生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 第1章_大気汚染の歴史 目 次 Ⅰ 二次世界大戦前の大気汚染 Ⅰ. Ⅱ. 高度経済成長期前半の大気汚染 Ⅲ. 高度経済成長と公害の激化 Ⅳ. 石油危機と安定経済成長期以降の大気汚染 Ⅴ. 都市・生活型大気汚染 Ⅵ 地球化時代の大気汚染 Ⅵ. Ⅶ. 環境省の発足と大気汚染対策 資料:「日本の大気汚染の歴史」 独立行政法人 環境再生保全機構 • 1880年代(明治10年代) 足尾銅山鉱毒事件 • 足尾銅山 慶長15年(1610)に発見 小規模に生産 ●「鉱山近代化」 : 1877年、古河市兵衛による足尾銅山の経営 ●鉱山経営が順調に発展 : 足尾鉱毒事件が発生 ●「鉱毒問題」 : 洪水になると渡良瀬川で魚の死亡 ●坑木や燃料として周辺の山林を乱伐 : 硫酸を含んだばい煙(SO2など) : 周辺の森林は大きな被害 ●丸裸になって保水力を失った山 : 洪水が頻繁 ・洪水のたびに渡良瀬川 : 鉱毒のため魚が死んで漁業が不可能 ●明治18年頃 : 鉱毒の影響が下流農民に現れ始める : ・明治29年の渡良瀬川の大洪水 : 鉱毒問題は一挙に拡大 ●田中正造の環境保護運動 ・明治34年に田中正造の天皇直訴事件 ●「公害の原点」 ・足尾銅山は昭和48年に閉山 担当者 : 久野春子 Ⅰ. 第二次世界大戦前の大気汚染 • • • • • • • • 1880年代 (明治10年代) 足尾銅山鉱毒事件 1900年頃 ・愛媛県別子銅山における煙害 1910年頃 ・日立鉱山における煙害 1880~1920年頃 ・工場立地による局地的大気汚染 1880 1932年 1880~1932年 ・公害反対運動と大気汚染防止措置 1937~(昭和12年~)昭和初め ・安中鉱毒事件 ・ 1900年頃 愛媛県別子銅山における煙害 ● 1691年(元禄4年)-別子銅山 採鉱開始 ● 1893年(明治26年)、愛媛県新居浜で別子銅山からの銅精錬排ガスに よる大規模な水稲被害が発生 ● 4村(新居浜、金子、庄内、新須賀)農民代表が愛媛県に被害を訴え精 金 賀 農 が 被害 錬所に損害賠償を要求 ● 1904年に新居浜沖合約18kmの無人島「四阪島(美濃島、家ノ島、明 神島、鼠島の4島からなる無人島)」に精錬所を移転しています。 ● しかし、操業開始後から瀬戸内海の気流により愛媛県越智、周桑、新 居、宇摩4郡で麦・稲作に被害をもたらす煙害が発生 ◎ 賠償金支払い、産銅量制限を含む厳しい協定 ● 1924年(大正13年)11月 - 四阪島精錬所に大煙突完成 ◎ 住友鉱業はその後独自に硫黄酸化物対策の技術開発 1929年、ペテルゼン式硫酸製造装置を導入し排ガス中の二酸化硫黄 (SO2)の半量から硫酸を製造し、 さらに1939年に硫黄酸化物をアンモニアで中和する技術(排煙脱硫 技術の一つ)を導入した。 ● 1973年(昭和48年)3月 、閉山 1 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 ・ 1910年頃 日立鉱山における煙害 ● 1905年(明治38年) 久原房之助が経営に乗り出す ● 1907(明治40)年3月、茨城県日立鉱山北側 栽培されている蕎麦(ソ )に激しい被害 栽培されている蕎麦(ソバ)に激しい被害 ● 翌年には被害はさらに拡大 農作物は蕎麦に加えて 大麦、小麦、大豆、栗、稗及び疏菜 ● 山林は松、栗に加えて杉、檪(クヌギ)、雑木林等 ● 明治41年10月には地元住民と日立鉱山鉱業人との間には 煙害の植物被害の補償に いて 条に及ぶ契約書 煙害の植物被害の補償について9条に及ぶ契約書 ● 日立鉱山は、高煙突が排煙の希釈には効果的な 1914年に標高325mの山上に高さ 156mの大煙突を立て大気汚染の拡散 ● 1981年(昭和56年) 閉山 ・ 