西村誠志

文化遺産
太極拳の確かな継承を!!
西村 誠志
先日兵庫県姫路市の友人から郵便が届いた。中身は、太極拳の楊振河老師(56 歳)が中国国家級
非物質的文化遺産伝承人、即ち人間国宝に指定されたので、これを記念して 11 月 3 日(文化の日)
に祝賀会を催すので出席願う、という案内である。私の場合、土・日曜日、祝日は今日(体育の日)
のように空いていることは極めて稀で、大概太極拳の行事等で塞がっている。11 月 3 日も大阪市
中央体育館(大阪市港区)へ行くことになっているし、行かざるを得ない。何故ならそこにはまた
百人ぐらいの太極拳愛好者が集まる筈だから(10 月 10 日に同趣旨の催しがあり 86 人集まった)、
さてどう折り合いをつけるか、回答期限も逼っているのに・・・と迷いつつも以下のことをつらつら
と考えてしまった。
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中国が、2006 年だっただろうか、国家級非物質的文化遺産として確か 500 余りの事項を指定
した。そして、その一環として人間国宝の指定をすることは充分わかるけれども、逆にいえば、
そういうことをしなければならないほど太極拳は本当に寂れつつあるのではないか、という危機
感が沸沸と湧いてくるのである。
4 か月前になるが、5 月 31 日に陳氏第十九世太極拳第十一代伝人の陳正雷先生に拙宅に立ち寄
ってもらった。そして、彼を南海本線堺駅で見送った際、ついつい「太極拳は、将来廃れるかも
知れない。実力のある先生たちは既にたくさん亡くなってしまった。中国を出た先生も多いが、
元々その先生方には多くを望めない。陳正雷先生、頑張ってくれ!!」と世界中を飛び回って太極
拳の普及・発展の為に尽くしている彼に随分偉そうに言ってしまった。彼とは長年の付き合いが
あり、また、私が約半歳だけ年長であるので言いやすいこともあるけれども、彼は、この時私の
話に大いに頷いてくれた。
私が何故上記のような危機感を抱いているかを先に端的な例を引いて書くこととし、その後で
私と中国との関わり等を振り返ることとする。
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三年前、第二回世界伝統武術フェステイバルが河南省鄭州市で開かれた。この訪中(16 回目)は
その参観であったが、少林寺も訪れることができて、嬉しかった。が、同時に武術学校のその余
りの多さには驚かされ、いま希望に輝いている子供たちの将来は大丈夫なのか、競争の中で大変
だろうな、と思ってしまった。帰国は、予定どおりではあったが、自身の日程の都合で団より一
日早く帰国した。その帰国の日(2006.10.19)の早朝、上海の襄陽公園、人民公園、復興公園を順
に巡った。そして愕然とした。昔ごく普通に見かけ、公園のあちらこちらで盛んに行われていた
『太極推手』
『散推手』に出会わなかったのである。音楽を撒き散らしながらの社交ダンスのよう
なものばかりが目に付いた。人好き好きだろうけれども、私は騒々しいだけの公園には魅力を感
じない。最後に訪れた復興公園ではいくつか太極拳のグループを見かけたけれども、どこも感心
するようなレベルではなかったし、中には派手な服装ばかりが目立つ人たちもいて(「表演服を見
せびらかしに来ているのか?」と思えて)滑稽ですらあった。30 年前のあの安静且つ重厚な公園の
賑わいはどこに消えたのか、これが『太極拳の本場・本家』の公園の今の姿なのか、と一抹の寂
しさを覚えつつ復興公園を後にした。
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31 年前に遡るが、2 回目の訪中は 1978 年 1 月 13 日~25 日で、日本太極拳協会の三浦英夫氏を
団長とする団の一員として、上海、南京、楊州、無錫の四つの都市を訪れた。上海では 1 月 16 日
の夜に静安区体育館に於いて、各伝統太極拳やその他各種武術をたくさん参観できた。この時体
育館の観覧席は観客で一杯であった。そしてその翌早朝には黄浦公園、外攤や淮海公園と先に記
した公園を次々と足早に小刻みに巡った。随分欲張って回った。そんな状況で、いろんなグルー
プに飛び込んでは一緒に動こうとしたので、我々のバスに添乗していた陳俊彦先生からは「一看
就打!! 走吧!!」と呆れられて、笑われてしまった。訪れたどの公園も太極拳がとても盛況だった 。
無錫市の太湖工人療養院でも易筋経をはじめとする気功や関節予防の体操等々をたくさん見学で
きた(多分やはり飛び込んで体験しただろう)し、「療養中の人がこんなに太極拳を上手にするの
か!!」と印象深かった。
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3 回目の訪中は、上海だけだった。正に「訪滬」で、それは 1980 年 8 月〔高田明現㊓日本武術
