エピソードで綴るパリとフランスの歴史 第7回:パリの都市改造(6 月 25 日) 質 疑 応 答 〔回答は常体で標記〕 1. 前回(第 6 回「フランス料理」 )の講座で、 「ユダヤ人の料理は美味だ」とおっしゃ っていましたが、なぜでしょうか。 素人の小生が特段の用意もなく発言したことを反省している。 「美味い」というかぎ り、なぜ美味いか?まで徹底して追究しなければならなかったであろう。 「美味い」 「不 味い」というのは主観の問題であり、客観的なかたちで示すのは難しいかもしれない。 しかし、料理はひとつの芸術にも似て、主観・客観の次元を超え「美味い」と「不味い」 の評価はあるようにも思われる。味覚への「馴れ」によるバリエーションはあるかもし れないが ―[注]。たしかに、多数のユダヤ人をかかえていた地域、エジプト、トルコ、 ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、オランダ、ドイツ、ポーラン ド、ロシアの料理は美味い。反対にユダヤ人があまり在住しなかった地域や国の料理は あまり「美味くない」 。その地域・国名は挙げないことにする。 [注]日本人はしょうゆの焼けた匂いを好むが、フランス人は豚皮の焼ける匂いとして嫌う。反対に日本 人はニンニクの匂いを嫌うが、彼らはこれを好む。広告に「ニンニクの芳しき香り」という文言が出る。 たしかに、流浪の民ユダヤ人はユーラシア大陸の西半分を移動した。行く先々でいろ いろな文化に接触し、それらのアレンジよって彼ら固有の文化を豊かにし、また、各地 でそれを広めていったのである。これは後期講座でもふれる予定だが、ユダヤ人が得意 とする部門は芸術(絵画・音楽・映画・彫刻・建築) 、抽象哲学、数学、物理学、言語 学(ユダヤ人は7か国語を操ると言われる)である。言語に長じているのは歴史的な迫 害のせいで、いつどこに移動しても適応できるよう、幼児教育段階から外国語を徹底的 に鍛えあげてきた教育のせいとも考えられる。これらについてユダヤ人の遺伝学的に見 て知能の高さのせいにすると、なにも説明したことにはならない。 さて、 「美味」の問題に戻るとして、その社会地理学的な要因を求めることにしたい。 さして根拠のある説ではないが、ユダヤ料理の美味は彼らの故地パレスチナと関係する のではないか。ここは国際通商の十字路に当たる。よって、オリエント由来の各種の香 辛料が豊富にあり、むしろ、この交易に頻繁に与ることによって彼らは生計を立ててい た。歴史の記録で「シリア人」として出てくる人物はすべてユダヤ人であったといわれ る。地中海貿易の中心的な取引品目は香辛料である。これがいろいろな径路を経てヨー ロッパの内奥部にまで達する。 料理での香辛料の精妙な調合はプロ料理人のあいだでも「秘中の秘」とされ、親方も 弟子になかなか教えようとしない。結局、弟子は親方のやり方を盗み見て味加減のコツ をつかむのだ。弟子たちが全国行脚で修業するのもその秘術に与るためである。それほ どに香辛料は料理に欠かせない食材である。 29 しかし、今や世界で評判をとる日本料理では香辛料はほとんど使わない。あっさりさ っぱりのなかで意表を突く美味を誇る。よって、香辛料取引から美味を説明することは 必要条件こそ満足しても、十分条件は満足しない。やはり、 「美味い」 「不味い」を分け る要素は何か ― 人間の感覚器官か、それとも香辛料か ― を解決したうえで論議しな ければならないであろう。こういう時こそ、プロのひと言を聴きたいものである。 2. ちょっと前に司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を十年ぶりに読み返していたら、日本の 警官・警察制度はフランスから導入したとのこと。そのフランス警察制度の基礎を 作ったのは「悪名高き」 (と司馬が同書の中で述べていた)ジョゼフ・フーシェと いう人のことでした。そこで質問です。 ① 歴史に登場するジョセフ・フーシェについて悪いイメージしかもっていません でしたが、実際はどのような人物だったのでしょうか? ② この時代、ヨーロッパの他国でも警察制度(軍制ではなく)は存在していたの でしょうか? 本日の講義で、籠城下のパリで学んでいた人物のなかで後に貴族院議員となる渡正元 を紹介したが、彼はフランスの警察制度を最初に紹介した人物である。ベリア・サン= プリ著『佛国警察提要』 (明治 11<1878>年)がその訳書である。 