キパワーソルト醤油物語

『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
『キパワーソルト醤油物語』
現代に生き続ける醤油造り発酵の伝承技術
百七十余年の伝統を受け継ぐ地方醸造家の変遷史
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』 目次
● この物語のはじまり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3p
● 湯浅家・有田屋の創業期・・・・・・・・・・・・・・・・・6p
● 湯浅家・有田屋の江戸から明治へ・・・・・・・・・・・・・8p
● 有田屋・三代目治郎とわが国初の民間図書館『便覧社』・・・11p
● 有田屋・三代目治郎と新島襄、同志社への道・・・・・・・・15p
● 有田屋三代目・治郎、政界に進出する・・・・・・・・・・・20p
● 県会議員から帝国議会までの道のり・・・・・・・・・・・・24p
● 徳富ファミリー交遊録・・・・・・・・・・・・・・・・・・29p
● 帝国議会議員から出版界への転身・・・・・・・・・・・・・34p
● 新島襄の死と同志社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39p
● 有田屋・湯浅治郎京都へ行く・・・・・・・・・・・・・・・44p
● 有田屋・湯浅治郎、故郷へ帰る・・・・・・・・・・・・・・46p
● 晩年の湯浅治郎とその系譜・・・・・・・・・・・・・・・・48p
● 編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53p
● 編集余祿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54p
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
明治以来のトップ・ブランド復活
『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
● この物語のはじまり
昔の中山道は、高崎で越後へ行く三国街道(現在の国道 17 号)と信州・軽井沢へ
行く道(現在の国道 18 号)に別れます。途中に、安中という宿場町(現安中市)
があります。街の中心部に有田屋さんという創業天保三年の老舗・醸造メーカ
ーがあります。
今年(平成 17 年)の冬に仕込んで二年目の本邦初、天然醸造キパワーソルト醤油
が出来上がる予定です。お醤油は、日本の誇るべき醗酵食品で日本ほどいろい
ろな醗酵食品が豊かな国はありません。味噌、醤油、納豆、漬物、塩辛や日本
酒、酢など、微生物が作る醗酵食品で日本人の体質や気質は形作られていると
いって過言ではないでしょう。
江戸末期、政治的な「日本の夜明け」は、坂本龍馬や高杉晋作などのさきがけ
によってもたらされましたが、産業や新しい文化のさきがけが上州の片田舎で
始まっていました。
その舞台のひとつであったのが、安中にある造り醤油屋・有田屋さんでした。
有田屋三代目・湯浅治郎をめぐって、江戸末期から明治・大正にかけて「日本
の夜明け」の一ページが彩られています。明治・大正をいろどった多彩な人物
が登場します。
明治という時代は、学校で詳しく教えられる事もなく、小説や映画でも題材と
して取り上げられる数は少なく、何か不透明な感じのする時代でしたが、やは
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
り昭和、平成につながる大きな変革の時代だったことがわかります。
(現在の有田屋・社屋)
話は・・・3年前に遡ります。
群馬県安中市の旧中山道沿いにある有田屋さんに私は居ました。当時専務だっ
た湯浅さん(平成 16 年・7代目社長に就任)と塩談義をしていました。
結果、まず試験室での試験醸造をすることとなりました。そして1年半、いろ
いろな分析データは非常に良好でした。
ついに、平成 16 年 3 月(寒仕込み時期)、本邦初、コマーシャルベースのキパワ
ーソルト醤油の仕込みが始まりました。
創業170余年の有田屋さんは、もともと地味ながら技術力の高さと丁寧な製
品造りには定評のある醸造メーカーです。有田屋さんの一族は、本業の醸造業
だけでなく、明治、大正、昭和の三代に亘って、日本の教育、社会、文化に貢
献した多数の人物を輩出したことでも知られています。
三代目治郎氏(1850~1932)は第2代県会議長に推され、そのときの
廃娼条例成立により群馬県をしてわが国はじめての廃娼県せしめた功労者の一
人です。また、同氏は新島襄に師事し、キリスト教の洗礼をうけて安中教会の
建設や新島襄亡き後の同志社英学校(同志社大学の前身)の運営に尽くしました。
また、治郎の後妻初子は明治の日本を代表するジャーナリスト・徳富蘇峰、文
豪・徳富蘆花の姉という事です。そして、治郎は日本最初の図書館、便覧社(図
書3,000冊)を設立したことでも知られています。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
治郎の弟、半月(吉郎)は詩人として知られ、同志社卒業時に発表した「12
の石塚」は我が国最初の新体詩集として知られています。半月は後に同志社教
授、京都府立図書館長を勤めました。
治郎の長男一郎(1868~1931)は洋画を志し、黒田清輝に師事した後、
二科会の創立に参加、洋画家として名を成した。
治郎の三男三郎(1877~1945)は同志社に学んだ後、四代目として家
業を継ぎ、25年間安中の町長や県会議員をつとめた。
その弟八郎は昭和9年同志社の総長となるが、建学の自由、自治を守る為、軍
部と衝突、総長を辞任。しかし、戦後再び総長に復帰し、昭和28年には国際
基督教大学初代学長に就任した。
また、五代目正次(1911~)も昭和46年より5期20年安中市長を努め、
一方新島襄を記念して昭和22年、同志とともに新島学園(中学、後に高校、
女子短大)を創立した。
質実剛健とキリスト教の精神に支えられた湯浅家の有田屋さんは、つい先頃ま
での当主太郎氏(1936~)で六代目を数えます。
その醤油は昔ながらの天然醸造の製法にかたくなまでにこだわり続けています。
そして今、醤油も味噌も大量生産~速醸の時代にあって、天然醸造のもろみを
2年じっくり寝かせた最高級醤油「丸大豆仕込み天然醸造」、さらにそれに糀
を加え1年以上醗酵熟成させた「再仕込」を守り続けています。
丸大豆仕込みということは、対象的に脱脂大豆を使う醤油もあるということで
すね。有田屋さんでは、国産で有機農法の大豆ですから、それを調達するため
の苦心は、よいお醤油を造るための第一条件です。そして、天然醸造とは、人
工的な温度・湿度を調整しないで春夏秋冬、全く自然の働きにまかせて醗酵を
待つ醸造法です。
もちろん自然食系の醸造メーカーさんで、ある程度規模が大きくなると温湿度
調整可能な工場で近代的な管理のもと味噌・醤油を造る会社もあります。
それは、作り手のポリシーに基づくものですから、両方あって良いのではと考
えます。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
大豆と小麦と塩と水、そして酵母や乳酸菌といった微生物の働きを見守りなが
ら170余年、7代目となっても真摯な醸造の作業はこれからも続いて行くであ
ろうと思います。
● 湯浅家・有田屋の創業期
有田屋さんは、旧中山道・安中宿の目抜き通りに位置する場所にあります。
天保三年(1832 年)三月の創業で、醤油・味噌の醸造を行い、穀類、油脂、肥
料なども手広く取り扱ったといいます。湯浅家は紀州の出であったと言われて
いますが、味噌・醤油の醸造を始めたのが有田屋・初代源造のとき。
紀州、有田、湯浅と言えば、日本の醤油醸造発祥地といわれる現在の和歌山県
有田郡湯浅町に思いが行き着きます。湯浅醤油といえば、今から700年以上
の昔、禅僧・覚心(法灯国師)が中国(宋の時代)へ勉学のため渡り、修行中
に習い覚えた径山寺味噌(きんざんじみそ)の製法を持ち帰り、村人に伝授し
ました。その製造中に器の底に溜まった液汁が大変おいしいことに気づき、正
応年間(1228年)これを業とする者があらわれ、これが湯浅醤油の発祥と
するものです。
ですから、お醤油のタイプからいえば「溜まり醤油」ということになります。
今日のような散麹(バラこうじ)方式の本格的醤油はもう少し時代が下がって
からの事です。
平成15年、東京は「江戸開府400年」と言うことでしたが、日本橋や銀座
には旗が飾られていました。けれど、マスコミは全国規模であまり取り上げま
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
せんでしたね。
徳川家康が開府したころ、まだ江戸は開拓時代で、インフラ整備や、食糧生産
の整備が不十分なため、上方(関西)からの物資輸入が盛んでした。お酒や味
噌・醤油・紀伊国屋文左衛門で有名なみかんも関西(上方)からの輸入でした。
ですから、江戸ではそれらの物資を「下りもの」と称したのです。蛇足ですが、
「くだらない」という言葉は、江戸へ出荷できない不良品のことを言ったそう
です。
ただ、有田屋さんのルーツである紀州・湯浅との関係を示す古文書などは、安
中の菩提寺が天保年間の大火で焼失してしまい記録が失われてしまったとの事
で、関わりがあったかどうかも不明だそうです。
(江戸時代、お寺が今日の役場
の戸籍係の役割をしていました)
創業当初は、まだ生産規模も小さく小売が主でありました。商才にたけた初代・
源造ではありましたが、わずか二十三歳で世を去りました。その後、家業を守
り続けたのは妻・きさで二人の女児を育て上げました。
そして、長女・茂世に同じ町内の旧家・柳沢豊右衛門の長男・治郎吉を養子と
して迎えました。二代目・治郎吉は、先代を上回る商才に富み、醤油・味噌の
醸造を拡張し、養蚕も行い、蚕種(おかいこの種)の製造まで手がけ、広く商
ったといいます。
(当時の上州・群馬県は養蚕が盛んで絹糸製造では日本一でした。明治になっ
てわが国初の官立製糸工場が隣の富岡市に造られたほどです)
安中藩の御用商人としても活躍し、地元では醤油屋治郎吉と呼ばれました。時
代が明治に変わってから戸長(今日の町村長)を勤めたほど、人望も厚かった
と伝えられています。
(安中藩・奉行役宅)
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
● 湯浅家・有田屋さん、江戸から明治へ
醤油屋治郎吉といわれた二代目が、醤油醸造業としての有田屋を確立したわけ
です。その間、時代は江戸から明治へと大きく転換して来ました。いつごろ関
西から関東へ人や物や技術の移動が起きたかは、江戸時代の中期からと考えら
れます。
国はそれぞれの時代における消長があります。
ちょうど時代の転換点といわれる区切りのいま「上州安中・有田屋」を舞台に
彩(あや)なした幕末から明治という時代は、仮に140年がひとつの時間軸
とするならば、今の時代の時系列の座標を測る上で、格好の歴史的な意味を持
っています。
お話を聞いたり、史料を読めば読むほど、一宿場の醸造家にまつわる私的な枠
を超えて、明治を代表する多種多彩な人物が蜘蛛の巣のようにネットワークで
張り巡らされているのに驚きます。
代表的な人物だけでも、新島襄(同志社大創立者)内村鑑三(キリスト伝道者)
に連なる新渡戸稲造(つい最近までの五千円札の肖像画・教育者、国際連盟事
務次長、アメリカに「ザ・武士道」を伝える)徳富蘆花(明治の文豪)徳富蘇
峰(明治を代表するジャーナスト)第一回帝国議会時の首相・黒田清隆、明治
時代の日銀総裁・深井英五、小崎弘道(東京・霊南坂教会創立者、YMCA創
立メンバーでヤングメンを「青年」と訳す)などを手始めに意外なところにま
で、そのネットワークは広がっています。
お国自慢めいて恐縮ですが、群馬県では、戦後の荒廃した人心を郷土愛で奮い
立たせるための、人物、風土、産物、歴史などを読み込んだ「上毛かるた」を
昭和22年に作りました。ですから、終戦後の小学生、中学生は県内くまなく
「上毛かるた」をそらんじています。現代でも、当初のように学校で強制では
ないでしょうけれど、「上毛かるた」の競技会は行われているという事です。
「つ=鶴舞うかたちの群馬県」を始めとして「へ=平和の使徒(つかい)新島
襄」
「こ=こころの灯台内村鑑三」
「な=中山道しのぶ安中杉並木」
「け=県都前
橋生糸(いと)の街」「き=桐生は日本の機所(はたどころ)」などです。
しかし、この短いことばの中に、これ程の広がりと深さをもった歴史的事実が
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
あるとは、知る由もありませんでした。以後、時々「上毛かるた」を引用して
物語を進めていきたいと思います。
二代目・治郎吉ですが、長女・茂世に同じ町内の旧家・柳沢家から婿養子とし
て湯浅家へ入りました。初代以前の有田屋は農業が主で、地主としても広い土
地を所有していました。
安中の某酒造家が武家との婚姻関係で出費がかさみ、ついに廃業ということに
なり、たまたま、その醸造器具や樽などを有田屋が引き取り、醤油醸造に乗り
出したのがその第一歩と伝えられています。そして醸造業に励むかたわら、二
代目・治郎吉は、世の中が騒々しい幕末でしたが、開国のうわさを耳にするに
及び、安中にだけ身を置くことなく、当時開港まもない横浜村まで出かけ、外
米や灯油、油粕などを仕入れて販売する仕事に力を入れ始めました。
しかし、有田屋の経済基盤は毎日使う醤油製造、小売が主であり、現金を持つ
ため、新しく田畑を買う資金も出来、さらに養蚕、製糸にまで手を広げ拡大し
て来たのです。二代目・治郎吉は、唯商売熱心だけでなく俳句をよくする文人
の才も備えていたと言います。
治郎吉は、安中藩から名字帯刀を許されましたが、名君と言われた殿様をして
「一日でよいが治郎吉の真似をしてみたい」と言われた逸話が残っています。
よほど豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格であったと見え「婿ドノ」として
は、必殺仕掛け人の中村主水とちょっと違うようです。
孫の湯浅八郎さん(ICU・国際キリスト教大学初代学長)の回想によると、
祖父(治郎吉)は、非常に短気で衣食も自分の気に入るように準備しておかな
ければ気の済まない日本的暴君の素地があったと語っています。
