httpllぃ .ok・lnomasao.com. 古代 文化研 究会会報 福 岡県遠賀郡遠賀町浅木 2丁 目 24番 地 2(〒 811-412) 発行先 FAX (093)293-424 TEL・ 2008年 1月 1日 奥 野 正 男 筑紫古代文化研究会 第 161号 第 161号 紫 筑 E― 1/1ail:[email protected] : ホームページ 光 彦 便 が運行 され てお り、 中 国南方航 空 で約 二時 間 で着 きまし た。 藩 陽 は清 朝 建 国 の祖 ヌル ハチが後金 の首都 を 遷 都 し、 北京 の故官 をまね た藩 陽故 宮 を建 設 し た こと で知 られ、 今 も そ の建物 が市 の中 心 をな し、 また見所 が 多 い為 日本 か ら の観 光 客 も 数 多 一日 の滞 在 では充 分 に見学出来 く、 ま せん でし た。 翌 日、 藩 陽か らバ スで高速 道路 を 東 へ向 い、 ぶど う の産地 とし て中 国 一日が では有名 な 通化 を経 由 し て、 かり で待 ち に待 った集 安 へ着 きまし た。集 安 は鳴 緑 江 の中流 北岸 にあ り、 北朝 鮮 と鳴 緑 江の中落準出坪にあ り、 北朝 鮮 と鳴 緑江 で国境 を接 し、高 句 一 麗 の都 城 が あ った こと で有 名 です が、 特 に広 開土 王碑 は 日朝 関係史 に 重 要 な碑 文 を残 し てお り、 日本 の歴 史 の教 科書 にも 必ず 出 てく る ので誰 も が知 っている ことと思 います。 好太 王碑 は市 内 から北東 へニキ ロ メート ル ほど の谷 あ いに立 ってお り まし た。 第十 九代 広 開土 王 を記念 す る高 さ六 。三 メー ト ル の堂 々と した 碑 です が、今 は上 屋に覆 われ、 ガ ラ ス面 で保護 され ている ので、 近 く に 寄 ってじ っく りと見 る こと が できま 高句一麗遺跡 を訪 ね て 九 月、 中 国溶 陽 から集 安、 長白 山 行 き の安 い旅行 が発表 され、 筑紫古 代 文 化 研 究 会 の会 員 九 名 様 と 参 加 し、 高句 麗 の遺 跡等 を見学 し てきま した のでご 報 いたし ます。 告 今、 中 国 では特 に東北 三省 ︵ 遼寧 省、音 林省、 黒竜 江省︶ の経済発 展 に力 を入れ てお り ます が、 観光 開発 の面 でも旅 順 の軍港 を観光 地 とし て オープ ンし まし たし、 今 回 の コー ス も 中 国 側 か ら モ ニタ ー ツ ア ー と し て、 今 後 の観 光客 誘致 に力 を入れた いと の意 向 で安 く発表出来 た と のこ と でした。 それ は長白 山 ︵ 朝鮮 では 自頭山︶に行 って解 った こと です が、 韓 国 から の観 光客 が数 年前 ま では長 自山 へ年 間 三〇 〇 万前後 も押 し掛 け て いた のが、色 々な理由 から かな り 減 少 し ている こと から、 代 わ りに 日 本 人 の観光客 誘致 に力 を入れ る こと にな った よう でした。 我 々の目的 は集 安 の高 句一 麗遺 跡見 学 でした のでも っと集 安滞 在 に時 間 があれば と思 いまし たが、 観 光 コー スとし ては長自山 も大 変すば らし い 所 でし た ので順 を追 って発 表 いたし ます。 まず 、 福 岡空 港 から溶 陽 へは直 行 古 せん でし た。 勿論 写真撮 影 も禁 上 で す。 まわ り は公 園化さ れ、 近 く には 太 王陵 ︵ 広 開土 王陵 とされ て いる︶ があ り、 また この集安 でも 一番立 派 な積 石墳 将 軍 塚 ︵ 第 二十代 長寿 王陵 とさ れ て いる︶ が北東 に望 まれ まし た。 市 内 には国内 域 の遺 跡 が アパート 群 の中 に残 って いまし た が、郊 外 北 西 四キ ロメー ト ルに残 る丸 都山城 も 見応 えあ り、 登 り 口付 近 に残 る山城 下墓 区 の積 石墳 群 には 圧倒 され てし ま いまし た。 と にかく高句 一 麗文 化 の 遺 跡 が多すぎ 、 あち らも見 た い、 壁 画古 墳 も い っぱ い見 た いと、 見 た い 所 が多 く滞在 日数 少 な い為気 があ せ るば かり でし た。 (2) 紫 筑 第 161号 壁 画 古 墳 は 現 在 修 繕 中 のも のは 見 れ ま せ ん が 五号 墓 し か見 せ てく れ ま せ ん で し た。 近 く の 四号 墓 や舞 踊 塚 も 見 た い と 申 し 出 た の です が、 事 前 に交 渉 し て お か な いと 現 地 で の追 加 見 学 は 無 理 のよ う で し た。 近 く の展 示 室 で数 々 の壁 画 を 写 真 や レプ リ カ 等 で見 る こと は 出 来 ま し た が、 そ れ で も これ ら 壁 画占 墳 のす ば ら し さ に は 感 動 い た し ま し た。 高 句 麗 の文 化 水 準 の高 さ を 悟 る多 く の遺 跡 遺 物 の 中 でも 、 壁 画古 墳 は 高 句 麗文 化 の精 髄 を い か ん な く 見 せ てく れ、 ビ ョン ヤ ン付 近 のも のを含 め 現 在 ま で 七 〇 基 以 上 明 ら か に さ れ 、 そ れ ら は 四世 紀 か ら 七 世 紀 中 葉 に ま で に 至 る約 四 〓 0 年 の間 に造 ら れ て い ま す 。 現 地 説 明 員 の話 で は 首 都 が 四 二七 年 に 平 城 に遷 都 さ れ た 後 で も こ の集 安 に は 主 族 の墓 が 造 ら れ て い る と の こと で す 。 良 く 高 松 塚 と の関 係 が 言 わ れ ま す が、 北 部 九 州 の装 飾 古 墳 の源 流 も こ の高 句 麗 であ る こと は ま ち が いあ りま せ ん。︵ 壁 画古 墳 は 朝 鮮 半 島 で は 、 新 羅 二、 伽 那 一な ど 朝 鮮 半 百一 壼 一 島南 部 に も 分 布 し て いま す が、 圧倒 的 に 濃 密 な のは 日本 です ︶ 当 時 倭 と は政 治 的 、 軍 事 的 に は 対 立 し な が ら も、 民 族 、 文 化 的 に は密 接 不 可 分 の関 係 を も って い て、 遠 い 高 句 麗と 古 代 日本 と の間 に は想 像 以 上 の往 来 関 係 と 文 化 交 流 が あ った の が 不 思 議 で な り ま せ ん で し た。