き、いとも軽快に、いと
も動きに素早く、まるで風に吹かれている花々のように、しなやかな花茎を揺り動かしている。そこで
私は、今日、自分でも驚いたことに気がついた:コントラバスはピチカートだけで、一回も弓を楽器に
当てることなく、又低音に強い打楽器は使われていないこと。それに反して、ヴァイオリンは――ソロ・
ヴァイオリンの適用を伴い、とっても動きに充ちた、飛んでいるような、いとも快い楽器の姿。
(山ほど
の音符を書くに当り、私は、又々手を痛めた;何故なら私は気づいたのだが、全く知らず知らずのうち
に、手が走り、諸音符を、ひたすら、そのテンポで、進むに任せて、数限りないSextolet(注1)を、い
とも素早く、書き留めることができるのだ。
)そういう時には、無害、花々の快活さは失われ、突然に厳
粛に、重々しくなるのだよ、君考えてもごらんよ。まるで突風が、草原を走り抜け、葉群や花々を揺さ
ぶるようだ、野花たちはその葉茎、花茎の上で、呻き声をあげ、泣き声をあげているよう、まるで天国
に向かって救済を嘆願するように。
」
この作品はマーラーがこの前の夏、シュタインバッハに到着するやいなや、作曲したものだ。最初の
午後に、草原の中に立つ彼の作曲小舎の窓から見渡したとき、そこは草と野花でびっしり被われていた
が――頭に浮かび、一気呵成に、フィナーレまで書き下したものである。
「この場所を知らない人でも、
― 4
9 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
すぐにどこか当てられる筈だ、それこそここの魅惑は独自のものであり、このようなインスピレーショ
ンを与えるキッカケとなるために造られた場所なのだ、
」とマーラーは話してくれた。
彼は私に打ち明けた:この作品(第三シンフォニー)の演奏に当たって、何か気味の悪い恐怖に襲わ
れた、それは悲劇的な非難などより、ずっと強い感情である。酷評なら、生真面目とユーモアとで包み
こみ、応戦することができるのだが……というのもこの場合、(第二や第三シンフォニーの場合と違っ
て)もはや、格闘し、苦悩している人間の立場からではなく、世界を観察するというのでなく、本来の
自分の本質から移植され、他のすべての世界、神への戦慄を味わわなくてはならない。彼は若い時にも、
似たような体験をしたという、それは、
「嘆きの唄」の作曲中、ある目立たない箇処にさしかかると、最
大の興奮した感情をこめないと、その先に進めなかったという。まるで部屋の暗い片隅から入ってきな
がら、肉体的苦痛を覚えた、まるで、彼の分身が、壁の隅を通って、無理に出ようとしているようだっ
た。そこで彼は作曲のペンをその先、進めなくなって、自分の部屋から飛び出さなくてはならなかった
――ある朝、この同じ箇処で、神経性の熱が出て(それもその筈、彼は、一週間というもの、もっとも
精を出して作曲に打ち込み、しかも、純菜食主義を守り、彼の強健な肉体を衰えさせていた。
)
似たような体験を彼は、第二シンフォニーの第一楽章の葬送行進曲を作曲中に味わったという。その
とき彼は、自分がローソクの灯や花々に囲まれて(それは>ピントス<演奏を考えていた時、彼の部屋
にあったもの)、死せる人となって横たわっている自分の姿を見ていたのである、見かねてヴェーバー夫
人が急いで、すべての花々を遠ざけるまで。
創作についていえば、誰も次のような理解を示すことはできないであろう。繊細な弦の張られた彼の
魂になってみられない人には分らないことである。むしろその前や後ろから途方もない悦びを味わえる
創作という仕事も、その最中にはそうはゆかないものである)
。
ついこの間もマーラーは私に言った、
「信じられるかい、すべての芸術上の創作は、
“焦々(いらいら)
の感情”に密接に結びついている。
」そして彼がどんなに焦々させられ易いか、言葉にできない。彼のよ
うな、気分が突然に変化する人を私は見たことがない。この急激の気分の変化については、彼の周りの
人たちも、いいかげん悩まされている。情熱的な賛成から、激しい反対までの、いきなり襲ってくる極
端の感情の移り、えこひいきの愛情を持つかと思えば、全く理由のない憎悪感を抱くのである。
私が到着してから、
その夕べ、
マーラーと私は、
血のように染まった夕陽の沈むのを目にしながら――
