2.平和研究 デヴィット・ウェッセルズ

第Ⅲ章 専任教員による専門分野紹介
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2.平和研究──デヴィット・ウェッセルズ
1.平和と平和研究
「平和研究」を想像する以前に人間は「平和」についてよく考える。たとえ
ば、親戚が戦争の体験を述べたり、遠い国で数千人が戦闘で死んだとの記事
を読んだりすることがある。もちろん、このように戦争について学ぶときは、
時間と空間の隔たり─昔の話、別なところ─が前提となる。もし戦争が自分
の日常生活に近いものだったら、そのほかに何も考えることはできないだろ
う。いずれにしても平和研究はこのような経験、つまり、─平和への憧れ、
戦争の衝撃、人類が平穏で相互的な支えで暮らしあうはずだが実際に互いに
紛争を起こしている心の痛み─から始まる。
平和について研究するときはやはりこのような最初の認識が先行する。上
智大学の国際関係論のカリキュラムを紹介するこの小冊子を読みながら、自
分の平和(及び戦争)についての既存の理解に戻ればいいと思う。「平和」だ
けではなく「戦争」にも触れるのは、この対比概念から平和や紛争解決につ
いて深く考える人が多いからだ。一般の国際関係論の学問の中では「紛争」
「安全保障」
「秩序」などの他の言葉も平和に焦点を当てる。多くの人が初め
てこの複雑なテーマに出会うのは文学または芸術を通してだと思う─たとえ
す
れば良いかを提言する分析者もいる。歴史家や心理学者、軍事戦略論者や経
済学者、人類学者やその他の専門家が人類にとって膨大なこの課題を理解し
ようと試みているのである。
2.平和研究に出合う
上智大学のカリキュラム・研究における平和研究の詳細を述べる前に、私
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自身の平和研究との出合いを簡単に紹介しよう。第二次大戦の終わりころに
生まれ、人類が戦争のもたらした深い傷の結果を理解し始める時代に育てら
れた。その戦争の結果の一つとして、歴史家が「冷戦」と名づける、あいま
いで危険な国際関係が長い間続いた。高校生のとき「キューバ・ミサイル危
機」が起こり、ケネディ大統領が核戦争の危険性をアメリカ国民に伝えた。
大学生のときベトナム戦争がひどくなり、世界の問題がいっそう身近な体験
になった。ただ、その暗闇のなかで、一筋の光を見た。教皇ヨハネ 23 世の『地
上の平和』
(Pacem in Terris, 1963)および第二バチカン公会議の『現代世界憲
章』
(Gaudium et spes, 1965)第 5 章「平和の推進と国際共同体の促進」を読ん
だからである。政治学の修士課程で、国際関係論を専攻し、
「平和研究」につ
いての修士論文を書いた。
実はその時期に平和研究が大きく発展し、多くの学問分野から貢献があ
った。特に、伝統的な外交史・国際法などと関連させ、20 世紀に登場した
国際機構の厳密な分析を取りこみ拡大した政治学のカリキュラムを土台に、
専門家が平和な世界を築こうとした。ライト(Quincy Wright)らが戦争の現
象を精密に描写する研究を累積させ、ドイッチュ(Karl Deutsch),ラパポ
ールト(Anatol Rapaport)
,ガルトゥング(Johan Galtung)らがその研究を拡
大、推進、確立したわけである。私は大学院の時代にゲーム理論から分析を
行ったラパポールトの Strategy and Conscience(
『戦略と良心』)に出合った。ま
たプルイット(Dean Pruitt)とスナイダー(Richard Snyder)が編集した Theory
and Research on the Causes of War(『戦争の原因についての理論と研究』)は、こ
の分野の緊急課題、理論的アプローチ、重要な研究家を網羅した。そこから
The Journal of Conflict Resolution および The Journal of Peace Research のような学
術雑誌に導かれた。
1970 年に日本に到着した私は、幸いにも設立されたばかりの上智大学の
国際関係論の教員と出会うことができた。平和についての研究と教育、主に
米国と北欧の中心から日本を含む世界各地の多くの大学・研究所に広がった。
上智では、幾人もの教員(川田侃、武者小路公秀、前田寿を含む)が規範的
で実証的な研究と講義を通じて平和研究を積極的に推進した。彼らは、日本
第Ⅲ章 専任教員による専門分野紹介
国連総会 ©UN/DPI Photo #82031 by Eskinder Debebe
平和研究懇談会、日本平和学会などの学会で大活躍した。私はこの時期に日