しかし、日本の警察制度を築いたのは別人であり、この人の名はよく知られている。 江戸幕府が崩壊すると、諸藩の兵(藩兵)が治安維持にあたった。しかし、藩兵は純然 たる軍隊であって、警察ではなかった。明治 4(1871)年に東京府邏卒(らそつ)3千 人が設置されたことが近代警察の始まりとなる。同年、司法省保寮が創設されると、警 察権は同省に一括され、東京府邏卒も同省へ移管された。 薩摩藩士川路利良は新時代にふさわしい警察制度研究のため渡仏し、フランスの警察 制度に則った改革を断行。司法省警保寮は内務省に移され、明治 7 年に首都を司る東京 警視庁が設立された。 以後の警察は、国家主導体制のもと、管轄する中央省庁の権限委任も多くおこなわれ たが、最終的に内務省に警察権が委任され、内務省方の国家警察・国家直属の首都警察 としての警視庁と、都道府県知事が直接管理下に置く地方警察の2体制に落ち着いた。 ①のフーシェ評に入る前に、②を先に片づけておこう。ヨーロッパ諸国における警察 制度の存否に答えることにしよう。端的にいって「存在した」といえる。外国との戦争 に備える国軍と別に、国内の治安を担当する警察があったことはどこでも同じだ。警察 は司法省管轄下で地方自治体のもとにおかれるのが常だった。 さて、フーシェ評。ここではジョゼフ・フーシェ(1759~1830)の悪評判の真否が問 われている。なぜ悪評判かというと、彼が「変節の政治家」として時に「政治のカメレ オン」という異名まで頂戴した人物であるからだ。 教職から革命家に転進し、1792 年の国民公会議員となり左派の山岳派(モンタニャー ル)に属した。93 年、国王ルイ十六世の処刑に賛成し、恐怖政治下、種々の監督にあた 30 る地方派遣議員として王党派の叛乱を過激に鎮圧したため、ロベスピエールによってテ ロリストと認定され、彼と対立。 94 年、 「テルミドールの反動」事件で恐怖政治の実行人ロベスピエールの打倒のため に奔走する。 総裁政府下でも巧みに政界を渡り歩き 99 年に警察長官となって反政府勢力 を弾圧した。 同年 11 月、今度は反政府のクーデタにおいてナポレオン・ボナパルトを支持し、その 執政政府時代および帝政期にも警察長官となり、巧妙なスパイ網をもって反ナポレオン 陰謀を暴き帝政維持に貢献する。 「秘密警察=フーシェ」という風評がたった。 その一方で反ナポレオンの動きをも示し、一時は国外亡命も余儀なくされたが、ナポ レオン「百日天下」でまたもナポレオンにすり寄ってふたたび警察長官となり、それと 同時にブルボン王家とも通じていた。 王政復古下では現職にとどまったが、やがて外交職に移られ、1816 年、ついに「ルイ 十六世処刑賛成者」として国外追放を受け、トリエステに引退して世を去った。 上記は単なる個人の経歴を淡々と列挙したにすぎない。 こうした変わり身処世術を 「是」 とするか「非」とするかで評価は正反対に分かれるであろう。豪傑・英雄好みの中国で は「是」とする人がいるかもしれないが、カトリック道徳観と封建的倫理観[注:封建制 を貫く倫理は滅私奉公である]の影響下にあるフランス人にはフーシェのような華麗な変身 (メタモルフォーズ)術はとうてい受け容れがたいであろう。 また、 「二君にまみえず」の倫理観をもつ日本人もこの政治処世術を「非」とする人が 多いだろう。日本に「判官びいき」という格言があるように、日本人は弱者や反権力態 度のゆえに悲劇的な死を迎えた人を支持する傾向が強い。ゆえに、フーシェを崇めるよ うな人は少ないだろう。ただし、フーシェに関する伝記のタネ本はほとんど仏文を和訳 したものが多く、フランス人の価値観をそのまま継承しているともいえる。 3.欧州各国は旧植民地の過去・現在・未来に対して責任があると考えているのでしょ うか。 答えるに難しい問いである。たとえば、アメリカは広島と長崎に対する原爆投下に責 任を感じているかどうかに類する質問であろう。アメリカ人はおそらく責任意識はもっ ているだろうから、その責任を帳消しにするため、ことさら真珠湾での不意打ち攻撃を 引きあいに出し、また、早期の終戦のためやむをえなかったという理屈をもちだす。 旧宗主国であった英・仏・蘭は表向きこそ、 「すべて過去のことだ」として責任回避 の態度を示すが、もし今の時点で植民地独立の運動が新たにもち上がったならば、独立 容認に動くものと思われる。カリブ海、太平洋の残った植民地でそうした運動が起こら ないのは、植民地のほうでもはや現状のほうがよいと判断しているからであろう。 