それは翌日の晴天を予告していなかった――暗くなるまで長い間、散歩した。彼はまだ意気消沈してい
て、機嫌が悪かった――この前のベルリンでの不首尾だった自作コンサート、それから何の反応もなか
ったことで。
私がいくら慰めようとしても、受け容れようとしなかった。
「私は二度と(作曲で)成功しないだろう、君――君も見るだろうよ。私が書くものは、すべて、な
じみが薄く、新しすぎる、ホルン奏者たちは、私への架橋に少しもなってくれなかった。学校時代の諸
作品は――その頃まだ他の作曲者たちに模範をとっていたが――失われたのか、又は、一度も上演され
なかった。そしてその後の作品、
「嘆きの唄」から始まった、すでに「マーラー式」と鋭く、完全に私自
身の流儀に鋳造されているので、そこには(他者との)結びつきは少しも存しない。人々は、私の言葉
に、まだついてきてくれなかった。私が言っていること、思っていることについて、彼らはいささかの
予感も持っていない、みんなは、それを、自分たちにとって、無意味なものであり、理解できないもの
― 5
0 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
であると思いこんでいる。私の作品を演奏すべきオーケストラ・マンたちも、私がこの曲で何を意図し
ているか、ほとんど把握していない。最近ベルリンで、突然そのことが私に判然としたので、
(ニ長調シ
ンフォニーの第一楽章のリハーサル中であった。私自身、征服しがたい困難さに直面していると感じて
いるか、ほとんど理解してくれなかった:それは、まるで銃殺の瞬間であった! 私は心に問うた、一
体何故だろう、私がこんなことすべてに苦しむのは、何故この怖るべき殉教をわが身に受けなくてはな
らないのか? こういう辛い体験は、何もわが身にだけでない:私の以前にも、十字架に架けられたす
べての人たちにとって起ったことである、というのもこの人たちは、世界に最上のものを、もたらそう
と願ったからなのである、さらに私のあとに続くすべての人たちにとっても、そうなるであろう、そう
思っただけで、測りしれない苦痛が私をおそった。
」
注1 Sextolet:普通、等価の4音符で弾く代わりに、等価の6音符のグループで弾く。
ナタリーとマーラーの手紙 〔手紙の頭に〕
G.M. ハンブルク、高地の空気地区
ビスマルク通り8
6 1
89
6年4月3日 アルベルト・シュピーグラー博士
ウィーン第7区
リンデン通り 11、第2通り
〔来る日曜に当たる博士の誕生日の祝詞が書かれている。ナタリーはライプチッヒから汽車に乗った
が、車掌が、1マルク三等の席から、二等の席に移してくれたと記している。自分は二つの場所に同時
にいたい(ウィーンとハンブルク)
、しかしグスタフはウィーンを望んでいる。
ここハンブルクでグスタフは、元気で、大活躍している。来週の公演はモーツアルトのレクイエム、
マタイ受難曲、ジークフリートとフィデリオ。ナタリー〕
〔マーラーはこれに添書して、3行、博士に祝詞を述べている〕
。
〔アッターゼー(湖)南岸シュタインバッハ〕1
8
9
6年夏
(マーラーは6月11日夕べこヽに到着。ナタリーはその2日後、ウィーンを出発、こヽに訪ねてきた)。
6月14日の朝は、残念ながら曇っていた、しかし小一時間は雨は止んでいたので、私は、荷物を船に
のせ、ヴァイレック(Weyregg)からラート(Rad)にと、よく知られた道をシュタインバッハまで行く
ことにした。自由でいられるのが嬉しい。
すでにシュタインバッハのユスティとエンマには、早い時間に船で着くことをとっくに報らせていた。
――マーラーは“作曲小舎”①に専らこもっていた、そこは彼の神聖な仕事部屋で、そこに彼を訪ねるこ
①“シュニュッツェルプッツSchnutzelputz作曲小舎”にて(小舎の名は男の子の魔法のホルンからの同
じタイトルの詩からつけられた)
― 5
1 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
と、邪魔することは固く禁ぜられていた。二人の妹たちから聞いた所では、こヽでは今までスムースに
いっていなかった。マーラーは、第三シンフォニーの第一楽章のスケッチをハンブルクにおいてきてし
まった、それがないと作曲が進まないので彼は困っていた。幸運にもベーン(Behn)博士が、ハンブル
