誰がこの死の体から私を救ってくれるのか

牧師のデスクより
ローマ書 7 章 15〜25 節
誰がこの死の体から私を救ってくれるのか
使徒パウロはローマ 7:1〜14 で、律法がいかに人間の罪をあらわにし、人
間を神の前に罪あるものとして立たせるか、また、逆に、罪が律法のオキテを用
いて、いかに人間の心に罪の思い(欲望)を引き起こし、人間を罪の行為へと
かりたてていくかという、罪のメカニズムを語った。
それに続く個所(7:15〜25)で、彼は律法を守ることによって神の前に義とさ
れようと努力する人間の空しく絶望的ともいえるほどの内的戦い、激しい心の葛
藤(かっとう)を一人称を用いて生き生きと描写する。しかし、これはパウロという
一個人の体験というよりは、御霊によってではなく肉によって(すなわち人間的
努力によって)神のオキテにふさわしく生きようとするときすべての信者が体験
する霊的葛藤であるといってよい。
人間は律法を守ることによっては救われない。確かに律法そのものは善であ
り聖である。それは神の義の啓示である。すべての人が神の前に義であるため
にはこうあらねばならない、という命令でありオキテである。人間は理性では律
法の命じることが正しいと知っている。そして、そうありたいと思い、それに従お
う、それを守ろう、そうすることによって神の前に義とされようと努力する。しかし、
出来ない。罪に堕落した人間にとって神のオキテは、もはや救いではなく重圧
となってのしかかってくる。とげのように突き刺さってくる。それを守ろうとすれば
するほど、守ることが出来ない自分のみじめな罪の本性を見せつけられるだけ
だからである。
こうして律法によって啓示されている神の義のレベル(標準)に達して生きよ
うとする人間は、一方において、神の律法の命じることを行ないたいと思いなが
ら、他方において、それを守ることができないという、激しい内心の戦い、葛藤
の中に置かれるのである。
その激しい罪のジレンマの中から、人間は絶望的な叫びをあげる以外にな
い。「ああ、わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死の体から、
わたしを救ってくれるだろうか」と(24 節/口語訳)。これは、罪との激しい戦い、
空しい努力を続けてきた人間の、自己と自己の救いに対する絶望的な叫びな
のである。
この叫びに対する答えはあるのか? 救いの道はあるのか? あるのであ
る! パウロは 25 節で歓喜をもって続ける。「わたしたちの主イエス・キリストに
よって、神は感謝すべきかな!」と。パウロの口からほとばしり出たこの短い言
葉は、まさに福音の宣言であり、溢るるばかりの感謝と喜びの宣言である。
オキテによって神の義を獲得しようと、空しい、絶望的な叫びをあげる罪人の
ために、神はイエス・キリストにおいて救いの道を開かれた。すなわちキリストが
私たちに代わって律法の要求をすべて満たすことによって、神の前に「わたし
の義」となってくださった、そして、私が神の義にふさわしく生きるように、その御
霊によって私を内側から強め、生かし、導いてくださるーーそのような恵みの道
が開かれた。パウロはこのことを次の八章で詳しく述べる。このキリストとその救
いのみ業を私たちに適用してくださる聖霊の働き以外に、罪人が罪のジレンマ
から救われる道はないのである。これが福音なのである。