suxsb,ay ソック・サバーイ elx 94 Ex 11 qÕaM 2010 2010年11月 94号 -元気だよ- 編集・発行 JVCカンボジアチーム コメから見えるカンボジア その2 JVC東京 カンボジア事業担当 山 勝 前回の記事では、かつてのカンボジアが豊か なコメ大国であったことについて述べた。カン ボジアは長い間フランスの植民地下に置かれて いたが、1949年にフランスからの一部独立を果 たし、1953年には、シハヌークを国家元首とす るカンボジア王国が誕生した。私が聞く限り、 この時代を知るカンボジア人の多くが、「とて もいい時代だった」と懐かしむ。首都プノンペ ンは東洋のパリと言われるほどの賑わいであ り、農村も決して「豊か」と言うわけではな 日比谷公園で行われた「グローバルフェスタ JAPAN2010」で来場者にカンボジアでの活動を 説明する山﨑さん。 かったようであるが、人びとが食べていくため には十分であったと言われる。 しかしながら、そんな時代も長くは続かな かった。1960年代に入りベトナム戦争が勃発すると、戦争に巻き込まれることを恐れたシハヌー クは、アメリカからの経済・軍事援助を断ることを決断する。結果的にごく短い間ではあった が、カンボジアはベトナム戦争の戦禍を免れた。しかし、当時、国家予算の15%に相当していた アメリカの援助を失ったことで国内は混乱し、1970年に親米派のロン・ノル将軍がクーデターで 政権を樹立するに至った。ロン・ノルは、カン ボジア国内に潜む北ベトナム軍をカンボジアか ら追放し、南ベトナムへの補給線(いわゆる ホーチミン・ルート)を断つために米軍に対し カンボジア侵攻を許可し、カンボジアはいよい よ内戦の時代に突入する。 私は、2000年5月から3年間、ベトナム国境 に近いスバイリエンに住んでいた。スバイリエ ンはカンボジア南東部にあり、ベトナムと長い 国境を接している。県都のスバイリエン市は国 道一号線上にあり、プノンペン市とホーチミン 市のちょうど中間点にある。この地域は古くか カンボジアの農村の風景 ら稲作が盛んで、ポル・ポト時代には大規模な 灌漑用水路が築かれた。私は農業支援の活動を していたため毎日のようにスバイリエンの農村 を歩いていた。 当時、農村の道はほとんど整備されておら ず、雨季になると車やバイクを途中で降りて押 さなければならないことも度々あった。外国人 が農村を歩いていることは珍しく、「外国人 (フランス人)が来た」といって泣き出す子ど スバイリエン北部ロムドール郡にあるお寺の 住職。無数の火の玉が降ってきて村中が火の 海になったが、この寺にだけは奇跡的に被弾 せず、今でも地域の人々の信仰の対象となっ ている。 ももいた。カンボジアは元来、人見知りが多い ので、初めはなかなか打ち解けて会話をするこ とは少なかったが、しばらく農村を訪問してい るうちに、農民もいろいろな話を聞かせてくれ るようになった。その中でよく聞いた話は、内 戦時代の話だった。内戦時代の話は、思い出すだけでも辛いことであるし、自分が元兵士だった 人も多く、子どもや孫、近所の人などにも当時のことを話したがらない人が多い。また、未だに 誰かに話を聞かれるのが怖いと思っている人もいる。それに比べると、外国人には比較的話がし やすいのかもしれない。 ポル・ポト時代を体験したカンボジア人については、いろいろな見方がある。当時の経験がト ラウマになっているのではないか、人を信じることをできなくなってしまったのではないかな ど、いろいろなことが言われるが、私自身は、多くのカンボジア人の体験を聞くにつけ、必ずし もみんなが同じように理解し、感じている わけではないということを強く感じる。家 族を守らなければならなかった人、家族に ラオス 再会するためにも「オンカー」(カンボジ ア語で「組織」という意味。ポル・ポト政 タイ 権 幹 部 に よ っ て 構 成 さ れ て い た「革 命 組 織」を指す。当時、すべての国民は「オン カー」に中忠誠を誓わなければならなかっ た)の下で生き抜かなければならなかった 人。そ れ ぞ れ の 境 遇 で そ れ ぞ れ の 体 験 を ベトナム し、そして、クメール・ルージュの支配から 解放されて初めて知る新たな現実の中で、 そ れ ぞ れ の 人 は 生 き て い る。そ し て そ れ タイ湾 は、決して過去の歴史の話ではなく、現在 進行中の現実である。 サイゴン スバイリエン 内戦時代の話は、誰の話を聞いても生々 しく、生き残ったことが奇跡であるとしか 思えないような話ばかりである。しかし、 スバイリエン県の位置。この出っ張った形が、サ イゴンを守る米軍にとっては脅威だったのかもし れない。 これらの話は、それぞれの個人の置かれていた状況、特に地域的な特性が見られる。中でもク メール・ルージュが多かった地域では、内戦時代の話は聞きづらい。ある時、農村で調査をしてい て、「いつ頃からここで農業をしているのですか?」と村の女性に訊ねたところ、「私は、ク メール・ルージュだったから、農業をしたことがない」との答えが返ってきた。その回答に、同行 していたカンボジア人スタッフは隣で固まっていた。 一方、スバイリエンの農民は、それとは違った反応を示す人が多い。スバイリエンの人びとも ポル・ポト時代は強制移住、強制労働を体験しており家族を失った人も多い。