2006 年 6 月 11 日 主日説教

2006 年 6 月 11 日 主日説教
題
目:
「御言葉の上に立つ信仰」
聖
句:
ルカの福音書第 8 章 22 節~25 節
説
教:
チョ-・ヨンギ牧師
今日は皆さんと一緒に「御言葉の上に立つ信仰」と言う内容で恵まれたいと思います。
イエス様は或る日の事、弟子たちを連れてガリラヤ湖の岸辺に立って向こう岸を見なが
ら弟子たちに、
「さあ、湖の向こう岸に渡ろう。
」と言われました。それで弟子たちは早
速、舟を準備してイエス様と一緒に舟に乗りました。そして程良い追い風に帆を立てて
滑るようにガリラヤ湖の中央に向かって進んで行きました。所が不思議な事が起こりま
した。
第一、主と距離をおいた弟子たち
いつもイエス様が居られる所には弟子たちが周囲を取り囲み、イエス様の御言葉に耳
を傾けておりましたが、この日の弟子たちの胸の中に浮世を愛する心が入って来たので、
イエス様とは距離を置くようになったのです。イエス様を差し置いて彼らは睦まじく話
の花を咲かせて居りました。浮世が入って来るやイエス様とは距離を置くようになった
のです。主中心の生活から人間中心の生活に、主に仕える生活から、今からはイエス様
を利用してこの世で出世し、富貴、栄華、功名を得ようとする考えで満たされてしまい
ました。天国に対する関心からこの世に対する関心に移ってしまったのです。これが彼
らの人生に重大な問題の発端になってしまったのです。私たちもこの世で生活しながら、
俄かにこの世を愛する心が入って来ますと、聖書を読むのが嫌になり、祈りの生活が嫌
になり、教会に出席する回数が段々と減り始め、キリストとの交わりの回数が減って来
るのです。この世を愛しますと神様とは敵になってしまうのです。この世を愛する心が
入って来ますと、主中心の生活からこの世中心に、天の御国の関心からこの世の関心に
変わってしまうのです。
コロサイ人への手紙第 3 章 2 節に、
「あなたがたは、地上のものを思わず、天にある
ものを思いなさい。」と書かれてあります。天にあるものを思わず、段々とこの世にあ
るものを思うようになるのです。この世が入って来ますと、
コロサイ人への手紙第 3 章 5 節に、
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、
不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、
そのまま偶像礼拝なのです。
」と書かれてあります。この世が心に入って来ますと淫乱を
来たらせ、不正と私欲と悪い情欲と貪欲を来たらせるのです。浮世はそのまま来るので
はありません。この世とその中にある全ての貪欲も一緒に持って来て、天の御国の関心
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から私たちを遠く引き離してしまうのです。類は類を呼ぶと言いますが、弟子たちの胸
の中にこの世が入って来るや否や、弟子たちは自分たち同志で集まりました。イエス様
とは距離を置き弟子たち同志で集まって睦まじくこの世の話に花を咲かせて居りまし
た。人たちは自分と同じ種類の人たちで集まるのです。動物もそうです。鴨は鴨同士で、
鳥は鳥同士で、雀は雀同士で集まるのです。人間も泥棒は泥棒同志で、不良少年は不良
少年同志で集まり、善良な人は善良な人同志で集まるのです。私たち個人も同様なので
す。私たちの霊的生活においても、私たちが常にこの世を考えますと、この世が私たち
に迫って来て一緒に住まうようになるのです。私たちの友が此処に居ると言いながら訪
れて来るのです。霊的に淫乱な考えをしますと淫乱な霊が迫って来、霊的に憎みますと
憎む霊が迫って来、霊的に放蕩しますと放蕩なる霊が入って来るのです。類は類を呼ん
で一緒に住まうようになるのです。それは、“この世の悪魔が何故、私に付いて来るの
でしょうか?”と呟かないで、この世の悪魔と友達になる要素が私たちの中にあると言
う事を悟り、これを悔い改めなければなりません。蝿が何故集まって来るのかと言わな
いで、蝿が飛んで来るように汚物を貯めて置いたのを知って早く取り除きますと蝿は消
え去ってしまうのです。私たちの環境も同じなのです。私たちが常に罪を犯す考えをし
ておりますと、罪のある環境が訪れて来て罪と一体になるのです。私たちが“いつも私
は病気になっています。私は弱いです。私は死にます。”と考えますと病気の環境に造
って病気と一緒に住まうのです。病気が離れて行きません。私たちは心の中で、“私は
貧しいです。何事もする事ができません。”と呟きますと貧しくなり、何事もする事が
できない生活環境が“私たちの友達が此処に居る”と訪れて来て離れて行きません。私
たちの霊的な考え、私たちの心構えが私たちの環境を造り出すと言う事を知らなければ
なりません。ですから、何を考えるか、何が私たちの心を支配しているのかが即ち、私
たちの環境を造り出すと言う事を知って私たちは深く考えなければなりません。何時も
類は友を呼ぶと言う事を忘れてはなりません。私が或る教団の指導者として約 10 年間
居りましたが、その時、総会に集まりますと成功した牧師も居り、失敗した牧師も居り
ますが、何時も失敗した牧師と成功した牧師たちを同じ部屋に配置して、成功した牧師
の成功談を聞き勇気を得なさいと配慮してやりました。所が二日経って見ましたら全部
部屋を変えて親しい同志で集まるのです。成功した牧師は成功した牧師同志で集まり、
失敗した牧師は失敗した牧師たち同志で集まるのです。何時も肯定的に語る人は肯定的
に語る人同志で集まり、恨み、呟き、嘆き、否定的に語る人同志で集まりました。類は
友を呼ぶのは避ける事ができません。皆さん!人生を営む時、如何なる考えを持つかに
よって私たちの運命と環境が変わって来るのです。心構えがどんなになっているのかに
よってその人の運命も環境も変わって来るのを悟らなければなりません。
箴言第 4 章 23 節に、
