ここから - ODN

世界近代史の自主編成
(世界近代史の整理と資料)(世界現代史と一部重複)
−世界史学習を日本の現実に即したものにするために−
山本良久(北海道立名寄高等学校教諭時代)
はじめに
世界史の基本法則とは何か、
という問題は研究者の間でもまだ決着がついていない。
高校世界史教科書では、
近現代の時代区分ですら無関心であるかのように混乱した叙述が目につく。どうも基本法則など頓着してない
ように見える。といっても、それらしく「世界史」を教えなければならない我々現場教師は、教科書に不平を
述べているだけで済まない。近代史はなんとかなると思っていたが実に扱いにくい箇所が多い。たとえば、
「国
民主義、自由主義の発展」などという章などは何年来教えているが、どうもスキッといかない。現代史(特に
第二次世界大戦後)にいたっては、無整理に事項を羅列したものにすぎないものになっている。あれこれ、不
満が多い。自分なりの数年の実践したものが、この『世界近現代史の整理と資料』である。
1 基本的観点
この『世界近現代史の整理と資料』の作成にあたっての基本的観点を述べておきたい。
(1) E,H.カーの言うように、歴史が過去と現在との対話である以上、歴史の把握、叙述は現代的関心から
離れてありえない。まして、現代に生き現代の社会で悩み苦しみ生きている生徒を対象とした世界史の授業で
は、現代的関心が強く問われるであろう。したがって、この編成では、現代的課題に迫るものにしたい、とい
うこと。
(2) といっても、課題だけを認識させるだけでは、問題意識過剰の生徒を育てるだけになってしまう。課題を
法則的にとらえること、法則を現実の生活に生かそうとする態度を養うことが必要である。そのためには、法
則性に立脚した自主編成でなければならないこと。
(3) 日本史と世界史の統一的把握
現実の課題を踏まえ、法則性によって貫かれた自主編成をめざすと、今まで述べた。さらに次の観点を加え
たい。日本史・世界史の統一的把握という観点である。我々国民が直面している現実は、日本だけの歴史的結
果でなく、当然のことだが、世界史に制約されたものであり、なかんずく東アジア史とも密接に結合し東アジ
アの歴史的展開に制約されてきたし、逆に日本の動きが東アジア史を制約したこともある。したがって世界史
の授業において両者を統一的に把握できる内容でなければならぬということである。アジアにおける日本とい
う観点でなければ日本国民が直面する課題なりを法則的に把握できないだろうというのが、
第3の観点である。
以上が内容に関する観点である。
(4) 次に実際授業に使用できるものにしたいという配慮から、できる限り小単元につき整理と資料で更紙1枚
(B4判)
、多くても1枚半(整理に半枚、資料に1枚)と考えた(字数を制限するためにAプリ横書きの謄写
版原紙を使った)
。箇所によっては、適当な資料が見当たらず、空白になった所や、是非とも生徒に伝えておき
たい所では、多くの枚数を資料に割いた。
(5) 資料選択の基準
生徒に生の資料を与えるよう努力した。理由は無内容の項目的な知識でなく、豊かにその時々の歴史的状況
を把握してもらいたかったからである。侵略、抑圧に対する人民の勇気ある闘いなどに最大の注意を払った。
2 整埋と資料のねらい−主に資料のとり扱い方について
これから各単元のねらいについて述べていこうと思う。紙数に制限があるので、逐一説明せず、重点をとり
あげで説明していこう。
(1) 第3の観点「日本史・世界史の統一的把握」にかかわって
現在、日韓関係がいろいろ取り沙汰されている。その背景は金大中事件が起きたときからとか戦後からだと
かではなく、はるか以前からの問題がよこたわっている。それだけに日本の歴史を世界史(東アジア史)と統
一的にとらえていくことが要求される。また、単に朝鮮ばかりでなく、中国とも、東南アジア諸国とも、時に
1
はアフリカの歴史とも固くむすびついていることを認識することが大切である。
このプランでは、当然ながら整理も資料もこの点に力が入っている。この観点からとりあげた資料は次のと
おり。
資料近代23
〃
24
〃
28
〃
33
資料現代 1
〃
2
〃
3
〃
5
〃
8
資料現代12
〃
20
〃
21
〃
24
〃
29
整理近代5
資料現代33
〃
35
〃
40
整理6の33
〃
35
〃
36
資料現代41
初代駐日総領事オールコックの言
日本の海外侵略
日本帝国主義の朝鮮支配(土地調査事業)
対華 2 1 カ条要求に対する日本留学生の抵抗
対ソ干渉戦争のB
仙台の原田忠一という労働者の感想
三・一運動
五・四運動について登叡超の回想
米騒動
世界恐慌と日本
戦争における残虐行為(加害者としての日本国民)
〃
(被害者としての日本国民)
べトナム民主共和国独立宣言
財閥解体
中華人民共和国の成立
朝鮮戦争と日本
アメリカの対日占領政策の転換
アフリカと日本(ムハレレのことば)
米ソの「雪どけ」と日本・西独の勃興
ベトナム戦争−アメリカのアジア政策
アメリカのインドシナ侵略の破綻
べトナム戦争と日本
以上なのだが、実際授業で最終的なおさえとして、40の「アフリカと日本(ムハレレのことば)
」をあげて
いる。これを読みあげるとうなずく生徒が多い。
(2) 明治維新
日本のみが何故全面的な植民地化を免ぬがれ、独立を保ちえたかをはっきりと認識させたい。維新後政府の
富国強兵策に独立の原因を求めるのではない。文字通り一体化した世界の歴史の中に日本史を位置づけておき
たい。
明治維新がもつ進歩性とともに英米仏露などの欧米帝国主義列強が日本に寄せた反動的期待を明らかにして
おきたい。つまり、アジア諸民族の抵抗にくさびをうちこむ親西欧的政権の樹立の意図があったこと。日本の
歴史が世界史の動きに制約されつつ発展したことを具体的に把握させたい。また、客観的には共同闘争となっ
た、太平天国の乱、セポイの乱、イランの反乱などの関連を強調するよう考えた(資料近代22「セポイと太
平軍との共同闘争」参照)
(3) アジア・アフリカの従属化
この箇所では、時間配分が少なくなって、どこそこが、このように列強に分割されてしまった、という扱い
方になっていた。これでは、分割された側の声が出て来ず、結局はアジア・アフリカ人民の存在を否定してし
まうことになる。そこで「抵抗しながらも封建的後進性のために屈服せざるを得なかった」ということ。当時
のアジアがもっていた時代的制約を認識させることに目的をおいた。そのような資料は意外と手に入れにくか
った。できる限りヨーロッパ人の手によるものによらずに、アジア人自身の記録を資料にしたかったので尚更
であった(資料近代16「セポイの乱」
、同18「ビルマ人の抵抗」
、同19「大津条約締結時のベトナム人の
抵抗」
、同22「セポイと太平軍との共同闘争」などを参照)
。
帝国主義列強による世界の分割のところでのアフリカ分割についても、単に黒人が未開であったために列強
に分割された、という認識に陥らないようにした。そのためには、マリ王国やガーナ王国やモザンビーク、ザ
2
ンジバルなどの黒人王国の存在を中世の学習で強調しておくことが大事である。
さらに、近代史では次のように取り扱うよう留意した。つまり、一般に日本に伝えられ、日本人の黒人観に
なっている未開民族観を打破するため、黒人の劣悪な生活条件、境遇が帝国主義によって分割された原因なの
でなくその結果なのだということを認識させたい。第二次世界大戦後のアフリカ諸国の解放闘争に連結して学
習できるように、列強の土地収奪をとりあげた(資料近代27「帝国主義のアフリカ支配の実態−土地収奪」
参照)。
(4) アジア・アフリカのめざめ
教科書では、帝国主義の世界分割と第一次世界大戦での間に「アジア・アフリカのめざめ」という形で章な
り節なりで出てこない(指導要領でもそうだ)。でもこれが抜けるなら第一次世界大戦の原因把握及び第一次世
界大戦後の歴史の大転換が連続して出てこないことになるので、このプランでは「近代5 12」として独立
してとりあげた。第一次世界大戦が従属地域における民族解放闘争の進展に対する反動諸勢力の一つの対応で
あることを認識させたかったからである(整理近代5の12「アジア・アフリカのめざめ」を参照)
。
(5) 第一次世界大戦
このテーマで留意したことは多い。
a 原因について
従来、原因といえば帝国主義的対立の激化を教授していたが、私としては「植民地勢力のめざめ」を加えた
い。そして最重点として、戦争反対勢力の分裂もしくは未熟さを指摘するようにしたいと考えている。整理で
は、大衆的組織的運動の未熟を総括的に表現し、内容として、
① 被抑圧民族同土の対立及び連帯行動の欠除
② 社会主義勢力の分裂
③ 良心的平和主義の限界(トルストイ、ロマン・ロ一ラン)などをあげておいた。このことをきちんとおさ
えるかどうかは、第二次世界大戦の学習、戦後史の学習にとって決定的に重要であると考えている。第二次世
界大戦における反ファシズム連合の結成、戦後における全面戦争を回避させている要因(平和勢力の伸長)と
結びつくからである。近代史と現代史を決定的にわける指標であり、内容だからとも考えているからである。
b 経過の中での日本の役割を考えさせたい。日本帝国主義の特徴である脆弱性、凶暴性をとりあげたいと考
えた。そのための資料が、近代83「対華21カ条要求に対する日本留学生の抵抗」である。
$
(6) 第一次世界大戦後の「民族解放闘争の高揚」について
第一次世界戦後の主要な内容を、
① 社会主義社会の成立(ロシア革命)
② 民族解放闘争の高揚
③ 労農運動の高揚
④ 帝国主義諸国の不均等発展を考えた。
その中でアジアの民族解放闘争と日本帝国主義との関係を重視した。東アジア史における日本を明らかにす
る意味で、即ち、
「三・一運動」と「五・四運動」との比較。日本帝国主義によって直接支配された朝鮮と半植
民地の中国との犠牲者の違いを強調した(資料現代3「三・一運動」のD、
「三・一運動の犠牲者」の項参照)
。
朝鮮の場合、弾圧の結果、死者は7千6百人に及んだ。また、アジア諸民族を犠牲にしたという意味でも、
「五・
四運動」とならんで「五・三〇事件」を強調したい。なお、つけ加えるなら、
「三・一運動」や「五・三〇事件」
に触れていない教料書が多いのには驚かされる。
(7) ベルサイユ体制
ベルサイユ体制の整理はいつものことながら苦労する。教授しにくいところの一つである、毎年整理の仕方
を変えている。ここでの整理では、第一次世界大戦後の世界秩序の変化を総括する体制としてまとめた。前時
の学習と重複したり、時間がかかりすぎたりするなどの欠点があり、今後も検対したいところである。
(8) 反ファシズム運動
いわば、この自主編成の中で私が一番苦労し、依然として不満の多いところである。従来、このテーマでは、
スペイン、フランスの人民戦線、中国の抗日民族戦線が登場する。日本のものが出てこないというのが私の不
3
満であった。その不満は次の点にある。
① 現在の戦争の不可避性を防いでいるのが人民諸勢力の平和を求める運動が高まっていることが大きな要因
と考えられるのだが、戦前、戦後の連結を従来の取り扱い方では、分断してしまうからである。
② 日本国民の戦争責任という立場から、考えても重大であるからだ。なぜなら、戦争責任を天皇、軍部、財
閥のみに求める議論がある。けれども反面次のことを考えなければなるまい。欺瞞され脅迫されながらという
事を否定しないが、日本人の多くの部分が実際に戦争に協力した事の責任があいまいにされてはいけないと考
えている。その意味で、あの残酷な天皇制支配下においても反戦平和、反ファシズムも絶望的な状況の中で闘
った我々国民の選良たちがいたことを知らさなくてはなるまいと考えるからである。しかも、それが労働者階
級の出身者であったことを。
③ また、現代史の主要な内容というべき人民の側に権力があり(社会主義国)、また資本主義国内においても、
自らが歴史を動かしていることを自覚し、そのための組織をもちはじめて、ときには世界の政治に主体的に働
きかけようとしているという好例と考えるからであり、日本においても例外ではないということを知らせるこ
とができると考えるからである。また、このことは戦後における平和勢力の伸長、なかんずく日本における平