「責 任」の引き受けは単なる心理や道義上の問題にとどまらず、 「賠償」という難題をかか えることにつながるからだ。現今のドイツとギリシャの関係を見れば、それはよく理解 できよう。外交は個人間の葛藤問題ではない。 31 1982 年のフォークランド紛争でイギリスが軍隊を送ったのはどう説明するか? と いう反論があるかもしれないが、あれは大英帝国のメンツをめぐる問題であり、アルゼ ンチンのレオポルド・ガルチェリ大統領が国内のナショナリズムの圧力を受けての軽挙 が開戦のきっかけになった。彼が慎重に処していれば、イギリスからアルゼンチンへの 平和的な譲渡はありえたであろう。この戦争の直後、ガルチェリ大統領は辞任に追い込 まれている。それまで不人気だったサッチャー首相の人気はウナギ昇りに上がった。 4.いわゆる「パリコレ、オートクチュール」などはよく理解できた。 首都パリとしての軍事上の“工夫(防備) ”はどんなものか. . .?! パリコレ、オートクチュールの話は第8回講座での「パリ万博の歴史」でふれること にしたい。本日のNHK映像「花の都パリの誕生」で出てきたパリ最古(世界最初)の 百貨店(オ・ボン・マルシェ)が紹介されたが、ここに出店をもったオートクチュール が消費者層(新興ブルジョジョアジー)を飛躍的に拡大するのに貢献した。 首都防衛の軍事的施設については第 10 回講座「普仏戦争」で扱うことにしたい。パリ はぐるりと城壁で囲まれていると同時に、16 か所の外堡をもっていた。パリに近づいた 敵はパリを砲撃するまえに、この外堡を破砕しなければかった。普仏戦争当時の大砲は 射程距離が最長でも 3,000mだったからだ。外堡は城壁からおよそ1~1.5km離れ た丘地に位置し、ここを制圧しないかぎりパリ市内砲撃はむりだった。 今、これら外堡はすべて陸軍の管轄下におかれ、首都防備にあたっている。小生が外 側から写真を撮っていて一時的に身がら拘束されたのは「犯人」と見まちがえられたか らである。なお、パリで公共施設の付近で何気なく夜間に歩行していると、警察官に呼 び止められることが多い。走り去ったりでもすると、すぐに後ろから撃たれるので絶対 に逃げてはいけない。だから、必ず身分証明書を携行しなければならない。小生は誰何 こそされたことがあるが、危険な目に遭ったことはない。 5.パリで洪水は起こったことはあるのか。 フランス語で「洪水」を「クリュ crue」というが、この語の看板がセーヌ川の川べり 岸壁に貼りつけてあるのに出会す。これは水位がここまで来たという標しである。前の 授業で何度かパリ地図と洪水写真を示したが、セーヌ川は蛇行しており、水嵩が増した とき川水が曲がりきれず、辺り一面が湖のようになる。これを「クリュ」というのだ。 私は 2001 年 3 月にもパリに行ったが、 この時も洪水で橋脚のところまで水位が上がって いるのを目撃した。ルーヴル宮殿に近いロワイヤル橋においてである。 なかでも、 「パリの水没」と言われた 1910 年の大洪水が有名だ。地下鉄の1号線は半 年間使えなくなった。当時は写真が一般普及していたために数多い写真が残っている。 それ以前にも「水没」の記録は残っている ― 百年に一度の割合で大洪水が生じるとい 32 われる ― が、それまでは 1910 年ほどではなかったようだ。翌 11 年にも洪水は起こっ た。よって、今のセーヌ川の岸壁はかなり高く、水面から5~7mもある。それは、川 幅を広くする際に、 浚った土砂を岸辺に積み上げ、 そこに護岸工事を施したためである。 なぜ水嵩が増すかだが、それは春先の雪解けによる。全長 700kmのセーヌ川はブル ゴーニュ地方の高地から蛇行しながらオンフルールまで達し、そこで大西洋に注ぐ。フ ランスに梅雨も台風もないが、この雪解け水はありがたい自然の恵みであるとともに、 時たまひどい災害を招くのだ。フランス全土は、峡谷を刻むような激しい凹凸がない地 形つまり緩やかな傾斜地である。 そこに間断なき雪解け水は静かに平地に広がっていく。 もし日本のように急流をなしていれば、深い谷を刻むであろうから、山間を抜け出た水 は一挙に海に注ぐ。ロワール川は例外的に急流であるため、その護岸工事だけをしっか りしていれば、洪水は起きない。じっさい、ロワールに氾濫は少ないのだ。 雪解け水はありがたい面もある。小生がかつてフランスを車で移動しているとき、毎 朝のニュースは「イノンダシオン inondation」であるが、 「○○地方は交通止め」とい う警告が入った。