︵ 僧慧 慈 は 飛鳥 寺 の住 持 と し て 活 動 す る か た わ ら、 聖 徳 太 子 の師 と な り高 句 麗 分 明 を 伝 え た こと は 有 名 です ︶ 一泊 し た集 安 のホ テ ル の近 く に 小 さ な 集 安 市 博 物 館 が あ り ま し た が、 今 内 部 資 料 の整 理 中 と か で 見 れ な か った のが残 念 でし た。 こ こ集 安 と か高 句 麗国家 誕 生 の地 桓 仁 等 へは 日 本 か ら 遠 い為、 ま た 北 朝 鮮 に あ る ビ ョンヤ ン等 の高 句 麗 の遺 跡 を 見 学 す る こと は 現 実 無 理 な こと です が、 も っと も っと高 句 麗 の遺 跡 を 現 地 で 見 る機 会 を つく る べきだ と 思 いま し た。 集 安 の次 は、 通 化 か ら夜 行 寝 台 列 車 に 乗 り いよ い よ 朝 鮮 民族 の聖 地 と し て有 名 な 長 自 山 へ向 か い ま し た。 早 朝 一道 自 河 の駅 に 到 着 し 一度 ホ テ ル ヘ向 い 朝 食 後 ま た バ ス に て 山 頂 二、 六 九 一メ ー ト ル に あ る噴 火 湖 天 地 ︵一、 一八 九 メー ト ■ ︶ へと 向 か い ま し た。 長 自 山 は 自 然 保 護 区 と な って い 為 か 天然 自 然 が す ば ら し る 満 州 族 の発 祥 の地 く 残 さ れ てお り、︵ と し て清 朝 の時 は崇 ら れ 入 山 禁 止 令 が 出 て いた が、 今 で も 無 断 伐 採 が 見 つか る と高 い罰 金 を 払 れ な け れ ば な ら な い︶ 天 候 に も めぐ ま れ て雲 一つ な い秋 晴 で、 天 地 で は ﹄ 北朝 鮮 側 も 一 望 出 来 、︵ 天 地 の中 央 部 に 国境 線 が 通 り、 北 半 分 中 国、 南半 分 が 北 朝 鮮 ︶ 本 当 に ラ ッキ ー でし た . まず 山 門 ま で は バ スで行 き ま し た が、 見 晴 台 ま で は バ スで行 く こと が 出 来 ず 、 四 W D に 乗 り が え、 曲 が り く ね った十 三 キ ロメ1 0ル の道 を す さ ま じ い スピ ー ド で 登 って い き ま し た。 駐 車 場 に着 き ます と さ す が に 寒 く、 数 日前 に は 初 雪 が 降 った と か で まだ 少 し 雪 は残 って いま し た。 天 地 は赤 茶 け た峰 々 に 囲 ま れ 青 々と し た 水 の色 が コ ント ラ スト 美 し く、 本 当 にす ば ら し い所 でし た 案 内 し て く れ たガ イ ド が 言 う に は 一年 の中 で も こん な 美 し い 日 は め Pたに な い と の こと で、︵ 六 月 か ら 十 月 ま で の シー ズ ン中 雨 多 く 、 大 候 が良 く て も 霧 が 出 た り し て な か な か こ のよ う な 雲 ひと つな いす ば ら し い眺 め は経 験 出 来 な い と の こと でし た︶ 我 々 一同 大 感 激 で し た。 長 自 山 で は 他 に長 白 瀑 布 、 地 下 森 林 等 見 ま し た が、 本 当 は まだ まだ 見 る所 あ る も 一泊 だ け の駆 け 足旅 行 で す の で本 当 に残 念 でし た。 次 の 日 は も う 延音 へ行 き 夕 方 の航 空 便 で大 連 へ行 か な け れば な り ま せ ん。 し か し 現 地 朝 鮮 族 の女 性 ガ イ ド か ら 北 朝 鮮 の話 を 色 々と 聞 く こと が 出 来 望 外 の喜 び で し た。 日本 の埼 玉 県 に留 学 し て いた と の こと で大 変 日 本 語 が 上 手 で、 観 光 案 内 だ け でな く 自 分 の親 戚 が 近 く の北 朝 鮮 に住 ん で 第 161号 紫 Oυ 筑 居 る の で、︵ 市 内 を 流 れ る鳴 緑 江 の上 流 ト マ ン江 に 架 か る 国境 の橋 を 渡 れ ば す ぐ に 北 朝 鮮 ︶ 年 に何 回 も お 金 を 持 って援 助 に 行 く と の こと で、 北 朝 鮮 の現 状 を 切 々 と 話 し て く れ ま し た。 ま た 延音 は 延 辺 朝 鮮 族 自 治 州 の 州 部 で、 現 在 総 人 口 二〇 〇 万 人 の内 八 〇 万 人 な ど が 朝 鮮 族 で、 脱 北 者 達 の逃 亡、 避 難 場 所 と し て も 話 題 に な って い る の で良 く 知 ら れ る所 です が、 実 際 に は 北 朝 鮮 で の子 供 の時 か ら 教 育 が徹 底 し て い る の で、 逃 れ て 来 て も こち ら 側 の生 活 に 馴 染 めず 、 脱 北 者 達 は 苦 労 し て い る こと や、 少 数 民 族 と し て の朝 鮮 族 の苦 労 話 な ど 約 二日 間 の付 き合 い でし た が、 名 残 惜 し く、 これ が 旅 と いう も の、 や は り 旅 は 現 地 で見 聞 き し て充 分 交 流 を 楽 し む こと と 思 い ま し た。 あ ら た め て ﹁ 書 を捨 て旅 に 出 よ H ﹂ と 思 いま し た。 まだ まだ 説 明 不 足 の こと が多 い の です が、 高 句 麗 文 化 のす ば ら し さ を 垣 間 見 る こと が出 来 、 ま た 少 数 民 族 朝 鮮 族 、 北 朝 鮮 の様 子 な ど 知 る こと が 出 来 、︵ 集 安 か ら 大 連 ま で 日本 人 観 光 客 に ま った く 会 いま せ ん で し た。 ガ イ ド が言 う に は、 日本 人 の観 光 客 少 な い為 淋 し いと の こと︶ 厳 し い ス ケ ジ ュー ル で し た が久 方 振 り に感 動 い っぱ い の旅 と な り ま し た。 