目次 THE SIGMA FORCE SERIES BLACK ORDER by James Rollins 上巻 一九四五年 Copyright © 2006 by JimCzajkowski 13 Japanese translation rights arrangement with BAROR INTERNATIONAL through Owl's Agency Inc., Tokyo Japan 第一部 1 世界の屋根 2 ダーウィンの聖書 3 ウクファ 4 ゴーストライト 5 怪しい影 6 みにくいアヒルの子 38 82 133 172 217 270 第二部 7 ブラックマンバ 8 混血 334 381 日本語版翻訳権独占 竹書房 主な登場人物 グレイソン (グレイ)・ピアース……………米国国防総省の秘密特殊部隊シグマの隊員。 ペインター・クロウ ………………………シグマの司令官。 キャスリン (キャット)・ブライアント………シグマの隊員。 モンク・コッカリス ………………………シグマの隊員。 リサ・カミングズ…………………………米国の医師。 ローガン・グレゴリー……………………シグマの副司令官。 グレッテ・ニール…………………………コペンハーゲンの古書店主。 アン・ゲル…………………………………ネパールの僧。 カミシ・テイラー…………………………シュルシュルウエ・ウンフォロージ動物保護区の監視員。 フィオナ …………………………………グレッテの孫娘。 ポーラ・ケイン……………………………マルシアの同僚。 マルシア・フェアチャイルド………………シュルシュルウエ・ウンフォロージ動物保護区で研究をしている英国の学者。 かこうがん ジェラルド・ケロッグ……………………シュルシュルウエ・ウンフォロージ動物保護区の所長。 グンター…………………………………ゾネンケーニヒ (太陽王の騎士) の一人。 アンナ・シュポレンベルク…………………グラニートシュロス (花崗岩の城) の研究所長。 クラウス…………………………………ゾネンケーニヒ (太陽王の騎士) の一人。 シグマフォース シリーズ② ライアン・ヒルシュフェルト………………ヨハンの息子。 ヨハン・ヒルシュフェルト…………………かつてダーウィンの聖書を所有していた人物の孫。 ナチの亡 霊 上 6 7 デヴィッドへ すべての冒険に ささ 捧ぐ 8 9 歴史的事実に関して 第二次世界大戦末期の数カ月間、ドイツの降伏を受けて、連合国軍の間に新たな争いが始 まった。ナチの科学者たちが所有していた科学技術の争奪戦である。英国、米国、フランス、 ソ連の間で繰り広げられた戦いでは、自分たちの国の利害が最優先された。数々の特許が盗ま れ、強奪の対象は新しい真空管、珍しい化学物質やプラスチック、さらには紫外線で低温殺菌 やみ された牛乳までに及んだ。しかし、最も重要な機密事項に関わる特許は、極秘プロジェクトと いう深い闇の中に葬り去られ、日の目を見ることはなかった。その一つである「ペーパーク リップ計画」では、V2ロケット弾の製造に関与した何百人というナチの科学者たちが、秘密 裏に米国国内へと移送されたという。 どうくつ だが、ドイツ人もやすやすと自分たちの技術を手放したわけではない。第三帝国再興の期待 を胸に抱きつつ、秘密を守るために戦った。科学者たちは殺害され、研究所は破壊され、計画 の青写真は洞窟に隠されたり、湖の底に沈められたり、地下墓地に埋められたりした。連合国 軍の手に渡るのを阻止するためである。 連合国軍の調査は困難を極めた。ナチの実験室や武器研究所は数百カ所にのぼり、ドイツ、 10 11 なぞ オーストリア、チェコスロヴァキア、ポーランド各地の、多くは地下に設置されていた。その 中でも最も大きな謎に包まれていたのが、小さな山間の町ブレスラウ郊外の元鉱山である。こ の施設で行なわれていた研究は、暗号名「ディー・グロッケ」 、すなわち「釣鐘」と呼ばれて いた。周辺の住民たちの間では、奇妙な光を目撃したとの報告、原因不明の病気や死亡例が記 録されている。 鉱山にはソ連軍が一番乗りを果たした。だが、施設はもぬけの殻だった。発見されたのは研 究に携わっていた六十二名の科学者全員の射殺死体だけ。実験装置は、いずこともなく姿を消 していた。 科学的事実に関して 事実として確認できるのはただ一点。「釣鐘」は実在していたことだけである。 「事実は小説よりも奇なり」という。