「安息日をおぼえこれを聖とせよ。」 出エジプト記 20:8 田園調布ルーテル幼稚園は、週 6 日制の保育を行っています。子どもたちに、神さま のことを伝え、愛と奉仕の心をもって生きる人になってほしいとの願いから、日曜日も 保育の日として行い、この日を大切な日として、日曜学校を行ってきました。それは、 設立の理念によってです。もちろん、この日曜日をお休みにするご家庭があってもそれ はそれで構いません。この日をどの様に用いるかは、ご家庭の自由です。ドライブやハ イキングに出かけてもよいし、動物園や買い物も予定に入れられることもあるでしょう。 子どもが小さい時には、いろいろなところに連れて行きたいと思うのは、親御心です。 決して、強制ではありませんし、出る・出ないは、自由意志ですから。 卒園して子どもの礼拝へとつなげられます。〝子どもの〟礼拝と言っても、聖書箇所 は、大人も子どもも同じですから、表現こそ違っても、語られる中身は、〝子ども〟で はありません。聖書の言葉としてきちんと伝えられるべきものは伝えられるのです。教 会学校へ通う習慣によって、自分で朝起きて、教会学校の聖書・讃美歌が入った袋を持 って出かけてきます。事実、そのようにして教会につながり、洗礼を受けることがあり ます。小さい時に、神さまの言葉に触れた経験が成長に大きな影響を与えるのです。子 どもも、ここが(教会が)、自分が迎えられるところであり、行ってもいい場所なんだと理 解していることは「すごい」ことなんだと思います。「ちゃんと行く場所」を持ってい るというのは、「おどろく」ことだと思います。私の小さい時を思い出してみれば、日 曜の朝、テレビにかじりついて見ていましたが、特別、自分で出かけて行って、ここは、 いてもいい場所なんだという「居所」は、ありませんでした。今、教会学校に集う子ど もたちを見て、何ともうらやましい限りです。 さて、私は、その魅力は何だろうかと考えてきました。聖書のお話やお祈りは、この 世を生きる私たちに対して、〝生き方〟〝人間とは何か〟を問いかけます。大人なら、 何度となく、苦難や病気や、親しい人の死を通して、この大きな問いかけを経験してき たはずです。実は、子どももこの問いかけを、きちんと受け止めています。どのように 生きるか?自分とは何か?隣人とは何か?です。 ある日曜日の教会学校の礼拝で、礼 拝司会者がいなかったことがあり、小学生に司会を頼むことがありました。司会は、礼 拝全体の司式をし、お祈りを自分でします。お祈りは「祈りを通してしか祈れない」の です。日々の生かされている感謝、今日という日が与えられえいる感謝、友達と会うこ とができる感謝、今、クラスで自分がぶつかっていることを通してよい道が与えられる ようにとの願い、隣人への苦しみへの守りと解決への祈願、そして、神さまがいつも、 自分や隣人と共にいてくださるようにとのとりなしの祈りでした。いつも聞いているこ とによって、祈りが身についていたのです。私は、これを聞いていて、大きな感動を覚 え、身が震える思いでした。 このようなことを学校教育では教えられないものです。日曜日には、子どもたちは、 大人同様に、人生の大事な出来事や苦難に出会う時に、どう生きるか、自分とは何か、 他者とは何かを考える機会が与えられているのです。毎日曜日、人生の基礎作りを真剣 に考える子どもの心に、大きな「奇跡」が起こっていると思います。 田園調布ルーテル幼稚園 園長 杉本洋一 ―幼稚園がいつも大切にしようと心がけていることは、「喜び・祈り・感謝」です。― -1-
© Copyright 2024 Paperzz