「味」というものは一期一会なぼやけた奴で、一度味わってしまえ

「味」というものは一期一会なぼやけた奴で、一度味わってしまえばもう二度と姿を現
さない薄情な奴でもある。例え母親の作る定番おかずでも、同じ店で食べた同じメニュー
であろうとも「味」は同じではない。それが、どんなに以前舌が汲み取ったものと似てい
ても同じではない。天候や体調、温度に時間、気分や状況、その他もろもろ、あらゆる要
素が「味」の創造に関与する。同じ「味」など存在しない。当たり前だ。昨日の自分と今
日の自分が違うのだから。似て非なるものなのだ。故に味わう行為が楽しみと言える。毎
日、過去に似た「味」などを求めるよりも未知なる「味」を探求する方が愉快なのではな
いか。そう考えれば少しは食事も娯楽に思えるはず。
そんなことを草臥れた脳みそで考えていた初老の男は居酒屋で酒を飲んでいた。ほんの
数カ月前まで、彼はひとり居酒屋でうだうだと思考をこねくり回すような男ではなかった。
いや、数十年過去を遡れば本来、彼はそのような人間であったかもしれない。昼過ぎから
夜中まで、小さく汚い中華料理屋でビール瓶に向かって何かを訴え続けていた。そんな男
を救ったのはひとりの美しい女だった。
とある古本屋で女は男に声をかけた。
「どうしてあの時、君は僕に声をかけたんだい」
「どうしてでしょうね」
女はいつもこんなふうに声をかけた理由をはぐらかした。無邪気な笑顔を浮かべながら。
その笑顔は男が必要としていた人生そのものであった。
平均的、典型的、平凡な人生。女と出会ってからの男の人生はそう形容出来よう。並み
の職、並みの収入、二人の娘。とても幸福で衛生的な生活。そんな生活を支えていたのは
「味」であった。女は料理が上手く、日々男を魅了した。彼の母親は決して料理が下手な
わけではなかったが、彼女の料理はそれを遥かに凌ぐ美味しさであった。男が女と夫婦と
なり、ひとつ屋根の下で暮らすようになった頃には、男は妻の「味」の虜になっていた。
「妻の手料理が美味い」
このことは男にとってこの上ない自慢で、会社仲間を飲みに誘う時でも居酒屋ではなく
妻の待つ自宅へと招いた。そして来客がやれ美味いだの、羨ましいなどと口々に言うのを
聞く度に彼は自身の幸福さを認識し、妻への感謝を深めた。
そんな妻とその「味」という幸せに耽る男を尻目に、周囲は或る疑念を抱いていた。彼
女は美しく、なんでもそつなくこなし、その上料理の腕まであるのだ。何故、あんな大し
た取り柄もない男を夫にしたのであろうか。そこにどんな理由が隠れているのだろう。男
と女、それぞれの友人知人が真相を知りたがり、二人の娘もまた同様であった。
「ねぇ、お母さん。どうしてお父さんと結婚したの？」
「そうね。ふたりはお父さんのこと好き？」
「うん」
「そうでしょう。お母さんがお父さんを選んだ理由はあなた達ふたりがお父さんのことを
好きな理由と同じよ」
こんな会話が母娘の間で交わされていたことを娘伝いに耳にした男は安堵の表情を浮か
べ、娘ふたりをそっと抱きしめた。娘達は幼いながらも妻に似た匂いがした。
周囲の雑踏を余所に、家族は絵に描いたような幸福を体現し、娘たちもすくすくと育ち、
夫婦は老いを享受していった。しかしながら、ふたりの娘が嫁に行き、再びふたりぼっち
の生活が始まった頃、不幸は軽やかな足取りで女をかどわかした。四つのタイヤの怪物は
買い物帰りの女の笑顔をあっけなく奪い去り、道路に残したぐちゃぐちゃに崩れた豆腐や
ぐにゃぐにゃに折れた長葱に彼女の容体を投影させていた。
「もう娘たちを育てる責任もなく、彼女がいなくなってしまった以上、僕も彼女の後を追
っていった方がこれからひとりで生きていくより善いのではないかしらん。」
男の思考はどんどん暗い方、暗い方へと傾倒していく。妻を失って初めて、食事が人生
の余興であることを痛感し、その余興のない宴会のつまらなさに辟易していた。
もう妻の「味」は二度と味わえない。彼女が朝食によく作ってくれた茄子と油揚げの味
噌汁をもう一度啜りたい。同じ「味」など存在するはずもなく、若かった僕と今の僕では
味覚も別人であるとしても。
「お父さんはお母さんのために生きてきていた」
ふたりの娘はやさぐれていく父の姿に彼岸花を重ね合わせた。
