論述対策講座 【参考1】 担 当 ,岡 留 2004 年 東京学芸大学 次のA,Bの文章を読んで,以下の問いに答えよ。 A 8~9世紀に始まった(a)ノルマン人(ヴァイキング)の各地への移動は,中世ヨーロッパの歴史に重要な転機 をもたらした。現在の北フランスに侵入したノルマンの首長 王によって (2)ノルマンディー (4)ヘースティングズ (1)ロロ 公に封じられた。11 世紀後半には, は,911 年,フランス(西フランク) (2) 公 (3)ウィリアム が, の戦いでハロルド(二世)を敗死させて(b)イングランドを征服した。この結果,イングラ ンドでは,(C)他のヨーロッパ諸国とは少しタイプの異なった封建制度が成立することとなった。また, 公国の騎士達は,11 世紀に南イタリアを征服し,更に から奪って,12 世紀にはいわゆる両 (5) (5)シチリア 島を (6)イスラーム (2) 教徒の勢力 王国を形成した。この王国はイベリア半島と並んで,(d) (6) 文 化が西ヨーロッパに摂取される接点の一つとなった。 B 11~12 世紀は,中世ヨーロッパの荘園のあり方に大きな変化が起こった時代である。 すき (7)重量有輪(鉄製有輪) (8)賦役 さん ぽ 犂 使用,(e) 三 圃制農法の普及により,農業生産力は向上し,従来は農奴の によって耕作されていた領主直営地の多くは (9)農民保有 地にかわり,農奴の領主に対する負 こうのう 担は,英仏では 13~14 世紀頃までに (8) よりも 貢 納 (生産物地代)を主とするものに変わっていった。これ によって農奴(農民)の領主への人身的従属の度合いは (1) から (10) (10)弱 まった。 問1 文章中の空欄 に入る最も適切な語句を解答欄に記せ。 問2 下線部(a)について,ノルマン人の移動前の原住地はどこか,記せ。 スカンディナヴィアおよびユトランド半島 問3 下線部(b)について,民族大移動期からノルマン人による征服までのイングランドの歴史を 150 字以内(句 読点等を含む)で述べよ。 民族大移動でアングル・サクソン・ジュート族が侵入し,ケルト人を征服して七王朝を建て, 9世紀前半にはエグバートがこれらを統一した。次に進入したデーン人は一度はアルフレッド大王 に撃退されたが,1016 年デーン人の王カヌートがイングランドを征服。 その後復活したアングロ・サクソン系の王国をノルマン人が征服。 問4 下線部(c)について,イングランドの封建制の特色を他のヨーロッパ諸国と比較して 25 字以内(句読点等を 含む)で述べよ。 他のヨーロッパ諸国に比べて最初から王権が強かった。 問6 下線部(e)について,三圃制農法とはどのようなものか,40 字以内(句読点等を含む)で説明せよ。 耕地を春耕地・秋耕地・休閑地に三分し,三年で一巡させて地力の回復をはかる農法。 【参 考 2】 2006 年 筑 波 大 学 次の問について,400 字以内で解答しなさい。なお解答文の中では指定された語句に下線を施すこと。 西ローマ帝国滅亡後から8世紀後半までのイタリアの政治情勢について以下の語句を用いて述べなさ い(なお以下の語句のうちランゴバルドはロンバルドと表記される場合もある)。 ピピン ランゴバルド 東ゴート ユスティニアヌス カール大帝 西 ローマ帝 国 滅 亡 後 ,イタリアを支 配 したのはオドアケルであったが, やがて 493 年 ,テオドリック率 いる東 ゴート族 がイタリアに侵 入 , これを 破 り , 東 ゴート 王 国 を 建 てた 。 東 ゴート 王 国 時 代 にイタリ アは一 時 安 定 を享 受 した が,間 もなく東 ローマ皇 帝 ユスティニアヌスの遠 征 を受 け,東 ゴート王 国 は 555 年 に滅 亡 した。しかしながら,東 ローマ帝 国 のイタリア支 配 も長 くは続 かず,ユスティニアヌスの死 後 ,ゲルマン人 の一 派 ランゴバルド人 が北 イタリアに侵 入 , 東 ローマ帝 国 の北 イタリア領 を奪 って,ランゴバルド王 国 を建 設 した。 8世 紀 の半 ばになると,ランゴバルド王 国 に脅 かされた教 皇 の要 請 を受 け,フランク王 国 がイタリアに介 入 するようになる。 ピピンはイタリア遠 征 を行 い,その領 土 の一 部 を奪 い,ラヴェンナ地 方 を教 皇 に寄 進 した。 最 終 的 にカール大 帝 が 774 年 にランゴバルド王 国 を倒 し,イタリアの大 部 分 をフランク王 国 に併 合 した。 【参 考 3】 2001 年 首 都 大 学 東 京 ローマ帝国によって統一された古代地中海世界は,4世紀以降崩壊し,次の図のように新たな三つの世 界に分かれていった。この新たに形成された諸世界のうち,「西ヨーロッパ世界」ではゲルマン人諸国家 を統一したフランク王国を中心に,紀元 600 年から 800 年にかけて新たな文明(中世ヨーロッパ)の原型が 形作られたと言われる。