本書の中で提示した量子論、知的デザイン説、進化に関 する議論は、すべて事実に基づいている。 12 13 進化は生物学の根幹を成すものであり、それによって生物学が 新たに発展した理論に基づく科学という位置づけを得たとする と チャールズ・ダーウィン — これは科学なのだろうか、それとも信仰なのだろうか。 — アルバート・アインシュタイン — 信仰心を持たない科学には行き着く先がない、科学的視点を持 たない信仰心には見る目がない。 アドルフ・ヒトラー — 私が神から特別に保護されていないという証拠はあるのか。 一九四五年 14 一九四五年 15 一九四五年 時二十二分 五月四日 午前六 ようさい 要塞都市ブレスラウ ポーランド ひじ じめじめとした下水道を流れる汚水に、死体が浮かぶ。膨はれ上がった男の子の遺体には、ネ ズミにかじられた跡がある。靴も、ズボンも、シャツも、剝ぎ取られている。敵軍に包囲され た街中では、何であろうと無駄にはできない。 プ・シュポレンベルクが死体を肘でどかすと、水面に浮かんだ汚 親衛隊の上級分隊長ヤーはコ いせつぶつ ぬ 物が動く。動物の死体、排泄物、血、胆汁。濡らしたスカーフを鼻と口に巻いていても、悪臭 の侵入を防ぐ役には立たない。大いなる戦争も、末路はこのざまだ。強大な権力を誇った者た ごうおん ちも、脱出のために下水道をさまよう始末。しかし、彼は指令を受けていた。 轟音が二発、上空から街中に響き渡る。爆発音が響くたびに、ヤーコ ソ連軍の放った大砲の プは内臓にまで達するような衝撃を受けた。ソ連軍は街へと通じるバリケードを打ち壊し、飛 たる 行場を爆撃した。今この瞬間も、戦車が丸石で舗装された道をならす中、カイザー通りに輸送 機が次々と着陸している。二列に並んで炎上するガソリンの入った樽を目印にして、大通りは 臨時の滑走路へと役目を変えていた。樽から噴き上がる煙が、すでにかすんだ早朝の空をさら に薄暗くする。太陽の光はまだ差してこない。すべての街路で、すべての家で、屋根裏でも地 下室でも、戦闘が行なわれていた。 「それぞれの家屋が要塞としての機能を果たせ」 ひざ つ それが地方長官ハンケからブレスラウの住民に発せられた最後の命令だった。この街はでき る限り持ちこたえなければならない。第三帝国の将来がかかっている。 同じ責任が、ヤーコプ・シュポレンベルクの双肩にもかかっていた。 「マッハ・シュネル」ヤーコプは後続の者たちに急ぐよう促した。 特別撤収チームが、膝まで汚水に浸かり 彼の指揮するズィッヒャーハイツディーンスト — ながら、後を追ってくる。総勢十四名。全員武装しており、全員が黒い服を着用し、全員が重 つ い荷物を背負っている。列の中央では、かつて北海の造船所で働いていた四人の屈強な男が、 肩に担いだ長い棒に吊るして巨大な木箱を運んでいた。 ドイツとポーランドの国境付近に広がるズデーテン山地、その山奥にあるこの小さな街に、 ソ連軍が激しい攻撃を仕掛けているのには理由がある。ブレスラウの要塞は、街の後方にある 山地への入口を守る役割を果たしている。この二年間、グロース・ローゼンの強制収容所から 連れてこられた労働者たちにより、近隣の山頂が掘り下げられていた。何百キロにも及ぶトン 16 一九四五年 17 ネルが人力と発破で掘削された。それはとある秘密のプロジェクトのためだった。連合国軍の 調査の目を逃れるために、地下深くに隠す必要があったのだ。 ーゼ」……すなわち「巨人」計画。 その名は「ディー・うリ わさ 噂 が漏れてしまっていた。ヴェンツェスラス鉱山の近くに住む村人の一 しかし、それでも 人が、病気の話を伝えたのだろう。施設から十分に離れた場所の住民の間で突如発生した、不 思議な疫病のことを。 研究を完成させるために、もう少しだけでいい、時間があったら…… その一方で、ヤーコプ・シュポレンベルクの心の中には、不満も渦巻いていた。彼は機密プ ロジェクトの内容についてすべてを関知しているわけではなかった。知っているのは「クロノ ス」という暗号名だけだ。それでも、ヤーコプは何が行なわれているのかは薄々感づいてい た。実験に使用された死体を目にしたことがある。悲鳴を耳にしたこともある。 〈悪魔の所業〉 ヤーコプの頭に浮かび、彼の全身の血を凍りつかせた言葉だ。 彼は科学者たちを処刑することに、何のためらいも感じなかった。六十二名の男女は、研究 所の外に連れ出されると、それぞれ頭部を二発撃ち抜かれた。