クからあまり遠くないオストゼー(バルト海)に滞在していたので、マーラーは彼に速達を送り、その
スケッチを、ハンブルクまで出かけて探しだし、送って下さいと頼みこんだ。それでも5∼6日はかか
るので、その間というもののマーラーの焦燥は目に見えていた(私たちまでも)
。それに加えて、ウィー
ンから到着する筈のピアノはまだ着いていなかったので、マーラーは片羽をもぎとられた鷲のように、
羽ばたきできず、家の中に空しくこもっていた。
こヽで私は再び、私の部屋をマーラーの近くに与えられた。私はただ全午前中はまだ空いていた近所
の家で、練習をした。朝早くまだ他の人たちが起きだしてこない以前に、私はそこにいった。私たちは、
まるで幼い子に対するように気を使わなくてはならなかったので、私はいつも一寸した書きつけを、ド
アにぶら下げてある彼の服のポケットや、又長靴の中に入れておいた。たとえば、
「まだ空っぽの胃にコ
ップ一杯の水を飲むこと、仕事の前に自転車に乗っかり、少なくとも、丘の上まで登っていらっしゃ
い!」又は、
「湖はすばらしいのよ、水温1
4度! 部屋で、身体を洗うなんか、してないで、泳ぎなさい
よ!」
「作曲小舎の中を温めなさいね、湿っぽいときは、長靴を穿きなさいね!」こんな風に私が彼に忠
告したことを、彼はいつも文字通り実行してくれた。自分に要求されたことを、彼は素直に実行する。
やっとピアノは到着し、すぐその後には、スケッテも到着し、マーラーは、作曲小舎で毎朝キチンと
仕事に精を出せた。この年(監督としての立場から)様々の義務が、休暇にまで追いかけてきて彼の創
作生活を妨げる。
もちろん、いつものような活力でスムースには行かなかった。しかし、マーラー自身、精神的な自由
と、新鮮な気持を持てないことをこぼしてはいるが、それでも私に又しても言うのだった、
「これ(作曲)
が何に役立つか、誰にも分らない! 多分まさに、第一楽章の硬直さは、この楽章が書かれたときの、
ふさわしい雰囲気からこうなったのだろう。もし私の内部から自発的に流れでたとしたら、私は今の気
持に素直に、花咲き揃い、生命に充ちた夏を創りだしていただろうに;この夏(の気分)は、この作品
の意図に明らかに全く入ってはいない、それは、そのあとに続くべき他の諸楽章に影響を及ぼし、全体
の構成を妨げることになったであろうに。〔つまり、この夏以前に書かれていた第一楽章はその時の雰
囲気を反映して硬くなっている、それがこの後につづくべき他の楽章の妨げにならないことを願ってい
る。〕そこで私たちは、必ず様々の妨げに打ち克って、神秘的な天の摂理、運命の定めに、自分たちを委
ねたいと望む、その効力は、私が未来を展望すればするほど、益々私の生活の中で意味深くなってゆく
のだよ。」
ニキッシュ Nikish Arthur
1
85
5年10月12日ハンガリアLebenyi Szent Miklos生れ。19
22年1月2
3日ライプチッヒで他界。指揮者デ
ソフDessoffとヘルメスベルガーに指揮を学ぶ。初めウィーン・フィルでヴァイオリン弾き。バイロイト
のヴァーグナーのもとでも弾く(1
8
7
2)。ボストン・シンフォニー・オーケストラの指揮(1
8
89―9
3)、
ブタペストのオペラ(1
8
9
3―95)
、ライプチッヒのゲヴァントハウス及びベルリン・フィルハーモニーの
― 5
2 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
指揮者。ライプチッヒ音楽院の学長(1
90
2―7)及び市立劇場監督。超天才的の人物で、その黒い眸か
ら妖しいほどの魔力が聴衆に伝わったという、半ば伝説的の人物。
フルトヴェングラー Wilhelm Furtwengler
1
88
6年1月25日ベルリン生れ。1
9
5
4年11月30日ドイツのバーデン・バーデンで他界。指揮者、作曲家。
ミュンヘンやシュトラスブルク・オペラで、キャリアを始める。マンハイム・オペラの音楽監督1
9
11―
15、1
915―20ベルリン・フィルハーモニーの客演指揮者。1
9
22年ニキシュの後継者としてライプチッヒ
及びベルリン・フィルハーモニーの指揮者となる。年上のBruno Walterが望んでいたが。
1
92
8年以来ベルリンに定住。1
9
26、2
7年バイロイトで指揮。1
