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脱原発を決めたドイツの政治
~ドイツに
ドイツに学んで私
んで私たちも脱原発
たちも脱原発へ
脱原発へ~
本田
宏(北海学園大学教授)
ドイツは旧西ドイツ時代の反原発運動、緑の党の登場、社会民主党と労働組合の政策転換、
「赤
緑」政権と電力会社の脱原発合意、保守政権の転換という 40 年近い葛藤を経て、脱原発を決め
ました。ドイツの例を参考に、脱原発を日本でも実現していくための条件を考えます。
1.(西
(西)ドイツの
ドイツの原子力開発(
原子力開発(1950 年代後半~
年代後半~60 年代)
年代)
(1) 保守政権
保守政権の
政権の時代:
時代:長らくアーデナウアー
らくアーデナウアーが
アーデナウアーが連邦首相をつとめる
連邦首相をつとめる。
をつとめる。
その後、二人の首相。与党はキリスト教民主同盟(CDU)
:ドイツ南部に多いカトリック系と、
一部のプロテスタント系を支持層とする保守政党(バイエルン州ではキリスト教社会同盟、CSU
を名乗る)。
経済界との結びつきが強いが、キリスト教的な価値観(家族や慈善事業を重視)の影響もあり、
経済万能主義ではない。保守政権は、高度経済成長を「社会的市場経済」(東ドイツの国家的社
会主義に対抗してしつつ、社会保障にも一定の配慮をする市場経済)というスローガンの下で実
現。
(2) 原子力法や
原子力法や連邦原子力省の
連邦原子力省の設置など
設置など、
など、原子力政策推進体制が
原子力政策推進体制が確立
原子力政策:当初は西ドイツ独自の重水炉の開発を目指す。やがて電力大手が米国から軽水炉
を導入し始める。原子力開発は高速増殖炉や高温ガス冷却炉、及び再処理工場に重点が置かれる。
電力業界:大手 8 社(東西ドイツ統一と 1990 年代後半以降の EU の電力自由化に対応して、
RWE、E.ON、EnBW、Vattenfall の巨大 4 社に再編)。大手電力会社は州や自治体に株を割り当
て、残りは銀行などが保有する官民混合形態をとり、電力会社の監督役会に州・自治体や従業員
代表を入れている。送電線は大手電力会社の共同管理。数百の配電会社の多くに自治体が関与。
2.社会民主党(
社会民主党(SPD)
SPD)と自由民主党(
自由民主党(FDP)
FDP)の社民自由連立政権時代
社民自由連立政権時代(
連立政権時代(1969~
1969~1982 年)
(1) SPD:
SPD:ヨーロッパ最古
ヨーロッパ最古の
最古の大政党。
大政党。
労働運動に基盤をおいていたため、ドイツ帝国時代にはビスマルクに敵視されたが、第一次世
界大戦後のワイマール共和国時代に与党になる。ナチス時代に弾圧される。第二次世界大戦後は
ドイツ統一と反核運動を重視したが、選挙では勝てず、1959 年に現実路線に転換。SPD は 1966
年に保守(CDU/CSU)との大連立政権に参加。1969 年からは 1982 年まで小政党の自由民主党
(FDP)との連立政権を率いる。その政権の前半(1974 年までのブラント首相)では東欧・ソ
連との和解などの成果を上げたが、その後半(1982 年までのシュミット首相)には原子力推進
や米国の核兵器配備容認をめぐって党内が分裂する。
(2) FDP:
FDP:自由主義の
自由主義の小政党。
小政党。
二大政党のどちらとも連立が可能な「要政党」の有利な位置をえる。1970 年代には環境政策
や人権にも関心を見せたが、原子力推進の立場を批判される。
1
(3)反原発運動
(3)反原発運動の
反原発運動の登場
SPD・FDP の連立政権下で原発が多数計画され、第一次石油危機で加速。住民の反発招く。
市民イニシアチヴ運動:環境市民・住民運動が全国各地に登場。全国組織として BBU(全国
環境保護市民イニシアチヴ連盟)が 1972 年に結成される。
1975 年 2 月のヴィール原発予定地占拠:ワイン農家主体の市民運動、学生、アルザス地方の
独仏スイス国境地帯の住民間の連携。裁判所の介入。原発計画の頓挫。
ブロクドルフ原発闘争:1976 年 10、11 月、1977 年 2 月、ブロクドルフ・デモで、予定地占
拠を目指す 3 万人の抗議行動があり、CDU 主導保守州政権の警察と衝突し、多数の負傷者・逮
捕者を出す。これに対し、裁判所が介入し、1976 年 12 月の行政裁判所による工事中断命令、さ