主[ 和 大 率 に つい て、﹁ 治 伊 都 国﹂ を岩 波 文庫 は ﹁ 伊 都 国 に治 す ﹂ と 訳 し て い 國、於 國中有 如刺史。 自 女 王 國 以 北 、特 置 一大 率 、 検 察 諸 國 、界 憚 之 。常 治 伊 都 州 刺 史 の監 察 下 に あ る。 倭 人 伝 ﹂に 記 さ れ た よ う な 破 たし て ﹁ 格 の下 賜 品 が 下 さ れ た であ ろ う か。 尚 、 公 孫 氏 の勢 力 を 過 大 視 さ れ る 向 き も あ る が 遼 東 。楽 浪 ・帯 方 ・な ど は 全 て魏 の領 土 で あ り、 郡 太 守 は 魏 の皇 帝 が 任 命 す る の であ る が、 幽 年 ︶が 正 し い と さ れ た の か ?景 初 3 年 は、元 旦 に 明 帝 は 亡 く な り、8才 の 曹 芳 が 後 継 し て い た。公 孫 淵 を 誅 伐 し て 1年 以 上 経 った 頃 に倭 か ら の貧 弱 な 献 上 品 を 携 え た 朝 貢 使 節 に、果 の明 帝 に 朝 貢 遣 使 し、﹁ 親 魏 倭 王﹂ の 詔 を 賜 った こと は ﹁ 倭 人伝﹂ 中 の ハ イ ラ イト で あ り、 若 し こ の 一件 が な け れば 邪 馬 台 国 は じ め 倭 の国 々 の こ と は 記 さ れ な か った の で は な か ろう か。 岩 波 文 庫 は何 故 景初 3年 ︵ 239 景 初 2年 ︵ 2 3 8年 ︶ 卑 弥 呼 が 魏 ﹁ 魏 志 倭 人 伝 ﹂ を読 む I﹁ 魏 志 倭 人 伝 ﹂を 読 む ︵ 原 文 ¨南 宋 紹 熙 本 ︶ 邪 馬台 国論 争 は結 論 が出 な いま ま 今 も 続 い て い る。 た だ 最 近 ︵ 近畿 説﹀ は 三角 縁 神 獣 鏡 だ け で は 近 畿 説 を 主 張 し 通す こと は 出 来 な い と し て封 泥 を持 ち 出 す な ど 、 徒 に結 論 を先 送 り 九 し よ う と し て い る。 これ に 対 し ︿ 州 説 ︶ は 筑 後 川 流 域 に 固 ま って き て お り、 平 原 遺 跡 1号 墓 は 女 王 の墓 と 倭 人 伝 ﹂ の記 述 と も 合 思 わ れ る等 、﹁ い始 め た。 邪馬 私 は かね がね、 奥 野先 生 の ﹁ 台 国 は吉 野 ヶ里 であ り、 前 原 市 平 原 遺 跡 は卑 弥 呼 の墓 に ふ さ わ し い﹂ と 倭 人 伝﹂ と 矛盾 し な い さ れ る説 が ﹁ か、﹁ 魏 志 倭 人 伝 ﹂原 文 を 読 ん で み た。 日本 の訳 本 ︵ 代 表 岩 波 文 庫 ︶ に は誤 訳 や 誤 注 釈 が 発 見 さ れ た。 ︵1 ︶ 景初 二年 六 月、倭 女 王遣 大夫 難 升 米 等 詣 郡、求 詣 天 子 朝 献。太 守 劉 夏 遣 吏 洛 送 詣 京 都。其 年 十 二月、詔 書 報 倭 女 王 日 ¨制 詔親魏 倭 王卑 爾呼。 森 於 ﹂ と いう 助 る の が伊 都 国 の前 に ﹁ 辞 が無 いか ら ﹁ 伊 都 国 を治 す ﹂ と 訳 す の が 正 し い。 即 ち 大 率 は 伊 都 国 王 に 指 示す る こと が 出 来 る の であ る。 女 王 国 よ り 以 北 の諸 国 を 大率 は ﹁ 検 察 を 行 う﹂ と あ る の で、 当 然 女 王 国 も 検 察 の対 象 であ り、 又 ﹁ 諸国こ れ を 畏 れ 憚 る﹂ と あ る の で、 或 る 程 度 の 軍兵 を も って い た と 思 わ れ る。 又、 大 率 は ﹁ 魏 国内 に お け る刺 史 の如 き も の﹂ と 記 さ れ て い る の で、 大 率 は皇 帝 勅 任 の役 職 であ り、 郡 太 守 よ り 上 位 に あ る こと が 分 か る。 常 に 帯 方 郡 太 守 を介 し て の本 国 と の情 報 連 絡 は 当 然 行 わ れ た であ ろ う。 、 倭 の0 3余 の 国 々を 統 合 し 日本 列 島を ﹁ 倭 国﹂ と し、﹁ 三 百余 年 続 いた 伊 都 国 王 を廃 し 、 卑 弥 呼 を倭 国 王 に 任 命 す る よ う﹂ 皇 帝 に 上 奏 文 を 上 呈 し 、 卑 弥 呼 に 早急 に 朝 貢 の遣 使 を 出 す よ う 指 示 し た であ ろ う こと は、 容 易 に推 察 でき る。 7 月 に 入 れば 玄 界 灘 は荒 れ る の であ る。 こ の文 言 は、 私 達 に 2世 紀 の終 わ り か ら 3 世 紀 初 め 頃 に か け、 日本 に 女 王 国 が あ った こと、 又女 王 国 は 伊 都 国 と親 密 な 関 係 に あ り、 地 理 的 に 近 い所 に あ る こと を教 え てく れ て い ︵4 ︶ 1,000余 。 可 スつ 着 く 、 女 王 国 の入 り 口に 当 た る。 邪 馬 台 国 の次 に 斯 馬 国 あ り に始 ま って 奴 国 あ り のと こ ろ で、 これ 女 王 の境 国 女 王 国 の前 に ﹁ 於 ﹂ と い った 助 辞 が無 い か ら ﹁ 伊 都 国 世 々王 あ り 皆 女 投 馬 王 国 を 統 属 す ﹂ と 読 む のが 正 し い。 ︵ 松 本 清 張 ・いき 一郎 ・林 田慎 之 助 ・ 奥 野 正男 の諸 先 生 は 正 し く 読 ん でお ら れ ます ︶ 20,000余 国 統 属 と は ど のよ う な 姿 な のか、 自 字 通﹂を中 心 に 調 べて み た。 川静 の ﹁ 界 の尽 き る所 と あ る の で、 女 王 国 は 邪 馬 台 国 を 筆 頭 に し た、 2. ヶ国 よ り な る広 域 国 と 解 す る こと が 出 来 る。 陸 行 l ヶ月 は 伊 都 国 を 発 し、 広 域 女 王 国 を 巡 検 に 要 す る 日数 であ り、 距 離 も 2 千 余 里 あ る と み て よ いと 思 わ れ る。 国 不 爾 統 局︱ 所 管 を 治 め る ︵﹁ 唐 律 疏 義 ﹂に よ る︶ 統 ︱ ︹ す べる、 ま と め る、 お さ め る、 たば ね る︺ 乎 ] 鰤 口埼 [ 盛 ︵ 3 0 年 頃 ︶ 2 一 わ れ る。 