しかし、「ポル・ ポト時代よりもロン・ノル時代の方が戦況も激しく、生活状況も厳しかった」と言う農民が多 い。実際に私が活動していた村でも、「ロン・ノル時代は戦車が村の中まで入ってきて、怖かっ た」と多くの農民が証言している。 スバイリエンがある地域は、ベトナム戦争 中、その形状から「オウムの嘴(the Parrot s Beak)」と呼ばれ、ロン・ノル政権樹立後、地 上と上空から米軍と南ベトナム軍の激しい攻撃 を受けた。さらに、これは日本ではあまり知ら れていないことであるが、1973年1月にパリ協 定が結ばれ、米軍がベトナムから撤退した後 も、米軍はカンボジアに激しい空爆を加え続け た。この地域への米軍の爆撃は極めて激しく、 第二次世界大戦で米軍が日本に投下した爆弾よ りもはるかに多い量の爆弾がカンボジアやラオ スに落とされたと言われている。 ポル・ポト時代に灌漑用水路だった場所。今で は田んぼとして利用されている。 さて、内戦の話が少し長くなってしまったが、こうした歴史をたどって、カンボジアの農業は 完全に破壊されてしまった。コメの生産量のグラフ(前号参照)を見ても明らかであるように、 1974年のカンボジアのコメの生産量は、1970年の6分の1にまで減少した。しかも、ロン・ノル政 権の崩壊でアメリカからの援助も停止し、国内はまさに飢餓状態にあった。ポル・ポトによる政 治を肯定する意図はないが、その意味では、ポル・ポト政権はマイナスからのスタートであった ことは間違いない。 農本主義者であったポル・ポトは、コメの増収に強い意欲を見せた。在来種の栽培を禁じた上 で高収量の品種を導入し、悪名高い強制労働によって国中に灌漑用水路を建設した(清野真巳子 著、『禁じられた稲』2001年、連合出版に詳しい)。ポル・ポト政権時代の3年8ヶ月の間に、な んと、地球を1/3周もできるほどの灌漑施設を、人力だけで掘ってしまったのだ。しかし、今、そ の灌漑用水路の多くは、30年間風雨に晒され土が底にたまり、田んぼとして利用されているとこ ろも多い。 結果的に、ポル・ポト政権による農業政策は大失敗に終わり、多くの餓死者を出してしまっ た。また、灌漑技師を含む多くの農学者、農業技師は、知識人として処刑の対象となりこの時代 に命を落としてしまった。さらに人びとがまさに血をにじませて建設した灌漑施設の多くは設計 上の問題でほとんど機能しな かった。こうしたポル・ポト時 代の「失敗」が戦後の農業復興 の遅れにもつながっている。 さらに深刻な問題は、強制移 住によって人びとが土地を追わ れ、コミュニティーが崩壊して しまったことである。カンボジ アのように手作業で稲作を行う 日本のODAによって建設された灌漑用水路。灌漑の 水を如何にして自分の田畑に引き込むのかが課題。 場合には、田植えや稲刈りなど 共同で作業を行うことが多い。 また、水の配分や管理なども基 本的にはコミュニティーの協力関係が基盤となる。たまたま親族が多く生き残った家庭では、そ れでも何とか自分の村に戻り農業を続けることができたが、身寄りがなくなってしまった人は、 内戦後も厳しい生活を強いられることになった。今でも農村での調査を行うと明らかになる傾向 として、貧困世帯には、親族がいないことが多い。 近年は温暖化の影響もあってか、局地的な豪雨や干ばつなどによって、カンボジアの稲作に大 きな影響が出ている。日本のように灌漑が整備されている田んぼでは、雨よりもむしろ日照時間 の方が気になるが、天水に頼っているカンボジアでは、雨はまさに農民の命である。どんな稲作 の名人でも、雨が降らなければコメ(水稲)を作ることはできない。そこで必要となるのが灌漑 である。 現在のカンボジアの灌漑面積は、全農地の2割程度と言われている。カンボジア政府は海外から の援助を中心に、灌漑施設の建設を進めているが、灌漑用水路に水か湛えられていても、残念な がらそれを利用できる農民は少ない。ほとんどの農民は灌漑用水路から自分の田んぼに水を引く ための揚水ポンプを持っていないのだ。また、仮に揚水ポンプを持っていたとしても、ガソリン の価格は日本とほぼ同じであるのに、コメの価格は日本の僅か10分の1という状況で、燃料を消費 してまでコメや野菜を作っても儲けがでない。 さらにこれまで毎年、雨季になると洪水で豊かな土壌が保たれていた地域では、灌漑用水路の 建設によって洪水にならなくなった結果、土壌が痩せて農作物の生産量が下がってしまったりす るケースもある。また、灌漑用水路や道路などは建設されてもきちんと管理されないことが多 く、農民も管理費を負担する余裕がない、あるいは、これまでただで利用していた水や道路に、 使用料を払いたくないという農民も多い。 悠久の時を経てもなお、水は高いところから低いところへ流れるという事実は変わらない。み んながその流れに沿って暮らしていけば、おそらく、「貧困」というものはこの世界に存在しな いのだろう。しかし、内戦の混乱後もカンボジアの農民は苦しい生活を続けている。それは、水 の流れとは逆に、農作物は価格の安いところから高いところに流れていくからだ。次号では、戦 後の農業について見ていきたい。 (次号につづく)
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