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこ
れからわく。」と書かれてあります。心を見守る事ができない人は自分の運命と環境を
見守る事ができません。人間の心に従って運命と環境も友となって類が友を呼んで一緒
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に付いて来るのを忘れてはなりません。イエス様の弟子たちも浮世が彼らの心の中に入
って来るや、この世と友になってイエス様とは距離を置くようになり、そしてこの世と
友になった同志が集まって対話の花を咲かしたのです。
ヨハネの手紙第一第 2 章 15 節から 16 節に、
「世をも、世にあるものをも、愛しては
なりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はあり
ません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、
御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」と書かれてあります。
イエス様とは距離を置き、イエス様から遠ざきましたからイエス様はじっと空を見上げ、
波を見渡し、海を見渡した後、遂に眠ってしまわれました。お一人になられたイエス様
は眠ってしまわれるのです。皆さんがイエス様を常に心の中に迎え入れ、イエス様と対
話をし、イエス様の御言葉を聞き、イエス様と一緒に生活しますとお眠りになりません
が、イエス様と距離を置き、イエス様から遠ざかりますとイエス様はお眠りになられる
のです。私たちをイエス様から離れた人生にしてはなりません。私たちは常に私たち自
身を砕き、私たち中心からイエス様中心に、イエス様に仕える生活に、イエス様に従っ
て行く生活に変化させなければなりません。
マルコの福音書第 8 章 34 節に、
「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに
呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨
て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われました。自分を
捨て、自分を砕き、十字架を背負ってイエス様中心に、イエス様に従って行く生活を営
む時、主は私たちと一緒にして下さるのです。一隻の小舟に乗って、この洋々とした大
海のようなこの世を暮らしていく時には、絶対に私たち一人で舟に乗って行くのではあ
りません。主が私たちと一緒に船に乗って行かれるのです。イエス様が弟子たちと一緒
にガリラヤの湖を舟に乗って行くように、人生の舟にはイエス様が一緒に乗って行かれ
ますが、私たちがイエス様と距離を置きますと私たちの人生の舟の中でイエス様は眠っ
てしまわれるのです。イエス様は絶対に私たちを離れていかず、遠からず、距離を置き
ません。私たちがこの世を迎え入れますと、この世が入って来るや、イエス様も私たち
に距離を置くようになり、イエス様は私たちの生涯の中で眠ってしまわれるのです。
マタイの福音書第 6 章 33 節に、
「だから、神の国とその義とをまず
第一に求めな
さい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と主は言わ
れました。私たちの人生において先にする事と後でする事があります。私たちがこの世
の事を先にし、イエス様の事を後にしますと、イエス様は眠ってしまわれるのです。イ
エス様を第一番目に仕え、求めますと、イエス様は私たちのすべての事柄を顧みて下さ
るのです。“私がイエス様に仕え、主中心に暮らしますと生存競争の中で生きて行かれ
ません。妻子はどんなに食べさせ、この世での事業はどうするのでしょうか?”と悪魔
は否定的な言葉で囁きます。然し、それは真っ赤な嘘なのです。天と地と世界とその中
のすべての物をお造りになったイエス様は、
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箴言第 19 章 21 節に、
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが
成る。」と書かれてあります。成すことができる全ての事柄はイエス様の御手にあるの
です。イエス様には不可能がありません。その国と義を先ず求めますと、イエス様は何
を食べようか、何を着ようか、どんな暮らしをして行こうかなどを皆、解決して下さる
主であられるのです。主を無能な神だとは考えてはなりません。イエス様は不可能な事
は何一つありません。
マルコの福音書第 9 章 23 節に、
「できるものなら、と言うのか。信じる者には、ど
んなことでもできるのです。」と主は言われました。
第二、人生と荒波
イエス様の弟子たちがイエス様から遠ざかりますと荒波が襲って来たのです。皆さ
ん!悪魔が狙うのもこれです。映画やTVを見ますと、アフリカの草原で多くの動物が
群れをなして暮すのを見ます。獅子やハイエナや豹は幼い動物を捕らえて食べる時、何
時も雌と幼い子を引き離します。雌の側にいる幼い動物を攻撃して、雌の反撃を受けて
負傷するようになるのです。ですから、攻撃して幼い動物を雌から引き離しますと、そ
の時、幼い動物を攻撃して捕らえて食べてしまうのです。悪魔も同様なのです。私たち
をイエス様から引き離して攻撃する為には、イエス様と一緒に居る私たちを絶対に攻撃
する事ができません。天と地の全ての権威を持たれたイエス様の側に居りましたら、ど
んなに私たちを攻撃する事ができましょうか?悪魔は何時も私たちの心の中に誘惑の
手を伸ばして浮世を入らせ、この世が私たちとイエス様との距離を置くようにさせるの
です。イエス様と私たちが距離を置きますと、悪魔はその時を狙って私たちを攻撃して、
私たちを盗み、殺し、滅亡させるのです。
ペテロの手紙第一第 5 章 7 節から8節に、