和運動の学習ともむすびつけなければならないと考えるからである。 以上の不満を解決せんとして、
「日本に
おける人民戦線運動」
(整理現代3の21、
「労働運動の発展と反ファシズム運動」参照)を教授してみた。こ
れには困難な事が多かった。日本でのこの分野での研究がまだすすんでいないこと。高校生に適当な資料がな
い。研究者の中で、現在の政治的動きと関連し合って重要なところで意見の対立があることなどが主な困難点
になっている。資料の選択では今後の検討が必要と考えている。
(9) 第二次世界大戦
第二次世界大戦の学習では次のことを強調した。
① 第二次世界大戦の性格(帝国主義戦争、植民施解放戦争、反ファショ戦争)を具体的に教える。その意味
で第一次世界大戦の原因、性格と対応させて、把握させること。
② 日本帝国主義の侵略性(残虐性も)をその崩壊過程などの把握なのだが、最重点目標は、生徒に戦争責任
の問題を考えさせることにあった。そのためには戦争の状況を具体的に知らせることに力を置いた。この自主
編成の中で資料が一番多い箇所となった。加害者、被害者とにわけて生徒に資料を提供したが両側面を統一的
に把握できるようにもっていこうと考えた。また、この学習を身近なものにするため名寄市に近い、朱鞠内で
の朝鮮人強制労働の資料をとりあげてみた(資料現代20「戦争における残虐行為」
「加害者としての日本国民」
のC「朝鮮人、中国人強制連行」の項を参照。また、日本帝国主義の侵略をうけた東南アジア諸国が日本帝国
主義の侵略を現在どうとらえ、子どもたちに教えているかを考えてもらうために、インドネシアの『中学三年
用教科書』
、フィリピンの『中学用歴史教科書』からの引用をおこなった。これを通して、あらためて日本が現
在東南アジア諸国に果たさなければならない戦争責任を考えさせたいと考えている。最近の日本のアジア進出
と重複するであろう。
また、日本人が加害者であり、同時にそのことにより被害者であったということで、近衛上奏文、戦争に勝つ
ために老弱者、病弱者の皆殺しを説いた大阪陸軍司令官の発言や、沖縄での日本軍の沖縄住民に対する蛮行を
強烈に生徒に伝えたいと考えている。
戦後史の学習につながるものとして、原爆投下の意味とその惨状、沖縄戦のもつ意味を資料に基づきながら
認識させたいと考え教授した(資料現代21のG「広島の惨状」
、E「本土決戦は行われた−沖縄戦」参照)
。
3 戦後史について(時代区分を中心に)
この部分については種々の問題点が多いので、章をあらためて述べてゆきたい。
問題点の最大のものが、戦後史の時代区分の問題である。戦後史では殆んどそのままでは教科書は授業に役立
たないということは前に述べた通りである。実際の授業では、戦後史までいかないなど、実践的なことで問題
になりづらい。
けれども、いくつかの基準から戦後史をながめてみればそれらしいことはできると考える。その基準とは、
① 平和と民主主義を求める人民の戦い
② 従属地域の民族解放の闘いの進展とその達成しえた結果
③ 社会主義諸勢力の発展
これらを典型的形態として、統一戦線運動(従属地域にあっては新民主主義運動)の発展の度合などが区分
4
の基準になりうると考えている。さらにこの運動に加えて、戦後史の学習においても、既述した基本的観点を
貫徹させることである。このような考え方からできあがったのが、この整理と資料の戦後史の部分である。も
ちろんこれには、多数の諸先輩の研究成果を利用させてもらったことは言うまでもない。
以下に時代区分のみについてのべていく。
戦後史の第一段階として第二次世界大戦終了から冷戦が本格化し、中華人民共和国成立前後まで。
その主要な内容は
① 社会主義世界体制の成立
② 民族解放闘争勝利の時代開幕
③ 労農運動の高揚
④ そしてこれらに対決する形でのアメリカ帝国主義の冷戦策=世界戦略の開始である。
第二段階は、中華人民共和国の成立から、朝鮮戦争、サンフランシスコ体制の成立、世界の平和運動の進展
を経て、アジア・アフリカ会議とその後のアフリカ諸国の相次ぐ独立の時期である。主な特徴は、社会主義世
界体制の発展と帝国主義支配からの解放を求め立ちあがるアジア、アフリカ、ラテンアメリカの諸民族の闘い
の進展である。
第三段階は、アメリカ、ソ連、中国などいわゆる「大国」間の関係に変化があらわれる時期である。
部分的核実験停止条約のような米ソの接近、一枚岩を誇っていた中ソの対立に典型的にみられる社会主義陣
営内の対立、これを背景に生じた民族解放運動上の一定の困難と後退(新植民地主義、米の柔軟戦略等)
、及び
それに抵抗し対決し、米帝国主義の世界支配を動揺させる契機となったインドシナ侵略とその破綻を主な内容
としている。ここでは特に次のことを強調したい。世界の帝国主義・反動勢力の後退の原動力となっている各
国人民の闘いの現代的形態としての新民主主義革命運動の進展である(ベトナム解放民族戦線、チリでの人民
連合政府の樹立等)
。
また、フランス人民連合を扱ってみたかったが、今年は教材化ができなかった。
このような動きの中で、日本が西独とならんで、米の世界侵略の中に緊密にくみ込まれていく過程を冷徹に
見つめるようにした(肩代り政策、べトナム戦争協力、ニクソン・ドクトリン等)
。そしてべトナム特需やドル
危機などの国際的要因を受けつつ、国内的には、労働者等勤労大衆を犠牲にしてGNP第二位になりえたこと
を学習し、第四段階への学習と続くようにと考えた。また、そのことにより、国内での矛盾ばかりか、第四次
防衛計画、東南アジア、朝鮮などへの帝国主義的経済進出(これを「侵略」とアジアの人々はいう)により、
アジア諸民族解放の闘いとは敵対関係になろうとしていること(その意味で明治維新以来の日本の歴史と軌を
一にしているのだが)
、一方では、明治時代とは異なりアジア諸民族との連帯行動を追求する動きが、日本国内
で起きつつあることを強調した。
第四段階では、世界史の中の日本を浮彫りにし、国民的課題の学習に入ってていく。この部分の学習は、世
界史の授業では時間的な制約から実践していない。3年の「政治・経済」でと考えているが、今年度(昭和4
9年度)では相当実践し得たと考えている。
「政治・経済」などで実践した結果からでは、この部分での学習プ
ランは、
① 国民の生命と生活を守る運動
② 平和を守る課題
③ 民主主義を発展させる課題
の三分野から迫ろうと考えている。
おわり に
以上、私なりの自主編成を、実践を踏まえたものとして、述べてきた。これが今最善なものと考えていない。
自分なりにも特に戦後史については別な時代区分がありうると考えている。たとえば東アジアの日本というこ
とで、アジア諸国の民族運動の各局面を基準にして、時代区分を行なう方法であろ。同時代を客観的にみつめ
ることは、きわめて困難である。諸先生方のご教示をお願いする次第である。
世界史近代資料一覧
山本良久編
近代1
黒人奴隷貿易と産業革命 (B・デヴィットソン『アフリカ史案内』岩波新書)
近代2
児童の状態についての工場労働者による証言(1832年)
(谷 和雄訳『世界歴史事典』巻24 平
凡社)
近代3
パトリック・ヘンリーの演説(1775年3月)
(
『世界歴史事典』巻24 平凡社)
5
近代4
アメリカ合衆国憲法(1787年5月)
近代5
アンシャン・レジーム下の農民(アーサー・ヤング「フランス旅行記」
『世界歴史事典』 平凡社)
近代6
フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)
近代7
ル・シャプリエ法(1791年)
(井上幸治訳『世界歴史事典』巻24)
近代8
ジャコバン憲法(1793年)
(ソビエト科学アカデミー版『世界史』近代4)
近代9
大陸封鎖令(ベルリン勅令)
(1806年)
(
『世界歴史事典』巻24)
近代10 人民憲章(1838年)
近代11 共産党宣言(1848年)
近代12 ゲティスバークの演説(1863年11月)
(高木、斎藤訳『リンカーン演説集』岩波文庫)
近代13 ビスマルクの鉄血演説(1862年9月30日)
(
『西洋史料集成』平凡社)
近代14 アレクサンダー2世の農奴解放令(アレクサンダー2世の演説 田中陽児訳『世界歴史事典』巻2
5 平凡社)
近代15 パリ・コンミューンの成立宣言(1871年3月29日)
(
『西洋史料集成』平凡社)
近代16 セポイの反乱(1857年5月10日)
近代17 インドにおける鉄道建設(1860年∼)
(松井透「イギリス帝国主義とインド社会」
『岩波講座 世
界歴史』巻22)
近代18 ビルマ人の抵抗(1885年6月)
(竹村正子「帝国主義と東南アジア」
『岩波講座 世界歴史』巻
22)
近代19 天津条約締結時のヴェトナム人の抵抗(1885年)
(竹村正子「帝国主義と東南アジア」
『岩波講
座世界歴史』巻22)
近代20 インド政府のアヘン収入と中国流入アヘン量(田中正俊「資本主義とアジア社会」
『岩波講座 世界
歴史』巻21)
近代21 欠番
近代22 南京条約(1842年)
近代23 セポイと太平軍との共同闘争(野原四郎「極東をめぐる国際情勢」
『岩波講座 日本歴史』近代4)
近代24 初代駐日総領事オールコックの言葉(野原四郎「極東をめぐる国際情勢」
『岩波講座 日本歴史』近
代4)
近代25 日本の海外侵略(中塚 明「日清戦争」
『岩波講座 日本歴史』近代4)
( 姜 在彦 「甲午農民戦争」
『岩波講座 世界歴史』近代9 )
近代26 欧米列強における独占の発達(レーニン「資本主義の最高の発達段階としての帝国主義」
『レーニン
3巻選集』大月書店)
近代27「19世紀後半のアメリカにおける独占支配の実態」
(ヘンリー・ロイド『社会にそむく富』
、清水知
久「アメリカ帝国主義の形成」
『岩波講座 世界歴史』近代9)
近代28 帝国主義のアフリカ支配の実態(土地収奪)
(ジャック・ウォディス岡倉古志郎監修 アジア・アフ
リカ研究所訳 『アフリカ−叛乱の根源』法政大学出版局 )
近代29 日本帝国主義の朝鮮支配(土地調査事業)
(姜徳相「日本の朝鮮支配と三・一独立運動」
『岩波講座
世界歴史』巻25)
近代30 19世紀末∼20世紀初の列強の植民地領土(レーニン「資本主義の最高の段階としての帝国主義」
『レーニン3巻選集』大月書店 )
近代31 ベンガル分割令に反対するインド人の闘争(山本達郎編『インド史』山川出版社)
近代32 第一次世界大戦下の青年(レマルク「西部戦線異常なし」
『資料世界史』東京法令)
近代33 植民地諸民族の戦争参加
近代34 対華21か条要求に対する日本における中国人留学生の抵抗(洪拱 「屈辱をけって」
『中国の目』
玉嶋信義訳 弘文堂)
近代35 第一次世界大戦の損害(秀村欣二「世界史」学生社『資料 世界史』東京法令)
近代36 革命前の労働者の状況−「農業労働者雇用条令」
(1886年)
(飯田貫一訳『世界歴史事典』
)
近代37 勤労被搾取人民の権利に関する宣言(1918年)
6
世界近代史まとめと資料
近代Ⅰ
1
イギリスの産業革命
産業革命とは何か(定義)
1 社会上の変化−資本主義社会の確立 二大階級の成立−労働者階級と資本家階級
2 生産形態の変化−問屋制手工業、工場制手工業(マニュファクテュア)→工場制機械工業
3 技術革命−手工業→機械
産業革命の原因
1 資本の蓄積(資本家の形成)
植民地経営(販売市場、原材料供給)→富、イギリスに流入→ジェントリー、商業資本家、独立自営農民等
の富裕層形成
※1694年 イングランド銀行設立→18世紀に地方銀行設立
2 労働者階級の形成
18世紀 第2次エンクロージャームーヴメント(議会主導)
独立自営農民層の階層分化─┬─富農(経営者)−資本家として成長
└─農村労働者−産業予備軍としての存在
3 機械の発明
産業革命の展開
インド、綿花生産の増大→紡織部門での大量生産の要請高まる→1733年 ジョン・ケイ 「飛び杼」発明
→64年 ハーグリーブス「多軸紡績機」発明→65年 ワット「蒸気機関」発明→68年 アークライト「水力
紡績機」発明→85年 カートライト「力織機」発明→他部門に波及(機械製造業、鉄、鉱山、炭坑業)→交通
革命(1807年 フルトン「蒸気船」→スティーブンソン「蒸気機関車」→イギリス「世界の工場」になる.
