3.右近最終章の霊性

 3.右近最終章の霊性
既に記したように、最終章における右近の英雄的行為に見られる霊性とは、次のようなものだと思います
①右近とその家族は禁教令に対し、躊躇することなく神様が示された信仰の道を真っ直ぐ歩む事を決断した
これはそれまでの加賀での26年間の生活が神と一致した生活が常になされ、これまでの試練で培われてきた
信仰心が純粋に継続していたことを示すもので、ごく自然な対応であった。
②金沢から坂本までの真冬の徒歩による雪中山越えをし、家康の命を受けた幕府の筆頭年寄大久保が都の
内藤ジュリア等のキリシタンに対する過酷な迫害が行われている間、右近等は坂本で幕府の処分が下される
のを待たされ、死罪という最悪のことも心配されるなか緊迫した約一か月の滞在を強いられた 婦女子は都に
留まることができると言われたが、誰もそうしなかった 右近と家族はどこまでも共に信仰を守り、困難を共有する
ことを誓った
③マニラへ船が出航するまでの長崎での滞留期間中、長崎の町では高揚した多くの人による苦行の行列など
が行われ、街中が騒然とする中、右近は祈りと徳操の日々を過ごし、心霊修行に勤しみ、2度の総告解をし、
国外追放処分という試練を、真のキリスト者として、殉教という覚悟を持って受け止めるための霊的準備を
しっかりと行ったこと これはまさにこれまで行ってきた右近の祈りと信仰生活が真性であった事を示しており、
人生の最後をキリストへの信仰の最高の証しである「殉教」によって締めくくるにふさわしい準備であった
これは、秀吉の伴天連追放令後の小豆島での死を覚悟した潜伏生活の中で、オルガンティーノ神父と共に
心霊修行に励み、殉教の覚悟を固めた生活に匹敵するもので、より緊迫した状況下での霊的準備であったと
思われます このような霊的行動は長年の観想という修養によって自然と導き出されたもので、右近は真の
深い祈りの人であった事を示している 恐らく右近は小豆島で身に付けた心霊修行を加賀前田家での生活の
中で更に自分のものとするため深めて行った結果、それが人生の最終章で示されたと思います
右近の試練に対する対応は、日常生活が常に祈りによって神と一致したものであったが故に、いつも、全て神を
信頼し、神に委ね、神が示された道を真っ直ぐに歩むというものであった。人生の最終章においてもそれが示さ
れた
④すし詰めのジャンク船という劣悪な環境の下、約一カ月もの過酷な航海を祈りと霊的読書で耐え忍んだことは、
右近が修行によって真の祈りの形を身に付けた人であったことを示している また彼の平和を愛する権威ある
霊性は、航海中の騒ぎを静め、嵐によって生じた災難に対して示した態度は真の謙遜・寛容とは何かを示した
⑤マニラ到着後日本の聖人として大歓迎を受け、処遇された事は、彼の霊性の素晴らしさが海外まで広く知られ
ていた事を示しめしている ⑥マニラ到着後、長い過酷な追放の旅が原因で病に倒れ、多くの人々に惜しまれて、まさに殉教者として最期を
異国の地でむかえた、聖人に値する人として、素晴らしい葬儀・埋葬が行われた事です ⑦右近の死後、彼は聖人に値する人として、彼の事蹟をまとめる事が要望され、列聖の運動が直ぐに開始された
こと
そして最後に最も讃えるべきは、最後まで右近はその家族とともに何時も信仰の道を歩み、その
思いを孫達に托した事です 受洗からのキリシタンであるが故の数々の試練、和田惟長との争い、荒木村重の
謀叛、秀吉の伴天連追放令、その中での身を挺した福音宣教、何れも家族とともに手を取り合って乗り越えて来
たのです 右近の死は徳川幕府の全国的禁教令に基づく国外追放処分により生じた事は明らかであり、まさに 殉教で、家族はそれを見届けたのです 神は聖ヨブの忍耐で数々の試練を耐えて来た右近に、最後に彼が望
んだ最大のお恵み、殉教を与えられたのです キリストの本質に生きる事を最後まで家族とともに貫き通す事が
出来、彼が希求してやまなかった人生の最終目標である、永遠の命が与えられたのです 右近は異国の地
フィリッピンマニラで、「私はもう死ぬと思いますが、神がそれを希望し給うのですから、私は喜び慰められていま
す 今より幸せな時が今までにあったでしょうか」と、ヨブ記の最終章のごとく、自らの最終章を高らかに歌い上げ、
彼が愛してやまなかった神の国にへ召されていったのです
(右近とミゼリコルディアとの関係)
・右近の葬儀についての宣教師の記述のなかで、注目すべきことが記されています
それは、“右近は「慈悲」の人、ミゼリコルディアの会員であった”ということです 右近の葬儀についての宣教師の記録[1614年年報]の中に、右近が都と長崎でミゼリコルディアの会員で
あったことが記されています これだけ明確に記されている一次資料は他にないのではないだろうか
そしてこのことは右近の霊性を考える上で極めて大切な事柄を示していると思います すなわち、彼は
キリストが永遠の命を得るために守るべき第一の隣人愛の掟、すなわち何よりもキリストを全力で愛し、隣人を
分け隔てなく愛し、特に困っている人を助けるという掟を守り、日常的に実行していたということです (右近がミゼリコルディアの会員であったことを記す1614年年報)
「葬儀には身分の高い人も低い人も、凌駕することがあり得ない程、夥しい群衆が傍らになだれ寄せた
葬儀を一層盛大に催すため、この地方で非常に栄え、右近も都と長崎で属していたミゼリコルディア の
会員が徽章をつけて葬儀に列する事が提議され、一同極めて整然とそれに従った 遺骸を取りだすため
大勢の人が集まった時、ミゼリコルディアの人達とそれを運ぶことになっていた市の(側との)間に争いが
起り、・・理由を述べあう事となった 特にミゼリコルディアは、死者は彼等の団体に属していたのであるとて、
力を込めてその特典を強調した 総督殿下は・・適切な方法で規定し・・・」
このように、マニラでの葬儀の際に、マニラのミゼリコルディアの会員が、葬儀の名誉ある地位を占めようと
主張をしたことは、右近が日本を代表する有力なミゼリコルディアの会員であったことを示しているのでは
ないかと思われる
・ミゼリコルディアと右近との関係について、最終章冒頭の部分で少し長くなるが、右近の霊性を理解すると言う点
では、見逃すことのできない重要な事柄であるので、ここで詳しく触れておきたい
(右近の慈善活動)
・父ダリオと右近は高槻城主時代、自ら領内で貧しく見捨てられた人の葬儀を行う事により、これを領内の武士
の間に習慣化させていったり、また、埋葬のため城外に大きな十字架を立てた一大墓地を設けたり、更には、
戦闘により亡くなった兵士の遺族、寡婦・孤児に対し慈父のように慈善を施し、貧しい人には衣服と食物を
与え何日も扶養した等の話は、右近とその家族が如何にキリストの隣人愛を実践したかという事を示す事と
して、フロイスの日本史に記されており、多くの人によく知られている 1574年、父ダリオは高槻で最初の教会
を建てた時、その管理運営について4人の教会委員を選任し、改宗、貧者訪問、告解、葬儀等にあたらせ、
父ダリオは何事についても常に第一の組頭(教会委員)であったことが記されており、キリシタンの布教のため、
教会が慈善活動を組織的かつ継続的に行っていたことがわかる これが領内で布教が飛躍的に進んでいっ
た大きなの要因の一つであったことは間違いない これらの慈善活動はミゼリコルディアの精神に基づきなさ
れたものと言われている(「キリシタンの心」 チースリク神父著)
右近と父ダリオは貧しい人、困っている人のお世話を熱心に行っているということが、フロイスの日本史等の
資料の他の箇所でも記されており、恐らくキリシタンの掟である「慈悲の所作」として、ごく普通に、日常的に
信徒の義務として、生涯行っていたものと思われる そして今回の資料によって、これらの慈善活動が
ミゼリコルディアの精神によってなされた事や、都と長崎で右近はミゼリコルディアの会員であった事が明確と
なったことです 慈悲活動自体は1570年台から行われているが、正式な組としてミゼリコルディアが発足したの
は、都は1600年頃、長崎は1580年代と言われているそうです
(それでは、そもそもミゼリコルディアとはどのようなものなのでしょうか)
[ミゼリコルディア(ポルトガル語で慈悲)とは] -「キリシタンの心」(チースリク神父著)
・「ミゼリコルディアの組(慈悲の兄弟会)」その目的はキリストの教え隣人愛の実践であり、「慈悲の所作」として
14の事柄が「ドチリイナ」に示されており、貧困者・病人等の救済活動、死者(貧困者、死刑囚)の世話などが
重要視された
[慈悲の所作とは] ドチリイナ・キリシタン(現代語訳 聖母の騎士社)第12より抜粋
慈悲の行い慈悲の行いは14ある はじめの七つは肉体の上のこと あとの七つは魂のことである
○肉体上の七つのこと
○魂に関する事
一には、 飢えている者に食を与えること
一つには、 人に色々よい忠告をしてあげること
二には、 渇いている者に物を飲ませること
二つには、 無知な人に教えてあげること
三には、 肌を隠すことが出来ない者に、衣類を与えること三つには、 不幸な人を慰めること
四には、 病人をいたわり、見舞うこと
四つには、 体罰を与えることが必要な者にはそれを与え
五には、 旅人に宿を貸すこと
ること
六には、 囚人の身柄を引き受けること
五つには、 恥ずかしめに耐えること
七には、 死骸を埋葬すること
六つには、 隣人の落度を許すこと
七つには、 生死の境にある人、また自分に失礼をする者
そして、人生の指針「神福八端」もドチリイナ・キリシタンに記されています
一つには、心の貧しい者は幸である 天国はその人のものであるから
二つには、柔和な人は幸である 地を受け継ぐからである
三つには、泣く者は幸である 慰められるからである
四つには、正義に飢え渇く者は幸である 満たされるからである
五つには、憐れみの心ある者は幸である その人は憐れみを受けるからである
六つには、心の清い者は幸である 神を見るからである
七つには、平和な者は幸である 神の子と呼ばれるからである 八つには、正義のために迫害される者は幸である 天国を継ぐからである
(組織の誕生)
・もともと13世紀イタリアのフィレンツェで病人の世話と埋葬式の執行を目的として起こった 日本にはポルトガル
のミゼリコルディアが伝えられた ポルトガルのミゼリコルディアは15世紀末、広大な植民地圏を創立しようと
する時期に新しい規則と組織が打ち出され、16世紀の最初の頃、インドのゴアにも伝わり、その後ポルトガル
領、ポルトガルと貿易関係にあるアジア諸国に組織が出来、マカオにもできた 日本には最初の頃の布教地
山口で慈善活動が行われた事が記されているので既にその理念は持ち込まれていたことがわかる その後
本格的な「組」の設立はまだであったが、各地にその土地の実情に合わせた小規模なものが出来ていった
例えば1559年豊後の府内でルイス・アルメイダがつくった団体や先に紹介した高槻の例などで、これらの
慈善活動は巡察師ヴァリニャーノ第一次巡察後、全てのキリシタン団体に取り入れられ、「慈悲役」がその任
を担い、これは全国的な制度になっていったそうです この時期の高槻は右近が高槻領主として父ダリオから
自立し領内の福音宣教を大きく勧めて行く時期であり、高槻でも慈悲役が置かれ、領内の慈善活動が、教会
の規則に基づき一段と組織的に行われていったと思われます 本格的なミゼリコルディアの組織は京都を中心
とする都布教地区と下の長崎にしかできていなかったそうで、最も盛んであったのが長崎だそうです
長崎のミゼリコルディアは1570年頃までさかのぼることが出来るそうで、本格的には1580年代になってから
だそうです 癩病院設置など様々の本格的な慈善事業活動がおこなれ、教会活動の中心となったそうです
(1557年、豊後府内で、病院が開設され、イエズス会の宣教師による救貧・医療活動が本格的に行われ始め、その後
順調に進展していき、1559年には病院経営を行うためのミゼリコルディアが組織された)
(信徒が自主的に運営する信心組織である)
・また、ミゼリコルディアは、「コンフラリヤ(信徒信心組織)」として、次のように説明されています
ミゼリコルディアは「慈善事業型」の「コンフラリヤ」である 「コンフラリヤ」とは信徒の自発的で自主独立運営
からなる信徒信心組織のことで、ポルトガル語の概念です 13世紀のイタリアで病人や死者を相手とする
慈善活動を中心に活動した「コンフラテルニタス」が起源で、これは六つの類型があって、ミゼリコルディアは
その中の一つです 聖職者の指導を受けず信徒だけの組織で、教区を飛び越えた組織です 日本では、
トーレス神父が組織の規則を信徒に見せ、勧めたのが始まりで、最初はミゼリコルディアから始まり、伴天連
追放令以後は「信心業実践型」が活躍し、ミゼリコルディア、聖体の組・ロザリオ組(信心業実践型)等が特に
発展した 1549年日本に来た宣教師は、その後10年間は非常に貧しい下層階級を対象にした宣教で、
彼等に対する、炊き出し、病院活動、死者の埋葬・葬儀等を行い、霊魂の不滅・来世での救済を説き、感銘を
与えた そして宣教師はミゼリコルディアといった信徒信心組織をつくり、この組織をとおして宣教活動を展開
したので、仲間意識が強くなり、生活と信仰が一緒になっていき、組織が各地に広がっていった
このような信徒の組織が日本に受けいれられた土壌があった それは当時の浄土真宗の「道場(阿弥陀への
礼拝が行われる民家」で行われる活動と組織です そこには半分僧、半分民間人みたいな人が住んでいて、
いろいろな奉仕活動をしていた ・・・(イエズス会川村信三神父の資料より)
(活動内容)
・片岡弥吉氏は、ミゼリコルディアは、サンタ・マリアの組、イエズスの御名の組などの多くの信心会と同じく、まず
自分の霊性の向上に励みながら、その上で隣人の精神的、肉体的、生活困窮を援けることを目指すもので
あったとして、その活動は①身体的生活的救護、②精神的援助、③死者への愛の三つに要約できるまとめて
おられる ①については、慈善病院、癩病院、養老院、孤児院、慈善質屋などの経営を挙げておられる
②については、自然法、十戒、教会の掟などに背く罪、社会悪からの人々を救済すること、特に背く者は組
から除名されていた「サンタ・マリアの組の掟」(堕胎・離婚・結婚の秘跡無き夫婦等の八カ条)に書かれている
ような目立った「科」に陥った人の救済、矯風活動などを挙げておられる ③については、死者特に貧死者、
行き倒れの死人、放置された死体などの霊魂のために祈ること、死体を埋葬することを挙げ、組の掟として、
重要な地位を占めていたと説明されておられる 特に長崎のミゼリコルディアは、日本の同じ組織の中でも
代表的な存在であったこと、役員には長崎の政治・経済の最高指導者の名前があり、隣人愛に根差した
組織的な活動を行っていたこと、フランシスコ会など他の修道会も活動を行っていたことなどを指摘されている
(長崎のミゼリコルディアと右近)
・長崎のミゼリコルディアの活動は、当初トードス・オス・サントス教会などで行われ、その後、コレジヨが出来、
また新しく出来たサンチャゴ病院と付属教会が活動の中心となっていったようです ・(日本キリシタン殉教史 片岡氏著) 1602年のイエズス会総長への手紙では「始まってから32年になる」と書かれており、長崎開港の1570年に
ミゼリコルディアが創立されたということになるが、施設や活動が記され始めたのは1583年の年報からである
「ミゼリコルディアの家を建て、そこで未亡人、孤児、貧民のための浄財を集め、また癩病者のための病院を
建てた」(1583年年報)
・(完訳日本史⑩第47章 1583年頃の状況 ミゼリコルジアの教会建設)
長崎の信徒は自費でミゼリコルジア(慈悲の組)の教会を建てた 彼等はキリスト教の知識をますます深め、
組長・組員が決められ、その家で集められた寄付金で貧乏な寡婦・病人などの貧しい人々に配布された
教会は独自の規則を持ち、旗や墓地を有し、葬祭用の衣服も備えられていた 組員は貧しかったが
村落のはずれに癩病患者の家をつくり、彼等の世話をした 死者の日に教会に捧げられた大量の供物は
教会の執事によって貧しい人に配布された 人々は葬儀の事に特別な関心」を持った・・
・(1589年、90年年報)
「会員たちは一周二回、町に出て寄付を集め、多くの収穫を得て帰る そして、三つの病院を経営している
第一は老人のため、第二は貧しく寄るべきなき老夫人のため、第三は癩病院である また門ごとに施しを
求めて回ることのできない貧しい武士もここにきて助けを借りる」
・1614年の禁教令が出された5月頃、長崎の信者が様々の償いと祈願の行列を行い、ミゼリコルディアの会員と
サンチャゴ病院の従業員が行列をし、サン・パウロ教会まで行き、そこで顕示された聖体の前で一時間の祈祷
をしたそうです 1614年の宣教師等の国外追放前のサンチャゴ病院の様子が年報に記されていて、病院が
慈善活動の中心的役割を担っていたそうです 右近はマニラへの出航までの間約200日を長崎で過ごして
います 長崎の会員であったという事ですから、恐らくサンチャゴ病院を拠点に行われていたミゼリコルディア
の活動に関わっていたのではないだろうか 一次資料に記されていないが、そう推測するのがむしろ自然では
ないだろうか ちなみに1614年の年報では次のようなことが記されている
・サンティアゴ病院には、2~3人の司祭と修道士が居住している 本年は200人以上の大人とそれ以上の子供が洗礼を
受けた (場所に恵まれているので)常に多くの人々がミサや説教や告白に集まって来し、病人も常に数多くいる
キリシタン達の施しによる少なからぬ援助がなされている さらに一年のうちにしばしば何人かの立派な身分の高い