1880年~1920年頃 工場立地による局地的大気汚染-2 (2) 浅野工場(後の浅野セメント東京工場)のダスト飛散 1883年(明治16年): 工部省セメント工場の払い下げを受け東京深川で創業 ●1917年(大正六年)神奈川県橘郡田島村で 川崎工場の操業を開始 ★田島村、太子川原村:農作物、養殖貝類、海苔への被害 ■神奈川県知事:場操業中止を訴える村民陳情で工場に改善 ・浅野セメントは賠償金の支払い (3) 火薬製造工場の排ガス:松枯れ: 火薬製造工場の排ガス 松枯れ アームストロング社が神奈川県中郡平塚町で操業 (4)1912年の大阪市営九条発電所のばい煙問題 1916年大阪アルカリ会社の二酸化硫黄(SO2)排出 周辺農地に被害を与え裁判問題に発展 担当者 : 久野春子 ・1880年~1920年頃 工場立地による局地的大気汚染-1 (1)鈴木製薬所(現 味の素)逗子工場: 1908年(明治41年):神奈川県逗子市に立地 小麦、塩酸、重炭酸ナトリウム 「味の素」製造 ●塩化水素の大気放出 ★農民からの苦情 ●最終的に多摩川河口の川崎町に移転 ★1914年9月操業開始後も被害が発生 ■賠償支払いを開始 ◎1935年、密閉式分解釜導入で被害が解消 ・ 1880~1932年 (明治13年~昭和7年) 公害反対運動と大気汚染防止措置 ● 大都市では、大気汚染が進行 紡績業等近代産業の立地 ・紡績業等近代産業の立地 ・鍛冶業等各種の町工場が集中 ・大正年間には火力発電所の立地等 ★ 大阪市内では市民の公害苦情が絶えない ▲大阪府では数次にわたり公害を規制する府達を発す。 ▲ 1880年に発せられた府達:初めて「公害」という文字 ▲ 1927年に発足した大阪都市協会煤煙防止調査委員会 ・ばい煙に関する被害調査 ・ばい煙防止方法の調査研究 ▲ 1932年(昭和7年)には、 ・日本最初のばい煙防止規則(大阪府令)が制定 ● しかし、この規則も第2次世界大戦により 十分な効果を発揮できないまま戦後を迎えた。 2 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 1937~ (昭和12年~ ) 安中鉱毒事件 ●1937年(昭和12年)に設立 : 群馬県安中市 ・日本亜鉛精錬株式会社(昭和16年:東邦亜鉛株式会社) ● 精錬所から排出される鉱煙、粉塵、廃液など ★周辺地域の動植物と住民に被害 原因物質はカドミウム等:イタイイタイ病 ★付近の田畑で 稲や桑の立ち枯れ、カイコの生育不良 ★ 碓井川の魚の大量死など ■ 1972年(昭和47年)農業経営と生活が破壊:周辺農民104人: 総額15億8千万円の損害賠償を会社に求めた裁判 ★ 1982年(昭和57年3月)の判決は 会社の責任を認めたが、損害の認容額は請求の1割以下 ■ 1982年4月12日(昭和57年)、 99世帯が控訴 ・14億120万円の損害賠償を東邦亜鉛側に求めた。 ■ 1985年5月24日、東京高裁による和解勧告:両者は協議 ◎ 1986年9月22日、和解が成立:住民らに4億5000万円を支払う ◎ 同日、「安中製錬所の公害防止に関する協定書」が成立 ・ 1955~1964年 高度経済成長による産業の重工業化と 大気汚染 ● 「全国総合開発計画」に基づいて 沿岸各地に、火力発電所・石油コンビナート・ 大規模工場がぞくぞくと建設 ● 東京・大阪・名古屋・福岡・川崎・横浜・神戸などで スモ グやSO2による大気汚染が深刻化 スモッグやSO ★ ぜん息等の健康被害 担当者 : 久野春子 Ⅱ. 