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に
ゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさ
ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くす
べきものを捜し求めながら、歩き回っています。」と書かれてあります。ここでは悪魔
を獅子に比喩しました。皆さん!草原で獅子が動物を攻撃する時、容赦なく爪で引掻き
首に噛み付いて息を止めさせ、その次には心臓を引き出して食べてしまいます。悪魔も
私たちに容赦なく飛びかかるのです。イエス様が私たちから離れて、私たちが無能力に
なったと考える時、私たちに飛びかかって私たちの霊的なる呼吸である祈りを中止させ、
私たちに噛み付き、裂いて滅亡させるのです。ですから、私たちは常に謙遜になり、目
を覚まして主の側を離れてはなりません。私たちに何故、荒波が襲って来るのでしょう
か?個人的な荒波、家庭的な荒波、事業的生活の荒波が襲って来るのは、主と距離を置
いた時、悪魔は私たちを滅亡させようと荒波で襲って来るのです。イエス様の弟子たち
がイエス様と一緒に舟に乗ってガリラヤの湖を渡る時、どうして荒波が襲って来たので
しょうか?それは弟子たちがイエス様と距離を置き、イエス様を眠らせた後に悪魔はそ
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の隙を狙って荒波を送って一気にイエス様の弟子たちを溺れさせようとしたのです。イ
エス様と距離を置く時、悪魔は攻撃するのです。主が一緒にして下さりますと、びくと
もしません。悪魔は一つの道から攻撃して来て、七つの道に逃げてしまうのです。です
から、詩篇第 91 篇を読んで見ますと、主が一緒にして下さればどんな人生も営む事が
できると言う事を私たちに確実に見せてくれます。詩篇第 91 篇 1 節から 16 節を一緒
に朗読しましょう。
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。
「わが
避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病
から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなた
は夜の恐怖も恐れず、昼に飛び
来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、
真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れて
も、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見
るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まい
としたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近
づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あな
たを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当
たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏
みにじろう。彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名
を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたし
は、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与え
よう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」何と
素晴らしい神様の約束ではありませんか?皆さん!時間がある度毎に詩篇 91 篇を読ん
でこれを覚えましょう。心の中がどれ程平安で心強くなるのか知りません。本当にヤエ
-・シャロム私たちが平安になるのです。それは主が一緒にして下さいますと詩篇第
91 篇の御言葉通りに、禍が私に及びません。災難が私に及びません。主が御使いたち
に命じて、すべての道において私たちを守って下さり、その手で支え、石に打ち当たる
事のないようにして下さると約束して下さったのです。悪魔が一つの道から攻撃し、私
たちの前から七つの道から逃げ去るのは、神様が私たちに力を与えて下さって獅子とコ
ブラを踏みつけ、若い獅子と蛇を足で踏み躙ると約束して下さったのです。イエス様と
距離を置きませんと、主は私たちと一緒にして下さり私たちにいのちを溢れるばかりに
与えて下さるのです。然し、悪魔が来て、その悪巧みで、この世を愛する心を私たちの
心の中に注ぎ込みますと、浮世が入るや否や、私たちはキリストと距離を置くようにな
るのです。私たちがイエス様と距離を置いたか、置かなかったかをどんなにして知る事
ができるのでしょうか?イエス様と距離を置きますと、関心がイエス様中心から浮世中
心に、天の御国に対する関心から浮世に対する関心に、キリストに仕える心から私自身
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に仕える心に変化されてしまうのです。直ぐ聖書を読むのが嫌になり、教会に行くのが
嫌になり、区域礼拝には初めから行きたく無いのです。そしてこの浮世に興味が沸き上
がります。TV の前に座っているのが祈る時よりも楽しく、小説を読むのが聖書を読む
時よりも面白く、信じない友達に合うのが祈り会に行く時よりも好むようになるのです。
方向が違って来たのです。そしてその後には荒波に出会うのです。悪魔は、
“しめしめ!
