入団しました。国の命令は絶対です。当時 炭を運ぶ任務につきました。いつ攻撃させるか分 からない中、休む間もなく任務にあたりました。 終戦間際の昭和20年7月15日の朝のことです。 航行中に突然敵機に襲われ、爆撃を受けました。 肉をえぐりました。訳が分からないうちに仲間は 命を落とし、船は沈没しました。断片があと5㎝ ずれていたら、わたしの命もありませんでした。 戦争は命のやりとりです。絶対にするべきでは ありません。もう繰り返してほしくないです。 命のやりとり 繰り返して ほしくない につながったのだと思います。わたしたちの世代 は戦争で仲間や大切な人を失い、大きな代償を払 いました。この過ちを繰り返してはいけません。 大湊長太郎さん(夏井町・87歳) 和15年1月14日、青森五連隊に入隊した後、 中国で鉄道や川、橋などを警備する任務に 昭 つきました。戦地では終戦まで、中国軍などとの 交戦が何度も何度も繰り返されました。 昭和19年7月、新人兵の教育係だったわたしは 中国に残りましたが、隊の仲間は沖縄に派兵。結 果は全滅です。皆、良い仲間でした。終戦後わた しは捕虜になり昭和21年にやっと帰国しました。 約7年、悲惨な戦争を経験し、人を敬うことの 大切を痛感しました。人を粗末にした結果が戦争 戦争は絶対にしてはいけないということを、こ れからの世代の人にも感じてほしいです。 年たった今も戦争は 深い悲しみ、つらい記憶︱。 終戦から 年がたち戦争を知る人は少な く な り ま し た。 し か し、 わ た し たちは戦争を忘れてはいけませ ん。 も う 二 度 と 戦 争 を 繰 り 返 さ ないために︱。 ︵市・市遺族会主催︶。 例年に た こ の 日、 喪 服 を 身 に ま と っ ない厳しい暑さが影をひそめ 世 界 で5 5 0 0 万 人 も の 命 が犠牲となった第二次世界大 会 場 前 に は、 戦 地 に 赴 き、 命を落とした戦没者の遺影が 会 場 に 足 を 運 び ま し た。 た 戦 没 者 遺 族 な ど1 5 0 人 が 年の終戦から今 年 を 迎 え ま し た。 争 ︶。 昭 和 年で 8 月4 日 、 市 内 催 事 場 で 開 繰り返さないため 終 戦 か ら 年。 戦 争 に よ っ て肉親や友人を失った遺族の 生 平 勝 美 会 長 は ﹁わ た し た ち 辞。 黙 と う の 後、 市 遺 族 会 の に 忘 れ て は な り ま せ ん﹂ と 式 た し た ち は、 こ の 歴 史 を 永 遠 ら れ た 約8 0 0 人 の 方 々 。 わ 山 内 隆 文 市 長 は ﹁久 慈 か ら 遠 く 異 郷 の 地 に 赴 き、 亡 く な ま す。 今 も、 戦 争 に 苦 し め 続 のできないつらい記憶があり 還 し た 方 々 に は、 忘 れ る こ と で 多 く の 生 と 死 に 直 面 し、 生 深 い 悲 し み が あ り ま す。 戦 地 方 々 に は、 消 え る こ と の な い に よ る も の。 こ の こ と を 忘 れ ず に、 国 の 平 和 と 家 族 の 安 泰 を 知 ら な い 世 代 は 増 え ま し た。 の 冥 福 を 祈 り な が ら、 一 人 一 戦地で命を落とした家族など 言 葉 を 発 さ ず に、 戦 没 者 へ の 思 い を か み し め る 出 席 者。 今 あ る 平 和 な 暮 ら し は、 戦 地 人 あ ま り が 命 を 落 と し ま し た。 か ら も 大 勢 が 出 征 し、8 0 0 れ ば な ら な か っ た 戦 争。 久 慈 国 と 国、 人 と 人 が 争 い、 当 と 追 悼 の こ と ば を 述 べ ま し た。 たり前のように殺し合わなけ に 向 け て 努 力 し て い き ま す﹂ 反 面 年 が た ち、 戦 争 の 悲 惨 さ や 実 際 の 苦 し み、 悲 し み け ら れ て い る 人 が い る の で す。 進 め ら れ ま し た。 台。 厳 か な 雰 囲 気 の 中、 式 が 並 び、 会 場 内 に は 大 き な 献 花 れない 20 戦︵ 太 平 洋 戦 争・ 大 東 亜 戦 献花し冥福祈る かれた久慈市戦没者追悼式 しみの上に成り立ったものです。 知れないほど大きな悲しみと苦 今 あ る 平 和 な 暮 ら し は、 は か り 国が争い、命を奪い合った戦争。 人 を 苦 し め 続 け て い ま す。 国 と 65 65 人、 祭 壇 に 献 花 し ま し た。 な ど で 犠 牲 に な っ た 方 々 と、 その家族の苦しみの上に成り 立 っ た も の な の で す。 知 ら な い 人 の 命 を 奪 う。 親 や 兄 弟、 友 人 は 次 々 と 命 を 落 と す。 こ の 戦 争 と い う 事 実 を 忘れることは怖ろしいことで す。10 0 年、20 0 年、 こ の 先、 ど ん な に 歳 月 が た と う と、 わ た し た ち は 戦 争 を 忘 れ て は い け ま せ ん。 も う 二 度 と 献花し、戦没者の冥福を祈る出席者 65 が 謳 歌 す る 平 和 は、 尊 い 犠 牲 65 戦争 を忘 わたしは船に乗り、工場を稼動させるための石 ︱語り継ぐ戦争の記憶︱ も、国には従うしかなかったのです。 65 は異議を申し立てるだけで罪人でした。何が何で 終戦 年目の 戦没者追悼式 和19年3月1日、わたしは横須賀海兵団に 大きな代償 戦争は絶対に してはいけない 追悼のことばを述べる生平会長 ミサイルの断片がわたしの頭をかすめ、指と頭の 長内三蔵さん(山形町・91歳) 65 過 ち を 繰 り 返 さ な い た め に ︱。 7 広報くじ№108 昭 戦没者追悼式の会場前に並べられた戦没者の遺影
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