し 憫 の一戸 数と思 刷 かし伊都 国 緩 は前 漢 時 代 輌 よ り 3 0 0 帳 年 余 に 亘 っ 畑 て、 漢 の 冊 麻 封体 制 に組 剛 込 ま れ、 歴 代首長は王 人 口 ︵万 人 ︶ 位 を 認 め ら れ、 倭 の国 々 の取 り ま と め 役 と な って き た。 又 引 津 湾 と い っ た良 港 を有 し、 日本 と 大 陸 を 結 ぶ 交 流 ・交 易 の中 心 国 であ った。 に も 拘 尚 、 女 王 国 の南 に 狗 奴 国 ︵ 後 の熊 襲 ︶ あ り、 と あ る の で女 王 国 は 自 ら 嘉 瀬 川 ,筑 後 川 ︵ 支 流 を含 む︶ 流 域 に 広 が る 広 域 国 と み る こと が 出 来 る。 更 に 狗 奴 国 に は 男 子 の王 が い る が、 女 王 の 一族 で は な い。 と、 こと わ って い る。 国 奴 属 ︱ 尾 と 蜀 に 従 う。 尾 は獣 の牝 ・ 蜀 は 獣 の牡 器 を 示す 形 であ る か ら、 局 と は獣 の牡 牝 相 連 な る を いう 。 故 に連 続 の意 と な 国 伊 都 南 至 邪 馬 壼 國、女 王 之 所 都、 水 行 十 日、陸 行 一月。官 有 伊 支 馬、次 日 爾 馬 升、次 日爾 馬 獲 支、次 日奴 佳 軽 、可 七 萬 餘 一 戸。自 女 王 國 以 北、其 戸 数 道 里 可 得 略 載 、其 餘 労 國 遠 絶、 不 可 得 詳。次 有 斯 馬 國、次 有 已 百 支 國、次 有 伊 邪 國、次 有 都 支 國、次 有 爾 奴 國、次 有 好 古 都 國、次 有 不 呼 國、次 有 姐 奴 國、次 有 封 蘇 國、次 有 蘇 奴 國、次 有 呼 邑 國、次 有 華 奴 蘇 奴 國、次有鬼 國、次有 為吾 國、 次 有 鬼 奴 國、次 有 邪 馬 國、次 有 射 臣 國、次 有 巴 利 國、次 有 支 惟 國、次 有 烏 奴 國、次 利 奴 國、此 女 王 境 界 所 蓋 。其 南 有 狗 奴 國、男 子 為 王、其 官 有 狗 古 智 卑 狗、不 属 女 王。自 郡 至 女 國高 二千餘 里。 2 3 0年 頃 の 日本 の人 口は、 凡 そ 2 0 0 万 人 であ り、 九 は 0 と す 州 % 2 0 万 人 の人 口と な る。 1一 ると 4 戸5人 家 族 と 仮 定 す れば 8 万戸 で よ い こと に な る。 これ に 対 し ﹁ 倭 人 伝 ﹂ の倭 5 万 戸 であ り、 の国 々 の合 計 戸 数 は 1 日本 二千 年 の人 口史 穴 P H 頭宏 の ﹁ P︶ に よ って 調 べて み た。 日本 国 で 鉄 の生 産 を始 め た 1世 紀 頃 よ り 人 口 は急 激 に 増 え 始 め た こと が 分 か っ た。 らず 、 千 余 戸 と は 余 り に も 少 な いよ う に 思 わ れ る。 又、 邪 馬 台 国 も、 一国 で 7 万 戸 と は常 識 的 に考 え ら れ な い。 そ こ で、 そ の頃 の 日本 の人 口を鬼 狗 奴 国 岩 波 文 庫 は そ の解 説 の中 で、 水 行 の起 点 を 伊 都 国 と し た り、 里 数 の上 に 日数 を 加 え 距 離 を 測 る と いう 小学 生 で も や ら な い こと を 認 め てお ら れ る のは如 何 な も のか。 末 虐 3,000許 4,000余 1,000余 Ⅱ倭 の国 々 の戸 数 に つい て 国 こ の項 は 邪 馬 台 国 並 び に女 王 国 の 位 置 を 的 確 に 示 し て い る。 先ず 、 水 行 十 日 の前 に ﹁ 又 一海 を 渡 る﹂ と い った 文 辞 が無 い の であ る か ら、 水 行 の起 点 は 帯 方 郡 で あ る。 上 陸 地 は 良 港 が あ り、 郡使 の留 ま る 所 と さ れ て い る伊 都 国 であ る。 壱 岐 原 辻 か ら 伊 都 国 に来 航 す れば 帯 方 郡 よ り 一万 里 であ る。 次 に、 伊 都 国 を南 に背 振 山 系 を越 5 ト え れば 、 3 ロ キ ー ル の所 に女 王 メ の都 が あ る 邪 馬 台 国 ︵ 吉 野 ヶ里︶ に 1,000余 戸 ― 支 る。︹つら な る、 つづ る、 み う 一族 、な か ま、ゆ だ ね る、 ち、 ま か せ る︺ こ こか ら 統 属 は、 み う ち で統 治 す る こと、 と解 す る こと が 出 来 、 伊 都 国 王 と 卑 弥 呼 は 血 の通 っ 間 と 思 た 柄 わ れ る の であ る。 尚 ﹁ 魏 客﹂ に ﹁ 伊 都 国 ⋮ 其 国 の王 皆 王 女 に属 す ﹂ と あ り、 卑 弥 呼 は 伊 都 国 の王女 であ っ た か も 知 れ な い。 ︽こ の項 に つい て は ﹁ 筑紫﹂ 1 58 2︶ に詳 細 掲 載 し て 号 ︵ 2 0 0 4 o︲ 頂 き ま し た。︾ 一 封 馬 国 50,000余 可 70,000余 耶麻童 国 150,000月 計 倭 人伝 戸 数 国名 (4) 紫 筑 第 161号 実態 と は大 き な差 がある こ と が 伺 え る。 陳寿 ︵ 2 33 ∼ 2 9 7︶ は 三 国時代 を生き た 人 で あ り、 そ 一 戸 も 承 知 し て い る筈 で あ る。 で は 何 を 根 拠 に 倭 の 国 々 の戸 数 を 書 い た の か。 刺 史 と 同等 倭 に派 遣 さ れ た 大 率 ︵ の権 限 を持 つ︶ の明 帝 への上 奏 文 以 外 に は考 え ら れ な い。 日本 列 島 を新 し く ﹁ 倭 国﹂と 称 し 、 卑 弥 呼 を 国 王 に認 め ても らう 為 に は、 邪 馬 台 国 が 伊 都 国 の数 十 倍 の勢 力 を有 す る国 であ る こと が必 要 で の ﹁ 史 記 と 並 び 賞 さ れ て い る。 又 ﹂ 陳寿 は ﹁ 魏 暑﹂ 倭 人 伝 ﹂に つい て は ﹁ を読 ん で、 伊 都 国 1 万 戸 と あ る こと の著 ﹁ 三 国志 ﹂ は、 文 章 は簡 潔 であ るが史 実 を正しく記述 し て い る と、 中 国 では司馬遷 異 網 [: 想定戸数 あ った の であ ろ う。 又女 王 国 と いう 独 立 国 は 無 い の で、 上 奏 文 に は 出 さ な か った と 思 わ れ る。 ︶ 史実 を 正し く述 べて いる。 し かし、 こ の戸数 は、 意 外 にも 日 本 の古 代史 研究者 に影響 を与 えたよ う であ る。 ① ﹁ 伊都 国 1千戸、邪馬台 国 7万戸﹂ とあ る ので ﹁ 倭 人伝﹂ 中 の ﹁ 伊都 國 ⋮世有 王、皆 統属女 王 國﹂を、﹁ 伊 都 国 世 々 の王 は 皆 女 王 国 に 統 属 ︵ 服 属︶ す﹂ と、 殆ど の文献 史学 者 や考古 学者 は訳 し てし ま った。 陳寿 の意 見 が見抜 けな か った ので あ る。 伊都 国は前漢時 代 より 30 0年余 に亘 り、 歴 代 の王 が倭 の国 々を纏 め てきた政 治経済 の中 心 であ り、 1万 戸 が実態 であ ろう。 し かし未だ に王 宮跡 を見 つけ よう ともしな い のであ る。 伊都 国は志摩町 と前 原市 と に決 め てしま って いるよう に思え る。 福 岡市 西区と前 原市 の境 界線 上 に 日向峠 があ る。 こ の峠 から東 へ3キ ロメート ル程 のと ころに吉武高 木遺 跡 があ り、 峠 から西 へ9キ ロメート 平原遺跡 があ る。 ル のと ころに三雲 ・ 吉武高木遺 跡 は伊都 王朝 の王官跡 と し てよ い のではな か ろう か。 こ のよ 漢委 奴 国王﹂ の金印 う に考 えれば ﹁ の出 た 志 賀 島 は 伊 都 国 の勢 力 下 に あ ったと思わ れ る。 更 に、 23 8年 倭 国が誕生 したと き、 卑弥呼 は王宮 を吉 野 ヶ里 から吉 ︶ 武 高 木 に移 し た と 考 え ら れ る。 ② ﹁ 奴 国 2 万余 戸﹂ と あ る た め、 多 0倍 の く の人 は、 奴 国 は 伊 都 国 の 2 勢 力 を 有 し て い る国 と錯 覚 し た の で は な か ろう か。 そ れ に拍 車 を か け た のが ﹁ 漢 委 奴 国 王﹂ の金 印 で あ る。 出 土 し た志 賀 島 は奴 国 の領 域 であ 後 漢 書 ﹂の ﹁ 建 る と 思 い込 んだ こと、﹁ 7 武 中 元 二年 ︵ 5︶ 倭 奴 国 奉 貢 朝 賀 ⋮ 倭 国 之 極 南 界 也 ﹂ を充 分 な 考 証 も 行 漢 の倭 わず 信 じ てし ま い、 金 印 を ﹁ の奴 国 王 ﹂と 読 ん で し ま った こと が、 奴 国 を 伊 都 国 よ り も強 大 な 王 国 と 思 わ し め た の で は な か ろう か。 卑 弥 呼 の時 代 の奴 国 は、 現 在 の福 岡 城 辺 り が 博 多 湾 の波 打 ち 際 で あ り、 天神 や中 洲 一帯 は 那 珂 川 等 の河 口 で 一面 潟 であ った。 集 落 は福 岡 空 港 周 辺 の比 恵 ・雀 居 ・那 珂 ・宇 美 や 春 日市 の須 玖 な ど が あ り、 油 山 北 側 山 麓 で は砂 鉄 を 原 料 と す る製 鉄 が 行 わ れ て いた。 こ ん な 風 景 が想 像 さ れ る の であ る。 須 玖 岡 本 か ら、 こ の地 方 の首 長 と 思 わ れ る 人 の墓 が 発 見 さ れ て い る が、 伊 都 国 王 と 親 密 な 関 係 に あ った の であ ろう。 2 3 8年 倭 国 が 誕 生 し、 卑 弥 呼 が 倭 王 と な った。 以後 伊 都 国 ・邪 馬 台 国 。奴 国 な ど の名 は 中 国 の歴 史 の舞 台 に は 出 て こな い。 紀元前 一千年紀 の弥生文化 の 1︶ 伝来 と渡来 人 の源流 ︵ 1 当 時 の日本 列島 1︶考察 期 間 に ついて ︵ 日本 列島 にお け る縄文晩期 は、 前 北 10 00年 頃 から前 3 00年頃 ︵ 九州 は前 3 50年 頃︶ ま でが通説 で あ ったが、 近年 は前 500年頃 から ︵ な お 最 近 国立 歴 史 民族 博 物 館 の 研 究 グ ル ープ が 火 を つけ た、 弥 生 時 0世 紀 に ま で遡 る可 代 の始 ま り は 前 1 能 性 が あ ると いう 、 弥 生 時 代 の新 年 代 論 争 に つい て は、 未 だ そ の決 着 が 弥 生 前 期 始 め ま でを弥 生 早期 と し て、 弥 生 時 代 と す る 説 が 称 え ら れ て い る。 新 40万 人 80.000戸 20% 230年 200'テ メ 、 14万 人 80万 人 九州 の人口 倭人口 57年 17% 西暦 ﹁ 倭 人 伝 ﹂の倭 の国 々 の戸 数 は、実 態 と は か な り か け 離 れ て い る が、 上 奏 文 に記 さ れ た 戸 数 であ れば 、 忠 実 に は 違 い な い こと が 判 った。 陳 寿 は 田 第 161号 紫 筑 (5) (6) 紫 筑 第 161号 ついていな い ので本稿 から除 外す る こととし た。︶ こ の根拠 とし ては、 弥 生時代 を水 稲農作 を主 とす る時代 であ り、 唐津 市 の菜 畑遺跡 を始 め北部 九州 地 区 の 発掘 調査 で、 前 500年 頃 から水 田 跡 や農耕 具 が相次 いで発見 され、 そ の農 耕 具 や住 居跡 を含 め た社会 構 造 が、 弥 生時代 とほと んど 変 わ らな い こと が分 か ってき た こと によ る。 勿論、 縄文 から弥生時 代 への変 化 はあ る時期 に 一挙 に変 化 し た のでは なく、 例 えば 縄 文時 代 土 器 であ る深 鉢 が甕 や壺 への変 化、 或 いは水稲農 耕 が 日本 列島 を北上 しな がら北部 九 州 を 中 心 に 各 地 方 に 輪 が 広 が って い ったよう に、 弥生 早期 から弥 生中 期 頃 ま で の長 い年 月を かけ て、 徐 々 に変 化 し ている。 従 って、 中 国を含 む東 北 アジ ア の 文化 が 日本 列島 にど のよう に影響 を 与 え た かを探究 す る観点 から、 縄 文 晩 期 の初 頭 か ら 弥 生 中 期 末 ご ろ ま で、 即ちち ょうど紀 元前 一千年紀 を 考察 す る こととし た。 2︶日本 列島 の環境 と 民族移 動 ︵ 紀 元前 一千年紀 の東 北 アジ アな ら び に 日本 列島 の気 候的環境 に ついて は、 縄文後期 初 頭 ︵ 約 40 00年前 頃︶ から寒冷 化し てきた気 温 は、 縄 文晩期初 頭 には 一時的 にや や温暖 化 す るも のの、 やが て再び 寒冷 化 し、 弥生 早期ご ろには 一段 と冷涼 化し て く る。 