バッハが活躍した2都市への演奏旅行記

バッハが活躍した2都市への演奏旅行記
2003 年3月に全ての仕事を終えて茨城から帰京し、残務整理がほぼ終わった1月に
友人から宗教音楽のコーラスである宗研合唱団への入会を誘われました。本来いつか
は本格的な合唱を行うことを願っていたのですぐに入会しました。また、この合唱団が8
月にバッハのゆかりの地であるドイツのアイゼナッハとライプチッヒに演奏旅行を計画
していることを知り、ますます情熱を掻き立てられました。両都市には2000年のバッハ
没後250年に訪問しましたが、ゆかりの教会でコンサートができる光栄は表現ができ
ないほどの喜びでありました。
そんな折の2月に前立腺ガンであることがわかり手術をすることになりました。偶
然、友人の中に泌尿器科の名医がおり症状を診てもらったところ、悪性ではあるが初
期ガンで 8月のドイツへの旅行に支障が無いことがわかり、まず、ドイツ旅行を前提に
手術の計画を立てて5月20日に手術を受け、手術後 2.5 ヶ月の余裕をもつこと。また、
マーカーである 1.5 月後のPSAが 0.06(4 以下が正常)でガンの快復を確認して出発しま
した。
アイゼナッハは、マルチン・ルターが1498年から3年間名門であった当地のラテン
語学校に通い、1521年の宗教改革宣言後にザクセン侯フリードリッヒ賢明公によりア
イゼナッハ郊外の山上にあるワルトブルグ城に匿われた1年間で、新約聖書をギリシャ
語からドイツ語に翻訳した所であります。約150年後の1685年には、ヨハン・セバス
チャン・バッハがこの地で生まれました。ライプチッヒは、バッハが1723年から亡くなる
1750年までの26年間聖トーマス教会のカントールとして過ごした地であり沢山の名
作を残しました。この2ヶ所のバッハゆかりの教会でコンサートを行いました。
8月5日に妻敬子とともに成田を出発してフランクフルトへ、そこからバスで3時間か
かり夜遅くアイゼナッハに到着シュタインベルガーホテルに入りました。私は飛行機の
中で病後であることを忘れて、薄着で過ごしたため風邪をひいた模様で、翌日には少し
咳が出始めましたが、予定通り午前に世界遺産のワルトブルグ城を訪ねました。ここで
のルターによる新約聖書の翻訳は、ドイツ人が自国語で聖書の言葉にふれる喜びを与
え、300もの小国に分かれたドイツの標準語がここチューリンゲン地方の言葉になり、
翻訳の綴りや文法がドイツ語の基本になり、後にマックスウェバーの言う資本主義社会
の成立のさきがけになりました。Die Rutherstube とよぶ小部屋をみて、世界を一変させ
た事柄がここから始まったことに感慨を覚えました。その後、ワルトブルグ城はその必
要性を失い荒廃していたのをゲーテがその重要性を評価して博物館にすることを提唱
しました。ワーグナーもこの城を愛し、タンホイザーの歌合戦の場をここの「歌合戦の
間」を想定し作り、また、有名なノイシュバンシュタイン城の大広間をこの城の大広間に
似せて造らせています。
この日の3時からの教会での練習後では、汗をかき熱も感じはじめ、夜には完全に
熱が高くなりました。今まで旅行中に風邪をひいたことも無く今回は不覚にも薬の用意
が無く、翌日は1日練習を休み、看病してくれた敬子に移してしまいました。やはり手術
後ということで免疫力が低下していたのでしょうか。幸いにも翌々日の日曜日には、熱
が下がり回復に向かい日曜礼拝と4時からのコンサートに出演することができました。
ゲオルゲン教会は、1180 年に創立されたこの地方の中心的な教会で、ルターがウォ
ルムスの国会で皇帝から破門されてワルトブルグ城に滞在中にしばしば説教をし、バ
ッハが 生後2日目に洗礼を受け、ルターもバッハも少年聖歌隊で歌っていたルター派
の由緒ある教会です。8日の日曜礼拝の中で、我々がバッハの最初の妻のマリア・バ
ルバラの父親のヨハン・ミヒャエル・バッハのモテット3曲を歌いました。ルター派の礼拝
形式のなかでこの3曲のモテットの内容に沿って説教が語られる音楽礼拝でした。前奏
と後奏は、BWV544 のプレリュードとフーガでしたが、さすがにバッハの本場で見事な演
奏が教会内を満たしていました。我々の席は、パイプオルガンのある会堂の後部2階
のギャラリーで、チェロ、コントラバスとパイプオルガンの伴奏で歌いましたが、高い天