これも「洪水」と訳すが、意味あいはかなり違う。これは道路が冠水 して通行不能につき、交通径路を変えなさいという忠告である。つまり、同じ「洪水」 でも支障の度合いが低い。低いばかりか恩恵に与る面もある。農地は冠水することによ って肥沃になるのである。人口肥料や化学肥料の知られていない時代にはこの自然の作 用を利用して農地に施肥をするのと同じ効果を挙げたのだ。 「人工洪水」がこれだ。 6.パリの都市改造で要した資金調達はどのようにおこなわれたか。その結末は? 授業で小生は「混合財政」という用語を使った。つまり、公財政と民間財政の双方に 拠ったということである。受講生に配布したレジュメの 71~72 ページを参照されたい。 都市インフラ整備と公共施設の建造は公費(国と県で分担)で賄い、住宅や店舗の建 設は民間に任せた。都市の再開発であるため、当局が指定した地域を一括して公費を適 正価格で買い取り、建物を取り壊し、公道・上下水道・ガス管などインフラを施したう え、辻公園付きの分譲地として売り出す。インフラの施された分譲地のほうが当然のこ とながら値段が高い。土地収用価格と分譲価格の差額が工事費の一部に織り込まれる。 ここまでが公当局の仕事である。当座の費用は市財政から繰入金と借入(市債)で賄う。 この仕組みから当然に予想されることだが、家賃は高騰し、再開発地域の庶民は追い 出される。事業費用は当初予算を上まわるのが常であり、財政赤字は不可避だった。し かし、市財政がおりからの好景気により黒字(主財源としての入市税は堅調に市金庫に 入ってきた)であったこともあり、また、増税なしでおこなわれたために、十年以上も のあいだ都市改造の財政赤字は顕在化しなかった。しかし、赤字は避けられなかった。 事業が円滑に進むためには①公的資金が確実に入ってくること、②土地収用から分譲地 売却まで見込みどおりに進むこと、③工事費用の高騰がないこと、④公債がスムーズに 捌けること、の各プロセスが難なく進むことが必須だった。 当初はほぼ順調に進んだが、やがて当初計画から事業が拡大するにいたって赤字は避 33 けられなかった。こうして財政破綻がもはや隠せないほどに大きくなって工事は 1866 年から停滞するようになる。 公債の処理が終わるのは 1890 年代である。しかし、増税なしで遂行された点を評価 しなければならないであろう。それより国家財政に深刻な負担を与えたのは普仏戦争の 戦費捻出と賠償金のほうであった。 7. 当時の金融資本はどのように生起し、どのように発展(上記6に関連し)したのか。 ユダヤ系か? 前の講義で小生は「フランスでは金融は発達しなかった」と述べた。ジョン・ロ—事 件(1720 年代)とアッシニャ・インフレ(大革命期)で信用証券に手を出した者が大損 した記憶が人々にトラウマとして長く残ったためである。よって、人々は取引では現金 決済を望み、そしておカネが溜まると即金塊交換を要求するのだ。こうした風潮のもと で金融取引が発達するはずがない。 フランスで資本主義がかなり進展した七月王政 (1830 ~1848 年)期に金融を支配したのは「オートバンク haute-banque」といわれるユダヤ 系金融機関である。 「金融貴族」と訳すこともできる。 同時代の文学者スタンダールは七月革命の結果についてこう言う。 「銀行が国家の頂点に位している。ブルジョワジーがサン=ジェルマン労働者街の 人々にとって代わって事態を支配し、銀行はブルジョワジーの貴族となった」 、と。 革命によってブルボン正統主義の王朝が否定され、政治権力の座に就いたのは大銀行 家たちと一部の産業資本家であった。新内閣の人選に当たったのはラフィットとカジミ ール=ペリエであたが、前者は七月革命の政治的収拾をおこなった黒幕 ―「銀行王」の 異名をとった ― として知られ、後者の父はフランス銀行創立者のひとりで、自身もパ リの主要銀行の支配人であった。これら銀行家に協力する首相ギゾーなどは純理論派の 論客であった。 こうした金融貴族の支配下で七月王政下の政府は大規模な土木事業や鉄道建設事業を おこなうが、この資金調達のために発行される国債は大銀行家のみが引き受けるところ であり、その利子が彼らの手に入った。政府の発行する国債は 1830 年から 1846 年まで に 2 倍となって 25 億フランを数えた。結局、大銀行家は国債利子の収取者として国家財 政に寄生していた。しかも、膨張する国家財政の支えとして政府は間接税の増収に頼っ たから、金融貴族たちは小市民・農民・労働者層などの一般大衆に寄生する性格が強か った。