宗教法創刊等(I9B3 . 5) 106 一、憲法秩序における J一 小 教 ﹂ ー判例を通しての検討! 憲法におりる信教権の規定 説 耕輔 ﹁日本臣民ハ安寧秩序ヲ (青ム制学院大学﹀ 明 治 憲 法 に お い て も 宗 教 関 係 規 定 、 よn J端 的 に い え ば 信 教 権 の 規 定 は あ っ た 。 す な わ ち 、 コ安寧秩序ヲ妨ケス﹂ (1) つまり排他的な精衿的傾僚を本質とナるのであるかぎ号、努治憲法は基本約には天皇や天皇の被先の神性を信 ずる宗教以外の信教権を認めなかったといってよい。すなわち‘信教権というすぐれて精神的な自由織は権力的統制 信仰、 お よ び タ ル ノ 義 務 ニ 静 岡 カ サ ル ﹂ か ぎ ち で の 、 つまり条件鮒の保簿であった。とりわけ﹁臣民タルノ義務﹂は天 、、、、、、 皇の地作製不可侵後ハ抽明治憲法の告文および一一嘉﹀を絶対視すべき義務であって、宗教なるものが、独自の超越的絶対者への 妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限エ於テ信教ノ自由ヲ常利ス﹂と。ここにおける総数権は、 林 内 第 二 聞 宗 教 法 学 会 シ ン ポ ジ ュi ム・朗報告凶 第 日 本 摺 憲 法 に は 宗 教 関 係 の 直 接 的 規 定 と し て 、 二O 条 と 八 九 条 と が あ る 。 総 対スル政府ノ保証、支援、保全、監督及ピ弘布ノ廃止 (一項品例措械﹀とは、積極的に信仰をも 関する覚書いが識せられ、これ忠弘うけて、 (2) aそこで占領濠後の四五年一二月⋮五日に、﹁国家得議︿日 e 同時にこれは、わが閣が近代的、民主士忠義的体制を樹立するためには、なによ習も の も と に お か れ た の で あ る 。 こ の よ う な 立 法 政 策 が 明 治 憲 法 の 天 皇 主 権 体 制 の 態 想 的 主 柱 を な し た 。 つま雪国家のた めに宗教(神社神道﹀があった てt: しカ t 立行 な使 らし え E り L ω L ﹁鎗仰の自由は、何人も自己の欲 するととろにしたが びその機構は、宗教教育その他いかなる宗教的 一方では﹁いか怠る宗教団体も閣から特権を受け、 又 は 政 治 (二 O条一夜﹀ と し 、 他 方 で は ︿ 3﹀ 項における﹁祭教的活動﹂の慧妹について、津地鎮祭事件の名古屋潟裁判決は広く解し、 ﹁特定の宗 ﹁公金その他の公けの財産は、宗教上の組織若しくは自体の使用、使議+おしくは維持のため:・: ︿ 間 同 条 一 一 一 項 ) とする。この原則燃の徹底のために、 さ ら に 八 九 条 で 、 宗 教 活 動 に 対 す る 公 金 支 出 なて いは いな これを支出し、 又 は そ の 利 用 に 供 し て は な ら な い ﹂ と す る 。 の 年 まず、根本的に改第されなければならない問題であった 神社神道﹀ の新憲法にはきわめて厳格な信教権の保簿線総が設けられたので為った。 ﹁一信教の自由は、何人に対してもこれを傑鋒するい 療 法 二G 条 の 規 定 す は 、 つ ぎ の つ で あ る 。 第一に信教の自由マある。 -ma九三七!然教活動をしない滋の契約の効力﹀も、 つ こ と 、 も た ぬ こ と 、 信 仰 告 白 凌 強 い ら れ な い と と が 、 何 人 に も み と め ら れ る 、 という意味である。判例ハ級官側 m m 五・二五 a悶同然二一 ま権 右 翌 ﹁何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制制され ぃ、特定の宗教を信じ、または信じない自由いとする。 (二項)ことである。 第 ニ に 宗 教 活 動 の 自 由 で あ る 。 つまり、 ないい 活、上 第三に政教分離原郊である。