この新たな西ヨーロッパ世界の形成においてカール大帝(シャルルマーニュ)が 果たした歴史的役割について,以下の語句をすべて使用して,400 字以内で述べよ。また,使用した語 句には下線を引くこと。 〔語句〕 小ピピン アーヘン カール=マルテル ローマ皇帝権 レオ3世 ザクセン(サクソン)族 ウマイヤ朝 ビザンツ皇帝 フランク王国の宮宰カール=マルテルは,トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の遠征軍を破 ってキリスト教世界を守り,カロリング朝を創始した小ピピンはラヴェンナ地方を寄進することによって ローマ教皇と結びつきを強めた。 これを受け継いだカール大帝は,イタリアのロンバルド族や東方のアヴァール族,北方のザクセン族 を討って領土を拡大し,イベリア半島にも遠征を行った。また,アーヘンに宮廷学校を開き,アルクイ ンを招くなどカロリング=ルネサンスを進めた。 一方ビザンツ皇帝レオン 3 世が726年に出した聖像禁止令に困惑したローマ教会は新たな後ろ盾 を求め,ローマ教皇レオ 3 世は 800 年カール大帝に西ローマ皇帝の冠を授けた。 これによりローマ教会はビザンツ皇帝権からの自立を果たし,ローマ皇帝権を得たフランク王国によ り,古代ローマ・ゲルマン・キリスト教の三者が融合した西ヨーロッパ世界が成立した。 【参 考 4】 92 年 一 橋 大 オドアケル王 国 成 立 以 後 、8世 紀 半 ばに至 るまで、旧 ローマ帝 国 領 だった地 中 海 地 域 には 民 族 の移 動 を含 む大 きな政 治 的 変 化 が生 じた。次 の三 つの人 名 を使 用 し 400 字 で説 明 せ よ。 { ユスティニアヌス帝 ムハンマド カール=マルテル イベリア半 島 の西 ゴート、北 アフリカのヴァンダル、イタリア半 島 に東 ゴート、 ガリアにフランクが建 国 6世 紀 半 ばユスティニアヌス帝 はヴァンダルと東 ゴートを滅 ぼし、地 中 海 再 統 一 帝 の末 年 、ランゴバルドが北 イタリアに侵 入 7世 紀 初 頭 、ムハンマドがイスラーム教 を創 始 アラブ人 を統 合 7世 紀 中 葉 ,(正 統 カリフ時 代 )ビザンツ帝 国 からエジプト、シリアを 7世 紀 末 には(ウマイヤ朝 )北 アフリカを奪 い、 8世 紀 初 頭 ,西 ゴートを滅 ぼしイベリア半 島 を支 配 東 方 カールマルテル(トゥール・ポワティエ)と西 方 レオン 3 世 にくい止 められ、 地 中 海 世 界 はイスラーム圏 、ビザンツ帝 国 、フランクに三 分 された 4 【参 考 5】 2007 年 筑 波 大 学 次の問について,400 字以内で解答しなさい。なお,解答文中では指定された語句に下線を施すこと。 現 代 のドイツ領 土 は,かつての神 聖 ローマ帝 国 を基 盤 としている。神 聖 ローマ帝 国 の名 称 の 由 来 ,その 15 世 紀 末 までの変 遷 について,以 下 の語 句 を用 いて説 明 しなさい。 オットー1世 金印勅書 皇帝による統一 領 邦 イタリア政策 ローマ帝国の復興をめざした東フランク[ドイツ]王のオットー1世は,北イタリアに出兵して教皇を援 助し,962 年に教皇から帝冠を授けられた。ドイツ王が皇帝の称号を受け継ぐことになったことが, 神聖ローマ帝国の起源である。その後の皇帝はイタリア政策に力をそそいで,本国の統治をおろそ かにしたため,諸侯の自立の傾向が強く,皇帝による統一が達成されなかった。 13 世紀には皇帝不在の大空位時代もあり,カール4世の時代の 1356 年に金印勅書が出されて,聖 俗の7諸侯が選帝侯として皇帝を選出することが定められた。 15 世紀半ばからはハプスブルク家から皇帝が選出されたが,混乱は収拾されず,諸侯や都市など, 300 あまりの領邦が分立した。 3 【参 考 】 【参 考 6】 91 年 一 橋 大 ヨーロッパ諸国のなかでマジャール族の脅威をもっとも深刻に蒙ったのは 東 フ ラ ン ク 王 国 で あ っ た が 、 919 年 ザ ク セ ン 族 出 身 の 貴 族 と し て 王 位 に つ い た ハインリヒ1世と子オットー1世はいくつかの重要な戦いに勝利し、この外敵 の侵入終わらせることによって王としての不動の地位を固めたのみならず、キ リスト教世界の防衛者としての西欧世界全体における最高位につくに至った。 その経過を具体的に記せ。 ( 200 字 ) ハインリヒ1世 はドイツ諸 侯 の協 力 を得 て 10 世 紀 前 半 にマジャール人 を撃 退 し、ザクセン 朝 の基 礎 を固 めた オットー1世 は、側 近 聖 職 者 を大 司 教 ・司 教 ・修 道 院 長 に任 命 する教 会 政 策 で王 権 を強 化 955 年 にレヒフェルトの戦 いでマジャール人 を完 全 撃 退 教 皇 ヨハネス 12 世 の要 請 でイタリアに遠 征 し、962 年 帝 冠 をうけ、皇 帝 権 とドイツ王 権 を結 合 する神 聖 ローマ帝 国 を建 国 6 【7】 2006 年 福井大学 次の中世以降のキリスト教史に関する文章を読み,以下の設問に答えなさい。 