人々が病人たちの食事の世話をしたり、その後の皿洗いまでのことをしている
・これまで、右近が様々の英雄的行為をなしえたのは、右近には永遠の命への確信的な信仰があり、何時も彼
はそのことを第一に考えていたがゆえであると記してきました そして、永遠の命を得るには神の掟を守ること
であり、その掟の中心にある最も大切な神の掟とは、「隣人愛」であり、心をつくし、魂をつくし、力をつくして神を
愛すること、そして隣人を自分のように愛することであり、右近はこれをしっかりと理解し、行っていたのです
(ルカ10 25-37 善いサマリア人 -隣人とは誰ですか-)
・・「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」 ・・・「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし
、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい また隣人を自分のように愛しなさい」・・「・・そうすれば
(永遠の)命が得られる」・・「・・隣人とは誰ですか」・・「だれが・・隣人となったと思うか」・・「・・あなたも
同じようにしなさい」
イエス・キリストの受難と復活は、人は神によってつくられ、狂おしいまでに愛されている存在であり、この世の
世界とは別の御父がおられる永遠の命の世界が在る事ことを人間に確信させるためになされた そして御父の
世界に招かれるには何をすべきかを明確に示された事です なすべきこと、それは全ての人を愛する、特に
困っている人、更には敵をも、分け隔てなく己の如く愛するという「隣人愛」の精神に生きることであり、これに
より人が神の下に一つなることができ、絶対的な平和がもたらされることを示されたのです
キリストの受難と復活を体感した弟子たちの信仰は確信的なものとなり、福音宣教の原動力となりました
右近は、このキリストの教えの本質を理解し、文字通り実践したのだと思います
右近は心霊修行とその実践である「実存的祈り」(奥村一郎神父)である慈悲の所作に打ち込み、人生の最終
章に備えようと考えたのであろう 長崎のミゼリコルディアの組は慈善事業のお陰で、キリシタン禁教令にもかか
わらず、社会貢献が認められ、その聖堂は日本唯一の聖堂として1620年頃まで残っている事ができたそうです 1592年頃右近は名護屋から長崎に行き、そこに暫く留まったことが記されているので、その頃ミゼリコルディア
の組織を知り、長崎の会員になった可能性もあるかもしれない 1596年には父ダリオが京都で病死し、最期は
長崎に埋葬されているので(恐らく右近が霊操を行った諸聖人教会の墓地に埋葬されたのではないだろうか)、この
ときにも右近は長崎を訪れたかもしれない 父ダリオの埋葬の地である長崎において右近とその家族がマニラ
に行くまでに過ごした日々の思いに深く心を寄せることはとても大事なことと思う 恐らく死を覚悟した、心が
どこまでも清く昇華される深い祈りと、よき行いを積む日々を過ごしたと想像します
(都のミゼリコルディアと右近)
・さて、都のミゼリコルディアはどうであったのか
1574年頃から高槻領内で慈善活動が組織的に行われた事が記されており、1576年右近の父ダリオが
建設にも関わった南蛮寺が都地区信徒等の協力で、都地区の中心的な教会として発足し、その後、同教会
において素晴らしい慈善活動が行われたことが、日本側資料(南蛮寺興廃記)にも詳しく記されています その後、都地区内の教会では慈善活動が次第に広まっていったことが想像される 1587年頃の都の状況として 「都のキリシタンたちが自分たちの墓地として購入した地所に建立した教会はキリシタンの慈善院ともなり、 自ら乏しいにかかわらず貧しい人を援助した ジョウチン立佐(行長の父)はその事業の一端を引き受け、
美しい十字架を建て、数々の善行を行った」ということが記されている(完訳日本史④ 12章P157)
・1587年以降の高槻の山間部の信仰共同体に関する記述の中に次のような記述があるので、伴天連追放令
以後も、信仰共同体を守るため、慈善活動が組織的に継続的に、広範な協力体制のもとに行われていたと
思われる
・かつて仏僧で清水と称せれていた寺院の長を務めていた「ロケ」と呼ばれ、年老いた善良なキリシタンは、所有して
いた寺院を教会とし、五畿内のキリシタン宗団の父・牧者として奉仕している 同地方に司祭がいなくて、周辺や近郊
の多くの人々が信仰に弱くなっていった時にも、 彼がいる土地の信徒達は、常に堅固に信仰を保っていた 彼は
教会の傍らに司祭達を住まわせるため 土地を提供し、自らはずっと遠いところ(堺の癩病院?)へと移って行った [堺の癩病院] 完訳日本史③P302 ・行長の父立佐は息子のベントに依頼し、ベントが病院を世話をした・・患者50名以上が受洗 異教徒達を感心
させ、驚愕させるほどの事業であった 私は、五畿内のキリシタン宗団の父・牧者として奉仕していた「ロケ」が慈悲役で、背後に右近の姿を想像します
また、1591年、1592年年報では次のようなことが記されている
(右近は信仰を守る「組」の頭目の第一人者、貧しい人を助ける)
・都のキリシタンは迫害の中で信仰を守るため、7~8の一種の組織をつくり、日曜日ごとに一軒の家に集合
し、長時間にわたって霊魂のための行事(霊的書物の読書・朗読、語らい、祈り) を催した 彼等は教会
の暦をよく知っており、復活祭・降誕祭を祝い、四旬節中の金曜日や聖週間中には鞭打ちの苦行を行った
各組にはひときわ熱心で、学識を持ち、教理を教えたりすることができる組頭のような役割を果たす事が
出来る人がいた これらの頭目の第一人者と看做されるのが加賀にいる右近である 右近は損得を無視
して、精神的・物質的な援助に よって貧しい人を助けた 右近は巡察師が都にいる間、その側を離れよう
とはしなかった 60歳を超えた父ダリオも真冬の大雪が降る中、越中からはるばるやって、同様に振舞った
このように、都地区での慈善活動は継続されていたと思われますが、しかし、ミゼリコルディアの組が正式に
発足するのは、もっと後の1600年になってからだそうです 1600年頃には秀吉は亡くなり、布教が活発に 進めることが出来るようになる時期です 恐らく布教環境が改善された結果、それまで形成されていた信徒主体
のコンフラリヤ的組織が表だった慈善活動を行うことができるようになったので、正式な組織を立ち上げることが
できたのではないだろうかと推測します
1600年正式に都布教地区のゼリコルディアの「組」が京都の下京(5条~松原町のダイウス町辺りか、元和の
大殉教縁の地)に設立され、禁教令以後も幾年か活動し、大坂、堺においても活動報告がされているそうです 宣教師がいなくなった地区で信仰共同体を維持するための「組」(コンフラリヤ)が設けられ、その頭目は右近
であるということや、1591年の第二次ヴァリニャーノ巡察時には、巡察師に会うため加賀から都に来た父ダリオ
や右近は都の貧しい人等のお世話を熱心に行っているとの宣教師の記述がある また右近は1600年以降、
加賀で教会建設など積極的な布教を行う事が出来る環境になっており、それ以前からも右近は都には結構
行き来しており、その後もそうしたことが容易に推測できる 従って、都地区の組の設立当初から、金沢という
遠隔地からではあるが、都地区の総組頭的な指導的立場で関わっていた可能性もあるのではないだろうか そして、次のような注目すべきことが、宣教師によって記されているそうです
間接的であるが、右近が都のミゼリコルディアの活動に関わったと推測できる状況証拠が記されています
すなわち、1600年~1602年頃、下京にミゼリコルディアの会があり、右近の霊的指導司祭オルガンティーノ
神父やモレホン神父が布教に従事しており、「高山右近の従兄弟であるマルコ孫兵衛」の名義で、教会と慈悲
の会の家が建てられ、また、伏見の修道院は畿内の布教の根拠地として宣教師達は能登国、加賀国、越前国
へも巡回するようになり、これらの諸国は都の布教管轄区域となったことが記されている
(禁教令後の都の迫害状況が記されている1614年年報に伏見の状況とマルコ孫部衛のことが記されている)
・私達は11、2年前に伏見に教会と修道院を持ち、1612年までは何の邪魔立てもなかったが、1612年に近くの異教徒
が告発したため迫害を被った 司祭は都に行くことを命じられ、同時に「マルコ孫部衛」(右近の従兄弟)という重立
ったキリシタンは、教会を内に固く隠していた修道院の外側に移り住まわなければならなくなった この「マルコ」は
とても裕福であり、その家柄の良さと類い稀な性質でみんなに好まれていた 土地の買い入れや修道院の建設は彼
の名義でおこなわれた・・・役人たちは孫部衛を屈服させれば(迫害の)勝利が得られると期待し、あらゆる言葉や
理屈で彼を攻め立てた・・しかしかれは日を追うごとに度量が大きくなり、志操の堅固さを示したので長崎に追放する との宣告が下され、長崎に旅立った 彼は長崎市民の宿屋の主人と呼ばれるほど、伏見に来る長崎の人を自分の
家に受け入れて来た人であった
・また、迫害された信徒がミゼリコルジアの組などに集まり、40時間大祈祷会を行ったことが記されており、
ミゼリコルディアの組が健在であったことがわかる
・都地区では、正式なミゼリコルディアが造られた1600年以降、布教活動や信徒の慈善活動活発に行われ
ていた(1600年~1613年の都の布教状況 「関西のキリシタン殉教地をゆく」高木一雄著より)
・1600年、イエズス会は高貴な人のために上京に教会と修道院を建てた 下京には40年前から教会と養育院が
ありミゼリコルディアの会を組織していた オルガンティーノ神父、モレホン神父、日本人司祭などが布教
に従事していた 都周辺には小西行長等のキリシタン牢人が多く生活していた
・1601年、イエズス会士は京、大坂、長崎に留まる朱印状をもらった 家康側近本多正信の尽力でオルガンティーノ
神父は家康より伏見に教会と修道院用地をもらう 300人が受洗 京のミゼリコルディアで内藤ジュリアなどが活躍
・1602年、イエズス会士が15人いて、下京と上京とに教会があり、「聖母マリアのお誕生教会」よ呼ばれている
下京教会が中心であった 960人が受洗 「高山右近の従兄弟であるマルコ孫兵衛」の名義で、 教会と
慈悲の会の家を建て、70人が受洗した この慈悲の会の家は普通の家であった 伏見の修道院は 畿内の布教
の根拠地として宣教師達は能登国、加賀国、越前国へも巡回するようになった
・1603年、イエズス会にでは京に四ヶ所の修道院があり、17人の会員がいて、加賀・能登・伊勢・丹波も 管轄として
いた 高齢のオルガンティーノ神父にかわり、モレホン神父が上方の責任者となり、美濃・尾張へもよく出かけ、家康
にも会っていた ・1604年、京に、イエズス会司祭6人、修道士11人がいた 伏見の修道院が広い所に移転した
・1605年、イエズス会では司祭7人と修道士10人で京、伏見、大坂、北国(加賀・能登・越前)を担当した 下京の
教会の横に天文学のアカデミアと付属の印刷所を設けた 伏見で新しく教会と修道院ができた 600人が受洗した
京伏見では「聖母の会」が設立され、伝道士のため、「聖母のお告げの会」が設立された 家康側近本多正純や
京都所司代板倉勝重はキリシタンに協力的であった
・1606年、加賀前田利長の妹豪姫が内藤ジュリアの感化により受洗
・1607年、イエズス会では上京に司祭1人修道士1人がいて50人が受洗、下京では司祭5人修道士9人がいて730
人が受洗 伏見には司祭1人と修道士3人と若干の同宿がいて、150人が受洗
・1611年、京にはイエズス会司祭10人、修道士12人がいて活発に活動、300人が受洗 伏見に司祭1人、修道士1人
がいる
・1612年、京には司祭3人と日本人修道士6人がいた 信者たちは「ノートルダム会」、「ミゼリコルディア会」など
四つの慈善団体を結成していた 5~6ヵ所の癩病院には300人近くの患者がいた
徳川直轄領の禁教令により、上京の教会の取り壊しが命じられたが、下京は宣教師の滞在が許された
伏見の教会は高山右近の従兄弟のマルコ孫兵衛の家であるため個人が買い取って司祭1人と修道士1人がいたが
奉行は多めに見てくれていた
・1613年 禁教令にもかかわらず、下京にはイエズス会士がいた 安全で、京で300人、伏見で100人が受洗した
京都所司代板倉勝重はキリシタンに協力的であった、京、伏見周辺には約3万人のキリシタンがいた
・1614年、京で宣教師の退去命令が出され、キリシタンの取締が実施された
4.右近の殉教の原因となった禁教令とは何か
(はじめに)
多くの論点を抱えており、政治的な論点も関わる問題であるので詳細は別途添付します ここでは、右近の追放
の政治的な意味を理解するためには、避けては通れない最初に最低これだけは知ってほしいと考えるものを紹介
します ・右近とその家族の国外追放処分の根拠となった、その江戸幕府が布告した「禁教令」とは そもそも、どのような
ものであったのか 右近の殉教の意味を正しく理解し、その現代的意味を理解するには、禁教令の本質的部分、
すなわち、キリシタンの殲滅作戦ともいえる最悪の迫害を、大きな歴史のスパンのなかで正しく捉える作業が必要
です そして、この事は過去の遠い現代とは無縁のことではなく、現代のカトリックの福音宣教と深く関係する問題
でもあるのです 禁教令によって多くの殉教者が日本に輩出し、福者、聖人とされた方も多くおられます 彼らの
信仰心と生きざまを追体験することは、この世界に誇るべき信仰遺産を受け継ぐことになるし、現代の日本の
カトリック信徒の信仰心の背骨を正しく矯正する切っ掛けとなると思います 逆境にあっても、キリスト者として勇気
をもって生き抜いていこうとする力が湧いてくるはずです 今、長崎の教会群等が世界遺産の指定が言われてい
ますが、建造物だけではなく、当時のキリシタンの信仰心とその生きざまそのものが世界遺産とされるべきと私は 考えます
・しかし、残念ながら別の見方もあることは事実です。当時のヨーロッパ列強の植民地政策などの国際情勢を考え
ると禁教令と鎖国政策は必要であったし、日本の伝統的宗教を侮蔑し、当時の権力者に反抗し、外国の宣教師
には従う当時のキリシタンは迫害されて当然、或いはやむをえなかったとの意見も、根強く唱えられています
これも現実です このような考えでは当時のキリシタンの殉教に対する考え方や評価は大きく変わってきます キリスト教そのものや、当時のキリスト教徒の信仰心や彼等の生きざまや、命がけで遠い外国からやってきた宣教
師の信仰心と福音宣教をどう考えるのかによって、その評価は大きく異なってくるのではないかと感じています キリシタンへの迫害や鎖国政策を肯定的に考える人達は、恐らく高山右近をはじめとする殉教者を聖人や福者
として最大の尊敬の念を表すことは、不満を覚えるであろうし、共感を得ることは難しいと思います そこで、茶人 右近や、はたまた、ユルキャラ人形がでてくるわけですが、ことの本質を避けようとする姿勢にしか見えません
このような考えから、右近の最終章において、禁教令に関する問題は避けてとおることはできないと考えたわけです
そして、私の心の中で長年、重たいものとして、ずっと残ってきたものでした 殉教者の信仰心を味わうには避けて
通るわけにはいかないのです いやでも、辛くても、日本のキリスト者は正面から向き合わざるをえません
・それとともに、キリスト教は日本においては未だ少数派であり、如何に諸宗教と対話し、その信仰を際立たせて
いくことが出来るのか、そのこととも関係する問題でもあると思います 秀吉や家康の禁教令時代の福音宣教や
信仰共同体のあり方に問題があったのか、その検証は現代における福音宣教の在り方と直結する問題であると
思います
・それでは、そもそも、「禁教令」とはどのうような文書なのか
・禁教令とは正確には江戸幕府が1614年2月1日(慶長18年12月23日)、全国に布告に公布した
「排吉利支丹文」(「伴天連追放之文」)とされています(以下「全国的禁教令」という) 明治時代の初期まで、
長きにわたって続けられた過酷なキリシタン迫害の法的根拠の端緒となったものです ・この禁令は、慶長18年12月22日、京都南禅寺金地院の禅僧崇伝(幕府の僧録司(僧侶で人事権・外交文書
を司る)が江戸城において、家康の命を受けて起草し、23日将軍秀忠に献上され、秀忠の朱印を捺して公布
されたもので、文書は南禅寺金地院にあって、「異国日記」(僧崇伝がその職務等を記した記録)に収められ
ているそうです 文書の基本的な趣旨は次のようなものです
・まず儒教的理念を基本として、日本が神国並びに仏国であり、吉利支丹の教えは正宗なる神仏を惑わす
邪法である 吉利支丹国の者は、日本に来て商船を渡航させ、財貨をもたらすためだけではなく、日本を
改変するものである 吉利支丹は日本侵略の手段となっている
・京都で起こった刑死事件において、刑死した死刑囚を礼拝した事は、キリシタンが邪法である事を示して
おり、神仏の敵である 後世国家の厄となる
・禁教令に基づき宣教師を追放した数ヵ月後、家康は伊勢神宮の祭神、天照大神に感謝して歌と踊りを
奉納するように全国に命じたそうです その歌は「異国の野蛮人が日本を奪いにきた しかし神の国で
あるからそれは出来ないであろう 立ち去れ立ち去れ」という内容のものであったそうです(日本キリスト教 史 五野井氏著)神国日本の国家観を全面に出したものであったことがわかります
・原文の主な内容はつぎのとおりです
【「禁教令(排吉利支丹文)」の主な内容】 [日本キリシタン史 海老沢有道著]
・まず、日本は神国・仏国であると述べたのち
