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ふれんどしっぷ 8_19970328

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際社会からの援助によって、戦
シベリア鉄道に乗ることがで
のユダ。ヤの人々はかろうじて
それによって、六千人から
経由でアメリカヘ渡った人た
のユダヤ人協会は、特に日本
ちの窮乏を見かねたアメリカ
時千三百万人の日本の子供た
た日本は、悲惨を極めた。当
語一った:ことが思い出。される。
慢)な国民と評している﹂と
多くが日本人をアラガント(倣
態度が目立つ。アメリカ人の
経済力をかさに着て、高慢な
が、数年前﹁今日の日本人は、
督を勤める友人の今井亮徳君
後の復興を成し遂げた日本が、
景があったからである。
き、ウラジオストックまで来
ちを中心に、全米に呼びかけ、
国際社会への恩義を忘れたら
ユダヤの人たちは太平洋戦
飛び乗った。それでもピザの
ることができた。ところが二
脱脂粉乳などの食料を日本に
日本は見離されていくのでは
その恩義を忘れ、経済社会で
十一日間のビザの有効期間は
送った。それによって、餓死
ないか。﹁稔るほど頭を垂れ
争が始まる直前に、神戸から
とうに過ぎていた。しかし、日
者も出さずに子供たちは育っ
る稲穂かな﹂の格言を引き
がった。彼は、署名していて
しで、九敦賀に向かった。日本
本の船は、彼らを乗せた、。そ
ていった。
合いに出して、国際社会でも
発給を求める人々は列車に群
る国からのビザ(査証│外国
の入国審査官は、ともに失効
今から十三年前、アメリカ
ってきている。今北米関教監
一支援室長の五月女光弘氏の﹁国
旅行のとき、旅行先の国に駐
ニューヨーク勤務であった五
人聞社会でも、どこまでも謙
の優位さを誇示して倣慢にな
一際交流から国際協力ヘ﹂と題
在する大使、公使、領事館が、
している旅券とビザであった
月女氏は、ユダヤ人協会長か
らないと言われた五月女氏の
虚である姿勢の大切さは変わ
アメリカヘ無事出国すること
一する講演を聞いた。その中で、
旅券を正当と認めて行う人国
が、入国を許可した。そして、
ら、杉原氏から発給されたビ
は間に合わないと、通行許可
一﹁いのちのビザ﹂として有名な
許可の裏書き証)発給をそれ
敦賀の人々は、六千人のユダ
ザによって、六千人の人たち
五十数年前、杉原千畝とい
ができた。無謀な戦いで敗れ
一八百津町出身の杉原千畝さん
こそ命懸けで求めていた。既
ヤの人を温かく迎え、手分け
が救われ、今ではその子孫は
う一人の人聞が、いのちの尊
の用紙を配った。
一にまつわる話がなされた。
にリトアニアでも各国の大使
して宿を提供し、滞在中の食
六万人の人数に増えたことを
厳という深い眼差しを通して、
圃隊副知編曲 ω溺 舎 を 砲 闇 レ て
一杉原千畝さんは、昭和十五
館や領事館は閉鎖され、日本
神戸に移った彼らを神戸の
事などの世話をした。やがて
知らされた。﹁私たちユダヤ人
六千人の異国の人々に深い愛
一ロッパ各地を転々としていた。
一人は迫害を逃れるためにヨ l
一は、はげしさを増し、ユダヤ
一イツによるユダヤ人への迫害
務省からは、﹁正当で適切な判
ヘ打電し、指示をあおいだ。外
効しているのを見て、外務省
杉原さんは彼らの旅券が失
ビザの発給を求めて殺到した。
にさかのぼる深いわけがあっ
か。それには、日露戦争以前
に反してヱダヤ人を助けたの
伊三国同盟を結ぶドイツの意
なぜ当時の日本人が、日独
くの日本人から受けた恩義は、
し、杉原氏をはじめとする多
ような塔は建てません。しか
スフィンクスやピラミッドの
徳﹂ということばがある。事
い決断であったろう。﹁賢慮の
い状況下で苦悩の末の重い重
を注いだ。その行為は、厳し
円原
一年リトアニア領事館員として
の領事館があるのみであった。
は、杉原千畝氏をいのちの恩
一ヨーロッパの国々に救いを求
断をせよ﹂との返電があった。
力の乙とである。杉原氏のこ
に臨んで適切な判断を導く能