ヴェンツェスラス鉱山の奥深く で何が起きていたのか、その事実が外部に漏れてはならない。どんな発見があったのかも、決 して知られてはならない。ただし、一名だけ処刑を免れた研究者がいた。 ドクター・トーラ・ヒルシュフェルト。 つや 後ろを歩く彼女の立てる水音が、ヤーコプの耳に届く。彼女は両手首を背中で縛られ、部下 の一人に半ば引きずられながら進んでいる。女性にしては背が高い方だ。年齢は二十代後半。 胸は小さいが、腰回りは肉付きがよく、きれいな脚をしている。艶のある黒髪とは対照的に、 その肌は何か月も太陽の光を浴びずに地下の研究所で過ごしていたせいで、ミルクのように白 い。ほかの科学者たちと一緒に、彼女も抹殺される予定だった。しかし、彼女の父親でプロ ジェクトの監督者でもあった上級勤労指導者フーゴ・ヒルシュフェルトが、最後の最後になっ て汚れた血筋の本性を表したのだ。ユダヤの血の混じった家系。彼は研究を記録したファイル を破棄したばかりか、地下のオフィスを爆破しようと試みたが、計画を実行に移す前に警備員 によって射殺された。娘にとって幸運だったのは、研究を継続するために、「釣鐘」に関する だれ すべての知識を有する人物を生かしておく必要があったことだ。父親と同様に天才的な頭脳を 持つ彼女は、ほかの科学者の誰よりもこの研究について熟知していた。 しかし、この女をなだめすかすのには手間がかかりそうだ。 ヤーコプが目を向けるたびに、トーラは怒りに燃えた目でにらみ返してくる。まるで燃え盛 る溶鉱炉からあふれる熱気のように、彼女の目からは憎悪の念がほとばしっていた。だが、い ずれはこの女も協力するだろう……父親がそうだったように。ヤーコプはユダヤ人の扱い方を 心得ていた。特に、血の混じった者たちの扱い方は。ミッシュリング。彼らが一番始末に負え ない。ユダヤの混血。第三帝国の軍隊には、数十万人のミッシュリングが任務に就いている。 ユダヤ人の血を引く兵士たちが存在している。このような混血の者たちに役割を与え、命を奪 18 一九四五年 19 け う わなかったのは、ナチにしてみれば稀有な例外だった。それには特別な事情があった。これら のミッシュリングが、戦闘においては最も勇猛果敢な兵士であることが判明したのだ。彼らは 人種を超えて、第三帝国への忠誠を証明しなければならなかったからだ。 それでも、ヤーコプは決して彼らに信頼を置いていない。トーラの父親は彼の疑念が正し かったことを証明した。未遂に終わったフーゴによる破壊工作も、ヤーコプにしてみれば想定 の範囲内だった。ユダヤ人どもを信用してはならない。抹殺されるべき連中なのだ。 しかし、フーゴ・ヒルシュフェルトの助命を求める書類には、長官自らによる署名が記され ていた。そのため、父親とその娘だけではなく、ドイツ国内のどこかに住んでいるらしい年老 いた両親までもが、死を免れることとなった。ミッシュリングに対するヤーコプの不信の念は 根が深かったが、その一方で長官のことは信奉していた。長官の命令には一字一句従わなけれ ばならない。 「研究の継続に必要な装備だけを鉱山から運び出し、残りは破壊すべし」 それはつまり、娘の命を救うことでもあった。 そして赤ん坊の命も。 うぶ ぎ 荷物と一緒に運ばれていた。ユダヤ人の 生まれて間もない赤ん坊は、産着にくるまれたまおま とな 新生児。まだ生後一カ月にも満たない。逃亡中は大人しくしているように、軽い鎮静剤を投与 されていた。 くし この子供の体内に、悪魔の所業が宿っている。ヤーコプが激しい嫌悪感を覚える真の原因が ここに存在する。第三帝国のすべての希望が、この小さな手に — ユダヤ人の乳児の手に託さ ひとみ れている。そう思っただけで、ヤーコプは吐き気を催した。こんな赤ん坊など、銃剣で串刺し にしてしまいたい。だが、命令は命令だった。 瞳 には、激しい それに、トーラはその赤ん坊から片時も目を離そうとしなかった。彼女の 怒りと強い悲しみが入り混じっている。父の研究を手伝う以外にも、トーラには赤ん坊の育て の親としての役割があった。優しく揺すりながら寝かしつけ、ミルクを与えてきた。トーラが ヤーコプの指示に従っているのは、この子供の存在があるからに過ぎない。赤ん坊を殺すと脅 されるに至ってようやく、彼女はヤーコプの命令にしぶしぶながらも同意したのである。 上空で迫撃砲の砲弾が爆発する。