「爰(ここ)に吉利支丹の徒党、たまたま日本に来り、啻(ただ)に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず
叨(みだり)に邪法を弘め正宗を惑わし、域中の政号を改め、己が有となさんと欲す これ大過の崩し
也 制せずんばあるべからざる矣(い)」と、キリシタンは侵略的ないし革命的危険な宗門であるとし、
ついで、三教一致的人倫の道を述べたのち、
「彼の伴天連の徒党、皆件の政令に反し、神道を嫌疑し正法を誹謗し、義を残し善を損す 刑人あるを
見れば載ち欣び、載ち奔り、自ら拝し自ら礼し、これを以て宗の本懐となす 邪法に非ずして何ぞや
実に仏敵神敵なり 急で禁ぜずば、後世必ず国家の患あらん 殊に号令を司り、これを制せずば、
却って天譴(けん)を蒙らん 日本国の内、寸土尺地 手足措く所なく 速かに之を掃攘せよ 強いて
命に違うあらば、之を刑罰すべし ・・・孔夫子亦曰く 身躰髪膚、父母に受く、放て毀傷せざるは
孝の始也と 全きその身乃ちこれ敬神也 早く彼の邪法を斥けば、弥々吾が正法昌んならん 世
既に澆季と雖も、益々神道仏法紹隆の善政也 一天四海宜しく承知すべし 敢て違失するなかれ」
(異国日記原漢文)
すなわち、キリシタンは侵略的宗門であり、神仏信仰及び人倫を破壊し、日本の政法に反するという
のである ・・・「異国日記」は右に付記して、この清書に将軍秀忠の朱印を捺し、「日本国中の諸人
、この旨を存ずべきの御掟也」と記し、これが全国的に発せられたキリシタン禁教宣言である事を示し
ている
・この「禁教令」に先立って二つの禁令が出されています すなわち岡本大八事件後直ぐに出された幕府直轄領
での家臣のキリシタン 信仰を禁止する禁教令(慶長17年3月21日)と、もう一つは本多・大久保の徳川家内部
抗争と並行して出されたもので、最終的に都でキリシタン取り締まりを行った大久保を改易した再禁教令
(慶長18年12月19日)です 1614年の禁令とこの二つの禁令は一体のものとして捉えられるべきものです
・次に、禁教令が公布されて以降、日本はどのように変わって行ったのか考えてみたいと思います
この禁教令以後、キリシタンの信仰を禁止する政策は、約30年かけて貿易統制政策と一体となった
「鎖国政策」として完成されていきます 宣教師は日本植民地化の尖兵であり、キリシタンは日本を危うく
するという南蛮侵略説で正当化した幕府の鎖国政策の目的は、実は幕府の貿易独占と徳川家による
強固な中央集権的封建支配の確立にあったのです 右近の国外追放、その後の約250年にわたり、
明治になっても暫く続いた、キリシタン迫害の直接の根拠となった禁教令は、遠い過去のことではなく、
今に繋がっている問題であるということを理解することが極めて重要と考えるので、禁教令以後、日本は
どのように変わっていったのかということについて、先に簡単に触れておきます
[1614年以降のキリシタン禁圧と貿易統制、鎖国体制の完成 1616年~1641年]
・この1614年の禁教令以後、大坂の陣で豊臣家を滅ぼし政権を強固なものした幕府は、キリシタン禁圧と
貿易統制を更に強めていく 1616年にはキリシタン禁制と南蛮貿易制限とを一つのものとして明示した
元和2年8月8日付の「伴天連宗門御制禁奉書」(貿易港制限令)」を出す これにより百姓に至るまで全て
の者のキリシタン信仰が禁止されるとともに、事実上唐船を除くすべてのヨーロッパ国籍の船の廻航は
長崎・平戸の二港に限られることになり、鎖国体制が整えられていく 1617年日本に残留した宣教師の
存在を知った幕府は大村氏に探索を督励し、大村氏は彼らを捉え処刑し、長崎では長崎奉行による
宣教師等の一掃作戦等が行われた 1619年には、いわゆる元和の大殉教[1619年京都52名、1622年
長崎55名、1623年江戸50名 何れも火刑]といわれる大きな迫害が始まり、全国に迫害の嵐が荒れ狂い
多くの殉教者がでた 1622年には、ポルトガル、スペインの船舶に対する監視・規制が一層強化されて
いき、宣教師の密入国は不可能な状態となっていった 殆どの住民がキリシタンであった長崎では、
1626年になると長崎奉行は棄教命令を強め、雲仙地獄での拷問を行い、棄教しな者を処刑するなど
過酷な迫害を行った 1630年の禁書令を始め、宗門改・寺請制度・絵踏、そして1634年以来、五人組、
訴人奨励策、類族改等の方策が採られ全国で厳しい取り締まりが実施された 幕府は貿易の面でも
完全な支配下に置くため、1631年貿易商人を限定する「奉書船制度」を施行し、糸割符制を唐船にも
適用し、統制を徹底した
・1632年秀忠が亡くなり、1623年既に将軍職についていた家光の親政が始まり、幕藩体制は完成段階に
入る 宣教師等の大量捕縛と処刑により、宣教活動はほぼ封じ込められ、キリシタンは邪宗であるという
観念は更に浸透していき、宣教師はもちろん主要な信徒は根絶され、キリシタンの信仰共同体は地下
組織化を余儀なくされていく これまで相次で出されてきた諸令を取りまとめた1633年の17カ条覚書
(寛永十年令)や1636年19条の条目によって、キリシタン禁制は更に強められるとともに、朱印奉書船制、
糸割符制を総合した貿易統制が強化され、いわゆる「鎖国政策」が完成段階に入る そして島原での
キリシタン殲滅といっても言い、過酷な迫害と搾取と凶作に追い詰められた信徒達によって起こされた
1637年の島原の乱は、一種の宗教戦争の様相を呈し、幕府に大きな衝撃を与えた この一揆を討ち
滅ぼした幕府は、その権威を更に高め、諸藩への統制を強め、キリシタンの侵略的邪宗門観を徹底的
に植え付けていく その後1639年にはポルトガル来航停止処分が下され、ポルトガルとの貿易が断絶し、
オランダも1641年出島に移転を命ぜられ、糸割符の適用を受けることになり、厳しい貿易統制下に置か
れた 右近追放後、このようにして、幕府の鎖国政策は約30年かけて完成された (日本キリスト教史・五野井氏著、日本キリシタン史・海老沢氏著を参考に概略をまとめた)
(禁教令とその現代的課題に関する私見)
・そしてこの禁教令は明治なっても継続され、治外法権撤廃などの外交交渉の中で、西欧列強からの
圧力で、渋々取り下げられたもので、廃仏毀釈がされるなか、天皇を現人神とする国家神道を中心とする
神国日本の思想のもとに、信仰の自由が認められたものであった 第二大戦後、新憲法下において、
国家神道はなくなり、近代民主主義国家の体制が整い、本当の意味での信教の自由がようやく基本的
人権として保障されたのです 今、この憲法が大きく変えられることが現実味を帯びてきています そして、一番心配なのは、改憲勢力の中心にある人々が戦前の国家神道の復活を願っていることです
・政権担当能力がないことを示した民主党が大きく衰退し、代わりに右翼的な政治勢力が大きく力を伸ばして
きています 日本の右傾化はますます進むことは確実です 憲法9条は完全に空洞化され、次の政治課題
に憲法改正を据えようとしています その問題意識の根底に在るのは、時代錯誤的な日本民族主義の
復興であり、民族主義を鼓舞する国家神道の復活です 自虐的歴史観からの脱却、美しい日本の再生、
戦後レジームからの脱却、積極的平和主義などという情緒的、文学的表現に誤魔化されてはならないと
思います 国民を拘束する国家権力の在り方そのものにi関する重要な法的問題であり、 国民の平和と
基本的人権と生命に直接かかわる係る政治的軍事的な問題です 戦後、日本は自らの反省と力で獲得
出来なかったもの、すなわち、世界的に認められた普遍的な価値、「共通善」の考えを基本にした民主
主義の基本理念にもとづく国家の形態が、残念ながら占領国より与えられた 今、その事を理由に、国民の
民族意識の感情に訴え、占領下で制定された法であるからとして憲法改正を主張する人が多くなっている 国家神道に基づく天皇制、靖国神社問題に象徴される偏狭な排外主義、民族主義では、絶対に現憲法
は生まれなかったと思います 今、改めて、日本人自身が自らの問題として、先の大戦と国家の在り方を
根底から考え、憲法の在り方を考える事が求められています 一般人を巻き込んだ、恐ろしいほど多くの
惨たらしい人の死をもたらした第二次世界大戦の経験を踏まえ、どのような東アジアの平和的な外交関係
を樹立すべきか、米国の傘から抜けて、日本は現憲法のもとに国際的なリーダーシップをもっと発揮すべき
です 小さなな島の領土問題や国際的に孤立無援の独裁国家の問題に拘り、全く逆の偏狭なナショナリ
ズムに回帰しようとしているように感じます 国家神道に基づく偏狭なナショナリズムとこれに依拠する軍国主義が戦前なにをもたらしたのか 極東の
積極的平和という名のものとに海外派兵を行ったが、戦に勝利しても、負けても、互いに多くの人の無駄な
悲惨な死をもたらしただけであった 戦後のベトナム戦争、イランの戦争、中東のイスラム原理主義者による
非人間的なテロなど、いずれも本能的な人間の憎しみの連鎖が悲劇的な結果をもたらしている 戦争や
殺し合いは問題の解決に寄与せず、かえって冷静な解決を不可能にしています 一旦殺し合いを始めると
止めることは難しくなる それは、難民のヨーロッパへの流入、EUの今後を不安なものとし、どこかでこの
連鎖を断ち切らないと大変なことになる 暴力によっては何も解決できない やられたらやり返すという、
際限のない、新たな憎しみの連鎖を生み出すだけです
世界はよりグローバル化し、経済が世界的規模になり、その関係はますます密接になっており、 一国の
国益という概念自体で判断・解決することが出来なくなってきている 領土問題を超えた政治的、経済的な
妥協でしか解決は生み出されないことを過去の歴史は教えている 隣人愛のキリストの教えこそ世界に
通用する「共通善」であり、日本も「共通善」を最も大切にする国としてその責任を果たしていくことにより、
国際的に尊敬される国となるであろう 恐らく日本の右傾化は避ける事は出来ない だとすれば、これから
日本を背負っていく右翼的政治家が、米国の庇護から抜け出し、世界共通善を根底にした民族主義に
転換することによって、そのことは可能になっていくであろう 「世界平和」という言葉は誰しもが願う共通善
です 仏教は共通善を多く取り入れ大きく変わっています その意味で、神道など日本の伝統的宗教も
世界の宗教と対話し、その教えを世界に受け入れられる普遍的な価値観まで昇華していかねばならない
とおもいます 平和国家日本の象徴として、伊勢神宮は世界に何を発信できたのか、先の伊勢サミットは
絶好の機会であった しかし、オバマ大統領の広島訪問の方が強烈な印象与えてしまった 何故なら、 彼の発言の方がより普遍的な理念に基づいたものであったからです
キリスト者は平和の使徒としてその模範となり、他宗教との対話を更に進めなければならない 戦国時代
から江戸時代の禁教令下の迫害の歴史を想起し、戦後やっともたらされた基本的人権、就中、完全なる
信教の自由、政教分離などを守っていく決意を固めなければならない 禁教令により殉教した殉教者の
思いをどう受け継いでいくのか、今その現代的課題がなんであるのか、何をしなければならないのか、
その事が問われていると私は思います
(1)「全国的禁教令」が出されるまでの経過
①禁教令前後の主な出来事
・徳川幕府が日本国内の支配体制確立のために行った三つの政策、すなわち「鎖国に繋がる貿易政策」と
「豊臣家滅亡・徳川家中心の幕藩体制の確立」と「キリシタン禁教政策」が同時進行していった
ことがわかる この支配体制の骨格は、1641年の鎖国をもって完成する
・これ以降、キリシタンは完全潜伏状態におかれることになる
1600年 関ヶ原の戦い オランダ船漂着、航海士英国人ウイリアム・アダムス家康の外交顧問
1601年 朱印船制度の創設
1602年 オランダ東インド会社設立
1603年 江戸幕府[家康征夷大将軍] 巡察師ヴァリニャーノ第三次巡察1598~1603
豊臣家は実質上摂津・河内・和泉等65万7千石の一大名となる 秀頼家康孫娘千姫と祝言
1603年 オランダ、ポルトガル貿易船を攻撃 ポルトガルとの交易中断
1604年 幕府貿易統制(糸割符制を布く)
1605年 家康将軍職を秀忠に譲る 家康豊臣秀頼に上洛を促すも母淀が反対
1607年 林羅山、将軍の待講となる
1608年 あらゆる宣教師が日本で布教できることがローマで確認される ポルトガル・イエズス会の相対的低下
1609年 オランダ貿易開始(平戸商館) イスパニアにも交易が認められる ポルトガル貿易の力弱まる
1610年 デウス号事件(長崎での有馬晴信によるポルトガル商船攻撃、その結果同船が焼沈した事件、前年の
有馬晴信の朱印船の乗組員とポルトガル人とのマカオでの争いの遺恨を晴らすために行われた
・デウス号事件によりポルトガル貿易2年間中断 家康の信任厚かったイエズス会ロドリゲス神父の追放
・有馬家嫡男有馬直純、家康の曽孫国姫を妻とする
1611年 オランダがイスパニア・ポルトガルの日本征服の野望ありと誹謗中傷 幕府激怒する
1611年 家康・秀頼ニ条城会見 (家康豊臣家滅亡の深謀遠慮)
1612年 ・(慶長17年3月) 岡本大八事件
・慶長16年11月頃晴信の訴えにより事件発覚、岡本大八は慶長17年2月捕縛され3月火刑
・幕府直轄領の禁教令布告(慶長17年3月21日)(江戸・駿府・京都・長崎に発せられる)
・最期のキリシタン大名有馬晴信追放(慶長17年5月賜死) ・有馬の迫害が始まる(慶長17年6月~)家康の命により、有馬晴信嫡男直純が有馬の迫害を始める
・ポルトガルとの生糸貿易激減
・[在日する宣教師] イエズス会318人(司祭202人、修道士116人)、同宿202人
フランシスコ会14人(司祭9人、修道士5人) ドミニコ会9人 アウグスティノ会4人
1613年 有馬の迫害(1613年10月 7日ディエゴ林田達8人が有馬川の中州で信徒2万人が見守る中で火刑)
1613年 慶長の遣欧使節(支倉常長) 英国と交易・平戸商館開設(1623年閉鎖)
1614年 (慶長18年12月19日) 再禁教令布告 宣教師の国外追放
直轄領(京都町奉行・堺奉行・伏見奉行・大坂奉行)キリシタン名簿作成
1614年2月1日(慶長18年12月23日) 全国的な禁教令公布
宣教師、高山右近等国外追放を命じられる
1614年 次第に豊臣家恩顧の武将が亡くなり、豊臣家の孤立が深まるなか、豊臣家幕府に相談せず
官位を賜る 牢人・兵糧を集め出す 慶長19年8月方広寺鐘銘事件で両者の対立が更に深まる 慶長19年10月豊臣側は恩顧の大名、牢人等に檄を飛ばす 家康も戦いの準備を始める 1614年 11月7、8日(慶長19年10月6日、7日)宣教師追放 右近等長崎を出帆
1614年 大阪冬の陣[慶長19年10月出陣 11月開戦 12月和議]
1614年 宣教師追放後直ちに、兵1万人威圧のなか島原半島各地での組織的な迫害開始 1615年 大阪夏の陣[豊臣家滅亡] 武家諸法度 禁中並公家諸法度
1616年 伴天連宗門御制禁奉書(貿易港制限令) (全ての民百姓までキリシタン信仰厳禁、中国以外の外国船
来航を長崎と平戸に限定) 家康没
1619年~1622年 元和の大殉教
1621年 オランダ艦隊、ポルトガルの拠点マカオを攻撃 1623年 家光将軍(秀忠実権) イギリス平戸商館閉鎖
1624年 スペインと断交
1627年 雲仙地獄拷問始まる(1631年まで) 1628年 絵踏み始まる
1630年 禁書令(キリシタン関係の書物輸入禁止)
1631年 奉書船のはじまり(海外渡航に朱印状・老中奉書を義務付)
1633年 宣教師渡来禁止 伝道厳禁 奉書船以外の日本船の渡航禁止 フェレイラ(イエズス会準管区長)棄教
1633年~1637年 長崎16聖人・金鍔次兵衛殉教
1635年 海外渡航と海外在留日本人帰国禁止 参勤交代の確立 寺社奉行設置 宗門改めを始める
1636年 出島完成 ポルトガル人隔離
1637年 島原の乱 1639年 ポルトガル船来航禁止
1640年 宗門改体制の確立(寺請制度、宗旨人別帳)マカオからのポルトガル使節大使等61名を斬首刑・船焼却
1641年 鎖国の完成 オランダ商館出島に移す
1642年 密航宣教師(ルビノ神父等)の殉教 (棄教したフェレイラの立ち帰り、贖罪を目的) 1643年第二団(転ぶ)
1643年 信徒の中で活動していた最期の神父であるマンショ小西神父の殉教によって教階制が崩壊し、
キリシタンは完全潜伏の時代に入る
1644年 諸藩に宗門改役 ポルトガル船長崎来航するも通商再開の目的果たせず
(1708年 シドッチ神父渡来)
- 約250年、7世代にわたるキリシタン禁教・潜伏の時代が続いた -[1614年~1865年]
1844年頃からパリ外国宣教会 沖縄で日本再宣教の準備を始める
1846年 教皇庁日本再宣教に着手
1853年 ペリー浦賀来航
1858年 日米修好通商条約締結
1859年 横浜、長崎、函館開港 外国人居留地建設 パリ外国宣教会来日
1862年 26聖人列聖 横浜に教会
1863年 プチジャン神父長崎に来る
1865年 大浦天主堂創建 信徒発見
1867年 205人の殉教者を列福 浦上四番崩れ
1868年 明治維新
1868年~1873年 浦上キリシタン3300人余りが20藩に配流され拷問・苦役、600人以上が亡くなる
1873年 高札撤去
1889年 明治憲法公布 信教の自由
②禁教令が出されるまでの時代的背景
(あらまし)
・何故禁教令がこの時期に出されたのか、その背景を理解しておく事が極めて重要です その背景とは、まず
国際的なものとしてキリスト教の布教を展開してきたポルトガル・スペインが衰退し、かわりに布教を条件とせず、