産業革命の影響
1 資本主義の確立(封建社会の廃棄、営利中心、機械制大工業、大量生産、産業資本家の社会的優位、二大階
級の成立)
2 イギリス政治の自由主義的改革の進行
4 社会問題の発生(労働問題−婦人・児童労働、長時間労働、低賃金→労資の対立 →ラッダイト運動等
近代1 黒人奴隷貿易と産業革命
A
イギリスや他のヨーロッパ諸国の工業化を助ける上で、奴隷貿易が大きな役割を演じたといってよいのです。
……1716年、
リヴァプール港には登録された船舶が1万8771トンしかなかったが1792年までには、
この数字は26万3820トンにはね上がっていた。このような結果をもたらしたのは、奴隷貿易を土台とす
る「大循環」貿易だったのです。たとえば、1770年、ウィリアム・ベックフォードというロンドンの商人
−かれはロンドン市長でもあった−は、
「大循環」貿易のおかげで大もうけをしたので、息子の収入が年に4万
ポンドにも達したと自慢することができました。これは今日の金に直すと、年収100万ポンド(約10億円)
以上になります。
B
16世紀にはじまり、19世紀に終った奴隷貿易で、どれだけの数のアフリカ人が売られたか、正確なことは
わかっていません。不完全なデータから推定するとたとえば1580年から100年間に、ポルトガル人はブ
ラジルに総計100万を下らぬ奴隷を運んだといわれています。その後の100年間に、北アメリカとカリブ
海のイギリス植民地には、200万以上の黒人が奴隷としてつれてこられたといわれています。大西洋を渡っ
て、生きたまま上陸した奴隷の総数について、人口統計学者クチンスキーは1500万というのが「いささか
控え目」な数字と結論していますが、航海中に死んだ奴隷、奴隷船に乗せられるまでに抵抗して殺されたもの、
その他を合すると、この約300年間に約5000万のアフリカ人が奴隷貿易の結果として、アフリカから失
7
われた計算になるそうです。
( B・デヴィットソン 『アフリカ史案内』 岩波新書 )
近代2 児童の状態についての工場労働者による証言(1832年)
(解説)産業革命後の児童労働は悲惨を極めた。下院はトーリー党のサドラーの提案を受けて1831∼33
年の間、委員会で実態調査を実施した。これらの証言は実効ある最初の工場法(1833年、9歳以下の児童
雇用禁止、13歳以下の児童の8時間以上、18歳以下の児童の1日12時間以上の労働および夜業の禁止等)
制定のための貴重な資料となった。
A サミュエル・クールスンの証言
5047 活況の時期には、少女たちはなん時に工場に行ったか。
活況の時期には、それは6週間ばかりの期間ですが、少女たちは朝の3時には工場に行き、仕事を終えるのは
夜の10時から10時半近くでした。
5049 19時間の労働のあいだに休息あるいは休養のためにどれだけの休憩時間が与えられたか。
朝食に15分間、昼食に30分間、そして飲料を採る時間に15分間です。
5054 このような極端な労働をする子供たちを、朝、目をさまさせるのに大変苦労しなかったか。
そうです、早出のときには、彼女たちを仕事に送り出すまえに、身支度をさせるために床の上におろすとき、
眠ったままでいるのをかかえあげ、ゆすぶらなければなりませんでした。
5057 クォータとはなんのことですか。
賃金を4分の1減らされることです。
どのくらい遅れたらクォータされるのか。
5分間です。
( 谷 和雄 訳 『世界歴史事典』巻24 平凡社 )
B 炭鉱における女子労働ならびに児童労働、児童の雇用に関する調査委員会の報告(1842年)
(解説)工場法制定後も、炭鉱では地下作業であるため一般の注意をひくことが遅れていた。1840年、ア
シュリー卿は委員会の設立を唱え実行された。1842年この報告が提出され、10歳未満の児童の地下労働
は禁止されることになった。ランカシャーおよびヨークシャー地方の炭鉱の状態である。
1 これらの鉱山での雇用が開始される通常の年齢は8歳から9歳にかけてであるが、
児童たちが早くも4歳で、
ときには5歳、または5歳と6歳との間で、同じく6歳と7歳との間で、そしてしばしば7歳から8歳にかけ
て、これらの鉱山に労働者として採用されている実例があること。
3 幾つかの地方においては女の子が男子と同様な幼い年齢で、これらの鉱山で働き始めているということ。
9 ……これらの児童たちは彼らが坑内にいる全時間を通じて孤独と暗黒のうちに置きざりにされており、
また
彼ら自身のいうところによれば、
彼らの多くが作業の進んで いない週のうちの幾日かと日曜日とを除いて冬期
の大部分を通じて何週間ぶっ続けに日光をまったく見ることがないということ。
( 谷 和雄訳 『世界歴史事典』巻24 平凡社 )
8
近代Ⅰ
2
アメリカ独立革命
原因
1 イギリスの重商主義
・アメリカの商工業の発達を抑圧
・重税−糖密条例、印紙条例、茶条例→七年戦争の軍費調達を理由に一層強化
2 植民地の自治意識の発展−13州に州議会が発達、自治精旺盛
経過
1773年 ボストン茶会事件→イギリスの報復→74年 戦闘開始→74∼75年大陸会議(一部の大地
主・大商人に親英的なものもおり、妥協的→パトリック・ヘンリーの演説)→76年 アメリカ独立宣言→露・
仏の援助(中立海上同盟)→83年 パリ条約(休戦)
1787年 憲法制定
国民主権の確立→連邦制、大統領制、権力分立(厳格な三権分立、大きな権限を州に認める)
近代3 パトリック・ヘンリーの演説(1775年3月)
(解説)大陸会議で保守派が独立戦争に否定的であったので行った演説で議場の空気を一変させた。
「……諸君、相手はあまりにも巨大でこれと闘うことができないほど私たちは微力だというものがある。し
かし、いつになったら、私たちは今より強力になれるのだろうか。来週であろうか。あるいはまた来年であろ
うか。私たちがすべて武器を捨てるときであろうか。それとも英兵がどの家にも宿営する時であろうか。私た
ちは優柔不断さと遅鈍さによって力を集めようとするのか。私たちは敵が私たちの手足を縛ってしまうまで仰
向いて横たわり、迷った幻影を抱いて、効果的な抵抗手段を求めようとするのか。諸君、私たちは、自然の神
が私たちの力に与えたもうた手段を適当に使えば決して弱くないのである。……諸君、戦いは強いばかりで勝
てるものではない。不断の警戒と、活動と、勇敢によって勝利を得るのである。そのうえ、私たちには選択が
ない。もし私たちが選択に欲するに足るほどの素地をもっていたならば、戦争から身を引くには今は遅すぎる
だろう。屈服と隷従におかれること以外に退却の方法はない。私たちの鎖は鍛えられた。
その鎖の音はボストンの平原に聞くことができる。戦争は避けられない。戦争に突進しようではないか。……
諸君、事態を酌量してもムダだ。諸君は平和、平和と叫ぶかもしれない。しかし、平和は決してない。戦争は
すでに実際に始まっている。北方から吹きまくる来たるべき強風は、今や私たちの身に高鳴る武器の響きをも
たらすであろう。私たちの同胞はすでに戦場にいる。私たちはなぜここで無為をむさぼっているのだろうか。
諸君の望んでいるものは何であろう。諸君は何をしたいと思っているのだろうか。鉄鎖と奴隷化の代価で購わ
れるほど、生命は高価であり、また平和は甘美なものだろうか。全能の神よ、かかることは止めさせよ。私は
他人がいかなる道をとるかは知らない。しかし、私に関する限り、私に自由を与えよ。しからずんば私に死を
与えよ。
」
( 『世界歴史事典』巻24 平凡社 )
近代4 アメリカ合衆国憲法(1787年5月)
第1条(連邦議会とその権限)
第1節 この憲法によって与えられるいっさいの立法権は、合衆国連邦議会に属せしめる。連邦議会は元老院お
よび代議院の両院から成る。
第2節 代議院は各州人民が2年ごとに選出する議員で組織する。
第3節 合衆国元老院は、各州から2名ずつ選出される元老院議員で組織する。その任期は6年とする。
第8節 連邦議会は下の権限を有する。
徴税権、貨幣鋳造権、郵便制度、開戦権、軍隊編成、その他
第2条(大統領とその権限)
第1節 行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する。
9
近代Ⅰ
3
フランス革命(その1)
革命前のフランス−フランス革命の社会的原因
1 アンシャン・レジーム(旧体制)−封建的支配体制身分制社会
第1身分−僧侶
第2身分−貴族
特権身分(全人口の1∼2%、大土地所有者[全国土の40%を所有、官職独占、免税特権、財政支出の約半
分)
第3身分−平民 参政権なし、身分的差別を受ける、重税、腐敗政治の犠牲
商業資本家、徴税請負人、王権に融合(大ブルジョアジー)
諸階層
商工業者、自由職市民
農民−人口の90%、封建的束縛下、折半小作人
2 啓蒙思想の普及−社会契約説(人民主権、天賦人権論、平等思想)
、ルソー、モンテスキュー、その他
革命の勃発−立憲君主制成立期
1 国民議会の成立 奢侈・戦争・浪費→財政改革(テュルゴー・ネッケル→特権身分に課税を意図)→特権身
分の反対で失敗→89年5月 三部会の招集(議決方法を巡って第3身分と特権身分と対立→テニス・コート
の誓い(第3身分、進歩的貴族・僧侶も参加[リーダーシップ]
)→国民議会成立→国王弾圧せんとする。
2 1789年7月14日 革命勃発(パリの民衆[職人、労働者、貧民]がバスティーユ襲撃、暴動拡大)→
全国の都市・農村に拡大→同年8月 封建的特権廃止宣言、租税上の特権廃止、土地の有償分配→
3 同年8月26日 人権宣言(市民の近代的諸権利を規定)→国王承認せず→10月 ベルサイユ行進
→議会の諸改革(ミラボー、ラファイエット等立憲主義者指導、行政組織の近代化、教会財産の没収、 経
済活動の自由承認−特権商人の廃止等、度量衡の統一)→
4 「91年憲法」の制定( 典型的なブルジョアジー憲法、 立憲君主制の採用、制限選挙制、ル・シャプリ
ェ法)
近代5 アンシャン・レジーム下の農民
1789年7月12日 馬を休ませるために長い坂道をのぼっていったとき、
たまたま貧しい女と一緒になった
が、彼女は時勢をかこち、悲しい国だと嘆いた。そこで、そのわけを訪ねると、彼女のいうにはこうだった。
私の亭主は一片の狭い土地と一頭の牝牛と一頭の小さな馬しか持っていないのに、私どもはひとりの領主に地
代として1フランシャルの小麦と3羽のひなを、もうひとりの領主には4フランシャルの燕麦と1羽のひなと
1スーの貨幣を払わなきゃならない。もちろん、このほかに、重い人頭税や他の年貢が課せられている。……
この女は近くで見ても、60歳か70歳にみえたかもしれない。労働のため、それほどまでに彼女の腰はまが
り顔は皺をきざみこわばっていたのだ。しかし、彼女の言によれば、まだ28歳にすぎないということだった。
( アーサー・ヤング 「フランス旅行記」
『世界歴史事典』 平凡社 )
近代6 フランス人権宣言(人間と市民の権利の宣言)
1 人間は生まれながらにして自由かつ平等の権利をもっている。社会的な差別は、一般の福祉に基づく以外に
はありえない。
2 あらゆる政治的結合の目的は、天賦にして不可侵の人権を維持するにある。その権利とは、自由、財産所有、
安全および圧制に対する抵抗である。
3 あらゆる主権の原理は、本来、国民のうちにある。いかなる個人といえども、明白に国民のうちから出ない
権威を行使することはできない。
7 なんぴとも、法律に定められた場合および法律の規定する形式による以外には、起訴、逮捕または拘禁され
ることがありえない。……
17 財産所有は不可侵にして神聖な権利であるがゆえに、……なんぴともそれを奪われることがありえない。
近代7 ル・シャプリエ法(1791年)
1 [ギルドを禁止する条項]
10
……
4 自由および憲法の原則に反し、同一の職業・技芸に属する市民が、その工業もしくは労働の援助を共同で拒
絶し、または一定の代価を受ける場合にのみこれを与える協定をなしたとき、この討議と協定は、……違憲
にして、自由と人権宣言に違反し、無効たることを宣言せられる。……討議、協定を挑発・起草もしくは司
会した首謀者、指導者、扇動者は……検事の申請にもとづき違憲裁判所に召喚され、おのおの、500リー
ブルの罰金に処せられ、1年間一切の能動市民権と初級(選挙)集会入場権を停止される。
( 井上幸治訳 『世
界歴史事典』巻24)
11
近 代Ⅰ
3
フランス革命(その2)
共和制成立期
1 91年10月 立法議会招集→ジロンド党(穏健)とジャコバン党(急進)と対立始まる。
・ジロンド党−有産市民層
・ジャコバン党−無産市民層、小ブルジョアジー
初期−ジロンド党優勢(←国王逃亡未遂事件、91年6月)
2 普・墺と開戦 王党派の反抗→ヴァルミーの戦い
3 パリ民衆 チュルリー宮殿を襲う(王権停止)
共和制確立期
92年9月 国民公会招集(普選)→ジャコバン党国王の処刑要求(←下層民衆の要求反映)→ジロンド党動
揺(王党派回復・反乱)→93年 対仏同盟の脅威→→6月 ジャコバン党の独裁(ジロンド党を国民公会から
追放−革命の深化)→徹底した社会革命に発展→ジャコバン党による改革( 公安委員会、保安委員会、革命
裁判所を設置し政敵を処刑、 封建的特権無償廃止、ジャコバン党憲法制定(人民の生活権、労働権、普通選
挙制)
、革命暦、メートル法、理性崇拝の新宗教侵入軍撃破、経済統制)
テルミドールのクーデター
94年7月26日 ジロンド党など共和諸派の反撃、テルミドールのクーデター(←人民のジャコバン党への
反感、一部商人の物価つりあげ)
総裁政府の成立
95年10月成立ブルジョア共和政府→制限選挙復活、亡命者や王党派の反抗、バブーフの共産主義的運動、
インフレ増進→社会不安
※フランス革命の歴史的意義
封建的支配体制の一層
ブルジョアジーの勝利→ブルジョア社会の成立
無産市民の無権利状態続く
近代8 ジャコバン憲法(1793年)
1793年憲法は、フランスに共和制を確立した。最高立法権は、21歳になった全市民(男子)が選出した
立法議会に属し、きわめて重要な法案は選挙民の直接集会において人民投票にかけられる。最高行政権は24
人からなる執行委員会に与えられ、24人のうち半数は1年ごとに改選される。公会が採決した新しい人権宣