A ローマ教皇は,それまで庇護を受けていたビザンツ皇帝に政治的および軍事的に依存することができなくな った結果,フランク王国との関係を強めはじめた。こうして,教皇 イ レオ3世 はフランク王のカールに ローマ皇帝冠を授けた。カール大帝の登場は「西ローマ帝国の復興」といわれた。 B 教皇グレゴリウス7世は世俗権力による聖職者の任命をも聖職の売買とみなした。これに対して,神聖ロー マ帝国では,国内の司教や修道院長は世俗権力によって任命されるという慣習があった。こうして,神聖ロー マ皇帝 C ロ ハインリヒ4世 と教皇が対立し,いわゆる叙任権闘争①がはじまった。 ザクセン家のオットー1世は,支持基盤を諸侯から教会や修道院にかえ,これに特権を与え保護した。また, 東方から遠征してきたアジア系の ハ マジャール人 を撃退し,北イタリアに出兵して教皇を援助したため, 962 年に教皇からローマ皇帝の位を与えられた。 D 東方のコンスタンティノープル教会では聖像破壊論が勢力を増し,ビザンツ皇帝 ニ レオン3世 は聖像 禁止令を発布した。もともとキリスト教は聖像を厳しく禁じていたが,西欧ではゲルマン人のキリスト教化に 聖像は有効とみなされ,修道士たちはこれを重視して布教活動を行っていた。 E 教皇ボニファティウス8世は,教皇権の優越を主張して,聖職者への課税を進める英仏と戦争をおこしたが, フランス王フィリップ4世にアナーニでとらえられ,解放後死亡した。1309 年には,教皇庁が南フランスの ホ アヴィニヨン に移され,以後約 70 年間,教皇はフランス王の監視下に置かれることになった。このこ とを,教皇のバビロン捕囚②という。 F 教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で聖地回復のための十字軍遠征を提案した。このとき,聖地イェ ルサレムは ヘ セルジューク朝 によって占領されていた。諸侯や騎士を中心に編成された第1回十字軍③ は,聖地の奪回に成功し,イェルサレム王国を建国した。しかし,この王国は次第に勢力を失い,最終的に ト G マムルーク朝 の攻撃を受けて滅亡した。 ルターは,教皇レオ 10 世による贖宥状(免罪符)の乱売に対して,「九十五カ条の論題④」を発表した。教皇 はその取り消しを要求したが,ルターはこれを拒否し破門された。だが,彼は教皇や皇帝から自立しようとす る諸侯や都市に熱狂的に支持された。こうしてルター派諸侯は,カトリックの擁護者を自認する神聖ローマ皇 帝カール5世に対してシュマルカルデン同盟を結成し,内戦をはじめた。最終的に,1555 年の チ アウクスブルクの和議 において諸侯の信仰は容認された。こうした一連の過程で,ローマ・カトリック 教会の宗教的・政治的権威は激しく揺さぶられたのである⑤。 H 2005 年4月のヨハネ・パウロ2世⑥の死により,コンクラーヴェ(教皇選挙)が行われ,南ドイツ出身のベネデ ィクト 16 世が選出された。 設問1 文中の イ から チ のそれぞれに当てはまる語句を答えなさい。 イ ロ ハ ニ ホ ヘ ト チ 設問2 AからHの文章群を時期の早い順に並べかえると,次の(あ)から(え)のいずれの組み合わせになるか, 記号で答えなさい。 設問3 (あ) D→A→F→C→E→B→G→H (い) D→A→C→B→F→E→G→H (う) A→D→C→F→B→E→G→H (え) A→D→F→C→E→B→G→H 〔 〕 下線部①に関して:これ以後の教皇権と皇帝権の関係について,以下の語を用いて説明しなさい。 (100 字以内) カノッサの屈辱,ヴォルムス協約,インノケンティウス3世 教 皇 グレゴリウス 7 世 に皇 帝 ハインリヒ 4 世 が謝 罪 するカノッサの屈 辱 は教 皇 権 優 越 の 契 機 となった.1122 年 のヴォルムス協 約 で皇 帝 は叙 任 権 を失 い,教 皇 権 は 13 世 紀 のイ ンノケンティウス 3 世 のとき絶 頂 期 に達 した。 設問4 下線部②に関して:この結果,いわゆる「教会大分裂(大シスマ)」がおこる。捕囚後から大シスマまで の過程を説明したうえで,こうした一連の出来事が,その後,キリスト教全体にどのような影響を及ぼすこと になるか,答えなさい。(150 字以内) 捕 囚 後 ,仏 王 下 のアヴィニョンの教 皇 とローマの教 皇 等 の勢 力 に教 会 は分 裂 した。教 皇 の権 威 は完 全 に失 墜 し,教 会 の俗 化 や腐 敗 が進 むとイギリスのウィクリフやベーメンの フス等 が教 会 改 革 を唱 えた。