政教の分離については、 動、の 念禁止する趣旨で、 1 0 71 撃絞秩序における r 2 宗教j 宗教法創刊号 (1983. 5) 108 教の布教、教化、宣伝を目的とする行為のほか、祈諮問、儀式、祝典、行事等およそ宗教信仰の表現である一切の行為 を包括する﹂ものと解するのに対し、 そ の 最 高 判 決 で は 限 定 的 に 解 し 、 国 お よ び そ の 機 関 の 活 動 で 宗 教 と か か わ り 合 いが、政教分離原則の上から﹁相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗 教的意義をもち、 そ の 効 果 が 宗 教 に 対 す る 援 助 、 助 長 、 促 進 叉 は 圧 迫 、 干 渉 等 に な る よ う な 行 為 ﹂ と す る 。 た だ し 、 こ の 最 高 裁 判 決 に は 、 控 訴 審 の 厳 格 な 判 断 を 支 持 し て 、 政 教 分 離 原 則 は 国 家 と 宗 教 と の 徹 底 的 な 分 離 を 要 求 し 、 した がって﹁宗教的活動には、宗教上の祝典、儀式、行事等を行うこともそれ自体に当然ふくまれるとする、少数意見 (五人)もある。 (4) すでに多くの論者がいうように、政教分離原則については、諸外国の立法例や慣行からすれば、厳格主義と相対主 H 宗教的無関心 や H M 雑居宗教的寛容性 H )0 したがっ に乗じ容易に復活しう 義とが存する。しかし、わが国の場合、近代国家の形成を阻害し、人権とりわけ民主制の基礎である思想・言論の白 由を抑圧する機能をいとなんだ政教一致の思想が、 る政治的、社会的条件が存する以上、厳格な政教分離がはかられるべきであろう(学界の支配的意見でもある (5) て、もし右のごとき最高裁の多数意見を是認するならば、﹁確立された﹁政教分離の原則﹂は、実質的に放棄される H 信仰強制 は条件づきにせよ、信教の自由権の保障と矛盾する。そこで、論理的に調整するべ H く、天皇の神性への帰依(国家神道郎信仰)は、宗教ではなく、国民倫理であり(例、﹁国体明徴に関する政府声明﹂一九三五・八・三、 もちろん、このように考えると、この か、あるいは形骸化されるととは必定であろうと思われる﹂。 ( 註 I 、 . / 1 0 9 草壁法秩序における「言宗教 j 閣議決笈)、天農家の支持、伊勢神宮以下の郷社神叫擦は、一般的にいう﹁脚邪教﹂ではない、したがって、その俗的押強制酬は裟教の包陶保障 と矛媛しない、と鋭畷された︿宮沢俊義、﹁寝思法︹全集綴︺一一一世且O夜、憲法制制定議会における邸中掛耕太隊発品有師、清水待値輔、 g本層構聴持出曜骨 髄絹録い︿増釘級九四緑パ六七問問一鼠など多照﹀。 2 ) この内容について詳しくは、例えば筒井若水稲﹁臼本綾法史﹂(東大山山絞会﹀額一一一笈頁以下をみよ。 ︿ 3) 防磁のものに、教育甘部本法の﹁窃及び綾方公共回開体が絞賞する学校は、特定の宗教のための宗教教鳴門その俗宗教的活動をしてはならな ︿ 政教分離帥鮪期剛開の建前から、剛聞から寺絞に譲渡された医脊境内総と即時有線の適法性はすでに憲法制定談会において問績となった︿潟水節 い﹂︿九条二項﹀という規定がある。 也、六七一一一賞以下)。が、こむ点については、明治初年以来の沿革そ理闘として、合惑判決がでている(最、一一⋮⋮一一・コ了一一沼、脳同繁一 一一-一六・一一一一一一五二﹀。 最近、社中帯の法人税法上の優遇措蹄鐙(七条﹀に叫却し療綾上、噛瑚用よから、途驚とするつよい主隅械があ毛ことも波開削される。たとえば、* 野弘久、三ポ教法人への線麹と政教分離酬問題﹂、ジュリスト機割問綜合特集﹁現代人と宗教﹄二コ一囲気以下、多頼関。 な資料でもある。最近の(日本の)諸氏の想論については、熊本総・十六数授が吋北海学園法学﹂に翁織した一一漆の研究を参組問。 。 上白勝輪開﹁信教の自由と政教分離の隊創﹂、議(合大晶子宗教法研究会一様、宗教学病究、第一緒、二O賞 すでに述べたように、明治憲法下では神社は宗教にあらずとの主張がなされた。