言は、人間の権利として、自由、平等、安全、所有権を(第2条)
、社会の目的として、 共同の幸福 (第1条)
を宣言している。個人の信教・出版・請願・立法の自由、教育、就業不能の場合の社会的扶助に対する権利、
圧政への抵抗権−これらが1973年憲法にかかげられた民主主義的原則である。
( ソビエト科学アカデミー版 『世界史』近代4 )
12
近代Ⅰ
4
ナポレオン時代
ナポレオンの登場
1779年 ブリュメール18日のクーデター→統領政府成立→1802年 ナポレオン終身統領になる→1
804年 皇帝となる、独裁体制成立
ナポレオンの内政
ナポレオン法典の編纂−市民同士の近代的権利関係を規定
資本家階級の要求に応える
左右勢力の抑圧
ナポレオンの対外遠征及び全盛期
98年 エジプト遠征→1802年 アミアンの和約→05年 トラファルガーの海戦の敗北、
アウステルリッ
ツの戦い(普・墺の屈服)→ライン連邦の成立(神聖ローマ帝国の滅亡)→07年 ティルジットの戦い(普・
露の屈服)→10年 マリア・ルイザと結婚(全盛期)
英仏との対立
対仏同盟(1793∼1815年)に前後3回結成
1802年 アミアン和約→05年 トラファルガーの海戦→06年 大陸封鎖令
ナポレオンの没落
1 原因
① 国民の支持次第に下降←度重なる戦争に国民疲れる
② 諸国民の自由主義・国民主義的運動高まる←→フランス革命の影響
(例 プロシアのシュタイン等の改革)
2 発端 12年 ロシア遠征の大失敗
3 経過
13年 諸国民解放戦争(ライプチヒの大会戦)
14年 連合軍パリ入城、ナポレオン エルベ島に流される
15年 ワーテルローの戦い→セント・ヘレナ島に流される
※ナポレオン戦争の歴史的意義
自由主義・国民主義(民族主義)のヨーロッパ全域への拡大
近代9 大陸封鎖令(ベルリン勅令)
(1806年)
1 イギリス諸島を封鎖状態におくことを宣言する。
2 イギリス諸島とのあらゆる貿易、通信は禁止される。したがってイギリス宛、イギリス人宛の、もしくは英
語で書かれた書簡あるいは郵便は郵送されず、差押さえられる。
3 わが軍隊もしくは同盟国軍隊の占領地域に見出されるイギリス臣民は、いかなる身分、境遇のものでも、戦
争捕虜とされる。イギリス臣民に属するあらゆる倉庫、いかなる性質のものであろうと、あらゆる商品は、正
当拿捕と宣せられる。……
8 虚偽の言明により、前述の主旨に違反する一切の船舶は拿捕され、船舶および積荷はイギリス財産として没
収される。……
( 『世界歴史事典』巻24 )
13
近 代Ⅱ
5
ウィーン体制の成立と崩壊
ウィーン体制の成立と歴史的役割
1 成立 保守反動の体制
フランス革命とナポレオン戦争への反動
ヨーロッパの人民大衆の自覚への抑圧体制
2 正統主義 タレーランの提唱(仏革命以前の秩序に回復せんとする原理)→各国の自由主義的諸運動に干
渉・抑圧(ブルシェンシャフト[普]
、デカブリストの乱[露]
、炭焼党の乱[伊]
)
3 ウィーン体制の支柱 神聖同盟、四(五)国同盟
ウィーン体制の破綻
1 中南米諸国の独立(スペイン、ポルトガルから)→23年モンロー宣言→ギリシアの独立→30年 七月革
命(チャールズ十世の専制政治に対する産業資本家・無産市民の蜂起)→ルイ・フィリップ2世(七月王政)
2 英国の自由主義的改革 28年 審査律の廃止→32年 選挙法改正→34年東インド会社の貿易独占権廃
止→46年 穀物法の廃止→49年 航海条例の廃止
3 ヨーロッパにおける資本主義の成長
仏−七月王政以降、独−33年のドイツ関税同盟以降
4 社会主義の形成 空想的社会主義から科学的社会主義へ
ウィーン体制の崩壊−48年 ヨーロッパの諸革命
1 フランス 二月革命 七月王政への不満、資本家・労働者の共同蜂起→王政崩壊
2 ドイツ 三月革命 普・墺、他の領邦国家で→メッテルニヒ、英国に亡命
「ブルジョアの世紀」開幕
1 フランス 革命後→共和派(資本家)
、社会主義者(労働者)の連立政権成立→国立工場→農民動揺→48年
6月 労働者蜂起し鎮圧される→第二共和制成立→ルイ・ナポレオン→五一年第二帝政成立
2 ドイツ 革命後→48年 フランクフルト国民議会→未熟な資本家階級 旧勢力と妥協→労働者の運動弾圧→
自由主義的な運動の退潮
14
近代Ⅱ
6
社会主義思想の誕生
社会主義思想形成の歴史的背景−ヨーロッパ諸国の資本主義経済の発展
フランス 1830年代(七月王政以降)
ドイツ 1840年代(ドイツ関税同盟成立以降、帝国成立以降本格化)
↓
労働者階級の成長→労資の対立激化→労働運動高まる→その経験の蓄積・運動の理論化→英国の労働運動
(1
799年労働者の集会・結社の禁止→1811年 ラッダイト運動→19年 「ピータールーの虐殺」→チャー
チスト運動「人民憲章」
)
空想的社会主義の形成
1 ロバート・オーエン−共産主義的共同体建設の試み(ニューラナーク、ニューハーモニー)
2 サン・シモン−分配の平等の実現
3 ルイ・ブラン−二月革命後、閣僚となり国立工場を建てる
4 上記社会主義者の共通点←→分配の平等重視、
(マルクスによる総括)
科学的な実現の方法が空想的
科学的社会主義(マルクスによる命名)
1 マルクス 初期にヘーゲル左派を学ぶ→労働運動に参加、
「ライン新聞」を主宰
2 エンゲルスはマルクスの親友
※両者とも史的唯物論に到達
3 1848年 『共産党宣言』を発表
勤労人民大衆こそ歴史(社会)発展の主体者と規定、労働者階級による社会主義革命を主張→他の運動理論
(無政府主義やサンジカリズム等と対決)→次第に影響力を増大→64年 第1インターナショナル(国際労働
者協会)を設立→『資本論』を発表(エンゲルスと共著)→89年 第2インターナショナル結成
4 マルクス主義政党の結成 75年 社会民主党成立(ドイツ)→各国でもマルクス主義政党の結成広がる
※マルクス主義の源泉
フランスの社会主義
ドイツの観念論的哲学(ヘーゲル哲学)
イギリスの古典派経済学(アダム・スミス、リカード)
近代10 人民憲章(1838年)
1 成年男子の普通選挙権の確立
2 無記名による秘密投票の実施
3 議員の財産上の資格制限の撤廃
4 議員の有給制の実施
5 平等選挙区の実施
6 議会の毎年選挙(毎年招集)
近代11 共産党宣言(1848年)
1 ブルジョアとプロレタリア
……今日ブルジョジーに対立しているすべての階級のなかで、ひとりプロレタリアートだけが、真に革命的な
階級である。
……プロレタリア運動は、
圧倒的な多数者の利益のための圧倒的な多数者の自主的な運動である。
……われわれは、現存社会の内部の多かれ少なかれかくされた内乱をあとづけ、ついにそれが公然たる革命と
なって爆発し、そしてプロレタリアートがブルジョアジーを強力的に転覆して、自己の支配権をうちたてると
ころまで到達した。……
2 プロレタリアと共産主義
15
……君らはわれわれが私的所有を廃止しようとのぞんでいるので仰天する。だが、諸君の現存する社会では、
私的所有は、その成員の十分の九にとっては廃止されているのだ。それが存在するのは、まさに十分の九の人々
にとって存在しないからである。……共産主義を特徴づけるものは、所有一般の廃止ではなく、ブルジョア的
所有の廃止である。けれども、近代のブルジョア的私的所有は、階級対立にもとづく、人による人の搾取にも
とづく生産と生産物の取得との、最後の、そしてもっとも完成された表現である。
この意味で共産主義者は、自分の理論を私的所有の廃止という一語に総括することができる。……
4 種々の反政府党にたいする共産主義者の立場
……共産主義者は、彼らの目的は、現存の社会組織を強力的に転覆することによってのみ達成できることを、
公然と宣言する。支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ!プロレタリアはこの革命によって鉄鎖
のほかにうしなうものはない。彼らの得るものは全世界である。万国の労働者よ団結せよ!
16
近代Ⅲ
7
西欧諸地域の資本主義的変革(その1)
アメリカ合衆国
1 独立戦争後のアメリカ
1812∼14年 米英戦争(第2次独立戦争)→結果経済的自立(工業発達)→23年第5代大統領モンロ一
宣言(不干渉、孤立主義、一方でラテン.アメリカ支 配の意図あり?)→領土拡大(03年ルイジアナ、1
9年フロリダ購入、48年カリフォルニアを武力で獲得)→フロンティア活動(48∼90年)→ジャクソニ
アン・デモクラシ一(貧民保護、資本家抑圧、二大政党政治の萌芽)
2 南北戦争(61∼65年)とその影響
・原因 南北の対立(奴隷制、貿易、国家機構[中央集権化、地方分権か]→ストー夫人の『アンクルトムズ
ケビン』→奴隷制非難の世論高まる
・経過 54年共和党結成→60年 リンカーン、大統領になる→61年 南部諸州、 アメリカ盟邦分離→戦
争勃発(62年 「奴隷解放宣言」
、63年 「ゲティスパークの演説」
)→65年終結
・影響 北部の勝利→集権化(国内市場形成)→資本主義順調に発達、産業革命進行、横断鉄道敷設(69 年)
3 その後の発展 フランスのメキシコ侵入を撃退→67年アラスカ買収
イギリス自由主義の発展
1 特徴
ブルジョアの時代、ヴィクトリア朝(1837∼1901年)
「ブリテンの平和」
[ブリテンパクス]
2 議会政治の発達(背景―産業資本家勢力、一層強まる)
政党の成長
・トーリー党(地主層) →保守党、ディズレーリ
・ホィッグ党(資本家層)→自由党、グラッドストーン
3 諸改革 67年第2回選挙法改正→68年 TUC結成→70年 教育法制定→71年 労働組合法制定
(←24年団結禁止法廃止[1899年制定]
) →84年 第3回選挙法改正(農村、その他の労働者にも選挙
権承認)
近代12 ゲティスバ一クの演説(1863年11月)
87年前、我々の父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、すべての人は平等につくられているという信条に献
げられた新しい国家をこの大陸に打ち建てました。
現在われわれは一大国内戦争のさなかにあり、これによりこの国家が永続できるか否かの試練を受けているわ
けであります。…………ここで戦った人々が、これまでかくも立派にすすめてきた未完の事業に、ここで身を
捧げるベきは、むしろ生きているわれわれ自身であります。われわれの前に残されている大事業に、ここで身
を捧げるベきはむしろわれわれ自身であります。………それは、これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽くし
て身命を捧げた、偉大な主義に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが一層の献身を決意するため、これ
ら戦死者の死をむだに終わらしめないように、われらがここで堅く決心をするため、またこの国家をして、神
のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民の政治を地上から絶滅させ
ないためであります。
(高木、斎藤訳『リンカーン演説集』岩波文庫)
17
近 代Ⅲ
7
西欧諸地域の資本主義的変革(その2 )
イタリア
マッチーニの青年イタリア党の活動→サルディニア王国の統一運動→59年 ヴィクトル・エマヌエル2世と
首相カブールの近代化策(産業奨励、修道院に課税、フランスと密約)→同年 イタリア統一戦争(トリノ)→
60年 統一実現→61年イタリア王国樹立→66年 ヴェニス併合(普墺戦争のすきに乗じて)→70年 教皇
領併合→トリエステ、ティロル未併合(回復されざるイタリア)→後に国際紛争の種になる
ドイツ
1 ドイツ資本主義発達→自由主義、国民主義成長→フランクフルト国民議会→プロシア王、革命派からの帝冠
を拒否したため、統一運動挫折
2 プロシア王による統一 61年 ウィリアム1世 ビスマルクを登用、鉄血演説、軍備拡張→普墺戦争(シュ
レスウィヒ、ホルスタイン争奪が原因)→プロシア勝利→北ドイツ連邦結成→70年 普仏戦争(ナポレオン3
世、セダンで降伏)→71年 パリ入城、ドイツ帝国成立(仏から50億フランの賠償金、アルサス、ロレーヌ
を奪う)
3 ドイツ帝国の機構 「外見上の立憲主義」
、連邦制
4 ドイツ帝国の支配階級 ユンカーと資本家
5 ドイツ統一後のビスマルクの内外政策
・文化闘争、
・ビスマルク関税、
・社会民主党の弾圧、
・社会制度創立、
・フランス孤立策(三国同盟、等)
フランス
普仏戦争の敗北→独軍のフランス占領→71年 パリ・コンミューン(世界史上初の社会主義権力)→仏軍と
独軍とにより鎮圧される→75年 第三共和制成立(憲法制定、議会の権力強く小党乱立、大統領の権限弱い、
政情不安定)
近代13 ビスマルクの鉄血演説(1862年9月30日)
(解説)ビスマルクがウィリアム1世から宰相に任ぜられたばかりの下院予算委員会で行った演説である。こ
れには彼の出身階級ユンカーの対自由主義観が知られて興味深い。
事態はきわめて深刻に考えられており、また新聞の報道もそのように見受けられますが、政府は好んで事を構
えようとする意図はありません。危機を名誉ある解決にもち込むことができますならば、政府は喜んで妥協の
手を差しのべるのであります。そもそもプロシアでは一人一人の個人の自主性が強いために立憲政治を行うの
を不可能としておりますが、フランスでは事情は全くべつでありまして、個人主義的な自主性などはございま
せん。憲法が危機にさらされているということは決して恥辱ではなく、むしろ名誉でさえあるのであります。
われわれは憲法を無理やりまもらねばならないかのようにしむけられていると考えるものであります。これに
対してわれわれは、じゅうぶんに批判の目を向けているのであります。世論は変わってきているのでありまし
て、新聞の報ずるところは世論と考えられません。世論がどのようになっておりますかはもはや周知の事実で
あります。革命に心を寄せる不逞の輩があまりにも多すぎるのであります。代議士の使命は、一般の声を指導