また、彼らは国際金融の面での高利の取得を重視し、パリ取引所に上場される有 価証券の種類は増える傾向にあったが、ほとんどはベルギー、オランダ、ポルトガル、 プロイセンなど外国のもので外国政府の国債市場と評してよかった。 かくて、産業資本家はこの金融構造に反発し、小市民や労働者は間接税の増税の反対 者として政府に対立する。七月王政のもとで進んだ産業革命は労働者の増大と小市民層 の没落をもたらし、彼らの政治意識を発展させ社会的動揺の要因となる。 七月王政以降、進んだ産業革命は第二帝政に入ってさらに進行。ナポレオン三世は亡 34 命時代にサン=シモン主義やイギリス古典派経済学の文献を読み漁り、経済発展の原理 についてかなりの理解と、独自の未来社会へのヴィジョンをもっていた。未来の皇帝は これら知識を「皇帝社会主義」と折衷し、信用制度の整備拡張と大規模な公共事業を通 じて、産業の近代化と生産力の増強を通じて貧困を絶滅できると考えた。権力の座につ いた彼はまず革命の再発を防止しつつ産業革命を推進しようとした大ブルジョワジーと 提携して積極的な経済膨張政策を打ち出す。折からカリフォルニアとオーストラリアの 金鉱発見が巻き起こしたゴールドラッシュの世界規模の好景気は帝国の財政を支え、大 胆な経済政策の実行を保証した。 50 年代の経済的繁栄をよく象徴するのは、サン=シモン主義者のユダヤ人ペレール兄 弟が設立したクレディ=モビリエ(動産銀行)に代表される巨大な投資銀行の出現であ る。これら金融機関の出資によって大規模な鉄道会社が設立され、工業部門の技術革新 と設備投資が可能となった。鉄道網は 1850 年の 3,083kmから 1856 年の 6,280kmへ と倍増した。パリ都市改造はこうした好景気ムードのうちに敢行されたのである。 「馬上のサン=シモン」と綽名されるナポレオン三世の積極的な信用拡張政策はゴー ルドラッシュのもたらす豊かな資金に支えられて熱狂的な投機旋風を巻き起こし、労働 者・職人さえも一攫千金を夢みて証券取引所に押し寄せるほどだった。パリの地価暴騰 と公債市場の公開が投機的風潮に輪をかけた。この投資の大衆化現象は普通選挙権の経 済版というべきものであった。しかし、金融に慣れない国民の常として破局が訪れた時 の影響は大きい。 8. 都市改造のグランド・デザインを描いた基礎は何か。資本はあったのか? 都市学 というものは当時あったのか? パリ都市改造の下絵となったものはある。それはフランス革命下でつくられた芸術委 員会の構想である。ナポレオン一世はこれを採用して一連の公共事業に乗り出したほど である。そして、七月王政下でも公道の拡幅や直線化の試みがおこなわれたが、オスマ ン知事の前任者ランビュエオー知事が道路拡幅や歩道敷設、下水管工事の延長をおこな った[注:マレー地区にランビュテオー通りという名が残り、地下鉄駅の名にも残っている]が、その 下絵となったのもこの構想である。 オスマンもその延長上にあると言ってかまわないが、彼の構想は規模・種別の多さ・ 来ヴィジョンにおいて遥かに卓越している。公衆衛生、交通、安全、住宅、美化という 5 つの項目を挙げた点を想起されたい。 資本は既述のとおりである。おカネはあったが、庶民のおカネまで動員する手立てと しての金融機構がなかったのである。 「都市学」の意味をどう理解するかにも拠るが、 ‘urbanism’という語は 19 世紀中に はない。この語が出てくるのは世紀転換期のイギリスにおいてである。雑然とした中世 的な趣の都市を近代化し、再整備する必要性を唱える者はボツボツ現われた。ロバート・ -エンやフーリエの未来都市構想がそれだ。彼らの構想は都市再開発を狙うより、むし 35 ろ自然の広大な平地に理想の都市を描くところに特徴がある。 9.大規模工事につきものの汚職はあったのか? 汚職はなかったと聞いている。たとえあったとしても隠された可能性があるので、こ れは何ともいえないだろうが―。最高責任者のオスマンはこの点で厳格な人物であった ことは確かである。 10.何回か話題として登場する「アウトレット」への具体的な行き方を教えてくださ い。だんだんと興味が出てきたもので … 行ってみたいのです。 パリ都心部シャトレ(Châtlet)駅またはナシオン(Nation)駅でRER線(Réseau Express Régional)のA4線のホームに出てマルヌ・ラ・ヴァレ(Marne-la-Valée)行 き電車に乗車し東へまっしぐら 30 分、終点の一つ手前の駅ヴァル・ドゥーロップ Val d'Europe で下車する。