プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題6

プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題6
【18】
2005 年 青山学院大学 経済学部
空欄(a)~(g)に適切な語句を,また空欄(A),(B)に適切な年号(西暦)を記入するとともに,(1)~(6)の問いに答
えなさい。
歴史の教科書で,ここまではイスラム教の時代,ここからはキリスト教の時代というと,ある種の断絶があるか
に想像しがちである。もちろんそういう側面もなくはないけれども,都市空間やそこでの生活から見ると,別の側
面が見えてくるし,それがそれぞれの場所の文化として受け継がれていくことによって,その空間をゆたかにする。
しかるに自らとは異なる宗教を敵視し,「文明間の衝突」を騙ってはばからないようなところに,ゆたかな文化の
開花はありえない。
スペイン南部のアンダルシーア地方の都市コルドバは,ローマ人が紀元前から都市を建設したところである。そ
こにゲルマンの一族である
(b)後ウマイヤ
(a)西ゴート
が進出し,教会をつくった。そのあとイスラム勢力が進出して
朝ができ,メスキータと呼ばれる巨大なモスク(イスラム礼拝堂)が建てられる。この先は「千
載ののちまでも」(シェークスピア『ジュリアス・シーザー』第3幕第1場)といきたいところだが,時は容赦なく
流れて, (A)1492
年にイスラム勢力の最後の王国である
(c)ナスル
朝がスペイン勢に敗れ,その拠点のグラ
ナダを放棄,(1)北アフリカに逃れる。これが,キリスト教勢力によるイベリア半島の再征服――いわゆる
(d)レコンキスタ
の完了に当たる。かれらはこののちイスラム教のメスキータをキリスト教のカテドラル(大伽
藍)に衣替えする。
とはいえ,キリスト教化の中で破壊をまぬがれたイスラム建築物は少なくない。なかでも
(e)アルハンブラ
宮
殿は,その繊細さと優美さのゆえに,キリスト教勢力といえども,さすがに壊すに壊せなかったのだろう。ビザン
ツ帝国の首都
(f)コンスタンティノープル
が(2)オスマン・トルコの攻撃によって陥落したのが
(B)1453
年の
ことであるから,当時のキリスト教勢力には(3)トルコ・イスラム台頭の脅威に身を震わせる日々が続いていたであ
ろうに。
われわれはともすると,アラブ世界はイスラム一色で,キリスト教徒やユダヤ教徒,あるいは(4)ゾロアスター教
徒とつねにいがみ合っているように思っているが,そうではない。イスラム勢力が主たる支配を確立している世界
にあっても,異なる宗教が共存していたということは,特記すべき歴史上の事実の一つである。
シリアを例にとろう。その首都の旧市街の外にキリスト教徒の墓地がある。この地ではキリスト教といっても,
アルメニア教会,コプト教会などさまざまの教会が並存している。微妙な政治的問題がそこに絡んでいるにせよ,
社会生活の上ではそれぞれが共存している。ベドウィンの民の言語(アラビア語)の墓碑銘が刻まれたキリスト教徒
の十字架には,奇妙な感じを受けるかもしれないが,現地の人たちにしてみれば,「そんなのは遥かむかしから」
ということになる。それに,この宗教の聖書のオリジナルがアラビア語と同じセム語族系の
(g)ヘブライ
語で
書かれたことを知っていれば,奇妙でもなんでもない。
ダマスクスのガイドブックのページをくくると,旧市街の中心には古代ローマのゼウス(ジュピター)神殿の遺構
があるが,神殿を囲んでいた石積みが,(5)ビザンツ文化を代表する細密な模様や装飾を取り入れたイスラム教のモ
スクの外壁のかたちで残っている。バプティスマ(洗礼者)のヨハネが没したのはこの付近とされ,現在もモスクの
中にヨハネの墓がある。そしてそこからほどないところで,(6)シーア派の聖人が,ソクラテスさながらに「夢一つ
見ないながい眠り」に就いている。
(1)
ヨーロッパ人はイスラム化した北アフリカ西部原住民を,その本来名ではなく,別名で呼称することが多い。
その別称を書きなさい。
ベルベル人
(2)