チャンスが来た!これからは私の計画通りになった。主と距離を置いたからこの時に攻
撃しよう。今こそ、盗み、殺し、滅亡させよう。”と束の間に環境を通し荒波を通して
攻めて来るのです。
第三、患難の時、主を起しましょう。
弟子たちが荒波に出会いました。俄かに真っ黒い雲が空を覆い風が吹付け雨が降り始
め波が立ち、弟子たちは水を被って危険になりました。弟子たちは皆、海に対しては専
門家であり、漁夫ですので舟を漕ぐ事も上手で波には慣れていましたが、大きな荒波が
襲って来たので彼らの経験上、彼らの技術では舟を安全に保つ事ができませんでした。
水を被ってしまい、船が沈むようになったので、彼らは挫折と絶望に落ち込んでしまい
ました。人間的に解決し様と幾ら努力しても空しかったのです。
詩篇第 42 篇 5 節に、「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で
思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」
と書かれてあります。彼らが神様に対する希望を失ったのでその様な試練を体験するよ
うになったのです。切羽詰った時にしなければならないのは、自己中心の誤った生活態
度を悔い改める事なのです。苦難と災難が迫って来た時、この問題を解決する最善の道
は、悔い改めて主の御前に両手を上げて立ち直る事であるのです。自分の手段や方法や
努力で問題を解決し様としてはなりません。また、弁明してはなりません。完全に悔い
改め罪を告白して、砕かれて、「よるべなき我は、主に近づかん。主、憐れみなくば、
何処に行かん。わが罪のために血潮流し、いま悔い改めて
御前に行かん。
」
(韓日賛美歌
338 番参照)と泣きながら主の御前に進み出ますと、主は憐れんで下さるのです。
ローマ人への手紙第 2 章 5 節に、「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのな
い心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分
のために積み上げているのです。」と書かれてあります。私たちが悔い改めないで意地
を張りますと、神様の御怒りの審判が迫って来るのです。
ヨハネの手紙第一第 1 章 9 節のように、
「もし、私たちが自分の罪を言い現すなら、
神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ
います。」と書かれてあります。悔い改めて両手を上げて主に進み出る人を主は、絶対
に御顔を背けないで知らないとは言われません。主はペテロに言われました。「もし、
隣人があなたに罪を犯して悔い改めて謝りに来たなら七度までなどとは、わたしも言い
ません。七度を七十倍するまでと言います。」と言われました。ペテロは、
“一日に七度
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赦してやれば良いでしょうか?”と大目に見てやって七度と言いましたが、イエス様は
七度を七十倍するまでに悔い改めて謝りに来たら赦してやりなさいと言われたのです。
人間が人間の罪も七度を七十倍にして赦してやりなさいと言われましたのに、ましてや、
神様は私たちが悔い改めて立ち直りますと、私たちを知らないとは言われず、私たちを
追い出しません。悔い改める人は滅亡されません。この世で地獄に行く人は悔い改めな
いから地獄に行くのです。悔い改めますと全ての人が赦され、救いを得る事ができるの
です。私たちは悔い改め、砕かれ、自分に仕えた生活から主に仕える生活に立ち直らな
ければなりません。この世で最も幸福な生活が主に仕える生活なのです。皆さん!私た
ちは悪魔に従って行くか、主に仕えるか二つの中から一つを選ばなければなりません。
私たちは自ら自由に生活する事はできません。アダムとエバが初めて造られた時には、
神様に仕えるように造られましたが、神様に反逆して出てくる時には悪魔に従って生活
するのです。人間は神様に仕えながら生活するか、悪魔の奴隷になって生活するか、二
つの中で一つを選んで生活するのです。良い主人に従って生活しますと私たちの生活が
幸福になり、悪い主人に従って生活しますと、私たちは盗まれ、殺され、滅亡されてし
まうのです。ですから、私たちが悪魔に従って全身傷だらけになったら、悔い改めて神
様中心に立ち帰り、神様に仕える生活に立ち直らなければなりません。そうしますと、
神様は私たちを赦して下さり、神様の懐に抱いて下さるのです。
イザヤ書第 55 章 6 節から 7 節に、
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられ
るうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て
去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦
してくださるから。」と書かれてあります。憐れんで下さるのです。放蕩息子が父親を
離れて浮世で暮らして何もかも皆失い、狼狽して持ち物無しに父親に悔い改めて帰って
きた時、兄は受け入れてくれませんでした。父親からの財産を遊女と水のように使い果
たしたこの弟が帰って来たのを兄は受け入れてくれませんでしたが、父親は受け入れて、
“この息子は死んでいたのが生き返り、居なくなっていたのが見つかった!”と喜びま
した。今日、神様は私たちを喜んで受け入れてくださるのです。人たちは私たちを批評