談話によれば「妾をもっていたとは聞きませんでしたが、酒は飲むは、遊廓に
行くはという事はしょっちゅうやっていたようです。だから教会員(※明治に
なってキリスト教に改宗)になっても三回ほど安中教会から破門されています。
破門されると悔い改めて許されるのですが、またその内にやるという具合でし
た」
身内から見れば、遊廓滞在も暴君的振る舞いに見えるでしょうが、それだけの
才のある人ですから、単なる遊びでいたとは思えません。当時、普通の旅籠屋
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
(旅館)に泊まる旅人と違い、遊廓に宿をとるのは相当手広く商売をしている
人でした。それらの客と酒を酌み交わし、当時の開港さわぎや幕末の政治不安
でゆれていた横浜、江戸の空気を敏感に察知して、情報収拾に努めていたに違
いありません。その証拠に事業は拡大の歩を進めていった事実があります。
そんな中、三代目・治郎氏は嘉永3年10月21日(1850年)に生まれま
した。五人生まれた子供のうち、治郎と弟の吉郎のみが成長したのです。
後年、吉郎は破天荒な父に仕えた母について、
「母は朝夕町の貧しき人々が買い
物に来たとき、一銭以下の買い物をする人には手心して、その値の倍づつの味
噌も醤油も量ってやり、数十年この手心を続けていたのでした」と語り、熱心
なキリスト信仰で一生を貫いたといいます。
徳川幕府が開かれたころの江戸は湿地帯で、武士ばかりでなく、全国から大勢
の職人を呼び寄せて街づくりが行われました。今の東京も、江戸時代からの干
拓が続いて都市づくりが継続中であることをお台場などに行って見るとよく分
かります。
開府当初は生産力がなく、消費都市でしたから、江戸の賄いはもっぱら大坂(現
在の大阪)が受け持っていました。大都市・大江戸八百八町となり人口百万人を
擁する街となっても関西に依存する物資が多かったのです。当時の大坂は人口
三~四十万人、市街地は大坂三郷(北・南・天満)六百二十町ということでした。
もちろん、関東でも生産力は徐々に増しましたが、関西の「下り物」に比べ「地
回り」と言われた関東産は品物が落ちると言われたものです。コメばかりでな
く、塩や木綿、菜種油、材木、金肥(干し鰯や干しにしんなど)、昆布なども大
坂が大集散地となりました。
当然、船便の航路も大坂へ集まり、それから江戸へと運ばれたわけです。それ
で、航海に関する言葉が普段の暮らしの中で使われるようになりました。船が
港を出て、天候の加減でまた港へ戻ることを「出戻り」と言いましたが、転じ
ていったん嫁いだ娘が実家に戻ることを出戻りと称したのです。また船の船尾
を艫(とも)といいますが、船尾に向かってまっすぐ背後から吹く風(ゴルフだっ
たらフォローですね)を「まとも」と言いました。
大坂と江戸の経済交流で生じた不均衡は、江戸のお金が関西へ流れて行ってし
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
まうということでした。当時、大坂は銀本位制、江戸は金本位制でしたが、富
はつねに大坂に蓄積されました。もちろん江戸でも商人が発展して来ましたが
その多くは関西から来た人が多かったわけです。今でも東京の会社で昔、関西
出身の会社というのがとても多いですね。お金も江戸では「現金」で大坂では
「現銀」だったわけです。
この不均衡を是正しようとしたのが江戸中期・寛政の改革を断行した老中・松
平定信です。彼は、東西両市場の平準化、統一的な貨幣市場の創出や関東地回
り経済の育成に努めました。貨幣も「銀で鋳造した二朱」(金貨単位)を関西に
流通させようというものです。東京・銀座の起こりは、銀で貨幣を鋳造した職
人の街の名称だったわけです。
お醤油に関してはその頃大きな変化がありました。上総(千葉県)野田などで醤
油の醸造が盛大になり、いわゆる関東の濃い口醤油が醸造されるようになりま
した。文政年間(1820 年頃)になると江戸で消費する醤油 125 万樽のうち、大坂
からの回漕はわずか 2 万樽となってしまいました。
明治に入って、三代目になるとますます隆盛となって来ました。当時の記録と
しては、明治後半ですが、明治 33 年(1900 年)は醤油の生産高 174 石というもの
が記録されています。
逐次、大正年間半ばには 1000 石を記録し、関東大震災の大正 12 年には 1200 石、
昭和元年には 1350 石を記録しています。戦後復興間もない昭和 30 年には醤油
3000 石、味噌 3 万貫、清酢 500 石となっています。
もちろん現在は醤油が主力で味噌は生産していません。専売法のあった時代、
塩の元売りもしていたということですから、塩についてもプロということが言
えます。
●有田屋・三代目治郎とわが国初の民間図書館『便覧社』
有田屋さんの三代目・治郎氏の少年時代はまだ江戸時代の末期、当時のある程
度資力のある商人や農家の子弟は、私塾に通い、普通の家庭の子弟でも寺子屋
で読み書きそろばんを習ったという。10歳頃から少年・治郎は、安中城中へ
通って藩士に従い「孝経」の素読のてほどきを受けた。さらに三里(12㎞)
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
山奥の新井村の私塾・厳井友之丞宅へ通って漢学(四書五経は『大学』『中庸』
『論語』『孟子』の四書、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経など、
古代中国の教養書)を修めた。
さらに厳井先生から、関流の数学(脚注※参照)も学んだという。しかし、武家
の子弟ならともかく、商家の出でこれだけの学問を身につけるというのは、当
時としては異例のことであった。しかも学んだことが後年の活躍を見ると、充
分以上に活かされているから、単なる知識の詰め込みでなく、活きた学問であ
ったと言える。
治郎は、元治元年15歳で家業を継いだ。17歳で今は安中市内となっている
が、原市の儒学者・真下利七の娘・茂登子と結婚した。明治維新の翌年、19
歳で長男一郎の父となった。家業を若くして継いだため、父と共に働く期間が
長かった。母・妻の内助、外助の働きも加わり、商売の範囲は一村に留まらず、
高崎、富岡、松井田、原市にまで及んだ。
そればかりか、商いの範囲は材料仕入れのため横浜にまで足を延ばし、南京米、
魚油の輸入まで手がけた。主力の仕事は、味噌・醤油の醸造であるが、現代の
総合商社よろしく養蚕、農耕、資材輸入、土地売買まで手広く商ったという。
しかも近隣の町村への商用は、すべて徒歩という徹底した勤倹力行(きんけん
りっこう)であったため、資力の加速も早かった。
その仕事ぶりが旧安中藩主の目に留まり、明治4年には、安中藩の命により、
勘定奉行と共に京都におもむき、旧安中藩邸の処分に腕をふるったという。さ
らに、廃藩前の藩札(財政難のため、各藩が発行した領内しか通用しない不換
紙幣)の後始末に手腕をふるった。
当時二十歳そこそこの若者であったから、その商才は量りきれない能力もって
いたと言えます。
しかし、少年時代の治郎にとって、父の行跡には少なからず心を痛めていたら
しい形跡があります。父の二代目・治郎吉は、商売のためとはいえ遊廓に長居
して金がなくなると、使いを家にやり、金を取り寄せていたのです。そして、
金を届けるのはいつも治郎の役目だったといいます。治郎を知る人によると、
後年キリスト教に入信し、県会議長になって「廃娼議決」を取り付けるまでの
命を賭しての闘いには、少年時代の苦渋に満ちた体験があったのではと、推し
量ることが出来ると言っています。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
しかし、時代は新しい商売の開拓と新しい知識の怒濤のような波が押し寄せる
大転換期にありました。
上州(群馬県)は、表日本と裏日本をつなぐ街道が走っています。関東から京
へのぼるには東海道と中山道がありますが、国道18号として中山道はいまも
健在です。越後へ通じる三国街道(現在の国道17号)、高崎から別れて例幣使
街道が日光まで通じています。この道は、京都から朝廷の使者が日光東照宮へ
参内するため設けられた道です。
その途中、群馬県・尾島町(現在は先日の合併により太田市)には徳川氏発祥
の地として「世良田東照宮」が祀られ、隣には徳川家康のブレーン、天海僧正
が住職をしていた「長楽寺」もあります。当時の最新情報の伝達ルートは街道
を往来する商人(あきんど)でした。
江戸時代、開港以前の横浜村は一寒村でしたが、安政六年(1859 年)イリキと
いわれた外国人が、横浜弁天取通りにある貿易商・芝屋清五郎の店で、甲州の
伏見屋清兵衛が持ってきた生糸六俵を買ったのが絹糸売買の最初と言われてい
ます。翌年、芝屋清五郎が英国7番館のロスバルベルに2500斤を売り初め
て輸出したといわれています。
現在の横浜三渓園の広大な敷地や庭園、豪壮なつくりの中に、往時の生糸輸出
によって蓄えられた財力の大きさがうかがわれます。(三渓園は、生糸貿易商・
原三渓=本名・富太郎の手になる 5 万 3 千坪におよぶ庭園で横浜本牧にある。
岡倉天心、横山大観との交遊、美術収集家としても有名)
当時の太平洋を航行していた黒船(米国船)にすれば、日本で求めたのは帰り
分の石炭と水であったが、生糸を持って帰れば、荷物は軽くても巨利を得られ
たので、幕府の鎖国令は邪魔であったに違いありません。安政六年、幕府はキ
リシタン禁制のまま、自由貿易を許可しました。その年、安中の有田屋・二代
目治郎吉は横浜に足跡を残しています。
昔から上州(群馬県)は、養蚕が盛んで生糸の産地でした。そのため中山道・
安中宿は、横浜、アメリカへの新しいシルクロードが敷かれることになったわ
けです。そのさきがけのひとりに、有田屋・ニ代目治郎吉から三代目治郎氏へ
の親子リレーがあったのです。
明治に入り殖産興業の気運の高まりとともに新しい技術も意外と早く上州の山
奥までやって来ました。明治に3年には前橋市にイタリア式の撚糸機が入り、
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
明治7年には親日家として知られるアメリカ大使・ライシャワーさんの夫人の
実家が導入したイタリア式の撚糸機が群馬県勢多郡水沼村(渡良瀬渓谷鉄道沿
いにある山村・先日の合併で桐生市)で稼働したというから驚きです。
私も子供のころ、撚糸屋の親父さんが「イタリー、イタリー」と機械の事をい
うので、てっきり「イタリー」という名前の機械メーカーと思っていました。
上州と横浜の間に敷かれた「絹の道」を治郎は往復していましたが、この道は
彼にとって同時に「文の道」でもありました。また、後に新島襄の帰郷によっ
て「信仰の道」にもなるわけです。明治10年代に起こる自由民権運動のきっ
かけは、新聞、雑誌の閲覧所で接する中央政府の動向や、外国の言論に触れる
ことで始まりました。
治郎は、商用のため東京や横浜に出向いて行ったとき、評価の高い本や雑誌を
買い込んできました。こうした書籍や雑誌の購入は半端ではない数であった。
中でも福沢諭吉に傾倒していたため福沢の著作も多かったという。また、横浜
では、高島嘉右衛門が開設した西洋式私学校「高島学校」で、外人の教師につ
いて英語の第一リーダーを習っています。
こうした安中、横浜における治郎の生活は、並の商人にはない見識を彼に備わ
せる事となりました。
明治5年、私立図書館『便覧社』を設立したが、東京の書籍館、京都の集書院
と並ぶ同じ年の日本最初の私立図書館でした。当時としては驚くべき設備で、
3,000 冊の和漢の古書、新しい書籍、雑誌を備え、テーブルに椅子、無料閲覧で
監守人を置かずに自由に読書ができた。しかも、米国人から寄贈を受けた絵入
り雑誌もあったという。
便覧社の設立は、安中のような田舎にしては異例な早さといえるが、それも上
州、東京、横浜への「絹の道」が開けていたことと無縁ではない。それに、金
儲けばかりでなく、地方教育、啓蒙のために私財を捧げていることにも治郎の
優れた資質がうかがえます。
惜しいことに、明治20年の火災で『便覧社』の建物は焼失し、今は有田屋筋
向かいの土蔵前に石柱が記念として立つのみで往時をしのぶよすがとなってい
ます。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
(便覧社跡と新島襄肖像)
【脚注※参照】
戦後、昭和 22 年に群馬県で作られた「上毛かるた」で『わ=和算の大家・関孝
和(せきこうわ)』という一枚がありました。当時は、ただそらんじて覚え、か
るたに書かれた解説も記憶には残っていましたが、関孝和のつまびらかな人と
なりは最近まで知りませんでした。
昨年秋、息子の卒業した桐生にある仏教系・私立高校の90周年記念式典があ
りました。式典に臨席させて頂いたのは、20年近く機関紙に「健康」に関す
る記事を寄稿させて頂いたご縁によるものです。
その折りの記念講演で数学者・お茶の水大学教授・藤原正彦先生のお話の中に
関孝和(せきたかかず)の話が出てきました。
「世界的に有名だが群馬の皆さんは知らないでしょう。さらに桐生の皆さんは
もっと知らないでしょう」という前置きでしたが、関孝和(江戸時代中期、上
州藤岡の生まれで、六代将軍徳川家宣に仕えた)は、連立二元一次方程式の解
を求める公式を生みだし、これを多元に広げて行く過程で今日の行列式の考え
にたどりついた。これはヨーロッパに先立つこと二百年前。さらに n 次方程式
の近似的な解を求める方法を考案。イギリスのホーナーが発表した方法に先立
つこと100年前であったという。
また円に内接する正多角形の辺の長さを求める公式(角術)を得て 11 桁まで正し
い円周率を計算している。また、ニュートン、ライプニッツとほぼ同時期に微
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
分・積分にたどり着いたとして知られるという話でした。
数学は左脳的学問と思われている分野ですが、実は世界的な数学者は右脳の感
性によりいろいろな発見をしているといいます。生まれた環境や住んでいる環
境も情緒に富んだ所に恵まれているという。つまり数学力は情緒力であるとい
う説です。
「日本人は世界においても情緒的な民族である」という事でしたがしかし、近
年の日本人は西洋人並に情緒力が落ちて来ているとも話していました。
日本数学会には「関孝和賞」が設けられているとのことですが、有田屋三代目・
治郎が少年時代学んだ関流算術とは、このように優れた学問だったわけですね。