当時のオスマン・トルコの皇帝はだれか書きなさい。メフメト 2 世
(3)
9世紀ころからある教義論争を契機に対立し,11 世紀に東西二つの教会に分裂していたキリスト教勢力であ
るが,15 世紀に入り台頭いちじるしいオスマン・トルコの脅威の前に和解の機運が高まり,分裂に終止符を打っ
た。①この論争は何に関するものであったか,②カトリック(ラテン)教会と称される西方教会に対して,東方教
会は何と呼ばれていたか書きなさい。
①聖霊の発出
入試問題としては難問過ぎ
②ギリシア正教会
コンスタンティノープル総主教ケルラリウスとローマ教皇レオ 9 世の全権使節団が相互破門をおこない、
東西の教会が最終的に分裂した。ケラリウスは、聖霊が「父および子から」発出するとする複数発出論や
「種なしパン」をもちいる聖体儀礼に反対していた。レオ 9 世は和解のための特使を派遣したが、ケラリウ
スがこれを拒否したため、使節団はハギア・ソフィアの祭壇に呪詛状をおいて総主教を破門。ケラリウス
側もこれに応酬したのである。このできごとは、はるか以前から進行していた関係悪化のひとつの象徴的
事件にすぎない。両者の分裂は 1204 年、第 4 回十字軍によるコンスタンティノープル侵略によってクライ
マックスをむかえる
(4)
歴史上最古の宗教とされるゾロアスター教の聖典は,ある人物が紀元前 330 年に古代ペルシャのペルセポリ
スを侵し,都下に火を放ったさい,炎上する王宮と運命をともにしたという。①この宗教の聖典名は何か,②こ
の都市を攻略した人物とはだれか書きなさい。
①『アヴェスター』
②アレクサンドロス大王
(5)
こうした模様や装飾は何と呼ばれるか書きなさい。
(6)
シーア派は主にイランに存続するイスラムの一宗派であるが,今日のイランで多数派をなすのはシーア派の
ある教派である。その教派の名前を書きなさい。
モザイク
十二イマーム派
【19】2004 年 立教大学 社会学部(社会学科/産業関係学科)
次の文を読み,下記の設問A~Cに答えよ。
1)
ゲルマン民族のもともとの住地は,スカンディナヴィア半島南部とユトランド半島,およびバルト海沿岸部と
推定されている。その後次第に南下し,先住の(
イ
b.ケルト)人を駆逐し,中部ヨーロッパ一帯に広まるよう
になり,やがて,ライン,ドナウの両川を結ぶ線で 2)ローマ帝国と境界を接するようになった。民族大移動開始前
の古代ゲルマン社会については,カエサルの『ガリア戦記』や〔
あ
タキトゥス
〕の『ゲルマニア』などによ
って知られている。これらによると,古代ゲルマンの社会の各部族では,首長が主宰する(
ロ
d.民会)がおか
れ,これが部族国家における最高決定機関の役割を果たしていた。また,自由民が,有力者から保護される代償に
〔
い
従士〕として忠誠を尽くす〔
い
従士〕制が成立していた。4世紀後半から始まる大移動の直接的な原
因は,3)フン族による圧迫である。中央アジアを原住地としていたフン族は,4世紀後半に黒海の北方から西進し,
4)
東ゴート族および西ゴート族を圧迫した。西ゴート族は,ローマ帝国の保護を求めてドナウ川を渡り,これを契
機に,民族の大移動が始まったのである。
その後,5)ローマ帝国は東西に分裂し,本土防衛のために辺境守備隊を撤収せざるを得なくなった。このため,6)
ヴァンダル,ブルグント,フランクなどの諸部族も西ローマ領に侵入し,西ヨーロッパに民族大移動の波が押し寄
せたのである。フランク族は,支族のうちの一つであるサリー支族から出た〔う
メロヴィング〕家のクローヴィ
スによって,5世紀末に統一された。その後クローヴィスは,西ゴート王国を破り,現在の呼び名でいうところの
(
ハ
c.パリ)を中心にガリア全域をほぼその支配下においた。クローヴィスの死後,衰退した
〔う
メロヴィング〕家に代わって実権を握ったのが,宮宰職を世襲的に独占したカロリング家であった。カロリ
ング家のカール=マルテルは,北アフリカおよびイベリア半島をへてガリアに侵入した 7)ウマイヤ朝の軍隊を撃破
して威信を高め,751 年,その子ピピンはクーデターを決行し,自ら王位についた。ここに,カロリング朝が成立