し、非難し、定罪し、審判しても、神様は悔い改めて帰って来る私たちを見捨てになら
ず、私たちから離れて行かれないと言う事を知らなければなりません。
ヨハネの黙示録第 2 章 5 節に、
「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、
悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないなら
ば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはず
してしまおう。
」と書かれてあります。
昨年の 11 月 4 日、純福音家族新聞に、若い夫婦宣教会に出席するジョン・ジュンハ
クとバク・ソンミ-夫婦の証を読んで感動を受けました。この夫婦は、青年宣教会で信
仰生活をしながら出逢って結婚をしました。当時、この姉妹は美容師として働いており
ましたがジョン・ジョンハク聖徒は妻の苦労に何時も心を痛め、お金を儲け様と思って
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株に手をつけ始めました。初めは 200 万ウォンで始め収益も少しずつ増やしていきま
した。或る時には 5 千万ウオンまでも利益を上げた時がありましたが、その内に段々と
損害を受け、その損害が段々と大きくなり、これを埋め込む為に他人から借金をするよ
うになり、借りたお金は益々増えて結局には手を尽くす事もできないほどになってしま
いました。夫はこの事実を妻に告白して赦しを求めました。夫婦はこの世の方法に従っ
て問題を解決し様としないで、神様の御前で罪を告白し悔い改めて神様の懐に立ち帰り、
毎日、早天祈祷を捧げ、策定断食の祈りを捧げ、アパ-トを売って借金を返して、手元
には一銭も残りませんでしたが、信仰でアパ-トを売った収益金の十分の一を神様に捧
げ、教会ではもっと熱心に奉仕して神様に祈り、主に求め、その国とその義とを先ず、
第一に求めました。一年後、ジョン・ジョンハク聖徒は偶然に兄に出会いましたが、兄
は、“今まで苦労した!”と言って残りの借金を皆、清算してくれました。又、ジョン
聖徒は教会の近くに月給も多くくれる職場に移るようになり、全ての問題が解決されま
した。との証を読みました。問題の前で人間的な方法に頼らず、神様に拠り頼って大声
で祈り求めたので、イエス様が直接この問題を解決して下さったのです。患難に出合っ
た時、私たちは早くイエス様を眠りから起して全力を尽くして主に叫び求めなければな
りません。弟子たちは水を被ってずぶ濡れになり、髪の毛は乱れ、着物は水に濡れて体
にくっ付いて飛び散る波しぶきは顔を打ちました。どうしたら良いか解かりませんでし
た。眠っておられるイエス様の所に行ってイエス様を起しました。今彼らにこの世は助
けてくれません。この世は彼らに絶望を与えました。この世に対する望みを捨て、人間
本能主義の望みも捨てて主を捜し求めました。主中心に立って、“先生!先生!私たち
は溺れて死にそうです。私たちを助けて下さい。
”と一生懸命にイエス様を起しましたら、
イエス様は起き上がって風と荒波を叱り付けられました。すると風も波も静まりました。
エレミヤ書第 33 章 3 節に、
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」と書かれてあり
ます。
「わたしに囁きなさい。わたしに黙想しなさい。
」とは
言われませんでした。
「わ
たしに大声で叫び求めなさい。喉よ避けよとばかり叫び求めますと主が聞かれ、理解を
越えた大いなる事を見せて下さり、問題を解決して下さる。
」と言われたのです。
詩篇第 44 篇 26 節に、
「立ち上がって私たちをお助けください。あなたの恵みのため
に私たちを贖い出してください。」と、その様に大声で叫び求めなさいと言われたので
す。聖書に見ますと、ユダの王ヒゼキヤが重病に罹って死にかかっていました。預言者
イザヤが来て、「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治ら
ない。』」と言いました。ヒゼキヤは顔を壁に向けて、涙を流しながら大声で泣きながら
主に叫び求めました。
“主よ!私を助けて下さい。私を助けて下さい。
”と一生懸命に祈
りました。そうしましたら神様の御言葉がイザヤに臨みました。「引き返して、わたし
の民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビテの神、主はこう仰せられる。『わたし
はあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたを癒す。三日目に
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は、あなたは主の宮に上がる。わたしはあなたの壽命に、もう 15 年を加えよう。わた
しはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わ
たしの僕ダビデの為にこの町を守る。』と仰せになりました。皆さん!ヒゼキヤは「あ
なたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。」との御言葉を聞いて大声で泣きなが
ら祈りました。聖書には、
「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。
」と書