●有田屋・三代目治郎と新島襄、同志社への道
明治のキリスト教黎明期には、
「上毛かるた」にも謳われた「へ=平和の使徒(つ
かい)新島襄」
「こ=こころの灯台内村鑑三」柏木義円などの人材を欠かすわけ
には行かない。そこには武士階級と西欧キリスト教との出会いによって、今ま
での日本人になかった独特の精神文化がもたらされた。特に上州人としたのは、
特有の気質と関係があるのかも知れません。
現在、内村鑑三の故郷・高崎市の頼政神社境内には内村の記念碑が建てられて
いる。
上州人と題した碑面には・・・
「上州人無智亦無才(上州人、無知また無才)
剛毅朴訥易被欺(ごうきぼくとつ、だまされやすし)
唯以正直接万人(ただ正直をもって万人に接す)
至誠依神期勝利(至誠神によりて勝利を期す)」
とありいい得て妙である。
昔から上州人はお隣の越後や信州人みたいに粘り強くない、新しいもの好き(反
面だまされやすい)であきっぽいというのが概ねの評である。だから、余り権
謀術策は得意ではない。
- 16 -
『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
安中藩士であった新島襄は、1864 年国禁を犯して函館より密出国した。ハーデ
ィー氏所有の船で米国ボストンに到着した縁で、ボストンのハーディー家に引
き取られ、フィリップス・アカデミー英語科、アーモスト大学、アンドーバー
神学校で学びました。アーモスト大学の 1870 年卒業生名簿に、ジョセフ・ハー
ディー・ニーシマと新島襄の米国名が記録されています。尚、高崎藩士の家に
生まれた内村鑑三も、新島襄の勧めに従い、1885 年にアーマスト大学に進学し
ている。
有田屋・三代目・治郎氏と新島の関係は、上州と横浜の間に敷かれていた絹の
道を往復していたとき、新島襄の父・民治を伴っていたことにある。どうやら、
アメリカとの文通の手助けをしていたらしい。新島書簡によって米国との道も
開き始めた。安中という日本の片田舎の町と米国とが、貿易と違った別の見え
ざる糸で結ばれて行く事となる。
横浜から米国へと更に目が開けて行くに連れ、治郎の胸の中には新島の抱くキ
リスト教が徐々に形成されて行く。
そして、新島の帰国によって実を結ぶ事となるのだが、禁を犯した出国の罪は、
明治4年、新政府の特赦によって自由の身となり帰国への途が開けた。新島襄
が帰国する以前の明治2年、知人の米国人・ブラウンが新潟の学校へ赴任の途
中、安中へ立ち寄って新島の祖父・弁治と会った。米国での新島の生活を伝え
喜ばせたが、帰国を待ちわびる中、翌明治3年7月、81歳でこの世を去った。
新島襄の帰国は、明治7年11月、人力車で安中に入った新島は夜半に着いた
ので、家人を驚かせぬため山田旅館に一泊。翌朝使いを父のもとへ走らせた。
十年ぶりの異境からの帰国は、喜びより驚きが先に立つのをおもんばかった為
である。
新島の帰国状況は、米国のハーディに宛てた手紙によると・・
「年とった私の両親、姉たち、近所の人々、ふるい友人たちから歓迎を受けま
した。父は三日前からリウマチのため動くことが出来ませんでした。けれども
私が無事に到着したことを聞くと、父は立ち上がり、父親らしい優しさが私を
迎えてくれました。私が挨拶すると、父は言葉もなくへたりこんで仕舞いまし
た。見れば涙が床の上にこぼれ落ちています。
ふるい友人たちが私の家へ集まってきて、アメリカでの私の経験をすっかり話
してくれとせがみました。その人々は付近の町から、7、8マイルの遠くから
- 17 -
『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
やってきたのです。彼らは羊飼いのいない羊の群れのようです。彼らに霊の食
物を与えずに帰らせることはとても出来ませんでした」
帰郷早々、新島は安中で帰朝報告を兼ねた伝道を開始している。ふしぎな事に
反対運動は起こらず、郷里の人々は新島の説教に耳を傾けている。
これは、安中という土地が、新しい種子を受け入れるよう耕されていたとも言
える。また、かつての脱藩者が郷里の生んだ先覚者として変貌しているも時代
の変化のあかしとも言える。
その中でひときわ熱心な聴講者に有田屋三代目・治郎がいた。
明治の初め、新島襄が伝導を開始した頃の様子はやはり新しいもの好きの上州
人気質がそうさせたのか、多勢の人々が聞きに来ました。
新島がアメリカのハーディ宛てに出した手紙にも・・・
「学校や家庭の集会でもどこへでも出かけて説教をしました。仏教の寺でも相
当の人数を前にして福音を説きました。この地域の僧侶が全部やって来て、こ
の新しい教えに耳を傾けました。僧侶、僧侶でない人々、何人かの婦人、子供
も合せて二百人以上の前で教えました。学校の集まりでは高崎市の市会議員全
員が聞きに来ました。聴衆の一人は帰るとすぐに古い神々をとりおろし、それ
を祀ることをやめました・・」とあります。
しかし、全くキリスト教反対の動きがなかったわけではありません。全国的に
見て反対の先鋒は、やはり僧侶、神主、新政府の出先の役人たちでしたが、安
中では新島のキャリアと、新政府中央の要人との交流は反対運動を好奇心に代
えさせるに充分なものがあったようです。
何よりも新島の広い学識と気迫が人々の心を打ったと言えます。新島の話し方
は決して雄弁ではなかったが、非常にアッピールの強い人間だったと伝えられ
ています。
アメリカ帰りの宣教師とあって、高崎から来た役人が山高帽をかぶったまま、
新島の背後でじっと監視していたが、新島が世界の情勢について話し、日本は
立ち遅れている。目を世界に向けるべきだという話が最高潮に達したとき、役
人も壇から降りてきて山高帽を膝に置き感激して聞き入っていたとうエピソー
ドが残っています。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
当時、思いがけないカルチャーショックに驚いた県令(知事)楫取素彦(かじとり
もとひこ)は、上京してキリスト教禁制の可否を政府高官と相談したが、岩倉具
視(いわくらともみ)、木戸孝允(きどこういん)などがアメリカ、ヨーロッパで
新島の通訳で世話になった関係で、新島の人柄と見識を知っていたため不問に
付されたという経緯がある。新島は郷里に約 1 ヶ月滞在し、その間精力的に動
き回ったが、新しい計画を抱いて上京する。
残された郷里の有志の中に新しく教会設立の動きが表面化してきた。熱心な新
島講演の聴取者・湯浅治郎や藩医の千木良昌庵がその中心となって動き始めた
のである。新島は上京して文部大輔(政務次官)田中不二麿に会い、次いで大阪
に向かい、かねてからの計画キリスト教主義の学校を建てるための行動に移っ
て行った。
しかし、考えようによっては新島の行動は無責任ともとれないことはないが、
残された側では有志が聖書研究の社中を形成し、新島のもたらしたものを継承
すべく動きだしたというから、思想的な影響力の深さは時間の長短ではないと
言える。
新島の手紙には、上京する際、浦島太郎状態の新島が湯浅治郎から当時インテ
リが好んで読んだ「明六雑誌」を借り受け、当時の潮流を学んだというから既
に両者には深い交流があったとうかがえる。
安中は当時日本にキリスト教を伝導した外国人教師や宣教師によるものでなく、
商人一人(湯浅)と医師一人(千木良)と武士階級出身の 30 人ほどが中核になって、
それぞれ仕事を持ち、家庭を持ち、土地に根ざした生活者という特殊な形態だ
った。聖書研究で疑義が生じると千木良たちは新島に書簡を送り質問状を送っ
ている。また新島もこれに書面でもって答えている。
しかし、牧師のいない集会は札幌や横浜と比べても運営は困難を極めた。新島
の帰郷を懇願したが、同志社設立のため奔走中の新島にとっては不可能な事で
あった。明治 10 年になって新島の身代わりとして神学生・海老名喜三郎が派遣
されてくる。ところが海老名は 22 才、しかも洗礼を受けて一年しか経っていな
い同志社の一年生であった。
ろくに神学も勉強もしないうち、培われた精神力だけを支えにして田舎伝導に
励む海老名に対して、その衣食住すべての面倒を見たのが湯浅治郎とその家族
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
だった。明治の伝導初期、宣教師不在や不足のため、学生が代用させられる事
は日常茶飯事であったという。内村鑑三も田舎や辺境に伝導することの困難さ
を手記にも書いている。
湯浅・千木良に見られる商人・医師としての根性が教会設立に至るまで、集会
を持続させ行くのであるが、説教や集会以上に牧会が必要であった。会員の多
くはおちぶれた武士階級だったため、すべて湯浅に頼らざるを得なかった。新
島が口火を切ったころは、士族出の会員が多かったが、徐々に平民の受洗者が
増え、とくに農民が増え、商売を営む者も加わった。
明治 11 年 3 月 30 日、便覧社の二階で新島から受洗した 30 人の中に湯浅治郎夫
妻もいた。4 月には、海老名が仮牧師、千木良、森本、湯浅の三人が執事として、
安中教会が発足した。
安中は関東における組合教会の有力な足場となった。都市でなく農村であった
ことが後々まで大きな影響力を残して行く。やがて有田屋は、全国各地へ行く
伝道師、宣教師がわらじを脱ぐ民宿の様相を呈するようになる。
しかし、有田屋三代目・治郎が、後年帝国議会議員(国会議員)を辞し、同志社
大学運営のため 20 年も京都におもむくのは大分先の話である。
●「有田屋三代目・治郎、政界に進出する」
順調にスタートしたかのように見える安中教会だったが三本柱、湯浅、森本、
千木良のうち、医師・千木良昌庵が病死したのであった。新島襄と信仰や神学
上の書簡を取り交わしていた千木良に対する期待はもろくも崩れさった。
その悲しみや哀惜の情は、安中教会にあてられた新島の手紙によってのべられ
ている。同じ頃、有田屋・湯浅家の中にもひとつの波紋が生じていた。
安中教会で洗礼を受けた 40 人の求道者の中に有田屋三代目・治郎の弟・吉郎も
加わっていた。その吉郎が、家も仕事も捨てて同志社入学を志したのである。
吉郎は、六年間も高崎の「カネマン」という呉服屋に番頭奉公をしていたが、
本人の願いによって奉公を解かれ、新しい事業を起こすために父(有田屋ニ代
目・治郎吉)より家を与えられ、資産も分与され、妻もめとったのに、すべてこ
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
れらをなげうって同志社に入学しようというのである。
明治の時代、当時の商家にとってこのような転身は大問題であった。
しかし、治郎は吉郎の志を伸ばすため、京都に出て学問をさせることにした。
一年前の夏、同志社(新島襄)から学生の身で田舎伝道に派遣され、安中へ来た
海老名弾正(えびなだんじょう)がいた。
明治 12 年、同志社を卒業した彼はいわゆるうるさ型の学生で、同志社の朝の説
教で、宣教師に遠慮することなく痛烈な批判を行い物議をかもした。
友人たちは京都周辺の学校や教会に就職するが、海老名のみ関東(安中)へ赴任
する事となった。危険視された人物が、新島の慧眼と勇気と寛容で一人の有能
な伝道者を産んでいったということが言えるであろう。
その時の気持ちを海老名はこう書いている。
「安中教会は、つとに私を招いて教師たらんと心がけ、私の卒業を待っていた。
私も草分けの務めを果たしたから、また安中は田舎でもあるから、何ら猶予す
ることなく承諾したのである。ここにおいて私は一応郷里に帰り、父母にいと
まごいをして群馬県に向かって旅立って行った。・・・・」
こうして海老名は牧師としてかっこうはついたものの、24 歳の若さにもかかわ
らず外観はみすぼらしかった。もっとも「牧師らしい」風体などといっても、
年を経て徐々に出来上がるもので、明治の初め頃であったから、夏は浴衣に兵
児帯であったという。さらに海老名自身、牧師になっても服装に無頓着で、む
しろ行者のような觀があったという。
海老名の「安中伝道手記」は、キリスト教研究書に引用されるくらい後に有名
になるが、おどろくべき熱心な伝道を安中中心に展開している。説教の数の多
い事と、一日の歩行距離の長いことに驚かされる。しかし、これらの土地は、
有田屋の商売の圏内であり、湯浅自身が足しげく出向いたところであった。海
老名がワラジを履いて出かけるところとは多く重複していた。
海老名の熱心な伝道により、比較的多かった安中教会の商人信者たちも、蚕卵
紙(さんらんし=蚕に卵を産み着かせる厚紙)その他の行商に付近の村へ出かけ
るときは伝道の仕事を兼ねていたのであった。日曜日になると、各地の信者が、
安中教会へ集まり、明治 16~17 年頃には、百人から百五十人が礼拝のため集ま
った。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
新島襄の帰朝演説のころは説教が寺で行われていたように、確かに仏教との対
立はなかった。それは、寺側でもキリスト教への充分な認識がなく、無自覚な
点があった。
真宗の僧・島地黙雷(しまじもくらい)が渡欧して宗教事情を視察し、帰朝して
から徐々に仏教擁護と反キリスト教の運動の素地を作り、やがて真宗を中心に
攻勢に出てくる。
安中でも、かつて新島襄が帰朝講演した竜昌寺(曹洞宗)や広西寺(真宗大谷派)
を会場として仏教講演会が開かれて反キリスト教を展開するようになる。
このころ湯浅たちは、仏教との対決、論争だけでなく、神道も加えて論争、討
論を試みている。
仏教と神道とは「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく=明治政府による仏教排斥運動)
以来、仲が疎遠になっているところへ、さらにキリスト教が入ってくると問題
がこじれる例が多かった。田舎では問題がこじれると、宗教の問題から外れて
人間関係の気まずさが残りがちになる。しかし、安中の場合、湯浅の名望と、
海老名の学識がそれらのトラブルを防いでいたと言える。
そんな中、明治 31 年から昭和 10 年まで 40 年近く安中教会の牧師を務め、教育
者として「上毛教界月報」を発行した柏木義円(かしわぎぎえん)が入信する。
きっかけはこのような宗教論争における講演会であった。
柏木は仏教僧侶の子弟である。海老名の伝道者・雄弁家としての印象が、ひと
りの個性ある仏教者の子弟をキリスト教に入信させるのです。
彼の入信が、後年の安中教会や周辺の地域に及ぼした感化、また後代のキリス
ト教史に果たした影響を考えると大きいものがあった。こうして、湯浅、海老