彼 らを異 端 としたコンスタンツ公 会 議 において大 シスマは 解 消 されたが,彼 らの運 動 は近 代 初 頭 の宗 教 改 革 の先 駆 となった。 設問5 下線部③に関して:以後の派遣も含めて,十字軍の歴史的意義および問題点を述べなさい。 (100 字以内) 東 方 貿 易 が盛 んになり,ヴェネツィアなどの都 市 が繁 栄 し,またイスラームやビザンツの学 問 ・文 化 が西 ヨーロッパにもたらされた。一 方 ,教 皇 の権 威 は失 墜 し,諸 侯 や騎 士 が没 落 して,国王の権力が伸長していった。 設問6 下線部④に関して:その内容に表れるルターの信仰の特色を述べなさい。(50 字以内) 魂 の救 いはキリストの福 音 を信 ずることのみとし,善 行 や金 銭 では救 われないとする信 仰 義 認 説 をとった。 設問7 下線部⑤に関して:そのローマ・カトリック教会の側は,1545~63 年にかけてトリエント公会議を開催 し,教皇の至上権と教義を再確認し,態勢の立て直しを図った。こうして開始されたローマ・カトリック教会 を中心とした一連の改革を何というか,書きなさい。 設問8 〔 対抗(反)宗教改革 〕 下線部⑥に関して:ヨハネ・パウロ2世は史上初のスラヴ系の教皇であった。その出身国を書きなさい。 〔 ポーランド 〕 2 【8】 1995 年 名古屋大 16 世紀初頭から 18 世紀半ばまでのスペイン・フランス・オーストリアの三国をめぐる動向につ いて、300 字以内で論述せよ。 ハプスブルク家・ブルボン家・カルロス 1 世・ルイ 14 世・三十年戦争・ユトレヒト条約 ・外交革命 16 世紀始め、ハプスブルク家のスペインはカルロス 1 世が神聖ローマ皇帝を兼任して 強大化したがオランダの独立・アルマダ戦争の敗北により同世紀末以降衰退 フランスのブルボン家が 17 世紀前半台頭して三十年戦争に介入 同世紀後半ルイ 14 世は国際政治の主導権を掌握 18 世紀はじめのスペイン継承戦争後のユトレヒト条約でブルボン家がスペイン王位を継承したが両 国の合併は阻止 一方,同世紀半ば、オーストリア継承戦争に敗れたオーストリアのハプスブルク家プロイセンへの対抗上、 外交革命によりフランスと提携して七年戦争に挑んだ ここに国際政治上の両家の対立は終焉 16 世紀初めハプスブルク家のスペインはカルロス 1 世が神聖ローマ皇帝を兼任して強大化したが, オラングの独立,アルマダ戦争の敗北により同世紀末以降衰退した。代わってフランスのブルボン 家が,17 世紀前半台頭して三十年戦争に介入し,ハプスブルク家に対抗,同世紀後半ルイ 14 世は国 際政治の主導権を握った。18 世紀初めのスペイン継承戦争後のユトレヒト条約で, ブルボン家がス ペイン王位を継承したが,両国の合併は阻止された。一方同世紀半ば,オーストリア継承戦争に敗れ たオーストリアのハプスブルク家は,プロイセンヘの対抗上,外交革命によリフランスと提携して七年 戦争に臨んだ。ここに国際政治上の両家の対立は終わった 【9】 1997 年 横浜国大 16 世紀から 17 世紀前半までのヨーロッパの国際情勢を念頭に置いて、三十年戦争の歴史的意義 を 300 字以内で説明せよ。 三十年戦争は 1648 年のウェストファリア条約で終結 スウェーデンとフランスが領土拡大・スイスとオランダの独立が国際的承認 アウグスブルクの和議の再確認=領主に宗教の選択権授与 カルヴァン派公認 個人の信仰は依然として不許可 ドイツでは神聖ローマ帝国が名目化・領邦分立と戦争の荒廃により近代化が遅れる 領土を拡大したプロイセン公国が台頭 ブルボン朝とハプスブルク朝の二大勢力の抗争を中心にユトレヒト条約に至るヨーロッパの国際関係 の大枠が確定 カトリック教会は政教分離を強め、近代的教会へ転換 三十年戦争は 1648 年のウェストファリア条約で終結した。スウェーデンとフランスが領土を拡 大し,スイスとオランダの独立が国際的に承認された。アウグスプルクの和議の再確認が行われ, 領主に宗教の選択権が与えられ,カルヴァン派も公認されたが,個人の信仰は依然として認めら れなかった。また, ドイツでは神聖ローマ帝国が名日化し,領邦分立と戦争の荒廃により,近代化 が遅れたが,領土を拡大したプロイセン公国が台頭した。そしてブルボン朝とハプスプルク朝の 2 大勢力の抗争を中心に,ユトレヒト条約に至るヨーロッパの国際関係の大枠が確定した。また,カ トリック教会は政教分離を強め,近代的教会へ転換した ※「歴史的意義」とあるから二十年戦争の経過を詳しく説明する必要はない。ウェストファリア 条約の内容を簡単にまとめ,カルヴァン派の扱いにふれておく。設間の冒頭に「国際情勢を念頭 に」という注文があることを忘れずに 【10】 1995 年 一橋大 ドイツを舞台とする三十年戦争はドイツに政治的利害と領土的野心を持つフランスとスウェー デンなどの介入を招き、多数のヨーロッパ諸国が関与する戦争となった。