耳をつんざくような爆音が鳴り響く中、全員が思わず膝を ついた。頭上のセメントにひびが入り、小さな破片が汚水に降り注ぐ。 ヤーコプは小声でののしりながら、再び立ち上がった。 わき 脇に見える入口を指差した。 副隊長のオスカル・ヘンドリクスが隣に並ぶと、前方の 「あのトンネルへと進みます、分隊長。かつて増水時に備えて造られた放水路です。市の地図 によれば、あの水路が川に合流する地点は、聖堂島からそう遠くはありません」 ヤーコプはうなずいた。島のすぐ近くには、カムフラージュを施された二隻の小型砲艦が密 かに待機している。操縦するのは別の部隊。もうそれほど距離はないはずだ。 上空からのソ連軍の爆撃が激しさを増す中、ヤーコプは先頭に立ってさらに先を急いだ。激 化する爆撃は、市内への総攻撃の合図だろう。市民軍の降伏は時間の問題だ。 横へと延びるトンネルの入口に到達すると、ヤーコプは汚水の流れに別れを告げ、セメント 20 一九四五年 21 ふん にょう でできた放水路の護岸へと上った。一歩進むたびに、軍靴の底からピチャピチャと音が聞こえ る。ほんの一瞬、糞 尿 と汚泥の腐臭が強まった。彼との別れを惜しんで、下水路の底から追 いかけてくるかのようだ。 彼の部隊も後に続く。 ヤーコプはセメントで造られた放水路の内部を、手に持った懐中電灯で照らした。ここの空 気の方が、わずかではあるが、まだましだろうか。気力を振り絞ると、ヤーコプは光が照らす 方向へと進んだ。脱出まであと一歩のところまで来ている。ここまで到達できれば、任務は完 ころ 了したも同然だ。網の目のように張り巡らされたヴェンツェスラス鉱山の地下通路にソ連軍が わな 何とかたどり着けたとしても、その頃には自分たちの部隊はシレジアを横断中だ。ソ連軍への そうかい 歓迎のしるしとして、鉱山内の研究所の通路には、無数の罠を設置してある。ソ連軍も連合国 軍も、新たに死体の山を築くだけだろう。 さらに爽快な空気があることを願って先へと そんな思いに満足感を覚えながら、ヤーコプこは うばい 進んだ。セメントのトンネルは、徐々に下り勾配になってきた。爆撃の合間の不気味な静けさ に後押しされるかのように、部隊の歩調が速まる。ソ連軍は間もなく総攻撃を仕掛けてくるだ ろう。 きわどい勝負になりそうだ。川を自由に航行できるような時間は、あまり残されていない。 彼のはやる気持ちを感じ取ったかのように、赤ん坊がかすかな泣き声をあげ始めた。鎮静剤 の効き目が薄れてきたのだろうか、泣き声は次第に甲高くなってくる。ヤーコプは衛生兵に対 して、弱い薬を与えるように指示していた。赤ん坊の命に万が一のことがあってはならないか らだ。だが、それがそもそもの間違いだったのではないだろうか…… 泣き声はますます激しさを増していく。 北の方角で、迫撃砲の爆音が響いた。 泣き声は悲鳴に近くなった。トンネル内の石の壁に反響する。 「子供を静かにさせろ!」ヤーコプは赤ん坊を抱えている兵士に向かって命じた。 おび やせ細って血の気のない顔をしたその兵士は、肩に掛けた荷物を降ろそうとしてまごつく間 に、かぶっていた黒い帽子を落としてしまった。赤ん坊を荷物の中から出そうとするものの、 怯えた泣き声は大きくなるばかりだった。 「わ、私に任せて」トーラが申し出た。肘をつかんでいる別の兵士を振りほどこうとしてい る。 「あの子には私が必要なのよ」 赤ん坊を抱いた兵士は、ヤーコプの方に視線を向けた。地上は静寂が支配している。トンネ ル内には、火のついたような泣き声がこだまする。 うなずいた。 顔をしかめながら、ヤーコプひは も 紐が切断される。血流が止まって冷たくなった両手をこすり合わ トーラの手首を縛っていた せながら、トーラは子供に向かって手を差し出した。兵士はほっとしたような様子で、厄介な 荷物を手放した。トーラは片方の腕で赤ん坊を抱きかかえると、もう一方の手で頭を支え、優 しく揺すった。顔を近づけながら、赤ん坊をのぞき込む。言葉にはならない音に、優しい気持 22 一九四五年 23 ちをたっぷり込めながら、泣き叫ぶ子供の耳にささやきかける。彼女の全身が、赤ん坊を包み ながら溶けていくようだった。 ゆっくりと、赤ん坊の悲鳴はしゃくりあげるような泣き声へと変わっていった。 満足すると、ヤーコプはトーラを監視していた兵士に合図した。兵士はルガーを取り出す と、銃口をトーラの背中に押しつけた。赤ん坊が泣きやんで静かになると、一行はブレスラウ の地下を走る通路をさらに進んだ。 