名古屋市民コーラス バッハ一族について 音楽家バッハ一族の起源 バッハ一族は16世紀後半から18世紀までのドイツに続いた重要な音楽家の家系である。バッハは1735年、 50歳の年に自らペンを取って「音楽家バッハ一族の起源」と題する系譜を作成した。現存する孫娘の筆写稿で は53人の男子の名が6世代にわたりあげられており、バッハは24番目に登場する。 17世紀から18世紀にかけて音楽家という職業は、大工やガラス職人のように父から子に伝えられるものであっ た。バッハ家の人々にとっても例外ではなく音楽家が世襲されることは自然の成り行きであった。彼らが習得する 音楽は芸術というより一種の技術であり特殊技能であった。 53人のほとんどが宮廷や教会、町のオルガニスト、カントル(教会音楽の指導者)、宮廷楽師、町楽師(シュタットプファ イファー)の職に就いている。バッハは自分の家系に誇りを持ちそれがすぐれた音楽家揃いであること、またその綴 り「BACH」がドイツ音名で「♭シラドシ」という表情豊かな音型をなすことも自慢の一つだった。 彼らはヴェヒマル、エアフルト、アルンシュタット、アイゼナハといった中部ドイツのテューリンゲン地方やザクセン地方に住み、宮廷 や教会、市庁舎や広場で地道な活動を積み重ねていた。バッハ一族の連帯感はかたく年に一度はテューリンゲン のどこかの町に集まり、盛大な酒宴を催した。そこではコラールを歌い、民謡の愉快な替え歌を即興的に歌うの はもちろんであったが、一族の就職斡旋までを含めた幅広い情報交換を行っていた。そして、「バッハ」という単 語が音楽家の代名詞として使われるようにまでなっていた。住んでいる地域によりエアフルト家系、アルンシュタット家 系といわれた。 バッハの先祖 バッハ一族はもともとハンガリーが起源であるとバッハは考えていたようである。また、「ルター派の信仰を守ること」 がバッハ家の家訓であると推測される。{( )付き番号はバッハ自身によってつけられたもの} (1)ファイト・バッハ (・・・・―1577) ハンガリー出身のパン屋。ルター派の教義を信仰していたため16世紀にハンガリーを追われた。ドイツではテューリンゲ ン地方がルター派の信仰を充分に守れることがわかったので彼はゴーダ近郊のヴェヒマルに居を定め、パン屋の 仕事を再開した。ツィターを弾くのが好きで水車小屋にツィターを持っていき、粉を挽きながら演奏した。子孫た ちが音楽を営むはじまりであった。 (2)ハンス・バッハ(・・・・―1626) パン屋の仕事を始めるが、音楽に特別愛着を示し、ゴーダのシュタットプファイファーに弟子入りする。 (5)クリストフ・バッハ(1613-1661) 2番ハンス・バッハの次男。練達の楽器奏者。 (11)ヨハン・アンブロジウス・バッハ(1645-1695) 5番クリストフ・バッハの次男。バッハの父。アイゼナハの宮廷と町の楽師。町楽師としてヴァイオリンを奏し、宮廷楽師 としてはトランペットを吹いた。バッハに幅広い楽器の素養を伝えたと思われる。 バッハの息子たち バッハは2度の結婚により20人の子供をもうけたが男の子は(11人うち5人は夭折)すべて音楽家になるべく教 育された。家系記録では53人のうち6人をバッハ自身の息子が占める。しかし、バッハからその息子たちにかけて の時代には職人的な音楽の営みから、主観的な思いを訴える個性的な営みへと変わる大きな転換期にあたっ ていた。バッハの息子たちはバロック音楽とウイーン古典派音楽を結ぶみごとな橋渡し役を演じた。 6人のうち、3男(47番)は24歳で亡くなり、4男(48番)には知的障害があった。 (45)ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-84) (ハレのバッハ) バッハの長男。バッハがもっとも愛し音楽的才能を高く評価していた。1746年からはハレの聖母教会オルガニス トになる。ハレで活躍したことから「ハレのバッハ」と呼ばれている。 (46)カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714―1788) (ベルリンのバッハ→ハンブルクのバッハ) バッハの次男。息子たちの中で音楽家としてもっとも優れた業績を残した。また、バッハの弟子アルトニコルとと もに残した「故人略伝」は生前のバッハのことを知る貴重な一次資料となっている。