し かし、 弥生 前期 頃 から は、 温暖 化す る現象 を示し て いる。 なお、 一段 と寒冷 化 し てき た縄 文 晩期 ︵ 弥生 早期 を含 む︶ の中 で、 日 本 列島 は、 日本 列島 の東 西 を北 上す る暖 流 ︵ 黒潮 及び 対馬海 流︶ の影響 で、 東 北 アジ ア の大陸 や朝鮮 半島 に 比 べると、 やや温 かく住 みやす い環 境 であ った こと が推 定 さ れ て いる。 従 って こ の時期 にな ると、 東 北 ア ジ アに住 む 人 々が、 寒冷 化 と戦 乱 な ど により、北 は樺 太 や 日本海 を渡 り、 中 ほど では東 北 アジ ア の回廊 的役割 を果 たす朝 鮮 半島 を経由 し、 南部 で は黄海 や東 シナ海 を渡 って、 現在 の 東北地方 を含 む中 国から直接 或 いは 間接 的 に、 ま た断続的 に 日本 列島 ヘ 渡来 し てきた こと が、 当時 の遺 跡 か らも考 えら れ て いる。 2 中 国 の戦乱 によ る 日本 列島 への 影響 ︵ 1︶周 の勃 興期 及び 西周時代 ① 封建 国家群 の成 立 殷 ︵ 商︶ が滅 亡 し周王朝 が興 った 前 120 0∼ 1 00 0年 頃 は、 地球 規模 の寒冷 期 が到来 し たと思われ、 それ ま で栄 え て いたギ リ シ ャ文 明 ・ バビ ロ エア文 明 。エジブ ト文 明など、 ︶ 世界 各地 の文 明 が暗 黒期 に入り、 各 王 朝 が衰 退 又 は滅 亡 す る現 象 が起 こ って いる。 中 国 では、 華北 の中 原地域 で栄 え た黄 河文 明 が、 寒冷 化 によ る食 糧 不 足 や異 民族 の侵 入 で衰 退 し、 西方 の 遊牧 民族 系 な がらも定着農業 を営 ん で いた周族 が、 そ の農 業生産 力 を背 景 に力 を つけ、 殷 王朝 を倒 し て華北 を制 し て いる。 周 王朝 の特色 は、 殷 王朝 が各 地 の 都市 国家 郡 の統合体 の首長的 存在 で あ った のを、 周族 の 一族 や功 臣 など を諸侯 とし て各 地 に配 した封建 国家 制 を創 設 し、 そ の中 心的存在 とし て 王権 を確立 し た こと であ る。 従 って、各 地 に封ぜ られた諸 侯 は、 そ の地方 の異 民族 と戦 って支 配下 に 置 くと共 に、 更 にそれぞ れ の他 の諸 侯 より強大 化 をめざ し、 領地 を拡 大 す る強 化策 を採 った。 そ のため、 そ の地方 に住 ん で いた 部族 は、 服従 し て臣下 とな るか、 そ う で な い部 族 は 逃 避 せざ る を 得 な か った。 これら の中 で、 東 北 アジ アや 日本 列島 に最 も影響 を与 え たと考 え られ る のは渤海 及び 黄海 沿岸 の燕 と斉 の 2国 であ るが、 それ 以外 の当時東 夷 と称 され て いた淮 河 や山東 地方 に住 ん で いた倭族 や そ の他 の諸 小国 の動 向 も考 慮 に値す る。 ︶ ② 燕 と そ の周辺地域 燕 は、 当時 の責 河下 流域 北方 の易 州方 面 を支 配す るため、 周 の武 王 が 弟 の召公爽 ︵ 子 のE候 旨 が治 め る︶ を、 北燕 に封 じ た国 であ る。 殷 末期 の勢 力衰 退 と混乱 に乗 じ、 北戒 及び 山 戒 と称さ れ た北方 の異 民 族 の侵 略 に対 し て、中 国平原 の東 北 方 を固め、 周 王朝 の藩 屏 とし た ので あ る。 更 に、燕 の北方 ︵ 遼 西地方 か︶に、 殷 の貴 族 の 一員 であ る箕 子 を封 じ た と伝 え られ る箕 子朝鮮 も そ の 一環 で あ ると いわれ て いる。 燕 に封ぜ られ た日候旨 は、 箕 子朝 鮮 を支配 下 に置 くと共 に、 そ の地 方 の異 民族 を平 らげ 、 更 に領 地 を拡大 し がら、 燕 候 国 の強 化 を計 った。 な そ の結 果、 遼 西及び 遼 東 以東 に住 ん で いた半農 半牧 の戦 国時代 以降減 狛 など と呼ば れ た異 民族 は、 山戒 や 北方 から の遊 牧 民族 の圧迫 もあ り、 朝鮮 半島 北部 地帯 ま で移 動 を強 いら れ たと考 え られ る。 これら の抗争 や部 族 の移動 など は 歴史的資 料 がな いため判 然 とし な い が、 近年 この地方 の断片 的 な がらも 考古 学 的 調査 により、 おぼ ろげ な が らも判 明し てき て いる。 ③ 中 原文化 の東 北 アジ ア ヘの拡が り 先ず 、 紀 元前 200 0年紀 の前半 頃 の渫 河 。大 小凌 河 な らび に老吟 河 第 161号 紫 ワ′ 筑 流 域 の遼 西 地 域 で は、 内 蒙 古 自 治 区 赤 峰 市 を 中 心 と す る夏 家 店 遺 跡 。東 八家 城 址 遺 跡 。大 句 子 遺 跡 、 或 い は 遼 河 下 流 域 西 側 の高 台 山 遺 跡 な ど か ら、 主 と し て雑 穀 畑 作 農 業 を行 いな が ら 囲 壁 集 落 を営 ん で いた 異 民族 の 状 況 が 分 か って き た。 これ ら の地 方 か ら、 土 器 の中 に 北 方 中 原 文 化 の特 徴 であ った、 袋 状 を し た 三 足 器 の煮 沸 用 土 器 が 発 見 さ れ て い る。 大 貫 静 夫 氏 に よ れば ︵ 註 1︶、 フ﹂の ︵ 袋 状 のご 二足 器 の流 れ に は 二 つの流 れ が あ る。 そ の 一つは 華 北 か ら 遼 西 ・下 遼 河 流 域 に 広 が った 高 と 鼎 そ し て蔵 であ り、 そ れ ら を代 表 す る文 化 が遼 西 の夏 家 店 下 層 文 化 、 下 遼 河 流 域 西 部 の高 台 山 文 化 で あ る。﹂ と いう。 即 ち、 殷 代 の始 め 頃 か ら、 す で に 遼 西 地 区 の諸 部 族 は、 華 北 地 方 と 何 ら か の 交 流 が あ った こ と が 伺 わ れ Z。 