高度経済成長期前半の大気汚染 ・ 1955~1964年 高度経済成長による産業の重工業化と大気汚染 ・ 1960年代前半(昭和30年代) 四日市の大気汚染 96 年6月(昭和37年) ・ 1962年6月(昭和37年) ばい煙の排出の規制等に関する法律の成立 ・ 1960年代前半(昭和30年代) 四日市の大気汚染-1 • 三重県四日市市 ● 1959年(昭和34年)から 石油コンビナートの操業が開始 ●刺激性ガスに対する苦情が多発 ★ 翌1960年~ 周辺住民約1000人にぜん息の症状 ● SO2が主な原因物質 ★ その後、 ぜん息様の症状を訴える住民が増加 ●1963年6月頃に至ってその訴えが顕著 3 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 ・ 1960年代前半(昭和30年代) 四日市の大気汚染-2 ●四日市の大気汚染:1963~1964年頃に最悪の状態 塩浜地区のコンビナート稼動(1960年)に引き続いて 午起地区のコンビナートが稼動を始めた1963~1964年頃 ●当時四日市で使用された 重油の硫黄含有量は3%前後 年間の硫黄酸化物排出量は13~14万トン(SO2換算) ●1964年の二酸化硫黄(SO2)濃度 磯津地区 1時間値では全測定時間の3%が0 5 磯津地区:1時間値では全測定時間の3%が0.5ppm以上 以上 1時間値の現行環境基準値0.1ppmの 10倍である 1ppmを超えた日もあった。 ・ なお、同地区の1964年のSO2濃度の年平均値は、 0.075ppm(現行環境基準の概ね4倍弱に相当) 四日市公害の裁判 ■ 1964年頃から(昭和39年頃~) ・四日市の公害問題を裁判で解決する求め ・東海労働弁護団への相談をきっかけに 東海労働弁護 相談をき か 始まる。 ■ 1967年9月(昭和42年9月) ・磯津地区の公害病認定患者9人 ・第1コンビナート6社を相手に 第 ナ 社を相手 ・津地方裁判所四日市支部に提訴 ・これらの企業の排出した亜硫酸ガスが ぜんそくの発病要因である。 ・慰謝料と損害賠償の支払いを求める。 担当者 : 久野春子 住民運動 ■ 住民運動は ・異臭魚で深刻な被害をうけた漁民 ・工場近辺のばい煙や騒音、健康被害に 工場近辺のばい煙や騒音 健康被害に 悩む住民が中心 ● 第2コンビナートの操業の本格化 周辺住民にも被害が拡散し、大きな反発 ■ 住民運動が活発化 ・昭和38年7月、市議会の革新勢力や労働組 合からなる「四日市公害対策協議会」が結成 ・さまざまな住民運動が展開 • 1962年6月(昭和37年) ・ばい煙の排出の規制等に関する法律の成立 ▲ 通商産業省の基本的思考で立法準備を開始 ・大気汚染を公衆衛生問題としてのみ考えず、 ・産業の健全発展を図るべく同省所管とすべき ▲ 1961年から通商産業省と厚生省は本格的折衝 ★1962年6月「ばい煙の排出の規制等に関する 法律(以下「ばい煙規制法」と略記)」が制定 ▲ ばい煙規制法により、国が指定した地域 ・「すすその他の粉じん」及び「亜硫酸ガス又は 無水硫酸」の排出が規制 4 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 Ⅲ. 高度経済成長と公害の激化 ・ 1967年7月(昭和42年) ・公害対策基本法の成立 ・ 1968年6月(昭和43年) ・大気汚染防止法の成立 大気汚染防止法の成立 ・ 1969年(昭和44年) ・ SO2に係わる環境基準の設定と 達成に向けた 様々な対策 ・ 1970年 (昭和45年) ・光化学スモッグの頻発 ・ 1970年12月(昭和45年) ・公害国会の召集 環境庁の発足 ・ 1971年7月(昭和46年) ・環境庁の発足 ・ 1972年(昭和47年) ・四日市公害裁判の判決 ・ 1973年10月(昭和48年)・公害健康被害補償法の制定 ・ 1974年(昭和49年)・硫黄酸化物(SOX)総量規制の導入 ・ 1968年(昭和43年) 大気汚染防止法の成立 工場等からのばい煙の排出等を規制し、自動車 排出ガスの許容限度を定めること等により大気の 汚染を防止する ● 「旧ばい煙の排出の規制等に関する法律 (1962年)」を廃止して、 1968年6月に大気汚染防止法が成立 ● 大気汚染防止法の制定により、硫黄酸化物につ いては排出口の高さと地域に応じて排出基準が決 定されるK値規制が導入 • 担当者 : 久野春子 ・ 1967年7月(昭和42年) 公害対策基本法 • この法律は、第1章総則をはじめ全体が4章30カ条で構成 以下の各々の役割などが定められていた。 • ばい煙、汚水、廃棄物等の処理による公害防止のための事業者 の責務 • 国民の健康保護と生活環境保全に対する国の責務、 • 地域の自然的、社会的条件に応じた公害の防止に関する地方 公共団体の責務、公害防止の施策に協力する住民の責務 • 政府による環境基準の設定 • 国の大気汚染等に関する規制措置、地方公共団体による公害 防止のための施策の実施と市町村の行なう施策の総合調整 • 内閣総理大臣の都道府県知事に対する特定地域に係る公害防 止計画の策定指示 • 都道府県知事による公害防止計画の策定 • 公害防止事業費用の事業者による負担、総理府への公害対策 会議、環境庁への中央公害対策審議会、都道府県への都道府 県公害対策審議会、市町村への市町村公害対策審議会の設置 ・ 1969年(昭和44年) SO2に係わる環境基準の設定と達成に 向けた様々な対応策-1 ●硫黄分の少ない良質な燃料を使うようにする 1 硫黄分の少ない低硫黄原油を輸入 1.硫黄分の少ない低硫黄原油を輸入 2.石油を精製するときに硫黄分を取り除く(脱硫精製) 3.東京都が東京電力と公害防止協定を結ぶ 「硫黄分0.1 %の学期的な超低硫黄重油を使い、 SOxの排出量を一日7トンに押さえる」 4.通産省が低硫黄化計画を策定 5 「東京の空をきれいにするために」ホテル業界・ デパ 5.「東京の空をきれいにするために」ホテル業界 デパート業 ト業 界・銀行協会・貸しビル協会などが 低硫黄重油への切り替えに積極的に協力 6.工場やビルのボイラーの脱硫黄装置の普及、技術開発の努力 7.東京都は、わずか二年半で、SO2の環境基準(旧基準)を達成 5 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 四日市では、 ◎ 昭和41年 : 大協石油午起製油所 アメリカのガルフ・リサーチコーポレーション社と技術援助契約を組 み、完成させた「重油間接脱硫装置」を設置 ◎ 昭和42年12月 : 中部電力と三菱重工 通産省工業技術院に委託されて研究開発した 「活性酸化マンガン法脱硫パイロットランプ」を設置 ◎大協石油午起製油所が開発した重油間接脱硫装置 ・硫黄分3%の重油を1.7%の低硫黄重油にできる能力あり。 ・この重油間接脱硫装置は43年の第1期工事が着手され、 翌昭和44年(1969年)に稼動 1964年(昭和39年) 0.075ppm 1971年(昭和46年) 0.05 1975年(昭和50年) 0.00 1970 磯 津 担当者 : 久野春子 1980 1990 三浜小学校 2002 窯業研究所 ● 公害対策基本法では、 目標とす き環境の状況を環境基準として定め、 目標とすべき環境の状況を環境基準として定め、 その水準を達成することを目標として 規制その他の措置を講ずることが定められた。 ● 大気汚染に係る環境基準は、ターゲットを健康問題に絞る。 ● 硫黄酸化物の環境基準の設定: 1969年 :「1時間値の年間平均値が0.05ppmを超えないこと」等 ☆ この環境基準は、1970年の公害対策基本法の改正や 1972年に出された四日市公害裁判の判決を背景に、 その後得られた科学的知見に基づいて、 ● 硫黄酸化物の環境基準の改訂:1973年 二酸化硫黄について「1時間値の1日平均値が0.04ppm以下で あり、かつ、1時間値が0.1ppm以下であること」 ・ 1970年 (昭和45年) 光化学スモッグの頻発 四日市市の二酸化硫黄 年平均値( ppm ) ppm 0.10 ・ 1969年(昭和44年) SO2に係わる環境基準の設定と達成に向けた様々な対策-2 ● 1970年7月18日の人体被害 杉並区の東京立正高校 : 体育の授業中に生徒が倒れる 約40人が病院へ運ばれた。 