93
3年いちどすべての彼の地位を辞任。
ただベルリン・フィルハーモニーとオペラに戻った。1
94
4年家族とスイスに逃れた。彼はウィーン・フ
ィルハーモニーをも度々指揮し、ヒトラーによって脅かされたこのオーケストラの伝統的自主性を救っ
たのであり、その意味で、大恩人である、その恩義を忘れないウィーン側では戦後、カラヤンより、こ
ちらに義理を立てたのである。
〔クレメンス・ヘルスベルク博士著「王たちの民主制・ウィーン・フィル1
5
0年の創立史」文化書房博
文社刊行、芹澤訳〕
カラヤン Herbert von Karajan
1
90
8年4月5日ザルツブルク生れ。1
98
9年7月1
6日、日曜、生地の近郊アニフで急逝。
華麗なスタイルの指揮者。シャルクの弟子、1
9
28年デビュー。始めドイツのウルムの指揮者1
92
9―34。
次いでアーヘンに移る。ベルリン州立オペラ1
9
38―4
5。19
47年以来、ウィーン・フィルとレコード録音。
スカラ座、バイロイト(1
95
1年から)
。アメリカでのデビューは1
9
55年。この年フルト・ヴェングラーの
後継者としてベルリン・フィルの音楽監督(1
9
89年5月辞任)ザルツブルク・フェスティヴァルの事実
上のリーダー。ウィーン国立オペラ劇場音楽監督に1
95
7―64就任(予算が自由にならず、たとえばイタ
リア人のスーフラールSouffleur(舞台に潜み、独唱者たちに、必要なときセリフをわたす)を雇うこと
から揉めて、文部大臣と衝突、辞任。後、和解、時折指揮。ウィーン・フィルとは常にザルツブルクの
夏には出会い、フェスティヴァルで指揮。レコーディング8
0
0以上。
ラットル Sir Simon Rattle
1
95
5年1月19日英国リヴァプール生れ。1
9
79 ― 1
9
98バーミンガムBirmingham市の常任指揮者。この
地方オーケストラを優秀なものに育成。現在ではこの市に壮麗なコンサート・ホールが建設され、ロン
ドンの人々が通うほどになっている。1
98
1年からロスアンジェルス・フィルハーモニーの常任指揮者。
1
99
4年ナイトの称号、アバドの後継者としてベルリン・フィルの常任指揮者、1
99
4―
サリエリ Antonio Salieri
1
75
0年8月18日イタリアLegnago生まれ。182
5年5月7日ウィーンで他界。
作曲家、グルックから指導を受ける。1
77
4年ウィーンの宮廷付音楽家として招かれる。彼の弟子に
ベートーヴェン、シューベルト、チェルニー、リスト等がいる。
― 5
3 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
Ⅱ
男性が女性を描写するのと、女性が女性を描写するのは、どうしても異なると思う。男性が男性を描
写するのと、女性が男性を描写する場合も同じことが言えるであろう。
私がほとんど奇異と言わなくとも、ふしぎに思えて仕方ないのは、男性の男性への賛美である、それ
も無限の賛美――私は限定する、音楽家に対する場合に限ることとする。それも日本の男性たちの異国
の音楽家たちへの愛と憧憬である。誤解しないで頂きたい、それは純粋の憧れの対象――私たちがこの
上もなく愛している音楽を目前で生まで実現してくれるマイスターたちとして、ヴィルトゥオーゼとし
ての存在である。私の知人たちオーケストラの諸男性(その何人かを、私が自ら紹介してさしあげた)
音楽家たちを対象としているのであるが。それは必ずしも若く美しいギリシャ型の男性美を意味しない
――たとえばアポロンの再来のようなサイモン・ラットル卿のような。ほぼ同年であるが、しかし、こ
ちらのほうは、中年ぽい円熟さ、それに伴う渋さを感じられるバリトン歌手トーマス・ハンプソン。彼
の印象は、まさに中年の男の典型、男盛りの知性と良識に支えられた、何とも言えない高雅な香が彼の
全身から発散している。そこには単なるハンサムな若い男などの到底持ち得ない何かが、彼の全存在か
ら発揮している。彼はアメリカ人、優秀な大学で、知的な課目を選び卒業している。その豊かな声を、
エリザベト・シュバルツコプフ夫人に認められ、みっちり鍛えられた。いわば男のシュバルツコプフと
言えよう。最高度の知性と良識を持つ、活気と意欲に富むアメリカ市民、長い伝統と教養の泌みこんだ