その正式な駅名は‘Serris – Montévrain, Val d'Europe’という。 プラットホームから進行方向のエスカレータを登ると、すぐに出口(Sortie)にぶつ かる。そこを出ると、すぐ右手にアーケード商店街が目に入る。そこをまっすぐ 5 分ほ ど進んだところにアウトレット店に出る。アウトレットとアーケード商店街(Centre commercial)をまちがえないよう注意されたい。アウトレット店はアーケード商店街の 右手に位置した別棟であったと記憶している。もし迷ったら、店員に限らずだれでもよ い「アウトレット」と言えばほとんどのフランス人は理解できるはずである。アウトレ ット店に出れば、世界に有名な名の店が軒を連ねているのですぐわかるはずである。フ ランスブランドとは限らない。 11.本日はビデオを拝見するのを楽しみにして参りました。先生の講義は説明がてい ねいで、受講してよかったです。次回もお願いしたいと思います。あまり難しい内 容(奥の深い)ではないほうが私は聴きやすいです。毎回、興味深い内容です。こ れからもよろしくお願いいたします。 気に入ってくださって嬉しく思う。ビデオでは事がらのほんの一部しか紹介できない が、さすがに迫力はある。 あの映像で夢枕獏と本上まなみが屋根裏部屋から下を覗く場面が出てくるが、ベッド が写っていることに気づかれただろうか。客間、居間、寝室を区別せず人目に晒すとい うのはフランス特有のことであり、ここにもフランスらしさが見いだせる。小生も初滞 在時に屋根裏部屋に住んだ経験がある。傍目から見ると風情あるように思えるかもしれ ないが、 屋根裏部屋というのは外気の寒暖を直接に受けるため、 夏は暑苦しく冬は寒い。 36 冬は全室暖房のせいで凌げるが、夏は辛く、安眠できないほどだ。しかも、地上8階ま で螺旋階段を昇らなければならない。忘れ物をするとたいへんである。とにかく屋根裏 部屋は若者向けの住居である。 12.なぜユダヤ人は嫌われるのでしょうか。 これは後期講座「ヨーロッパ史における戦争と平和―19 世紀末のユダヤ人問題―」 (9 月 24 日)で取り扱うつもりだが、PRの意味を込めて、少々立ち入ってふれておこう。 「ユダヤ」と聞いてすぐに迫害を思い浮かべる人は多い。ヨーロッパ人にとってユダ ヤ人は独特の意味あいをもっている。とくに、ナチス=ドイツによるユダヤ人絶滅政策は 記憶に新しい。ここでは、なぜユダヤ人がヨーロッパで迫害を受けたかという問題に絞 って述べてみたい。 まず、ユダヤ人とはだれかが問われねばならない。この問いは自明の理ではない。な ぜなら、ユダヤ人においては長い歴史の過程で人種・言語・歴史・国籍上の混交が進み、 民族の規定が簡単ではない。現に、イスラエル国民のすべてがユダヤ教を奉じているわ けでもないし、キブツ(ユダヤ共同体)に属しているわけでもない。人種的特徴もはっ きりしない。そこで、ユダヤ人とは①ユダヤ人を母親にもつもの、②ユダヤ教徒である こととなった。逆に言うと、イスラエルに住む人であってもユダヤ人でない者はいるこ とになる。合衆国に住む者で身体的特徴からユダヤ人のように見えても、ユダヤ人では ない者はたくさんいるのである。但し、外部者から見た「ユダヤ人」の範囲は内部者か ら見た「ユダヤ人」の範囲よりは広いのがふつうである。 ユダヤ人は選民思想をもち、他民族との通婚を禁止されていた。ユダヤ人は独特の共 同体を形成し、他民族と交わるのをよしとしなかった。同化を嫌い、とくに通婚禁止は 重大な結果を招いた。言い換えると、ユダヤ人を排斥したのはユダヤ人自身だとも言い うる。 「選ばれた民はつねに選ばれた民でなければならなかった」のだ。通婚禁止はえて して近親結婚につながり、遺伝学上の問題を積み残す。そこで、母親がユダヤ人である 場合はユダヤ人というところに落ち着いた。 これも長く誤解されていたこととは異なり、ユダヤ人は根っからの商人や金貸しでは なく、その昔、農業はもちろん、製造業にも、商業、サービス業にも就いていた。しか し、古代ローマ帝国による迫害が起こり、ユダヤ人の全世界への離散(ディアスポラ) が始まって以来、ユダヤ人は偏った職業に従事するようになった。それはなぜなのか。 それはキリスト教の教義のほうに問題があったからだ。 