五旬祭後第25主日

ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ
2000年11月26日
聖神降臨祭後第23主日
聖イグナチイ・ブリャンチャニーノフ
「隣人愛について」
「爾の隣を愛すること、己の如くせよ」(ルカ10:27)。
至愛の兄弟よ、本日の福音書は上記の主の誡めを告げた。神を愛し、隣人を愛する誡
めには神の律法が集約されていると福音書は付け加える。なぜなら、愛は他の諸徳が心
そうこう
に充満してはじめて成る徳だからである。聖使徒パヴェルによると、「愛は完備の総綱
なり」1(コロサイ書3:14)。
自明の理であるが、己の如く隣人を愛するためには先ず己を正しく愛する必要がある。
我々ははたして己を愛しているのか。この問いは論ずるまでもないものに思えるかも
しれないが、己を愛する人はごく稀であるといっても過言ではない。大半の人は己を憎
み、できる限り己に害悪をなすことに励む。人が一生で受ける害悪の量を測れば、不倶
戴天の敵による害悪より、自分自身による害悪のほうがはるかに多いことが分かる。諸
君も自分の良心を公正に省みれば、この指摘に首肯するはずである。
その原因は何か。常に自分のためを思って生きているつもりなのに、ほとんど絶え間
なく自分に害悪をなす原因とは何か。それは、我々が己を正しく愛する代りに自己愛に
陥っていることである。自己愛は我々をして、むやみに欲望を満たし、偽称なる知恵と
邪まなる思慮2によって導かれる陥罪の意志に従わしめる。我々は金銭欲、名誉欲、復
讐心、執念深さなど、あらゆる罪の欲望に心を奪われる。己を愛するつもりで、実は己
をだまし、充足しきれない自己愛を充足しようとしている。そうすることによって、己
を害し、己を滅ぼすのである。
いのち
己を正しく愛することは、生命をほどこすハリストスの誡めを行うことにある。「愛
したが
とは我等が彼の誡めに 循 いて行うこと是なり」(イオアン第二公書1:6)と神学者
聖イオアンは言った。怒ったり執念深かったりしないなら、汝は己を愛している。誓っ
たり嘘を吐いたりしないなら、己を愛している。人を侮辱したり盗んだり復讐したりせ
ず、隣人に対して寛容であり温柔であるなら、己を愛している。汝を罵る人を祝福し、
1
「愛は、すべてを完成させるきずなです。」「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」
虚偽の価値観と曲がった良心。聖職者が聖体礼儀の「ヘルヴィムの歌」の前に唱える祝文には、「我が
霊と心とを邪なる思慮より浄め(給え)」(奉事経)とある。邪なる思慮とは、罪および誤った価値観に
よって眩まされた良心のことである。この場合、良心は悪を善と認め、悪事をあたかも善事のように行う。
蛮族の営みをみると、「邪なる思慮」の傾向が特に顕著である。なお、目を凝らして観察するハリスティ
アニンは、全人類の営みにおいても、特に自分の生活においても「邪なる思慮」をはっきりと見極めるこ
とができる。
2
汝を憎む人に対して善をなし、汝を迫害する人のために祈るなら、己を愛している。天
の父は、悪しき者の上にも善き者の上にも太陽を上らせ、義なる者にも不義なる者にも
雨を降らして下さる。汝はそういった父の子である。
痛悔し、謙虚な心から、神に熱心な祈りを捧げるなら、汝は己を愛している。節制し、
虚栄心を絶ち、酒に酔わないなら、己を愛している。貧困な兄弟に施しをすることによ
って自分の財産を地上から天上に移し、朽ちる富を朽ちざる富と化し、仮の財産を永遠
の財産となすなら、己を愛している。隣人の短所や弱点を気の毒に思い、隣人を非難し
たり侮辱したりせず、憐れみの心を持っているなら、汝は己を愛している。隣人を裁き
非難すること(汝はそういった権利をいっさい持っていない)を己に禁じていると、義
判にして慈憐なる神は義なる審判を廃し、汝の多罪にふさわしい断罪を取り消して下さ
るであろう。
己を正しく愛し、自己愛、すなわち偽りの知に導かれる己の陥罪の意志に心を奪われ