ヨーロッパ型の叡知をも自ずとその内部に備えている紳士。百パーセント以上、完成している。単なる
バリトン歌手という職業を越えた典型的現代市民である。国際的に多くの国々に登場してその円熟した
芸術の粋を披露する国際親善の使節でもある。それこそどんな唄でもこなせる彼のレパートリーの中で
も、私の接した範囲では、マーラーの初期の歌曲は、深く心に訴える。それをザルツブルクでも、又サ
ントリー・ホールでも直接に聞けたのみならず、直接、楽屋で彼と出会い、ある歌の意味を説明しても
らった、一般のドイツ人よりもキレイな発音をするドイツ語で。たしかにドイツ歌曲の代表者は、かつ
て、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウであり、ヘルマン・プライであった。この二人がシ
― 54 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
ューベルト、シューマン、リヒアルト・シュトラウスの代表歌手であった。今や一九五五年生れのトー
マス・ハンプソン、しかもアメリカの風土から産みだされ、いわばアメリカの親株にヨーロッパの伝統
が接木されたこの男盛りの歌手が、ドイツ歌曲のみならず、オペラの主なレパートリーを自分のものに
している。「ほほえみの国」
「ドン・カルロ」の不幸な皇太子の親友ポーザ侯爵の役、中でも私がじかに
接した、ウィーン国立オペラ劇場の引越公演で上野の文化会館に四回登場した昨年二〇〇四年十月前半
の「ドン・ジョバンニ」の役柄の見事さ、まさに彼の力量をフルに発揮できる主役。
この時、上野で二回目の公演で、彼がはじめアンナの家に入りこみ、彼女に接近して、気づかれて逃
げだしてきて、いったん舞台から消える、その短い間、楽屋に姿を現した時、ふとそこにいた私をみつ
けて話しかけてきて、言葉を交わしたことを忘れられない。その二年ほど前から、彼によく接し、スナ
ップ写真を何枚もとらして頂いたし、あるパーティの席上でも一緒になり、名刺を差し上げていたので、
私のことをおぼえていて下さった。彼は上野で、ドン・ジョバンニとして黒い上衣、パンタロン、そこ
に金のモール模様があっさり、縫いこまれていた。そして右手に大きな緑の指環を嵌めていた、そう、
二センチ四方の緑に輝く石が嵌(は)め込まれていた、思わず、
「それエメラルド」と聞くと、
「ガラス
ですよ」という答、
「でも貴方が嵌めていらっしゃるとエメラルドに見えます」と私の返し言葉……まさ
に二センチ以上はある正方形の輝く緑の石は彼の指でほんもののエメラルドの煌めきとなって光ってい
た! それは男盛りの円熟した男性の典型、高い知性と豊かな感性に支えられたバリトン歌手、五つ以
上の言語で即座に歌いこなす彼の力量。決してシャリアピン流の巨人的声量ではない、あくまで知性に
裏づけされた渋さを伴う真に芸術的な歌唱力、そしてその容姿! 中年の現役として最高の魅力ある男
性歌手、トーマス・ハンプソン。
英国人指揮者、世界で最も人気あり、エネルギーに充ちたサー・サイモン・ラットルもハンプソンと、
同年輩である。四十代の後半。超有名のアルトゥール・ニキッシュ(ハンガリア人)が一九二三年一月
二十三日の冷たい日に他界すると、その後継者として、ことにベルリン・フィルハーモニー・オーケス
トラの常任指揮者として選ばれたのは、すでに他の申出を断ってミュンヘンで待機していたブルーノ・
ヴァルターではなく、彼より十歳も若いフルトヴェングラーその人であった。彼自身にも意外であった
筈である。ゲルマン民族中の最も典型的タイプ――彼の死後、半世紀を経て、いまだに、この島国日本
で、彼を讃美するファンたちの会が続けられている――この人たちは、カラヤンより、フルトヴェング
ラーを絶対的に崇拝する! 第二次大戦中、芸術と政治の板挟みになった苦難の時期、この巨匠の存在
こそ、ウィーン・フィルハーモニーの民主制存続を何とか可能にしたのである。
(注1)
ただ、私としては、一九五四年に単身で来日し、NHKオーケストラで第九や悲愴を振った若き日の
カラヤンに接して、ずっとカラヤンの活動に立ち合ってきたので、このマエストロの魅力のもとにある
が。フルトヴェングラーの後を継いだのは、この若きカラヤンで、まるで前任者と異ったタイプのギリ