本に関係した平和学の課題を考慮し始めた─広島と長崎の原爆、日本の侵略
戦争、憲法第九条、非核三原則、曖昧な「日米同盟」、沖縄の特殊な問題な
どである。紛争、集団取引、交渉、その他平和研究に大きな影響を及ぼす文
化の様々な次元を経験した。
3.ポジティヴ・ピース(積極的な平和)
冷戦期には、平和・紛争の研究がかなり米国とソ連の軍事戦略と核兵器に
焦点を当てていた。しかしそれと同時に、私なりの平和概念が成長し、平和
研究がネガティヴ(消極的)なもの─すなわち平和が「戦争ではない」、そし
て平和研究に課せられた役割が戦争を廃止するために戦争のみを理解するこ
と─だけではなく、ポジティヴな概念でなければならないと考えるようにな
った。結局、社会経済的な福祉、人権、地球環境との調和が平和研究にとっ
て有効で不可欠な課題である。このテーマを見れば、平和研究が数の上で膨
大で、多岐に渡るということが伺える。
博士論文を書く時間に恵まれたことで、
(特にアジアにおける)人権の
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保護と推進のために必要な国際的な政治・法の事情を研究し、ヒギンズ氏
(Rosalyn Higgins、後に国際司法裁判所の判事)やラセット氏(Bruce Russett、
エール大学教授)から教わった。特にラセット氏は紛争解決論および平和
研究に大きく貢献している─たとえば、古典的な「安全保障論」(security
theory)に伴う「安全保障の不在」(insecurity)を指摘し、また「民主主義平和」
(democratic peace)の理論を発展させている。
4.学際的な研究
国際関係論はよく「学際的」と呼ばれ、上智大学ではまさにそうである。
国際関係へのアプローチでは、現代世界の多様で複雑な問題を学ぶためのさ
まざまな人間の体験が含まれる。倫理学、法学、心理学、歴史学、神学、教
育学や、政治、経済、社会、文化などを理解するために必要なすべての分野
が国際関係論と平和研究に関連している。ポジティヴ・ピースとは、人間が
可能性を実現し、人間としての生きがいや幸福感を得ることであるから、複
数の異なるアプローチが必要である。もちろん平和を学ぶときには、すべて
のテーマを混ぜるよりも厳格な理論と方法論を利用して一つ一つのテーマを
確実に扱う必要がある─平和の道、平和の実現を望むだけではなく、徹底的
に学ぶことが必要である。研究の手段は多いが、現実に起こっていることに
より近づいて研究をすることで、首尾一貫したアプローチをとることができ
るのである。
結局、私の国際関係論・平和研究では、新・旧両方の問題を取り上げてい
る。たとえば、1500 年以上前から存在する「正戦」の概念を利用して戦争と
平和の理解を求めている。テクノロジーや政治の変化を見極めながら、この
概念を新しく適応させている。人権も私の研究対象になっている。人権が国
際関係論、特に平和研究の課題となったのは 20 世紀で、これからも世界秩
序の理念と実践の要であり続けるだろう。1970 年代の全世界(ラテンアメリ
カ、東ヨーロッパ、アジア・アフリカ諸国を含む)の人権侵害と比べて 1990
年代には人権の進歩が見られ、それは国内・国際政治を変化させ、人権と平
和が密接に連携しているということが具体的に示されている。
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もう一つの具体的な歴史の場面だが、人の移動、特に難民が 20 世紀の平
和と結びついている。二つの世界戦争の後で避難民、庇護を求める人、難民
の苦しみを和らげる国際的な動きがあった。迫害のために自国を後にした数
千万人もの人が国際法・国際組織による援助を受けている。過去数十年この
地球規模の危機が広がっていて、自国内にも強制移動を体験し国際援助を必
要とする人々が多くなっている。上智大学の研究に特に身近な問題として感
じられるようになったのは、緒方貞子教授が国際関係副専攻の教員から国連
難民高等弁務官に呼ばれた 1990 年からである。
5.現代の課題
日本外交も平和研究に新しい課題をもたらしている。核不拡散条約およ
び難民条約の批准によって、新しい法的義務が生じている。冷戦終結とソ
連崩壊の後で、日本の外交が少しずつ外向きになり、主に国連平和維持活動
(PKO)に参加し、国連安全保障理事会での新しい役割を求めることになっ
た。対外開発援助(ODA)に加えて、この新しい課題が日本のグローバル・
イシューと世界平和への貢献を拡大する。
近年、特に 2001 年 9 月 11 日の米国同時多発テロの後で、全世界でテロの
問題が注目されている。この事件によって既に長くなった研究課題のリスト
はさらに長くなった。テロとは何か?どうして人間はテロ活動をするのか?