キリスト教徒のユダヤ人に対するイメージは「豚」 「高利貸」 「風呂屋」 「買占商人」 「天 秤」 「宮廷金庫番」 「傭兵」 「鉤鼻」などである。 「豚」 ・・・・・・・・聖なる動物視、貪欲 「高利貸」 ・・・・・・情け知らずの悪魔、冷血鬼 「風呂屋」 ・・・・・・床屋、外科医、売春宿 「買占商人」 ・・・・・穀物取引、価格操作、窮乏 37 「天秤」 ・・・・・・・王の命令で貨幣改鋳をする者 「宮廷金庫番」 ・・・・王・貴族の金庫番、徴税請負人 「傭兵」 ・・・・・・・金で兵役拒否、敵前逃亡 「鉤鼻」 ・・・・・・・強情・卑劣・強欲・陰険・狡猾・好色 キリスト教の教義には戒律があって「七つの大罪」が退けられてきた(聖書) 。すなわ ち、 「遊蕩」 「色欲」 「貪欲」 「大食」 「傲慢」 「怠惰」 「窃盗」がこれである。これらの「罪」 にかかわる職業が卑しいとされた。つまり、上述の「罪」に対応して順にいうと、宿屋 と風呂屋、売春婦、商人、料理人、騎士、乞食、泥棒がそれである。なかでも高利貸し は「七つの大罪」のすべての要素を含む、最も卑しい職業とされ、この行為は万死に値 するとされた。しかし、これらの職業はキリスト教徒にとっても日常生活を営むうえで 欠かせないものであり、禁忌と必要のギャップを埋めたのがユダヤ人であった。ユダヤ 教においてはこうした職種が賎業であるとの観念はなかった。 卑しまれたユダヤ人はヨーロッパ社会で土地の所有を認められず、したがって、農業 から締め出され、ギルドへの加入を認められなかったゆえに製造業からも、そして、通 常の商業活動からも排斥されていった。こうして、しだいにユダヤ人はキリスト教徒の やりたがらない職業へ向かった。 金貸し業と並んで、ユダヤ人が憎まれたもうひとつの行為は奴隷取引と穀物取引であ った。西欧とイスラム世界との交易はつねに前者にとって赤字貿易であり、その穴埋め に奴隷を輸出せざるをえなかった。この奴隷取引(明確なる賎業)に携わったのがユダ ヤ人であった(セビージャとヴェルダンが取引市として有名) 。 しかし、13 世紀になると西欧社会は変化し貨幣経済が発展し、金融と信用制度が整い はじめた。 聖書の解釈も徐々に金融業および金貸し業を是認する方向に傾いた。 かくて、 それまでそうした関連産業に独占的に就いていたユダヤ人が邪魔になってきたのである。 これが 14 世紀から始まるユダヤ人排斥の動きに連なっていく。そこにきて 14 世紀半ば にヨーロッパ中にペストが蔓延し、多数の人々が死亡した(2,500 万人)が、ユダヤ人 が毒を撒いたせいと信じ込まれ、彼らに対する迫害に拍車がかかった。 こうして西欧に住めなくなったユダヤ人はまず北方のアントワープ、アムステルダム へ、次いで東方へ転じ、ドイツ、ポーランド、バルト海岸に移り住んだ。この移住民を 「アシュケナージ系」という。もう一方の避難方向はオスマン=トルコ(宗教的に寛容だ った)経由でベラルーシ、ウクライナ、ロシアへ向かった。この流れを汲むユダヤ人を 「セファルディーム系」という。つまり、ユダヤ人の向かう先は経済発展の遅れた地域 が多く、彼らがもっていた金融技術(とくに徴税請負人)が当地の領主層から重宝がら れていたのである。 ところが、19 世紀の後半になると、東欧・中欧の地域も遅ればせながら資本主義が興 隆する。ポーランドとリトアニアは長くユダヤ人の安住の地であり、商人、高利貸し、 宿屋業、貴族の執事、貨幣鋳造、徴税請負人、製粉業、周旋屋などに従事していた。や がて、ここでも彼らは次第に“余計な”民となり、迫害が始まる。かくて逃げ場を失っ たユダヤ人は西側に還流し、一部は新大陸を目指すようになる。東側では帝政ロシアが 控えており、大量虐殺(ポグロム)をおこなったため、東への逃亡先は閉ざされていた 38 のである。東欧ではユダヤ人は同化どころか、追放の憂き目に遭う。ユダヤ人はUター ンして今度は西方をめざす。 東欧からの大量の難民は中・西欧の都市に溢れた。 オリエント風の慣習をもった異邦人 のとつぜんの出現は西側の人々に不安と脅威の念をもたらした。すでに同化が進んでい たユダヤ人の側でこれら難民を受け入れる体制は崩れており、排撃に対する防御は困難 になっていた。時あたかも民族主義の高揚、国家対立の時代でもあり、国際的なつなが りをもつユダヤ人は敵国から送り込まれたスパイと受け止められた。 これが 1880 年代に 始まる反ユダヤ主義思潮の背景をなす。世紀末の西欧で民族主義と覇権主義の嵐が荒れ 狂っただけでなく、国内的にも経済発展で大量の社会敵落伍者を輩出していた。