貿易重視のオランダ・英国の台頭といった海外貿易環境の変化です 次には国内的なものとして、徳川家を中心
とする中央委集権的支配体制の完成さえようとする動き、就中、豊臣家を中心とする反徳川勢力を一掃しようと
する政治的・軍事的背景です ・国際貿易の大きな変動要因はもちろん、国内的な要因も同程度に重要視しなければならない
1603年徳川幕府は開かれるが、反徳川勢力のシンボル豊臣家は1615年の大坂夏の陣で滅ぼされるまで存続
しており、統治体制は未だ未完成の状態であった 禁教令はもともと反キリシタンを基本とする統治政策を持つ
徳川幕府が「マードレ・デ・デウス号事件」、「岡本大八事件」等を契機として出したものであるが、全国的に執行
されたのは1614年で、それは、豊臣家とその残党を殲滅する時期[1614年大坂冬の陣、1615年大坂夏の陣]
であることに注目しなければならない 豊臣家殲滅と禁教令の全国的執行はほぼ同時進行的に行われたのです
徳川家との決戦を控えた大坂城にはかなりのキリシタン武将が参集したとも言われています
【国外の状況変化】
・何時の時代の歴史もそうであるが、常に国際的な視点が必要だと気付かされます
(国際貿易主役の盛衰) -ポルトガル・スペインの衰退、オランダ・イギリスの台頭-
ポルトガル、スペインの大航海時代に、教皇のお墨付きがついた、両国による東西世界分割の枠組みで、
世界の貿易、植民地での布教が進められてきたが、家康の時代になると、この状況は大きく変わっていく
すなわち、ポルトガルが衰退し、スペインが台頭する その後、更に状況は変わり、ポルトガル・スペイン
というカトリックの国から、オランダ・イギリスというプロテスタントの国へと 世界の力関係は大きく変わって行く この変化は日本にも大きな影響を与えた すなわち国際貿易について、これまでの主役であったポルトガル・
スペインは衰退し、オランダ・イギリスという国がそれに変わる存在となっていった これらのプロテスタントの国は、
キリスト教の布教を介在させる事なく、日本との貿易を 円滑におこうなう事が出来る国であった 日本の権力者は、
もともと本質的に反キリシタンの権力構造に立脚していたが、貿易を円滑に行うため、これまでやむおえず、
ポルトガルのイエズス会を中心とするキリシタンの布教を認めてきた しかし、もはやその必要は無くなった
別の言い方をすれば、幕府は国際貿易で強力な存在となったオランダを相手にせざるを得なくなったともいえる
また新たに日本進出を狙うオランダやイギリスといったプロテスタントの国は、日本の権力者に、ポルトガル・
スペインの宣教師の日本国内の布教の目的は、日本の植民地化に在り、貿易の相手国として自分の国の方が
日本にとってより良いと説いた 反キリ シタン政策を行う江戸幕府にとり、これは極めて好都合な材料となった
逆に、ポルトガルの長崎・マカオ貿易とこれに依拠してきたイエズス会の日本布教は大きな打撃を蒙ることになる
・1600年オランダ船リーフデ号豊後漂着 英国人ウイリアム・アダムス幕府の外交顧問
・1602年オランダ東インド会社設立
・1609年オランダと貿易開始(平戸に商館) 1613年英国平戸に商館
(イエズス会の役割の相対的低下) -フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスティヌス会の日本布教-
・キリシタンの教えを布教する側においても大きな変化があった これまで、マカオに拠点を置くポルトガルの
イエズス会を中心に日本布教は進められてきた その後、ポルトガルは衰退し、スペインの台頭により、マニラ
を拠点とするスペイン系の修道会やフランシスコ会、アウグスティヌス会、ドミニコ会による布教も行われるように なった 秀吉や家康はキリシタンの布教は望まなかったが、彼らを通した友好的な通商関係は望んだ
このため最初、イエズス会と後発の修道会とは互いに競い合う関係となり、次第にポルトガルを中心とした
イエズス会の日本布教の独占状態は認められなくなっていった
この事は次のようなカトリック内部で日本の宣教について次のような変化が生じてきたことによる
これまで、日本の布教は教皇グレゴリウス13世の小詔勅によってイエズス会以外の修道会はできないように
なっていたが、フランシスコ会はこの小詔勅廃止運動を展開した結果、1600年には教皇クレメンス8世に
よってこの小詔勅は廃止され、イエズス会以外の宣教師がゴア経由で日本に入国することが許された (既にメキシコ経由で日本に入国した宣教師は退去)その後、この小詔勅完全廃止運動は強められ、
1608年6月、教皇パウロ5世の教皇令によって完全撤廃された
・1588年教皇シスト5世がフランシスコ会の西印度・支那の布教を許可(それまでは1585年のグレゴリオ13世教勅で禁止) (スペイン無敵艦隊オランダに敗れる)
・1593年フランシスコ会士来日、名護屋で秀吉と謁見 都に修道院を設け布教開始 イエズス会司教日本に着任
・1597年日本26聖人殉教 フランシスコ会士迫害される
・1600年 教皇クレメンス8世 グレゴリオ13世教勅緩和(イエズス会以外の宣教師のゴア経由での日本入国を認める)
・1602年 マニラからスペイン系托鉢修道会士16人の修道士(フランシスコ会士8人長崎、ドミニコ会士5人島津領の甑島、 アウグスティノ会士3人平戸)来日 布教を展開 (オランダ東インド貿易会社設立)
・1608年あらゆる宣教師が日本で布教できることがローマで確認される
【国内の状況変化】
[家康の初期の貿易政策]
・1603年 幕府が貿易を独占するため、貿易の拠点長崎を直接支配下に置く事を考えた 貿易を円滑に行うにはイエズス会の仲介が必要と考え、村山等安等5人の長崎の有力商人に長崎
統治を委ねた ジョアン・ロドリゲス、巡管区長パシオが相談役となった ・1604年 家康は長崎貿易維持のため、財政的に窮乏していたイエズス会等に金銭の喜捨や、貸付をした また長崎
奉行に小笠原氏を派遣し、糸割符を実施させた 長崎奉行は長崎の貿易管理や長崎の町の統制みならず
九州全域の監督権を有した
[家康の貿易政策とキリシタン政策]
・もともと江戸幕府のキリシタンに関する政策は、秀吉のバテレン追放令の考えを引く継ぐものであった
キリスト教布教は原則禁止し、貿易を幕府の統制下におくなかで、海外貿易の利益を得るために宣教師の
日本滞在は認めるという、貿易上の利益を保つ範囲内でのキリスト教の実質的な黙認であった 1601年~
1612年禁教令までの布教環境は、地域的・個別的に限定された迫害はあったものの、大きな「一般的な
迫害」が無かった ラウレス神父は、この間を「「日本教会にとって好ましい平和の時代でも、妨げられぬ
発展の時代でもいない・・・長い休息の時代」と評されている しかし、この間貿易相手国としてにオランダ等
が台頭し、ポルトガルの地位は低下し、宣教師の日本滞在無しで貿易ができる国際環境が整うと、もともと
持っていた牙をむき出すことになる ラウレス神父の考え方を基本にまとめたその経過の概要は次のとおり
[1600年関ヶ原の戦い~1612年幕府直轄地禁教令までの概要]
[最初、家康はキリシタンに希望を抱かせた]
・伴天連追放令を出した秀吉は1598年に亡くなり、その解放感からか、1599年から翌年に懸けて、七万人
以上が洗礼を受けたそうです これは石田三成等がイエズス会の長崎滞在を追認したことや、徳川家康が
海外交易が目的で、宣教活動を容認する姿勢を示したことなどと相俟って生じたものであった しかし、
1600年の関ヶ原の戦いでは多くの損失を蒙ります 1603年の司教セルケイラの書簡によれば、1600年の内乱前には
信徒数は三十万人に達していたが、キリシタン大名小西行長の死等の大変動の結果、多数の者が散らされ、棄教を
強制され、司祭と教会の多数も奪われたため、キリシタンの数は三分の一に減少したそうです
・徳川家康が事実上の最高権力者となり、当初家康は迫害者になると恐れられた イエズス会は1599年から
ジョアン・ロドリゲスを通じて家康への働きかけを行い、関ヶ原の戦後、秀吉の布告の事実上の撤回とも思え
る、京都・大坂・長崎のイエズス会の住院に対する許可状をロドリゲスに与え、京伏見では修道院建設を
許可した またキリシタン大名有馬・大村の信仰を保障した 家康の側近に有力な保護者もいたので、
その後の布教に大きな希望抱かせ、司祭達は公然と布教活動するようになった ・これは大名に良い影響を与えた 福島正則、細川忠興等はパードレ達を招いた 黒田長政とその父黒田官部衛が
家康を味方し、小西行長が行っていた役割を行うようになったので迫害をまぬかれることができた 黒田官部衛は
教会の利害を代弁する覚悟であると約束したそうです 「暫く信仰熱を欠いていた 黒田官兵衛は、内乱の前に
総告白を行い、最初の熱心さを新たにし、豊後・筑前の戦の間、公然とキリシタンである事を示し、小西没落後、
教会の保護者であり、代弁者となる事を以て、己が光栄ある義務と看做した
・長崎では1596年以来司教が置かれていたが一度も司教として聖祭を盛大に行うことが出来なかった しかし1601年
の聖木曜日、司教は長崎の主教会聖式通りの聖祭を行い、司教セルケイラは祝福された 司教セルケイラは在俗
司祭を養成するため、ポルトガル人2名、日本人6名の神学生を司祭に採用した 1601年9月22日、最初の日本人の
イエズス会士二名が司祭に叙階され、長崎の主聖堂で霊的指導に従事した 聖母被昇天の教会建築も 始まり、
キリシタン墓地が設けられた 京都とその近郊では、迫害に関わらず多数の信徒が誕生した
・貿易を重視する家康は、時折、宣教師に好意を示した 1603年オランダ海賊のため貿易が中断し資金に困った
宣教師に資金を貸し付けたり、1606年には司教セルケイラを、1607年には準管区長パシオを、盛大にもてなした
これらは家康が貿易を重視し、これを支配下に置くためのものであったが、宣教師は禁教令が解かれたと思い、
これを契機に諸大名のキリシタンへの対応が好転し、イエズス会、その他の修道会は布教を進展させた
*家康が京都・大坂・長崎の住院保護(教会経営の許可)をした際に、禁教令の撤回について、「国内が落ち着く
まで待ってほしい」という口実で拒否したそうです (キリシタン研究 セルケイラ司教の報告書の注)
[しかし、家康の本心はそうではなかった]
・家康は一般的には布教を阻止せず、「一般的な迫害」は行わなかったが、これはマカオとの貿易を考慮し
たもので、家康は心中では全然キリシタンの友ではなく、教会が拡張する事は望んでいない措置を取った
家康は、武士がキリシタンになる事を禁止する政策は引き続き実施したので、現職の大名は家康を恐れ、
受洗 しなかった また、家康は秀吉の禁令を緩和したけれども、書面をもった撤回ではなく、教会の状態は
確実な法的根拠を欠いていたので、不都合があればすぐに迫害される状態にあった このため、現職の
大名は家康の本質を理解し誰も受洗しなかったため集団改宗は起きず、その後の約10年間の受洗者は、
イエズス会以外の受洗者を含めて、約五万七千人程度であったそうです *家康のキリシタンに対する基本的な考えを端的に示す資料として、次のような資料があるそうです それは、
1605年に家康がキリシタンの布教を許されたいとのフィリピン総督の要望に対し、認めることは出来ないと記した
書簡です
(異国往復書簡集91頁)
「尚ほ閣下其地より、屡々日本に在る諸宗派に付きて説き、又多く望む所ありしが、予は之を許すこと能はず 何となれば、我那は神国と称し、仏僧は祖先の代より今に至るまで大に尊敬せり 故に予一人之に背き、
之を破壊すること能はざればなり 是故に日本に於いては其地の教えを説き、之を弘布すべからず」
(通航一覧巻185 慶長17年6月20日) 「於弘法志者、可思而止不可用之、只商船往来而売買之利潤偏可専之」
(キリシタン研究 セルケイラ司教の報告書の注より)
・1605年にはスペイン船の入港の遅れに端を発した信仰禁止の布告が江戸市中や関東諸国に出され、迫害が起きた
・家康は信長・秀吉と異なり、熱心な仏教徒で仏教の強力な保護者であったので、仏教勢力の影響力を増大させた
1606年、「妙貞問答」の作者ハビアンと幕府儒学者林羅山との宗論が行われ、その結果林羅山は一層厳しいキリシ
タンの敵となり、事態は悪くなっていった
・1601年から1612年の間には、教会は全体としては平和であったが、個々の地方では小規模の迫害が行われた
肥後の加藤清正の内藤ジョアンや結城弥平次等に対する迫害や、奪われた長崎奉行の地位を取り戻すべく
家康に取り入ろうとした天草・唐津城主寺沢は領内のキリシタンを迫害した 毛利輝元の領内では、徳川家の不興を
かうことを恐れ、また仏僧からの圧力もあり、有力なキリシタン武将熊谷元直(メルキオール)への迫害が行われた
大村純忠の嫡男喜前はキリシタンであったが、熱心な日蓮宗徒であった加藤清正の影響を受け、彼の信仰を支えた
妻が亡くなり、長崎奉行寺沢、徳川幕府の圧力により、1606年、長崎での土地交換問題で損失お受けた事を契機に
宣教師を追放し、日蓮宗に改宗するという大変に悲しいことが起きた これら事を通じて家康の本心が垣間見えてくる
[貿易環境の変化により家康本心を表す]
貿易環境の変化により、1610年以降家康のキリシタンに対する敵意むき出され、一般的な迫害へとなって
いった ポルトガル人がヨーロッパを代表して日本と貿易を営んでいた時期には家康と宣教師との関係は
良好であったが、ポルトガル人による貿易独占が崩れ、マカオ貿易の重要性が相対的に低下してくるとこの
関係は変わってくる 家康はイスパニア船の受入れに積極的であったが上手くいかなかず、ポルトガル人を
相手にせざる得なかったが、1600年オランダ船デ・リーフデ号が豊後に漂着し、英国人ウイリヤム・アダムス
なる水先案内人が家康に取り入り、家康の対外政策に影響を及ぼす事となると、やがて1609年にはオランダ、
1613年には英国との貿易の機会が訪れることになり、ポルトガルにとって大きな脅威となっていく
(オランダの台頭)
1603年にはオランダ船の海賊行為によりマカオ貿易は中断し、 1607・8年にはポルトガル人は日本渡航
を思いとどまった 1608年にはマカオで有馬家家臣も加わった数名の日本人が狼藉をはたらき、厳罰に
処せられるという事件が起きた この事件に際し、日本人厳罰に処した当時のマカオ総督が船長として
乗り込んだポルトガル船マードレ・デ・デウス号が1609年長崎に入港した この時有馬家から一方的な
敵意ある報告を受けていた老獪な長崎奉行長谷川左兵衛は、策を講じ、家康を説き伏せ、有馬晴信に
同船を攻撃させるようにし、攻撃を受けた同船の船長は船を爆破させるという事件が起きた 調度この時、
イスパニア、オランダは家康に交易を求めて働きかけをしており、それぞれに交易が認められ、オランダは
平戸に商館を建てた 以前から家康はポルトガルに貿易を独占させる考えは無かったのであるが、ここに
きてポルトガルの貿易上の立場は著しく弱まった
(オランダはイスパニアの侵略説を家康に説く)
1611年にはイスパニアの使節が先年の漂着事件の際に幕府が工面してくれた船や金銭の賠償・払い
戻し等のために秀忠を訪問した その際に軍事的な装いで江戸城に向かったことや貿易港等を探す
目的で三陸海岸を測量したことが幕府に疑念を抱かせることにつながった 家康の信任を得ていた
英国人アダムスやオランダ人は、測量はイスパニアの領土的野心のための戦争準備であると炊き付け、
宣教師の派遣もそのために行われており、そのためヨーロッパから宣教師を追放したと家康に説いた これを聞いた家康は「ヨーロッパの国王達がパアデレをその国々から追放したのなら、予が彼らを我が国
から追放するのは当然のことだ」と叫んだ このため、イスパニアの使節はその目的を果たすことが出来な
くなった オランダはポルトガル・イスパニア人に対する敵意ある告訴に満ちたネーデルランド総督の書簡
を家康に送った そこには「イスパニア人とポルトガル人は、全世界を征服しようと望んでおり、・・日本では
その悪意ある企画を実現するため彼等の宣教師を利用した 宣教師達は・・その数のため獲得し・・他の
宗教に対する軽蔑の念を起こさせ・・かくて異なった宗教との戦争と革命が起り、その結果パアデレ達は
全日本の領主となるであろう」と述べられていた 家康がこのような南蛮侵略論に恐れを抱いたことが宣教
師の記録に多く記されている
(ポルトガル貿易の衰退)
ポルトガルはマカオ貿易を再興しようと努力し日本の国内問題に干渉してはならないという条件で来航を
認められ、オランダ人の排斥の願いをするも失敗した 1613年英国が平戸に商館を建てることに成功
すると、ポルトガルは更に窮地に陥っていく 1612年頃ポルトガルとの生糸貿易は激減し、ポルトガルと
の貿易の重要性は低下し、ポルトガルは、日本との貿易を継続するには見逃す事の出来ない事件であっ
た 1610年の「マードレ・デ・デウス号事件」に対する復讐をすることなく、 貿易再開に同意した
ので、宣教師の追放をしてもマカオとの貿易関係維持には支障は無いであろうと判断した 今や
仮面をぬぎ、キリシタン宗門に対する壊滅的打撃の 手をふりかざすに至った
[徳川家を中心とする幕藩体制の構築] (豊臣家滅亡へ)
・徳川方は1600年の関ヶ原の戦いで勝利し、1603年江戸で幕府を開いたが、豊臣家は存続し、同家恩顧
の武将も多く存在していた また、幕府の支配体制そのものも整っていなかった 実質的な権力者となった
家康は、徳川家を中心にした幕藩体制を構築することが喫緊の課題となっていた
・まず最初にやるべきことは、徳川家の支配において最大の不安定要素である豊臣家とその傘下の勢力を