やがて、下水の悪臭に代わって煙のにおいが周囲に立ち込め始めた。懐中電灯の光の先に見 える煙の幕は、放水路の出口に違いない。大砲の爆音は聞こえてこないが、機関銃の銃声は絶 え間なく響いている。主戦場は東の方角だ。すぐ近くから聞こえるのは、水が岸に打ち寄せる 音だけだ。 ヤーコプは部下に向かってトンネル内の今の位置から動かないように合図すると、通信兵を 呼んで出口の方向を指差した。 「船に信号を送れ」 通信兵は素早くうなずくと、前方へと小走りに進み、煙の中へと姿を消した。ほんの一瞬の 間、光が数回点滅し、すぐ近くの島へと暗号を送信した。船が水路を横切って彼らのもとに到 着するまで、一分もかからないだろう。 ヤーコプはトーラの方に目を向けた。彼女はまだ子供を抱いている。赤ん坊は再び静かにな り、目を閉じていた。 トーラはヤーコプの視線を受けてもひるまない。「父が正しかったことは十分認識している ようね」静かな、それでいて確信を持った口調だった。トーラの視線は一瞬、密閉された木箱 の方に移ったが、再びヤーコプをにらみつけた。「あなたの顔に書いてあるわ。私たちのした ことは……足を踏み入れてはいけない領域を侵してしまったのよ」 「そうした判断を下すのは、私の役目でもなければ君の役目でもない」ヤーコプは応じた。 「じゃあ、誰の役目なの?」 ヤーコプは首を横に振ると、目をそらした。彼に対する命令は、ハインリッヒ・ヒムラー長 官から直々に与えられたものだった。疑問を抱くことなど許されない。ヤーコプはトーラの視 ぼうとく 線をはっきりと感じていた。 「神と自然に対する冒瀆じゃないの」トーラの声がかすかに聞こえた。 その時、兵士から名前を呼ばれたおかげで、ヤーコプはトーラの問いかけに答える必要がな くなった。 「船が来ます」放水路の出口から戻ってきた通信兵が告げた。 ヤーコプは大声で最後の命令を発すると、部下たちを配置した。トンネルの出口まで進む と、オーデル川へと急傾斜で落ち込む護岸の上へと出る。ここから先は暗闇に紛れて行動する ことはできない。東の空から太陽が昇り始めているが、市街から絶え間なく立ち上っている黒 煙が川面に低く垂れ込め、水の流れとともにゆっくりと移動している。煙幕が敵の目から姿を くらましてくれるだろう。 だが、それもあとどのくらい持つだろうか? 鳴りやまない銃声は、なぜか陽気な音楽を奏でているかのように聞こえる。ブレスラウの陥 24 一九四五年 25 落を祝福する爆竹のようだ。 下水道の悪臭も届かなくなったので、ヤーコプは濡らしたスカーフを剝ぎ取ると、きれいな 空気を胸いっぱいに吸い込んだ。鉛色をした水面に目を向ける。長さ六メートルほどの小船が —の機関銃が二 挺 装着されている ちょう 二隻、川面を横切りながら向かってくる。聞こえるのは低い規則的なエンジン音だけだ。二隻 の船首には、緑色のシートで覆われてはいるものの、MG せん とう 向けられる。顔つきが元のように硬く、無表情になる。自分と赤ん坊のための座席を探す間、 いながら身体のバランスをとった。彼女の目が、鉛色をした水面と低く垂れ込めた煙へと再び ミッシュリングであるに その時、ヤーコプはトーラが美しい女性であることに気づいた — もかかわらず。しかし次の瞬間、ブーツの先が石に当たってつまずき、トーラは赤ん坊をかば トーラはヤーコプの命令に従った。目は大聖堂に向けたままで、心の中は尖塔のさらに上の 空を思い描いているかのようだ。 て、ヤーコプの口調は和らいだ。 部下たちが二隻の船に乗り込んだことを確認すると、ヤーコプはトーラのもとに歩み寄っ た。 「さあ、船に乗って」厳しく命令を下すつもりだったが、トーラの顔に浮かんだ何かを見 我々が冒瀆することを恐れている神は、今この瞬間、どこにいるのだろうか? この街にいないことだけは確かだ。 いる。その合間に、泣き声と悲鳴が響く。 鳴りやまず、しかも次第に近づいてきている。物が砕ける音とともに戦車がゆっくりと走って トーラは赤ん坊を両腕で抱きかかえたまま、監視役の兵士とともに少し離れた位置に立って いる。彼女の視線も、煙でかすんだ空に光を発する尖塔に向けられていた。銃声は依然として 一隻目の船が接岸した。単調な進軍から解放された喜びと、脱出できるというさらなるうれ しさを感じながら、ヤーコプは部下たちを促して二隻の船に乗せた。 きたら、どれほど幸せだろうか。 