し、その上に立って行動することであると考えます。たとえ軍備がわれわれの貧弱な身体にとって大きすぎる
ものとなりましょうとも、それがわれわれに有益であるかぎり、われわれはそれを身につける情熱をもつもの
であり、またあえてそうすることを好むのであります。ドイツの着眼すべ点はプロシアの自由主義ではなくそ
の軍備にあります。プロシアはいままで何回か好機を失ってきたのでありますが、これにかんがみてプロシア
は今後の好機にそなえて力を結集しておかねばならないのであります。
プロシアの国境は健全な国家のそれにふさわしいものではありません。言論や多数決によって現下の大問題は
解決されないのであります。言論や多数決は1848年および1849年の欠陥でありました。鉄と血によっ
てこそ問題は解決されるのであります。 ( 『西洋史料集成』 平凡社 )
18
近代Ⅲ
7
西欧諸地域の資本主義的変革 (その3 )
ロシア
1 皇帝専制支配
ニコライ1世 専制主義を実施、自由主義を弾圧し、人権を抑圧。シベリア流刑は年1万人を越えたという。
対外的にも「東欧の憲兵」として他国の自由主義を抑圧
支配体制の特徴 人口の6∼7割(1500万人)が不自由な農奴(=土地とともに売買される、強い身分的
差別を受ける)
少数の地主(貴族)が農奴を支配、皇帝権を支える。
2 自由主義的改革と影響
25年 デカブリストの乱→失敗→53年 クリミヤ戦争でロシア惨敗
61年 農奴解放令 アレクサンダー2世 「上からの改革」
、結婚、営業、土地所有、訴訟の自由
63年 ポーランドで反乱→「アレクサンダーの反動」→ナロードニキの活動→弾圧される→ニヒリズムの風
潮
近代14 アレクサンダー2世の農奴解放令(1861年)
(解説)ロシアの農奴制は自由な賃金労働者の形成を妨げ、資本主義的発展を著しく制限していた。農奴自身
も解放を望んで反乱を起こした。その社会的欠陥を露呈させたのがクリミヤ戦争(1853∼56年)での敗
北であった。それに加えて農民の反乱も激化し専制支配体制が動揺し、何らかの改革が避けられない状態にな
った。下からの革命的エネルギーの伸長を恐れて行った改革の一つがこの農奴解放である。しかし、上からの
改革は、農奴が土地を所有するのに多額な買戻金や農村共同体の権限を強化する等、不十分極まりないものと
なった。各地に農民反乱や学生運動が起き、ナロードニキの運動が起きた。しかし、その運動は皇帝の弾圧や
そのもっている小市民的性格が故に挫折し、80年代のマルクス主義運動につながっていった。
朕が農民に自由を与えたがっているというような風評があるが、これは正しくない。……
しかし、不幸なことには、農民と地主とのあいだには、仇敵のような感情が存在している。こうして、すでに
地主に対する不服従といった事件までできているのである。遅かれ早かれ、そうした方向(農奴解放)に進ま
ねばならぬといのが朕の確信である。諸氏らもまた朕と意見を等しくするものと思う。かくなる上は、このこ
とが下からおこるよりは、上からおこった方がはるかによいのである。
」
(アレクサンダー2世の演説 田中陽児訳 『世界歴史事典』 巻25 平凡社 )
19
近代Ⅲ
8
パリ−コンミューン
背景
70∼71年 普仏戦争→独は仏を占領→祖国防衛のため労働者・急進的小市民奮闘→ティエール臨時政府成立
(労働者階級の伸長を恐れて国民軍への物資の提供停止)→さらに、国民軍の武装解除を図る→71年3月1
8日 労働者・急進的小市民が蜂起→権力を掌握
コンミューン政府
1 71年3月26日 普通選挙→議員82名選出(労働者25名、医師、ジャーナリスト、下級公務員、小商
工業者)
2 10委員会(執行、財務、軍事、司法、保安、食糧供給、労働、工業、交換、外務、公共事業、教育)を
設置し種々の改革を行う。
3 コンミューン政府の立法
常備軍の廃止、教会と国家の完全分離、経営者が放棄した工場の没収、等
パリ・コンミューンの崩壊
コンミューン政府内の意見対立(マルクス主義者はいなかった)→71年5月29日 仏政府軍と、仏政府(テ
ィエール)から要請された独軍、とにより残酷に鎮圧される
※パリ・コンミューンの歴史的意義
世界史上初の社会主義政権が成立
労働者、小市民が初めて支配階級となる
社会主義理論を発展させる
勤労人民が社会の主人公になれることをしめした。
近代15 パリ・コンミューンの成立宣言(1871年3月29日)
市民諸君、諸君のコンミューンは成立した。3月26日の投票は、勝利した革命を承認した。卑怯千万な侵
略的権力が諸君の喉をしめつけていた。−諸君は,諸君に一人の王を押しつけることによって諸君を侮辱しよ
うとしたあの政府を、正当防衛上、諸君の城壁から追い出したのだ。
諸君が追及しようとさえしなかった犯罪人どもは、いまや、諸君の寛大を悪用して図々しくも市の城門のま近
に、君主主義的陰謀の策源地を組織しようとしている。彼らは市民戦に訴えようとしている。彼らはあらゆる
買収運動をたくらんでいる。彼らはあらゆる共犯を受け入れている。彼らは外国の支持さえ哀願することを敢
えてしたのだ。
われわれはこうした憎むべき奸計を、フランスならびに世界の審判に訴えるものである。
市民諸君、諸君は、あらゆる企てに対抗して諸施設を手に入れたのだ。諸君は、諸君みずからの運命の支配者
である。諸君が確立した代表機関は、諸君の強力な支持によって、没落した権力のために惹起された災害を回
復するであろう−瀕死の工業、中絶した労働、麻痺した商取引は、力強い動力を与えられるであろう。
今日からは、期待された家賃に関する決定。
明日は支払猶予の決定。
あらゆる公務の復活および簡素化。
あれ以来、市の唯一の武装軍隊である国民軍の即時組織。
こういうのが、われわれの第一の行為となるであろう。
人民から選ばれた議員は、共和国の勝利を確保するために、ただただその心からの支持を与えることを人民に
要求するのみである。彼らについていえば、彼らはその義務を果たすであろう。
( 『西洋史料集成』 平凡社 )
20
近代Ⅲ
9
アジア・アフリカの従属化(その1)
A オスマン帝国の解体と東方問題
1 オスマン帝国の衰退
18世紀後半 オスマン帝国ロシアに敗北し黒海北岸失う→露・墺バルカン進出→ これに対抗して仏が干渉
→19世紀以降 自由主義・国民主義の影響で諸民族の独立運動高まる→列強、それを利用して介入
2 エジプト事件(1840年)
20年 ギリシア独立のとき、エジプトはトルコを援助し、代償として領土拡張、自由主義的改革を承認され
る(メヘメット・アリ)→31年 エジプト・トルコ戦争(露はトルコを助け、ダーダネルス海峡通行権を獲
得)→英仏不満→39年再び開戦
英=仏=土 vs エジプト→エジプトの敗北→ エジプト、領土要求放棄、ダーダネルス、ボスポラスの中立化、
露の南下政策失敗
クリミヤ戦争(53∼56年)
露、土国を攻撃(口実、キリスト教徒の保護)
英=仏=土 vs 露→露の敗北→黒海の中立化
露土戦争(77年)
77年 露土戦争(汎スラブ主義を利用、トルコ領内のキリスト教徒反乱を口実に)→78年サン・ステフ
ァノ条約(ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立、ブルガリア領土拡大し同国への露の影響力強化→7
8年ベルリン会議(ビスマルクの調停)
(ル、セ、モの独立承認とブルガリアの領土縮小、墺はボスニア、ヘル
ツェゴヴィナを保護下に置く)→反墺・独感情強まる→汎スラブ主義一層強まる「ヨーロッパの火薬庫」
21
近代Ⅲ
9
アジア・アフリカの従属化 (その2)
B インドの植民地化
1 ムガール朝の衰退
アウランゼーブ皇帝期(58∼1707年)イスラム教の強制→ヒンドゥー教徒、シーク教徒の反抗
2 植民地化の進行 1757年 プラッシーの戦い→イギリスのインド支配本格化→65年 アラハバード条約
(べンガル地方租税徴収権獲得→ベンガルの東インド会社領化、領土的支配開始)→マラータ戦争(75∼
82年、1803∼05年、17∼19年)でマラータ同盟征服→綿花、アヘン栽培→イギリスの産業革命
→イギリスの機械製綿布流入[インドの木綿工業破壊]及び「近代化策」→飢饉・重税→インド人の生活破
壊
インドの反植民地運動とインド帝国の成立
1 1857∼8年 セポイの乱
セポイ−土民軍、インド及び周辺地域の先兵、反乱の背景−英の植民地支配、イランの反乱鎮圧のためイン
ド支配が手薄なっていた、反乱の契機−宗教的動機、結果−残酷に鎮圧される(←宗教的、種族的、カース
トの違いが団結を妨げる)
2 1858年 東インド会社解散→ムガール皇帝を廃止、イギリスの直営地化
3 鉄道敷設、道路整備、教育制度の「近代化」→イギリスへの従属化強まる
4 77年 インド帝国成立−ヴィクトリア女王、インド皇帝を兼ねる→完全植民地化
C アフニガスタン、イラン、ビルマ
1 アフガニスタン−アフガン人(イラン、トルコ人の混血人)
アフガン戦争(34∼42年、78∼81年)→イギリスに従属
2 イラン
56年11月 英印軍侵入(ペルシア湾沿岸に権益を求めて)→57年 抵抗の米英と講和条約(イランよう
やく独立維持)
近代16 セポイの反乱(1857年5月10日)
(解説)1856年、英はペルシア湾の特殊権益を得ようとしてセポイとともにイランに侵入した。翌57年
3月、英印軍はイランと講和を結び、白人兵がデリーにいないときにセポイは乱を起こした。乱は英の残酷な
弾圧の下で鎮圧されたが、その反英的な性格はその後のインドの反英闘争の起点となり、インドの近代史が開
幕した。
「5月10日 日曜日の日はくれかかった。
第20連隊が蜂起の準備を完了したとき、
教会の鐘がなりはじめた。
ミールートの町には、何千という民衆がふるぼけたこわれた武器をもってあつまりはじめた。ミールートの市
民ばかりでない。付近の村々からも民衆があつまった。5時、
「マロー、フィリンギ!」
(異人を殺せ!)の声
がとどろいた。
まず数百の騎兵が監獄にかけつけて、その仲間を解放した。……イギリス人は手あたりしだいに殺された。剣、
槍、棒、ナイフ、その他あらゆるものがこれに動員された。イギリスの支配に関係あるすべての建物が焼かれ
た。焼けない家はうちたおされた。血を見、炎を見るとともに、復讐の炎はますますもえさかった。デリーへ
の電信線は切断され、鉄道線はかたく防衛されたから……孤立したミールートのイギリス人は、一晩中「マロ
ー、フィリンギ!」の声に逃げまどった。……デリーの新政府は、まず全インドにむかって、イギリスの支配
がおわり、全民族が解放されたことを宣言した。この布告はインドの南端にまで達した。各地でそれを写し、
あるいは一部をぬき出して、ビラにして呼びかけとして使った。つづいてデリーの革命軍は、武器弾薬の製造
にとりかかった。
砲弾、小銃弾、大砲、小銃、火薬などをつくる工場が作業をはじめた。また、イスラム教徒とヒンドゥー教徒
との結合を強める政策からして、ヒンドゥー教徒が神聖とする牛を殺すことが厳禁された。イスラム教徒がい
う聖戦とは、イギリスだけに対する聖戦であることが強調された。
」
( V.D.サヴァルカール 鈴木正四訳 『セポイの乱』ノンフィクション全集7 筑摩書房)
22
近代17 インドにおける鉄道建設(1860年∼)
(解説)セポイの反乱後、1860年代のインドで鉄道建設が急速に進んだ。1902年に全長2万6000
マイルに達している。1957年の日本のそれが1万2600マイルだというから建設の速さの激しさをうか
がい知ることができる。鉄道建設は異常なまでに進んだが、現在に至るまでインドでは機械制工業の発展は遅
れている。この不均衡はどこからきたものだろうか、その答えが次のとおりである。
A 鉄道建設の意図
政治的・軍事的必要性
・対露策、治安対策→人口のないところに鉄道が敷設されている。
商業的開発
・輸出産業の開発、英工業製品の市場→綿花、小麦、茶、ジュート、アヘン
投資による利潤追求
・インド政府(帝国)により投資資金の元利保証、広軌より幅広の鉄道を建設、広軌の 3∼10倍の資金が必
要→利潤が大きい
B 鉄道建設の影響
ボンベイの木綿工業に大打撃→インド人資本家の中に反英的風潮、ナショナリズムの高揚
インド財政逼迫→増税
農村の破壊 自給自足の経済崩壊、貨幣経済に依存→寄生的階級の成立、農民大衆の疲弊(隷属的小作人、農
業労働者化)
英国内に帝国主義支持勢力が形成される
( 松井 透 「イギリス帝国主義とインド社会」
『岩波講座 世界歴史』巻22 )
23
近代Ⅲ
9
アジア・アフリカの従属化(その3)
3 ビルマ
ビルマ戦争(24∼26年、52年、85∼86年)→ビルマ人激しく抵抗
C 東南アジア諸地域
1 オランダ領東インドの成立
1602年 東インド会社成立→19年 バタビアに総督府設立→ジャワ、バタビアを根拠地にして拡大→2
3年 アンボイナ事件以降この地のオランダ優位確立→1825∼31年 ジャワ戦争(ディポネゴロ抵抗)→
30年代以降 植民地支配強化 ファン・デン・ボス「強制栽培」−コーヒー、藍、甘薯、煙草栽培を強制[モ
ノカルテュア]→88年 バンテンの反乱[→鎮圧、民族主義の芽生え]→20世紀初めまでに、オランダ領東
インド成立[ニューギニア西部、バリ、スマトラ、セレベス、ボルネオ]
2 フランス領インドシナ連邦の成立
・インドシナ半島の情勢(阮朝越南国成立期、阮福映、フランスの力を借りる)→フランスの半島進出強まる
・プラッシーの戦い以後半島へのフランスの進出積極化→59∼62年 仏越戦争(→サイゴン条約、コーチシ
ナ東部を奪う→63年 カンボジアを保護領化とトンキン支配)→84∼85年 清仏戦争(→85年 天津条
約)
、ベトナム人抵抗、フランス残酷に鎮圧→フランス領インドシナ連邦の成立
3 ロシアの東方進出
・16世紀後半 イエルマークがウラルを越えシベリアに進出
・1727年 キャフタ条約(蒙古とシベリアの国境確定)
・18世紀初頭 アラスカ、カムチャツカ、ベーリング
・中央アジア進出 19世紀中頃、ボハラ、ヒヴァ、コーカンド等、3ハン国を征服
近代18 ビルマ人の抵抗(1885年6月)
……イギリスはほとんど同時に各地で反乱に迎えられることになった。
「平野部では一人の戦士を出さない家は