の尊い決断を導きえた能力と
失効している旅券に、日本へ
れが恩に報いる唯一の道だと
ず語り継がれていきます。そ
これから何世紀にも渡って必
アメリカのユダヤ金融資本に
なき優じさを見;る。いのちを一
することは、正当なことでは
愛そうとする彼の本当の優し一
一めたが、ナチスドイツの勢力
﹁いのちはそれを愛そうとす。一
一を恐れた全ての国々は、彼ら
る者のためのものであって、傷一
一の受け入れを拒否した。永世
つけよう、壊そうとする者の一
一中立国スイスも国境を閉鎖し
ためのものではない﹂(釈尊)一
一て受け入れなかった。ユダヤ
関西・淡路の大震災の折に
れた。
さである。その彼の行為が今、一
は何であったろうか。私はそ
に深い恩を感じていた日本は、
も、彼らからの義援金、援助
に、わがいのちに注がれてあ一
六万人を越える人々のところ一
言えるからです。﹂と、感謝を
ナチスドイツのユダヤ人迫害
物資は群を抜いて多かったと
る深い愛として感得され共感一
貿ってもらい、日露戦争を乗
いている。杉原さんは、多く
を許さず、昭和十三年﹁ユダ
いう。かつて受けたユダヤの
り切れた恩義があったのであ
の人々のいのちのかかったピ
ヤ人対策要綱﹂を発令して、た
人からの恩を忘れないで、彼
される。その共感が、深い恩一
ない。しかし、領事館には何
ザ発給に応じた。しかし、本
とえ同盟国ドイツの政策であ
らのいのちを救った戦前の日
郡上八幡国際友好協会の主一の人々は、自由の国アメリカ
国日本からは、領事館を閉鎖
っても、ユダヤ人迫害は日本
として感受されるとき、それ一
の根内/こに、いのちへの限り
して即刻帰国せよとの命令が
は関与しないことを世界に発
本人。そして、日本人への恩
はそのまま他者への愛として一
全身で表しておられたと話さ
すでに出されていた。急がね
信していた。当時の杉原さん
‘注がれるのであろう。一
c したがって、ユダヤの人々
ばならない。彼は、懸命に署
を半世紀以上も決して忘れる
る
名しつ哨つけた。、だが、帰国の
をはじめ日本の人々が、ユダ
ことなく報いてゆこうとして
千人もの人々が、必死の面持
ために、首都カウナスの駅へ
いるユダヤの人たち。今日国
(当協会副会長)一
ヤ人の困窮の状況に無関心で
ちでピザ発給を求めてひしめ
た。日本はかつて戦時国債を
之
の入国許可証明の署名なつ印
言葉が印象に残る。
一勤務していた当時、ナチスド
ユダヤの人々は、杉原さんに
人々も親身に面倒を見、世話
人として、決して忘れません。
f
合 務部
をしたという。
郡上八幡国際
友好協会
向かわねばならない。ぎり、ぎ
J
発 行
正
いられなかったのはそんな背
ギフ
1997年 3月 28日
田
りまで署名しつ哨つけて列車に
GIFAと は 郡 上 八 幡 国 際 友 好 協 会 の 愛 称 で す
口
手
催する講演会で、外務省民間一への渡航を求めて、海岸のあ
講演をする五月女光弘外務省民間
援助支援室長 (
2
/
1大垣市で撮影)
8 τ
ョ
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:
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第
A
F
G
での一こま話一一品川口一一一一一一JU
メリカの学生たちーたちも読んだのだろうかとも
-│思いました。
新栄町石一
r 創出均。
間州内一
旬。窃笹口
ベス・ストロプキ I
生一地文子訳の﹁源氏物語﹂をつ一家の瀬戸内寂聴さんが﹁源氏一
き叩ずかしいことですが、一まみ読みし、巻末の学者や作一物語﹂について講演されたと一
業を受け、益々その興味を深一ができました。
大学に入ってから日本の様々一いることを実際に生かす乙と
司奇しくも今年の一月の新聞一
子供の頃からアジア、特に一いる事がどういう風に使える
伊なよく分かりません一きません。その後、私は、円に愛知県の厚生年金会館で作一
日本に興味を持っていました。一のかがわかりました。習って