した。800 年,ローマ教皇は,ピピンの子であるカールにローマ皇帝の冠を授け,(
ニ
c.ビザンツ帝国)への
従属を断ち切った。ここに,カール大帝が誕生することとなったのである。外征に積極的だったカールは,一方で,
領土統治においても様々な政策を実施に移した。
8)
ただし,カールによる統治は,カール個人の資質に大きく頼っていたため,カールの死後,その支配体制は急速に
崩壊に向かい,その領土は(
ホ
b.イタリア),9)東フランク,10)西フランクに分割され,後の西ヨーロッパ諸
ホ
)にあてはまる適当な語句を,それぞれ対応する次のa~dから1つずつ選び,
国の基礎がつくられた。
A.文中の空所(
イ
)~(
その符号をマークせよ。
(イ)
a.エトルリア
b.ケルト
c.サムニウム
d.ドーリア
(ロ)
a.元老院
b.500 人評議会
c.平民会
d.民会
(ハ)
a.イスタンブル
b.ケルン
(ニ)
a.ササン朝
(ホ)
a.イギリス
B.文中の空所〔
あ
〕~〔
c.パリ
b.セルジューク朝
b.イタリア
う
d.ローマ
c.ビザンツ帝国
d.ブルガリア王国
c.スペイン
d.ポルトガル
〕それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
C.文中の下線部 1)~10)にそれぞれ対応する次の問1~10 に答えよ。
...
1. ⅰ.この民族の言語と異なる語族に属する言語を,次のa~dから1つ選び,その符号をマークせよ。
a.アラム語
b.サンスクリット語
c.セルビア語
d.ペルシア語
サンスクリット語=インド・ヨーロッパ語族の中のインド語派を形成し,その豊富な資料は古代ギリシア
語と並んでこの語族の設定と比較言語学の成立に大きな役割を果たした。
ⅱ.この民族の一つであるノルマン人の中には,スラヴ地域にまで入り込んだものも見られた。スラヴ人は,
これらのノルマン人を何と呼んだか。次のa~dから1つ選び,その符号をマークせよ。
a.アヴァール
b.スロヴェニア
c.デーン
d.ルーシ
ルーシの語源については諸説が対立している。12 世紀初頭に編まれた年代記《過ぎし年月の物語》によれば,862
年に東スラブ諸種族がスカンジナビアのノルマン人(ロシア語で〈ワリャーギ varyagi〉)のもとへ自分たちの支配者
を求める使者を送ったが,そのワリャーギがルーシと名づけられていたという。かつてバルト海沿岸に住んでいたフ
ィン人たちが,ノルマン人を〈舟をこぐ人〉の意味で〈ローツィ Rヾtsi〉と呼んでおり,その呼称が東スラブ人に
伝わってルーシとなり,かくてこの支配者の名称がキエフを中心に形成された東スラブ人の最初の国名になったとす
る説が有力である。これに対して,赤っぽい髪の毛の色を指す〈ルースイ rusyi〉を語源とみる説,ドニエプル川の
支流の一つローシ川 Ros’からルーシの名称が生じたとする説などが主張されている。
2.ⅰ.ローマ帝国の皇帝ネロによって自殺に追い込まれたストア派哲学者で『幸福論』を著した人物の名を記せ。
セネカ
ⅱ.ローマ帝国の最盛期を創出した五賢帝のうち,最初に即位した皇帝の名をしるせ。
ネルヴァ
3.この民族は,アッティラに率いられて発展したが,451 年,西ローマ・西ゴート・フランクの連合軍との戦い
に敗れた。この戦いの名をしるせ。
カタラウヌムの戦い
4.この部族を率いて,オドアケルを倒して建国した王の名をしるせ。
テオドリック
5.東西分裂が起こった年を,次のa~dから1つ選び,その符号をマークせよ。
a.365 年
b.375 年
c.385 年
d.395 年
6.この部族が,429 年に王国を建設した場所はどれか。次のa~dから1つ選び,その符号をマークせよ。
a.アフリカ北岸
b.イタリア半島北部
c.バルカン半島西部
d.ライン川東岸
7.ウマイヤ朝の滅亡の一因には,アラブ人イスラーム教徒から差別された非アラブ人のイスラーム改宗者の不満
があった。この非アラブ人のイスラーム改宗者を何と呼ぶか。次のa~dから1つ選び,その符号をマークせよ。
a.イマーム
b.ジンミー
c.ベドゥイン
d.マワーリー
.....