名、柏木と特異な素質をもった人物が、リレー競争のようにバトンを引き継ぎ
走って行った。
有田屋三代目・治郎は、明治 11 年に洗礼を受けてから 2 年後の明治 13 年県会
議員となり、地方自治のために働き始めた。そして早くも翌年には県会議長に
推されている。
この議会で目立った言動には、教会で培われた運営能力がかなり役立ったと見
られる。さらに、便覧社以来、蓄えられた時代の新知識や、新島から聞いてい
た海外知識、自治精神は、他の議員に比べ群を抜いていたことにもある。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
県会議長に推されたわけは次のようなエピソードによってもうなずける。
明治十四年、上毛三山といわれる赤城山、妙義山、榛名山の中で、榛名山麓で
おきた抗争事件によって象徴される。
これは、明治政府の急激な林野行政に対する農民の抵抗事件といえる性格のも
ので、安中とは直接関係のない騒動であった。
榛名山麓の秣場(まぐさば=馬の飼料を刈り取る一種の入会権)をめぐり、権
利を独占した松ノ沢村に対する札下村の怒りから引き起こされて、ついに内務
省にまで問題が持ち込まれ、高崎署の警官 170 名が出動する騒ぎであった。こ
の騒ぎを静めるために県会から議員を派遣しなければならなかったが、農民の
竹槍を恐れてしり込みする者が多い中、湯浅は代表者を買って出た。議長・宮
崎有敬を伴い、一揆の本陣に乗り込み、首謀者・真下紋弥に会見を申し込んだ。
農民たちは竹槍と抜き身の刀をちらつかせ威しにかかったが、湯浅が平然と代
表者と会談をすすめている内に、姿を隠していた真下が姿をあらわした。
懇々切々たる話し合いで直接行動の非なることを諭し、騒動を解決させてしま
った。
権力者のこけおどしや振る舞いと違い、商業で鍛えられた折衝術と、信仰に裏
付けられた勇気が難局を解決するのに役立ったのである。このあたりに、上州
人特有の侠気(おとこぎ)が感じられる。
この力量が認められたことも預かって議長に推されたということが言えるだろ
う。しかし、当時の政治、経済の変動は尋常のものではなかった。一地方の出
来事では済まされない動乱の波がまわりにも起こっていたのである。
明治の初めから日本各地におこりつつあった「自由民権運動」の一環として上
州民権運動があり、人権尊重では一際目立った存在であった。
群馬事件(明治 17 年、妙義山麓の養蚕農家を中心に起きた反政府武装蜂起事件)
秩父事件(明治 17 年、埼玉県秩父の養蚕農民が起こした大規模な反政府武装蜂
起事件。※昨年 120 周年で「草の乱」という題名で映画化された)
福島事件(明治 15 年、農民を含む自由民権運動を政府が弾圧した大規模な事件)
や、少し後の足尾鉱毒事件(栃木、群馬、埼玉の流域を巻き込んだわが国初の
公害事件)など決して無関係では過ごせない事ばかりであった。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
湯浅を含めた安中教会は、社会の変動に対しても、沈黙を守るだけでなく、積
極的な発言や行為を伴って教会の性格を形成していった。
これらの状況を内村鑑三は新渡戸稲造に宛てた手紙で「安中教会は、東京の教
会と大違いで、親しみ深く、その上すべてが活動的です。私は札幌教会を思い
出しました・・(原文英文)」とあり、内村の目にも東京の冷たさと無関心ぶり
の差が雰囲気として感じられたのである。
湯浅の政治活動はふたつの目標に向かって絞られて行った。
「知事公選」と「公
娼廃止」である。これらは難しい問題が付随してあって、上州だけの問題でな
く、新政府との問題と関わりを持っていた。そのために20数年の苦難を強い
られる運命が待っている。
結果から言えば、「知事公選」は実施されず、「公娼廃止」は全国初、群馬県で
は実施された。「知事公選」は戦後の民主主義を待って実施された。「売春禁止
法」も戦後の民主主義の時代になって全国レベルで法律化された。しかし、そ
のこと自体、湯浅の先見の明の高さと、見識の高さを証明するものに他ならな
い。
●「県会議員から帝国議会までの道のり」
明治 13 年に県議会制度が実施されると、湯浅治郎は推されて県会議員になった。
それは明治 23 年まで続き、その間4度議長となり県政に尽くした。続いて明治
23年、中央で帝国議会が開設されるや帝国議会議員となりその間3度当選す
るという実績を示している。
その中でも日本近代史では湯浅治郎と言えば、全国にさきがけ「廃娼県」とし
た先駆者として輝かしい足跡を残している。通常学校の歴史で教えられる「自
由民権運動」の先駆者としては、板垣退助、植木枝盛、中江兆民などが挙げら
れるが、民権運動といっても女性の人権が欠落したままの近代化が推進されて
いったとき、湯浅の見識は、民権の底流を流れる士族民権の欠陥をいちはやく
見抜いていたと言える。
湯浅の人権意識の中にはキリスト教信仰と結びついた思想的なものが内在して
いたと思われる。湯浅の廃娼を巡る闘いは明治 9 年頃から同 26 年にまでおよぶ
- 24 -
『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
長期戦であった。
その間、知事が二人も免官になるという破天荒な闘いの歴史でもあった。その
闘いは執拗なほどの抵抗との戦いであり、湯浅自身が何度も命を危険に晒され
る瀬戸際に立たされた。
しかし、湯浅はやめることはなかった。日本最初の廃娼県成立の陰には前例の
ない試練をくぐらねばならなかった。そのわけについて湯浅自身が語った記録
は全く残されていないが、ひとつはキリスト教信仰がストレートに結びついて
いた事と、子供の頃、父治郎吉が遊廓でいつづけをして、旅人たちと交わり、
情報収集をしているとき、宿代の不足をもって母の代わりに引き取りに行くと
いう苦汁を味わった。
湯浅の心中には母の忍耐と苦渋が色濃く影響していたと察することはできる。
湯浅の戦いの跡を見ると、わが胸の底には言い難き秘め事が在りといった感慨
がこめられている。
明治天皇の「五ヶ条のご誓文」が文明開化を押し進めている時代、中央政府で
も、
「女権」に対して知らぬ存ぜぬでは済まされない体外的にも体面を整わねば
ならない事件があった。
それは、明治5年、ペルー国籍の船、マリア・ルース号遭難事件である。
修理のため横浜に停泊中のマリア・ルース号から海に飛び込んで助けを求めて
きた中国人苦力(奴隷に等しい労働者)を解放するため英米と折衝しつつ、ペ
ルーの強硬な返還要求をつっぱねてついに全員を解放するに至った。
この折衝に当たったのが、薩長閥の多い明治政府のなかで土佐出身の大江卓だ
った。大江は、明治の藩閥政府の枠に入りきらぬ日本人としては珍しいスケー
ルの大きい、人倫を尊重する政治家であった。
大江は神奈川権県令だったとき、フェリス女学院創立者ミス・キダーの訪問を
受け、女子校舎の斡旋を申し込まれている。大江の英断で県の官舎の空いてい
る家の使用を許可し、さらに山手の見晴らしのよい土地取得についても厚意を
もって後援している。
フェリス女学院創立者ミス・キダーもまた、新島襄の帰国以前、新島の手紙に
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
よる紹介で安中を尋ね、交流を図っている。しかし、あいにく新島の父は留守
であったが、帰途についたキダー一行を安中杉並木のはずれまで追いかけ、汗
まみれになった顔に涙してアメリカの新島の消息を縷々聞いている。
大江は、中国人苦力(奴隷に等しい労働者)の解放にあたって、その水際立っ
た手腕で内外人の賞賛を浴びたが、中でも当時最も多く横浜に住んでいる中国
人からは大江に対して高い評価と謝意が寄せられた。
しかし、この事件の裁判の中で、奴隷に等しい苦力(クーリー)の売買を日本
側が指摘するとペルー側からは、日本の娼妓に対する鋭い批判があり、当然な
がら対外的に自国の姿勢を改めざるを得なかった。
このため、政府は明治5年10月、
「娼妓解放令」を出し、明治8年には指定場
所に限り娼妓を認める布告を出した、という背景がある。
上州でも明治9年から県令・楫取素彦(かじとりもとひこ)は、各地に散在す
る遊廓を新町・倉賀野・板鼻・安中・坂本・玉村・木崎・川俣・一の宮・伊香
保の 11 ケ所に限定し営業を認めた。
群馬県の地図をひらくとわかるが、街道沿いの町が多い。宿場町に栄えた遊廓、
また県内各地にある温泉場は、そこに集う飯盛女、湯女の伝統は旧時代から続
いていた。
戦いの火蓋は、明治12年、
「貸し座敷の業を新た更むるの建議」を提出したこ
とに始まった。湯浅のほか、クリスチャンの真下可十郎も建議に加わり、議員
34名の連署になるものだった。
マリア・ルース号事件以来、県内の遊廓を11カ所に整理、縮小することにな
っていたが、この改良策では生ぬるく徹底しないというので、廃娼にいたるま
で先取りした建議ということになった。
群馬県が、全国にさきがけ廃娼県になったが、決議から実行に至るまで異様な
くらい長い時間が掛かっている。県令の交代や県議の改選が含まれていたこと
もあるが、それ以上に「廃娼案」なるものが、前例のない事と、中央政府さえ
取り扱いに苦慮している問題であったからである。
また、薩長閥政府にとっては面々がなじみの遊興の場所すら注目される時世に
なりつつあって、うかうかと口をさしはさむと自分の事が危うくなってくると
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
いう状況もあった。
娼妓問題は、次々エスカレートして行き、明治13年には「娼妓廃絶」への請
願書提出に発展して行った。明治15年には3月の県会で「娼妓廃絶の建議」
が可決された。
その時の議員総数が45名で43名の賛同者というから、時代につれて同調者
の数が増えて行ったと言える。しかし、当然反対運動も熾烈をきわめ、貸し座
敷業者たちは結束して建議案反対、取り消しの要求をかかげ、湯浅らを力でお
どしにかかろうと工作した。
柏木義円の筆によれば、湯浅が議会中泊まっている旅館に4~50名で押しか
け、
「今回の県会は娼妓及び貸し座敷を廃止する由、はなはだ不都合千万である。
もし娼妓が悪ければ買わねばよい。我々は長年この業を営んでいた者が突然廃
止されては、百余りの業者が生活を失い、ひいては関連する商売の者の死活に
も関する大事である。ぜひこの決議は取り消されたい・・」と険悪な雰囲気の
中で迫った。
湯浅はこれに対し「娼妓及び貸し座敷は昔より飯盛といい、女郎ともいい、宿
場、問屋場において人足の足留め策として要望せられ、お上(幕府)で黙許(※
見て見ぬ振り)をされたものである。今や諸大名も領地は奉還して東京在住と
なり、宿駅の人馬は職替えとなった。また問屋場の必要もなくなった。従って
娼妓存置の要もなく、かえって風致、教育上有害無益だからこれが廃止の建議
をしたのである。諸君にして「有益無害」と思うなら、諸君がまたこれを建議
するのは自由である」と言い放ち泰然自若たる態度であった。
中には暴言、雑言を放つ者もいたが、隣が警察署ということもあり、湯浅の態
度の変わらぬを見て一行は解散させられた。
因みに湯浅は当時33歳であった。残された写真を見ると、5尺(150セン
チ余り)そこそこの小男でも風采は堂々、長髪を後になでつけ、胆力とダンデ
ィぶりが伺える。
19歳で父になったという経歴でわかるように、年齢に似合わぬ老成したとこ
ろがある。この点、自由民権運動の壮士風の人間像とも違う。従来の日本にな
かったカントリー・ゼントルマン(田舎紳士)の類型ではなかろうかと、後に
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
義弟となった徳富蘇峰が書いている。
しかし、完全に娼妓廃絶に至るまでの歴史は長い時間を要している。
どうして長引いたかというと、新政府の上意下達の考え方と相反するからで、
下からの突き上げで正そうとする草の根民主主義となじまなかったからである。
中央が地方の声に教えられ指導されるということは、薩長閥の政治体質では到
底受け入れられないことだった。上州の田舎で始まった娼妓廃絶運動が東京に
波及するという世の中の常識に反する出来事である。
それゆえ、賛否両論、両派より県外からの圧力もすざましかった。不幸にも、
県令(知事)・楫取素彦(かじとりもとひこ)が元老院議官に転出して、佐藤与
三が代わりに赴任した。
彼を目当てに反対派は猛運動したこともあり、廃娼日が迫った明治21年5月
26日、佐藤知事は当分延期する布達を出した。時の議長は湯浅であり、てっ
きり決定できると思っていたのがくつがえり、怒りは多くの県民に広がった。
その広がりは住民運動となり、署名簿が楫取の移った元老院にも送られ、かえ
って廃娼の可否が県民の間で論じられ、一層の広がりを見せた。
明治22年には再び県会で「廃娼案」は議決されたが、知事は妥協案を提示し
た。これに対し、湯浅は当然容認せず、議会は佐藤知事不信任をつきつけた。
知事は対抗策として県会停止、解散命令を出したが、再選の結果、解散前と変
わらぬ顔ぶれのため、対立はいよいよ激しくなり、ついに知事は免職に追いや
られた。
次に知事になった中村元雄は、前知事が反対派につくことにより失脚したこと
で慎重にならざるを得なかった。明治24年、廃娼令を出したが、政令と実施
の間に猶予期間をおくことで再び存続派の巻き返しが始まった。
それによって再び県民の知事に対する批判が嵩じてくるという繰り返しであっ
た。明治23年、県会から帝国議会に転じた湯浅をみて、知事や反対派は「存
娼陳上書」を提出したが、湯浅の志を継ぐ県会議長・野村藤太は取り上げなか
った。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
ついに明治26年12月31日をもって廃娼は実現された。これは十数年の戦
いの果てに勝ち得たもので、全国唯一と言える廃娼県・群馬の誇りでもあった。
しかし、執拗な反対運動はなおも続き、明治27年、県会に「公娼設置の建議」
が出され、時の桑原知事を抱き込んでの巧妙な議事であった。しかし、廃娼派
の退場、流会によって可決させなかった。
明治30年、31年と復活を図ったが、時の草刈知事の免官をもってこの問題
は終息され、長年揉めに揉めた廃娼は定着した。これによって湯浅の廃娼の戦
いは群馬県会だけでなく、徐々に日本を舞台に広がって行く事となる。
しかし、湯浅個人が払った犠牲も小さくはなかった。治郎の妻・茂登子は、共
に新島から洗礼を受けて新家庭を信仰の支えとしてつくし、六人の子供をもう