また、その講和会議は ヨーロッパ最初の国際会議とされる。以上のような点に留意しながらドイツ三十年戦争の結果と、 それが後のドイツに及ぼした影響について述べなさい。(400 字以内) 1648 年ウェストファリア条約 領土関係 フランス=メッツ、ツール、ヴェルダンとアルザスの大部分 スウェーデン=西ポンメルン ブランデンブルク=東ポンメルン スイス、オランダの独立承認 帝国内の体制関係 諸侯と帝国都市は完全な独立が承認 フランス、スウェーデンの帝国議会出席権 宗教関係 アウグスブルクの宗教和議の再確認[カルヴァン派にも適用] 影響 ヨーロッパの指導権がハプスブルクからブルボンに移動 国内ではブランデンブルクの台頭が顕著[国内の分裂決定的・戦乱で人口減少] ドイツの領邦国家形成完成[神聖ローマ帝国の死亡証書] 三十年戦争は 1648 年のウェストファリア条約により終結した。この条約により, ドイツでは カトリック,ルター派,カルヴァン派の信仰が認められ,諸領邦の主権が再確認され,神聖ロー マ帝国は有名無実の存在となった。戦乱により国土は荒廃し,人口も激減し,近代化が大きく 立ち遅れたが,戦災の比較的少なかったブランデンブルクープロイセンは,領土を大きく拡大 し,オーストリアに次ぐ強国へ発展した。また, フランスはアルザスとライン左岸,スウェーデンは 西ポメラニアを獲得し,オランダとスイスは独立を承認された。三十年戦争までのヨーロッパの 国際関係は,オーストリア・スペインを支配するハプスプルク家と,反ハプスブルク連合の対 立の形をとってきた。しかし,交戦国以外の諸国も参加したウェストファリア条約で,ハプス ブルク家の勢力が大幅に後退すると,列国は以後,独立した主権国家として対等の立場で近代 的外交を展開した。 ※ウェストファリア条約のドイツヘの影響では,カルヴァン派の承認,神聖ローマ帝国の有名 無実化と領邦国家の分立,近代化の遅れなどが重要。また,「ヨーロッパ最初の国際会議」と いうウェストファリア会議の意義について,会議の前後におけるヨーロッパの国際秩序のあり 方を説明する。 【11】 2007 年 防 衛 大 学 校 つぎの文章を読み,以下の設問に答えよ。 A. 中 世 以 来 ヨ ー ロ ッ パ 随 一 の 名 家 で あ る ハ プ ス ブ ル ク 家 は , 10 世 紀 に 西 南 ド イ ツ に 起 こ っ た 貴 族 で ,そ の 名 は ス イ ス に 築 い た 城 が ハ ビ ヒ ス ブ ル ク (「 鷹 の 城 」)と よ ばれたことに由来する。ア大空位時代の混乱の後,始祖ルドルフ1世が神聖ローマ 帝 国 皇 帝 に 選 出 さ れ ,オ ー ス ト リ ア 公 国 を 獲 得 す る な ど ,ハ プ ス ブ ル ク 家 興 隆 の 基 礎 を 固 め た 。14 世 紀 に ,ハ プ ス ブ ル ク 家 は 西 方 で は イ ス イ ス 独 立 戦 争 に 敗 れ て 家 領 の拡大に失敗したが,東方では家領を拡大した。ルドルフ4世はウルクセンブルク 家の皇帝カール4世の金印勅書に対抗して大特許状を偽造してまで領邦君主とし て の 特 権 を 主 張 し , 自 ら 大 公 と 称 し た 。 15 世 紀 前 半 以 降 , ハ プ ス ブ ル ク 家 は 皇 帝 位 を 事 実 上 独 占 す る よ う に な っ た 。 マ ク シ ミ リ ア ン 1 世 は 1477 年 ブ ル ゴ ー ニ ュ 公 国 の 継 嗣 マ リ ー と の 結 婚 に よ り ブ ル ゴ ー ニ ュ 公 領 を 併 せ ,そ の 子 フ ィ リ ッ プ を ス ペ イン王女と結婚させ,孫のエスペイン王カルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝カール 5 世 と な っ た と き ,ス ペ イ ン 王 国 と の 結 合 に よ る ハ プ ス ブ ル ク 世 界 帝 国 が 実 現 し た 。 さ ら に 東 方 に 対 し て も カ ー ル 5 世 の 弟 フ ェ ル デ ィ ナ ン ト を ボ ヘ ミ ア・ハ ン ガ リ ー 王 女 と 婚 約 さ せ て い る 。こ う し た 結 婚 政 策 は フ ラ ン ス と の 対 立 を 激 化 さ せ ,フ ラ ン ス と 組 ん だ ト ル コ の ヨ ー ロ ッ パ 遠 征 を 招 い た 。オ 1526 年 ボ ヘ ミ ア・ハ ン ガ リ ー 王 ラ オ ヨ シ ュ 2 世 が 戦 死 し ,フ ェ ル デ ィ ナ ン ト は ボ ヘ ミ ア・ハ ン ガ リ ー の 王 位 を 継 承 す る こ と に な っ た 。