ない」といわれるほどの広がりを見せたこの反乱を一応鎮定するまでには、
「非協力」村の焼払い、笞刑その他
の弾圧手段をとり、さらにインド軍事警察4万人余を投入してもなお、数年の歳月を要している。このゲリラ
による抵抗は……当初のイギリスの予想をはるかに上まわる広がりと根づよさを示した。
( 竹村正子 「帝国主義と東南アジア」
『岩波講座 世界歴史』巻22 )
近代19 天津条約締結時のヴェトナム人の抵抗(1885年)
「そのころの朝廷にはすでに「人物」がなく「首都が滅んだとき……詔に応じて国家に命を捧げたのは、地
方に派遣されていた官人たちではなくて、民間の人たちであった。何の権力も身分を持たぬ人たちが、ひとた
び義憤を発すれば、死ぬことを何とも思わなかったのである。
」トンキン、アンナンでは「いたるところ人々は
竿をたてて軍旗とし、木を切って武器に代え」
、長いものは20年にわたってフランスと闘った。そうして多く
の人たちがフランス側に捕らえられ、協力を拒み、あるいは協力を装いながら密かに抵抗を組織したことが発
覚し、また「憤激のきわみ、自らフランス人に殺されることを求め」死んでいった「世に現われはしたものの
真価を発揮できず」去っていったこれら「英雄偉傑たち」をいたみ、ファン・ボイ・チャウは痛憤の言葉をつ
らねている。
」
( 竹村正子 「帝国主義と東南アジア」
『岩波講座 世界歴史』巻22 )
24
近代Ⅲ
9
アジア・アフリカの従属化(その4 )
・イランのサファヴィー朝(1723年)→カジャール朝(トルコマンの国)←→1828年 露はキャフタ条
約で治外法権獲得
・露と清 1689年 ネルチンスク条約→1858年 愛琿条約→60年 北京条約(沿海州を獲得)→露の東
アジア進出に英米警戒→対露勢力としての日本に期待強まる
D 中国の動揺
1 中国封建社会の動揺−原因
・資本主義経済の萌芽と、それを阻害する支配体制との矛盾→貨幣経済の発達(18世紀末 広東に綿布マニュ
ファクテュア発展、5万人が従事)←→社会発展阻害要因(分割統治、公行等一部商人の市場支配)
・農民の階層分化(←貨幣経済)→地主・官僚(郷紳)と小作人・流民→不満爆発
・列強の圧迫 イギリスのアヘン貿易の開始→銀の流出、重税、頽廃
2 アヘン戦争とその影響
林則徐アヘン輸入禁止、没収、焼却→イギリス、公行の貿易独占権を非難→アヘン戦争勃発(40∼42年)
→清惨敗→42年 南京条約( 広東、厦門、福州、寧波、上海の開港、賠償金千8百万ドル、 関税自主権
失う、 公行の貿易独占権廃止)→社会的影響(中国の手工業破壊、民衆の貧困、商人の買弁化→農民暴動、
41∼49年の間に100回起きる)→44年 フランスがイギリスと同じように「黄埔条約」
、アメリカは
「望厦条約」を結ぶ
3 太平天国の乱(51∼64年)
・江西省を中心にして勃発 指導者−洪秀全、組織−上帝会
・要求−「滅滿興漢」
「悪習撤廃」
「男女平等」
「土地均分」
(天朝田畝制)
・経過−勃発当時小規模→次第に増加、53年 南京を占領し都とする、太平軍約100万人に発展→清軍敗北
→漢人官僚(曾国藩−湘軍、李鴻章−准軍)→イギリス人ゴードン→太平軍後退(内部対立、頽廃)→列強
の武力攻撃(56年 アロー号事件[英、仏、露]
)→60年北京条約(貿易の自由、公使の北京滞在)→開
港場の増加、 キリスト教布教の自由承認、 九竜半島のイギリスへの割譲(露は沿海州を獲得)
近代20 インド政府のアヘン収入と中国流入アヘン量
年次
インド政府のアヘン収入(万ルピー)
指 数
流入アヘン量(箱)
1800∼71
430
52.8
3,562
05∼09
600
73.5
4,281
10∼14
802
98.4
4,713
15∼19
816
100.0
4,420
20∼24
1568
192.1
7,889
25∼29
1995
244.3
12,576
30∼34
1446
177.2
20,331
35∼39
1804
221.0
35,445
( 田中正俊 「資本主義とアジア社会」
『岩波講座 世界歴史』巻21 )
近代22 南京条約(1842年)
第2条 清国皇帝陛下はイギリス国民をしてその家族を携えて、広東、厦門、福州、寧波、上海の市町に居住し、
障礙なく通商貿易に従事するをえせしむ。
第3条 (香港の英への割譲)
第4条 (賠償金として洋銀600万ドル支払い)
第5条 (公行の独占権廃止)
第6条 (英の遠征軍派遣の費用の賠償金として洋銀1200万ドルの支払い)
第10条 (関税自主権を英に譲渡)清国皇帝陛下はこの条約第2条により、イギリス商人の往来のために開か
るべき各港において、公平正確の輸出入関税その他の税率を議定し、……今後定められる税率に準じて、一度
正確なる関税を払いたる英国商品は、清国商人によりて清国内いずれの市府、いずれの省にも運搬せらるるこ
とを得……
25
近代Ⅲ
9
アジア・アフリカの従属化(その5)
4 清朝の国内改革(洋務運動)
漢人官僚を重用→洋務運動−西欧化を目指す、技術面に限定し社会改革には至らない(機械制工業の輸入→洋
務企業(軍需工業中心)
、近代装備の軍隊創設、封建的地主に呼びかけ)→結果(軍閥形成、列強への依存強め
る、人民抑圧体制の再編成、民衆の疲弊一層深まる、清帝国の解体進行(イリ条約)
日本の勃興(明治維新)
1 明治維新当時の国際情勢(アジア諸民族の抵抗)
57年 イランの民族反乱−57年∼58年 セポイの乱、
51∼64年 太平天国の乱→客観的に列強に対す
るアジア諸民族の共同闘争となっていた(アジア諸民族は決して柔順に屈しないという教訓を得ていた)→
列強の対日政策の特徴(アジア諸民族の共同行動にくさび、列強と強調し得る安定した国家の樹立(→革命
ではなく改良による近代的政権の樹立)→尊王派と提携(維新成功の一因)
2 明治維新の原因
植民地化の危機−54年 日米和親条約、58年 日米通商修好条約(関税自主権なし、治外法権、租界地)
、
63年 薩英戦争、64年 英仏米蘭が下関を攻撃、封建社会の矛盾[百姓一揆、打ちこわし−66年激化]
)
→幕藩体制崩壊に瀕す
3 明治維新の勃発(1886年)
中央集権化策−天皇中心(67年 大政奉還、68年 戌辰戦争→幕府廃止、71年 廃藩置県、72年 学制
発布)71年 身分制の廃止(皇族、華族、士族、平民)−職業の自由、通婚承認
軍隊の創設−72年 徴兵制
資本主義に育成−上からの産業革命、官営工場等設立→後に払い下げ
近代23 セポイと太平軍との共同闘争
……イギリス政府が、公式に太平天国に対する闘争を宣言し、中国遠征軍の増援のために、セポイがさらに多
数かり出され……上海付近で戦闘に従事することになった。……しかるに中国の戦場では彼らの間からも、前
と同様、
「奇態」な事例が、いくつか発生した。1863年2月19日の浙江省紹興府の戦闘は、攻撃側の常捷
軍(フランスがイギリスの常勝軍をまねて、浙江で組織した中外人の混成部隊)の指揮者、ダルディ・ドゥ・
モワドレらが戦死するほどの激戦であったが、5、60名の「黒洋人」が太平軍と共同して紹興防衛に奮戦し
たといわれる。また同年5月2日の江蘇省太倉県の会戦では、もとボンベイ土民軍に属していた3人のセポイ
が、太平軍に加担して戦死している。
さらに、同年10月7日の浙江省の杭州と余杭との中間地帯で清朝側と常勝軍とが連合して、
「匪賊」をせんめ
つしたが、その屍体のなかにも、
「黒夷」が1名まじっていた。
( 野原四郎 「極東をめぐる国際情勢」
『岩波講座 日本歴史』近代4 )
近代24 初代駐日総領事オールコックの言葉
アジア人の血をもっているいかなる国民あるいは民族も、頑固な決然たる抵抗をしないで、ヨーロッパ人の
優越した力に屈服したことはいまだかつてない。
( 野原四郎 「極東をめぐる国際情勢」
『岩波講座 日本歴史』近代4 )
26
近代Ⅳ
9
アジア・アフリカの従属化(その6)
4 自由民権運動(日本史上初の民主主義的革命的運動)
◎背景:73∼88年 地租改正−土地所有権の承認、地租の金納化、意図−資本の原始的蓄積→結果(財政確
立、地主制成立→農民疲弊)
◎経過:74年 「民撰議院設立建白書」→没落士族・地主が中心→次第に中小資本家・知識人・農民も参加→
80年 国会開設期成同盟→82年 自由党結成→農民層にも国民主権論・人権論拡がる→89年 大日本帝国
憲法制定(天皇制的絶対主義成立[議会無力、人権は天皇・法律よって制限される]
)→90年 教育勅語→
1900年 治安警察法→自由民権の退潮
5 日本の海外侵略(国権回復と条約改正)
◎1870年代の東アジア−60年の北京条約以降、英(米仏)と露の対立
◎日本の基本的対外策−対欧米追随・アジア諸国の抑圧−(沖縄処分、小笠原→74年 台湾出兵(←旧士族の
宥和、資源獲得)
(米公使デ・ロングの支援)
◎朝鮮侵略 71年 日清友好条規
(清と対等であることを誇示し朝鮮の上に立とうとした→75年 江華島事件
(武力による開国)
(英公使ウェードの支援−対露牽制策)
(→76年 江華島条約=不平等条約)→影響(金、
食糧略奪→反日・親露感情気運強まる→ロシア 91年にシベリア鉄道敷設→日(英)露対立強まる
◎条約改正−英米仏の援助 94年7月16日 改正条約調印
◎日清戦争(94年8月∼95年)
(反戦運動なし)
(→95年 下関条約)→影響(三国干渉、閔妃殺害事件→
反日感情激化、台湾支配強化、中国本部分割競争開始、日本軍国主義強化、金本位制確立)
◎日露協商(日−朝鮮、露−満州)
(←朝鮮人民の反露闘争)→列強同士の対立激化
近代25 日本の海外侵略
A 台湾鎮圧と台湾の反抗
台湾領有以来、激しい台湾島民の抵抗を日本は受けた。また日本の島民の殺戮は激しいものであった。
1897∼1901年の5年間 捕縛 8,030余人、殺戮 3,473人、1902年だけでも裁判を受けて
死刑 539人、裁判なしで殺戮 4,043人
B 朝鮮収奪
1 食糧(米、大豆、牛皮)
・方法 青田買い
米穀に限らず、その他大豆、人参等の買集めにしても、日本国人の慣用したる手段は、その収穫以前に、後日
収穫の全部又は一部を引渡すべき契約の下に前資金を為す方法
1889年食糧危機→朝鮮、防穀令で食糧輸出禁止→日本政府圧力をかけそれを撤回させる→さらに損害賠償
金を要求し、これを収奪
2 金地金
1893年 日本産金量 19万6372匁
輸入金量 17万3997匁(そのうち99.25%が朝鮮から)
・方法
直接朝鮮の採金業者や窮迫農民(金採取事業は薄利で、本業とするものが少なく、農業が凶作で生活に困っ
てくると、やむなく農民がそれに従事した)から買い取ったり、また借款の抵当として金鉱の開発権をとった
りした。
( 中塚 明 「日清戦争」
『岩波講座 日本歴史』近代4、及び姜 在彦 「甲午農民戦争」
『岩波講座 世界歴史』
近代9 )
27
第一次世界大戦前の先進資本主義国−帝国主義の確立(その1)
近代Ⅴ
10
帝国主義の特徴
1 帝国主義成立の歴史的背景−支配体制の動揺(勤労人民の成長、植民地人民の成長、列強同士の対立→相互
に牽制)
2 帝国主義の定義−「資本主義の最高発達段階」
「先進資本主義国の対外的侵略傾向」
3 帝国主義の経済的特徴(独占体の発達、金融寡頭支配、資本の輸出、独占資本による世界の分割、列強によ
る世界の分割の完了及び再分割のための戦争が不可避
4 帝国主義国の3大矛盾−独占体(政府)と勤労人民大衆、独占体(政府)と植民地人民大衆、帝国主義同士
の対立
5 帝国主義の政治の動向−政治的反動と軍国主義的傾向が強まる
英国の帝国主義
1 他国の世界分割に対抗して帝国主義体制に移行(英帝国会議−ジョゼフ・チェンバレン)
2 アイルランド問題 クロムウエル以来カトリック教徒差別される。
→独立運動高まる→14年 アイルランド
自治法(不完全)
3 労働運動発展 1868年 TUC→1906年 労働党結成
4 1911年 議会法(下院の優越確立)
フランスの帝国主義
1 金融寡頭支配(3大銀行)→80年代より帝国主義的進出
2 政治的反動・軍国主義的傾向 ブーランジズム(ブーランジェを中心とした軍部、帝政派、国王派等反動勢
力の運動)→ドレフュス事件(でっちあげ事件、共和派への攻撃)→反動派敗北→影響(急進派内閣−共和
政治強化、労働者保護)
3 社会党成立
近代26 欧米列強における独占の発達
A ドイツ
1 大経営(50人以上の労働者)の占める割合。
[ ]は1000人以上
327万の経営数のうち31万(80.9%)
[586]
1440万の労働者のうち570万(39.4%)
[130万]
[10%]
蒸気機関880万馬力のうち660万(77.2%)
(数字は『ドイツ帝国年鑑』
)
2 1908年 ゲルゼンキルヘン鉱業会社、486千人の労働者
3 ライン・ヴェストファーレン石炭シンジケート
1894年設立 その地方の全石炭生産高の86.7%
1910年 〃 95.4%
B アメリカ
1 百万ドル以上生産する巨大企業の占める割合。
企業数 22万のうち1900(0.9%) 1904年
27万のうち3060(1.1%) 1909年
労働者 550万のうち140万(25.6%) 1904年
660万のうち200万(30.6%) 1909年
生産高 148億のうち58億(38.0%) 1904年
207億のうち90億(43.8%) 1909年
(数字は『合衆国統計覧資』
)
2 鉄鋼トラスト(ユナイテッド・スティール・コーポレーション)
210,180人の労働者
( レーニン「資本主義の最高の段階としての帝国主義」
『レーニン三巻選集』大月書店)
28
近代Ⅴ
10
第一次世界大戦前の先進資本主義国−帝国主義の確立2
ドイツ
1 遅れて資本主義化したドイツは早くから帝国主義(独占)段階に移行→6大金融資本→労使対立激化→ドイ
ツ社会民主党成立
2 ウィリアム2世の登場(88∼1918年) 背景−露、米の農業生産増加→ユンカーの反露感情→「世界
政策」開始(世界再分割、侵略策)
3 ビスマルクの「平和政策」の放棄
4 社会主義運動に右派的潮流−ベルンシュタインの修正主義(←政府の圧力に呼応)→社会主義革命を否定
ロシア