8.これに含まれる政策として正しくないものを,次のa~dから1つ選び,その符号をマークせよ。
a.屯田兵制や軍管区制をしくことで,豪族割拠の体制を打破しようとした
b.全国を多くの州に分け,州ごとに伯をおいて軍事・政治の両面を担当させた
c.国王直属の巡察使を定期的に各州におくって監督に当たらせた
d.学校を設置したり,諸国から高名な学者を招聘したりするなど,積極的な文教政策を行なった
9.東フランクの大諸侯の一つで,カロリング朝断絶の後,コンラート1世に続いて即位したハインリヒ1世を輩
出した王家の名をしるせ。
ザクセン家
10.西フランクでは,後にカペー朝が開かれた。このカペー朝に関する記述として正しいものを,
次のa~dから1つ選び,その符号をマークせよ。
a.カペー朝は,パリ伯フィリップ2世によって開かれた
ユーグ=カペー
b.12 世紀末に即位したルイ9世は,イギリスのジョン王と戦って,大陸におけるイギリス領の大半を奪
った
フィリップ2世
c.フィリップ4世は,聖職者,貴族,平民の代表者から成る三部会を初めて召集し,その支持を得て,
アナーニ事件で教皇を屈服させた
d.イギリスとの長期的な戦争に加え,農民による一揆などによって勢力を減退させたカペー朝は,フィ
リップ6世率いるヴァロア朝にとって代わられた
1337 年,フランス王フィリップ 6 世(在位 1328‐50)は,1328 年に彼が即位したときイギリス王エドワード
3 世がアキテーヌ(ギュイエンヌ)公領について彼に立てた臣従誓約に不備があったと言いたてて,公領の没
収を宣言した。エドワード 3 世はこれに対し,フィリップ 6 世を〈自称フランス王〉と呼び,フランス王
の封臣としての立場を自ら解除した。40 年初頭,エドワード 3 世は,フランドルのガン(ヘント)において
発行した一連の文書に〈イングランドとフランスの王〉を名のった。これは血統権に基づくフランス王位
請求権の行使であり,ガンの毛織物商フィリップ・ファン・アルテフェルデが指導するフランドル等族会議
との攻守同盟に基づく行動であった。
プリントのデータを画像として鮮明にするためのフロンティア問題7
【20】
2004 年 東京学芸大学
次のA,Bの文章を読んで,以下の問いに答えよ。
A
8~9世紀に始まった(a)ノルマン人(ヴァイキング)の各地への移動は,中世ヨーロッパの歴史に重要な転機を
もたらした。現在の北フランスに侵入したノルマンの首長
よって
(2)ノルマンディー
(4)ヘースティングズ
(1)ロロ
公に封じられた。11 世紀後半には,
は,911 年,フランス(西フランク)王に
(2)
公
(3)ウィリアム
が,
の戦いでハロルド(二世)を敗死させて(b)イングランドを征服した。この結果,イングラ
ンドでは,(C)他のヨーロッパ諸国とは少しタイプの異なった封建制度が成立することとなった。また, (2)
国の騎士達は,11 世紀に南イタリアを征服し,更に
って,12 世紀にはいわゆる両
(5)
(5)シチリア
島を
(6)イスラーム
公
教徒の勢力から奪
王国を形成した。この王国はイベリア半島と並んで,(d)
(6)
文化が西
ヨーロッパに摂取される接点の一つとなった。
B
11~12 世紀は,中世ヨーロッパの荘園のあり方に大きな変化が起こった時代である。
すき
(7)重量有輪(鉄製有輪)
(8)賦役
№19
さん ぽ
犂 使用,(e) 三 圃制農法の普及により,農業生産力は向上し,従来は農奴の
によって耕作されていた領主直営地の多くは
(9)農民保有
地にかわり,農奴の領主に対する負