完全に一掃することであるが、すぐにこれを行うことは難しいので、段階的に策を講じていく 1603年家康は
豊臣秀頼に孫娘千姫を嫁がせた これは服属させることを意図する楔であった 1605年、家康は秀忠に
将軍職を譲り、徳川家が幕府を継続していくことを誇示し、秀頼には上洛を促した(淀君が反対し上洛せず)
1611年家康はニ条城で秀頼と会見した 家康の本心は秀頼に臣下の礼をとらせたいとの思惑があったが、
融和的な対応をした 豊臣方は次第に恩顧の武将が亡くなって行く中で、孤立が深まり、浪人・兵糧を集め
る等、家康に対して対抗するための方策を講じ始める 家康も戦の準備を始める 1614年(慶長19年8月)
方広寺鐘銘事件で両者の対立が更に深まり、大坂冬の陣(慶長19年 1614年)、大坂夏の陣(慶長20年
1615年)の両者の戦いで、豊臣は徳川に滅ぼされてしまう
(大坂冬の陣[慶長19年10月出陣 11月開戦 12月和議]) ・このような状況を当時の宣教師はどのように認識していたのであろうか モレホン神父の日本殉教録を
紹介しておきたい
[続日本殉教録 モレホン著 P28~45]
当時の宣教師は、徳川が次第に豊臣を滅ぼしにかかっていること、そしてそれはキリシタンにとって極めて不利な
布教環境となることを、正確に認識していたことがわかる
家康は、秀吉亡きあと、後継者秀頼を守るという形をとりつつ、五大老・五奉制という政権内部で、圧倒的な力を
蓄えることに専念する まず最初に豊臣恩顧の大名が徳川に味方するように時間をかけて豊臣から切り離して
取り込み、取り込みを拒否し戦を挑んでくる大名は軍事的に滅ぼし、豊臣に無駄な浪費をさせることにより豊臣
の財力を削ぎ、次第に豊臣を孤立化させる 次に、豊臣の大坂城の有力家臣を政治的に籠絡し、豊臣に難癖を
つけて、決定的な対立関係を意図的に造りだし、最期に軍事的な止めを差す 如何にも家康らしい極めて用意
周到なやり方であったことが、この一次資料から見えてくる
(モレホン神父が記したものの概要)
・秀吉亡きあと、秀頼が後継者となり、五大老・五奉行による統治が行われることになったが、間もなく、大きな
反目が始まった 家康は伏見城にいて、狡猾に振る舞い、経験を活かして、権力を握れるように準備を整えた
多くの優秀な人物を領国から呼び寄せ、更に秀頼を安泰にするためのものであるとの 印象を与えながら、
日本の殆ど全ての領主と姻戚関係を結んだ
・その後、家康は五大老の一人、奥州の大領主上杉に戦を仕掛けた 召喚されたのに出頭しなかったことを名目
としていたが、家康が絶対君主として居座るために、一方の手を借りて他方を滅ぼそうとする企図から起こした
行動であった 家康の力を恐れていたその他の閣僚(石田光成等)は家康を共同の敵とした同盟を結んだ
(坂本に退いていた光成は家康の上杉攻めを好機として家康に反旗を翻した) 家康は上杉を味方に受け入れ、同盟軍に対し反撃に転じ、これは秀頼を解放するための戦いであるとの噂を
広め、敵を分断・打破し(関ヶ原の戦い)、首謀者(光成)の首をはね、他を追放し、国を十中八九掌中に収めた
・この戦で小西行長を失い、キリシタンのよき理解者が追放されたので、キリシタンにとり不幸な結果をもたらした
もし秀頼方が勝利していたら各地で大規模な改宗が起きていたであろう 家康の勝利により、キリシタンの迫害
が案じられたが、家康はパードレを許し、好意を示すことさえした このようにしてポルトガル人との貿易を維持
することに努めているが、家康は相変わらず、我等の聖なる教えに反対していたので、その家臣の何人たりとも
雖もキリシタンになることは死刑を持って禁じていた ・家康は権力の座を安全に確保するため内裏に誓願し、将軍となった 秀頼と孫娘の婚礼を盛大に祝うように
命じ秀頼が成人した暁には国務を引き渡すと言った
・家康が意図している計画実現のための三つの邪魔になっていることがあった すなわち豊臣の財力と難攻不落
の大坂城と大領主の多くは秀吉の恩顧を受けていることであった しかし、多くの領主は落日の豊臣より、旭日
の家康に信頼を寄せているのを看取し、秀頼に公共事業や寺社に財宝の多くを費やすように仕向けた こようにして、力をもぎ取り、蜂起の芽を摘み取り、家康への反対同盟ができないようにした
・家康に残された唯一のなすべきことは秀頼が住む大坂城の主となることであった これを実現するために、
様々の策略・奸計をもちいて、ほとんど全ての家臣と主要な武将の心をつかんだ 秀頼に与えられた領地は
どれも成功していなかったので、大坂城を騙し取ることを決めた 家康は大坂周辺領国を治める片桐に方広寺
の落成式を挙行するよう進言し、この式の最中に大坂城を奪取しようとの計画をたてたが、気付かれ祭礼は延期
された
・そこで、力づくで城をとるための口実を捜すことにした 家康は豊臣方の片桐と相談し、秀頼に大国を与えたい
ので丹波に赴き、そして母を江戸に送り、好みの土地に行けるよう、江戸の将軍と交渉するように勧めた 秀頼は
片桐の詐術・背信を知り処刑することを命じた そして1614年11月初旬(11月2日)、家康に対し宣戦が布告 され、破滅の戦が始まった ほぼ同じ頃、(11月7,8日)家康の命令で、パードレ達は日本から追放され、長崎の
教会は破壊された ・秀頼側は食糧・弾薬を豊富に補充し、追放・浪人中の名のある武将多数を配下に迎え、兵士5万とほぼ同数の 市民が集まった 家康は全国の大名に大坂に進撃するよう命じ、20万の軍勢が集合し、大坂城を攻撃したが、
3万余りの兵を失い退却し、講話を提案した 秀頼と母は一見有利な条件(秀頼の領地・家臣は家康の支配外
であるとの約束)で講和を受諾した そしてこの講話承認の「しるし」として街の防壁を毀し、濠を埋めることに同意 した 家康の目的は次の攻撃を考えた濠の埋め立てにあったので、この見せかけの平和は続かなかった
家康は大坂城の食糧補給路の場所に配置していた守備隊を撤退させなかったし、秀頼に他のより良い領地を
与えるので、大坂城をでるように勧めた 家康の企みに気付いた秀頼は、兵を集め出し十七万の多きに達した
家康は攻撃のチャンス到来と喜び、全国の大名に大阪に集合するよう命じた 家康は三十万の軍勢を率いて
京より大阪に出陣した 大坂城は濠が埋められており籠城戦はできず、秀頼側は一時的な退却から、総崩れ
となり、状況判断を誤り、戦意喪失し、落城した 市内には火が放たれ灰儘に帰した 十万もの死者が出た
[1615.1616年度日本年報]概略
・大坂冬の陣・夏の陣についの記述がある 秀吉恩顧の大名を次々と籠絡し、秀頼側近の片桐且元にも触手を伸
ばし、大仏造営などで豊臣家の財力を削ぎ、戦の口実を設け、1614年12月4日家康は大坂に軍勢とともに到着
し、大坂城を攻撃し始めたが、反撃を受け、多くの被害を蒙ったので、狡猾な条件を盛り込んだ和平を提案し、
1615年2月17日、受けいれさせることに成功した 数ヵ月後この和平は破られていくことになる 秀頼側は再び
武将を呼び集め、そのなかには、大友宗麟の息子や、右近殿の息子などがいた 真田左衛門、後藤又兵衛、
立派なキリシタン明石ジョアン掃部の三人が首領となった・・・
(右近の息子とは誰か 近江永原の忠右衛門か 全く判らないが右近に繋がる人物がいたことは確かなことなの
であろう 禁教令後の右近一族の対応は、表向きの棄教か、追放処分に甘んじるか、キリシタンの再興を期待
して大坂の豊臣を頼るかしかなかったと言われている 大坂夏の陣では、キリシタンの再興を期待したキリシタン 武将達が多数参集したことが宣教師の記録に記されているので、あながち間違いとは言い切れないと思われる)
ラウレス高山右近の研究と資料 (P106~)においては、大坂城の戦と右近等との関係について、
いろいろな観点から考証されている
(例)秀頼は右近を招聘したかなど
(豊臣家とキリシタン)
もともと徳川は反キリシタンの立場であり、秀吉のキリシタン邪教説を継承するものであった
徳川と豊臣との決戦を控え、徳川はキリシタンは豊臣家に味方する可能性があると看做した
それでは、大坂のキリシタンの状況はどうであったか 一言で言うと比較的自由に布教が行われ、信徒も
増え、キリシタン浪人等が集積しやすい環境にあったと言える そのことについて簡単に触れておきたい
(大阪のキリシタンの状況) -関西のキリシタン殉教地をゆく(高木一雄著)-
・秀頼・淀君・片桐且元の宣教師や信徒への対応はおおむね好意的で、城下では比較的自由に布教
出来ていた 1601年頃、モレホン神父は大坂市中に二つの教会をもち、3400人が受洗したそうです
大坂市中の小西行長の病院も信者によって引き継がれ堺に教会用地と墓地用地を入手し、高槻の
山間部までも巡回し、家康もモレホン神父の大坂居住を追認したそうです
1602年には、イエズス会の修道院は天満橋当たりにあって、モレホン神父と1人の神父、修道士4人
がおり、400人が受洗し、1603年には京の内藤ジュリアの活躍で淀君の妹が受洗し、フランシスコ会
も教会をつくり、1605年には神父1人修道士2人がいて、260人が受洗したそうです 1606年一時
淀君がキリシタンを禁止したこともあったが、その後も布教は続けられ、1607年には司祭1人・修道士
1人がおり、200人が受洗し、フランシスコ会は修道院を新築し、このとき大坂市中の病院は四箇所も
あり患者は400人以上いたそうです 1610年にはドミニコ会の教会もでき、イエズス会士は2人で、
740人が受洗し、堺でも300人が受洗し、フランシスコ会は無原罪の聖母修道院を大坂に持ち、
堺にも修道院をもち、大坂の修道士が堺の病院を巡回していたそうです
1611年には、イエズス会神父1人修道士1人がおり、大坂市中には癩収容施設があり、400人が
受洗した 堺にも神父1人と同宿数人がいて143人が受洗し、遠く播磨や但馬まで巡回して、500人
が受洗し、1612年幕府直轄領の禁教令が出されるも、秀頼はキリシタンに好意的で、布教は維持
され、平穏であったが1613年12月突如、片桐且元がキリシタンの名簿作成を命じた 300人近くが
発覚し、58人が城内の馬場に埋められ恥辱を受けた 堺でも恥辱が加えられた 1614年1月27日
堺で宣教師の追放が命じられた 大坂は安泰であった このような状態の中大坂冬の陣が始まること
なった 戦いが終ると再び布教が再開された
(大坂の陣とキリシタン浪人)
・大坂周辺にはもともと関ヶ原の戦いで西軍についた浪人が多くおり、秀頼が家康との戦いに際し、豊臣
家恩顧の武将や牢人に檄をとばした時に多くのキリシタン浪人が誘いに乗ってきたそうです
参集したキリシタンの目的は、生活の糧を得るためや、迫害を阻止し信仰を護るためであった
・元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家は滅ぼされるが、この戦の最中に、大坂城内に、高山
右近の旧臣や明石掃部など多くのキリシタン武将が加勢していたそうです また、イエズス会の4人の
神父(ジョアン・バプチスタ・ポルロ神父、パルタザール・デ・トルレス神父、フランシスコ東安神父、
もう一人の日本人神父[これらの司祭は続日本殉教録に記されている])も城中にいたそうです
・この当たりの状況をモレホン神父は、続日本殉教録(P36~)の中で次のように記している
・(大坂夏の陣) ・・大坂方には屈強の騎兵二中隊が(あり)、第一の騎兵は・・・名高いキリシタン武将
明石掃部・・に率いれられていた
・家康のキリシタンに対する迫害は、家康と秀頼の戦の約半年の間は小康状態で、秀頼が勝利すれば、迫害
が無くなるのではとの期待を持っていたが、大坂城の落城はこのような希望をぶち壊し、恐怖を倍加させた
・秀頼とその母が、キリシタン及びパードレたちに対し、勝利を獲得した暁には、昔日の状態に復旧させ、その
上多くの恩恵を与えると約束した・・・現在大坂市が・・キリシタン全てにとって非難所となっている・・多くの
俸禄が支給されている者にとっては、今この市と若君を護ることに日本の教会の安寧と平和がかかっていると
思えた ・・・秀頼の著名な明石掃部は、・・これら全ての大伽藍・建造物を・・敵によって要塞とされないために
・・焼き払った
・・・家康は、秀頼の主だった武将の一人でキリシタンの信心篤い明石掃部を亡き者にしようとしていた・・秀頼
から離脱することを条件に一国を提供し、その上キリシタンの信仰を認めるという提案をしたが掃部は一笑に
ふした
・生活の糧を求め、或いは・・教会の敵に戦うため、追放中の全てのキリシタンが大坂に入っていたので、
・・長旗に沢山の十字架が描かれ、イエズスやマリアの御名が書かれており、甲冑や武具にも刻みつけられて
いたので、このことから、キリシタンが秀頼と陰謀を企んでいると将軍が考えても故なきことではない
・・・もっと大きな心配は、多くのパードレが日本に残留していることが明るみ出ることであった 実際、戦役中に
若干のパードレが大坂市内でキリシタンに助力を与え、告解を聞いていた・・キリシタンの懇願によりイエズス会
のパードレ2人は大きな危険を冒して軍隊から去る決心をした 一人の日本人司祭は砦から飛び降りた際に
死に、他の人達は逃れた これまで、禁教令が出された時代的背景や根本的な要因について確認してきた すなわち、家康は
基本的には反キリシタンの立場に立つ人物であったこと、また国際貿易の環境が大きく変化したこと、
更には国内の家康と秀頼の権力闘争の進行状況と結末などについて考察してきたが、禁教令が出される
直接的契機となた事件があります それは反キリシタン政策を表だって進めたい権力者にとって格好の
口実となった次に紹介する二つの事件です それは何れも最期のキリシタン大名有馬晴信が関係する 事件であった 後で詳細に検討するが、先に口実となった事件の概要を確認しておきたい
(1610年デウス号事件、1612年岡本大八事件)
・それがデウス号事件・岡本大八事件であった これらの事件は、何れも秀吉のバテレン追放令の際に宣教師
を匿った最後のキリシタン大名有馬晴信と、家康と強い結びつきを持ち長崎で反キリシタン政策を推進する
長崎奉行長谷川左兵衛が深く関わっていた 結果的には、家康と長崎奉行の策謀により、ポルトガル、
イエズス会は大きなダメージを受け、晴信は抹殺され、幕府は有馬の地と貿易権を直接的に手中に収めること
に成功し、これを口実に幕府直轄地の禁教令を出す事になったという事件です ・デウス号事件の結果、ポルトガル船の来航が2年間中断し、その後貿易面では再開されたものの、長崎奉行
等の中傷によって、家康の信任が厚かったロドリゲス神父が追放され、イエズス会は幕府との貿易・布教の
窓口 を失うという 甚大な損害を被った
・岡本大八事件により、最後のキリシタン大名有馬晴信は抹殺され、有馬の地と貿易権を奪われた
晴信は、家康側近本多正純の与力、岡本大八という佯りのキリシタンから、ポルトガル商船を攻撃し焼沈させ
たデウス号の功績により、家康は恩賞を晴信に与える意向であるという偽りの情報を受けた 晴信は、竜造寺
に奪還された領地回復を期待して、大八に言われた多額の運動資金を大八に提供し、偽の「宛行状」を渡さ
れ、結果的に騙され、資金を詐取された事が、晴信の幕府への訴えにより発覚したものです この事件の処理について、父晴信と不和で領主の座を狙っていた嫡男直純は、妻国姫(家康の曽孫)に説得
されて、晴信と敵対していた長崎奉行長谷川と共謀して、晴信に不利な弾劾書を出したので、晴信は追放
され、所領は嫡男直純のものとなり、晴信は追放先の甲斐で賜死した
慶長11年(1606年)から慶長19年(1614年)まで、長崎奉行を務め、過酷なキリシタン迫害を行った長谷川
左兵衛や晴信の嫡男直純の妻国姫が、デウス号、岡本大八事件に深く関わっていた事に、注目しなけれ
ばならない この事件後、棄教した直純は、長崎奉行・国姫の影響下で、有馬の地で過酷な迫害を行う
また、この事件が切っ掛けとなって江戸幕府による本格的なキリシタン弾圧は展開されていきます (禁教令の布告)
・1612年幕府は直轄地での禁教令が布告されます ・1612年の徳川家直轄領の禁教令の後、1614年2月1日「全国的な禁教令」が布告されます その目的は、
キリシタンの信仰の全面的な禁止、宣教師等の国外追放により、日本国内のキリシタンを殲滅することにあった
この禁教令は、明治の浦上迫害まで続くもので、キリシタンにとって辛く苦しい時代の到来を告げるものであった
禁教令の詳細は別途後で記す
③右近がいた加賀前田家の状況 (前田家)
信長によって能登一国を与えられた前田利家は、賎ヶ岳の戦い後、秀吉の配下の武将となり、戦功により、能登、越中
、加賀三国にまたがる100万石の大名となる 1599年利家死亡後、領地は嫡男利長(加賀・越中83万石)と次男利政
(能登21万石)に分けられるが、1600年の関ヶ原の戦い後、戦いに出陣しなかった利政の領地は没収され、利長の
領地とな り、戦功により利長は120万石に及ぶ所領を持つことになる 1605年利長は隠居し、珠姫(徳川秀忠娘)と
結婚した四男利常に家督を譲る 右近は1588年から1614年江戸幕府の禁教令により金沢から追放されるまで26年
間、最初罪人扱いとも言われているが、その後は前田家の重臣として、利家、利長、利常に仕えた 右近が追放された
時の藩主は利常で、利長はまだ生きていた
(金沢の布教状況) 1590年北条征伐に右近は参戦し、その功を認められ、1592年名護屋で右近は秀吉との会見が許された それ以来
右近は正式に前田家の重臣と位置づけられるようになったと思われる 金沢城築城や領内の政治にも積極的に関与
するとともに、右近を中心に熱心なキリシタン宗団を誕生させた 秀吉が亡くなると表だった布教が可能となり、右近の