シヤ民族を祖先とする――たしか祖父まで――およそゲルマン民族系と対照的な血統の人物である。フ
ルトヴェングラーの重厚さ、典型的ベートーヴェン振りに対してカラヤンの華麗さ、単にオーケストラ
の指揮者の領域を越えて、オペラ界に進出、華麗な舞台の演出から照明の細かい所まで、気を配る多彩、
多方面に能力をフルに発揮できる現代型指揮者であった。彼はテクニックのスペシャリストであり、自
ら飛行機を操縦し、ヨットを操るオールラウンド型の人物であった。彼のレパートリーを代表するのは
― 5
5 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
まさにヴェルディ、そのオペラ。中でもその最高傑作は、
「仮面舞踏会」スウエーデン王グスタフ三世が
寵愛していた大臣に暗殺される史実を基にした見事なスペクタクルを最後の、舞踏会で展開する。その
華麗極まりない黄金に輝くフィナーレを準備して、最後の総リハーサルをすませて、彼は他界した! 一九八九年七月十六日日曜であった。七月十四日金曜の総リハーサルは無事にすませた。少し気分が悪
いので、土曜に医師の診察を求めたが、その時、異常は見つからなかった。そして十六日日曜、午前中、
ソニーの社長大賀氏(もと歌手)と楽しそうに話していた。一寸疲れたといって、ベットに横になり、
そのまま目覚めなかった――それは何という平穏な推移と思われるが……カラヤン帝王期はこうして不
意に中断された、彼の生まれ故郷、ウィーンでなく、この地こそ彼が愛しぬき、こヽで帝王として、そ
のフェスティヴァルを盛り上げていった、夏のシーズンだけでなく、復活祭のシーズンも開催した。彼
はザルツブルク・フェスティヴァルの帝王であった。公卿的陰謀に充ちると言われるウィーンでは彼は
外様(とざま)であった。彼がその真の力量を発揮したのはザルツブルクであり、ベルリンであった――
その後継者に選出されたのは、他ならぬイタリア人のクラウディオ・アバドであった(ロリン・マゼー
ルこそ、この地位を一番欲していたと思われるが)
。ベルリン・フィルのメンバーたちは、アバドのほう
がレコードが売れると判断した……ただしカラヤンの場合のように終身制ではなく、5年の期限つきと
した。
そのアバドが去る時、選ばれたのが英国人、ジャズ奏者を父に持つサー・サイモン=ラットルであっ
た。二〇〇一年 四十五歳の若さであった。
サイモン・ラットル若くしてサーのタイトルをエリザベト女王から受けている。英国の地方都市にす
ぎなかったバーミンガムという一工業都市のオーケストラと長年共演し、この地方オーケストラのス
テータスを一流に近いものに育成した若き指揮者ラットル。彼こそギリシヤ神話の代表的男神、アポロ
の再来のような人物である、永遠の青春に輝く太陽神、叡知・芸術を司る若々しい神、永遠の青春のシ
ンボル。彼を春に花開くアマンドの花に譬えたい。花盛りのアマンドの花(巴旦杏)
。サイモン・ラット
ル、アポロ神。
完璧な男性を賛美するのに男・女の区別はないのかもしれない。その賛美の要素は、純粋な美への憧
憬である。肉体的所有欲は希薄であると思われる。マドンナへの跪拝(きはい)と同質のものでないだ
ろうか。
地上の恋、胸に抱き接吻できる女性を一瞬にして失ったシューベルトが、彼女との儚(はか)ない思
出の麦畑をさまよいながら、ふと小さな御堂のマリア像の前に跪拝する。
「貴方には芸術があります、不
滅の火をともして! 私たちのことも……」カロリーヌ姫が彼に残した詞。
熱愛したカロリーヌ姫の結婚式の日、その妹マリアに秘かに招かれたシューベルトに、カロリーヌ姫
が、このような主旨を伝えて、貴族の夫の腕に連れられて去る。その少し前、結婚式のハナムケに何か
弾くよう頼まれて、彼女に捧げるためのシンフォニーをピアノで弾き始める。第一楽章、第二楽章、そ
して第三楽章にきて、かって始めて二人が顔を合せたウィーンの侯爵夫人の館での夕べで、新進音楽家
として登場したシューベルトが、ピアノで同じように弾き進んでいった――居並ぶ綺羅星のような貴族
のお客たちはシーンと静まりかえって聞き入っている。第三楽章に入って数節、突然甲高い若い女性の
― 5
6 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
遠慮会釈もない笑い声、天真爛漫、子供たちがエデンの園で遊んでいる時のように! シューベルトは