らに 1977 年 2 月 9 日の決定(核廃棄物処分の措置が不十分であることを根拠に、当面の工事再
開を禁止)を控訴審も支持する。同原発の建設工事は 1981 年まで中断。また他の地点でも原発
建設工事や新設計画の認可が凍結状態(1977~80 年)になる。
学生運動の中で新しい価値観を持つようになった多数の若者が、ブロクドルフ原発闘争をきっ
かけに反原発運動に合流し、一部は SPD や FDP、及び労働組合の青年部において反原発派の一
角を形成。また大学のある都市の怒れる若年層は、やがて緑の党に合流していく。
(4) 原子力政策が
原子力政策が国政の
国政の重要争点に
重要争点に浮上
原子力「市民対話」(1975~1978 年):社民自由政権は様々な団体や学校などを通じて原子力
政策をめぐる市民との対話集会を各地で開き、世論を「啓蒙」しようとする。
核廃棄物(使用済み核燃料)の処理・処分能力が原発認可の条件に:上記の裁判所の判決や、
連邦政府の方針、及び 1976 年の原子力法の改正により、原発の建設工事の再開や新規原発の認
可には、核廃棄物処理能力の確保が義務付けられる。
再処理工場立地問題の紛糾:1977 年、ドイツ北部の東独国境に近いニーダーザクセン州ゴア
レーベンの岩塩坑跡に、再処理工場と核廃棄物の最終処分場などを含む「総合処理センター」を
建設する構想が本格化し、反対運動も激化。1979 年 3 月、同州の首相アルブレヒト(CDU)は、
国際的な原子力専門家(批判派も含む)を招いて国際検討会議を開催。米国スリーマイル島原発
事故後、
「総合処理センター構想」の建設が政治的に困難であるとの結論を表明。同構想は頓挫。
高速増殖炉建設計画の紛糾:ドイツ西部カルカーに建設。安全上の懸念多く、コストが増大。
ノルトライン・ヴェストファーレン州の政府与党(SPD・FDP)は州議会選挙で票を減らす。
将来の原子力政策に関する連邦議会特別調査委員会(1979~1980 年)
:原子力政策に対する政
党間の合意が崩壊したため、連邦議会で高速増殖炉を中心に原子力政策全般を議論し、脱原子力
を含む 4 つのエネルギーシナリオを原子力推進・反対両派の専門家を交えて検討。
つかの間の原発建設再開(1981~82 年):1980 年の連邦議会選挙で与党が政権を維持したた
め、原発の建設工事が再開され、西ドイツ最後となる 3 基の原発の新設も決まる。
3.ドイツ緑
ドイツ緑の党(正確には
正確には Grünen, Greens
複数形の
複数形の「緑人」
緑人」)の
)の登場
既成政党に失望した原発立地地域の住民や、大学のある都市の若者たちの間から、新党結成の
動きが具体化。北ドイツの町村で 1977 年に初の議員が誕生。1979 年には州議会への緑の政党の
進出が始まる。1979 年に欧州議会選挙に初挑戦し、議席は獲得できなかったものの 3%以上の得
2
票率を得て、政党交付金を得る。1980 年に全国政党の緑の党結成。1980 年の連邦議会選挙では
議席獲得できなかったが、1983 年の連邦議会選挙で 5%の議席獲得条件の突破に成功した。
緑の党の結党時の綱領の 4 原則:「エコロジー」「底辺民主主義」「非暴力」「社会的」
初期の「底辺民主主義」の実践:普通の人々の下からの参加に開かれた民主主義を実践しよう
とした。職業政治家・エリートの発生を防ぐ目的で、議員職の「ローテーション」(任期の途中
で辞職し、比例代表名簿の次席者に職を譲る)、議員候補者や党の役職の男女同率原則、共同代
表制、会議の公開制、議員報酬の党への上納、議員と党役職の兼務の禁止など。しかし後に弊害
も多く発生し、男女同率原則や共同代表制を除いて多くの規則が廃止・修正される。
路線論争:1980 年代に州での政権参加をめぐって激しい党内論争があったが、最終的に政権
参加を認める方向で現実派の主張が通る。今は政局に強い現実派と政策に強い左派で役職を案分。
「ミリュー政党」:支持層の核は、大都市の学生街に形成されたコミュニティーや社会運動の
ネットワーク。住民サービス・福祉・教育関係の従事者や、大学生に支持層が多い。
運動政党:
「新しい社会運動」の勢いが追い風に。反原発運動(1979 年と 1981 年には 10 万人
デモ)と反核平和運動(数百万人)の相乗効果、1968 年の学生運動の経験者、それに女性運動
の実践の中から台頭。現在の政策の重点は定住外国人との共生や、環境・エネルギー政策、女性
政策、ベーシックインカム(最低所得保障年金)の提案。ハインリヒ・ベル財団は開発協力も行
う。