井を持つ広い会堂内に良く響きわたらせることができました。
4時からのコンサートは、ゲオルゲン教会の定期のコンサートに我々が招かれる形
で行われ、ポスターなどで広告されていましたが我々の集客能力が試されるもので心
配しました。しかし、この心配は杞憂になり 120 名もの聴衆が得られました。(入場料10
ユーロ)
今回のレパートリーは、次の4曲でした。
ヨハン・セバスチャン・バッハ
BWV 196 「主はわれらを御心に留めたまえり」(結婚式用)
BWV 4 「キリストは死の縄目に繋がれたり」(復活祭用)
BWV230 「主を頌めまつれ、もろもろの異邦人よ」モテット
ヨハン・ミヒャエル・バッハの3曲のモテット
「Das Blut Jesu Christi」
「Unser leben waehret siebenzig jahr」
「 Herr, wenn ich nur dich have」
伴奏は、ヴァイオリン2本とチェロは、留学中の日本女性。ビオラ2本とコントラバス
は、ライプチッヒゲバントハウスの団員とパイプオルガンの7名で編成されました。
指揮者の大島博氏は、ドイツに長い留学経験があり、マタイやヨハネの受難曲のエバ
ンジェリストをいろいろな所で演ずるドイツ音楽の権威であり、石造りで長い残響のある
教会での音楽造りを熱心に指導してくれました。このため、演奏は好評を得てたくさん
のあたたかい拍手をいただきました。スタンディングオベーションもいただけたようでし
た。
翌日の地方紙アイゼナッヒャープレスに東京からの我々の演奏が取り上げられまし
た。
9日はライプチッヒへの移動日で、ワイマールに立ち寄るはずでしたが月曜日で博
物館などが休館日でしたので、エアフルトに立ち寄りました。エアフルトでは、大聖堂、
フィッシュマルクト広場、クレーマー橋を訪れ、ここで昼食を摂りました。そしてライプチッ
ヒに向かい、4時前に到着して中央駅のそばのウェスティンホテル入りました。ホテル
は40階建ての高層で、部屋からライプチッヒの町が見渡せました。その後に町を散策
し、聖ニコライ教会、聖トーマス教会など町の中心に出掛けました。この日はドイツ中で
雇用改善のデモがあり、ライプチッヒでは、ニコライ教会で集会を行い、そこから数千人
のデモが出発して行きました。
敬子はその夜から熱が高くなり、翌日はホテルで休養し、聖ニコライ教会のコンサー
トを聴くことができませんでした。たいへん面倒をかけました。
ライプチッヒでは、10 日に聖ニコライ教会の定期演奏会で出演し、11日には聖トーマ
ス教会内のバッハの墓前でモテットを歌うことになっていました。バッハはライプチッヒ
で聖トーマス教会のカントールであるほか4ヶ所の教会の音楽を提供することの契約結
び、聖ニコライ教会もその1つの教会で、バッハの重要な初演作品がありました。
聖ニコライ教会は1165年に創設され、宗教改革後はルター派に改宗しましたが、
東ドイツの開放に特別な役割を果たした教会です。80年代の初めに、ここで小さな平
和の祈りのグループが毎週月曜日に定期的に平和の祈りの会を始めたところ、東ドイ
ツが国家として閉塞してゆく中で、公の場に自由な空間がないため、人権、雇用改善や
環境問題等を取り上げる各種団体がこの祈りの群れに集まり、緊急を要する問題につ
いて意見交換を始めました。集会が教会的な形をとる必要があったことから、旧約聖書
やマタイ福音書の山上の垂訓のなかに時局を見出すようにして、さまざまな課題を聖
書的に取り上げていったようです。1989 年になり東側諸国の混乱が進み外国への出国
の要請が求められようになりました。聖ニコライ教会は全ての人に扉を開くと宣言したと
ころ、東ドイツの全ての地域の人々が集まり現状の問題提起をするようになりました。
危機感を持った政府は、ニコライ教会を封鎖し多数の人を監禁したところ、人々はます
ますこの教会に殺到して行ったようです。日頃から、監視のため教会に入った社会主
義統一党員や秘密警察が、一方で皮肉にも唯物論者として一切興味を示さなかった聖
書の自由と愛の思想に触れてしまって 賛同を覚えるようになり、この運動を抑制する
力を削いでいったのです。
運命の10月9日に 1,000 人の党員がこの集団の鎮圧のため出動しましたが何の対
策を取れませんでした。教会内では、平和の祈りの後、ゲバントハウスの指揮者のクル
ト・マズーアと教会が、非暴力による開放への支持、教会と芸術、音楽と福音書につい