かれてあります。私たちの目から流れる涙さえも主は見ておられるのです。彼の泣き叫
ぶ祈りを通して主は 15 年の寿命を延長して下さり、アッシリヤ王の手から救い出して
下さると約束して下さったのです。私たちは患難の時、一生懸命に主に叫び求めなけれ
ばなりません。このイエス様の弟子たちは、唯、側に来て主の耳に囁いたのではなく、
主の周囲に立ってじっとしていたのではありません。彼らは主を揺れ動かし大声で叫び
求めました。私たちも患難に出合って荒波に襲われた時、主の御前にて出て大声で泣き
ながら罪を告白し、悔い改めて叫び求めますと、主は応答して下さるのです。私は病気
になった人の為に祈る時、又、病気になった人たちも一生懸命に力を尽くして主に大声
で叫び求める病人は容易く癒され、そうでなく、心の中に切なる願いが無い人は中々病
気が治りません。病人の為に祈る時、私も全力を尽くして祈って上げますが、相手の病
人が目をきょろきょろしており、一生懸命に一緒に祈りませんと、その様な人は早く治
りません。
1970 年 4 月、アメリカのアポロ 13 号が月に向かって発射されました。当時、科学者
たちは、すべての事が完全で無欠であると自信ありげに壮語しました。所が地球から二
万マイル離れた所でアポロ 13 号の酸素筒が壊れる事故で、これ以上飛行する事が不可
能になる事故が発生しました。宇宙飛行士たちは本部であるヒュストンに緊急連絡をと
り、指揮本部では、“北極星を見ながら方向を取って帰還しなさい。”と指示しました。
人間の力では到底、どうする事もできない状況に置かれてしまいました。このニュ-ス
を聞いた全アメリカの国民たちは、故障したカプセルを運転しながら帰って来る宇宙飛
行士たちの為に、午前9時に一緒に祈りました。全国民が大声で叫び求めながら祈りま
した。宇宙飛行士たちも宇宙船の中で一生懸命に祈りました。そした後、故障したアポ
ロ 13 号は太平洋に無事安着しました。宇宙飛行士たちは予め待機していたアメリカ海
軍の軍艦によって救助されましたが、彼らが宇宙船から下りるや否や真っ先にした行動
は感謝の祈りでありました。彼らは海軍軍牧の手を握って、“神様!感謝します。主を
賛美します!”と神様に感謝しました。当時の彼等の姿がタイム紙に載せられて全世界
に知らせられました。人間科学の最高産物であると誇った宇宙船が故障になった時、人
間がすがる所は神様御一人しかなかったのです。皆さん!科学万能も祈りに拠り頼らな
ければ不可能なのです。私たちが行き詰って袋小路に入った時は何よりも先ず、主に大
声で叫び求めますと、主は私たちを導いて下さるのです。主は天と地と世界と、その中
のすべての物をお造りになった神様なのです。神様には不可能はありません。キリスト
に大声で叫び求め、私たちの人生において、家庭に於いて、生活の中で、主が眠りから
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起き上がり、風と荒波をお叱りになり、凪にして下さるのです。
第四、あなた方の信仰は何処にあるのですかと、言われました。
イエス様は荒波を凪にして下さり、どうしたら良いのかわからない弟子たちに、「あ
なたがたの信仰はどこにあるのですか?」と言われました。信仰がないとはお叱りにな
りませんでした。弟子たちがイエス様と一緒に船に乗った時、イエス様は、「さあ、湖
の向こう岸に渡ろう。」と言われました。主が向こう岸に行こうと言われたら、風が吹
き荒波が押し寄せ、舟がひっくり返っても行くのです。神様の御言葉は、あの天が崩れ
落ち、この地が沈んでも必ず、成し遂げられるのです。弟子たちがこの世と共にして、
神様の御言葉を忘れてしまったのです。私たちイエス様を信じる人が、この世の人と何
が違うのでしょう?私たちはパンだけで生きるのではなく、御言葉によって生きる人た
ちであるのです。イスラエルの民がエジプトで暮す 430 間はパンで暮しました。然し、
彼らが紅海を渡って荒野に入ってからは、目に見えず、耳に聞こえず、広々とした砂漠
には食べる糧もなく、飲む水もなく、病院もなく、着物もありませんでした。彼らは偏
に神様の御言葉だけを仰ぎ、待ち望みました。モ-セが神様の御言葉を受けて伝える時、
その御言葉を信じたら、その御言葉を通して、マナも降り、ウズラも飛んで来、水も湧
き上がり、病も癒され、着物も磨り減りませんでした。イスラエルの民は 40 年間をパ
ンだけで生きるのではなく、神様の御言葉で生きたのです。今日においてもイエス様を
信じる人たちは違う世界の中で生活するのです。この世の人たちは皆が 3 次元の世界の
中で時間と空間と物質に拠り頼って暮らしますが、私たちは 3 次元の世界を超越した聖
霊様の世界の中で暮しているのです。聖霊様は御言葉を通して私たちに来られて、今、
御言葉で私たちの全ての問題を解決して下さるのです。聖書の御言葉はこの世の言葉で
はありません。この世の哲学者や科学者や宗教人の話ではありません。この御言葉は神
様が御座から私たちに贈り物として与えて下さる御言葉なのです。御言葉を私たちが読
み、聞き、悟って知り、御言葉に立って神様に仕えながら生活しますと、如何なる荒野
のような生活の中でも、今日においても私たちに奇跡を施して下さるのです。イエス様
が弟子たちに質問されたのも、これであるのです。風が吹き捲り、荒波が押し寄せ、飛
沫が舟に満たされたのは 3 次元の世界の中で起こる事なのです。然し、この 3 次元の世
界を統べ治められる神様の御言葉、聖霊様の御言葉を与えて下さるのに、あなたがたは
何故、この御言葉を信じないで何をしているのですか?信仰を何処に置いたのですか?