皇 帝 カ ー ル 5 世 は 宗 教 改 革 に よ る 教 会 と 帝 国 の 分 裂 の な か で ,長 期 にわたるフランスとの戦争とウィーンを包囲したトルコの圧力のために諸侯と妥 協 せ ざ る を 得 ず , 1555 年 カ ア ウ ク ス ブ ル ク の 宗 教 和 議 を 結 ん だ 後 , 翌 年 ス ペ イ ン , ネ ー デ ル ラ ン ト ,イ タ リ ア の 家 領 を 息 子 の フ ェ リ ペ 2 世 に ,ド イ ツ の 家 領 と 皇 帝 位 を フ ェ ル デ ィ ナ ン ト 1 世 に 譲 っ て 退 位 し た 。こ こ に ハ プ ス ブ ル ク 家 は オ ー ス ト リ ア 系 と ス ペ イ ン 系 に 分 か れ た 。ス ペ イ ン は フ ェ リ ペ 2 世 の も と で ポ ル ト ガ ル を も 併 合 し 最 盛 期 を 迎 え た が ,フ ラ ン ス ,イ ギ リ ス ,オ ラ ン ダ と 敵 対 し ,衰 退 の 兆 し も 現 れ た 。オ ー ス ト リ ア 系 で も 相 続 争 い と 宗 教 争 乱 が 続 き ,1618 年 か ら は キ 三 十 年 戦 争 が 始 ま っ た 。ク 1648 年 に 結 ば れ た こ の 戦 争 の 講 和 条 約 ウ ェ ス ト フ ァ リ ア 条 約 は 戦 禍 に よ る 荒 廃 と と も に ド イ ツ の 近 代 化 を 著 し く 遅 ら せ る こ と と な っ た 。皇 帝 レ オ ポ ル ト 1 世 は ,1683 年 再 び ウ ィ ー ン を 包 囲 し た ト ル コ 軍 を 撃 退 , ケ ハ ン ガ リ ー の 大 部 分 を 獲 得 し ,オ ー ス ト リ ア は 東 欧 に お け る 覇 権 を 確 立 し た 。ス ペ イ ン 系 が カ ル ロ ス 2 世 で 絶 え る と , 新 王 に フ ラ ン ス の ル イ 14 世 の 孫 フ ェ リ ペ 5 世 が 即 位 し , ス ペ イ ン 継 承 戦 争 が 勃 発 し た 。コ 1713 年 ユ ト レ ヒ ト 条 約 で 列 国 は フ ェ リ ペ 5 世 を 承 認 し ,ス ペ イン王位はブルボン家に移った。しかしサオーストリアはネーデルラントとイタリ ア の 旧 ス ペ イ ン 領 を 併 せ た 。皇 帝 カ ー ル 6 世 は こ の 広 大 な 領 土 の 永 久 不 分 割 と 長 子 相 続 制 を 定 め た が ,相 続 者 に 男 子 を 欠 き ,長 女 マ リ ア = テ レ ジ ア の 一 括 相 続 の た め に 譲 歩 を 重 ね ,国 際 的 な 承 認 を 得 て い た 。し か し カ ー ル 6 世 が 亡 く な る と オ ー ス ト リ ア 継 承 戦 争 が 始 ま り , 1748 年 の ( シ )で オ ー ス ト リ ア は シ ュ レ ジ エ ン , パ ル マ ,ロ ン バ ル デ ィ ア を 失 っ た が ,マ リ ア = テ レ ジ ア の 家 督 相 続 は 承 認 さ れ た 。戦 後 は 軍・行 財 政 改 革 を 進 め ,外 交 で も 長 年 敵 対 関 係 に あ っ た フ ラ ン ス と の 同 盟 を 成 功 さ せ プ ロ イ セ ン の 孤 立 を 図 り ,七 年 戦 争 で は ロ シ ア と と も に ( セ ス )を 苦 し め た が , シ ュ レ ジ エ ン を 奪 回 す る こ と は で き な か っ た 。1780 年 ま で 母 マ リ ア = テ レ ジ ア と 共同統治してきた皇帝( ソ )は ,そ れ 以 後「 革 命 的 」と い わ れ る ほ ど 矢 継 ぎ 早 に 改 革 を 推 し 進 め た が ,宮 廷 内 の 保 守 派 の 抵 抗 や 領 内 異 民 族 の 反 乱 で 失 敗 に 終 わ っ た 。 1806 年 , タ ナ ポ レ オ ン 戦 争 の 中 で 神 聖 ロ ー マ 帝 国 は 解 体 し ,最 後 の 神 聖 ロ ー マ 帝 国 皇帝フランツ2世はオーストリア皇帝として,チウィーン会議後の反動体制の頂点 に 立 っ た 。 1848 年 の 三 月 革 命 は 王 家 を 動 揺 さ せ た が , そ の 年 フ ラ ン ツ ・ ヨ ー ゼ フ 1 世 は 反 革 命 を 担 う 若 き 指 導 者 と し て 即 位 し ,反 革 命 を 勝 利 に 導 い た 。し か し 彼 は , ブ ル ジ ョ ア ジ ー の 台 頭 と 諸 民 族 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 高 揚 の な か で ,反 動 的 な 官 僚 主 義 と 啓 蒙 的 な 君 主 思 想 の 間 で 悩 み 続 け , 1859 年 の イ タ リ ア 独 立 戦 争 と ツ 1866 年 の 普 墺 戦 争 で 敗 れ る と , 政 策 も 中 央 集 権 化 と 諸 民 族 の 連 邦 化 の 間 で 揺 れ 動 い た 。 