その理由は、神社神道は抽出の O条の立法目的を寅徹するためには、 の宗教のごとく、創腕明者も教義も存しないことにあった。そこで、憲法二 ﹃たとえ神社神道けか祭和中心の宗教であって、自然宗教的、民族宗教的特色があっても、神社の 教﹂の概念を明確にしなければならない。この点についても、津地鎮祭訴訟、名古屋高裁判決宝ニ・七・一三、行位置一 ﹁申一小 ﹀拍相沢久﹁現代国家における宗教と政治﹂︿動禁容一房﹀、向﹁国絞と宗教﹂︿第一一一文明社)は、すぐれた研究であるとともに、比較法的 (4 5 憲法制例におりる宗教の定滋 〉 一-五・六八O) は 般 〈 ︿ 1 ﹀ 祭神︿神霊)が綴人の宗教的信仰の対象となる以上、宗教はもとより、わが髭法上も宗教であることは務自である﹂と 信教識の保障と限界 (2) 一方では君主主権的近世間家の形成・発展を助長し、 ﹁国手中と国民、世俗的権力と宗教的権力の二重の一一党主義を克服す 教は爵法体系の一部に組込まれ、位置づけられたのである。 3 ︿) て い え ば 、 教 会 優 位 I 習 教 並 立 l 関家優位、 と い う 一 一 一 緒 程 変 緩 て 形 成 お れ て き た の で あ る 。 か く て 近 代 国 家 で は 、 家 ることによって、組織された密体的統一体・'として現われた﹂。緩言すれば、近代鼠家は、図家と教会との関係につい そして、近代国家は、 イ ェ ヲ ネ グ の い う よ う に 、 他 方 で は 芦 l マ ・ カ ト リ ッ ク の 権 威 を 低 下 さ せ た 。 か く て 宗 教 的 権 力 と 世 俗 的 権 力 の 一一克一部、並列的体制が実現'レペ見。 におけるキ世ストの新旧河派の分裂とこれに端役発する宗教戦争は、 容れてよち宗教的権威は役俗国家のよ位にあゥた。宗教のために国家があった。一六位紀 周 知 の よ う に 、 中 世 g !開ツパにおいて、 ゲルマン閉隣家がキリソスト教的、 よ n 正 確 に い え ば ロ i マ-カトリツヅク的、 神社抽部噛鳴の宗教釣物質については、村よ震災﹁国家機道と宮本の鵠鴨神的器出土い︿全国緩仲間研究会八一年度春季大会・研究報告てジぷ つ ま 号 、 自 然 宗 教 で あ ろ う と 、 創 始 宗 教 で あ ろ う と 、 宗 教 で あ る こ と に は 変 容 が な い 、 としたのである。 〔 信教織の侵害と司法審鷲ハ司法的判断︾ 科九。 V 1 リスト八一年九月一日(議議七加盟八)琴、をみよ。 〉 関家と宗教との関係 第 ( 1 ) 普通的役界国家として統 い ' 家教法創刊号 (1983. 5) 110 1 1 1 憲法秩序における「宗教」 とはいえ、近代鰯家では、 ? キ ヤ ベ リ 以 来 の 国 家 理 性 論 や ボ ; ダ ン 以 来 の 主 総 論 に よn J裏 打 ち さ れ た 近 般 的 絶 対 主 では酌掛岱仲と骨骨骨とが別館総な、対照的な取扱いをうけるのである。 議権や人身権などとともに、国法をもって侵奪でき会い法設とされる 義的イデオロキ!は市民革命持代に民主主義的修正をうけ、 人権の不可侵設基本安楽とした。そこで宗教由体は醤法 c (4) のもとに佼費づけられるとしても、儒教権は にいたった つまり、近代緩法秩序においては、この しかも現実の市民生活では、各人の信仰は宗教関体(宗教制制度)と密着していて、通常の場合前者は後者に依存してい 私の﹁ドイツ憲法的ご六一災。 ハ 一 二 一 員 。 イぷザネ夕、哨阿部信背骨品川共訳﹁一般随家家﹂ 42 ~ 4 2 2 イごフネ夕、美濃部鴻雲間訳﹁人体撤笠 一口論﹂五一ページ以下参照問。イ本ザヰクは人権白鳳世間のうち、とくに信教縦ぞ掌握している。 B本 国 憲 法 に 特 別 の 定 め の あ る 場 合 を 除 い て 一 切 の 法 律 上 一 の ﹁何人も、裁判所において、裁判を受ける権科安楽、われない﹂と 一条は﹁裁判所は、 法 的 審 査 の 対 象 と な り う る の で あ ろ う か 。 