兄弟のなかでは誰よりも 父親バッハへの敬意とバッハ家の音楽的・宗教的伝統への忠誠を強く自覚し続けていた。当初ベルリンで活躍 したことから「ベルリンのバッハ」と呼ばれる。1768年からは名付け親テレマンの後任楽長としてハンブルグに転出。 今度は「ハンブルグのバッハ」と呼ばれる。バッハの息子たちやハイドン、モーツァルトが活躍していた18世紀後半では 「大バッハ」といえばエマヌエルのことを指し、バッハは一般には「エマヌエルの父で昔風の音楽を書いていたオルガ ン・チェンバロ即興演奏の名人」としてしか認められていなかった。 名古屋市民コーラス (49)ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・バッハ(1732-1795) (ビュッケブルグのバッハ) バッハの5男。 バッハの4人の息子の中ではやや影の薄い存在であまり高い評価が与えられていない。 しかし、18歳の時、ビュッケブルグの宮廷で雇われ、生涯その職場を離れなかったという堅実派でもある。 (50)ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782) (ミラノのバッハ→ロンドンのバッハ) バッハの6男。 バッハ一族では唯一のオペラ作曲家であり生前に国際的名声を得た音楽家だった。ロンドンで ヘンデルの後継者になった。兄のエヌニエルはオペラ界への進出とカトリックへの改宗、そしてドイツを捨ててつかん だ世界的な成功を先祖への裏切りとみていたらしい。 1764年ロンドンを訪れたモーツァルト一家と会い、8歳の神童ヴォルフガングに大きな刺激と影響を与えた。一緒 にクラヴィーアを弾いたり、オぺラなどイタリア音楽の様式を教えた。ヨハン・クリスティアンの訃報を聞いたモーツァルトは 「音楽界にとっての損失」と述べ、ピアノ協奏曲をその死に捧げた。 バッハ一族の終焉 49番「ビュッケブルクのバッハ」といわれたフリードリッヒの息子が一族最後の音楽家となった。その息子ヴィルヘルム・フリ -ドリヒ・エルンスト(1759-1845)は1843年、メンデルスゾーンが寄贈したバッハ記念堂(聖トーマス教会の傍らに立つ) の除幕式に出席する。しかし当時84歳の彼を知る人はなかったとロベルト・シューマンは伝えている。バッハの孫の時 代になると音楽家の世襲が古くなり職業は個人が選択するものとなった。こうした変化の中でバッハ一族も解体 する。 [バッハ一族 系図(略図)]※バッハ 50 歳時に自ら作成した「音楽家バッハ一族の起源」に基づく (1) ファイト・バッハ ~1577 ※成人男子のみ53名が取り上げられている。 ※♪印は音楽家を示す (2) ハンス・バッハ ~1626 エアフルト家系 主要家系 (4) ♪ヨハネス・バッハ (5)♪ クリストフ・バッハ ~1661 (3) リップス・バッハ ~? アルンシュタット家系 (6) ♪ ハインリヒ・バッハ ~1692 フランケン家系 ~1673 (11) ♪ ヨハン・アンブロジウス ~1695 宮廷楽師 エアフルト家系の祖 4世代 16 人中 (10) ♪ ゲオルグ・クリストフ アルンシュタット家系の祖 4世代 11 人中 ~1697 8人が音楽家 フランケン家系の祖 12人が音楽家 3 世代 4 人中 3 人が音楽家 (22) ♪ ヨハン・クリストフ ~1721 (45) ♪ ヴィルヘルム・フリーデマン 1710~1784 オルガニスト・作曲家 (23) ♪ ヨハン・ヤーコブ ~1722 (24)♪ヨハン・セバスチャン・バッハ 1685~1750 (46) ♪ カールフィリップ・エマヌエル 1714~1788 チェンバリスト・作曲家 ※セバスチャンの主要家系は 5 番クリストフ・バッハが祖 4 世代 19人中17人が音楽家 (47) ♪ ト・ベルンハル (48) ゴットフリー ト・ハインリヒ ト 1715 1724~ ゴットフリー ~1739 (49) ♪ ヨハン・クリストフフリードリヒ 1732~1795 チェンバリスト (50) ♪ ヨハン・クリスティアン 1735~1782 オルガニスト・作曲家 1763 ♪ヴィルヘルム・フリードリ ヒ・エルンスト 1759~1845 参考文献:磯山雅著「JS バッハ」、ポール・デュ=ブーシェ著「神はわが王なり」他 (バッハ研、生涯チーム A 長縄、T安藤)
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