たくないなら、福音書の誡めを詳しく学ばなければならない。その誡めは属神の知を秘
めており、それを行う者は「新たなる人」の境地に至る。福音書の誡めを学ぶとき、且
つそれを学んだ後、警戒・警醒を怠らず、心が何を望んでいるか己の所望から目を離さ
ないことが大切である。厳重に警戒すれば、やがて所望を見分けることができるように
なる。それが習慣となり、合せて神を畏れる心を持っていれば、こういった見分け作業
は第二の天性となる。福音書の誡めと明らかに相反する所望のみならず、心の平安を損
なう所望も捨てなければならない。経験から得られた聖師父の教えによると、神の旨を
もととする思いは聖なる平安を伴う。逆に、不安を伴う思いは、外面上善きものに見え
ても、罪をもととしている。(聖大マカリイ)
己を正しく愛する者は、神に適って隣人を愛することができる。自己愛を病み、その
奴隷となっている世の諸子は、むやみに隣人の全ての希望をかなえてやることによって
隣人愛を表わす。福音書の弟子は、隣人に対して至聖なる主の誡めを行うことによって
隣人愛を表わす。(神の誡めに反する)他人の希望をかなえ、欲望を満たしてやること
で人を喜ばせようとすることを魂の弊害とし、自己愛と同様にそれを恐れ、避ける。自
己愛は自分自身に対する偏愛であり、人を喜ばせようとすることは隣人に対する偏愛で
ある。自己愛を病む者は己を滅ぼし、人を喜ばせようとする偏愛を病む者は己をも隣人
をも滅ぼしてしまう。自己愛は哀れな自己欺瞞の状態である。人を喜ばせようとする者
は隣人をもその自己欺瞞に陥れようとするのである。
兄弟よ、己を捨てる人の愛はふさわしくない厳しさを帯び、忠実に福音書の誡めを行
う人の愛は暖かさを失い、冷たく機械的なものになってしまうなどと思ってはならない。
否。福音書の誡めは肉的な情愛の炎を心の中から消し(何か不都合なことが生じるとそ
の炎はあっけなく消えることがある)、その代わり霊的な愛の炎を燃え立たせ、人によ
る迫害はおろか堕天使による妨害でさえその炎を消すことができない(聖大マカリイ)。
初致命者聖ステファンがその聖なる炎で燃えていた。迫害者によって城外に引き出され、
石を投げつけられたステファンは祈っていた。致命傷を負い、苦痛に耐えられず半殺し
の状態で地面に膝をつき、最期に臨むステファンの中で、隣人愛の炎がさらに生き生き
と燃えたち、彼は自分を殺そうとしている人たちのために祈って「大いなる声を以て呼
びて曰えり、主よ、この罪を彼等に帰するなかれ」(聖使徒行実7:60)。そう言っ
て息をひきとった。初致命者の最後の思いは隣人愛の思いであり、最後の言葉と行いは
自分を殺そうとする人のために祈ることであった。
自己愛と人間を喜ばせようとする偏愛との見えざる戦いは最初のうち甚大な苦労と
つね
努力を必要とする。先祖と同様に、我々の心はわが原祖が罪の域に堕ちたとき以来「恒
さか
に聖神に逆う」(聖使徒行実7:51)。わが心は己の陥罪を認めようとせず、哀れな
陥罪状態をあたかも完全な充足、極致の状態のように思い込み、頑なにそれを是認しよ
うとする。しかし、自己愛と人間への偏愛の誘惑に勝つたび、心は霊的な慰めを受ける。
慰めを享受した心はさらに勇ましく戦いに挑み、容易に克己ができ、心にしみついた陥
罪状態に勝つことができるようになる。勝てば勝つほど、恩寵が訪れ、慰めを与えてく
れる。そうすると、人は熱心に克己を行うようになり、誡めの道をたどって福音書にそ
った完全な者になるよう努め、人知れず心の中で主に歌う。「爾我が心を広めん時、我
はし
爾が誡めの道を趨らん」(聖詠118:32)と。
兄弟よ、福音書を導きに、勇ましく自己愛との戦いを始めよう。福音書には、善くし
て全き神の旨が記されている。福音書の中には新たなるアダムであるハリストスが神秘
的に居られ、主イイスス・ハリストスと親近になることを心から望む主の諸子にその親
近性を与えてくださる。正しい、聖なる方法で己を愛することを学ぼう。そうすれば、
「爾の隣を愛すること、己の如くせよ」という、大いなる我が神の至聖なる誡めを隣人
に対して行うことができるようになるであろう。アミン。