も し そ う で あ る と す れ ば 、 憲 法 ニO 条 の 保 障 す る 政 教 分 離 原 則 は 絶 対 的 意 を裁判し、 そ の 他 法 律 に お い て 特 に 定 め る 権 限 を 有 す る ﹂ と 定 め る 。 し か ら ば 、 宗 教 的 、 信 仰 的 争 訟 も す べ て 可 する。これをうけてさらに裁判所 裁判をうける権利を保障し m w 信教権と司法審査の限界 4 円。向山。恥 rE5$02 ・ 宮 崎ω ア 総 -mw T 同 盟 叶 叶 ・ ∞ ' 凶 品 はいう│!?﹁国家酒域性論にわ都ける E 的 EZmmr25 コ・言品阿部・ 7 ・ 同 政治の問立ル%と総宗教約全般の定療は、中世的な出向閥的州統一と秩序統一一が解体する燃の綴療をなす﹂。 ~ 〉 る。信教権と湾法審査、 い わ ば 宗 教 裁 判 含 め ぐ る 問 題 の む づ か し さ は 、 こ こ に あ る と い え よ う 。 3 'i ? ( 簸法三二条は国民 ( 2 ) 家教法創刊号 (1983.5) 1 12 Q ぞとで、 の趨績を貧殺するために、宗教法人法八五条件砧、 の 妹しかもちえなくなる ﹁この法律のいかなる についていかなる形においても調停し し 規定も・::裁判所に対し、宗教極体における銭仰、 くはこれに干渉する いのうち、 の 若しくは干渉する権担棋を与え、 叉 は 宗 教 上 の 役 職 鈴 の 任 免 そ の 他 の の 潔 権限を与えるものと解してはならない﹂とする。要するに、裁判所はご切の 項﹂については管轄権を有しない。 ぞとで、最終的に問問題となるのは、雨者の差異である。 し 演 は 、 いについての饗資機を といえないだろうか。 いって、 ア メ リ カ の レ イ ノ ル ズ 事 件 ︿ cmd・ 悶25-昔 喜岡同デエ∞二ゆ吋帥 u νに お い て 八-五 ﹁人間のいけにえが宗教礼拝に必要であると信ずる者がいた場合、彼を統治する市民 と す る そ ル モ ン 教 徒 レ イ ノ ル ズ の 鷺 婚 の 主 張 。Z斥 け 一 向 。 こ の 日 米 の 両 判 例 は 、 類 似 し て い る 政府がそのいけにえをやめ怠せるように干渉することができないなどということが真剣に論じられるであろうか﹂と に対しては可能である﹂とし、 は、法は﹁行為のためにつくられる。法は、宗教的な信念や見解そのものに干渉することはできないが、宗教的活動 ︿内在議理的緩雰)。ちなみに、 五、別集一週中ケ密・一一一O一 一 % な ぜ な ら 信 教 権 の 保 樟 間 口 約 は 人 様 の 保 障 そ の も の に あ 号 、 人 権 の 俊 替 で は な い か ら で あ る の対象となるだろう︿駿筒第、 した。もちろん宗教的信念に基くとはいえ r w r砂いんか争訟であれ y‘ こ れ に 対 し す ぐ れ て 宗 教 的 な 教 義 や 信 念 を め ぐ る 争 訟 は 、 h である、 と し 、 礼 拝 対 象 物 の その総の 判例によれば︿鱗殿、蕊ムハ・悶・七、創価学会絞まんだら事件上告審 v、 政 治 的 党 派 的 利 害 対 立 、 た と え ば 宗 教 団 体 内 部 の 役 職 教、民 ﹁有形力の行使﹂によ号、他人の生命、身体を惑するような行為は 1:,の の、選 f ま 1 1 31 憲法秩序における「宗教 j 2 '' l ' ' 棺沢久﹁捕同教の自由聞とその綴界﹂憲後判例一議選、一日一蹴獄、=一九震。 コングィフツ、清水・滝沢信彦共訳、信教の向口出と良心、一九七一一一、開問題頁以下。 公約侵害の幽皿機 信教権の擾審と司法的救済 ~ ﹁持刑上の心理的安定のための試みなら許される﹂とする。詩人 属家利益のためでもないが放に、政教分離原則にふれないとの見解もある。