高病原性鳥インフルエンザ

共生と競争の生物界(
共生と競争の生物界(13) 高病原性鳥インフルエンザ
13) 高病原性鳥インフルエンザ
鹿児島大学農学部獣医学科 岡本嘉六
帰宅途中のカーラジオから、
「ベトナムでブタから高病原性鳥インフルエンザ H5N1 型
が分離されたことが 6 日明らかになった」と流れた。連日のように、
「
で●●人目の死
亡が確認された」という速報にウンザリしているが、新手のホラー話に「いい加減にせー
よ」と腹立たしくなった。恐怖を煽るだけで、実効性のある対処法としては、ノイラミニ
ダーゼ阻害剤の備蓄を訴える程度で、アジアでの流行を抑え込むため、感染鶏群の処分に
当たる作業員の感染を防ぐ機材を支援する呼びかけはほとんどない。
「わたし食べるヒト」
には、自分しか見えていないようであり、自分を守ること以外は関係ないかのようである。
新型ウイルスが誕生した暁には、自己防衛など吹っ飛んでしまうのに、誕生を阻止するた
めの行動を示さないメディアのホラー話に、どれだけ多くの国民が迷惑しているだろう
か? 昨年 6 月に書いたばかりだが、再びインフルエンザを取り上げようという気になっ
た。
遺伝子組み換えのステップ
ブタの細胞には、ブタ型ウイルスと鳥型ウイルス両方の侵入門戸(レセプター)がある
ことは、報道されてきたので知っている方が多いと思うが、ウイルスの遺伝子交雑(組み
換え)がどのようにして起きるのかを正確に理解しているヒトは少数だろう。
ウイルスは自己増殖するために必要な酵素系を揃えていないので、感染した宿主細胞の
酵素系と栄養成分を使わないと増殖できない。食中毒を起こす細菌は、栄養成分と至適温
度があれば発育可能なので、生きた細胞なしに、食品や環境中でドンドン増えてしまう。
これと違って、ウイルスは、生きた細胞の中でしか増殖できないのである。このことが意
味するところを考えてみれば、「ウイルスが分離された」ことが「新型ウイルス誕生」のど
の段階に達したのかを判断することができる。
ブタの鼻粘膜を掻きとって培養細胞に接種したところ、H5N1 型が分離されたというこ
とは、
「同時感染」を意味するものではない。今回の報道では鳥型ウイルスが分離されただ
けであり、ブタ型ウイルスには触れていないのでそこにいたかどうか判らない。仮にいた
としても、ブタ型ウイルスと鳥型ウイルスが「一つの細胞に同時感染」しないと、遺伝子
組み換えは決して起きない。接種材料とした鼻粘膜のカケラには無数の細胞が含まれてお
り、別々の細胞に感染していた両種のウイルスが一回の試験で同時に分離されることも十
分にある。この場合は遺伝子交雑が起き得ない。そのことを理解することが重要であり、
「一つの細胞に同時感染」する事態は多いものではない。
一つの細胞の中で、ブタ型ウイルスと鳥型ウイルスが同時並行して複製される場合に初
めて、遺伝子組み換えが起きる可能性が生じる。ウイルスの複製過程を敢えて単純化する
と、細胞内への侵入、ウイルスの外膜(エンベロープ)が溶けて RNA が細胞質内に流出、
逆転写酵素による DNA 形成、宿主細胞の酵素系を使って DNA から RNA およびウイルス
構成成分の合成、ウイルス構造の組み立てという一連のステップがある。組み換えが起き
るのは DNA レベルでのことと考えられ、それに至る過程が同時に進む必要がある。
ウイルス表面にあるヘマグルチニン分子のアミノ酸配列がレセプターとの親和性を決
めているが、両種のレセプターがどの程度離れていて、二種のウイルスが細胞に接近した
際に同時に入れるものかどうか判然としない。細胞内侵入時期の若干のズレは、その後の
複製過程に影響し、先に侵入した方の複製が優先されることもあろう。インフルエンザ・
ウイルスは 8 分節の RNA を持っており、それぞれ異なった情報を伝えるため、核酸配列が