186 7 年「テアウスグライヒ」によってオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した が , ス ラ ヴ 系 民 族 な ど に は 大 き な 不 満 を 残 し た 。 1878 年 の ベ ル リ ン 会 議 後 の ド イ ツ・オ ー ス ト リ ア 二 国 同 盟 は ,ロ シ ア と の 関 係 を 悪 化 さ せ ス ラ ヴ 系 民 族 を ロ シ ア に 近 づ け ,西 欧 列 強 か ら も 孤 立 し て ,ド イ ツ へ の 従 属 を 深 め さ せ た 。オ ー ス ト リ ア は , 民 族 運 動 と 帝 国 主 義 の 交 錯 す る バ ル カ ン 問 題 の 泥 沼 に は ま り 込 み , 1914 年 サ ラ イ ェ ヴ ォ に お け る 皇 位 継 承 者 夫 妻 の 暗 殺 に つ な が っ た 。こ れ が き っ か け で 始 ま っ た 第 一 次 大 戦 の な か フ ラ ン ツ・ヨ ー ゼ フ 1 世 は 長 い 生 涯 を 終 え ,最 後 の オ ー ス ト リ ア 皇 帝カール1世は 敗戦による帝国の崩壊とともに退位し,ハプスブルク王家の歴史も幕を閉じた。 設問1 設問2 下線アはどのくらいの期間続いたのか次のなかから選んで記号で答えよ。 a.約 10 年 b.約 20 年 c.約 35 年 d.約 50 年 e.約 75 年 f.約 100 年 g.約 120 年 h.約 150 年 下線イのスイス独立にまつわる伝説で活躍する人物の名を答えよ。 ヴィルヘルム=テル 設問3 下線ウの皇帝は教皇のローマ帰還に尽力して実現させたが,教皇はどこから帰還したの か,地名を答えよ。アヴィニョン 設問4 下線エの祖母によってイベリア半島にあった最後のイスラム王朝は滅ぼされたが,その 都の宮殿の名を答えよ。アルハンブラ宮殿 設問5 下線オの戦いの名を答えよ。モハーチの戦い 設問6 下線カの和議の「支配者の宗教がその領内に行われる」との原則によって確立され,諸 侯が最高の司教として領内の教会の保護支配権を掌握する制度をなんと呼ぶのか答えよ。 領邦教会制 設問7 下線キの原因が起こった地域名を答えよ。ベーメン 設問8 下線クについて,その理由を簡単に述べよ。 ドイツの諸侯にほとんど完全な主権が承認されたため,帝国における諸侯の分立状態は 決定的となった。 設問9 下線ケについて,この条約名を答えよ。カルロヴィッツ条約 設問 10 下線コについて,どのような条件でフェリペ5世を承認したのか,答えよ。 フランスとスペインが合同しないという条件 設問 11 下線サについて,この条約名を答えよ。ラシュタット条約 設問 12 ( シ )に当てはまる条約名を答えよ。アーヘンの和約 設問 13 ( ス )に当てはまる人名を答えよ。フリードリヒ2世 設問 14 下線セのシュレジエンは,a)どのような重要性を持つ地域なのか答えよ。b)現在は主に どこの国に属しているのか,国名を答えよ。 a) ソ 工業と鉱業が盛んな地域 b) ポーランド )に当てはまる人名を答えよ。ヨーゼフ2世 設問 15 ( 設問 16 下線タについて,帝国の解体につながった戦いの名を答えよ。 アウステルリッツの戦い [三帝会戦] 設問 17 下線チについて,この会議で議長を務め,19 世紀前半のヨーロッパの反動政治を推進 した人物の名を答えよ。メッテルニヒ 設問 18 下線ツについて,オーストリアがこの戦争で負けたことによって解体したドイツの国家 組織の名称を答えよ。ドイツ連邦 設問 19 下線テについて,「アウスグライヒ」とはオーストリアとハンガリーとの間で締結され た協定名であるが,どのような意味なのか答えなさい。妥協 B. ブ ル ボ ン 家 は , フ ラ ン ス 中 部 の ブ ル ボ ネ 地 方 の 古 い 領 主 の 家 系 で あ っ た 。 13 世 紀 後 半 に ,こ の 地 の 城 主 の 娘 と フ ラ ン ス 王 ル イ 9 世 の 子 と の 結 婚 が ブ ル ボ ン 家 の 起 点となり,その子がブルボン公家を創立した。その後ブルボン公位は分家に移り, 16 世 紀 中 頃 , 当 主 ア ン ト ア ー ヌ ・ ド ・ ブ ル ボ ン は ナ バ ラ 女 王 と の 結 婚 に よ り ナ バ ラ王を兼ねた。 そ の 子 ア ン リ は 宗 教 戦 争 の 渦 中 に 成 長 し た が ,( ブルボン家が( ナカペー トヴァロワ )家 の 断 絶 に よ り , )朝 の 傍 系 で あ る と こ ろ か ら 王 位 の 正 統 相 続 者 の 資 格 を 得 , 1589 年 ア ン リ 4 世 と し て 即 位 し た 。 