けていたが、六人目の子の出産後、病を得て他界した。
六人の子育てだけでなく、有田屋の商売、伝道者の無料宿泊所のごとき観を呈
していた人たちの世話や教会への奉仕、夫の政治運動、廃娼運動への余波とし
てあらゆるイヤガラセを一身に引き受けるなど、家庭を保持して行く以外の仕
事が余りにも多過ぎたのである。
普通ならば後添えに来る婦人は、湯浅家をめぐる雑事を考えたときためらうの
だが、ここに初婚でありながら多くの縁談を断ってまで嫁いで来た婦人がいた。
徳富蘇峰・蘆花兄弟の姉・徳富初子である。
熊本の田舎町と上州の田舎町が、どんな糸で結ばれていたのかは、少し以前に
さかのぼる。
●徳富ファミリー交遊録
原市の儒学者・真下利七の娘・茂登子は、有田屋三代目・治郎と結婚したが、
六人目の子の出産から体調を崩し、病を得て他界した。
周囲の心配をよそに治郎の後添えに来たのが徳富蘇峰・蘆花兄弟の姉初子であ
った。徳富蘇峰と治郎の結びつきは、新島襄を通してまた、同志社に入学した
弟・吉郎が蘇峰と同学という間柄で親しかったことで糸がつながっている。
さらに、安中教会牧師として赴任していた海老名弾正の夫人・みや子は初子と
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
郷里熊本で幼いころからの友達という間柄だったから、糸は幾重ものつながり
があったといえる。
みや子と初子二人は、ジェーンズ大尉が開校した熊本洋学校というところへ男
子に伍して聴講に出かけた。
聴講といっても、明治の初め、しかも男尊女卑の風習が強い九州の肥後熊本で
ある。
洋学校といえども女子の入学は許されていなかった。度重なる盗聴に男子学生
がジェーンズに抗議を申し込むと、師は「君らの母上は女か男か」と、目を見
据えて反論すると彼らはなにも言えなかったという。
そして、再び聴講は続けられたというから、時代を考えると進歩的女性の典型
かもしれない。この資質が、弟たちの活躍につれて開花していくこととなる。
初子は、上京すると、福澤諭吉の慶応義塾に聴講にでかけ、弟二人が同志社に
入学すると、母代わりにふたりの生活を見守り、絶えず学問的雰囲気の中に好
んでいたのであった。
徳富家の長女音羽が、実家水俣の家を守り、紡績の技術を身につけて実生活・
実業の中に生きていたのと対照的である。
初子は、また東京で学校をつくる仕事にまで手を伸ばしていた。
それは、叔母の矢島楫子(やじまかじこ)が校長に赴任した桜井女学校であった。
矢島楫子は、以前から安中・有田屋をたびたび尋ねた客のひとりであった。
それは、徳富猪一郎(蘇峰)や湯浅吉郎の縁によるものであるから、熊本と安中
の距離がますます縮まる一因ともなっていた。
初子が結婚したときは二十五歳であったから当時としては晩婚と言える。もち
ろん当時としては珍しい学問を身につけた女性の気概として結婚に対しても自
分の意見を持っていた。
「参議以下の人には嫁に行かないから」というのが口癖であった。交遊関係の
広い弟・猪一郎(蘇峰)は、この姉のために一肌ぬいで、未来は参議といわれる
友人のある人物を紹介し、見合いさせている。
当然「あなたの一夫一婦観は如何」と出し抜けに尋ねられると普通の男なら面
食らうところだが、相手もさるもので「一夫一婦?ハア、私も今こそこうして
いるが、いずれ一角になれば女のひとりや二人は相手にするであろう。一夫一
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
婦などと言うことは今から約束できない」
「わかりました。それではこの話はこれきりです」と憤然として席を立ってき
たという。そして帰宅するなり弟にあんな人を紹介したと怒り、そこにあった
煎餅をみんなバリバリ食べてしまったという逸話が残っている。
どうやらその人物というのが、後の総理大臣・犬養毅だったというから、人の
運命はわからない。
この初子が選んだ相手が湯浅治郎であった。集会のため安中へ度々行き、有田
屋へ泊まったときから家族との交流があった。だから意外とスムーズに溶け込
み、周囲が心配していた初子の縁談は、安中訪問で決まってしまった。
彼女の日記には「明治18年10月9日、晴天、上野国、安中駅、碓井会堂に
於いて結婚式を行う」とあり、その年の終わりまで記されている。
それによると二人は前橋へ出て、治郎は県庁へ行き、初子は教会へ行って海老
名牧師と会い、旧友みや子を同道して三人でおちあい伊香保温泉で二週間半滞
在している。因みに「上毛かるた」では「伊香保温泉、日本の名湯」とうたわ
れている。
新婚旅行に友人がついて行って、しかも長逗留するというのは、一見変ではあ
るが、三人の結びつきから考えるとうなづける事ではある。
熊本時代の旧友が、今は牧師夫人と県議夫人である。六人の母となる初婚の妻
にはどうしても先輩格の牧師夫人から、上州女のイロハを学ばねばならない。
そして伊香保滞在は、治郎にとってやがて帝国議会議員として中央に乗り出す
ための家庭的な基礎固めの作業と、みることも出来る。もとより海老名夫妻と
て並の人間とは違う資質をもった人同士のサークルではある。
また、伊香保といえば初子、蘇峰の弟・徳富蘆花との縁は有名である。名作『不
如帰』
(ほととぎす)は、伊香保で書かれ、文学だけでなく、新派の芝居の十八
番として今も受け継がれている。
兄・蘇峰との不仲、そして和解の舞台、晩年の病床、死に至るまですべて伊香
保である。蘆花夫人の愛子も安中教会の一員であり、徳富家と湯浅家は、二重、
三重の糸で結ばれていたことがわかる。
また蘆花は、当時の安中教会牧師・柏木義円とは、同志社で同窓である。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
但し、柏木は蘆花より8歳年長であり、蘆花の敬慕している間柄でもあった。
さらに蘇峰・蘆花の兄弟はロシアの文豪・トルストイとの交流もある。兄蘇峰
は、既にロシアへトルストイを訪ねるため行っているが、今度は弟が行く事と
なる。
蘆花にとってトルストイは単に文筆家として同じというだけでなく、平和・非
戦運動の同志であり、そのために文通もしていた。
伊香保滞在中の蘆花は、トルストイの著作と新約聖書の研究に打ち込んでいた。
日露戦争も終わった明治39年1月のことである。波瀾の生涯を送った蘆花の
人生で信仰的にも充実した時期であったという。
湯浅治郎の廃娼への戦いは、群馬県会だけでなく、徐々に日本を舞台にひろま
って行った。しかし、帝国議会議員ともなると体はひとつであるから東奔西走
することは限度があり、議会に拘束されることも多くなった。
その時、湯浅の身内から運動を継承する者が出てきた。それが、後添えに入っ
た妻・初子の姪・久布白落実(くぶしろおちみ)だった。
久布白の自伝『廃娼ひとすじ』
(中央公論)によれば、日本の恥部公娼制度廃止
の戦いひとすじの記録である。
久布白落実の母親は、徳富音羽。弟・猪一郎(蘇峰)が友人だった大久保真次郎
を長姉に紹介して結婚させたのである。大久保の家は熊本県鹿本郡米之嶽村字
郷原で、落実はそこで生まれた。自伝にも「熊で始まって、鹿に入って嶽とな
って原とくる。いかにも猪か兎でも飛び出しそうな郷里である」と書いてある。
大久保は、同志社の新島門下に入るまで、寺に入ったり、自由民権運動へ行っ
たり、郵船事業に手を出したり落ち着かなかったらしい。同志社の神学別科を
卒業してから赴任したのが、埼玉県秩父郡であった。
次いで群馬県藤岡に転任となり、安中へは至近距離のところとなった。ここま
で来ると、安中での戦いのことが聞こえてくるので、自然に娘の落実にも廃娼
の意味が解ってくる。ましてその中心が身内の叔父とあれば、関心を持たざる
を得ない。
久布白の生涯は、結婚、渡米、帰国と続いたあと、矯風会(廃娼運動の母体で
湯浅治郎から矢島楫子が衣鉢を受け継いだ。矢島は母・音羽の叔母)での飛田
遊廓反対、日本の植民地政策による外地への売春拡大防止、婦人参政権運動と、
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
領域は次々と拡大して行った。
ついに終戦後、連合軍総司令官の覚書による廃娼、
「勅令9号」や内務省令の娼
妓取締規則の廃令が報じられた。そして、1957年4月1日、「売春禁止法」
が全面施行となる。『廃娼ひとすじ』は長い戦いの記録となった。
それ以前に夫と死別した久布白は、戦後は夫が牧会していた都民教会を守り、
老齢にもかかわらず廃娼の戦いと、牧師職を守り通した。
湯浅の影響が及ぼしたもうひとりの女性に矢島楫子がいる。徳富家の一族であ
り、女子学院の校長として教育界に貢献した人として知られているが、それ以
上に廃娼に尽力した人として知られる。
大久保落実(久布白)が女子学院へ入学して以来、陰の力となって彼女を助け
た。落実が入学したときの事を思い出に書いている。
「コツコツと靴音をたて、しずかに入って来られた矢島先生が、つくづくと落
実の顔をながめて『この人は、きれいでないから、つづくでしょう』といわれ
た言葉がいまなお耳に残っている」とあります。
まさに人の性質を一目で見抜く教育家としての炯眼(けいがん)と言える。
矢島はよく安中を訪ねて有田屋へ泊まり、湯浅から廃娼の戦いの意義を学んで
いた。廃娼運動が全国的な広がりを見たのも彼女の力なしにはあり得ない。
久布白の働きもその軌道に乗って動きやすかったことも推察できる。
久布白落実は後に湯浅初子と矢島楫子の伝記を書いているが、彼女以外には書
くことの出来ない伝記である。文筆家としての力量も、徳富蘇峰、蘆花の血を
ひく一族として相当なものがあったと言える。
それにしても、高邁な理念を湯浅の没後も引き継いだのは、この二人の女性で
あった。それは、湯浅の念願していた知事民選とともに売春禁止法が終戦をみ
てから実現したという息の長い戦いであった。
戦後まで息の長い戦いを続けられたのは、女性ならではの粘り強さと、九州人
としての強情であったかも知れない。
湯浅治郎、知るや知らずや、女性の力恐るべしである。
引き続き、帝国議会議員としての湯浅の前途は、二転三転の運命をたどる事と
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
なる。
●「帝国議会議員から出版界への転身」
明治 23 年 7 月、群馬県で 5 名の第一回の帝国議会議員が誕生した。湯浅治郎も
その中の一人であった。帝国議会議員といえば、政治を志す者にとっては、あ
る程度上り詰めた地位というとことが言えよう。湯浅は、第5区から立候補し
て当選、次点は真下可十郎であった。真下は、湯浅治郎の亡妻の兄で義兄に当
たり、県会では廃娼をともに戦った中である。
湯浅の群馬県における廃娼の戦いは、第一回の帝国議会議員になるにつれて、
中央で同志を獲得することができ、戦線を東京へ拡大することが出来た。
ここで新しく「自由民権運動」のメンバーとも面識ができ、第一回帝国議会で
は、廃娼上の運動法を議定した。そして、全国の廃娼会、東京の四団体に協力
して世間を動かし、衆議院も動かし、今年中に妓楼の主人の被選挙権を滅ぼそ
うと決議している。
湯浅の活動は、廃娼運動が主ではあったが、それのみならず並行してキリスト
教の啓蒙運動や、時代の要請によって隆盛になりつつあった出版事業にも手を
貸している。
湯浅の議員としての生活はまことに質素なものであったことを、知人の住谷天
来は書いている。
「湯浅治郎氏から傍聴券をもらって物珍しげに議会を見物に出かけたとき、そ
の服装は実に田舎漢の好典型であった。その母の手織りになるひも足袋をはき、
太織りのゴツゴツした縞の羽織をまとい、いたって粗末な袴(はかま)を着けて、
平気で議場にのぞんでいた。
特に感ずべきは安中から東京へ出かけるときも、その母の手でこしらえた握り
飯に梅干しをそえた弁当を食して、決して途中で何も求めて喰ったことはない
事だった。
この慈母に対する孝心・質素は、われわれの敬仰(けいぎょう)し感歎(かんたん)
してよくあたわざる所であった」と・・・。
湯浅は、その以前、鉄道の啓蒙のため自ら株を取得していた。そして、日本鉄
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
道会社の理事となり、その株式の募集や敷地の買収に尽力していたことはよく
知られている。
持ち株としては群馬県の中でも、150 株が一人で、それに次ぐ 102 株であった。
あとは 100 株が二人、他はそれ以下というように積極的に鉄道推進をはかって
いた。
鉄道に対する後援は、東京と安中の往復の便から考えたことではなく、殖産興
業の一環として早くから着目していたところだったからである。
後年、鉄道が政府に譲渡され国有鉄道となったとき、二千円の慰労金が湯浅の
もとに入って来たが、日露戦争最中のため全額海軍に寄付してしまった。
しかし、帝国議会議員以前から東京と安中を往復する日々は多く、多用であっ
た為、不便なことも多く、東京にも住まいを構えるようになる。
明治 19 年は公私ともに湯浅にとって多忙な年であった。義弟の徳富猪一郎(蘇
峰)が主宰する大江義塾を閉鎖し、祖先伝来の品を除いて、身の回りの品を二束
三文で売り飛ばし、家財道具を親戚知人に分配して親子四人で上京するべく熊
本を発った。
熊本時代に出版した雑誌『将来之日本』の成功にすべてを賭けての上京であっ
た。しかし、出版界の先輩・田口卯吉に原稿を見てもらい、出版の可能性を確
かめる周到さもあった。
田口に「しかし、善い本必ずしも売れる本ではない。ゆえに責任だけはあなた
の方で持って貰いたい」といわれ青年論客は当惑した。
ジャーナリスト・徳富蘇峰の出世作も、出版事情には一抹の不安がつきまとっ
ていた。出版は冒険であったが、湯浅の「それなら私が責任を持とう」という
一言で決まった。原稿は経済雑誌社に渡り、出版の運びとなった。
雑誌『将来之日本』そのものは、当時の青年層に極めて好評を博した。
こうして政治青年が東京の論壇に新しく登場し、ジャーナリスト・徳富蘇峰が
誕生する。
『蘇峰自伝』にはその頃のことをこう書いている。
「私は『将来之日本』の好評のうちに、東京に一家を挙げて飛び込んだものと
云って差し支えあるまい。兎にも角にも 12 月 10 日、山王台の下、赤坂溜池の
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
そばなる姉の家、湯浅氏方にわらじを脱いで、やがて、赤坂霊南坂の奥まりた
る一隅の借家に落ち着いた。これについては熊本洋学校および同志社以来、先