「このまま何処か廃れゆく郊外のホテルの一室をくれないに染めてみよう。さびしげな
ブルースでも口ずさみながら。そう、昔聞いた曲みたいにね」
すっかり冷めてしまった熱燗をちびちびとやりながら男は冷笑した。
「どうしてこうも、妻の『味』に執着してしまうのだろうな」
居酒屋を出た男はあてもなく歩きだした。緩めたネクタイ、皺の目立つシャツとスーツ。
「姿を晦ます老猫にはお似合いの装いじゃないか。今宵は月が綺麗だ。」
そうして通りを歩く男の目にひとつの提灯が入った。提灯には「或る味」と書かれてい
た。男は奇妙な提灯だなと思ったが、それ以上は気に留めず、疲れた風貌の店の前を通り
過ぎた。月は確かに歩を進めた。自分が今何処を歩いているのか、とうに分からなくなっ
た男の足取りは次第に重くなり、何故歩いているのかも不思議に思う意識が彼自身を傷つ
け始めた頃、先程の提灯がまたちらついていた。
「ちょっと飲み過ぎたかな。同じ所に来ちまった。
いやでも随分と歩いたから時間は経っている。そろそろ酔いも醒めてきているはず。」
「………はて」
男が立ち止まり、腕時計で確認する分には、二時間ほど経っている。彼は時間と空間に
珍妙な匂いを感じたが、未練の悪あがきかもしれんなと微笑し、提灯に視線を向けた。
「或
る味」とはどの味だ。美味いのか、不味いのか。気になりだしたらしょうがない。有耶無
耶め、雲散霧消にしてやろう。ともかく、足も疲れたし店に入ってみるとしよう。すっか
りその気になった男は暖簾を潜った。
「いらっしゃい」
カウンターしかない店内に主人と思しきひとりの青年。客はひとりもいない。今となっ
てはクラシックロックと呼ばれる音楽がアナログレコードの耳に心地よいノイズを携えな
がら流れ、落ち着きの良い色彩で安堵する内装が男を銜えた。こんな青年がひとりで店を
仕切っているのか。
「君がここの店主か？」
「ええ、そうです。とっておきの味をお出し致しますよ」
物腰の柔らかい口調で話す青年はとても健康的で、艶やかに見えた。
「………そうか。ところで、『或る味』とはどういう意味なんだい」
「そうですね。僕の料理を食して頂くのが一番理解し易いかと思います」
青年は気味の悪いほどの快活さでそう言い、笑みを浮かべ、茶を出した。
彼は、こんな若造がでかい口をと思ったが、事実、そんな青年が嫌いではなかった。
「それで、メニューは？」
「ありません。」
「ない？」
「ええ。僕に任せてみて下さい。きっとお気に召しますよ」
男はこの店に入ったのは失敗かと思ったが、ひと口飲んだお茶の美味さにこの店に留ま
る理由を見た。彼は久々に笑った。妻の淹れてくれたお茶そっくりではないか。
「生意気な店だな」
「それは食事が終わってから判断なさって頂けますか」
「まあいい、はやくしてくれ」
疑念や腹立たしさ、そして幽かな期待が男の中で入れ替わり立ち替わり小躍りした。ど
んな料理が出てくるのか。不味かったらどうしようか。あんな口を叩いたのだ。出された
このお茶はなかなか。そうこう男が思考を巡り回らせていたら、どこか懐かしい匂いが嗅
覚をくすぐり始めた。この香りは … … 鰹。そう、鰹節でとっただし。ほんの数年前まで毎
日嗅いでいた香り。鰹だしに茄子とわかめと油揚げを入れ味噌をとく。あとは、白飯とた
くわん。
「お待たせいたしました」
青年が男に出したのは妻の朝食と同じであった。
まさか、たまたまなのか。あり得ない。偶然にしては可笑しい。
「君、これは……」
「茄子と油揚げの味噌汁で御座います。どうぞごゆっくり」
青年は笑っていた。困惑の表情を露骨に晒す男が愉快でしかたがないかのように。
「どういうことだ」
「どうもこうもございませんよ。さあ、冷めない内に召しあがって下さい」
「………」
匂いを孕む湯気が立つ味噌汁からはすでに妻の「味」がしている。男は箸を持ち、軽く
味噌汁を斬るようにかき混ぜお椀を口元へ運ぶ。この匂いだ。焦がれていた「味」なのか。
疑心は存在していたが、ひと口啜ればそれはもう、妻の「味」以外の何物でもなかった。
目に涙が滲む。
「美味い。妻の作った味噌汁だ」
男は夢中になって、飯を食べ進めた。鰹だしの効いた茄子の味噌汁、ほんのりと甘いた