て連帯して、2,000 人が教会を出たところ、数千人の人々が広場で待ちうけていて一緒
にろうそくをもって行進することになりました。このなかには軍隊、労働者、警察も取り
込み、勝者の賞賛も敗者不面目もない形で開放が進められたのです。この運動は数週
間続いたのち、東ドイツの党の独裁とその支配が崩壊したのです。その後も聖ニコライ
教会は失業問題など社会的な課題を提案する場にいるようです。このように、歴史的な
役割を果たした教会で演奏できることは、たいへん感慨深いものがありました。
8月10日の聖ニコライ教会での我々のコンサートは、ゲオルゲン教会と同じプログ
ラムで、伴奏は6人のストリングスとチェンバロで行われました。コーラスの位置は、後
方のギャラリーではなく、前方の講壇のある場所でした。聖ニコライ教会の定期演奏会
に招かれて、教会が広く広告していましたがどれだけの聴衆が得られるか心配でした。
しかし、観光で教会にきた人も含めて 200 名位の聴衆が得られました。演奏は、良くで
きて教会の広い空間にうまく響かせることができたようで温かい拍手を沢山いただけま
した。これも、指揮者の大島先生のドイツでの経験の賜物であると感謝しています。
11日には、午後5時から聖トーマス教会の講壇にあるバッハの墓前で歌うことにな
りました。これは、ドイツへきたご褒美のようなものでしたが、観光客や周りにいた人々
が沢山集まり耳を傾けてくれました。ここでは、伴奏者がいないため、ミヒャエル・バッハ
のモテット3曲とセバスチャン・バッハのモテットを歌いました。
聖トーマス教会は、1212 年に創立された教会ですが、バッハがカントールとして最後
の26年を過ごした重要な教会で、我々にとっては聖地であります。バッハの大多数の
教会カンタータや受難曲等はここで作曲しました。教会内には、バッハ、ルターや 100
年後にカントールになり、マタイ受難曲を再発見して再演したメンデルスゾーンのステン
ドグラスがあります。今回、この教会の礼拝に出席した、バッハのオルガン曲の研究者
としても有名なシュバイツァー、公民権運動の指導者のマーチン・ルーサー・キング牧
師、20 世紀最有力の神学者のカール・バルトの着席位置を表示したマークを見つけま
した。シュバイツァーは、アフリカの医療資金の募集のためオルガン演奏に来たのでし
ょうか。
宗研合唱団は2年後に創立 60 周年を迎えますので、これまでバッハの曲はバイブ
ルのようなものです。今回の演奏旅行はその巡礼の意味をもちますが、3ヶ所の教会
が温かく迎えてくれ、コンサートもまずまずの成功のうちに終わったことは感謝でありま
した。この間に、3年後にまたこのバッハの聖地に演奏旅行を行う計画が立てられまし
た。今度はバッハの2ヶ所目の任地のミュールハウゼンも含めようという案もあるようで
す。また来たいものと団員全体で盛り上がっていました。
演奏旅行が一段落してオプションになり、我々二人は2泊3日でウイーンに行きまし
た。多分17年振りでしたが、病み上がりでもあったので無理をせず、ケルントナー通り
界隈、美術史博物館などを訪ねました。今回初めて訪ねたベルヴェデーレ宮殿では、
クリムトの「接吻」エゴンシーレの「家族」などの世紀末の美術を見ることができました。
2日目の午後はウイーンの森観光のオプションでウイーンの南の森に行きました。ハイ
リゲンクロイツ修道院やシシーの王子が自殺した狩場の別荘であった修道院、シュー
ベルトが菩提樹を作曲したというレストランなどを訪れました。14 日のウイーンの出発
が17:40でしたので、町に出た後、昼食をホイリーゲでとグリンツィングに出かけまし
たが、あいにく雨が降り出しので、充分に歩き回れませんでした。音楽はありませんで
したがワインを飲んで雰囲気の一端を味わいました。14日にウイーンを出発しフランク
フルト経由で15日日曜日の14時ごろに成田に無事に到着しました。晴天に恵まれた
11 日でした。
今回のバッハゆかりの教会への演奏旅行は我々の夢であり、手術後2.5ヶ月の出
発は問題が無いと思いながら出かけました。若干過信があって失敗もありましたが、や
るべきことは全部できました。バッハゆかりの教会で歌うことができる機会があるとは思
ってもみなかったので希望が叶い喜んでいます。CDができるのを楽しみにしていま
す。
玉澤 武之