努力により、金沢に教会が出来、1604年まで毎年1人の神父がそこに巡回したようです 1604年末翌年の春、イエズス会
のレジデンシアが設立され、1613年まで続いた 恐らく1605年頃にパアデレやイルマンが移住するようになったと思わ
れる 右近を慕って旧家臣等が集まり、前田家家臣のなかからも受洗者が出たり、内藤ジョアン等が肥後を追われ
金沢に来たりして、最も高貴な人々によるキリシタン集団が形成されたが、藩主利長はキリシタンの信仰に理解を示した
時期もあったが、次第に家康の目を気にするようになり、布教はあまり進展しなかったと言われている
(1612年幕府直轄領禁教令時の前田家と右近)
・岡本大八事件後、家康は徳川家のキリシタン家臣に棄教を強制し、信仰を棄教しない14名の武士を追放し、全大名
に彼らへの援助・迎え入れを厳禁した その影響は各大名にも及び、大名は配下の家臣にキリシタン信仰の棄教を
強制し始め、維持する者は追放された 右近がいた前田家でも前田利長は右近や内藤ジョアンに棄教を勧めた 利長は右近の娘婿の父横山長知を通じ、形だけの棄教を勧めることを書いた手紙を右近に 渡そうとするも、横山は
棄教は全く 見込みがなく、「右近は老い、非常に弱っており、全然昇進の見込みはもっておらぬ」ので止めるよう
進言したので、 利長は思い止まったそうです (ラウレス 高山右近の生涯)
(全国的禁教令による右近追放時の前田家の状況)
藩主は利常であったが、利長が実権を握っていた部分があったようである モレホンの日本殉教録では、追放命令を
出したのは、利長であり、彼は「心ならずも」追放令を出したと記されている 右近は別れに際し、利長にこれまでの
処遇に感謝し右近が珍重し使用していた茶碗を送ったそうです [コリン] (利長は右近との別れを悲しみ餞別を
送って 茶碗は返したそうです) 前田家は利家の死後、徳川からの圧力が強まり、母まつを人質に出し、利常は
秀忠の娘を娶り、利長は若くして隠居し、母まつが返されたのは利長の死後であった 家康は機会あらば取りつぶ
し、領地の縮小などの機会を伺っていたのではないだろうか 前田家としては、お家存続のため右近等を追放せざるを
得なかった 追放に際してとった前田利長と右近の対応から、これまでの両者の良好な関係が伺える
④有馬の迫害
禁教令に関係して全国各地で行われた迫害のなかでも、有馬の殉教の意義はけた違いに大きいと思います 私は幕府直轄地の禁教令後の有馬の殉教は、その後全国的禁教令が公布されることになった重要な要因の
一つであり、幕府の禁教令の本質を象徴する出来事であること、その後更に強力に行われる有馬でのキリシ
タン殲滅作戦の本質と殉教を厭わない有馬のキリシタンの信仰心を理解する上で、大変重要な出来事だと思う
ので、先にこれを是非とも紹介しておきたい この有馬の迫害を理解することにより、188人の福者の霊性を
理解することが出来るし、そしてこれと殉教者右近の霊性とが全く同質のもであることが理解できるようになると
思います そして、キリシタン再興の希望をもって、この有馬の地に参集した、右近の旧家臣や右近と繋がりの
あった河内のキリシタン結城ジョルジュ弥平次等のキリシタン武将がいたことにも思いを馳せて、有馬の殉教の
持つ意味を考えてみたいと思います
【有馬の迫害】慶長17年(1613年)6月~8月
岡本大八事件を契機に実施された幕府直轄領の禁教令後、有馬の迫害が始まる 江戸幕府が禁教を
実施していく際に、有馬の地を如何に重要視していたかが分かる 恐らく、海外貿易の拠点長崎の背後
にあるキリシタンの重要拠点有馬を真っ先に幕府の直接支配下に置く必要性を強く認識したからであろう
この事件以前から幕府は、海外貿易も行い、家臣・領民の大半がキリシタンである、最期のキリシタン大名
有馬家の存在自体が、徳川家を中心とする幕藩体制の確立を目指す幕府にとって、決して容認できない
重大な不安定要素の一つであると看做し、機会あれば幕府の手の内に取り込もうとしていた 岡本大八
事件はその格好の機会を提供することとなった
有馬の迫害は、家康の命により、有馬晴信嫡男直純によって開始される 長崎奉行長谷川左兵衛と妻
国姫に取り込まれたキリシタン直純は、信仰放棄し父晴信とは全く異なる人生を歩む事になる
この有馬の迫害おける信徒の対応が、「全国禁教令」を誘った(片岡弥吉氏)とも言われる、重要な
出来事です 何故、江戸幕府はキリシタンを殲滅する事を決意する事になったのか、当時日本で最強の
キリシタンの信仰共同体が構築されていた有馬の地での過酷な迫害と関連付けて考える必要があると思
います なかでもキリシタン側の対応、すなわち強力な信仰共同体が構築され、迫害に対し、信仰のため
には死をも辞さないという心構えのもと、処刑の際にはニ万人ものキリシタンが参集し、組織的な対応がな
されたことに注目する必要があるように思います この事件後、行なわれた有馬での迫害を通して、恐らく、
家康・長崎奉行、仏僧等はこの有馬の質量的に組織化された強力なキリシタン集団を相当危険な存在
であると認識したことは間違いないであろう 全国的禁教令に基づいた宣教師の追放処分後、直ちに
1万もの兵が威圧するなかで、島原半島全体での迫害が、長崎奉行陣頭指揮のもとに直ちに行われた
ことがそのことを示していると思います 禁教令の意味を理解するうえでは、岡本大八事件よりもさらに 重要な出来事のように私は思います モレホンの日本殉教録では、有馬の迫害での信徒の対応が禁教令の口実となったことが次のように記されている
長崎奉行左兵衛は、有馬の殉教者に加えた残虐の口実としてこれ(都のキリシタンが刑人を拝んだ)を利用し、
これを更に誇張して、「有馬領のみでもこのように頑迷であって領主にも将軍にも従わせる事が出来ないのである
から、都の人々が既にキリシタンになっているように、もし、日本の大部分がキリシタンになったならば如何なる結果
になるであろうか 日本にパードレがいる限り、これに対抗する手段はない」言った
このような長崎奉行の認識は、1614年の全国的な禁教令の文面のなかに書かれている事と全く同じであり、
有馬の強固な信仰共同体に対する迫害と信徒の対応が禁教令の口実となったことは間違いないであろう
このような問題意識をもって、有馬の殉教を考えてみたい
【有馬の迫害の内容】 [モレホン日本殉教録に記載されている要旨]
・片岡弥吉著日本キリシタン殉教史にもモレホンの日本殉教録を踏まえて詳細に記されている これも
参考にしてまとめた
(有馬晴信賜死後、1612年6月頃から始まった有馬の迫害)
・岡本大八事件の原因となった有馬氏の所領有馬で、晴信の後継者直純は家康から迫害を強要される
有馬晴信賜死の後、家康は駿府で晴信の嫡男直純に有馬の領地を与えて、「父晴信の領地を賜わり、
将軍の孫娘の婿たる恩恵を受けたのだから、家臣と共にキリシタンを止め、パードレを追放せよ」と命じた これを遂行するため、キリシタンの大敵長崎奉行長谷川左兵衛を彼(直純)の後見役・顧問役とした この知らせをいち早く知ったイエズス会士の苦悩は大きく、これまでの布教の成果が破壊されるに違い
ないと考え、キリシタンに聖秘跡・訓話・激励・縄苦行及びその他の贖罪によって彼らの心を堅固にした
・長崎奉行、家康の家臣等と共に有馬に戻った直純は、早速、「全員キリスト教を棄て、日本の諸宗派の
教えを説く仏僧を呼ぶべきこと」という命令を出し、迫害をし始めた
まず禄を食むキリシタン武士に棄教を命じ、イエズス会士の退去を命じた 有馬領内には、その当時日本
で最も優れた神学校・学院や教会を担当しない六つの通常の修院や70軒を超える仕事をなし得る家
(布教のための集会場所?)があったが、これらは僅か一日で没収され、パードレ達はそこから追い出された
一部のパードレ達は変装したイルマンや学院の人々とともに留まった
・信徒の中には表面だけの棄教を装うものが生じ始めたが、宣教師達は信徒が信仰を維持するように出来る
だけの努力をしたので、信仰のため大きな苦しみと貧困を耐え忍ぶ信徒もあられた 「トメ」という名の
右近の家来で、1587年右近とともに禄を棄てた、領内で最も優れたキリシタンで忠実な身分の高い武将
は、信仰宣言をし、告解し、殉教の準備をした 直純は優秀な家来を失うことを遺憾に思い見逃すことに
したが、信仰を公にすれば絶対に許さないと考えていた (片岡氏は「トメ」とはトマス本多平兵衛で、1587年
以降小西行長に仕え、関ヶ原後加藤清正の迫害により結城弥平次等と共に有馬晴信に仕えたと記している また
モレホンは記していないが、片岡氏は右近と並び称せられた河内のキリシタンジョルジュ結城弥平次が有馬領の
金山城主であったが1613年1月金山の教会も破却され、弥平次は長崎へ去った 69歳であったと記されている
このように私は右近ゆかりの都のキリシタン武将とそれに連なる強固な信仰を持った人達が有馬領内いたことに
驚くと共に、島原・天草の地に強固な信仰共同体が築かれ、何故迫害に徹底抗戦したのかということとも関連付け て考えてみる必要があるのではないかと思う)
(1612年7月 兄弟ミゲルとマチヤスの殉教)
・直純の棄教命令は強い反対にあったので、彼は領地を失うことを恐れ、富裕で身分の高い5人の全財産を没収し
、彼らの生活を援助することを厳禁した しかしキリシタンは彼らを救った 直純は命令の効果が生じないので、
信仰熱心な何名かを殺すことに決めた 有家生まれで、地位のある両親の子で、非常に立派なキリシタンであった
二人の兄弟が選ばれた 50歳のミゲルは徳高く修道士のようで最も信心深いキリシタンが配置されている13の信心
会の最高の組親を15年勤めていた 31歳のマチヤスは兄ミゲルをよく助けていた
・ミゲルはパードレ追放に際し、救いの希望を表明する時が来たと組親や役員等に呼びかけ、名簿をつくり1500人
以上の者が如何なる苦しみに遭おうとも棄教しないことを署名した 彼らに匿われたパードレはミサ説教、秘跡を
授けた このことが直純に知られるところとなり、直純は処刑を命じ、ミゲルは斬首され、マチヤスは斬られた 人々は殉教者兄弟の衣類等の聖遺物を取るために集まり、遺体は長崎に運ばれ崇拝された
(1612年8月レオンの殉教)
直純にキリシタンの信仰を認めないならば奉公しないと公言し、臆病な信徒を譴責していた、千々石出身で50歳
の身分の高い勇敢な武士がいた 直純の叔父等が注意しても信仰を公言することは止めなかったので、直純は
騙して殺すように命じ、斬り殺された
(キリシタンの対応)
ミゲル・マチヤス・レオンの殉教は人々の心に大きな力と熱意を惹き起したので、有馬ではイエズス会士の勧めで、
信心会の再組織が始められ、棄教しないと固い覚悟を示した者しか会員として認めなかった 規則や行うべき苦行
・贖罪を定め、互いに助け合うため十人ずつの組に分けた この定めが競争となって有馬領の全町村に実施され
ていった 人びとは会に入れてもらうために、互いに負けまいと熱心に努力した
人々は直純の命令に従わず、もし直純が仏教徒であることを示すために仏僧の要請する所作をするなら嘲笑する
と言い、更に信仰のたには死をも覚悟していることを示した そこで直純は彼等の殺害を命じようとした しかし、
それは領民がいなくなることになるので、実行することは出来なかった
(信心会) 五野井著 日本キリスト教史 P208
キリシタン達は、宣教師の助言のもとに自助組織としてのミゼリコルディア(慈悲の組)ないしコンフラリア(信心会) と称される組・講を組織し(正しくは慈悲の信心会)、幹事役としての組親ないし組頭がこれを指導した 組親は
「心霊修行」などの霊的書物を組員に読み聞かせて自分達の信仰を強める一方で、死者の埋葬・教会の管理
維持・病人や貧者の世話などの慈善事業を率先して行った ・・禁教令以降、コンフラリアは・・信仰を守るための
自衛的性格をもつようになり、宣教師を積極的に保護し匿い、送りとどけるなど活動的性格をおびて変質してい
った 有馬では、コンフラリアの再編成が行われて、「マルチリヨ(殉教)の組」ができ、更に迫害が強まると、
「サンタマリアの御組」や「ゼウスの御組」ができた
(1613年1月 トマス本多平兵衛兄弟・母・子供の殉教 結城弥平次の追放 父晴信の叔父の追放)
・16131年1月、直純は将軍への年賀のため出発し、道中、結城弥平次と叔父の追放を命じた またトマス本多
平兵衛兄弟・母・子供の死罪を命じた トマス41歳、弟マチヤス31歳、トマスの子は11歳のジュストと9歳のヤコべ、
トマスの母マルタは61歳であった 二人の子は母親の教えのごとく勇気を以て頸を刀の方に向けイエズス・マリア
と三回唱えて首を斬られた 母マルタは二人の息子と孫二人の殉教を見届けた後、斬首された 母マルタは
有馬領におけるキリシタンの模範であった トマスの妻ジュスタは父母が身分が高く尊敬されていたので助けら
れたが、これを死より悲しんだ キリシタンは役人を恐れず、深い尊敬の念で直ちにその首と血を取った 聖遺体
はことごとく長崎へ運ばれイエズス会に収められた 結城弥平次と叔父は追放され、財産を没収された
【1613年10月7日 ディエゴ林田達8人(188福者)が火刑に処せられる】
(この殉教の意味)
この殉教が、幕府の全国的な禁教令を「誘発」(片岡氏)した それではどのようなことが「誘発」の原因と
なったのか その後の島原・天草の殉教の意味を正しく理解する上においても、この殉教の詳細を味わう
ことは極めて重要であるし、立場が違えば見方が全く変わってくるということに改めて気付かされる
そして、この殉教は、単なる権力者による処刑ではなかった 再組織化された「マルチリオ(殉教)の組」の
組親が処刑を通知するとニ万人ものキリシタンが参集したそうです これはキリシタンが相当しっかりと組織
化されたことを意味している また、このことが、刑の執行について執行者とキリシタンの指導者達の間に
一定の合意を生み出しこの合意により、参集したキリシタンが殉教者と処刑場所まで一緒に整然と行列し、
参集したキリシタンが殉教者を聖者として尊崇し、殉教者はその死をキリストの栄光の死として喜びの内に
受け入れるというなかで、一大宗教的儀式として行われたことがわかる 権力者にとって処刑は棄教させる
ためのみせしめであったが、キリシタンにとっては各人の信仰と、信仰共同体の団結をより一層強めた
また、政治的意味にも注目すべきで、この処刑はもともと直純が模範的なキリシタンに対して行った一時的
でもよいから見せかけの棄教をして欲しいとの政治的な懇願をしたことが契機で始まったものであり、円滑
な刑の執行により長崎奉行と直純が幕府に対する申し開きの材料を得ることになるので、執行者直純が
一定の配慮を示した結果、このような刑の執行となったのであろう
そして注目すべきは、長崎奉行のほかに、家康と知遇のある仏僧幡隋意が有馬にいて、この一部始終を
見守っていたことです この仏僧は有馬の地でキリシタンから侮蔑的対応されたので恐らくキリシタンに
対する憎悪で一杯になっていたであろうし、彼はこの処刑に集まったニ万人もの人々に身の危険を感じた
かもしれないので、長崎奉行と同じく、幕府にキリシタンに対する酷い誹謗をしたに相違ないと想像します
キリシタンから見れば実に感動的な出来事であるが、仏僧幡隋意から見れば、理解不能な、異様なこと
と思われたであろうし、有馬における権力に屈しない確信的キリシタンの信仰集団の力の凄さに驚き、
恐怖感を持ったであろう 仏僧による説教などによって棄教させることなど不可能であり、権力によって
強制的に信仰を根絶するしかないと確信したであろう
それでは棄教を迫られたキリシタンの信仰共同体のあり方、対応の仕方に何か非難されても仕方がない
ことがあったのか、全国的な禁教令を出されても仕方がないことをしでかしたのか もっと静かに潜行して、
処刑を静かに見守っておればよかったのか 当時の感覚は私にはわからないが、キリスト教徒である私の
今の価値観では落度は何も見当たらないと思います キリストの十字架はもちろん殉教した聖人や福者を
尊崇することは当然のことであるし、死刑囚等の犯罪者の霊魂の救済のために祈ることも必要なことです 信仰を明らかにすべき時にしないのは罪です この時、参集した信徒が手にしたのはロザリオだけでした
しかも、この処刑は領主の政治的妥協の産物でもあり、長崎奉行や直純は十分家康に対し、説明できる
材料を持ったことにもなったわけです 直純は恐らくこれで一定程度、事を治め得たと考え、キリシタンの
組頭も領主の説得内容を信頼し、事態は収束すると期待したと思う しかし、長崎奉行と仏僧幡隋意は
この程度のもので満足しなかった キリスト教の信仰を認め、信徒と共存するという選択肢はなかった
もともと徳川幕府はキリシタン禁教政策を基本としていたし、豊臣家との決戦を控え国内の不安定要素を
完全に取り除いておきたかった 今回のことで面目丸つぶれとなり、キリスト教に激しい憎悪をもった権力
者に近い仏僧や幕府と直結しているキリシタンの大敵長崎奉行左兵衛達の誹謗中傷を口実として、
幕府は元々持っていたその牙をむき出し、全国的禁教令を布告したものと考えます 現在のカトリック信徒は、この有馬の出来事を以て、殲滅されるに値すると肯定的に考えるのか、そうは
思わないのか、しっかりとした自分自身の考え方、価値観、歴史観を以て、この時代の殉教者について、
鎖国政策・禁教令を妥当な政策と主張する人に対して説明することが求められていると思います この問題は、禁教令とこれに基づく迫害と殉教者の評価に直結する重要な問題です
(8人の殉教者 -何れも188福者-)
・アドリアノ高橋主水 妻ヨハナ高橋 ・レオ林田助右衛門 妻マルタ林田 娘マグダレナ林田(19歳) 息子ディエゴ林田(12才)