くわん、湯気まできらめく白飯。はふはふ、ずずず、ぽりぽり。音までが同じ。こんなこ
とがあるのか。
「美味い、美味い」と彼は箸を動かし続け、白飯も味噌汁もたくわんもおか
わりした。まるで家にいるかのような居心地。まだ娘もいた頃の。このままずっと食べて
いたい。妻の「味」を味わえる今、この時を終わらせたくない。男はそう願ったが、終わ
りは来るものである。徐々に胃袋は満足し始め、箸を踊らす手も止まる。
すっかり満腹した彼が幸福な「味」の余韻に浸りつつ、辺りを見回すと、そこは家では
なく、とある古ぼけた店であった。妻も、ふたりの娘もいない。
「妻の「味」のせいで家にいると錯覚していたのだな」
現実に気付き落胆するとともに、男に疑問が溢れ出した。
「ありがとう、ごちそうさん。美味かったよ」
「ありがとうございます」
「まるで妻の作った料理のようだった。」
「ええ、そうですね。奥様の『味』ということです。なあに、簡単なことです。なんせこ
の店の名は『或る味』でございますから。」
青年はにこやかな笑みを保ちながらそう答えた。とても納得のいく返答ではなかったの
だが、懐かしい幸せを纏えたというある種の興奮状態にいた男には十分腑に落ちるもので
あった。
「一杯、どうです。僕のおごりです」
「おお。いいのかい」
「ええ。今日はもう閉店ですしね」
青年の注ぐ酒はまた、妻の注いだ酒と同じ「味」。男は浴びるかのように酒を味わった。
青年も彼に付き合いとっくりとおちょこを転がした。ふたりは愉快に酒を飲み交わした。
店主と客との宴は朝まで続く勢いであった。
夜明けまで一時間をきった頃、青年がふと電話をかけるといって席を外した。
「こんな時間に電話か。変わった奴だな。でもまあこんなに楽しいのはいつ以来だろうな」
店主が戻るとまた、暫く振りに上機嫌な男は与太話に華を咲かせた。
この宴の間、店内の片隅にちょこんと置かれていたアナログレコードは止まることなく
回転し続けていたが、くすんだ硝子窓から日の光が差し出すとその回転がとまった。針が
円盤を離れるノイズがふたりの耳に飛び込んだ。
「このノイズがいいんだよな」
「ええ、そうですね」
音楽の消えた店内はがらんと冷たい趣を露呈した。すると青年がすくっと立ち上がり言
った。
「さて、そろそろお開きにいたしましょうか」
かなりの酒を飲んだはずだが店主に酔った素振りは見えなかった。
「ああ、そうだな。少し、飲み過ぎたよ」
「お客さん、お迎えを呼んでおきましたよ」
そう言って青年は男の後ろを指差した。男が振り向くとそこにはふたりの娘が立っていた。
「お父さん！」
「こんな所でなにやっているの！」
「お前らこそ、こんな所で何を」
「何をって、お父さんを迎えに来たんじゃない」
男が首を振ってみると、そこは何処かの小さな空き家。
「そんな、あれは………。あいつは何処だ！」
娘達は顔を見合わせた。
「お父さん、だいぶ泥酔しているみたい」
「ほんと、ひとりこんな空き家で飲むなんて」
男はふたりの娘に寄りかかるようにしながら、千鳥足をふらふらと懸命に動かし家路に
着いた。夕方、目が覚めた時、彼は昨夜の記憶が全くないことに気付いた。うんうん思い
出そうにも、引き出しの中は空っぽ。ただ不思議なことに、妻の死を上手く受け入れられ
る準備が出来たような気分が彼にみち満ちていた。それはその日いちにち娘達が一緒にい
てくれたからかもしれないが。
それからの男の日々は相も変わらず妻のいない寂しさを伴うものであったが、妻の「味」
に対する執着は薄らいでいた。それに、食事という娯楽もふたたび彼の生活に溶け込んだ。
毎週末、ふたりの娘がかわりばんこに家に来て飯を作ってくれている。娘達の作る「味」
は妻の「味」に似ており、ふたりが見せる笑顔は男が必要としていた人生そのものであっ
た。
「ねえ、お姉ちゃん。お父さんが隣町の空き家で酔い潰れていたあの日、どうしてあそ
こに居るってわかったの？」
「なんだかよくわからないのだけど、電話がかかってきたのよ」
「やっぱりお姉ちゃんも？」
「やっぱりってことは」
「うん。私にも電話があった」
「電話って若い男の人の声？」
「そう」
「あれ、誰だったのかしら？」
「さあ………」

Download Report