輩であって、霊南坂教会牧師たる小崎弘道君および夫人が、かれこれと周旋し
てくれた」
湯浅と小崎弘道との付き合いは、明治 13 年の東京YMCA創立のときからであ
る。創立メンバーの多くは年若い青年牧師であったが、湯浅の年齢はいささか
離れていた。
この若者たちが、会をつくり、雑誌を出すということは自然の成り行きで無理
からぬことであった。しかし、心はやる若者の仕事を調整するのも湯浅の任務
でもあった。その「六合雑誌」は、若い牧師、小崎弘道、植村正久、田村直臣
の3人によって運営されていった。
その運営は、書生上がりの牧師より年齢も経済的知恵も一枚上であった湯浅の
人柄と経済力がなければ成り立たないことであった。明治の頃はまだ「長幼の
序」ありで年齢差の序列が強かった時代ではある。一信徒ではあっても、駆け
出しの若い牧師より信仰経験はあり、世間のことも熟知している。
商業で成功し、政治では上昇期にあるから人柄も練れている。金は出しても口
は出さない。伯楽として若い悍馬を育てるのが湯浅の仕事と言えた。
面白いことに世の中、弁は立たなくても筆の立つ人がいる。
小崎弘道は自身の『回顧録』で・・・
「植村君と私は共に訥弁(とつべん)であるため、聴衆の嘲笑を買い、演説の
主意を貫徹し得ないこともあった。ある日のごときは、私の後で植村君が演壇
にあがるや、たちまち聴衆の中から大声に叫んで『よくもよくも下手な話をす
るものだ』と言った人があったので、会衆は一度にどっと哄笑し、ために演説
を一時中止せざるを得なかったことがある」と自身の失敗談を書いている。
小崎にしても、植村にしても名文家であったという。
「六合雑誌」の編集のときも、植村の原稿が間に合わず、同人らが彼をせきた
てると、
「腹がすいて書けない、すしでも買ってこい」と仲間の田村直臣が寿司
屋に走らされた。
寿司を喰い終わるや一気に書き出し、ろくに読み返しもしない。それでいて非
常な名文であった。湯浅はそんな植村の力量を買っていたと見える。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
小崎弘道は、教会の活動と出版活動で多忙を極める。彼のジャーナリストとし
ての仕事に当時の名士訪問があり、それを通じて政財界にも顔を広げていった。
その中から小崎は多くのものを学び、教養をつんで行くのである。小崎が創立
した霊南坂教会も発展してきたが、明治19年には会堂を建設してさらなる発
展の拠点となった。
その敷地買収には湯浅治郎の手腕が土地の選定、購入に至るまで大きく発揮さ
れている。
旧幕臣の外国奉行・井上信濃守の屋敷跡・溜池霊南坂14番地が明治19年5
月に上野國碓氷郡安中駅・湯浅治郎名義で買収され同年9月に教会員・山崎塊
一の名義に登記されている。
この理由はこんにちのような「宗教法人法」が制定されていない事の他に『霊
南坂教会百年史』には・・・
「当時は信仰の自由はもとより、キリスト教そのも
のが公認される時勢ではなかった。また教会も組織的、機構的に十分整わず、
加えて牧師交代や、無牧師状態が波状的に続くような状態であった」とある。
小崎自身が霊南坂教会から分かれて出来た番町教会を兼任し、伝道やジャーナ
リストとして多忙だったため、実務、会計には常に湯浅が黒子のように活躍し
ている。番町教会の設立に際しても土地選定、家屋建築は湯浅に依頼され、こ
れも一年かかって完成させている。
小崎の周辺には、名も挙がり、交際が広がるにつれて、後の首相桂太郎や大山
巌夫人(大山巌は近代的な陸軍の創設者で陸軍大将)など、時の名士が集まるよ
うになった。
小崎の気風は「将来を考えできるだけ大きい」建築を考える傾向があったから、
これに応える手腕をもった人間は湯浅をおいて他になかったから尚更である。
小崎のジャーナリズムへの傾斜と相まって、徳富蘇峰とふたりの獅子を、湯浅
はその懐に抱える事となる。仕事だけならいざ知らず、その家族の面倒までみ
なければならないからその苦労は大きい。
教会だけでなく出版の世話もしなければならない。おまけに金銭にうとい二人
の経済的保証人等を背負う事にまで及んだ。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
湯浅の生涯には様々な人物との出会いによって、自ら変えられていったが、中
でも新島襄との出会いは人生に大きな影響を受けた。新しい信仰に目覚まされ、
また家業を離れてまで新しい仕事に就くことになったのは大きな比重を占めて
いる。
しかし、それ以前から、日本最初の私設図書館設立をしたほどであるから、情
報伝達の重要性については認識していた節がある。
湯浅にとって出版という仕事は全く新しい仕事であったが、新時代に出版が如
何に重大であるかを痛感していた。現代は、メディアは多様化して情報伝達手
段は十指に余るほどだが、明治の初めは江戸時代からの瓦版(新聞)や書籍など
の限られたものだった。
当時とて新しい時代の潮流に乗り、出版事業は盛んだった。
しかし、その多くは武士の子の集まりだったため、志は高くても銭勘定の苦手
な者が多く、失敗に終わる例が多かった。その点、ここでは湯浅の商才が生か
され、たんに出版の後ろ楯としてだけでなく、新人の執筆者の発掘という編集
者の仕事まで関与、目配りする仕儀となった。
出版は浮沈の激しい仕事だから、冒険覚悟を伴わなければ出来ない事だったが、
湯浅にとっては、開国にふさわしい民衆の啓蒙というだけでなく、キリスト教
伝道の一翼を担うという高遠な理想が心中にあったのではないかと思える。
一方、徳富猪一郎(蘇峰)は、上京してから発行した雑誌『将来之日本』の発展
に加えジャーナリストとしての名声も上がって行った。次いで発刊した新聞『国
民之友』は、蘇峰をして「ついに総数、万単位に上るに至った。これはわれな
がら意外であった」と言わせるほどヒットした。
その陰には湯浅の並々ならぬ力が働いていた。今の新聞でいえば、営業、広告、
デザイナーの仕事までしていた事になる。さらに驚くべきことには、新聞販売
店の手伝いのような仕事まで、元県会議長がやっていたのである。
いかにして売るかという極意を身につけていた商人としては、味噌も醤油も生
糸も新聞も熱意をこめて売ることに徹していた。
広告については、治郎の弟・吉郎によると、宣伝の知識は外国雑誌を模して表
紙に絵を印刷することから、雑誌に挿絵を入れることも始めた。また、封筒に
社名を印刷して広告することを始めたという。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
かつて図書館創設に際し、外国雑誌を置いたことや、新島の感化、宣教師たち
との付き合いから、外国の宣伝手法を学び、出版事業を会得することが多かっ
た。
今日のマスコミにおける宣伝広告は社命を制するほどと言われているが、まさ
に湯浅はその先駆的仕事をなしとげた人物といえよう。
東京での議員活動が順調に回り、出版事業が軌道に乗った矢先、湯浅の運命に
大きな転機が訪れる。
それは、京都における同志社・新島襄の死であった。
● 新島襄の死と同志社
新島襄は、福沢諭吉(慶応)大隈重信(早稲田)とならぶ明治の教育家のひと
りである。
本名は新島七五三太(しめた)と言うが、アメリカへの密航中に潜伏先の船長
に Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、帰国後は「譲」、
「襄」と名乗った。
帰国後、安中から東京、大阪、神戸など紆余曲折を経て、明治8年、同志社英
学校(同志社大学の前身)を現在の京都市上京区にあった高松保実邸の一部を
仮校舎として開学。
開学にいたるまでのあいだ東奔西走し、新島はさまざまな人に行き会い、交流
をもっているが、旧幕臣・勝海舟との出会いは大きな影響を受けている。
新島は、
『本当にこれからの日本を背負って立つ若者を養成するには、キリスト
教を基盤とした学校を必要とする』と考えていたが、新島の理想や志が先行し
て、経済基盤に対する政策の乏しかったことを帰国してからの言動にもよく現
れていた。
その点を最も早く見抜き、指摘していたのが勝海舟だった。また、新島自身も
勝を最も信頼していた節がある。新島の応接間には、勝の書が掲げられ、墓石
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
も、葬儀の旗も勝の揮毫によっている。
勝は、大学設立に奔走していた頃の新島を評して、友人・巌本善治にこのよう
に語っている。
「新島が大学を建てると言うてきた時、さよう言うた。お前さんは千両の金さ
え、そう扱ったことがないのに、十万という金を募るというのは、とても出来
ないから、およしなさいと言うた。すると、西洋人が大賛成するからと言うか
ら、それだから尚いけないと言うた。その時、たいそう怒って帰ってしまった
が、二、三年は少しも来なかった。
すると、顔色衰え、たいそう弱って出てきて、前年おっしゃって下すった事は、
今になって初めてわかりました。もう実に有り難い、私は余計なことを始めか
けてたいそう困ると言うた。それで、私は言うた。お前さんも此のほどのこと
をして、一度失敗して気がついたからには、今度は本当のことが出来ましょう
から、そんなに弱らないでゆるりとお休みなさいと言うた。 左様しましょうと
言って大磯へ行ったが、二三ヶ月すると、とうとう死んでしまった」
勝は新島のくそまじめな面を巧みに書いているが、一方新島が、勝の苦言、忠
言に対し、その識見を大いに徳とする書簡が残されている。
新島の十年間の留学生活は日本の変革期であり、新島に欠けていた視点を勝が
見抜いていたため、勝のような歴史の生き証人に傾聴するところから、私立大
学設立運動を開始しようと考えていたものと見える。
新島の死は、神奈川県の大磯であった。
同志社を京都だけでなく、東京にも分設の計画があり、東西の都に力を尽くす
ため大磯に土地を求めていたらしい。
大学にしても東京誘致することは徳富猪一郎(蘇峰)との相談で決まったらしい。
同志社・中退生ではあるが、蘇峰は多忙なときを割いて新島と会いまた新島も
蘇峰を必要としていた。
旅行でも本を手放さない新島の好学心と、大学の資金集めの旅とが心臓を弱め
ていたのであろう。
蘇峰とは、発行する「国民之友」にも大学設立募金を載せるほどであった。死
期の近い新島が、徳富蘇峰、小崎弘道、湯浅治郎の赤坂住まいの三人組をあて
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
にしていた事は確かである。
新島が京都にいてもこの三人組が手足のように動いていたのである。伝道に、
大学設立資金募集に、教会形成にこの三人の存在は便利であったであろう。
明治21年、大隈重信邸における会合で来賓から募金を取り付けている。
その氏名は、大隈重信(早稲田大学創立者)井上薫伯爵(外務大臣)渋沢栄一
(渋沢財閥・現みづほ銀行他、数百の企業を創業)岩崎弥太郎(現在の三菱グ
ループ創業者)岩崎弥之助(弥太郎の弟で三菱2代目総帥)益田孝(三井財閥
の大番頭)大倉喜八郎(大倉財閥創業者)青木周藤、平沼平八郎等、政財界人
から3万1千円もの巨額の資金を集めている。
新島日記には「我が党より、湯浅治郎、徳富猪一郎、加藤勇次郎、新島襄」と
あり、また、これだけの多額の額を受領する側に湯浅・徳富の名が連ねている
ことからも、この二人に後事を託す気持ちを新島が持っていたことがわかる。
また、新島は、大学の官学に対する地位について、留学中の湯浅吉郎(治郎弟)
をあてにしていた。そして、アーマスト・カレッジの理事会からLLDの名誉
学位贈呈に関して、受けるか受けぬかを「湯浅兄、小崎兄弟とご相談下された
く、仰ぎたてまつり候」と徳富に手紙を書いている。赤坂の三人の間に新島の
熱湯が注ぎ込まれた感がする。
明治20年代、大磯は東京人の別荘がつくられた保養地で、今日の軽井沢のよ
うな役割を果たしていた。新島にとって大磯が永眠の地となった。
この巨人の天寿を全うし得なかった死は、残された人々の生涯を大きく変え、
歯車を狂わせていくのである。
その人々とはたまたま赤坂・霊南坂の地に移り住むようになった三人、湯浅治
郎、徳富猪一郎、小崎弘道であり、彼らの人生が思いがけない変貌をとげて行
く事となる。中でも影響の大きかったのは湯浅であった。
新島の死は、余りにも早かった。新島亡きあと、同志社には何が必要となると、
一にも二にも人材であった。学生を教え、経理をまとめることが必要となった。
小崎、徳富、湯浅の三人の運命に大きな変化が訪れることになったが、小崎は
牧師、ある意味一種の身軽さがあった。徳富猪一郎(蘇峰)は、国民新聞を発刊
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
したばかり、せっかく雑誌、新聞を発行して軌道に乗りつつあった蘇峰にとっ
て新しい政治、法律、経済の中心である東京から離れて京都に移住するのは不
可能なことであった。
しかし、湯浅となると、もっと困難になってくる。安中での家業、商売、東京
での帝国議会議員、義弟・徳富猪一郎(蘇峰)の仕事の財務や経営上の支柱とし
ての責任、キリスト教
出版関係の責任、安中と東京と二つの世帯の運営や家族関係、とくに子女の教
育と、どれをとっても東京にいることが条件として事が運ばれてきた。
また、どれをとっても湯浅を欠くことはできないという仕組みにもなっていた。
これを放棄して、陽のあたらない同志社の財務の仕事に没頭することは常識的
にもあり得ないことであった。しかし、湯浅はあえて、同志社のために献身し、
火中の栗を拾うという行動に出た。
もちろん驚いたのは周囲を取り巻く人たちである。多くの人が政界からの引退
を惜しみ、賛辞を送っている。蘇峰は同志社のため、議員を棒に振って京都へ
行くことになった湯浅に対して「私は正直にいえば、湯浅翁の同志社へ行かれ
たと言うことは、私にとってほとんど自分の女房を失ったほどの力を落とした」
と嘆いたといわれる。
また、財界人の中でも後の日銀総裁・深井英五=(群馬県高崎市出身、わが国初
の民間人日本銀行総裁(第13代)、第一次世界大戦、その後の世界大恐慌時に
おいて辣腕を振るう。哲学など教養に富んだ知性派財界人であった。没落した
高崎藩士の家に生まれたが新島襄に見いだされ、奨学金により同志社で学ぶ)
は・・・
「とにかく代議士中、真に予算審議をなし得るものは、三、四人に過ぎないと
言われた。湯浅先生は、その一人であります。この方面において驥足(きそく=
才能のあること)を伸ばされましたなら、議会政治家として大を成さるべき人で
あったろうと考えます。また、当時は藩閥政治家が帝国議会に出て来た人物中