こ こ に ブ ル ボ ン 家 は フ ラ ン ス の 王 家 と なった。アンリ4世は自らカトリックに改宗すると共に( ニ ナ ン ト の 勅 令 )に よ り宗教戦争に終止符を打ち,王国の統一を回復し,王朝の基礎を築いた。続くヌル イ 13 世 の 時 代 か ら ル イ 14 世 の 親 政 開 始 ま で の 時 期 は 絶 対 王 政 の 確 立 期 に あ た り , 国内が不安定で貴族や地方民衆の反乱が続くなか,中央集権化が推し進められた。 ネ ル イ 14 世 の 幼 少 期 に は 一 時 は 王 権 も 危 な い ほ ど の 反 乱 が 起 こ っ た が ,鎮 圧 後 の 親 政 時 代 に よ う や く ブ ル ボ ン 王 朝 の 全 盛 時 代 を 迎 え た 。有 能 な 側 近 に 支 え ら れ た 親 政 は ,国 内 で は よ く 整 備 さ れ た 官 僚 制 度 を 通 じ て 中 央 集 権 化 を 推 し 進 め ,対 外 的 に は 重 商 主 義 と 一 連 の 侵 略 戦 争 を 展 開 し た 。フ ラ ン ス は 国 際 的 に は ヨ ー ロ ッ パ 第 一 の 強 国 に の し あ が り , 国 内 で は 太 陽 王 ル イ 14 世 を 中 心 に ヴ ェ ル サ イ ユ 宮 殿 で 華 や か な 宮廷生活が展開し,文化的にもノ古典主義の文芸やバロック美術がいっせいに花開 い た 。 し か し ル イ 14 世 没 後 , 絶 対 王 政 の 動 揺 は 急 速 に 表 面 化 し た 。 名 門 貴 族 は 貴 族 制 的 政 体 の 復 古 を め ざ し ,ブ ル ジ ョ ワ 階 級 の 側 か ら も 批 判 が 啓 蒙 思 想 と し て 現 れ た 。こ の よ う な 状 況 に 直 面 し た 国 王 政 府 は ,国 家 機 構 の 近 代 化 を 図 る こ と で 危 機 を 乗 り 切 ろ う と し た 。改 革 は ル イ 15 世 の 時 代 に 着 手 さ れ ,次 の ル イ 16 世 の 時 代 に も 財 務 総 監 ら に よ っ て 試 み ら れ た が , 特 権 身 分 の 反 対 に あ っ て 失 敗 し た 。 ル イ 15 世 の時代から生じていたハ財政危機も,アメリカ独立戦争の負担が加わり,さらに深 刻 化 し , 王 政 は 破 局 を 迎 え た 。 1792 年 , フ ラ ン ス 革 命 下 の 8 月 10 日 事 件 で 王 権 は 停止され,9月王政は廃止された。 1814 年 ,ナ ポ レ オ ン 帝 政 が 崩 壊 し た 後 , ヒ 反 革 命 体 制 で あ る ウ ィ ー ン 体 制 の 一 翼 を 担 う も の と し て ブ ル ボ ン 王 家 の 復 位 が 図 ら れ ,ル イ 16 世 の 次 弟 ル イ 18 世 が フ ラ ン ス 国 王 と な っ た 。 ル イ 18 世 は 反 動 の 行 き 過 ぎ を 極 力 抑 え な が ら , 大 土 地 所 有 者 と 上 層 ブ ル ジ ョ ア と い う 二 つ の 社 会 勢 力 の 和 解 を は か っ た が , 次 の ル イ 16 世 の 末 弟( フ )の 治 世 に な る と ,相 次 い で 反 動 的 な 政 治 が 進 め ら れ る よ う に な っ た 。こ れ に 対 し て , 反 政 府 派 の 自 由 主 義 者 た ち は , 1830 年 7 月 , パ リ 民 衆 の 蜂 起 に 乗 じ て政権を掌握,この七月革命によりブルボン朝は消滅した。 設問 20 ( ト )に当てはまる語を答えよ。 設問 21 ( ナ )に当てはまる語を答えよ。 設問 22 ( ニ )に当てはまる語を答えよ。 設問 23 下線ヌについて,この時期に活躍し,「新教徒を壊滅し,大貴族の誇りを打破し,すべ ての人民をしてその義務に服させ,国王の名を,その当然の地位にまで諸国民の間で高めるこ とに全精力を集中すること」を国王に約束した宰相の名を答えよ。リシュリュー 設問 24 下線ネの反乱を刺激した国外の出来事とは何か答えよ。 清教徒革命 [ピューリタン革命] 宮廷劇 設問 25 下線ノについて,この時期の文芸で中心をなしたジャンルを答えよ。 設問 26 下線ハについて,フランスがアメリカ独立戦争に参戦したときの財務総監の名を答えよ。 ネッケル 設問 27 下線ヒについて,フランス以外でブルボン朝が復位した国を二つ答えよ。 スペイン,ナポリ 設問 28 ( フ )に当てはまる人名を答えよ。 シャルル 10 世
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