手を留める……怒って見回した彼の目に映ったのは「昼顔のように仄白い顔(かんばせ)であった。」彼
は黙ってピアノの蓋を閉じて立ち上がり、お客の間を縫って退場してしまう。主人役の侯爵夫人の頼み
にも耳を貸さず、招いてくれたサリエリ宮廷音楽長の忠告も振り切って……
自分のはしたない振舞いを悔いエステルハージー侯の長女カロリーネ姫は、父エステルハージィ侯爵
に頼み、ハンガリアの領地に、失職したシューベルトを音楽教師として招く……
今、永遠に姫を失う日、シューベルトは、カロリーネのたっての頼みに、かって二人を近づけたこの
シンフォニーを弾き、第三楽章に入る……カロリーネ姫は、ここで胸一杯になり、失神して運び去られ
る。シューベルトは、呆然として、姫の頼みで折角完成していた残りの頁を破り、こう記す、
「わが恋の終わらないようにこの曲も終わらない」
以上、今でもヴィデオで買える「未完成交響曲」
、ヴィリー・フォルスト(注2)演出の白黒の映画で見られ
る。一九三三年頃に出来た映画。オーストリアが 、ナチの侵略で独立を失うまであとわずか二年である。
映画の熱烈なファンである私に、たった一つ選べと言われたら、躊躇なくこの映画を採るであろう、
小説ではヘッセの「ゲルトルート」を選ぶように。これも愛する女性を親友に奪われたが、後この男の
自殺によって、実家に戻ってきたゲルトルートと親しい友人となる。仲間として音楽を仲介として、台
風のあとの秋の冴えた空のような透きとおった友情。この話はヘッセの友人の作曲家の実話。
(注3)
一体男女の肉身の結びつきは、あくまで――子孫誕生のための必要悪なのだろうか……
マドンナの崇拝と女房への人間愛とは性質がまるで異なるのか?
私にとっていつも疑念なのは、ヴァーグナーの「タンホイザー」。彼の婚約者エリザベトは永遠の婚約
者であり、彼の前に女性の裸身として登場することにはならない。エリザベト姫はタンホイザーの永遠
の婚約者として、地上から姿を消さねばならない。
タンホイザーは肉体の愛をヴェニスの魔窟で思いきり堪能させ、――ついに飽きて地上に戻ってくる。
浦島太郎がカメに連れられていった国で美女との恋にもついに飽きたように。
戻ってきたタンホイザーをエリザベト姫は両腕をのべて迎える……私にはこの点がどうしても分らな
い。タンホイザーを受け入れたヴェニスも同じような動作をして、彼に向かい腕を差し伸べた筈である。
高貴なエリザベトも娼婦的な魔女もやはり同じ仕草をする……タンホイザーが巡礼から戻ってきたと
しても、この初めの抱擁の動作をして、婚礼の夜を迎えて結局ヴェニスと交わしたと同じ交合の行為を
するのであろうか。待ちつかれたエリザベトは半ば悶え死にする。婚約者を待ちあぐね、彼の罪の赦免
を法王に嘆願するための代償として、自分の生身(なまみ)を、神に捧げたのである……その時、法王
に冷たく追い払われたタンホイザーの杖から緑の芽が噴きだす――エリザベトがわが生身を、愛する騎
士のために、神に捧げた時、その生身は、愛する人の手にする杖からふきだす緑の芽に化したのである。
ここで私は、ヴォルフラムが歌う「夕星の唄」に注目したい、このタンホイザーの親友は、タンホイ
ザーを典型的芸術家とすれば〔ヴァーグナーがひそかに自分を擬しているように思える〕
、このヴォルフ
― 57 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
ラムは典型的な騎士である、名誉を重んじ、奉仕する女性に忠実な有徳の士。彼は親友の婚約者エリザ
ベト姫をひそかに愛している、一言もそれを仄めかしもしないで。婚約者の不実に苦悩したエリザベト
は、しかし、彼を愛しつづけ、その罪の赦免のために神に祈りつづけた筈、わが生身を神への供物、生
贄(いけにえ)として祭壇に捧げたわけである。
エリザベトの葬式の行列が墓場に向う、それを見つめつつ、感慨無量の思いをこめて、ヴォルフラム
の歌う「夕星の歌」。これこそ愛の真実を鏤(ちりば)めた真珠でなかろうか。
かつてフランスの文豪フランソワ・モーリヤックが、その自伝で、若いとき、レコードでこの曲を耳
にして、衝撃を受けた……レコードの中に天使が入っていたのでないかと思ったこと。
このように夜空に煌めく金星の輝き、宵の星であり、暁の明星――しかも皮肉なことに宵の明星はヴ