水に濡れた服を通して入り込んでくる夜明けの空気が冷たく感じられ、ヤーコプは鳥肌が立 つと同時に寒気を感じた。この地から遠く離れ、過去数日間の記憶をすべて消去することがで ェルトの最後の言葉が、ヤーコプの耳の中にこだまする。 トーラ・ヒルシュフ ぼうとく 〈神と自然に対する冒瀆じゃないの〉 会が建てられている。 尖 塔 の 先 端 に 当 た っ て 反 射 す る。 雲間から漏れた太陽の光が、大聖堂の上にそびえる二本の ヤーコプは思わず上に目を向けた。名前の由来となったその大聖堂を含めて、島には六つの教 をよけながら近づいてくる。 鮮やかな緑色をした鉄製の橋が架けられた。二隻の小型砲艦は、橋の下から突き出た石の桟橋 対岸の砂州とつながってしまっていたからだ。同じく十九世紀に、島とこちらの川岸とを結ぶ る。「聖堂島」という名前 船の後方には、島の黒い塊をかろうじて目でとらえることができ たいせき がつけられているものの、そこは実際には島ではない。シルトが堆積したため、十九世紀には のがはっきりと見て取れた。 42 26 一九四五年 27 う げん その目はまるで石のように冷たい光を発していた。 右舷に座ると、監視役の兵士も後に続いた。 トーラが ヤーコプはトーラの向かい側に腰を下ろし、船長に出発するよう合図をした。「遅れは許さ れない」ヤーコプは素早く川面に不審な影がないか調べた。船は西へと向かっている。東側の 戦線から離れる方向に。日の出を迎えた太陽から離れる方向に。 ヤーコプは腕時計を確認した。ここから十キロ離れた現在は使用されていない飛行場で、ド イツ軍のユンカース 輸送機がすでに待機しているはずだ。ドイツ赤十字の塗装が施され、 」 — 念のため、さらに船は旋回を続けた。部下たちも両岸に人影がないか目を凝らした。だが、 いうことなのだろう。 もっと強い人間だと思っていた。それでも、結局のところ、彼女には選択の余地がなかったと ら子供を守るために、自らの手で子供の口と鼻をふさいで窒息死させるのだ。だが、トーラは こんな途方もない行動に出るとは、だからミッシュリングは当てにできない。ヤーコプは以 前にも似たような光景を目にしたことがあった。ユダヤ人の母親たちは、より大きな苦しみか あの父親にしてこの娘か…… で殴りつけた。 水面に湧き上がってくる泡が見つかれば、居所を突き止めることができる。だが、兵士たち こぶし を満載した船の残した航跡のせいで、水面が波立ってしまっている。ヤーコプは手すりを 拳 何も見えわない。 は船長に対して、旋回するように合図した。 ヤーコプは船から身を乗り出して水中を探した。ほかの兵士たちは立ち上がっている。ボー トが激しく揺れる。ヤーコプの目に映るのは、鉛色の水面に反射する自分の姿だけだった。彼 ヤーコプは兵士に体当たりをすると、その腕をねじり上げた。「子供に当たったらどうする んだ」 突然の動きに不意をつかれた監視役の兵士は、身体をひねると水面に向かって銃を乱射し た。 だが、彼の制止は間に合わなかった。 け 蹴った。赤ん坊 素早く座り直すと、トーラは低い手すりにもたれかかり、足で船の床を強く を胸にしっかりと抱きかかえたまま、トーラは背中から冷たい川の中へと落ちていった。 ヤーコプはトーラが何を考えているか察知した。「やめろ トーラは赤ん坊に顔を近づけると、柔らかな産毛の生えた頭に優しくキスをした。顔を上げ ると、ヤーコプと視線を合わせる。その目には敵意も怒りもなかった。あるのは決意だった。 船の反対側で動きがあったのを感じ、ヤーコプは我に返った。 エンジンの回転音が上がるにつれて、船は旋回しながら水深のある地点へと進んでいく。こ こまで来れば、ソ連軍も我々を止めることはできない。任務は成功だ。 ラージュだ。 医療物資の輸送用として偽装してある。万が一、敵の攻撃に遭遇した場合に備えてのカモフ Ju 52 28 一九四五年 29 彼女の姿は見えない。上空を飛び交う迫撃砲弾の甲高い音が聞こえる。これ以上は時間を無駄 にできない。 ヤーコプは部下に座るよう合図した。彼は西の方を、輸送機が待機している方角を指差し た。まだ木箱と大量のファイルが残っている。大きな痛手には違いないが、望みが絶たれたわ けではない。子供が一人誕生したということは、また生まれる可能性があるのだ。 「行け」ヤーコプは命じた。 二隻の船は再び目的地を目指して動き出すと、エンジンを全開にした。 