色彩理論

10 月 17 日(月)9:30-10:10【研究発表 3 分科会 A】
美と健康の接近─フランス新印象派と<民間療法>
立命館大学
加藤有希子
近年の新印象派研究は、従来の色彩理論的検証に加えて、同時代の無政府主義政治思想史
に基づく分析を中心に展開してきた。本発表はそうした研究に欠落している保健衛生学史的
側面に着目し、ジョルジュ・スーラ(1859-1891)、ポール・シニャック(1863-1935)、カミーユ・
ピサロ(1830-1903)らの芸術活動を捉え直す。すなわち 19 世紀フランスの神経心理学研究を
主導していた「均衡(équilibre)」という指標が、画家たちの絵画技法上の補色調和説だけでな
く、生活実践としての民間療法である「同毒療法(homéopathie)」や色彩療法を貫いており、
絵画理論と生活実践とが特異な相互作用を形成していた事態を明らかにする。
新印象派が同毒療法と色彩療法に高い関心をよせていた事実は、ピサロの書簡や P・アレ
クシスの手記等 から確認できる。さらに 新印象派の会合には同毒療法医師 P=F・ガシェ、L・
シモン、G・ドゥ=ベリオが出入りし、画家たちに薬を処方しただけでなく、作品購入により
生活を支援していた。この画派の色彩理論への関心は、画面構成上の方法だけでなく、1870
年代から欧米で流布した色彩療法、つまり赤(神経の興奮を高める)と青(それを鎮める)
の対立関係にもとづく心理療法的措置の適用にもあった。実際 1886 年に始まる医師ガシェを
囲む同派の会合は「赤と青の夜会」と名付けられ、1893 年に始まる「新印象派ブティック」
の外壁は赤と青で彩色された。シニャックは書簡(1894 年頃、未公表)で、赤と青の外壁は「健
康によい」と主張している(Getty Center Collections: no. 870355 )。このように新印象派の活動
では、芸術技法と民間療法的知識とが不可分に混合していたが、両者を媒介する契機につい
ては今まで検討が加えられてこなかった。そこで発表者は「均衡」という価値指標に注目す
る。
ここで重要なのは H・ヘルムホルツ(L’optique et la peinture, 1878)と O・ルード(Théorie
scientifique des couleurs , 1881)の色彩論である。周知の色彩論であるが、留意すべきは、彼ら
の補色調和説は「健康」概念の照準から理解しうる点である。彼らは視神経間の労働を「均
衡」に保ち、偏った疲労を避ける補色対比が最も心地よいと主張する。「均衡」は 16 世紀に
物理学で登場した新しい概念で、事物の定量化と密接に関わり、疲労を最小限に留めようと
する産業革命以後典型の労働効率上の要請に連続する。それゆえ伝統的な「調和(harmonie)」
とは異なる基盤で認知されていたと考えてよい。従ってヘルムホルツやルードの補色調和説
は、感性論であると同時に実践的行為論として読まれるべきである。新印象派と親交のあっ
た医師ガシェやシモン、さらにピサロが所有していた C・へリング 、Ch・フェレの著作に
も、神経の偏った疲労を避ける「均衡」を健康の尺度とする神経医学の立場と、それに依拠
する同毒療法や色彩療法の意義が明記されている。
本発表は 、新印象派の絵画理論上の調和概念と生活実践上の健康概念とが「均衡」を
媒介として接続する状況を明示する。これは感性論と倫理的行為論との相関に光を当て
る試みでもある。