この点はむしろ、行刑動静の一部である ︿ 2) の要求があってもみとめないとすれば、信教綾の侵害となるだろう。なおこの際、教議蔽への謝礼は、骨骨んであち ただしその例外として、凶人の要求がある場合に、 すなわち、右の大阪地裁判決では、日銭教の自・闘は最優先の保障であ号、したがって宗教的教議は許冬れぬとする。 では問題た哲うる。 明治療法では教識は法的行為であったが、鎗教権が不徹底な傑様であったから問題とならなかっ一向。しかし現行憲法 この点に関して、第一に著名判例として、死刑問と宗教的教議の事件がある︿大地一一二一一・八・一一O、行集九・八-一大中ハニリ 畿の原濃からいう会またない。 憲 法 一 一 一 章 の 定 め る 他 の 基 本 権 と お な じ く 、 信 教 権 の 憲 法 的 保 障 が 、 本 来 は 公 権 的 侵 品 漢 の 防 止 に あ る こ と は 、 立憲史 第 玄、 J 鮪没、二四真。 組問島淳富岡、死刑囚と俗仰の自閥、申邪教制判醐判官選、二ニ災。 ならば、国庫支弁が許されるとみるべきであるまいか。 庁、 議教法創刊号 (1983.5) 114 第ニには津地鎮祭訴訟︿最喜一・セ・ご叩⋮、民繁一⋮一一 -m- 五 f a -六八O) 品、中谷自衛官舎 一一一、名潟問問六・五・一開問、行轍娘二二 - 把訴訟(山口一地・蕊凶・一一一、料相馬九一一一﹀において関われた、政教分離原郎の問題がある。政教分離原則いか信教権の方法的 {制度担保障であるか、それ自体国有の目的的意義をもつかについて議論がある。すなわち一説によれば政教分離原 ﹁信教の自由を、より具体的に実現せしめる現実的手段であづて、鐙教の自由 則 は 、 儀 教 権 の 保 障 に 並 立 し て 、 画 家 の 宗 教 と の 統 合 設 禁 止 す る 間 有 の 白 日g 的 概 念 で あ る と す る が 、 し か し 、 と の 点については名高判決がいうように、 に対する制度的保憶の原理である﹂とみるべきであろう。 つま型、前者つまり信教権は絶対的保障であるに対し、後 者つまり政教分離は相対的保障もありうると思われる。だからこそすでに諸滋の立法例にみられるように前者は不可 俊的保障とするに対し、後者については、各国の歴史的、社会的、政治的条件によって、保障の方法、態織は多様 (1} ︿ 給 対 的 ﹀ な の で あ る 。 そ し て 日 本 の 場 合 は 、 既 述 の 事 情 か ら 、 絶 対 分 離 と み る べ き で あ り 、 それによってのみ、 信教権不可侵の原則が貫徹されると考えられる。 く いづれの見解に立つにせよ、 わ が 憲 法 体 制 の も と で は 、 国 家 権 力 は 特 定 の 宗 教 に 加 担 支 援 し て は な ら 怠 い だ け で な ょ く、宗教そのものに慰関与す'べきでないことを要求している原理・原剣なることは、 お き の 宗 教 法 人 法 八 五 条 に よ っ て もみとめられるのではないかと思われる。 〈 九七爽。 なお、この点について、新聞問光子﹁閉樹祭と宗教の分離!日本の絶対的分離主義批判﹂︿飽大祭教法紛究会減、宗教法研究、第二桜、一 割払の﹁体協仰の向間取﹂﹁織法における法と政協関恥所収、 さ ら に 公 金 支 出 、 宗 教 法 人 に 対 し 、 法 人 税 法 西 条 三 議2﹀ ょ の 特 例 に つ い て 問 題 が あ る こ と は す で に 触 れ た c 1 六悶頁以下)に、佐藤功、官向柳径一、熊本信夫、川川北洋太郎、問削上穣治他の端的教授の尚子鋭鮫介がある。 ) 1 1 5 百賢官長秩序における F 宗教J 私的侵害の態様 第三滋効力の問題 信教権の私的侵害については、他の人権争訟とおなじく第三者効力の問題がここにもあちうる。しかしこれまマ裁 判例をみるに信教権についての第三者効力については、積極説ハ有効説﹀がとられている。