1 農奴制強く残存(地主的大土地所有制、ツアーリ専制の基盤)→農民、無権利と極度の貧困
2 独占の発達
3 1898年 社会民主労働党→1903年 ボルシェヴィキ(プロレタリア革命路線と)メンシェヴィキ(ブ
ルジョア指導の革命路線)とに分裂
4 第1次ロシア革命(1905年「血の日曜日事件」
)
背景−日露戦争による人民の窮乏化、要求−8時間労働制→次第に専制打倒、議会開設等の要求に発展、ソビ
エト結成→退潮(議会開設[無力]
、ストリピンの反動[仏資本の援助]
アメリカ合衆国
1 労働運動 1886年 AFLの結成、
「革新主義」−反トラスト法
2 独占の発達(モルガン、ロックフェラー等)
3 対外侵略 ヘイズ時代−汎米主義(
「中南米における合衆国の利益は至高」
、マッキンレー時代−98年 米
西戦争→キューバ、ハワイ、フィリピン[アギナルドの抵抗]
、プエルトリコ、グァム、S・ルーズヴェル
ト−「棍棒政策」
、パナマの強奪)
近代26 19世紀後半のアメリカにおける独占支配の実態
(解説)南北戦争後のアメリカでは本格的に産業革命が展開した。豊富な地下資源と旧大陸からの莫大な数の
移民の労働力を利用しつつ急激に総生産額をのばし、1860年に約19億ドルであったそれは、その後10
年間に2倍、20年間に3倍、そして1890年代までに5倍(93億7200万ドル)に達した。1880
年代には工業生産額を世界第1位にまで発達させた。
しかし、それとともに、フロンティアの消滅、生産の集中が進み独占体がアメリカの経済を支配するようにな
った。その実態をポピュリスト(独占に反対し政治の革新を説いた一派)の一人ヘンリー・ロイドに述べても
らおう。
「少数の人々がマッチから機関車、電気に至るまで近代生活および産業の知っている限りのあらゆる形の火を
公衆に供給することを自分たち以外のものに禁ずる力を得つつある。彼らはわれわれの無煙炭・瀝青炭の大部
分、ストーブ、炉、スティーム、湯沸かしヒーター、スティーム・ボイラーおよびボイラーの調整器、ガスお
よびガス設備、天然ガス、ガス管、電灯およびいっさいの附属品を統制している。電気からガスに、町のガス
から天然ガスに切りかえても、
その統制から逃れることはできない。
石油からローソクに一足とびにとんでも、
なお、禁制はとけないないのである。
」
(ヘンリー・ロイド『社会にそむく富』
、清水知久「アメリカ帝国主義の形成」
『岩波講座 世界歴史』近代9 )
29
近代Ⅴ
11 帝国主義による世界の分割(その1)
世界の分割(1900年世界分割完了→以降世界再分割の時代)
植民地の役割の変化−労働力供給源(←資本の輸出)
A アフリカの分割
1689年 スエズ運河開通→列強のアジア侵略開始
84∼85年 ベルリン列国会議(アフリカ分割を協議)→分割本格化
イギリス
75年 スエズ運河会社の株買収→82年 ムハメッド・アラビ率いる反英暴動→エジプト、イギリスの保護
国化→さらにスーダンに進出、失敗
89年 南阿(ボーア)戦争 ボーア人の抵抗を破りケープ、カイロ、カルカッタを併合→3C政策(アフリ
カ縦断政策を含む)
フランス
30年 アルジェリア征服→大陸横断政策→98年 ファショダ事件→1904年 英仏協商、
両国勢力範囲確定
(モロッコ、エジプト)
3 ドイツ 東アフリカ
4 イタリア エチオピア攻撃→失敗
5 ベルギー コンゴー−残酷極まりない
6 ポルトガル ポルトガル領コンゴー
近代27 帝国主義のアフリカ支配の実態(土地収奪)
A 南アフリカ連邦では、土地の89%がアフリカ人から取りあげられた。つまり、ヨーロッパ人にリザーブ
された。南ローデシアでは、この比率は49%、スワジランドでも同率であった。他の領土ではこのパーセン
テイジはこれよりも低いが−ベルギー領コンゴでは9%、ケニアでは7%、ニヤサランド、ガーナ、南西アフ
リカでは5%、北ローデシアでは3%−それでも、これらのパーセンテイジは、ヨーロッパ人一人当り土地面
積がアフリカ人一人当りのそれよりもはるかに大きいことをしめしている。
だが、さらに重大なことは、アフリカ人に残された土地は最も劣悪な土地なのに、ヨーロッパ人がとりあげた
土地は最良な土地だったということである。ヒンデン(Hinden)は、国土の広大さにもかかわらず「アフリカ
人にとっては、土地はきわめて希少な、貴重な商品となった」と指摘している。ヒンデン女史は、単なる面積
の数字だけでは、こういう説は確認できないかもしれないとして、
「生の統計はほとんど無意味である」
、なぜ
なら、アフリカ人は「貧弱な土地」
、つまり潅漑の便の劣悪な土地におしこめられており、その結果、水利の便
のあるわずかばかりの土地に密集せざるをえなくなっているからだ、と強調している。その上、ツエツエ蝿が
広範に分布していて、そのため国土の8分の5の地域では家畜の飼育はまったく不可能であるばかりでなく、
人間自体さえ致命的な眠り病に感染する。
」ヒンデン女史によれば、これらのひどいハンディキャップこそ、農
業経営の成功を「破砕する災厄そのもので」であった。同様なことは、アフリカの他の地域についてもいいう
る。
アフリカ人たちは土地を奪われているばかりでなく、
最良の土地をヨーロッパ人にとられてしまっている。
だから、彼等は最悪の薮地、水のない土地、半砂漠、マラリアのはびこる土地、疫病だらけの沼沢地などにと
じこめられていることが多い。このような土地は莫大な資本を具備し、近代的な機械器具や技術をふんだんに
使っても、これを快適な肥沃な土地に変えるには、ひじょうな努力を必要とするような土地である。
B ケニヤにおける大々的な土地収奪は20世紀の初頭、つまり帝国主義時代の黎明期に始まった。1901
年には、ヨーロッパ人の入植者はわずか13人しかいなかった−だが、すでに1904年末までには、彼等は
約22万エーカーの土地を手中におさめてしまった。収奪はきわめて急速に進んだ。シンジケート、投機師、
貴族−これらすべての連中が分け前をぶんどった。たとえば、東アフリカ・シンジケートは32万エーカー、
東アフリカ・アップランヅ・シンジケートは35万エーカー、グローガン森林コンセッションは20万エーカ
ーをそれぞれ手に入れた。後年白人入植者の指導者になったデラメア卿は10万エーカーを物にした。こうし
て1905年から1914年のあいだに、約440万エーカーがケニヤのアフリカ人からとりあげられた。こ
30
のようにして土地収奪はつづき、ノーマン・レイズ博士によれば、ついには「ケニヤの土地のうち農耕に値す
る土地の約半分までがヨーロッパ人の手に入る」に至った。
C ……アフリカの大部分でおこなわれた大規模な土地とりあげの理由はつぎのような二重のものである。…
…第一は、アフリカ人農民がヨーロッパ人農業者あるいはプランテーション所有者の競争者になることを阻止
すること、第二は、アフリカ人農民をうんと貧困化させてその結果アフリカ人成年男子の大多数が鉱山や農場
でヨーロッパ人のために労働せざるをえぬようにさせること、である。したがって、ヨーロッパ人を富ませる
ことだけでなく、アフリカ人を周到に貧困化することが政府の政策の土台になったのである。
( ジャック・ウォディス 岡倉古志郎監修 アジア・アフリカ研究所訳 『アフリカ −叛乱の根源』 法政大学
出版局 )
31
近代Ⅴ
11
B 太平洋諸地域の分割
帝国主義列強による世界の分割(その2)
イギリス
マラッカ,シンガポール,オーストラリア連邦(1901),ニュージーランド,ボルネオ,ニ
ューギニア
アメリカ
98年米西戦争→フィリピン,グァム,プエルトリコ,ハワイ
ドイツ
ビスマルク群島,マーシャル,カロリン,マリアナ、パラオ等
C 東アジア(中国、朝鮮)
91年シベリア鉄道→英露対立 英と日、相互に利用せんとす
1 84∼5年清仏戦争→この後,列強の中国進出,鉄道,鉱山などの利権獲得や銀行等金融,財政経済等
からの中国支配に変化
2 94年日英改正条約調印→日清戦争(→下関条約〔賠償金,台湾の割譲〕→三国干渉)→列強の中国侵略
本格化(英米仏露独,米「門戸開放,均会均等,領土保全」)
日露戦争―世界最初の帝国主義戦争
1 義和団事変(99∼1901)(←変法自強運動の失敗,上からの改良主義的運動一西太后一派の超保守
派(商人貴族)の巻き返し)→事変勃発(扶清滅洋,清朝援助→連合軍〔米英吏仏露日蘭独伊〕により鎮圧
→北京議定書[外国軍北京駐在権承認]→中国の半植民地化決定的に
2 露の満州占領,朝鮮進出→1902日英同盟
3 1904∼5年 日露戦争
米=英=独=日 vs 露⑳=仏=独→ポーツマス条約(米の調停)(日本―満州権益,朝鮮での優越権獲得)→
1910朝鮮併合
近代28.日本帝国主義の朝鮮支配(土地調査事業)
「1911年以降7カ年の歳月と200万の巨費を投じて実施したこの事業は、その私有確認の方法として一
定期間に所有地の申告をすることを義務づけた。しかも一方では、もし申告すれば多額の税金をかけられると
いう流言と難解な法令などに陥穽が設けられていた。……無識な農民が遅滞なく完全に申告しうるなどとは、
思う方が不思議である。農民の多くは自己の耕作権を信じて疑わなかったし、多額の税金というデマは農民の
申告を逡巡させた。一定の申告期間をすぎたのち……880万町歩が国有地に編入され、朝鮮総督府が最大の
地主となったのは当然の帰結であった。捻出された国有地は、半官半民の土地会社である東洋拓殖会社はじめ
日本人土地企業体に払い下げられた……例えば1910年の東洋拓殖の所有地が1万1035町歩であったの
に、1919年には7倍の7万8522町歩になっている……。……この他不二産業、東山農場、朝鮮興業な
ど財閥経営の一万町歩以上の巨大地主……、これら総合した土地集中の趨勢は、耕地面積の50%以上が全農
家の3%にすぎない地主に集中する……。
しかし、所有権の確立、身分の自由など紙上の保障とは逆に、土地所有の独占的集中の進展は朝鮮人中小農
32
民からの土地収奪と封建的小作関係の拡大を意味した。……その結果、土地を失った農民は地主に高率小作料
を収奪される農奴的存在に転落した。」
(妻徳相「日本の朝鮮支配と三・一独立運動」『岩波講座世界歴史』)巻25、現代2)
近代29 19C 末∼20C 初の列強の植民地領土
植 民 地
本 国
合 計
1876年
1914年
1914年
1914年
面 積
人 口
面 積
人 口
面 積
人 口
面 積
人 口
イギリス
251.9
33.5
393.5
0.3
46.5
33.8
440.0
22.5
ロシア
15.9
17.4
33.2
5.4
136.2
22.8
169.4
17.0
フランス
6.0
10.6
55.5
0.5
39.6
11.1
95.1
0.9
ドイツ
12.3
0.5
64.9
3.4
77.2
2.9
合衆国
9.7
9.4
97.0
9.7
106.1
0.3
日本
19.2
0.4
53.0
0.7
72.2
0.3
6大強国計
523.4
16.5
437.2
81.5
960.6
65.0
その他の強国(ベルギー、オランダ等)の植民地
9.9
45.3
半植民地(ペルシア、中国、トルコ)
14.5
361.2
その他の諸国
28.0
289.9
全世界
133.9
1657.0
(レーニン「資本主義の最高の段階としての帝国主義」
『レーニン三巻選集』大月書店)
33
近代Ⅴ
12
アジア・アフリカのめざめ
A 辛亥革命(中華民国の成立)
1 背景 革命勢力の増大−民族資本の成長、反封建的・反清的性格強める
2 辛亥革命の展開 孫文の中国革命同盟会結成→三民主義(民族、民権、民生)→清朝懐柔策を行うも失敗→
3 革命勃発 契機−11年 鉄道国有化問題→10月10日 武昌の清朝軍隊蜂起→12年 中華民国の成立
(革
命派、臨時約法制定[共和制採用、臨時総統孫文就任]→革命派未熟、清朝武将袁世凱と密約 袁世凱 臨時
大総統に就任 封建地主、軍閥中心)→13年 第二革命 15年 第3革命→ 袁これを鎭定して実権をにぎる
→以下 軍閥抗争の状態(半封建的買弁的支配=土地改革等行われず)←列強の介入
B インドの民族運動
反英勢力の伸長(民族資本家、知識人、官吏の一部)→85年 全インド国民会議(民族平等、自治の要求)
→1905 ベンガル分割令(カーゾン法)→英商品ボイコット運動→会議派急進化(4つの目標、スワラジ、
スワデシ、英貨排斥、民族教育)→民族運動発展(11年 ベンガル分割令取り消す)会議派とムスリム連盟(1
906年創立)との対立顕著
C トルコの民族運動
青年トルコ党「大トルコの再建」
「立憲君主制」を要求→1908年 革命勃発(旧習廃止、民族産業奨励等)
→アラビア人の民族運動にも影響→墺、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合
D その他の地域の民族運動
イランの立憲革命、議会開設
近代30 ベンガル分割令に反対するインド人の闘争
分割令が実施された日、ベンガル一円はわき返るような騒ぎになった。さまざまな集会、行進、断食がおこな
われ、インドの伝統への自信を力強く歌う「バンデー・マータラム」は街々にこだました。人々の抗議は過激
派の指導の下に、ベンガルからパンジャーブ、ボンベイ、スマトラなどひろくインドに広がり、おもにボイコ
ット、スワデーシという運動の形態をとって、イギリス統治に戦いをいどむようになった。1905年末の年
次大会において、穏健派が今なお多数を占める国民会議も、暴力的暴動には不賛成であるがボイコット運動に
は賛同する態度を明らかにして、運動の規模は一段と拡大された。……この大会の議長をつとめたゴーカレの
ことばによると「分割の結果ベンガルに巻き起こった民族感情の驚くべき高まりは、わが国の国民的進歩にお
いてまさに画期的な事件となるであろう。……苛酷で気ままな官僚政治の圧政に対してベンガルの示した英雄
的な抵抗の姿は、全インドを驚かせ悦ばせた。ベンガルの受難はけっして無駄ではなかったのだ。それがイン
ドのあらゆる部分を同情と熱望とでしっかりつなぎ合わせてゆく助けになったのだから。
」
と感ぜられたのであ