彼らに とってユダヤ人は格好の「贖罪の山羊」 (スケープゴート)となった。とくに社会的落伍 者の階が進出先としての植民地をもたないドイツとオーストリアで激しかった。この思 潮のなかで、ウィーン滞在中の若き日のヒトラーが育つのである。 世紀末の西欧を席捲した反ユダヤ主義は、ユダヤ人の世界支配という荒唐無稽な観念 に基礎を置き、それへの反撃という色彩を帯びる。ユダヤ人は他民族とは異なり、一家 族のような構成をもち、血の絆によって結ばれているという西欧民衆の考え方は19世 紀の数十年にわたって勢威をふるったロスチャイルド家の成功例によって実証されてい るかのような印象をふりまいた。このユダヤ人の家族主義は精神的、宗教的、政治的な 絆が消滅に向かいつつある世紀末の西欧ではきわめて異質な要素であった。それまでの ユダヤ人憎悪は経済的要因にもとづくものであり、政治的には不毛であった。これに対 し、反ユダヤ主義はユダヤ人が貴族階級の特権と結びついているだけに、国民国家と進 歩・民主主義の主要な敵と見なされるようになった。 すでに財政的に破綻している貴族階 級を援助して古い権利を保持させようと企んでいるのではないかという憶測を招いた。 その意味でユダヤ人はブルジョアジーと民衆の両方から敵意を向けられた。ユダヤ人を 片付けよ、 そうすれば貴族階級は自ずと舞台から消えてしまうだろうということだった。 ドレフュス事件のフランスと両戦間期のドイツにおける反ユダヤ主義はいずれも敗戦 後(フランスにとって普仏戦争、ドイツにとっての第一次世界大戦)の復讐熱、社会主 義の脅威という酷似した社会的条件のもとで発生したという点、その運動を担ったのが 大衆であり扇動したのがマスコミであるという点で類似している。違うのは、それらの 要素の社会的影響の深度、国民国家としての歴史的経験および民主主義の政治的経験の 長短に起因する振幅の度合い、解決方法の面である。さらに、ドイツの反ユダヤ主義は ダーウィンの生存競争・淘汰説から着想を得た人種理論にもとづくところの優等人種を 劣等人種による「汚染」から守るという擬似科学的装いをもっていた。ユダヤ人はすで に中世の「豚」から「人間」への“昇格”を果たしたのであるが、それゆえにこそ却っ て生物学的「汚染」の根源と見なされた点で中世ヨーロッパよりもはるかに大きな脅威 と映り、人種の絶滅という残虐な手段を呼び込むことになった。 反ユダヤ主義は過去のものとなっただろうか。たしかに、狭い意味での反ユダヤ主義 は根拠を失ったといえよう。しかし、イデオロギー対立が崩壊してからというもの、イ デオロギー対立の陰でそれまで溜まっていたガスが暴発するように、地球上で新たな装 いをもった形で国家摩擦や民族抗争が激化している。そして、反ユダヤ主義の中核をな 39 していた民族・人種理論がふたたび姿を現わす。国家や民族のアイデンティティが脅か された場合、皆殺しの惨劇が再現される可能性はいっこうに衰えていない。旧ユーゴス ラヴィアの例が典型的である。そして、マジョリティとマイノリティの対立は先進国で も深刻化している。それはわが国日本でも例外ではない。数十年前の戦争の大惨禍をも って死滅したはずの、他国領土支配の正当性、 「優等民族」 ・ 「劣等民族」といった論議が ふたたび大手をふって罷り通るような状態に危惧を覚えざるをえない。 民族や人種というものは境遇や生活条件の変更や平等化を実現しても動かすことので きない自然的差異、最も目立つ差異のひとつである。民族・人種妄想は、近代に登場し た平等の理想が自らの意思を貫徹することに対するひとつの反動のタイプである。マイ ノリティの同化の過程は平等化を意味した。この過程が進めば進むほどマジョリティと マイノリティのあいだの相違は前者にとって驚嘆・反感となって表面化する。この疎隔 はマジョリティとマイノリティの交際をほとんど不可能にし、その反動としてマイノリ ティの側におけるカウンター・アイデンティティの確立を促す。これは事態を悪化させ、 差別を助長させるだけの結果につながる。この差別は多民族国家がかかえる種々の困難 や葛藤を暴力で解決しようとする政治運動の核となりうる。多民族国家のなかでの平等 の実現は期待をそそる理想である。しかし、それは同時に、最も危険な対立を呼び込む パラドクサルな期待でもありうる。 (c)Michiaki Matsui 2015 40
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