練馬区、東京都や埼玉県など : 一万人以上が眼の刺激、呼吸困難を訴えた。 ● この人体被害は、ロスアンゼルスで問題となっていた光 化学スモッグの被害に酷似 ● 1970年7月19日の朝刊各紙は 初めての光化学スモッグ発生を伝えた。 ● 7月18日の事件を光化学スモッグと断定した根拠 この日の国設東京測定所のオキシダント濃度が 著しく高濃度 6 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 ・ 1970年(昭和45年) 公害国会の召集 ▲ 公害問題は政治においても大きな課題となり、 1970年前後からは国会でも集中的に審議 ▲ 1970年7月、閣議決定により内閣に総理大臣を本部長 とし、関係行政機関からの出向者15名からなる公害対 策本部が設けられ、併せて、関係閣僚からなる公害対 策閣僚会議が設置 ▲ この体制下で、公害関係法制の抜本的整備を目的と して、集中的な討議が行われた「公害国会」が召集 広範かつ画期的な内容の公害関連14法案が可決 ・ 1972年(昭和47年) 四日市公害裁判の判決 ● 激甚な大気汚染の中で生活する住民の多くが 各種の呼吸器障害を訴える。 ・その発症率は非汚染地区の2~3倍、あるいはそれ以上 その発症率は非汚染地区の2 3倍、あるいはそれ以上 ● 大規模な被害者の行動 : 1967年9月に四日市公害訴訟 ● 四日市公害裁判の判決は、1972年7月に出された。 ● 当時としては最新の技術によって防止措置を講じていたという 被告企業の主張を退ける。 ● 企業が人間の生命、身体に危険のあることを知り得る汚染物質の 排出については、 ★経済性を度外視し 世界最高の技術 知識を動員して ★経済性を度外視し、世界最高の技術・知識を動員して 防止措置を講ずるべき ★そのような措置を怠れば 過失は免れないこと、 ★また、因果関係については 疫学調査の結果から明らかであること 担当者 : 久野春子 ・ 1971年(昭和46年) 環境庁の発足 ▲ 公害問題について今後の最重点課題として取り組むことを 1971年の施政方針演説で表明した佐藤栄作内閣総理大臣の 強力なイニシアチブ ▲ それまで厚生省、通商産業省など各省庁に分散していた公 害 害に係る規制行政 規 政 一元的に所掌する+自然保護に係 す 自 保 る行政 、 政府の環境政策についての企画調整機能を有 する行政機関 1971年に環境庁が発足 ▲ 環境庁では、環境基準の設定やこれまで各省庁に分掌され ていた工場における汚染物質の排出抑制を一元的に行う。 ▲ しかし、規制以外の業務、例えば公害防止や環境改善のた めの事業は、自然公園における事業を除いて関係省庁に残さ れた。 れた ▲ 環境庁発足を契機として、硫黄酸化物による大気汚染など の産業公害対策は一段と進む。 ▲ その枠を超えた施策の展開に関しては権限が限られており、 各省庁の縦割り行政の前に環境行政の総合化には大きな壁 があった。 ・ 1973年10月(昭和48年) 公害健康被害補償法の制定 • 大気汚染被害者を対象にした救済制度 • 「大気汚染による損害を賠償補償する」世界に例を 見ない画期的な制度 健康破壊・生活や労働への支障・収入の減少 • 財源は、汚染者全体で負担する。 • 給付金の八割は、SOXを排出している企業から、排 出量に応じて賦課金を徴収する。 出量に応じて賦課金を徴収する • 残りの二割は、自動車排ガスによる大気汚染の負 担分として、自動車重量税から引き当てる。 