市町村、郡、州、連邦、欧州議会の各レベルに進出:政権参加の経験も蓄積。大都市や一部の
州では第一党ないし第二党になっている。欧州緑の党を先導。
選挙制度の追い風:市町村から州、連邦、欧州議会に至るまで、比例代表制を基本とした制度。
ただし 5%の得票率を超えないと議席はもらえないので、選挙のときに党は結束。
他の政党との競合関係:西ドイツ時代は、冷戦下で、裁判所によって共産党が禁止されていた。
大政党の SPD は現実路線だったので、左の位置が空いていた。しかし近年は、緑の党はむしろ
中道化してきた。ドイツ統一後の旧東独共産党は現在、左翼党として定着。
4.コール首相
コール首相の
首相の保守政権時代(
保守政権時代(CDU・
CDU・CSU と FDP の連立、
連立、1982~
1982~1998 年)
(1) 保守政権下の
保守政権下の原子力政策
緑の党に票を奪われるようになった FDP は内紛の末、1982 年に保守の CDU/CSU との連立に
鞍替えし、以後は大企業の利害を代表する経済自由主義の性格を強める。
連邦の政権が保守に交代しても、原発の新規発注はできなかった。ドイツでは原発の許認可権
限は州政府にあるが、州政府は反原発運動が州議会選挙に及ぼす影響を恐れるからである。
ドイツ南部バイエルン州首相シュトラウス(CSU 所属)はヴァッカースドルフに電力業界が出
資する再処理工場の建設を強引に推進し、1985 年から反対派の住民運動と激しく衝突。1986 年
のチェルノブイリ原発事故後、反原発世論の高まりと、反対運動による工事の遅滞、建設コスト
の増大、及びシュトラウスの死去(1988 年)を受けて、電力業界は 1989 年、連邦や州の国策と
して推進されてきた同再処理工場計画の放棄を発表する。
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(2) 州レベルの
レベルの「赤緑」
赤緑」連立政権の
連立政権の誕生:
誕生:緑の党が定着。
定着。
SPD も連邦の野党になると、原子力批判を強め、1984 年のエッセン党大会では再処理工場や
高速増殖炉の建設への反対を打ち出す。チェルノブイリ原発事故後、SPD は 10 年以内の脱原子
力を 1986 年 8 月のニュルンベルクでの連邦党大会で圧倒的多数で承認。両党の州レベルでの連
携が可能になる。州レベルではヘッセン州で初めて SPD と緑の党が 1985 年 12 月に連合政権を
樹立。1990 年代にはゲアハルト・シュレーダー(SPD、後の連邦首相)が州首相となったニー
ダーザクセンを始め、旧西ドイツの多くの州で「赤緑」連合政権が誕生し、原発への安全規制強
化によって脱原子力を促進した。
(3) 労組の
労組の転換
ドイツ労働総同盟(DGB)は 1950 年代の反核平和運動に関与したが、後に手を引く。原子力
の民生利用には漠然と肯定的だった。ブロクドルフ原発問題をめぐって、1976 年から各労組の
青年部や地方支部、小労組で反原発の少数派が登場。
労使共同原子力推進キャンペーン:ドイツでは労組は産業別に組織され、企業を越えた労働者
の連帯感が強い。これに対し、企業別に従業員の利益を代表する従業員代表委員会もあり、その
委員の約7割は労組が推薦してきたものの、原子力関係企業の従業員代表委員会は 1976 年 11 月、
経営側からの資金提供を受け、原子力推進の運動団体を結成。
原子力施設の労働現場の問題への労組の取り組み:ロベルト・ユンク『原子力帝国』
(Atomstaat)
(1977 年)は、フランスのラ・アーグの再処理工場での劣悪な放射線管理や環境汚染、被曝労働の
大半を押しつけられる派遣労働者の不十分な保護、労働者の権利の制限、及び職場への警察国家
的な監視について取材したルポルタージュ。この本への大きな反響に対して、労組が反応。
DGB のハンブルク大会(1986 年 5 月 25~31 日):チェルノブイリ原発事故後、「できるだけ
早期の」脱原発を求める決議採択。最大労組の IGM(金属産業労組)や小労組(出版印刷労組、
鉄道労組など)が主導。化学産業労組(IGCPK)、鉱山エネルギー労組(IGBE)、及び公務運輸
労組(ÖTV)内の発電所従業員など、原子力関連業界の労組は脱原子力に抵抗。
5.脱原発政策の
脱原発政策の交渉と
交渉と決着(
決着(1990 年代~
年代~2011 年)
(1) 電力業界の
電力業界の方針転換と
方針転換とエネルギー・
エネルギー・コンセンサス交渉