大きく異なる。組み換えは同じ分節の間で起きることになり、異なった分節間の組み替え
は生命機能を失うことになる。細胞内に散らばった同じ分節が密着する事態はランダムに
起きる訳であり、その確率は高いものではなかろう。これらの複製過程で起きることは、
あくまでも可能性であり、必発のことではない。
ヒトの体内で組み換えが起きる可能性は、ブタにおける場合より低いと考えられる。ヒ
トの細胞はα2-3 レセプターを持っていないので、鳥型ウイルスは無理やり細胞内に侵入す
ることになる。世界各地で高病原性鳥インフルエンザが流行しているが、感染者は僅かで
あることが「無理やり」を実証している。感染鶏の乾燥糞便を吸い込む状況下でしか患者
は発生していないのであり、ほとんどが「濃厚感染」事例である。
ヒトの体内で「新型ウイルス誕生」の確率は低いが、ゼロではない。仮にそれが起きた
場合には、ブタで誕生したものよりヒトへの感染性は高いと考えられる。元々ヒトで流行
しているウイルスとの交雑であり、ブタからヒトへというステップが省略されるからであ
る。WHO はこの危険性を知らせ、東南アジアでのヒトの感染を防ぐことが、現在の科学に
できる最善の防御策であるとして各国に支援を要請しているのである。
「新型ウイルス」が誕生したら
1918 年のスペインかぜは、当時の世界人口 20 億人の内 6 億人が感染し 2,300 万人が死
亡したと伝えられている。そして、高病原性鳥インフルエンザに罹患したヒトの致命率が
極めて高いことが報じられている。「新型ウイルス」はアメリカ映画のエイリアンを凌ぐホ
ラー話として、メディアにはネタの尽きない宝物のようである。
1976 年に米国の Fort Dix(New Jersey)で、軍隊内のインフルエンザ流行があり、スペ
インかぜと近似するウイルスが分離された。スペインかぜの再来と大統領が緊急予防接種
計画を宣言するに至ったが、幸い大流行にはならなかった。
「新型ウイルス」が誕生すると
ヒトは免疫がないので大流行すると報じられているが、感染力の強さはヒトの免疫の程度
とは別のウイルス側の要因によることが判る。
1957 年 2 月に中国の雲南で発生したアジアかぜは、船舶が主要な交通手段であった時
代でも、半年で世界中に広がってしまった。高速ジェット機で大量の物資やヒトが移動し
ている現代においては、瞬く間に広がることを覚悟しなくてはならない。しかし、現在問
題となっている H5N1 型が最初に香港で流行してから既に 7 年が経過している。強い感染
力をもった変異株の誕生は、可能性としてはあるものの、ランダムに起きる変異の中では
確率がそれほど高くはないことを示している。
致命率に関しては、組み換えられた「新型ウイルス」が現在の H5N1 型と同等かそれ以
上となる確証はない。マルブルグ病(1967)
、ラッサ熱(1969)
、エボラ出血熱(1976)と
致命率がきわめて高い新興感染症が発生してきたが、爆発的な世界流行には至っていない。
もちろん、スペインかぜのように致命率も感染力も高い例もあるが、両方兼ね備えた例は
多くない。
寄生体が最初に宿主と出会った場合、どちらかを殺す凄惨な戦いが始まるが、宿主を殺
し尽くしてしまっては寄生体は生き延びられない。付き合いが長くなると、折り合いがで
きてくるのが生物界の不思議である。赤痢菌を例に採れば、明治時代に志賀潔が発見した
志賀菌は病原性が強かったが、環境衛生が改善されるにつれて表舞台から去り、現在は病
原性の低いゾンネ菌やボイディ菌に置き換わった。これを「消化器系伝染病の文明抵抗性」
と言っているが、既に 7 年経過した H5N1 型に、お手柔らかにと願うしかない。
WHO に協力して、アジアでの流行制圧のために支援行動を!
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