から目ぼしい者を引っこ抜いて官吏に登用するという事を考えた。湯浅先生も
その一人であったそうです」と書いている。
当時の代議士が数字に弱いのは、武士あがりが多かったことや、自由民権の掛
け声は勇ましくても、銭勘定が下手であることは共通していた。
自家の経済も録に見られない志士あがりが、国家予算にくみすることは至難の
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
わざであり、手も足もでなかった。
その点、商人上がりで県会議長も務めた湯浅は経験が豊富であった。
国会に出る間際まで、蘇峰の「国民之友」や「国民新聞」の副社長格で、会計
や販売の責任者であったことは強みでもあった。蘇峰にしてみても、将来義兄
が大蔵大臣にでもなっていたら、もっと違った生涯を送っていたかもしれない。
それまでの湯浅の生活は、上州と東京の往復の繰り返しであったが、新しく京
都と東京の往復が加わってきた。しかし、いくら丈夫な体であっても限界があ
る。まして、現代と違い、関西の往来は簡単ではなかった時代である。
湯浅が京都移住を決意したのは、三カ所に生活の座をもつことは限界があり、
次の帝国議会選挙が迫ってきたこともあった。議席は、郷里の後継者・先妻の
兄でもある真下可十郎に譲り、新聞は蘇峰に一任して同志社に赴任し、財政の
責任を持つこととなった。
しかし、誰がみても政治的前途にも有利である立場を捨てて、京都におもむい
たのであろうか。
書き残したものが何もないので推測にしか過ぎないが、湯浅の軌跡は、政治的
野心よりも目的達成のための一手段として政治を考えていた節がある。廃娼運
動もそれを具現化するために政治を手段として考えていたように思える。
思想的にも中央集権や間接民主主義でなく、新島の提唱した個人の思想、信教
の自由や直接民主主義、地方分権制度に根ざしたもので、真の新島思想の継承
者といえるものではなかろうか。
京都は東京と違い、しばしば安中へ帰ることは出来なくなるため、安中の店と、
家族の未来の方針を立てなければならなかった。
その時、湯浅は七人の子供の父親となっていて、生活だけでなく教育の問題も
起きていたのである。とかく普通の家庭では、主人が仕事で外にばかりである
と、家庭内もうまく行かず、仕事も双方だめになるとケースが起こりがちであ
る。
湯浅は、安中を治めつつ、外へ出ても仕事を続ける独自の方法を編み出した。
何人も考え得ない方法であり、後継者選びにしても、戦後の民主主義時代でも
珍しいやり方であった。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
まして、封建時代の名残が色濃く残っている明治の中期ではある。
●有田屋・湯浅治郎京都へ行く
新島襄を失ったあとの同志社は、羅針盤の外れた船のように漂流を始めたよう
な状態にあった。同志社に必要なのは何かといえば、一にも二にも人材である。
学生を教え、経理をまとめることが緊急を要する課題である。そんなところへ、
途中から乗り込んで行く、湯浅治郎や小崎弘道にとっては、落下傘で敵陣の中
へ降下する心境であった。
勝海舟が、新島の計画を聞いて運営上不安を感じ、
「同志社は潰れるよ」と警告
したのもまんざら根も葉もない事ではなかった。新島の人柄と働き、対宣教師
問題、外国・国内募金、政治の変遷などから、将来、同志社の危機が起きるこ
とを、勝は東京で閑居しながらその炯眼で見抜いていたようである。
ひとつは、経済問題であり、とくに外国から資金援助を受けている点であった。
宣教師たちは、その事実を知っているから強気であった。しかし、湯浅にして
みれば、同志社設立に際して、国内の政財界から六万円もの巨額の寄付を仰い
でるのを踏まえての事なので堂々と所信を貫こうという姿勢である。
勢い、湯浅が新島より強い態度に出るのは当然なことであった。
小崎弘道にしても、教育観の問題では師・新島襄に忌憚のない意見を吐いてい
る。
新島は、人物養成、人材教育に重点をおいたが、小崎は人格教育を主にして平
凡な市民をつくることを考えていた。つまり、天才の教育・薫陶の場ではない
という考えだった。
この辺の違いは新島と小崎の出身階層の違いや、性格の相違から出てきたこと
であって平素なら問題にならない事だったが、創設者の早い死と、後継者の資
質の問題となると複雑になってくる。
こうなると、湯浅のような常識人の言動が局面を打開してくれるはずだった。
そのため、みすみす前途ある仕事をなげうってまで京都へ移転して来たのであ
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
る。
同志社の中では湯浅と小崎が財務を担当し、小崎と宮川が教育に関して担当し、
伝道会社から派遣された四人の委員を迎えて、学校の運営に関して交渉してい
るが、湯浅の財務上の主張は強硬に貫かれた。
神学や教育上の問題が噴出し、渦中に巻き込まれながらも、湯浅は次々と財務
問題に取り組んでいった。土地の所有権における宣教師との対立でも、新島の
置き土産的な問題をひとつひとつ片付けて行った。宣教師や現理事たちから折
衝が冷酷で親切を欠くとの批判を受けながらも、湯浅は役所に出した書類を根
拠として所有権の実質化を図った。
現在だけでなく、将来に禍根を残さないよう明確にしておこうとの考えである。
その貢献においては、学校の敷地として態をなしていなかったのを整備した手
腕が挙げられる。これは、安中や東京においても示された土地に対する目利き
の賜物と言える業績である。
同志・柏木義円は湯浅の仕事を「以前は、今出川御門に立っても、同志社がど
こにあるか判別出来なかったものが、今や烏丸より寺町に至る沿道がほとんど
十のうち八まで我が母校の校庭となった。(中略)これ、翁(湯浅)の功績として
記すべきものだ」と説明している。
柏木は、また湯浅は土地問題に対して、教育や慈善事業の名目で、投機や思惑
で事を進めるのをいたく戒めていたと言い、湯浅が同志社を辞めた後で「いわ
ゆる同志社会計不始末事件や思惑買いの物議をかもした岩倉村七万坪土地購入
事件などが起こった」ことを挙げ、湯浅の存在が如何に大きかったかを説明し
ている。
湯浅が京都に 20 年在任した途中、いろいろな紛争からみで小崎弘道や柏木義円
も辞めて行った。その中には、明治 32 年、徴兵猶予をめぐるミッションスクー
ルの存否に関わる問題もあった。
湯浅にとって最後に残る大仕事は、同志社の大学開設があった。大学創設は新
島襄の創業以来の希望ではあったが、当時、設立にあたって文部省から示され
た金額はかなりのもので、各ミッションスクールは資金の捻出に苦慮していた。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
それに反し、同志社は明治 44 年 9 月、二十八万二千円の申し込み額を計上し、
独自で大学を開設する見通しがついた。もちろん、資金調達には湯浅の力を必
要とした。翌 45 年、文部省に大学を認可され、原田助が総長に就任した。
同志社の歴史をみると内紛の多い事が目立つ。とりわけ論争が多いのが特徴で
あるが、創業当時には、小崎弘道や柏木義円、浮田和民、安部磯雄、徳富猪一
郎(蘇峰)等の論客が多いのも同志社らしいと言える。大正 7~8 年にかけて始ま
った原田総長の問題に関わる紛争で、遂に湯浅も同志社から一切身を引くこと
になる。
安部磯雄は、湯浅の同志社人としての功績をふたつ挙げ、一つは義務的に、何
ら報酬を受けず、好意的に尽くすため手弁当で働いたことを挙げ、二つは、地
味な財務方面の仕事を受け持ち、縁の下の力持ちに徹したことを挙げている。
湯浅にとって同志社への愛は終生変わることはなかった。告別の時が来た湯浅
は京都住まいを終えて帰京した。再び東京へ居を構える。湯浅にとって、安穏
な日々は訪れたのであろうか。
● 有田屋・湯浅治郎、故郷へ帰る
二十年間、同志社のため心血を注いできた湯浅だったが京都を去る日が来た。
新しい大学令による総合大学となり、新島の念願していた大学が誕生したので
あるから湯浅にとっても引き時と言えた。
湯浅自身、同志社の二十年間をどう感じていたのであろうか。
国会議員も出版業も放棄して京都に向かったのが四十二歳、辞任したときはす
でに六十二歳になっていた。当時の六十二歳は既に老境といえる年齢だったが、
湯浅にはまだ活力が残っていた。
東京に戻った湯浅は、大正 4 年、東京代々木の初台に家を新築する。
終の住処となる家は自分で工夫し、工事監督もした。
土地を探し、家を建てることは老後の一仕事であったが、そのために京都の家
と逗子の別荘を処分しなければならなかった。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
逗子といえば、戦前から湘南の別荘地として有名だが、湯浅や徳富兄弟が建て
た家は、別荘のさきがけとなっただけでなく、文化人の集まる町として逗子を
有名にしていった。今でも記念碑や旧居が大切に保存され、町名変更や変遷の
激しい中でも「桜山」は残されている。
義弟である徳富蘆花は、
『不如帰』(ほととぎす)の一篇でもって小説家として名
を成すが、逗子の海岸での生活を主として書いた『自然と人生』は、戦前の中
学国語読本にも美文調の文章が取り上げられ、今でも長く読み続けられている。
湯浅が、逗子の山の手に別荘を建てたことにより、湯浅一族と徳富一族との交
流が盛んな時があった。湯浅の妻初子は、父徳富一敬と会うことが容易になり、
遂に一敬をキリスト教に導いたことがある。
湯浅にしても、岳父との旧交を温め、互いに漢詩を作り合っている。
京都時代の休暇に、逗子で過ごすことは湯浅にとって休養でもあり、息抜きで
もあった。
東京での安穏な日々が続くかに思われた湯浅であったが、晩年において一つの
大きな事件に関与することとなる。
それは、キリスト教会(組合教会)における朝鮮伝道だった。
明治 43 年の「日韓併合」以来、朝鮮におけるキリスト教伝道は、日本基督教会
や日本メソジスト教会、その流れをくむアメリカの長老教会などで盛んに行わ
れていた。
しかし、湯浅治郎、柏木義円、吉野作造(政治学者・大正デモクラシー指導者の
ひとり)らが、連合して反対したのは、組合教会の伝道に朝鮮総督府がからみ、
金銭の援助はもとより、政治的にも力を貸しあたえたことにあった。
当然、組合教会が政治的に利用されていた事を意味していた。
政治が宗教の力を利用して治世をしやすく、抵抗を押さえる手段としたことは、
昔から多くの為政者が考えたことであった。
湯浅、柏木、吉野らは、組合教会の年次総会で正論を吐き、人々の目を朝鮮に
向けようとした。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
教会外でも石橋湛山(昭和 31 年首相となるが病のため短期で辞任)が「東洋経済
新報」で論陣を張った。
また、吉野も「中央公論」を舞台に論壇で気を吐いた。その影響を受けた弟子
の一人に、後の東大総長・矢内原忠雄がいる。矢内原もまた学生時代安中を訪
れ、柏木義円の牧館を訪問している。
組合教会の朝鮮伝道問題おける反対運動は、武断派政策の寺内正毅総督(陸軍大
将)から文治政策派の斉藤実が就任する大正 11 年ころまで続いている。
その中で湯浅がどれくらい深く関わったかは、本人が何も語らず、書かないの
で、推測の域を出ないが、韓国の「キリスト教史」に寺内、斉藤と共に湯浅の
名前がみえることは相当深く関わっていたのではないかと思われる。
安中教会・五味一(ごみはじめ)牧師によると、湯浅治郎と柏木義円らは、朝
鮮植民地化に対して反対した数少ないキリスト教者で、それゆえか、今この安
中教会を韓国から訪れる人が多いという。
息子・八郎が戦後、国際キリスト教大学・初代総長になったとき、国立大学以
外で「韓国史」の講座が設けられた唯一の私学であったことを見ても、父・治
郎の影響がかいま見える。
湯浅治郎、晩年最後の仕事は、安中教会の教会堂建設であった。
●晩年の湯浅治郎とその系譜
有田屋三代目・湯浅治郎の身の処し方は、影武者として徹し、同志社を辞した
後は京都に長居することなく、早々と東京に引き揚げて隠棲するあたり、全て
の事に共通している。
生涯の宿題としていた教会建設に全力を注いで行くのであったが、ここにおい
ても湯浅が手がけた霊南坂教会、番町教会、YMCA、同志社の大建築の経験
が実力を発揮して行く。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
安中教会には、後に聖者と敬われた柏木義円牧師がいた。
湯浅と柏木は同志社で一緒に仕事をした仲である。意見の相違から表向き袂を
分ったように見えていたが、二人の信頼の絆は固く、湯浅の斡旋により安中の
牧師として赴任していた。
安中教会は、湯浅の大口献金だけで出来たものではなく、湯浅は大正 7 年に会
堂新築の議決のあと、柏木牧師を伴って、京浜、名古屋、京阪神を奔走して募
金に尽力した。有田屋がクリスチャンの間で民宿のような役割を長年果たして
いたため、恩義を感じて献金する人も多かった。
安中教会は、さして大きな会堂ではないが、一足会堂の中に踏み入れると石造
りのためか肌に冷やりとした空気が感じられる。講壇も椅子も床も調度品も申
し分なく、外側の石と内側の木とがみごとに調和している。
この木材も一級のものを湯浅が調達してきたものである。
日本式の建築材料を吟味して集め、教会という西洋式の建築に使った珍しい例
である。
日本の木造教会堂の傑作として弘前教会があるが、石造りの傑作として安中教
会を挙げることが出来よう。規模の大小は問題ではない。
教会堂正面にあるアメリカンスタイルのステンドグラスは、大正時代の小川某
という作家が制作したのであるが、埋もれていた芸術価値がいま工芸の世界で
再発掘・注目され、美術誌関係者から取材が相次いでいる。
五味牧師によれば、このデザインは聖書の『黙示録』に書かれているメッセー
ジが描き込まれ、調べれば調べるほど、意味深いものがあり、これを知ってい
て制作を依頼したのは、湯浅、柏木の両人以外にあり得ないという。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
(教会外観とステンドグラス)
堂内は、右の壁に湯浅一郎が描いた「新島襄」肖像画、左の壁に「湯浅治郎」
の肖像画が掲げられている。
脇壁には「柏木義円牧師」「海老名弾正牧師」の肖像画が掲げられているのが、
普通の教会と違う雰囲気をかもし出している。
会堂建築までの湯浅の隠れた献身は、ようやく地元の人々にも認められるとこ