と質問なさったのです。
詩篇第 107 篇 28 節から 29 節に、
「この苦しみのときに、
彼らが主に向かって叫ぶと、
主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。」と書かれて
あります。主は今日、私たちが御言葉を読んで進み出る時、如何なる荒波も静まらせて
下さるのです。御言葉を信じなければなりません。私たちが信じない人と違う特権が即
ち、御言葉を持っており、御言葉を信じると言う事なのです。私たちは人間的感情、感
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覚、環境を信じません。不信仰の人は、自分が感じる通りに、感覚する通りに、環境を
見る通りに従って生活します。然し、私たちは東南風が吹き、西北風が吹いても、これ
をその通りには見ません。私たちはこれに従って生活しません。私たちは御言葉に立っ
て暮す人であるのです。主と距離を置き、遠く離れておりますと、道理なく感情、感覚、
環境の支配を受けるしか術がありません。弟子たちが主と距離を置いている時には、風
を見、荒波を見て恐れました。然し、イエス様と一緒に居りますと彼らは風が吹き、荒
波が押し寄せても恐れる事がありません。それは、イエス様は荒波よりも、風よりも海
よりも、この世のすべてのものよりも強い方であるからです。主が私たちをどれ程愛さ
れたのか、十字架に釘打たれ、身を裂き、血を流されて、私たちの代価を払って贖って
下さったのでしょうか?ですから、私たちを決して見捨てたり、離れて行きません。
私が田舎で生活していた時、鶏舎が火事になって多くの鶏が焼き死にました。鶏舎に
言って見ましたら雌鳥が翼を広げており、その雌鳥は完全に焼かれてしまいました。そ
れにも関わらず、翼を上げて見ましたらその下に雛が皆、生きているのでした。雌鳥は
火で焼かれながらも翼で雛を保護したのです。イエス様は私たちを救わんが為に、十字
架を身代わりに背負われ、身を裂き、血を流されて死なれながらも、私たちにいのちを
与えようとされたのです。ですから、主は私たちと一緒に居られ、離れないのです。私
たちが御言葉を通して主に進み出ますと、主は決して私たちを見捨てられません。私た
ちが御言葉を離れて、人間の感情や環境を見詰めて従って行きますと、箴言第 1 章 27
節のようになります。「恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風
のように、あなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下る」のです。然し、
私たちが主と一緒に居りますと、御言葉の上に立つようになり、その御言葉が即ち、神
様なのです。皆さん!神様は霊ですから見た人が居りません。然し、神様が肉身で来ら
れた方がイエス様なのです。私たちは具体的に神様を見ました。イエス様が即ち、神様
であり、イエス様の御言葉が即ち、聖書の御言葉なのです。ですから、御言葉を知ると
いう事は神様を知る事であり、御言葉を信じると言う事は神様を信じる事であり、御言
葉を胸に抱きますと、それは神様を胸に抱く事になるのです。
ヨハネの福音書第 1 章 1 節に、
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあっ
た。ことばは神であった。
」と書かれてあります。
ルカの福音書第 1 章 37 節に、「神にとって不可能なことは一つもありません。
」と書
かれてあり、
ローマ人への手紙第 10 章 17 節に、
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞く
ことは、キリストについてのみことばによるのです。」と書かれてあります。御言葉の
中にすべての富が皆、入っているのです。御言葉に従って行きますと霊的に生活する世
界もあり、すべての事において祝福される世界もあり、治療される世界もあるのです。
詩篇第 103 篇 1 節から5節に、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあ
るすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。
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主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あ
なたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみ
との冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのよ
うに、新しくなる。」と書かれてあります。御言葉の中にこのような富が、豊かさが入
っているのです。御言葉を発見しましたら神様を発見したのであり、御言葉を信じるの
は神様を信じるのであり、御言葉に従って行くのは神様に従って行くのです。
ステンダ-ド・オイル会社は世界的に優秀なオイルを供給する会社で、そのオイルを