7 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 ・ 1974年(昭和49年) 硫黄酸化物(SOx)総量規制の導入 ● 硫黄酸化物の規制は 濃度規制に始まる 個別排出源の排出量を抑えるK値規制 特に工場密集地域を中心に環境基準に照らすとなお深刻な状況 ● 都道府県知事が指定した地域毎に 特定の工場に対して総量規制基準と 特定の工場以外に対して燃料使用基準をそれぞれ定める 地域の排出総量を抑える。 ● 1974~1976年の間、三次にわたって延べ24地域が 総量規制対象地域に指定された。 ● こうした地域では、新増設される工場等は既存工場等より 厳しい規制値が適用され、過密地帯における新規の工場立地を 抑制する効果ももたらした。 ・ 1978年(昭和53年) 日本版マスキー法(自動車排出ガス規制)の実現 ● 日本版マスキー法 ★ガソリン乗用車から排出される窒素酸化物の排出量 現状から90%以上削減するという規制 ★当初、1976年度から実施することとされていたが、 技術的困難、達成した場合における性能低下や 輸出競争力低下等を論拠とする産業界からの強い反対 ●自動車排出ガス規制を求める世論の高まり ★至難といわれた自動車排出ガス低減技術の開発が急速に進む。 ★結果的には1978年に2年遅れで、当初目標通りの規制が実施 ●緩い規制にとどま ていたトラ ク バス等 ●緩い規制にとどまっていたトラック、バス等 ★窒素酸化物について更に規制の強化を図るべく、 1977年に中央公害対策審議会から自動車排出ガス の許容限度長期設定方策について答申 ★これに沿って第1段階の規制が、 1979年度規制として実施 ☆更に第二段階の規制が技術評価を踏まえつつ、逐次実施 担当者 : 久野春子 Ⅳ. 石油危機と安定経済成長期以降 の大気汚染 ・ 1978年(昭和53年) ・日本マスキー法(自動車排出ガス規制)の実現 ・ 1978年(昭和53年) ・二酸化窒素(NO2)の大気環境基準の改定 ・ 1981年(昭和56年) ・窒素酸化物(NOx)・総量規制の導入 ・ 1978年(昭和53年) 二酸化窒素(NO2)の大気環境基準の改定 ● 環境基準とは、 「大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染及び騒音に 係わる環境上の条件について、それぞれ、人の健康を 保護し、および生活環境を保全する上で維持されることが 望ましい基準」 ★いわば環境の質に関する行政の目標と捉える。 ● 二酸化窒素の環境基準については、 ★ ★1973年に「1時間値の1日平均値0.02ppm以下」と 年に「 時間値 日平均値 以下 と されていた。 ★その後の疫学調査及び動物実験の結果等を踏まえ、 1978 年に「1時間値の1日平均値0.04~0.06ppmの ゾーン内またはそれ以下」に改訂された。 8 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 ・ 1981年(昭和56年) 窒素酸化物(NOx)総量規制の導入 ●窒素酸化物の固定発生源対策 (工場 事業場などからの排出量対策) (工場・事業場などからの排出量対策) ★1973年の大気汚染防止法に基づく排出基準の設定を皮切り ★1979年の第4次規制まで、 ばい煙発生施設総数の約73%が規制対象とされた。 ●さらに、1981年の大気汚染防止法施行令の一部改正により、 ★窒素酸化物が総量規制の指定ばい煙に追加 ★環境基準に照らし対策の実施が特に重要 東京、神奈川、大阪の3地域において総量規制が実施 ●しかし、大気中の二酸化窒素(NO2)濃度は 若干の微増微減はあったものの、総じて横這い状況 ☆1986年度以降は増加傾向 Ⅴ. 都市・生活型大気汚染 Ⅵ. 