次の瞬間、炎上するブレスラウの街を後にして、二隻の船は煙幕の中へと姿を消した。 船が遠ざかっていく音を、トーラの耳ははっきりととらえていた。 前世紀に造られた鉄製の橋を支える石造りの橋脚の陰に隠れながら、トーラは川を渡ってい る。泣き声が漏れることのないように、片手で赤ん坊の口をしっかりと押さえながら、鼻から 十分な呼吸ができていることを祈っていた。しかし、子供は衰弱していた。 そして、彼女自身も。 でき し 銃弾が首の脇を貫通し、傷口から血が大量に流れていた。川の水が濃い赤に染まっていく。 視界が次第に狭くなる。それでも、トーラは赤ん坊が水中に沈まないように、しっかりと抱き かかえていた。 ほんの少し前まで、川の中に身を投げた時までは、赤ん坊を道連れにして溺死するつもりで いた。しかし、冷たい川の水と首筋の激しい痛みに、固い決意の何かが揺らいだ。水の中で トーラは、大聖堂の尖塔に輝く光を思い出した。自分の信じる救いとは違う。自分の民族の遺 産とは違う。だが、真っ暗な闇としか思えない現状の先にも、必ず明るい光があることを教え てくれた。同じ人間同士が殺し合うことのない世界があることを。母親が子供を溺死させずに すむ世界があることを。 彼女は足で水を蹴って深く潜ると、川の流れに身を任せて橋の方へと向かった。水中に潜っ ている間は、自分の肺の中の空気を使って、子供に呼吸をさせた。赤ん坊の鼻を指でつまみ、 唇を通して自分の息を吹き込んだのだ。死を決意していたものの、ひとたび生きるという意欲 に火がつくと、その炎は大きく燃え上がり、彼女の胸いっぱいに広がった。 赤ん坊にはまだ名前すらない。 名前もないまま死ぬなんて、そんなことは許されない。 水の流れに合わせて足を蹴り出しながら、トーラは赤ん坊の口に少しずつ空気を送り込ん だ。水中はまったく視界がきかない。石造りの橋脚の一本にたどり着き、捜索の目から逃れる ことができたのは、幸運としか言いようがなかった。 そして船が遠ざかり始めた今、トーラにはこれ以上待つ時間は残されていなかった。 激しい出血は止まらない。何とか意識を保っていられるのは、水が冷たいおかげだ。だが同 30 一九四五年 31 時に、その冷たい水が、衰弱した赤ん坊から命を吸い取っている。 ま ひ 麻痺 トーラは岸へ向かって必死に水を蹴りながら泳ぎ始めた。しかし、体力を失い、感覚が しているために、リズムが一定しない。トーラは赤ん坊を抱えたまま、水中に沈み始めた。 いけない。 トーラはもがいた。だが、水が急に重く感じられ、沈む力に逆らうことができない。 それでも、彼女はあきらめなかった。 靴のつま先が、川底の滑りやすい石に当たった。水中にいることを忘れて思わず大声をあげ ようとしたため、川の水が口の中に入り込んできてむせる。身体がさらに少し沈んだものの、 最後の力を振り絞って、泥に埋もれた岩を蹴った。頭が水面に浮かび、勢いのついた身体が岸 の方向へと流されていく。 川底が急勾配で浅くなってくる。 片手と片膝で身体を支えながら、トーラは水中から岸へとよじ登った。赤ん坊はもう片方の 手で首に巻きつけるようにして抱えている。ようやく岸に上がると、彼女は岩だらけの河岸へ とうつぶせに倒れ込んだ。手足を動かす力はもはや残っていない。首から流れ出る血が、赤ん 坊の身体を赤く染めていく。残されたかすかな意志の力で、トーラは赤ん坊を見つめた。 赤ん坊は動いていない。呼吸もしていない。 彼女は目を閉じて祈った。永遠の暗闇が、ゆっくりと彼女を包み込んでいく。 〈泣くのよ、とにかく泣きなさい〉 か細い泣き声を最初に耳にしたのは、ヴァリック神父だった。 彼と同僚の修道士たちは、聖ペテロとパウロ教会の地下にあるワイン貯蔵室の中にいた。昨 夜、ブレスラウ市街への爆撃が始まると同時に、ここへ避難したのだった。彼らはひざまずい て、島が爆撃の被害に遭わないようにと祈りを捧げていた。十五世紀に建設された教会は、国 境の街の支配者が幾度となく入れ替わる中、今日まで生き延びている。もう一度、この教会が 敬虔な祈りを捧げている最中のこ けいけん 破壊の魔の手から逃れることができるようにと、彼らは神の御加護を祈っていた。 修道士たちのもとに悲しげな泣き声が届いたのは、静かに とだった。 たず ヴァリック神父は立ち上がった。年老いた神父にとって、立ち上がるだけでも脚への負担が 大きい。 「どちらへ行かれるのです」フランツは訊ねた。 