エジプトで汲み出して居ります。所が、この会社はアメリカの石油会社なのです。どん
なにしてアメリカ人がエジプトでオイルを汲み出したのかは良く知られませんが、即ち、
その理由が次の通りでありました。ステンダ-ド・オイル会社の重役の中で信仰の深い
人が居りました。或る日の事、出エジプト記第2章を読んでいましたが、モ-セがパビ
ルス製の籠の中に入れられナイルの岸の葦の茂みの中に捨てられる内容を読みました。
目がぴかっと閃きました。
出エジプト記第 2 章 3 節に、「パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを
塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の、葦の茂みの中に置いた。」と書かれてあり
ます。此処で彼は瀝青を英語でピッチ(Pitch)ですが、ピッチは即ち、石油と言う言葉
なのです。パピリス製の籠を作って、モ-セの母がピッチ即ち、石油を持ってそれを塗
って、その子を中に入れたと書かれてあります。それで、“ああ!神様の言葉は真実で
モ-セの母が石油から出て来るピッチで葦の籠を塗ったと書かれてあるから、其処には
石油がある筈だ!”と思って、その御言葉通りに現地を踏査させましたら、その場所で
大きな油田を発見するようになり、大きな金持ちになってしまったのです。即ち、この
御言葉で私たちの環境を通して、このように驚くばかりの物質的祝福も捜す事ができる
のです。御言葉が問題の解決となるのです。皆さん!御言葉で感情と感覚と環境に勝ち
抜きましょう。目に見えず、耳に聞こえず、手に触れる物が無くても、御言葉さえあれ
ば勝利する事ができるのです。
詩篇第 23 篇 4 節に、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを
恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが
私の慰めです。」と書かれてあります。ですから、イエス様が一緒に居られるのを知り、
死の陰の谷から抜け出す事ができる様にして下さり、荒波から救い出して下さるのです。
御言葉の上に立つと言うのは、私たちに限りの無い幸いを持って来るのです。
詩篇第 46 篇 1 節に、
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
」
と書かれてあり、
詩篇第 107 篇 30 節に、
「波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望
む港に導かれた。」と書かれてあります。ですから、荒波に襲われた時、この世に対す
る欲望を捨てて、自分自身に仕えた生活を捨てて、主中心の生活に立ち返り、大声で叫
び求めますと、今日においても主は眠りから起き上がって私たちを色々な試みと災難か
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ら救って下さるのを知らなければなりません。弟子たちは余にも驚きました。“風も水
も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどう言う方なのだろう。”と。私たち
が踏み躙られないのは、私たちが御言葉を持っているからです。神様とイエス様と聖霊
様は御言葉の中に臨在されるのです。主の御言葉を揺るがされる事無く掴んで生活しま
すと、悪魔は一つの道から来て七つの道に逃げてしまうのです。荒波は静まらせ、神様の
栄光が一緒にして下さるのですから、たましいに幸いを得ているように、すべての点で
も幸いを得、また健康になり、溢れるばかりのいのちを得る生活を営む様になるのです。
主は今日においても私たちに向かって言われるのです。
「さあ、湖の向こう岸に渡ろう。」
と、主は私たちと一緒に人生の舟に乗って行かれるのです。主は絶対に私たちだけを人
生の舟に乗せて行かせません。一緒に舟に乗られても、私たちが主と距離を置き、主と
離れるから舟が荒波に出会うのであり、主が私たちから遠ざかる事はありません。私た
ちは絶対に主と距離を置く事が無いように主イエス・キリストの御名で祝福します。
“祈り”
愛に満たされた天の父なる神様!
イエス様が私たちの人生の舟に一緒に乗られて、航海して行くのに、悪魔が来てこの世
を愛する心を抱かせて、この世が入り、主と距離を置かせようとしております。悪魔の
誘惑に騙されないように助けて下さい。アダムとエバはこの世を受け入れた為、神様か
ら見捨てられました。この世と親しくするのが、神様と敵になるのを悟らせて下さい。
この世を心の中から皆、追い出し、主中心に仕え、主を迎え入れ、生活する私たちとな
りますように助けて下さい。主よ!今日、私たちに来られて、すべての個人、家庭、生
活、子女、事業に押し寄せて来る荒波を静まらせて下さり、神様の驚くべき平安と祝福
と奇跡で満たして下さい。イエス・キリストの御名でお祈り申し上げます。
ア-メン・・・・・・
(KS, Kim 訳)
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