ろとなった。しかし、それによって献堂の完成まで湯浅の終の住処である東京
の新築が途中で止まっているという事だった。何をもって恩義に報いるかとい
う相談の結果、安中から初台にある家まで昼夜兼行で荷車が急行した。
荷車には安中でも名花といわれた 200 年以上の牡丹の花、数株がつけられ、枝
を傷めないよう慎重に運ばれて新居の庭を飾ることとなった。
大正 12 年の関東大震災で、教会にも被害が出たと聞くや「病中も死に至るも、
その修繕の事を思い続け、出来ぬならば幽霊になってでも行く」という冗談を
言ったと、柏木牧師は書いている。
波瀾の多かった生涯の終わりに、一人の信徒として身の処し方を完了し、完全
な隠棲生活に入った。
晩年の湯浅の生活は、漢詩を作ることをもって楽しみとし、義弟徳富蘇峰に添
削を求め、蘇峰も「劣弟蘇峰妄批」とわざわざ断って朱筆を入れている。
しかし、花鳥風月を歌うだけで事足れりとする老人と違い、時局を憂える心が
詩の中に現れてくることである。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
雲外野人一日時事を諷して
「何事ぞ、右は穏健、左は危険、人を殺すはいつも右の手」等と詠んでいる。
家族についての和歌も・・
「子孫曾孫五十五人となりにけり 嬉しくもありうるさくもあり」詠んでいる。
昭和 7 年初夏、81 歳で湯浅治郎は世を去るが辞世の歌は・・
「許されて帰るみくにを思ふだに 花野に遊ぶここちこそすれ」であった。
湯浅を天に送ってから、妻初子は一年八ヶ月のち七十六歳で世を去った。
治郎が亡くなったときは、
「残る身は神の御前にたつ時を 待つより外になすべかりけり」
と歌に託している。
その後の㈱有田屋醸造は、治郎の三男三郎(1877~1945 年)が同志社に学んだ
後、四代目として家業を継ぎ、25 年間安中の町長や県会議員をつとめ地方政治
に貢献した。
五代目正次氏(1911~1999 年)昭和 46 年より 5 期 20 年安中市長を勤め、一方
新島襄を記念して昭和 22 年、同志と共に新島学園(中学、後に高校、女子短大)
を創立しました。
(現在の安中市・新島学園)
六代目太郎氏(1936 年~)は、現㈱有田屋醸造・会長を勤め、新島学園理事長
として、青少年の教育事業に取り組み、多大な貢献をしています。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
(晩年の三代目・湯浅治郎と七代目・湯浅康毅)
そして昨年、若き七代目・湯浅康毅社長が創業以来の老舗の暖簾を受け継ぎ、
新しい時代の醤油造りを目指して奮闘中です。
これから、調味料としてのお醤油はますます注目される存在になると思います。
お醤油ほど、世界で通用し、またどんな料理にも応用できる美味な調味料は他
にありません。その良さを、日本人自身が認識していないところが多々ありま
す。
私たちの先祖の知恵で発明された醗酵食品「醤油」ですが、本来の旨味を追求
する醤油造りにおいては、よい塩が貢献できるというより、どんな塩を使うか
という醸造家の見識がキーポイントを握っていると思います。
その一番の担い手は、未だ地方、地方に残っている醸造家です。
昔からの醸造家には、古くからの歴史を背負っている店が多いと思いますが、
この『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』はまだ現在進行形の物語です。
[終わり]
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
★─────────────────────────────────★
【編集後記】
この物語は、まだ、資料から書き残したところは多々ありますが、奇しくも
「キパワーソルト醤油」が発売される今年が「新島襄の帰朝 140 年」そして、
「同志社創立 130 年」にあたり、地元紙(上毛新聞)にも連載で大きく報道され
ました。
近年、有田屋の蔵にしまわれていた治郎の長男・湯浅一郎の大作が、高崎市に
出来た公立美術館に展示され、多くの人の目に触れるようにもなり、その画業
が大きく評価されるようにもなりました。
七代目・湯浅康毅社長となってから、戦前から群馬県の伝統品種大豆で、途絶
えたかに見えた幻の「大白(おおじろ)大豆」が復活、㈱有田屋さんでお醤油と
して再現される事となりました。
その塩にキパワーソルトが使われる事となりまして、やはり今年の冬に、この
プロジェクトのお醤油が出来上がります。
その経緯、経過も国産大豆奨励の立場から「ぐんまの大豆三兄弟」リポートを
「キパワーソルト醤油余聞」として稿を改める予定です。
今回の資料につきましては、現社長・湯浅康毅様の多大なご協力を得ました。
中でも多くの資料の中から、太田愛人牧師の著書「上州安中有田屋・湯浅治郎
とその時代」より多くの参照・引用させて頂き深甚なる感謝の意を表します。
また、快く取材に応じて頂き、貴重なお話や資料を提供頂いた安中教会・五味
一牧師にも心より御礼申し上げます。
★─────────────────────────────────★
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
【編集余祿・1】
お醤油は、日本の食事では切り離すことの出来ないものです。食卓にあること
が当たり前という感じですから、思いもよらないことですが、ちょっと想像し
ただけで醤油のない食事を考えるとたちまち味気なくなります。
「醤油なしの海苔」「醤油なしのカマボコ」「醤油なしのワサビ漬け」「醤油
なしの生卵」「醤油なしのトロロ芋」「醤油なしのほうれん草のおひたし」な
ど、もし、まぐろのオオトロを食べようとした時に醤油なしだったらどうでし
ょう。たった数滴の醤油なしには、まったく味気なくなることを思い知らされ
るわけです。
椎名誠さんという作家がいます。作家以外に、辺境の地への冒険をライフワー
クとしていますが、某ウィスキーのテレビ CM にも出ていましたね。ある随筆の
中に書かれていたことですが、南米アンデス山脈の麓のルートを南下していた
紀行文中のことです。
食事は毎食現地調達の「羊」の料理ばかりだった。もちろん色々なバリェーシ
ョンはつけて食べていたそうです。食事が単調で美味しくないのはグループ全
体の士気に影響して来て、最後の頃は一日も早く日本へ帰りたいという気分が
蔓延してきました。
ある晩、テント中でひとりの仲間が突然「オレ、餃子が食いてェーッ」と叫ぶ
と、にわかに全員が叫びだしたそうです。
「オレは、マグロのにぎりとコハダと穴子ぉー」「おれは鉄火丼だぁー」「もや
しラーメン!」
「銀座○○のかきあげ丼っ!」
「おれは真っ白いごはんにパリパリの海苔とアジ
の開きーッ」
「おれはそれとシラスの大根おろしが食いてぇ」と阿鼻叫喚の騒ぎ
になってしまったと言います。
冒険生活当初のころ、人間の住むところ、必ず食料と調理文化があるから、日
本から何ももって行かず、現地調達すればいいのだという方針だった。せめて
醤油くらいは持ってくればよかった、ということに気づき無念の思いを噛みし
めたということです。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
現地の味気ない羊の料理だって、醤油さえあればスープだって、瓜やトマトと
の炒め物なども格段に美味しくたべられたのに・・と、いうことはお醤油が実
に万能的な調味料であることに気づかされたと述べられています。
お醤油が、万能の調味料として、風味や味造りに苦労することなく、すべて醤
油で間に合わせられるその秘密は、アミノ酸の醗酵食文化といえます。
【編集余祿・2】
「醤油力・四十度の高熱が下った話」
内館牧子さんというオバちゃんがいます。脚本家で某公共放送のテレビ小説や
大河ドラマの脚本を書いておられるからご存じの方も多いと思います。趣味の
相撲が嵩じて現在、横綱審議会、紅一点の審議委員として活躍しておられます。
その内館さんが、数年前書いた随筆「きょうもいい塩梅」(文芸春秋)に、お醤
油についてこんなことを書いています。
朝のテレビ小説の脚本を書き終え、自分へのご褒美か、長い休暇をとってフラ
ンスはパリで独り暮らしと洒落(しゃれ)こんだそうです。ホテル暮らしで毎日
美術館や小旅行など、快適な暮らしを楽しんでいました。浦島太郎ではありま
せんが、毎日夢のように楽しく日本食も日本のことも思い出しもしなかったと
いうことです。
ところが、ある日突然高熱が出て動けなくなってしまった。
体温は計ると 40 度、風邪薬もまったく効かない。一週間たっても熱は下らず、
白い壁も黄色く見え、何日も食べていないので真っ直ぐにも歩けないという情
けない状態。
「巴里に死す」という映画の題名を思い出すほど洒落にもならない
状態だったそうです。
その時突然、本当に突然「おろしそばを食べたい」と思った。そして何より恋
しかったのがそばつゆの醤油味。体が醤油味を欲しがった。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
ついにパジャマを脱ぎ、セーターを着て、化粧までして外へ出て、醤油力のお
蔭で足腰までピンシャンし、タクシーを拾った。さらにもっとウソのような話
しが、パリの街で「おろしそば」を食べて帰った夜から熱が下り始め、翌日に
なるとほとんど治っていたということです。
この話をすると友達は皆「ウソだ」と言うそうですが、醤油の力は神がかり的
なのだ、というお話・・・・。
※日本人の血の中には、多分お醤油のアミノ酸が血漿成分の中に染み込んでい
るのかも知れませんね。
【編集余祿・3】
「黄門様が食べたお醤油」
テレビの時代劇で長寿番組と言えば「水戸黄門」がお馴染みですね。初代の東
野栄次郎から数えて何代もの黄門様が活躍しています。実際の水戸黄門・徳川
光圀公(とくがわみつくに)は、講談や映画・テレビで演じられるような諸国
漫遊ということはなかったようです。むしろ、学究肌で「大日本史」を編纂し
たことで知られています。
大日本史を編纂されたとき仕えた史臣(編集部員)の中に、お供の「助さん」
「格
さん」がいました。ですから、彼らは実在の人物で、助さんは佐々介三郎宗淳
(ささかいざぶろうむねあつ)、格さんは安積覚兵衛(あさかかくべえ)といい
ました。史臣たちは全国各地に史料を求めて調査の旅をしました。これが後に
「水戸黄門漫遊記」として講談やお芝居で脚色されることになり、現代のテレビ
時代劇にまでつながっていると言えるでしょう。
黄門様は、伝えられるところによると、関東育ちのわりには薄味を好んだとい
われております。どうも、その影響は奥方にあったようで、黄門様の夫人は尋
子(ひろこ)といい、京都から嫁いで来ました。
家柄は、前関白近衛信尋(このえのぶひろ)の娘で、百八代の後水尾天皇(ご
すいびてんのう)には姪にあたり、百十代の後光明天皇とは従姉妹にあたると
いいますから、大変な家格と申せます。
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
昔の事で当時の風習では嫁いでくるときに、京から料理人も従って来ましたか
ら味は完全に京風であったと思われます。水戸徳川家には「食菜録」という料
理のレシピ集が伝えられています。江戸時代の料理は、ぜいたくな料理も、素
朴な味わいの料理も、粋な仕立ての料理も現代の日本料理に大きな影響を与え
ています。
「食菜録」に書かれているものには、現代の私たちが親しんでいる料
理の原型が見られます。
『やきとりの仕様』鳥を串にさし、その上へ薄霜ほどの塩を振る。
よい焼き加減のときに、醤油の中へ酒を少量加え、焼き鳥に付けまた一ぺん付
けて、醤油の乾かぬうちに席へ出すのが良い。(※これは、もう現代の高級焼き
鳥ですね)
『きじの汁山かけ』きじの肉を適当に切り分け、酒をひたひたに入れ、火を細
くして、酒臭くないよう煮る。その上に水を入れ、煮立て、塩を入れる。汁の
味がちょっと軽いときは、醤油を加える。だしは使わない。(※きじの肉の臭み
を酒で抜き、塩味と醤油を加えて汁かけにして食べるという事ですが、現代で
はきじの肉が手に入りませんね)。
『はまぐりの吸い物の仕様』蛤のむきみを手の中で少し汁を絞り捨てる。酒と
水を等分にしたもので程よいくらいに煮る。炒り塩でお吸い物に仕立てる。(料
理屋さんで出すお吸い物は現代でも通用ということですね)
『玉子のふわふわの仕様』玉子をつぶし、水醤油か、だし醤油の中に入れ、常
のごとくふわふわ仕立てにする。(戦後、食糧の無い時代、玉子のお吸い物はぜ
いたくな食べ物でした)
『海苔餅』餅を長さ 4~6 センチ、巾 2~3 センチに切り、焼いて醤油へちょっ
と入れ、直ちに海苔に巻いて熱いところを食べる。 (これはもう、完全に現代
の磯辺焼ですね)
『酒飯』酒を茶碗に七分目、醤油を同じく七分目、米一升の割合で普通に炊く
と、茶飯のように色がつく。醤油で塩味がつき、酒が入るのでご飯はべとべと
せず、固めに炊きあがる。(炊き込みご飯のルーツと言えますが、江戸時代、具
は一種類が多かったようです)
『醤油飯』上の炊き方から、酒を抜いたもので、酒飯を炊く代わりにしばしば
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『味知との遭遇・キパワーソルト醤油物語』
醤油だけを用いる。(子供の頃、ご飯にお醤油だけをかけて食べたことがあり、
終戦後はこれを醤油めしと言っていました)
その他、いろいろな魚のさばき方や、鳥料理の仕方などが述べられています。
ところで、当時お醤油はどこで作られていたかと言えば、大名家では自家製の
お醤油でした。また、領内に地場の醤油、味噌の醸造メーカーがありました。
つまり、江戸時代、お醤油や味噌は「地産地消」だったのですね。
今でも、日本各地へ行くと、昔ながらの醤油屋さん、味噌屋さんが残っていま
す。大メーカーに成長した会社もありますが、基本は「地産地消」でいつまで
も残したいものの一つです。
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非
売
品
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平成 17 年 11 月 23 日・初版
著者・池田 伊佐男
発刊・イケダ産業株式会社
〒376-0053 群馬県桐生市東久方町 2-4-26
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