の ら 「私の名を呼ぶ会衆の声がする」ヴァリック神父は答えた。この二十年の間、彼は川べりに建 つ教会を訪れる野良猫や野良犬たちに、残飯を与えていた。 「今はそんなことをしている場合ではありませんよ」別の修道士が警告を発した。声は恐怖で 震えている。 32 一九四五年 33 長い人生を過ごしてきたヴァリック神父は、まだ年の若い修道士とは違い、死に対する恐怖 というものを感じなくなっていた。彼は貯蔵室を横切ると、背中を丸めながら短い通路へと 入った。通路は川のそばの扉へと通じている。かつてはこの通路を使って石炭が運び込まれ、 室内に貯蔵されていた。だが、今ではオーク材の台の上にほこりをかぶって置かれているの は、きれいな緑色をしたボトルだった。 ヴァリック神父はかつて石炭の搬入口だった扉の前に立つと、かんぬきと掛け金を外した。 そして肩を当てて扉を押し開けた。 煙の強いにおいが鼻をつく。その時、再び泣き声を耳にして、神父は下の方に視線を向け た。 「ああ、かわいそうに……」 川沿いの教会を支える控え壁の扉からほんの数歩離れた場所に、女性が一人倒れている。身 動き一つしない。神父は女性のもとに駆け寄ると、再びひざまずいた。新たな祈りの言葉が口 から漏れる。 神父は女性の首に手を伸ばし、まだ生きているかと脈を探ろうとしたが、手に触れたのは血 と傷跡だけだった。女性は全身ずぶ濡れで、凍りついたように冷たくなっている。 すでに息を引き取っていた。 その時、再び泣き声が聞こえた……女性の身体の陰からだ。 神父が回り込むと、女性の身体に半ば下敷きになった赤ん坊の姿が見えた。全身が血まみれ になっている。 寒さで青ざめており、女性と同じく全身が濡れていたが、赤ん坊はまだ生きていた。神父は 女性の遺体の下から赤ん坊を抱え上げた。濡れた産着が、吸い込んだ水の重みで地面に落ち る。 男の子だ。 小さな男の子の身体を素早く調べる。この子供の身体からは出血がない。 母親の血を浴びただけだ。 神父は悲しみを帯びた目で女性を見つめた。この世には死があふれている。神父は川の対岸 に目を向けた。ブレスラウの街は炎上し、明け方の空を煙が覆い隠している。銃声がひっきり ふ なしに聞こえる。この女性は川を泳いで渡ってきたのだろうか? この子供を救うためだけ に? ぬぐ 「安らかに眠りなさい」神父は女性に語りかけた。「あなたは務めを果たしたのです」 ん坊の身体についた血を拭い、水を拭き取っ ヴァリック神父は石炭の搬入口まで戻った。そ赤 ろ てやる。子供の髪の毛は柔らかく、まだ生え揃っていないが、雪のように白い。せいぜい生後 一カ月といったところだろう。 は ヴァリック神父が手当てをしているうちに、赤ん坊の泣き声が大きくなり、顔はしわくちゃ になった。それでも、男の子は弱々しく、手足はだらりと垂れ下がり、身体も冷たいままだ。 「泣くがいい、小さな命よ」 腫れ上がった目を開いた。ヴァリック神父の目に、青い瞳 神父の声が届いたのか、赤ん坊は 34 一九四五年 35 が映る。鮮やかな青い色をした瞳。新生児の瞳は青いことが多い。しかし、この瞳が持つ青空 のような色は、成長してもあせることがないのではなかろうか……ヴァリック神父はなぜかそ んな気がした。 い、ヴァリック神父は赤ん坊を抱き寄せた。その時、彼の目は見 身体を温めてあげようと思 ヴアス・イスト・ダス 慣れない色をとらえた。 〈今のは何だ?〉……神父は男の子の足を持ち上げた。かかとに、誰か が記号を書いたようだ。 は記号をこすって確かめた。 いや、書いたのではない。神い父 れずみ 刺青だ。 赤紫色のインクで彫られた 神父は記号を凝視した。カラスの足跡のように見える。 ヴァリック神父は青年時代の大半をフィンランドで過ごしていた。そのため、記号の正体は すぐにぴんときた。古代スカンジナヴィア語のルーン文字の一つだ。もっとも、何というルー まゆ ン文字なのか、何を意味する文字なのかまではわからない。神父は首を横に振った。誰がこん な愚かなことを? 神父は母親の方を見ると、眉をひそめた。 もはや関係ない。親の罪まで子供が背負う必要はない。 神父は赤ん坊の髪の毛に残った最後の血を拭き取ると、温かいローブでくるむように抱き締 めた。 「かわいそうに……この世に生まれたばかりなのに、こんなむごい歓迎を受けるとは」
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