との点は養成できる。総 じて現代の社会檀家では人権の憲法的保障には腹接効力をみとめるべきと愚考するが、政教分離原則とワン・セヲト は るのマはみるまいか。 宥私的俊樹曹の事例 宗簡と点ザ震との争訟 宗教法人法にいうところの包括臨体と被包括団体とのあいだの争訟については、従来の判例に関するかがロ号、 ( 2 ) この争訟についても、大体右と関門旨の判例がある八最コ一0 ・六・八、民集九・七福八八八 i綴隣国後と仲間機特選事件﹀。 宗田と一信徒との争訟 (倒的、大抽四一一一一ニ・五九、行集九・五・一 om七1住職筏免事件﹀。 むね包括団体に優越権をみとめ(宗教法人滋一八条近頃参照てただし被包括団体には離脱の自恋がある︿間二六条﹀とする お お によって特規せられた宗教揺体内部の問題であるから、 いわゆる本的統治理論によっても、第三者効力をみとめられ 条の趣防総に合致ずるとみられる。かりに︿滋鋭的な﹀治緩的な立場をとるにせよ、多くの宗教欝係争訟は、宗教法人法 克 信 教 榔 僚 の 忠 人 間 関 の 侵 容 な が ら 内 実 法 律 上 の 争 訟 で 必 る 場 合 に は 、 憲 法 的 効 力 が 及 ぶ と み る こ と が 、 憲 法 二O の信教権についてはたしかに問題は微妙である。しかし伝統的に雑居宗教のために信教強制の行なわれやすいわが国で 、 げ} 伊} 宗章生法鋭利母 (1983. 5) 116 このような判例の立場は、宗教語体と信教権との争訟については、前者安優位においているように怒われる。この点 については、まだ私の考えは熟していないが、模していうなら、判例の立場は、人権としての億数権の保険よりも訟 秩 序 の 安 定 を 獲 視 し て い る よ う に 患 わ れ る 。 こ の 問 題 の ︿ 飽 鐙 密 体 i被包括図体 LmM徒という系列にあウて﹀窮極の視点は、宗 教法人は宗教法人そのもののために存在するのか、信仰のために存在するのか、という点にある。後務の視点からす ると、従来の判例の態度には、 に わ か に 委 問 で き な い も の が 感 じ ら れ る 。 e 一一一!会社支出憾の宗教行進 における従業員に対する信仰掛視察事件﹀では、後殺の信教権を尊設し、 非宗教団体︿怠企業と従業員)における信教権をめぐる争訟 Al﹀ 九条) に 対 し て 、 絶 対 的 な 、 精 神 的 自 由 権 で る る 信 教 権 が 優 越 ナ る の は 当 然 で あ っ て 、 判 明 留 に 賛 成 で き る 。 な 〉 1 この点については、数物的な三菱総路事件︿厳罰八 、 一 e 民集二七・一一- 蕊一ニ六)が蛸郁起される e ぉ、との判例はその判決の前提として、第一一一者効力につき、いかに考えたかについてはまったく触れていない。 二 条 、 はないいとして、会社側役不当としている。けだし嫌法上相対的保障にとどまる会社の企業権あるいは営業権(憲法 とって宗教上の信念の表現行為というべきであって、その態震が穏当を欠いていない限り、何等非難さるべき行為で Jを 指 議 す る こ と は 、 そ の 宗 教 を 信 仰 す る 者 に ﹁ 宗 教 を 信 仰 す る 者 が 抗 議 を な し 、 叉 自 己 の 宗 教 の 立 場 明 か ら 事 実 の 誤n 特例(名地一二八・自・二六、判叫吋 付 〈 1 1 7 費量主義秩序における f 宗教 j P叫 . . 総 一二巻一一号にも発表済みであることを、おことわちする。 なお、この発題が本学会機関誌守宗教法おに掲載されるこどを予想しなかったために、すでに﹁管出法学論集﹂二 この論文は、八一年六月二七日の第一一回宗教法学会シ γボ ジ ウ ム に お け る ﹁ 発 魁 ﹂ に 、 加 筆 し た も の で あ る 。 野 す
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