こうのう
担は,英仏では 13~14 世紀頃までに
(8)
よりも 貢 納 (生産物地代)を主とするものに変わっていった。これ
によって農奴(農民)の領主への人身的従属の度合いは
(1)
から
(10)
(10)弱
まった。
問1
文章中の空欄
に入る最も適切な語句を解答欄に記せ。
問2
下線部(a)について,ノルマン人の移動前の原住地はどこか,記せ。
スカンディナヴィアおよびユトランド半島
問3
下線部(b)について,民族大移動期からノルマン人による征服までのイングランドの歴史を 150 字以内(句読
点等を含む)で述べよ。
民族大移動でアングル・サクソン・ジュート族が侵入し,ケルト人を征服して七王朝を建て,
9世紀前半にはエグバートがこれらを統一した。次に進入したデーン人は一度はアルフレッド大王に
撃退されたが,1016 年デーン人の王カヌートがイングランドを征服。
その後復活したアングロ・サクソン系の王国をノルマン人が征服。
問4
下線部(c)について,イングランドの封建制の特色を他のヨーロッパ諸国と比較して 25 字以内(句読点等を
含む)で述べよ。
他のヨーロッパ諸国に比べて最初から王権が強かった。
問6
下線部(e)について,三圃制農法とはどのようなものか,40 字以内(句読点等を含む)で説明せよ。
耕地を春耕地・秋耕地・休閑地に三分し,三年で一巡させて地力の回復をはかる農法。
【21】2005 年学院大学 経済学部
次の文中の
に最も適当な語を語群から選び,また下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。
8世紀以降の中世の西ヨーロッパ社会では,封建制度のもとで自給自足経済と現物経済が支配的であった。それ
は①第2次民族大移動から生じた混乱のもとで交通や商業が衰退したことや,封建的主従関係に基づいて②荘園制が
成立したことによる。荘園は領主直営地と農民保有地からなり,そこでは自給自足的な農業経営が行われていた。
また荘園領主は,国王の役人の立ち入りが免除される不輸不入権を得ていた。
ところが,11 世紀頃から封建社会が安定し,③農業生産も向上すると,ドイツ人の
イエルベ
川以東への植民,
イベリア半島での国土回復運動(レコンキスタ),⑤十字軍の遠征による西ヨーロッパ世界の拡大に伴い,余剰生産
④
物の交換や取引に対する要望が生まれた。これが中世都市成立の要因である。そこでは,かつての自給自足・現物
経済に代わり,交換経済と貨幣経済が支配的となった。
たとえば⑥北イタリアの諸都市や,リューベック,ハンブルクなどの北ドイツの諸都市では⑦遠隔地商業が発達し
た。特に,北ドイツでは
ロ ハンザ
同盟が結成され,北方貿易を独占した。また,都市では⑧ギルドが形成さ
れ,これによって市場が独占されていった。
[語
[問
①
群]
イ
a.ライン
b.エルベ
ロ
a.ロンバルディア
b.カルマル
c.マース
c.ハンザ
d.ローヌ
d.シュマルカルデン
い]
8世紀以降の第2次民族大移動に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.カール=マルテルは,イベリア半島から侵入したイスラーム教徒を退けた。
b.オットー1世は,レヒフェルトの戦いでマジャール人を退けた。
c.カヌートに率いられたヴァイキングの一派は,ノルマンディー公国を建てた。
d.イングランドのアルフレッド大王は,デーン人の侵入を一時的に退けた。
②