服間とは主人公の光源氏一家の解説も読みましたが、ど一いう記事を見ました。講演で一
スビ多くの女性からもて一うやら色好み論やもののあは一は、日本が世界に誇ることが一
くする機会に恵まれました。一このプログラムは私にとっ
な美術、歴史、文化などの授一ができ、とても効果的に勉強
訪れ、男冥利に尽きる一一れ論などのようであります。一できる文化遺産を日本人が知一
知 事 の 歓 迎 の 挨 拶 の 後 、 学 生 生 を 送 っ た 恋 愛 物 語 を 、 紫 式 一 ア メ リ カ の 学 生 た ち が ﹁ 源 一 ら な い の は 恥 で あ り 、 せ め て 一 日本語は大学二年の時に勉強一て、最高の先生と勉強方法に
たちは自己紹介を行いました。部がよ品に書いた位にしか思一氏物語﹂を話題にしたことで、一帖々の名前とか、登場人物の一 し始めました。最初はとても一出会えただけでなく、日本で
訪問を済ませて近くの食堂でっていませんでした。改めて一私もほんの少し勉強しました。一名前ぐらいは頭に入れて下さ一 楽しくチャレンジ精神で一生一仕事をするきっかけにもなり
日本食の弁当を食べながら、多源氏物語を事典で見ますと、次一さて、アメリカの学生たちは、一い、そうするとみなさんの生一 懸 命 勉 強 し ま し た が 、 二 年 程 一 ま し た 。 日 本 に い る 間 に 仕 事
卒業が近くなり、就職する一なくてもとても良い仕事を見
分 、 日 本 の 第 一 印 象 に つ い て の よ う に 書 い て あ り ま す 。 一 ﹁ 源 氏 物 語 ﹂ の 何 に 注 目 し た の 一 活 も 豊 か に 雅 や か に な る と 思 一 経 つ と 授 業 以 外 で 日 本 語 を 使 一 を 探 す 事 に し た の で す が 、 ホl
話 し 合 っ て い る の か 、 英 語 の 源 氏 物 語 は 、 事 典 に よ る と 一 で し ょ う 。 ま た 、 作 者 の 紫 式 一 い ま す と 言 っ て お ら れ る よ う 一 う機会があまりないため、興味一ムステイをしている家族とと
お し ゃ べ り な の で 内 容 は よ く 平 安 時 代 の 物 語 で 、 あ る 帝 と 一 部 を ど う 評 価 し て い る の で し 一 で す 。 い か が で じ よ う か 。 す 一 が、どんどん落ちていきました。一ても仲良くなれたため、探さ
は分かりません。桐壷更衣(身分の低い女官)と一ょうか。当時の政治のありか一でにお読みになった方はどん一
突然、﹁源氏物語﹂の日本語の聞に生まれた主人公、光源一た、社会のありかた、あるい一な感想をお持ちでしょうか。一 か大学院ヘ進むかを迷ってい一つける事ができました。日本
の一節が私の耳に飛び込んで氏の一生とその一族たちの人一は美意識に興味を持ったのだ一また、まだお読みになってい一 ま し た 。 ち ょ う ど そ の 時 一 で 働 き た い 事 を 森 さ ん ( ホl
き ま し た 。 び っ く り し ま し た ブ 生 七O 年 余 を 虚 構 し た 、 紫 式 一 ろ う か 。 一 度 聞 き た い と 思 っ 一 な い 方 は 一 度 お 読 み に な っ て 。
くれたのでこのプログラムで一うという話になりました。そ
日本ヘ行く乙とに決めました。一の話がどんどん進み、ご主人
開MorsmoF司 自 の ポ ス タ ー を 一 ム ス テ イ 先 ) に 伝 え る と 奥 さ
見かけました。両親も薦めて一んと一緒に英会話教室を開こ
それから私は耳をそばだて、挙部の五十四帖にも及ぶ大作と一ていたが、機会もなく、その一はいかがでしょうか。かつて
生たちの話をじっと聞きましあります。事典を読んでいて一ままになってしまいました。一のアメリカの学生たちと﹁源
たが、肝心な所は、英語、そも家系図を見ながらでないと一なお、事典で多分アメリカ一氏物語﹂についての討論会が
していた勉強法でした。日本コミュニケーションができる