・レオ武富勘右衛門 息子パウロ武富
【殉教に至るまでのいきさつ】
モレホン神父の日本殉教録を基本にまとめる 1613年の年報にもほぼ同様の事が記されており、日本
キリシタン殉教史(片岡弥吉著)に紹介されている
[仏僧の説教による棄教の勧めの効果がないため、みせしめの処刑を計画するも一旦保留]
・1613年、処刑・追放等だけでは棄教させることが難しいと判断した長崎奉行左兵衛は、仏僧幡隋意
(京都百万偏にある浄土宗知恩寺の僧侶で家康の知遇を得江戸で幡隋院を創建)を有馬に派遣し、
この僧侶の説教によりキリシタンの信仰を棄てさせようとした しかし何の効果もなく嘲笑や侮蔑が加え
られたので、左兵衛は直純と協議し、8人か10人のキリシタンを殺し、その妻子を公に焼き殺すことを
決めた しかし、各信心会の聞きだし役がこの情報を探り出そうとし、殆ど全ての人が事態の成り行きが
判明するまで仕事を止めるという、何か騒動が起きそうな事態を左兵衛は感じ取ったのか、取敢えず
この件はこれ以上進めない事とした
[長崎奉行、幕府への申し開きのため、3人とその妻子を火刑に処すことを決定]
・江戸で1613年8月、9月に癩患者のための小聖堂建設に将軍が激怒し、28人のキリシタンが斬首刑
され、この情報は有馬にももたらされ、衝撃がはしる このようななか江戸に行くことになった左兵衛は、
仏僧幡隋意の件がうまくいっていないことを江戸に知られることを恐れ、直純に対応を迫る 直純は
我が身の破滅を恐れ、家中にはキリシタンはいないと公言するも、逆にこの機会を待っていた人々から
キリスト信仰のために血を流すことを強く望んであいるものが多数いる、また身分の高い人に知られた
8人の名が挙げられた 直純は甚だ遺憾に思い、これらの人に左兵衛の書状を読ませ、今の時勢に
順応するように涙さえ流して懇願した 「・・たとえ一日、一時間でもあの仏僧の前でキリシタンでないと
示してほしい その後は思うようにせよ それによって・・余は他のキリシタンには手をつけない ・・
聖ペテロはキリストを否定した後許された・・お前達が許されないはずがない なぜなら本心からする
ことではなく・・領地やキリシタンを平和に守るためにするからである それ故僅かの間でも棄教の態度
を表明せよ」という直純の説得により、8人のうち5人が屈服した 残りの3人(高橋、林田、武富)には更
に説得がなされたが、説得に応じなかったので、直純は長崎の左兵衛と相談した 10月長崎から彼等
と妻子が火刑に処せらるとの宣告が届いた
直純の要請に屈服した5人のうち4人は直ぐにその過ちを深く悲しみ、償いをしようとし、奉行所に棄教
の取り消し・財産の没収・収監の申し出を行うも聞き入れられず、そこで仏僧に棄教の取り消しとキリスト
ために死を希望している旨の書状を書いたが直純は彼らを釈放しキリシタンのままでいさせた 深く悲
しんだ彼等は頭髪をそりまた財産を棄てて追放され、立ち退いて信仰のために死ぬ別の機会を待つこ
とにした
[1613年10月7日、8人の火刑の執行]
人々がこの殉教をどのうように受け止めたのか、その様子が記されている
[刑執行の前日]
「・・3人が妻子とともに焼かれるという宣告が伝わったので、・・身に・・集まって来たキリシタンの数は甚
だ多く、・・町にも・・入りきれないほどであった 彼等の手中にあったものはロザリオのみで・・極めて
穏やかで・・あらゆる所に燈火を点じその夜を静粛にすごし、有馬は天国のように見えた 囚えられ
た聖人達の喜びや・・感謝の気持ちは大きく、その嬉しさを抑えることができなかった 夜は祈りで
皆で揃って苦行を行った ・・騒ぎを恐れたため・・秘かに彼らを殺して遺体を隠そうとした しかし
信心会の組親たちは騒ぎの起こらない事を役人に保障し、・・死の場所までキリシタンを一緒に行か
せてくれと頼み、それが許可された 城から1哩(マイル)離れた海岸のある家のわきに八本の柱が立
てられ、その中や周囲に多量の乾燥した枝・藁・竹類がおかれ、誰も近づけないようにまわりが太い
杭の柵でで取り囲まれた」
[10月7日刑の執行]
「翌10月7日その日に刑を執行することを知らせた 大きな喜びが湧き起り、・・信心会の人々は彼等
の足下に跪き祝辞を述べ、記念のために何かの聖遺物を求めた・・(彼等は)相応しい者でないと
それを断り、苦しみに耐える力を・・神に祈っていただきたいと懇願した ・・戦いに行くための晴着を
着用し、特に口之津の信心会の人々は祝祭に用いる長くて白い長袍(ほう)(上着のこと)を着た
信心会の人々は直ぐに荘厳な聖行列を作った・・再び見る事が出来ない・・程のもので、ニ万人以上
のキリシタンが出た みな自分達も殉教の伴侶になることを希望しながら各人ロザリオを持っていた
先ず大勢の者が6人づつの組をなして先に進み、それにキリストの騎士が手を後ろに縛られて続いた
・・一人一人火の点じてあるある蝋燭を手にして、組親の間に挟まれて行った その後からキリストの
大群が聖母の連祷を声高に唱えながら進んで行った
その場に到着すると柱に縛り始めたので、人々はみな彼等にお別れの言葉を述べ、その衣類から
聖遺品を取るために集まった そうしている間にレオン勘右衛門は高い所に上がって言った
「神の名誉と栄光のために私達は今このようにして死にます キリストの信仰以外には霊の救いの道
はないことを私達は知っています そのためには現世の生命を重く見てはなりません 別れに際し
私はただあなた方に全ての財産や生命さえも心にかけず信仰を守るようにお願いします」・・・
全員が縛られた後、キリシタンはキリストの像の画かれた旗を柱に高く掲げた 兵が火をつけると聖人
達はあの恐ろしい苦しみのなかでイエズスの御名を唱え始め、キリシタンは跪いて使徒信経・主祷文
・天使祝詞やその他の祈りを唱え、終には殉教者はその生命を主に捧げた・・少年ヤコべは縄が燃え
ているとき・・火を踏みながら母親の所に行って声高にイエズスマリアと三回言った 母親は「我が子
よ天を見なさいと言って、それで息が絶えた 聖童貞マグダレナ・・が手が自由になった時多量の火
を手にとって花や宝石の冠の如く頭上に置いた・・レオ勘右衛門は十字の印を切りながら息絶えた
こうして殉教者は肉体が火に焼かれるというよりも霊魂を神の愛に燃やしながら幸せに生命を終えた
のである
・キリシタンは初めから跪いていたが、殉教者の死んだのを見ると聖なる灰を崇って、役人にかまわず
火の中に飛び込んで行って、火傷も恐れず遺体を引き出した 童貞の殉教者マグダレーナの両手を
1人の身分の高い人物が取り、身体は神津浦のキリシタンが持って行った 他の7人の遺体は数個の
箱に入れられて長崎に送られ、イエズス会の管区長に渡され、・・秘かに・・セルケイラ司教列席の
もと・・教会に安置され、少し後に聖女マグダレナの遺体も持ってこられて他の人々のと一緒に置か
れた キリシタンの信心は深くて、柱も燃えさしも跡形なく聖遺物として持ち去られた
セルケイラ司教はこの殉教について報告書を作成し、モレホン神父はこの報告書を基にこの殉教に
ついて記したそうです
[長崎奉行の幕府への報告と全国的禁教令] -モレホンの日本殉教録の要旨-
1613年12月27日、都の所司代板倉がキリシタン全員の名を表に作成することを命じ、伏見・大坂
においても同じことが行われた その後に、左兵衛から都のイエズス会修道院長宛ての書状が届
いた その要旨は、「都や有馬で犯罪で磔になった者を崇拝し拝み衣類等を遺物として身につけ
ているようなことを教える宗教は悪魔のもので日本では受けいることは出来ない」といったものであった
これによりキリシタン名簿作成の目的が明らかとなった
この名簿作成の事情は次のように進展していった結果生じたものであった
(長崎奉行左兵衛は、毎年江戸へ参上していた 1613年12月定例の参内の際に長崎や有馬の
キリシタンの報告をした 日本キリシタン殉教史)
長崎奉行左兵衛が都に到着すると、さる8月殺された28人の殉教者(江戸)について盛んに噂され
ていることを知った また有馬で・・焼き殺された人々・・について話されていた ・・左兵衛は・・
キリスト教に対する憎悪からと自分の残忍性を弁護するため、将軍の前でキリシタンを誹謗し、
彼等は不従順で頑迷で謀叛を起こしやすく死を恐れず悪人の名称を受けて死ぬことを誇りとし、
そのような人々を尊敬し崇拝すると言った 左兵衛の一兄弟が、これが正しい証拠としてキリストは
悪人の名称を受けて十字架で死んだ それでキリシタンは同じ名称で死をとげることを誇りにして
いると言った ・・都で磔になったキリシタンが・・絶命した時キリシタンは跪いて彼のために祈った
・・・左兵衛は有馬の殉教者に加えた残虐の口実としてこれを利用し、これを更に誇張して「有馬
のみでもこのように頑迷であって領主にも将軍にも従わせることができないのであるから、都の人々が
既にキリシタンになっているように、もし日本の大部分がキリシタンになったならば如何なる結果になる
であろうか 日本にパードレがいる限り、これに対抗する手段はないと言った ・・このように誇張して
はなされたので、将軍とその王子はパードレ・福音の教役者をことごとく日本から追放し、キリシタンを
残酷に迫害する決心をし、パードレの追放とキリシタンの処罰をすると言った これに基づき、キリシ
タンの名簿作成が始まり、この名簿によって棄教させようとした これは江戸のキリシタンに対して用い
られた方法であった
そして、終に、右近追放の原因となった禁教令が1614年2月12日出された これにより日本での信仰
自体が禁止され、パードレの国外追放、教会等が破壊されていく 有馬は幕府の直接支配となり、
11月の司祭等の追放後、直ちに、島原半島全体に軍事的威圧が示されるなか、過酷な迫害が各地
で展開された これはまさに大阪冬の陣の戦いと連動する動きであった
【その後の有馬の状況 -更に過酷な迫害が拡大されていった-】
よくこれほどまでに棄教させるための残虐極まりない拷問の方法を考えたと思えるほどの様々の方法
が用いられた キリスト教徒、司祭信徒等に対する尋常でない激しい憎しみが感じられる
1614年の禁教令に基づく宣教師等の国外追放後、直ちに島原半島全体に大規模な迫害が、多く
兵が威圧するなか開始され、この迫害の流れは、1637年の島原の乱まで続いた
・1614年 直純は国替えを申し出、8月日向に転封されたが、多くのキリシタン武将が残された 有馬は幕府天領となり長崎奉行長谷川左兵衛は有馬領の支配権を得、11月司祭等の国
外追放の直後、宣教師追放のため長崎に来ていた近隣諸藩等の兵が威圧するなか、島原
半島各地で弾圧を開始し、有馬・口之津等で多くの殉教者が出た
・有馬:11月20日、命じられて集まった熱心なキリシタン200人もの家頭は、破壊された教会跡に
連行された そこは武装した一千もの兵が警戒しており、矢来で囲まれていた 一人ずつ
連れ込まれ、拷問を受け、棄教を迫った その後3組のわけて家に入れて監視した 翌日、釈放されなかった者に更に酷い拷問が加えられ、最終的に20人が殉教した
このなかに「トメ一族」や「ペドロ梅本」がいた
・口之津:11月22日から翌日にかけて、教会跡(玉峰寺)に呼びだされた信徒70名に拷問を加え
棄教を迫り、11月に22名の処刑が行われた この殉教を聞き長崎から口之津に来た
キリシタン赤星太郎兵衛他3名の殉教
・有家:11月21日アンドレア木戸半右衛門捕縛 22日見せしめのための拷問が加えられ斬首
・小浜:元有馬家武士4人の殉教
・1616年 松倉重政が新領主として入卦 1618年島原城築城着手 圧政の開始 今村刑場設置
・1620年 島原半島7ヵ村124人の殉教の決意 ローマ教皇へ表明
・1622年 ナワロ神父等4人の殉教 (205福者)
・1625年 口之津、島原、有馬、深江、有家で信徒殉教
・1627年 パウロ内堀の息子等16人の殉教(188福者) ヨアキム峰等10人の殉教(188福者)
この時から5年間、当時ヨーロッパまで知られた悪名高い「雲仙地獄」での拷問・処刑が行われた
・1628年~1631年 雲仙、島原、有家、千々石で多くの信徒殉教
・1630年 雲仙地獄攻めの発案者で、迫害の限りをつくした松倉重政の狂死
・1631年 カルワリオ神父等7人の雲仙地獄での拷問 後に長崎に連れ戻され西坂で殉教 ・1633年 ジャノネ神父と11人の信徒 今村刑場にて殉教 中浦ジュリアン長崎西坂で殉教
・1637年 島原の乱 1638年2月陥落 約3万7千人もの人が亡くなる
・1658年 大村郡村の信徒56人 今村刑場で殉教
⑤宣教師等の追放について
1614年の全国的禁教令によって、宣教師が国外追放された そのあらましは次のとおり
・1614年2月の全国的な禁教令により各地の宣教師等は長崎に集められた
・1614年6月伏見城番山口直友が、宣教師の国外追放と教会破却のため長崎に派遣され、長崎奉行長谷川
とともに九州の諸大名の士卒を徴発して迫害を実行した
・慶長19年10月5日(1614年11月6日)以降、長崎に集められた宣教師96名の他に、同宿・小者・キリシタン
の精神的指導者であった右近とその一族等を4隻の船に分乗させて、福田港より、数日間のうちに、マカオ
とマニラに追放し、長崎の11の教会を破却した
・この追放によって宣教師全員が日本を出たのではなく、日本に残留した人もいた これは宣教師が所属する
修道会によって、諸条件を勘案し、組織的に決定された
・1614年11月の追放された宣教師、残った者の状況 (「徳川初期のキリシタン研究」 五野井著 P157~)
区 分
イエズス会士
フランシスコ ドミニコ会修
日本人教区
アウグスティヌス会修道者
会修道者
道者
司祭
合 計
143
46
115
3
9
9
7
26
1
6
7
5
うち残留司祭
18
5
*残留イエズス会士18人の国別内訳(ポルトガル人7人、イタリア人5人、日本人4人、スペイン人2人)
全 体
残留者
(1614以降後の長崎における宣教師の状況)
・大坂夏の陣とその戦後処理のため幕府の禁教政策は一時停滞していたが、1616年9月に秀忠が改めて禁令を出した
ことにより、駿河や有馬の各地で迫害が再発し、殉教者が出た 1617年秀忠に譴責された大村純頼は、パードレ6名
を捕え4名を処刑し、更にコンフラリアの中心人物を処刑した ・長崎では長崎奉行による宣教師探索は1618年まで何故か放置されていたが、宣教師の再入国・潜入に対する警戒は
1616年から強化され、次第にその体制を確立させていった 1618年には、宣教師4名が長崎で捕縛された 長崎での
宣教師の潜伏は次第に困難になっていった
・1620年長崎奉行は長崎とその近郊にあった貧者の家7軒を破壊し、キリシタンの墓から遺骸を掘り起こし郊外に持って
いった ・1621年にはいわゆる元和の大殉教がおきた ・1623年にはイエズス会士は28人(司祭23人)がいた
・1625年には、長崎奉行はマカオにも圧力を強めるとともに、イエズス会パードレの生糸等の商品の持ち込みを禁止し、
経済的側面からも圧力を強めた 1626年、幕府は長崎のキリシタンに対し、棄教命令を発し、長崎におけるキリシタン
対策が転換されることになり、外国船の出入港の際の厳しい取り締まりにより、残留宣教師は一段と窮迫していった
・幕府の長崎港に対する警備の強化によって、1622年以降イエズス会宣教師の日本潜入者は1630年まで皆無であった
他の修道会も1624年から5年間の潜入者はなかった
・しかし、1615年から1626年までのイエズス会によるキリシタン受洗者は約19000人、フランシスコ会は東国を中心に、
1620年以降1629年までに約26000人以上の受洗者があった報告されているそうです 残留宣教師が絶望的な状況
のなかで、如何に奮闘努力したかわかる
(2)右近国外追放の理由 -その政治的背景-
1614年のキリシタンで禁教令により棄教しなかった者は、津軽や伊豆諸島に遠島申し付けられたが、右近
達は別で国外追放になった 政治犯の遠島はあっても国外追放は前代未聞のことであった 右近は老い、「非常に弱っており、昇進の見込みもない」状態にあるにもかかわらず、何故、この時期に宣教
師達と共に国外追放しなければならなかったのか 当時の宣教師が記すその理由は、次のようなものです
右近の追放は、禁教令に基づくものであり、他のキリシタンに対しても行われた宗教的迫害の一環として
行われたように幕府は装っているが、それよりも重要な政治的・軍事的理由により行われたものである
徳川家を中心とする強力な幕藩体制の確立を急ぐ幕府は、対立が決定的となった豊臣家と一戦を交えること
となった 豊臣家との決戦を確実に勝利に導くためには、戦を始める前に、豊臣家と繋がる可能性のあるキリシ
タン武将等を一掃する事が必要と考えた 右近はキリシタン武将としてシンボリックな存在であるが故に、
政治的軍事的に利用されやすい危険な存在と看做され、国外追放された
また、国内で殺害しなかったのは、殉教という右近の望みを断つためであり、恐らく航海中で死亡する可能性
が高く、そうなれば責任を負わされることもない これらのことについて、年報では次のように記している
(1614年年報の要約)
・1614年の年報では、追放処分は日本では通常行われる刑罰である 右近追放の理由の詳細は知られていないが、
ある人々は次のように主張しているとして、右近追放の理由を記している その要旨は次の通り
・現下の迫害にあたり、200人を超えるキリシタンが棄教しないため日本の最も僻遠の地に放逐された
・幕府に敵対する勢力(豊臣)に右近は取り込まれるかもしれなので、国内に留め置くのは危険とである
といという恐れを抱いた幕府が、彼を追放する事が最適と考えた 右近を追放すれば、厳寒の最も激しい