った。……「至高のスワデーシー主義の中に祀られた献身的母国愛には、考えただけで身ぶるいがし、実際に
行えばわれとわが身を忘れしめるほどの、深く熱情的な、人を動かす力がある。
」とのべたほどだった。
( 山本達郎編 『インド史』 山川出版社 )
34
近代Ⅵ
13
第一次世界大戦 (その1)
第一次世界大戦の原因−帝国主義的対立激化、植民地勢力の自覚が一層対立を促進
1 日露戦争前 主な対立地域 東アジア(日英同盟→日露戦争)
2 英仏協商(04年)−英仏、全世界の植民地の勢力範囲確定し、両国の植民地独占体制の成立を図る→独こ
れに挑戦、第一、二次モロッコ事件→アルヘシラス会議(→独孤立)
3 英露協商(07年) イランでの英露の対立→[日露戦争]→英露の協調→協商成立(利害調整)→露仏同
盟との二つの協商で三国協商成立→独3B政策で挑戦→英の3C政策と対立
4 列強の対立次第に英独の対立に集約、独のウィリアム二世の世界政策−ビスマルクの「平和政策」の放棄→
英独の軍艦競争
5 列強対立の尖鋭化 バルカン半島で露墺対立(弱い環)→墺、8年 ボスニア、ヘルツェゴヴィナ併合 汎ス
ラブ主義と汎ゲルマン主義対立激化→第一、二次バルカン戦争(12年、13年)→セルビア強大となる(汎
セルビア主義)→セルビアと墺との対立激化
6 1914年6月28日 サラィエボ事件−大戦勃発
7 第一次大戦を許した事情−大衆的組織的運動の未熟
・被抑圧民族同士の対立及び連帯闘争の欠如(バルカン諸国、義和団事件やボーア戦争)
・社会主義勢力の分裂−第二インターナショナルー12年バーゼル大会で帝国主義、戦争反対を決議するも
のの勃発後戦争擁護に変化→分裂崩壊
・良心的平和主義の限界(トルストイ、ロマン=ロラン、クェーカー教徒ら)
第一次世界大戦の経過
ヨーロッパでの戦闘
マルヌ会談(仏防衛) タンネンベルクの戦い(露軍の敗北)16年 西部戦線で独軍敗北 無制限潜水艦戦 総
力戦(TOTAL−WAR)
(工業の発展の水準が、勝敗を強く規定)
近代31 第一次世界大戦下の青年
「そこで僕らはありとあらゆる軍隊式の磨きをかけられたものだ。僕たちはあまりにも滅茶なのに腹を立て
て怒鳴ったことさえ何度もあった。……僕らはここにおいて、頑固になり、疑い深くなり、同情心は薄くなり、
復讐心は強くなり、かつ野蛮になった。けれどもそれは僕らのためによかったのである。そういう性質は、ち
ょうど僕らに欠けていたのである。もしこういった予備訓練の時を送らないで、じかに塹壕へでもやられたと
すると、僕たちの大部分はかならず気違いになっていたに相違ない。
……ぶつぶつ不平をいう兵隊、機嫌よくはしゃいでる兵隊、そういう僕らは出発して、いよいよ戦線地帯へ
やってきた。僕らは人間獣になった。……「僕らはもう戦争のおかげで何をやろうとしても駄目にされちゃっ
たんだね」まさにその通りだった。僕らはもう青年でなくなった。……僕らは18歳であった。この世界と生
活を愛しはじめていた。しかるに僕らはその世界と生活に向って鉄砲を射たなければならなかった。その第1
発として射ち込んだ爆弾は、実は僕らの心臓に当たっているのだ……
……たとえ僕らの青春の世界が、今再び僕らの手に与えられたとしても、僕らは今それをどうしたらいいか
わかるまい。その青春がかつて僕らの心の中に与えた、あの軟らかな、秘密らしい力は、今は再び起こり得ま
い。……僕らは確かに存在している。けれどもこれが生きていることであろうか。……僕はまだ若い。……け
れどもこの人生から知りえたものは絶望と死と不安と、深淵のごとき苦しみ……にすぎない。国民が互いに向
き合わされて、追い立てられ、何事もいわず、何事も知らず、愚鈍で、従順で、罪なくして殺し合うのを、僕
は見てきた……幾年のあいだ僕らのする仕事は、人を殺すことであった。人を殺すことが僕らの生活における
最初の職務であった。僕らがこの人生から知りえたことは、死ということに限られていた。そもそも今後はど
いうことが起るであろう。しかも僕らはいったいどうなるであろう。
( レマルク「西部戦線異常なし」
『資料世界史』 東京法令 )
35
近代Ⅵ
13
第一次世界大戦 (その2)
2 アジア、アフリカと第一次世界大戦
大戦後の独立を交換条件にアジア、アフリカの植民地人民、戦争に協力させられる
15年 マクマホン協定
17年 バルフォア宣言
3 日本の参戦
勃発時不況(←天皇制支配のため国内市場狭小)→「日英同盟の誼」と称して参戦(14年8月)
、
「天佑」
とも称す、独の利権引き継ぐ(青島、山東、南洋諸島)→15年 対華21カ条要求を強制(中国全土の植民
地化を意図)→中国人民の抵抗(2月 学生運動 3月 日貨排斥運動)→袁世凱の受諾→排日運動(漢口)
、
官憲により弾圧される→日米対立
4 中国の文学革命運動
陳独秀 胡適ら「白話文学運動」
、魯迅の「新文学運動」→八股文の追放、新思想の普及「新青年」の創刊
5 ロシア革命−露、戦争より離脱
6 ドイツ革命−戦争終結
18年 独西部戦線で大攻撃、失敗→秋 ブルガリア、トルコ降伏→墺降伏→18年11月 キール軍港の水兵
暴動(独革命勃発) (労働者、兵士らソビエトを組織→帝政崩壊→ドイツ共和国成立、社会民主党右、左派
対立→スパルタカス団武装デモ→鎮圧される→右派実権掌握→19年 ワイマール憲法
(ブルジョア憲法で初
めて生存権を規定 20世紀憲法の原型)
第一次世界大戦の被害
近代32 植民地諸民族の戦争参加
A イギリスが動員した人員
・1915年 マクマホン宣言
中近東のアラブ民族の独立を約し、戦争協力を得る。
・1917年 バルフォア宣言
ユダヤ人の国家建設を認め、ユダヤ人の戦争協力を得る。
・インドより150万の強制募集
ヨーロッパ戦線、英人10に対しインド人1.3人
・中国から10万人の苦力を動員
・エジプト 2万5000人を動員
B フランスが動員した人員
・インドシナから53万人の兵士、31万人の労働者
C アフリカから全体として約100万人が兵士、労働者として動員される。
近代33 対華21か条要求に対する日本における中国人留学生の抵抗
救国運動の計画
中華民国7年(1918年)の「五・七」記念日の前夜、日本に留学していた各学校、各省出身の代表たち
で構成していた「留日学生救国団」の幹部たちは、神田の「維新号」という中華料理屋で秘密の会合をひらい
た。こんなところで会合するのは、日本の警察がわれわれ学生の集会を禁止し、東京の市民たちも申しあわせ
たように会場を貸してくれなかったからである。そんなわけで、各団体の代表者だけを集め、食事するという
名目で、どうやって帰国して救国のために活動するか討論した。……
午後7時、46人の顔ぶれがそろったので、議長が開会の挨拶をのべた。
「……日本は、共同出兵という口実で、
21の条件をつきつけ、政府を脅迫して承認させてしまいました。条約の内容は、軍事、財政、警察の主権と
鉱山の採掘権や鉄道、電線の敷設権を全部日本にわたそうというものです。
「条約」といっても、洗いざらい叩
き売る契約書にすぎません。ぼくらはこのニュースを聞いて、義憤にもえ、何とかして救わなければならない
と考えました。昨日の晩、各省同郷会と各校同窓会の合同会議をやりましたが、留学生を全部帰国させるとい
36
う問題についてはすでに満場一致で決定しました。昨晩の合同会議では、救国運動を展開する大綱をきめまし
た。本部を上海、支部を北京において、一致して外に当たれ、内政に干渉するな、という合言葉と、各人の帰
国のための旅費は、各人めいめい算段することをきめました。……
サーベルと文明
……見張りのものがセキで合図したので、みんな話をやめて、食事をしていた。そこへ突然警察官が数十人と
刑事数人がとびこみ、うむをいわさずに、坐わっている学生をなぐりはじめ、サーベルで叩きつけ、テーブル
や椅子をたおし、壁にかけた学生帽なども手当たりしだいにもちだし、大騒ぎになってしまった。学生はその
時、警察と押し問答をはじめた。学生/あなたがたが私たち学生に乱暴するのは、どういうわけですか。警察
/お前たちがここで会議をやって、治安を乱したからだ。学生/ぼくらが……治安を乱したという事実があり
ますか……。警察/われわれ警察官は、会議を開いたことが、治安を乱す行動だと認める。これが罪名だ。ほ
かに何の証拠や事実がいるんだ。……そういうと警察官は、何かしゃべっていた学生の頬を十いくつもなぐり
つけ、一人一人ひきずりだした。たおれた椅子に足をとられて、まごまごしていた学生も、なぐりつけられた。
もう一人が腰をけられて倒れると、ほかの警官はかれの尻を踏みつけ、ひきずりだした。……「警察、野蛮だ
ぞ」とほかの学生がどなると、警官はその学生をつかまえて、
「馬鹿野郎、今度口をきいたら、なぐり殺すぞ、
この豚の尻尾めッ」……。……留学生たちは、みな両手を縛られ、帽子もかぶらず、靴もはいたりはかなかっ
たりで、洋服も破れている。……ただ、かれらはみな悪びれる表情もみせず、堂々と歩いていくので、まるで
処刑されにゆく志士を見るようだった。……中国人や日本人が集ってこれを眺め、笑声や罵声がいりまじって
聞えた。むかいの床屋の日本人が、
「豚の尻尾めッ、売国奴、俺たち帝国の威力を知らねえか」とどなると、い
く人がこれに和して、
「そうだそうだ」とどなった。……これらの学生たちは、帽子を高くさしあげ、
「中華民
国万歳、救国団の職員万歳、努力して前進し、今夜の恥を忘れるな!」と叫ぶ……。
( 洪拱 「屈辱をけって」
『中国の目』玉嶋信義訳 弘文堂 )
近代34 第一次世界大戦の損害
区
分
連合国
同盟国
計
動員兵力
22,850,000
65,038,810
42,188,810
戦死者
3,386,200
8,538,315
5,152,115
負傷者
8,388,448
21,219,452
12,831,994
捕虜・行方不明者
3,629,829
7,750,919
4,121,090
損害合計
15,404,477
37,494,186
22,089,709
直接戦費
63,018,460
208,305,850
145,287,690
間接戦費を加えた額は3380億ドルといわれる。このほか財産の侵害、生産の損害、戦争救済に要した支出、
中立国の損害を考えれば、さらに驚くべき数字が戦争の惨禍にさらされたわけである。フランス、ハンガリー
などは成年男子の20%が戦死した。平和的人民の犠牲は900万人にのぼった。
( 秀村欣二 「世界史」学生社 『資料 世界史』 東京法令 )
37
近代Ⅶ
14
ロシア社会主義革命
原因
1 第1次ロシア革命以来の革命勢力の成長
2 第一次世界大戦による皇帝権力、専制支配の動揺
3 独占資本、帰属(封建的地主)の労働者、農民への苛酷な支配
経過
1 1905年 第1次ロシア革命 「血の日曜日事件」
、人民、ツァーリズ打倒に動き出す−支配体制の再編成
(陸軍強化、ストリピンの農業改革、国会の開設[無力]
)→ストリピンの反動
2 第一次世界大戦勃発 多数の農民と労働者戦争に動員される→戦争及びツァーリズムへの反感高まる(食糧
危機、生産激減)→ソビエト結成(労働者兵士代表会議)
3 1917年 三月革命(ブルジョア革命)
(帝政廃止=ロマノフ朝崩壊、権利承認)→二重政権(ソビエトと
臨時政府)
、最初資本家本位の政策(戦争続行等)→レーニンの帰国とボルシェヴィキの強化、
「四月テーゼ」
(
「すべての権力をソビエトへ」
「労農同盟」
)
4 1917年 十一月革命(プロレタリア革命)
コルニコフ将軍らの反動的活動に対する武装した労働者の反撃→ソビエト政権[ロシア・ソビエト共和国]
の成立、
「平和の布告」−民族自決、無賠償、
「土地に関する布告」−地主的土地所有の無償廃止と土地私有
権廃止→18年 レーニン憲法(自由権、生存権を規定)
5 第一次世界大戦からの離脱 1918年3月 ブレスト・リトフスク条約、独と講和
ロシア革命の歴史的意義
1 世界現代史の開幕
2 社会主義の成立
私有財産制廃止、人類史上初めて労働者、農民等勤労人民が政治権力を掌握)
、 資本主義と対立
近代36 革命前の労働者の状況−「農業労働者雇用条令」
(1886年)
35 労働者は、雇用主に従順で、契約条件に従って、雇用主の要求を唯々諾々と熱心に履行しなければならな
い。
36 労働者は、
主人およびその家人のだれかが危険におちいった場合には、
その人を保護しなければならない。
37 労働者は、主人とその家人、および仕事の監督者に対しては、礼儀正しく、まじめに、恭しくふるまわな
ければならない。
50 雇用主は、労働者が欠勤した場合、仕事をおろそかにした場合、主人に対して粗暴な態度をとり従順でな
い場合、経営用の財産に対して損害を加えた場合には、給料から控除をおこなうことができる。
51 欠勤の場合の控除は、その欠勤時間に対して労働者に支払うべき金額の2倍をこえてはならない。……そ
の他の控除は、労働者に支払うべき日給額の2倍をこえてはならない。
( 飯田貫一訳 『世界歴史事典』 )
近代37 勤労被搾取人民の権利に関する宣言(1918年)
憲法制定議会は次のように宣言する。……
1 ロシアは労働者、
兵士、
農民代表ソビエトの共和国であること宣言する。
中央および地方における全権力は、
このソビエトに属する。
2 ソビエト・ロシア共和国は、自由な諸民族の自由な同盟の基礎のうえに、ソビエト民族諸共和の連邦として
設立される。
憲法制定議会は、……さらに、次のように決定する。……
1 土地の社会化を実現するなかで、私的土地所有が廃止される。そして、すべての土地は、……全人民の財産
であることが宣言され、それは、なんらの賠償金なしに、平等な土地使用の原則にもとづいて勤労者に手渡
される。……
2 労働者統制と最高国民経済会議とに関する法律は、搾取者に対する勤労者の権力の保障のために、工場、鉱
山、鉄道およびその他の生産手段、運輸手段を労働者・農民ソビエト共和国の所有に完全に移すことへの第
一歩として確認される。
38
3 勤労者大衆を資本のくびきから解放する条件の一つとして、すべての銀行を労働者・農民国家の所有に移す
ことが確認される。……
( 宇高基輔 『世界歴史事典』巻25 平凡社 )
39