荘園制に関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.荘園内の農民は,領主に対して賦役や貢納の義務を負った。
b.荘園内の農民は,教会に十分の一税を支払った。
c.領主は,荘園内の農民に対して裁判権を行使することができた。
d.聖職者・教会は,荘園内の農民を支配する領主にはならなかった。
③
11 世紀頃から新たに普及し,農業生産の向上に貢献した農法はどれか。
a.二毛作
④
c.二期作
d.二圃制
イベリア半島におけるイスラームの最後の拠点となり,1492 年に陥落したナスル朝の都はどれか。
a.グラナダ
⑤
b.三圃制
b.サラゴサ
c.コルドバ
d.バレンシア
十字軍の遠征に関する記述で,誤りを含まないものはどれか。
a.第1回十字軍で建設されたイェルサレム王国は,セルジューク朝(アイユーブ朝サラディン)の
攻撃を受けて滅んだ。
b.第3回十字軍には,イギリス王・フランス王・神聖ローマ皇帝が参加した。
c.第4回十字軍で建設されたラテン帝国は,イル=ハン朝の反撃を受けて滅んだ。
1261 年 7 月首都は奇襲でニケーア皇帝ミハエル 8 世の手に落ち,ラテン帝国は滅びた。
d.第7回十字軍で,フランス王ルイ9世はエジプトを攻撃したが敗退した。(?)
第7回十字軍(1248‐54)のエジプト攻撃失敗の後,その統率者フランス王ルイ9世による聖地防衛力
の再建にもかかわらず,カイロの新政権マムルーク朝(1250‐1517)の強襲をうけてほとんど破局的打
撃を被った。最後の第8回十字軍(1270)はエルサレムから3000km余も遠くへだたったチュニスで挫折
し,アッカーに踏みとどまっていた聖地のキリスト教徒は戦死者と捕虜を除いてすべて〈海に掃き落と
され〉,十字軍が築いた中近東の植民地は全面的に崩壊した(1291)。かろうじてキプロス島に退却し
た生存者はなおこの島を前衛として〈後の十字軍〉による退勢恐回を企てることになる。
⑥
⑦
北イタリアの諸都市に含まれないものはどれか。
a.ミラノ
b.フィレンツェ
c.マルセイユ
d.ジェノヴァ
遠隔地商業に関する記述で,誤りを含まないものはどれか。
a.バルト海・北海貿易の中心地であるリューベックは,ザクセン公が建設した都市である。
12 世紀中ごろに領内の経済発展を願うザクセン公ハインリヒ獅子公が,西方から企業心に富む人々
を招いてバルト貿易の拠点とするために建設させた。
b.東方貿易の中心地であるダンチヒやブレーメンでは,香辛料が輸入されていた。
c.北イタリアのフランドル地方では,毛織物産業が盛んであった。
d.ドナウ川中流の大司教所在地ケルンも,交易の中心地として繁栄した。
⑧
中世都市のギルドに関する記述で,誤りを含むものはどれか。
a.初期の商人ギルドは,商人だけでなく手工業者も含む組合組織であった。
b.商人ギルドの運営を独占する大商人に対抗して,手工業者は同職ギルドをつくった。
c.同職ギルドの正規の組合員は親方と職人であり,徒弟との間には厳しい身分差があった。
d.同職ギルドは,ツンフト闘争を通じて,市政への参加を実現した。
【22】
2003 年 明治大学
文学部一部
次の問いA,Bに答えなさい。
A.十字軍の遠征が,その後の西ヨーロッパにもたらした影響について 60 字以内で述べなさい。
A
教皇権衰退と王権伸張,騎士の没落を招いた。東方貿易が活発になって商業が栄え,
ビザンツ・イスラームの文明がもたらされた。
B.周代の封建制度について 60 字以内で述べなさい。
B
氏族制的血縁関係に基づき,一族や功臣に土地を与え世襲の諸侯とし,かわりに貢納と
軍役の義務を課す制度