り 前 1 0 0 0年 頃 に な り、 殷 が 滅 び 周 の始 め に 燕 国 が 成 立 す る に 及 ん で、 遼 西 地 区 は 燕 と の対 立 や交 流 な ど 接 触 が 更 に盛 ん に な った。 そ の結 果 こ の頃 に な る と 、 袋 状 の 三 足 を 持 った 煮 沸 用 上 器 で あ る 一 吊 が、 遼 河 を 越 え て遼 東 地 区 な らび に 北 方 の第 2松 花 江 流 域 や、 更 に 北 の 松 蚊 平 原 ま で広 が って い る と いう。 ま た 更 に 注 目 す べき は、﹁ 中 国中 原 地 域 で祭 祀 用 と し て 用 いら れ た青 銅 器 の容 器 が、遼 西 ︵ 特 に大 凌 河 流 域 ︶ に集 中 し て出 土 し、 更 に そ の他 の青 銅 器 が、 遼 河 下 流 域 ま で ひ ろ が る よ う に な る。︵ 註 1ご ま た、 燕 の都 であ った 前 は 北 京 郊 外 の瑠 璃 河 遺 跡 が 比 定 さ れ て い て、 瑠 璃 河 遺 跡 出 土 の青 銅 器 と 遼 西 出 土 のも の の銘 文 に 共 通 す る も の が あ る と いう。 な お 、 遼 西 の大 小凌 河 流 域 で の青 銅 器 の出 土 状 況 に、 土 墳 中 に 乱 雑 に 収 め ら れ て い る のが あ る のは、 他 民 族 の侵 略 で慌 て て逃 難 し た 故 で は な い か と も 考 え ら れ る と いう 。 以 上 の諸 点 を勘 案 す れば 、 周 初 中 国 の東 北 方 に燕 が建 国 さ れ た こと に よ り、 そ の 勢 力 が 遼 西 地 方 ま で 広 が った 結 果 、 遼 西地 方 に今 ま で住 ん で いた諸 部 族 は、 燕 と の抗 争 や交 流 を 繰 り 返 し つ つ、 か つま た、 移 動 を 余 儀 な く さ れ た こと も 伺 え る。 ④ 斉 の建 国 と 山 東 地 方 の変 化 今← 斉 の建 国 時 の山 東 地 方 の情 勢 山 東 地 方 は、 殷 王 朝 が 栄 え た黄 河 の中 流 即 ち 中 原 地 方 の東 方 に 当 た り、 中 国 大 陸 が東 海 上 に 突 き 出 た 山 東 半 島 を含 む 地 域 で あ る。 山 東 地 方 は北 は遼 東 半 島 に近 く 、そ の間 に は廟 島 群 島 が連 な り、 渤 海 と 黄 海 と を 区 切 って い る。 ま た 東 側 の海 上 に は、 東 北 ア ジ ︶ ア大 陸 か ら大 き く 南 に伸 び た 朝 鮮 半 島 が あ り、 そ の朝 鮮 半 島 の南 側 及び 東 側 の海 上 に は 日本 列 島 が 位 置 し て い る。 更 に 山 東 半 島 で は、 北 は黄 河 下 流 、 南 は准 河 の諸 河 川 に 囲 ま れ た 地 域 で、 古 来 よ り 肥 沃 な 土 地 と 共 に、 北 方 或 い は 南 方 或 いは 東 方 海 上 か ら の交 易 を 通 じ て、 殷 王朝 の 文 化 を支 え た 経 済 交 流 の 一要 衝 で あ った こと が考 え ら れ る。 従 って こ の地 方 に は、 長 江 文 化 を支 え た 倭 族 と 称 さ れ て い る水 稲 農 耕 を 主 と し 、 水 上 或 い は海 上 交 通 にも 長 け た 部 族 の小 国家 郡 が割 拠 し て いた と いう 。 し か し な が ら、 北 方 系 の設 王 朝 に と って は、 そ の支 配 下 に 属 さ な い異 民族 で、 東 夷 と 称 さ れ て いた よ う であ る。 前 1 0 0 0年 頃 殷 王 朝 を倒 し た 周 の武 王 は、 山 東 地 方 の東 半 部 に 賢 臣 太 公 望 呂 尚 を 封 じ て斉 の 国 ︵ 都 は 臨 溜 ︶ を建 て、 西 半 部 に は 武 王 の弟 周 公 旦 を 封 じ て 魯 の 国 ︵ 郡 は 曲 阜 ︶ を建 て、 山 東 地 方 の 平 定 を 目指 し た。 こ のた め、 こ の地 方 に住 ん で い た 前 期 の小部 族 国家 群 の中 に は、 周 王 朝 に 下 る も のも あ った が、 こ れ に 反す るも のは 北 の遼 西 及び 遼 東 地 方 或 いは朝 鮮 半島 に逃 れ た も のと 想 定 さ れ る。 →← 山 東 半 島 と 遼 東 半 島 の連 が り 山 東 半 島 の最 北 端 に位 置 す る蓬 莱 か ら 遼 東 半 島 の最 南 端 ま で の距 離 は 約 1 2 0 キ ロであ り、 し か も そ の渤 海 海 峡 間 に は 廟 島 群 島 が 点 々と 連 な って い る。 従 って、 両 者 間 に は古 く か ら 交 流 が あ った こと が、 近 年 の考 古 学 的 発 掘 調 査 で分 か って き た。 大 貫 静 夫 氏 に よ れば 、﹁ 華 北 の龍 山 時 代 に 併 行 す る前 2 0 0 0年 頃 。 か、 そ れ よ り 少 し 古 い こ ろ の小珠 山 文 化 、 双陀 子 1期 文 化 で は、 よ り 交 流 が 密 接 に な り、 遼 東 半 島 の 西 南 部 に も、 中 国独 特 の器 種 であ 吊や蔵 が 現 れ る 三 足 の容 器 、 規 。一 スυ と く に 墓 の副 葬 に は、 高 度 の技 術 に よ って作 ら れ た 卵 殻 黒 陶 と 呼 ば れ る、 山 東 半 島 か ら の搬 入 品 と 考 え ら れ る も の が あ る﹂ と い う。 ︵ 註 1︶ ま た、 稲 作 が 山 東 半 島 か ら 遼 東 半 島 を 経 由 し て朝 鮮 半 島 に 入 った と い う 説 が あ る。 前 1 0 0 0年 頃 に な る と、 遼 東 半 島 南 端 の大 嘴 子 遺 跡 ︵ 遼 寧省 大連市︶ の上 層 部 か ら、 小 形 の甕 に 入 った炭 化 米 が 3粒 発 見 さ れ て い る。 な お、 コメ の出 土 例 で は、 中 国 の 北 限 であ る と 言 わ れ て い る。 ま た、 農 耕 用 の石包 丁、 石 鏃 と 石 (8) 紫 筑 第 161号 皿 ・石棒 ・石杵 など穀物 加 工用品、 そ の他甕 ・壺 ・碗 。