り、乙れは私が大学時代に探働いている日本人の人達とも
語を使える機会がたくさんあ一日本で仕事ができ、一緒に
と思います。授業以外に日本一室を始めました。
果的に日本語の勉強ができた一に入社し、三月から英会話教
や り 方 で し た の で 、 非 常 に 効 一 に は 森 ア ソ シ エ l ツ株式会社
授業を受け、夕方には自由に一帰国してから早速ビザの手続
日本の文化を体験するという一きを始めました。翌年の二月
した。午前と午後に日本語の一語も教えることになりました。
開。各自問。匂名
g のプログラ一話を教えるだけではなく、バ
ムはとてもエンジョイできま一イロット志望の生徒に航空英
卒業して二日後には日本に行一の会社で教室を開く事になつ
っていました。一たのです。その教室では英会
2222zZEd
れ も 本 場 の 流 暢 な 英 語 な の で と て も や や こ し く て 理 解 が で 一 人 で あ ろ う ア l サl ・ウエリ1 一できたら面白いと思います。
.・一(前当協会会長)
-盛田園田臨臨舗纏温圃圃圃圃圃圃園圃園開撃機畿圏闘訓│、,
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イ ノ ド ヰ 里‘を 二
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一朝岡麟輔鯛翻麟麟楽しむ会を開催一
響 調 議 襲 撃 機 繍 盤 機 騒 昨 年 の 十 一 月 三 十 日 ( 日 ) 、 一 を 作 り ま し た 。 プ ラ モ lド一
機関機機関線機鱗機機織翻闘圃闇相生の社会福祉センターを一さんの指導で作った料理は一
籍調際監掴議離勝闘会場に会員ら五十人が集ま一さすがに本格的。辛口のカ一
一瞬麟麟翻割強吋翻り、インド料理を楽しむ会が一レ
lは本当に辛く、汗がでま一
一韓関騒一ど騨難行われました。一した。昧は美味しかったと一
面1 川 繍 醗 麟 鶴 野 融 機 騒 講 師 は 、 京 都 、 大 阪 で イ ン 一 は み ん な の 声 。 一
Y1翻 闘 圃 園 襲 襲 撃 議 ド 料 理 屈 な ど を 経 営 し て い 一 乙 の 企 画 は 、 中 国 料 理 、 韓 一
人 の 人 に 自 分 の 言 い た い 乙 と の は 、 間 違 い な く 門 誌rgmo
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M出口のおかげです。間内各自問。
がわかってもらえると、一層、
頑張る気と日本語に興味が沸仕切
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いてきました。授業では基本日本で働きながら日本で生活
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l 一国料理に続く本年度の第三一
ふわふ融機構麟額融ルさん。本格的な香辛料を一回目の事業として行われた一
五γ 帰 舗 網 閥 翻 鱒 麟 麟 る プ ラ モ ト ド ・ ジ ヤ 十 ス ワ
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的な会話と言い方を習い、家する夢を叶えられなかったこ
ることができ、授業で習って(平成六年度受講生)
に帰ると習った事を試してみとでしょう。
GIFAと は 郡 上 入 幡 国 際 友 好 協 会 の 愛 称 で す
回
鵬欝盤醐酪臨襲麟撃たっぷり使い、インド料理の一ものです。これからも続け一
一瞬盛田園嬢欝舗降臨圏慣櫨慶騒騒議中から、サモサ、チキン・マ一ていきたいと思いますので、一
一講師(写真中央)と一緒にナスサラ、サフラン・ライス、ナ一みなさんのご参加をお願い一
一カレ!を作っていると-ろ一
スカレ l、ティ!とラッシ l 一いたします。
ベス・ストロプキー
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