嵐の時節であったから、老い、且つ旅に慣れていないので恐らく途次死亡するであろう、そうなれば殺したとは
言われないだろうし、殉教の望みを絶つ事ができるからである
・その本心を隠すため、重要ならぬ多くの人や、隠遁生活をしていた何等罪のない内藤ジュリアと共に追放した
・出航は非常に慌ただしく行われ、また、風波に抗し得るよう装備が十分な船はなく、この季節航海する船は沈没
するか、南方の孤島に打ち上げられ、餓死または病死する事が知られていた
・幕府は、有馬における8人の殉教の際に約3万人ものキリシタンが集まった事件を、誰一人武器類を持っていな
かったにもかかわらず、一揆や暴動とみなした 幕府はそれを教訓に、拷問は避け、責任の生じない航海途中での
宣教師達の死を期待してように思われる
・同じような理由から、異なった修道会の約40名の修道士達も追放された
家康は、彼等がひろめた信仰のために死にたいというその希望を満たせたくないと述べていたから殺したくなかった
のである 家康は貿易の継続を考慮して、直接血を流すような迫害は避け、宣教師等の国外追放という方法を選択
し、航海中の死を期待したように思われる そうすればその死に責任を負わされることはないと考えた
・細川忠興は、右近に仕えていた者達を最も寵遇し、最も信頼していると語った パアデレ達は各地方に散在して
いるこれらのキリシタンの兵は彼(右近)から学んだことによって、一同傑出していると述べ・・ 現在全日本の君主
(家康)である人さえ、常に高山右近の掌中にある千名は他の如何なる武将の掌中の一万人にも優っていると
述べ・・ 彼(右近)が長崎に滞在していた全期間を通じ、国王は彼(右近)に如何なる事を定めるのか・・わからな
かったが、大抵の人々は、ジュストが日本に留まっていることを恐れたので、ジュストを日本から追放すると信じて
いる 我等(レデスマ)は日本から来た船から、国王が秀頼を大坂城から放逐する考えであることが分かった
秀頼は・・大坂城をかためた 秀頼やその武将達はジュストが陣営に加わるならば、全日本の勢力を挙げても
抗しきれないと信じたので、・・右近を大坂に招くため長崎へ使者を派遣した ジュストは3、4日前に出帆していた
使者が彼に会う事が出来たとしても右近は断ったであろう (海老沢有道著 高山右近) (要旨)
前記の1614年の年報を踏まえ、次のように記されている 家康のキリシタン弾圧が、折柄進行していた対秀頼政策と、何ほどかは関連しているものと姉崎博士は認めている
崇伝がその前年から江戸に出府して宗教政策のみならず大坂方の動静について、家康の謀議に与っていたことは
事実であり、大坂方がまた家康に対する不平分子としてキリシタンを見、味方に誘引しようとした動きも察せられる
右近が金沢から放逐の旅に出た時、秀頼から使者が立ったが応じなかったことが、「混見摘写」に見え、外国資料に
も伝えられているのも、その消息を物語るものである ・・大坂に対する政策に当たって、右近やジョアンや久閑達の
動きを抑える必要が、崇伝辺りから家康に申告されたこともなかったとは言えない ・・・国内で右近の生命を奪うこと
は・・かえって彼らを奮起させ、キリシタン大名を刺激し反徳川側に走らせることにもなるから、国外に追放しようと考え
たものであろう 10月1日(旧)家康は大坂征討の命を発した 家康は考えを改め・・疑心暗鬼を生じ、・・右近の乗船
を長崎港外で撃沈せしめようと、急使を立てた しかし、・・すでに船は海上はるかに姿を没していた
(日本キリスト教史 五野井氏著) ・幕府の最終目標は、大坂城の豊臣氏を倒して反幕勢力を一掃し、強力な幕藩体制を確立する事であったから
、大坂方との対決を前に障害物の除去が急がれた 従って幕府が豊臣氏を軸とした反幕勢力とキリシタン勢力と
結びつきを極度に警戒した事が、全国禁教令の一因となった
小西、宇喜多、大友等の改易大名の家臣であった多数のキリシタン武士が牢人となって京阪地方に集まり、
キリシタンに少なからず好意を抱いていた大坂方に仕官する者が多く見られた事、・・高山右近が・・次第に
(前田家で)重責を担うようになっていたことから・・マニラに追放した 当時37万人前後いたとされるキリシタン
が・・結集する事は、・・この一大宗教勢力を切り崩し禍根を取り除いておく事が急務と判断されたのであろう
(3)宣教師などの対応
・幕府すなわち、今でいえば国家権力がキリスト教を邪教と判断し、本気で信仰自体を禁止し、棄教しない人
には刑罰を加えるということを決定したわけですから、宣教師はなすすべがなかったというのが実態であったと思われ
ます 巡察師ヴァリニャーノは1606年亡くなり、日本人の司祭修道者の養成を積極的に進めてきた日本の布教責任者
セルケイラ司教は1614年に亡くなっています 禁教令から追放までの時間的余裕はなく、権力者のなされるがままで、
恐らく十分な組織的な対応は難しかったと推測します 宣教師や信徒は、将来への希望を持って、ただひたすら忍耐し
、潜伏し、迫害にあっては殉教を受入れるということしかできなかったと思われます
(宣教師の対応)
・ 禁教令が出されると、各大名は幕府への忠誠を示すために、競うように迫害をすすめました 幕府は全国から
集められた宣教師等の国外追放を円滑に進めるために、長崎に兵を出しました ポルトガルの貿易船の長崎入港に
伴い、追放処分緩和の要望をするも、将軍に拒否されてしまいます 全員殉教の覚悟をもって日本に留まるということも
、物理的に不可能であったのです。国家権力による捕縛・強制退去であったからです
それでも、約四十万人という多くの信徒が現実に存在していたので、なんとか、日本に残留しようと様々の努力
をした結果、四十数名の司祭修道者が残ることができたそうです そして、司祭修道者を支える補助者(同宿、小者)が
100名(イエズス会)ほどいたそうです。彼らは迫害の強化により、司祭修道者の代わりの役をもするようになります
その後、宣教師の日本入国の努力も行われました しかし、これを知った幕府は更に迫害を強めていきます
・日本残留者の司祭修道者の布教活動は、実に危険で、多くの困難を伴いました。日本殉教録を書いた
モレホン神父は、次のように記しています
日本全国どこにおいても、安心して休息できる住院も教会もなく、庇護を与え保護してくれるような領主はなく
なり、むしろ、逆に、パードレたちを匿った人々には、妻子や召使にいたるまで終身捕囚の身となり、生活に苦しみ、
財産の没収が行われた 通常、都市においても村落においても、町内は10人組に分かたれていて、疑わしい者等を
町内に入れないようにしている もし、町内にパードレが見つかれば、組の他の9人も捕えられ処罰を受けるため
迫害者を刺激する原因となるものはことごとく避けている 「徳と賢明はいつも中庸にあり、日本教会の
利益は、うまく中庸に適合できるかどうかにかかっている」 分別あるキリシタンは、決定的な破滅に陥らないために、
嵐が通過するまでの間、パードレ達はできる限り身と隠し、耐え忍び、慎重に行動するよう切望した 潜伏は、絶え
ざる死であり、長い殉教であるとの考えから、この願いは正しいとの結論に達した しかし、全国に分散した信徒を
なおざりにすることはできなかった そこで、できる限り慎重に巡回した。全国と巡回しているイエズス会士は通常
三十数名と他の修道会士若干名、および日本人聖職者数名が、深夜の移動、変装など様々の工夫をして献身的に
従事している
(信徒の対応)
・信徒たちはどのように対応したのか 禁教令以前から、信徒の信仰の維持・強化の目的でつくられていた
信徒の自主的な組織(コンフラリア)が拡大強化され、信仰を守っていくための自衛組織的性格と持つようになりました
(この組織については、秀吉の伴天連追放令のところで紹介済みです。)宣教師を匿い、移動を助けました 迫害が
進むと「殉教(マルチリオ)組」などに再編されていきます そして、秀吉の伴天連追放令以後、日本での布教は殉教
を伴うようになっていたので、宣教師は信徒に殉教の心構えを日頃から説いていました
このバテレン追放令後、迫害下で、殉教が身近な問題となり、信徒への殉教について教えを伝える必要性から、
1591年、巡察師ヴァリニア-ノ神父が持ってきた印刷機で「サントスの御作業」(様々の聖人伝を一書にまとめたもの
で、最後に「マルチリヨのことわり」 という付録がついていた)や、1592年には「信心録」、その4,5年後には「殉教
要理」ともいうべき手引書などが、印刷され、信者に配布されたそうです
また、長崎奉行所が信者から没収したものに、殉教者の伝記や殉教の条件と態度等を書いた書-「マルチ
リヨの鑑」、「マルチリヨの勧め」、「マルチリヨの心得」-があるそうです。神父達は信者を励まし、殉教の覚悟を固める
ように努力したそうです 「マルチリヨの心得」で、「殉教の条件」として、次のような事が書かれているそうです
「死すること、・・餓死、流罪に行わるるうちに死し、・・その他辛労難儀の道より死したるにおいては、マルチルなり」
、「死を甘んじて受けること・・その成敗を辞退せず、快く堪忍いたして受くるにおいてはマルチルなり」、「キリスト教の
信仰や道徳のため・・キリシタンなりとて成敗せらるるか、又は善を勧むるとてか悪ををせざるとて害せられれば、
これもマルチルなり」といった三つの条件が書かれているそうです つまり、宣教師は迫害に対しては殉教によってしか
対応できないし、これは神の最高の証しであるととしたのです 迫害に対し神を証しするため、殉教をも辞さないという
考えは、1587年右近によって示されたもので、徳川幕府の禁教令でも維持され、明治初年まで継続していきます
(殉教精神の涵養) ー殉教教育ー キリシタンの弾圧と抵抗(海老沢有道著)
・もともと、キリストの教えに従い地上に神の国を建設するとすれば、世俗世界との闘いを避けてとおることはできない
特に異教の国では、宣教師も信徒も、殉教ははじめから覚悟しなければならない 日本にキリスト教を伝えた
ザビエルもその覚悟をしていたし、危険な航海をを経て、異教の国に布教に来る宣教師は皆その覚悟をしていた
・日本の仏僧等は、この教えを証しするというキリスト教の殉教精神を理解できなかった 殉教者を崇める信徒をみて キリスト教は邪宗であると確信した ・「キリストに倣いて」(コンテンツス・ムンヂ)というキリスト教の霊的書物は、遅くとも1582年には邦訳され流布していた
また、「ヒイデス(信仰)の導師」は、1592年天草で刊行されている これらの霊的書物をとおして、信徒は、殉教が
信仰生活の最高の実践である事を学び、キリストの受難を観想し、苦行にも励んだ ・「サントスの御作業」(聖人伝)も早くから邦訳され、広く流布していた ・宣教師はこれらの書物などから、信徒に「殉教精神の涵養」を日頃から説いていた
・「マルチリオの栞(しおり)」と称されている「マルチリオの鑑」、「マルチリオの勧め」、「マルチリオの心得」などの三部作
や、「マルチリオの理」などでは、殉教の意義などについて説明がされている
・殉教は無抵抗の抵抗である 信仰のためにいかなる迫害を受けても、不当なことを強いられても無抵抗であれという
のが教会の教えである 無抵抗のまま命を神に捧げるのが殉教であり、これがキリスト教的抵抗なのです
(抵抗の組織) キリシタンの弾圧と抵抗(海老沢有道著)
・抵抗の組織、コンフラリヤ(組講)がつくられた
・コンフラリヤは、「ミゼリコルジヤの組」と迫害時代に作られた「サンタマリアの御組」のニ類型に大別できる イエズス会以外の修道会では「第三会」がつくられる
(ミゼリコルジヤの組)
・慈悲の所作14ヵ条(どちりいな・きりしたん)は、主禱文、信徒信経、十戒などとともに暗誦されていた
・「万事にこえてデウスを御大切に思い奉ることと、我が身を思う如く、ポロシモを大切に思うこと」 これを毎日暗誦し
ていた オラショとして伝わっており、如何に信仰教育がきちんとされていたかがわかる
・教会における慈悲の所作は次第に組織化されてくる これがミゼリコルジアの組である ・1559年府内のミゼリコルジヤの組は病院事業の奉仕を行った その後豊後・肥前に形成されていった 大体4人 の慈悲役が互選により選出され、その中の一人が組頭となる組織であった
・1583年、ポルトガルに倣いつくられた長崎のミゼリコルジヤは、本格的なものであった 100人の組員がおり、
多くの愛徳の所作を行い、1620年まで病院事業などを行った
(迫害下の「組」は、次第に地下教会化していく)
・迫害の強化にともない、これらの組織は地下教会化していかざるをえなくなる
迫害下にあっては、組の性格は、牢者・配流者・殉教者遺族の救済などの色彩を強めてくる 殉教にも備える
信心会の性格を持ってくる
(サンタマリアの御組) キリシタンの心(チースリク神父著)
・ザビエルが日本キリスト教を伝えたのは、8月15日であった このとき聖母マリア様に対する信仰ももたらされた ・京都の南蛮寺他、聖母マリア様に捧げられた教会ができた (聖母マリアの信仰 ロザリオの信心書)
・16世紀急速に広まった、キリストと聖母マリアの生涯を念祷・黙想する、優れた祈りであるロザリオの祈りも、
ザビエルによってもたらされ、各地でロザリオの信仰がひろまった 「ロザリオの観念」という信心書があった
これは、イエズス会の司祭が書いたもので、彼はその他にも二つの黙想書を書いた これらは、イエズス会の
心霊修行(霊操)に従った黙想の指南書であった 冒頭にはイグナチオの黙想に関する説明と注意をそのまま
あげ、「ロザリオの観念」では、15玄義に分けてそれぞれに三つの要点を出し、その説明・解釈をつけ、最期に
聖母マリアへのオラショを載せている 日本語訳は、1607年、「ロザリオの観念」、「御パッションの観念」、
「修道者のための黙想」との三部からなる「スピリツアル修行」という題で、長崎でローマ字本として出版された
これはイエズス会の邦人司祭と修道士のためのものであったが、同時にロザリオと御受難は日本字で、信徒の
あいだに流布した 御受難については、右近の記事で言及されている
・ロザリオ15玄義図がつくられた(茨木 千提寺、下音羽)
・ドミニコ会は特にロザリオの信心を重視した 「ロザリオの組」を組織し、冊子を配布した ロザリオの絵を配布した
黙想重視のイエズス会とは異なっていた
・雪のサンタマリアの信仰が1579年頃伝えられた その美しい物語から、その祝日が設けられ、お祝いがされた
(サンタ・マリアの組)
・サンタ・マリアの御組は、聖母信心だけでなく、キリシタンの信仰生活全般において大きな影響を及ぼした
この信心会は、目的、実践、性格など様々なもので、異なったものであった
・イエズス会指導の聖母信心会
1563年ローマで発足 イグナチオの心霊修行の精神を信徒使徒職のリーダー養成に適用したもので、大衆
むきのものではなかった オルガンティーノ神父はこの信心会の創立者と友人で、彼も創立者の一人でも
あった 彼は1570年来日し、1606年まで都の布教区で働いた 伴天連追放令後、イタリアでの経験を生かし、
彼は都地区で幾つかの信者団体をつくった この団体は、聖母マリアを保護者としたが、弾圧に備えての
隣組方式のもので、リーダーは同宿・看坊であった ヴァリニャーノはこの組織を奨励した フロイスは「この組は日本人の精神にかない、日本人からたいそう感激して迎えられ、この国の第一人者で
最も身分が高い人達が、この組の一員に加えられることを名誉と考えている」と記している 宣教師の記録中に
記されており、大きな役割を果たしていた 1603年にはローマの本部の支部して認められた信心会が有馬の
セミナリオで出来た それは「御告げの組」であった 入会を希望する者が多く出たが人を選ぶようにしたので
入会を希望する者は徳を高めることに努力した 入会すると、一週間、イエズス会の心霊修行をし、次に総告白
をし、日々時間ごとに定められた祈りをし、組の規定により、良心の究明そのほかいろいろの修練をするというもの
であった 会員は50人で、徳を修め、信心を養い、速やかに罪を悔い、苦行をし、互いに欠点を教え、日々喜捨
金を持参して貧民を救い、教えを説き、しばしば病人を見舞い慰める 加入を望む者が多いので、更に一組
設けた その後迫害と弾圧に備えるため、宣教師たちはこの信心会を一層強化した 一般むきのものとした
殉教の覚悟まで準備するものへとなって行った ドミニコ会もロザリオの組をつくった 難を共有する
つも、全て神を
もそれが示さ
忍んだことは、
何かを示した
で広く知られ
として最期を
に開始された
乗り越えて来
あり、まさに に歌い上げ、
をつくして神を
きたそうです の状況として って行った に振舞った
いた信徒主体
上げることが
いるそうです えたわけです
本キリスト教 く力を伸ばして
次の政治課題
理由に、国民の
多くなっている と発揮すべき
の人の無駄な
理主義者による
合いを始めると
的、経済的な
徳川家を中心
れるまで存続
われたのです
スタントの国は、
本の権力者は、
ったともいえる
蒙ることになる
行われるように された 教会の状態は
の受洗者は、
してくるとこの
ルトガル人を
ヤム・アダムス
年にはオランダ、
、オランダは
、・・日本では
603年家康は
惑があったが、
を翻した) 戦が布告 たキリシタン に際し、豊臣
関係する 中に収めること
曽孫)に説得
と思います 来事だと思う
して、恐らく、
全く同じであり、
よ」と命じた るように出来る
も関連付け ア(信心会) しっかりと組織
整然と行列し、
は棄教させる
行った一時的
に潜行して、
要なことです の成り行きが
た左兵衛は、
消しとキリスト
機会を待つこ
られて続いた
たものであった
、都の人々が
る結果になる
に誇張して
に対して用い
るなか、島原
した