高 坪 。盤 ・尊 な ど 器 形も均整 で製 作技 法 が精緻 な土 器類 が出 土 し て いて、 遼東 地方 の他 に地域 の出土 品 と較 べて高 度 な も の であ る。 銅 式 ・銅 鏃 も出 土 し て いる と いう。︵ 註 2︶ これ に対 し、 山東 半島 の楊家 圏遺 山東省 栖 霞県︶ で、 龍 山 文 化期 跡 ︵ に当 た る前 2 300年 頃 の文 化層 の 土墳内 の焼 土中 から、 稲 の葉 と籾 が 発見 され て いる。 従 って、 山東 半島 から遼 東 半島 ヘ 伝播 され たと想定 され、 か つまた、 1 3 0 0年 程 度 の差 が あ る こと か ら、 遼 東 半島 では他 にも存在 の可能 性 があ ると いう。 な お朝鮮 半島 でも炭 化米 が同じ前 1 00 0年頃、 大 同 江下 流域 の南京 遺跡 ︵ 平壌市 三石池 地 区× 年代 測定 、及び 漢 江中流 域 の 前 99 0年 前後︶ 欣岩 里遺 跡 ︵ 京畿道 駆 州群 占東 面︶ 4C測定 では前 1 26 0年 ︵ 韓 国 の1 とあ るが、 日本 の測定 では前 1 03 0年 ・970年︶ で出 土 し て いる。 更 に前 6世紀 頃 に は錦 江流 域 の松 菊 里遺 跡 ︵ 忠清南道 扶餘 郡︶ から炭 化米 が出 土 し、 更 に前 5世紀 頃 には 日本 列島 の北部 九州 の海岸 寄 り に菜 畑遺 跡 など から炭 化米 が出 土 し て い る。 イ ネ の中 国 か ら の北 周 り の伝 播 に つい て は、 遼 東 回 り 或 い は 山 東 半 島 から朝鮮 半島中 西部 への 二説 があ る が、 いず れに し ても そ こには農耕 民 の移 動 があ った ことを裏付 け るも の と一 言える。 一 う 。 ⑤ 朝鮮半島 の変 化 →← 朝鮮 半島 北部 に無 文 土器 皇日銅 器文化 の伝 播 朝鮮 半島 では、 前 10 00年 頃 鴨 緑 江流 域 の半島 西北部 では、 大 きな変 化 が起 き て いる。 即ち、 従来 続 いた櫛 目文 土器 が 消滅 に向 か い、 新 しく無 文系 の彩 文 土器 が現 れ てく ると いう。 、 金 元龍 氏 に よれば ︵ 註 3︶ ﹁ 鴨 緑 江河 口南岸 にあ る新 岩 里遺 跡 の最下層 ︵ 新 岩 里 Iご では、平 底 土器 に綾杉 文 の文様 をも った土 器 と長 頸 に指 を差 し込 め るよう な 耳 型 の把 手 を 一対 も った 壺 形 土 器、 高 杯 形土 器、 そし て赤 ・ 黄褐 ・ 黒色 で幾 何 文 を描 いた彩 文 土器片 が出土 し て いる。 ︵ 中略︶ それ で新岩 里 I の土器 は、 遅 く とも前 1 00 0年 頃 と推 定 できよ つまり、 この頃 から中 国北東 地 方 西 南 部 の彩 文 土 器 源 流 の土 器 が、 鳴 緑 江地方 ま で伝播 し たも の と考 えら れ る。 咸鏡 北 道 雄 基 群 雄 基 邑 松 坪 洞 で、伸 展葬 の人骨 と共 に出 土 した 彩 文土 器 の長 頸壺、 同じ く遼寧 省 ︶ 註 1 大 貫 静 男 1 9 9 8年 ﹃ 東北ア ジ ア の考古 学﹄同成社 2 呉 青 雲 1 9 9 5年 ﹁ 大 嘴 子遺 跡 出土炭 化米 の考察 と研究﹂ 論文集 和 佐 野喜 久 生 編 研 究 ・ ﹃ 東 アジ ア の稲 作 起 源 と古 代 稲作 文 化﹄ 3 金 元龍 ︵ 西谷 正訳︶19 84年 ﹃ 韓 国考古 学概 説 六興出版 ﹄ 4 早 乙女 雅 博 2 0 0 0年 ﹃ 朝鮮 半島 の考古 学﹄同成社 地方 のいわゆ る 口縁彩文 土 器文 化 に由来 す るも ので、 この時期 に遼 寧 地方 の住 民 が 大 き く 膨 張 し た か、 ま たは東 方 に拡散 し て い った ことを 示唆 し て いる。 新岩 里 Ⅱ層 で、青 鋼製 泡 と 刀子 がそれぞ れ 1個ず つ出土 し た事実 は、 こ の彩 文 ・刻線 文土 器住 民 が 青銅 器 をも って いた こと を物 語 っ て いる。﹂ と いう。 また早 乙女 雅博氏 は ︵ 註 4︶、西 0 前1 9 周期 ︵ ∼ 世 紀 ︶ の 朝 鮮 半島 を青 銅文 化期 の第 1期 とし、﹁ 遼寧 式銅剣 が出現す る以前 で、 青銅 器 とし ては銅製 刀子 ・鋼製 泡 ︵ 釦︶ など があ り、 出土す る遺 跡 は半島 北部 に限 られ る。﹂ と いう。 :毒 ▼国立 歴史 民族博 物館 ︵ 歴博︶ の春 成秀 璽 ら のA MS法 によ る炭素 4 1年 代 測定 の結果、 弥生時 代 の始 まり は 紀 元前 10 00年 ま で遡 ると いう主 張 が歴博 組織 をあげ て続 いて いる。 ▼春 成 ら の年代観 によれば 、 筑紫 野 市 の永 岡遺 跡 ︵ 弥生中期 前 半 の甕棺 墓 153基、 約 100年 間継続︶ は 戦 国時代 ∼秦 代 ま で遡 り、 遺 跡 の継 続期 間も 3倍 に伸び て3 00年 にな ると いう ▼し かし遺 跡 の死者 の数 や 甕棺 人骨 の死亡年齢 もきま って いる 。 5 ︵ 4歳前 後︶ かり に永 岡 の弥生 人 が みな 100歳 以上長生 きし たとし て も、 そ の3 00年 間 を遺 跡 の死者 数 で充 当す る こと は不可能 であ ろう ▼ 歴博 は昨 年 8、 9月 ﹁ 爾生 は い つか らP 年代 研究 の最前 線﹂ と題す る 企 画展 を ひら いた。 そ の展示内容 に は、 理系 の学者 に広 が って いる批 判 はま ったくと りあげ られず 、 歴博 の A MS法 の ﹁ 正しさ﹂ だ け を 一方 的 に強 調す る姿勢 が目立 って いる▼そ し て8月下旬 の新 聞 に ﹁ 天皇皇后 両 2日、 佐倉 市 の国立 歴史 民族 陛下 は 2 博 物館 を訪 れ、企 画展 を見学。 ⋮両 陛下 は、研究者 の説 明 を受 けな がら、 0 の 生 を 紀 元前 1 世 紀 後 半 弥 土 器 見 学﹂と いう記事 が載 った ▼ ついに ﹁ 天 覧 に及 んだ か。 こわ い。 こわ い。 ﹂ ︵ 奥 野︶
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