コンセンサス交渉
チェルノブイリ事故と再処理工場建設の放棄、及び赤緑連立州政府の誕生への対応として、電
力業界の一部も 1990 年代初頭、右派労組を仲介役に、SPD とエネルギー政策についての対話を
開始。やがて保守政権と与野党、労組や経済団体、環境団体も交えた円卓会議(1993 年)に発
展した。交渉は決裂したが、既存原発の残存運転期間の設定という基本的な一致点は形成される。
(2) 赤緑の
赤緑の連邦政権(
連邦政権(1998~
1998~2005 年)と二大政党の
二大政党の大連立政権(
大連立政権(2005~
2005~2009 年)
1998 年 10 月に発足した社会民主党と緑の党の「赤緑」連立政権(シュレーダー首相)は、脱
原子力法の実現を目指して電力業界と交渉を行い、2000 年 6 月に合意成立。脱原子力法案は 2002
年 4 月に発効。当時 19 基あった原子炉は、平均 32 年の運転期間と設定され、2022 年までに順
次閉鎖されることになる。ただし電力会社は旧い原発を早めに閉鎖し、余剰分の運転期間を別の
原発の運転期間に加算できる。またフランスとの使用済核燃料の再処理契約は 2005 年 6 月末に
4
終了することとされた。赤緑政権は並行して、環境税を導入したほか、自然エネルギー電力固定
価格買取制度を主眼とする再生可能エネルギー法の制定を実現した。2005 年から 2009 年までの
二大政党の大連立政権(メルケル首相)は、前政権の脱原子力政策を維持した。
(3) メルケル保守連立政権
メルケル保守連立政権(
保守連立政権(CDU/CSU と FDP の連立、
連立、2009 年~)
古い原発をできるだけ長く運転したい電力業界の意向をくんで、保守政権は 2010 年秋に原発
運転期間の延長を決めたが、2011 年 3 月、福島原発事故後に凍結。同月、三つの州議会選挙で
CDU と FDP が敗北、緑の党が躍進。特に南西部のバーデン・ヴュルテンベルク州では緑の党初
の州首相が誕生。これに対し、メルケル首相は 2011 年 4 月、
「電力供給確保の倫理的側面に関す
る委員会」設置。保守政党の支持層に対しても、脱原発の政策転換の必要性を説得しようとした。
元国連環境計画事務局長の政治家(CDU)とドイツ学術振興会会長を共同委員長とし、原子力賛
成反対両様の意見を持つ科学界(社会学、環境社会学、生物学、地質学、消費者政策、環境政治
学、哲学)や財界(化学企業 BASF)、教会(カトリック、福音派)、労組(IG-BCE)の代表、
元政治家(FDP、SPD)の 17 名で構成。5 月末の最終報告書は 2021 年までの完全な脱原発や、
高レベル核廃棄物を取り出し可能な状態で貯蔵することなどを提言。これを受け、メルケル政権
は 6 月、既存の旧い原発 8 基の即時閉鎖と残りの原発の 2022 年までの段階的廃止を決定。
6.日本への
日本への教訓
への教訓?
教訓?―ドイツとは
ドイツとは政治的
とは政治的・
政治的・社会的条件がかなり
社会的条件がかなり異
がかなり異なるが
*日本では草の根からの新党結成のハードルが高い(選挙制度、供託金、政党活動の文化の欠如)
*政党間の連携も重要:ドイツでも緑の党に加え、大政党の SPD(と労組)の政策転換と、両者
の連立が重要だった。日本では社民勢力や労組が弱く、他の連携相手も必要。
*政党政治は単一争点では成功しない。ドイツ緑の党も単一争点政党ではない。社会運動も果た
して単一争点で成功する保証はない。脱原発だけの運動では、背後にある大きな構造的問題を
見失う危険がある。脱原発一点での連携はうまくいかない可能性が高い。脱原発という争点に
ついて、異なる価値観の人々が異なる解釈をしている。TPP など、他の争点との組み合わせが
重要。
*原発問題をどう捉えるかが重要。官僚支配や「原子力村」だけでなく、大企業の支配・企業社
会や市場経済万能主義も問題。原発の非倫理性・反社会性を忘れてはならない。市場原理主義
や官僚たたき、自由貿易圏などで原発問題が解決すると考えるのは幻想。
*都市と地方の政治的条件の違いにも留意:ドイツでも、同じ政党でも都市と地方では支持基盤
が異なる。誰が支持層か、どの争点に重点を置くのか、地域的条件の検討が大事。北海道では?
*バラバラの個人ではなく、社会のネットワークをどうやってつくるかが課題。
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