地球化時代の大気汚染 ・ 1985年(昭和60年) ・オゾン層の保護のためのウィーン条約の採択 ・ 1987年9月(昭和62年) ・公害健康被害補償法の一部改正 ・ 1987年(昭和62年) ・環境と開発に関する世界委員会 環境と開発に関する世界委員会 (WCED/委員長:ブルントラント・ノルウェー元首相) WCEDレポート(持続可能な開発)の提出 ・ 1992年(平成4年) ・地球サミットの開催 担当者 : 久野春子 大気汚染公害訴訟 ■四大公害訴訟を継承した本格的な公害訴訟 大型の大気汚染公害訴訟 千葉川鉄 西淀川 倉敷 川崎 尼崎 名古屋南部 千葉川鉄、西淀川、倉敷、川崎、尼崎、名古屋南部 ■これらの訴訟はすべて2001年までに和解合意した。 ■その内容はすべての訴訟について、 基本的に被告企業の責任が認められた。 ★企業は解決金を支払い、 国は大気汚染対策の実施を約束する。 ★道路公害については、西淀川訴訟、川崎訴訟において、 国、日本道路公団の責任が認められた後、 国、公団が道路対策をとることなどを内容とする和解が成立 ・ 1992年(平成4年) ・自動車NOx法の制定 ・ 1993年(平成5年) ・環境基本法の制定 ・ 1996年(平成8年) ・有害大気汚染物質に対する 環境リスク対策 ・ 1997年(平成10年) ・ 地球温暖化防止京都会議(COP3) ・ 1998年(平成10年) ・地球温暖化対策推進法の制定 (提供:毎日新聞社) 9 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 ・ 1987年 公害健康被害補償法の一部改正 ● 中央公害対策審議会では、専門委員会報告を受けて、 1986年10月、 ・それまでの指定地域のすべてを指定解除すること ・既認定患者の補償給付は継続すること ・総合的な環境保健施策を推進すること 総合的な環境保健施策を推進すること 等を柱とする答申をまとめました。 ● 公害健康被害補償法は、1987年に改正 翌1988年3月:大気汚染に係る指定地域(旧第一種地域)は すべて解除: :大気汚染による公害病患者の新規認定は行わない。 ●現在の大気汚染が総体として、慢性閉塞性肺疾患に関して 何らかの影響を及ぼしている可能性を否定できないとの判断 ・健康被害予防事業の実施 ・大気汚染の健康影響に関する調査・研究の推進 ・環境保健サーベイランス・システム(監視)の構築等 大気汚染による健康被害の発生を予防するための施策が 強化・推進されることとなった。 ・ 1993年 環境基本法の制定-1 ● 都市・生活公害や身近な自然の減少、 更には地球環境問題の進行に対応するため、 ●「公害対策基本法」(1967年制定)を発展的に継承し、 ● 環境に関する分野についての国の政策の基本的な方向 を示す法律として1993年11月に公布・施行 ● 第1章総則をはじめ3章46カ条の条文で構成 ・環境保全の基本理念として、環境の恵沢の享受と継承等、 ・環境への負荷の少ない持続的な発展が可能な社会の構 環境への負荷の少ない持続的な発展が可能な社会の構 築等 ・国際的な協調による地球環境保全の積極的推進 ・国、地方公共団体、事業者、国民の責務、 担当者 : 久野春子 ・ 1992年 自動車NOx法の制定 ●自動車から排出される窒素酸化物による大気汚染が著しい地域 ●「自動車から排出される窒素酸化物の特定地域における総量の 削減等に関する特別措置法」(自動車NOx法) ・二酸化窒素の環境基準の確保を図るため、 1992年6月に公布 同年12月施行 ★自動車NOx法に基づき、自動車の交通が集中している地域: 二酸化窒素(NO2)に係る環境基準の確保が困難であると 認められる地域が特定地域として指定 ●特定地域では、 (車種規制) ★トラ ク バス等 ★トラック・バス等: 大気汚染防止法に基づく自動車排出ガス規制のうち、 車両総重量の区分ごとに、最も厳しい規制に適合しないもの (古い自動車等)については使用を認めない。 ・共同輸配送、モーダルシフト等物流対策、公共交通機関の 整備等人流対策等が推進 ・ 1993年 環境基本法の制定ー2 ● 環境の保全に関する基本的施策として、 ☆環境基本計画の策定 ☆環境基準の設定 ・政府による環境保全に関する施策の総合的、計画的な推進を図る。 ● 特定地域における公害の防止のための ☆内閣総理大臣による公害防止計画策定の指示 ☆都道府県知事による公害防止計画の策定 ☆国による環境影響評価の推進 ☆環境保全上の支障を防止するための 規制措置、経済的措置及び施設の整備その他の事業の推進、 ☆環境への負荷を低減させるための 製品利用の促進、環境教育、学習、民間団体等の自発的な活動 の促進、科学技術の振興、紛争に係るあっせん、調停等並びに地 球環境保全等に関する国際協力等の推進を定めている。 10 生物学(春学期) 第1章 大気汚染の歴史 ・ 1996年~ 有害大気汚染物質に対する 環境リスク対策 ● 発ガン性等の有害性を有するベンゼン等の多種多様な有害 大気汚染物質が低濃度ではあるが検出 ● これらの物質への長期暴露による健康影響が懸念 ● 欧米では、1990年前後から有害大気汚染物質への対策あり ★わが国ではやや取組が遅れたが、人の健康や生態系に及ぼす 影響の科学的なリスク評価が開始 ● 1996年には、大気汚染防止法の改正により、 事業者 排 抑制 組を求 。 ・事業者に排出抑制の自主的な取組を求める。 ・行政の広範な物質についてのモニタリング、健康リスク評価 ● ダイオキシン類については、環境汚染の防止及びその除去等 を図るため、議員立法により、「ダイオキシン類対策特別措置 法」が1999年7月に制定された。 ・ 1998年 地球温暖化対策推進法の制定 ● 地球温暖化は地球全体の環境に深刻な影響 ● 気候変動に関する国際連合枠組条約及び気候変動に 関する国際連合枠組条約第三回締約国会議(COP3)の 経過を踏まえて、気候系に対して危険な人為的干渉を及 ぼすこととならない水準となるよう大気中の温室効果ガ スの濃度を安定化させ地球温暖化を防止することが人 類共通の課題 ● このため、地球温暖化対策を進めるためには、すべて の者が自主的かつ積極的にこの課題に取り組むことが 重要 ● 国、地方公共団体、事業者及び国民の責務を明らかに するとともに、地球温暖化対策に関する基本方針を定め る「地球温暖化対策の推進に関する法律」が1998年に制 定され、1999年から全面施行 担当者 : 久野春子 ・ 1997年(平成10年) 地球温暖化防止京都会議(COP3) 第3回気候変動枠組条約締約国会議 ● 1997年12月に国立京都国際会館(京都府京都市)で開催 温室効果ガス排出規制に関する国際的な合意形成を 主な目的とした国際会議 ● 気候変動枠組条約の発効以来、毎年開かれている 締約国会議 ((COP)) の第3回目の会合 ★通称、京都会議、地球温暖化防止京都会議、 COP3(コップスリー)とも呼ばれる。 ● この会議において、先進国に温室効果ガス排出削減目標 を課す京都議定書が採択 Ⅶ. 環境省の発足と大気汚染対策 ・ 2000年( 平成12年 ) ・グリーン購入法の制定 ・ 2001年 (平成13年) ・環境省の発足 ・ 2001年 (平成13年) ・自動車NOx法の一部改正 自動車NO 法の 部改正 ・ 2002年(平成14年) ・ヨハネスブルグ・サミットの開催 ・ 2009年9月(平成21年)・ 国連気候変動サミット ニューヨーク ★鳩山総理大臣 日本の国際公約: 2020年までの中期目標 ☆温室効果ガスを1990年比で、25%削減 ・ 2009年12月19日 COP15主要国が合意案、 削減目標先送り ・ 2011年3月15日~ 原子力発電所事故 放射線汚染 11
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