安全保障論の基礎が再検討されている。テロは人々と国家が直面する他の安
全保障の問題とどのように関連しているのだろうか?もし「安全保障」が「脅
威」と相関的に定義されているならば、現在の本当の「脅威」とは何である
か? テロリストによってもたらされる新しい「脅威」だけではなくその他
の先例のない脅威─国際犯罪グループ、伝染病など─からどのように本当の
「人間安全保障」が実現できるか?国際関係論において 9・11 事件の前に無視
されがちであったテーマの一つは宗教である。9・11 の衝撃が宗教の理論的
で実証的な関心への触媒になった。相変わらず宗教が国際関係と平和の全体
像を理解する上で中心的な課題の一つである。
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6.価値観
先の宗教の話が平和研究のもう一つの特徴を際立たせる。宗教が人間の価
値観と密接に関係しているように、知的分野の中で平和研究が価値観を率直
に明確にする分野である。紛争、搾取、戦争の悪に直面する研究者は、平和
研究が中立的な立場にあることを否定する。例えば、貧富の差が認められな
いという判断は研究者が利用する「構造的暴力」の概念に含まれている。戦
争の原因が探求され、検証される理由は戦争を避けるためである。福祉、民
主主義、人権などの条件が検討されるのは人間をエンパワーし、積極的な平
和を生かすためである。
20 世紀に平和のための行動のシンボルとなった人々はこのような自由
と人間の尊厳という価値のために闘った人々である─ガンジー(Mahatma
Gandhi)、 キ ン グ(Martin Luther King, Jr.)、 マ ザ ー テ レ サ(Mother Teresa)、
ヨハネ・パウロ II 世(Pope John Paul II)
。これらの人々の名前を見ると、平
和研究が重要で古典的な課題でありながら、平和の研究が偉大な政治と軍事
の出来事および経済・社会の政策に限られていないことに気づく。平和と正
義の本物の価値には規範的な基礎が必要である。平和の実現にはカリスマ的
な指導者、非政府組織(NGO)
、社会運動などが関与する。
7.展望
平和研究の議題は広くて深い。一人で達成できるものではない。明らかに
現代の軍事、政治問題は重要な研究だが、場合によって人間と人間社会の具
体的な要素についての長期的な研究も必要である。出発点は身近にある。普
段私たちが体験している平和(または平和の不在─ peacelessness)から始まる。
平和について民族間・世代間で共通な価値観を分かち合わないと平和研究
が目指している目標に達することができないのは確実であるから、価値観を
共有するための平和教育も大切である。昔のことわざで「戦争があまりにも
大切であるから、将軍に委ねられない」
(war is too important to be left to the
generals)とあるが、平和も数人だけの仕事ではなくみんなの仕事である。
第Ⅲ章 専任教員による専門分野紹介
8.参考となる文献・ウェブサイト
[書 籍]
David P. Barash, ed. Approaches to Peace: A Reader in Peace Studies. Oxford
University Press, 2000.
David P. Barash and Charles P. Webel, Peace and Conflict Studies. Sage Publications,
2002.
高柳先男著『戦争を知るための平和学入門』筑摩書房、2000 年.
『グローバル時代の平和学』
【全 4 巻】法律文化社.
日本平和学会篇『平和研究』第 27 号(2002 年 11 月)特集「人間の安全保障」論
の再検討.
[資料]
ブトロス・ブトロス = ガーリ『平和への課題』
(1995 年版)
http://www.unic.or.jp/centre/pdf/peace.pdf
International Commission on Intervention and State Sovereignty, The Responsibility
to Protect.
http://www.iciss.ca/report-en.asp
United Nations, A More Secure World: Our Shared Responsibility.
http://www.un.org/secureworld/
[ウェブサイト]
国際連合広報センター
http://www.unic.or.jp/
《独立行政法人》国際協力機構(平和構築支援)
http://www.jica.go.jp/global/peace/index.html
岡本三夫ホームページ
http://www.okamotomitsuo.com/
人間の安全保障委員会について
http://www.humansecurity-chs.org/japanese/index.html
Carnegie Council on Ethics and International Affairs
http://www.carnegiecouncil.org
Human Security Centre
http://www.humansecuritycentre.org/
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