ェニスと名づけられている。それは愛の悦びに充ちた、しかし浄らかな女性のシンボルとなって崇めら
れ、慕われている。(タンホイザーが、悪女としたヴェニスと異質)
。
熱愛しがら、心に秘めとおして、直面するエリザベト姫の死、婚約者タンホイザーへの捨身、自分の
生身(なまみ)を犠牲にして神の祭壇に捧げ、悪女の擒(とりこ)に陥ったタンホイザーへの御赦免を
法王をとおして神に嘆願してこの世を捨てたエリザベトの死。このヴォルフラムのエリザベト姫への浄
らかな愛と献身。ヴォルフラムの友情とエリザベトの愛の捧物が、神のみ心に届き、神の御赦免が、法
王を飛び越えて、罪人に与えられる。彼の手にした杖に緑の芽がふく――エリザベトの捧げた彼女の生
身が、彼の手にする杖に活力を与えて、緑の芽がふきだす……
女性の存在は罪に迷い易い男の救済のためにある……
オペラ「さまよえるオランダ人」では、かって神を呪ったために、この世のどこの港にも安住の地を
得られない宿命の下におかれたオランダ船長を、センタは、自分の身を犠牲にして、救済する。女の存
在は、男性の魂の救済のためにある。女性は男性のマドンナ役を果たす。人間世界での最高の叡知を獲
得した筈のファウスト博士の魂を救うのは何と、素朴で純真な村娘グレートヘンなのであり、彼が生涯
かけて開発した人知の結晶ではない。
一方で男性のために悦んで捨身する女性たち。他方で男性の精神性を滅ぼす悪女、妖婦型の女性。ゾ
ラの「ナナ」、シェーンベルクのオペラに登場する「ルル」……男は勝手にそういう女性たちの懐に飛び
こみながら……人々はこういう女性たちを悪の根源と見なす……本当は、男性のほうに罪の芽が宿って
いるのに。
私たちがこの世で男女の関係で期待できるのは、市民階級での人間としての愛情に根ざす結びつき、
夫婦愛又はそういう法律上の制約の外でも愛し合うカップルの現実であると共に、他方、職業・芸術・
研究、様々の分野での仲間として、同僚としてのパートナーシップ、友情、同志愛であろう。
男女の関係は、大ざっぱにいってこの二つのカテゴリーから分岐していると考えたい。
・・・・・・・・・・
「文字の危機」
「文学」が一番繁栄したのはいつの頃だろう……ギリシアの古代から二〇世紀の前半まで?
― 5
8 ―
グスタフ・マーラー:2
1世紀の予見者
近年若い人たち、ことに学生たちの間で「文学離れ」の現象は益々目立っている。
実用的な人生体験の書は、たとえば日野原重明先生の「生き方上手」が二百万部、黒柳さんの「トッ
トちゃん」は七百万部の売れ行き。
印刷された文字がまた押しやられないだけでもいいかもしれない。
文学の消滅は文字の喪失、人類の終焉を意味する……
2
0
05・1・1
8 土曜日
ギリシア以前から人間たちは、何とかして人生の記録を残してきた。過去の貴重な経験を片っ端から
忘れ去り、ひたすら現在を追いかけ、享楽を求めてゆけばどういうことになるだろうか? ただ衝動的
な人間が衝動だけで、軌道を突っ走ってゆけば……脱線して……一切は原始の闇に消えゆく……それを
誰が否定し得よう!
注1 クレメンス・ヘルスベルク博士著「王たちの民主制――ウィーン・フィル・ハーモニーの1
5
0年創
立史」(芹澤訳)参照 文化書房博文社
注2 ヴィリー・フォルスト:1
9
0
3・4・7ウィーン生まれ――1
98
0・8・11ウィーンで他界。映画俳
優、演出家。二大戦間の時期が彼の黄金期。1
9
33年「未完成交響曲」
(シューベルト)
(ハンス・ヤー
ライ主役)演出で、最高の名声を得る。
注3 オットマール・ショックOthmar Schoek:スイスの作曲家。地味な心の綾に触れる作品を残した作
曲家。ヘッセの詩を多く作曲している。1
8
86年9月1日、Brunnen生まれ―― 19
57年3月8日、チ
ューリッヒで他界。チューリッヒ音楽院卒。ライプチッヒで修行。1
9
09−17 チューリッヒ。後、
St.gallオーケストラを1
9
4
4年まで指揮。40
0曲近い歌曲作曲。5つのオペラ作品(Penthesilea ペンテ
ジレア 19
24−2
5)
。いくつかのオーケストラ作品、弦楽四重奏曲、室内楽、ピアノ曲等。彼はヘル
マン・ヘッセの初期の小説“Gertrud ゲルトルート”(「春の嵐」邦訳 高橋健二郎)(憂愁を湛えた
甘美な作品のモデルである。
)
― 59 ―