太極拳連盟副会長・大阪府武術太極拳連盟会長、川崎雅雄現㊓日本武術太極拳連盟理事・大阪府
武術太極拳連盟理事長らが一緒〕だったが、1 週間の衡山賓館停泊中に毎朝肇嘉浜路に行った。
この道というのか公園は、太極拳愛好者がその 1 週間の間に日に日に一体どこから湧いてくるの
か、と思えるぐらいに増えた。どうも口コミで、日本の太極拳愛好者が来ている、と伝わり広ま
った所為らしい。摔跤をしているというおじさんにぶん投げられそうになったが、
「何年やってい
るか」と尋ねたら、片手を拡げた。それは五年のことではなく、五十年のことだった。肇嘉浜路
のその時の盛況振りはとても印象深い。今の肇嘉浜路はどうだろう。ここも今直接見ると、また
がっかりしてしまうかも知れない。
4 回目の訪中も「訪滬」で、1983 年 9 月、第五回全運会(日本での国体に相当)の参観だった。
雨のため開幕式が確か二日遅れて 9 月 18 日、晴天だった。空から落下傘部隊が競技場に降り立っ
た。この訪中では旧知の中華全国体育総会国際部の于再清氏に会えたこと、その前年に封切られ
た映画『少林寺』に出演した李連傑(ジェット・リー)、故堅強らと歓談できたことなども懐かし
いが、太極拳に関しては、その後サンフランシスコに移住されてしまった姚培静さん(全く民間の
太極拳愛好者)に大変お世話になった。私は、滞在中毎日朝食前に襄陽公園に行って教えていただ
いた。当時の私からすればいわば華奢な(体重が 40Kg とおっしゃっていた)街のオバさん、という
感じだったが、推手がとてもお上手だった。姚さんのお宅は襄陽公園からは 4Km 離れたところだ
ったらしいが、私の為にわざわざ襄陽公園まで来てくれたそうだ。
「らしい」というのはご本人か
らはこのことについてははっきり聞いた記憶がないからである。その姚さんが連れて来た葉兆云
さんという方は 80 歳を超えるご高齢だったのに、その方と手が触れ合ったと思うやいなや、こち
らがまるで木の葉のようだった。葉兆云さんの前ではまともに立っていられなかった。後で、と
いうのか、帰国の日(1983.9.21)の朝になって知ったけれども、この方々は、その年の初めに郝少
如老師が亡くなられたことをきっかけに「武式太極拳研究会」という組織を結成されて、背筋が
すっきりしたその葉兆云先生はその会の副会長さんだった。・・・
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「端的な例を引く」と言いながらついついつらつらと思い出話を長く書いてしまった。話を戻
す。言いたいし、問いたいのは、上海の公園の 30 年前~四半世紀前と現代の風景の違いのことで
ある。その変わり様である。こんなに変わってよかったのか、と。要するに、中国では生活が豊
かになって、太極拳の愛好者数の変遷のことは知らないけれども、太極拳界全体の質は格段に、
大幅に低下した、と私は確信するのである。私の斯様な現状認識、即ち「危機感」が杞憂にすぎ
ないというのであれば、それはそれで幸いであるけれども、事実は一体どうだろう。繰り返すが、
私は、人間国宝の指定を否定するつもりは毛頭無い。ただ、太極拳の本質を如何に次代に継承す
るか、ということに真剣に取り組まないと、太極拳は、おそらくそれほど遠くない将来に「文化
遺産」とは呼べないものに変質するのでは、つまり、社交ダンス風ダンスと大して違わないもの
になってしまうのでは、と心配しているのである。私がこう主張するのは、牽強附会、我田引水
のそしりを受けそうだが、私は、ここに太極拳を以下のとおり定義するのでご諒解願いたい。--①老荘思想や孫子の兵法に裏打ちされた最高級の中国武術、そして②腕力ではなく重力を巧みに
利用する「以弱勝強」〔1989 年に百五歳で没した呉図南は、(ⅰ)以慢勝快(ⅱ)以静制動(ⅲ)以柔
克剛(ⅳ) 以弱勝強の四条に合致してこそ太極拳と言っている。200 年遡れば王宗岳が「耄耋能御
衆」と書き記している。
〕を実践できる武術であり、且つ③最高級の気功でありそれは正に④行雲
流水の風格を有する芸術だ。
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以上のとおり、言いたいことを言ってしまった。そして背景というのか、理由も書いてしまっ
た。とはいうものの、せっかくだからもう少しだけ私と中国との関わりについて振り返ってみる。
私は小学生の頃から卓球を愛好していたが、特に二十歳の頃 (1969 年)は熱中しており、「成人
式」には出席せずに、卓球の練習場がある大阪府立豊中勤労青少年ホームで開催された祝賀会・
「二十歳の集い」にジャンパーというラフな格好で出席し、式が終わればまた卓球に励む、とい
うそんな生活をしていた。私の卓球のスタイルはペンホルダーラケットでのいわゆる前陣速攻型
という中国スタイルであった。1971 年の春第 31 回世界卓球選手権大会が名古屋で開催されたが、
これに先立ち 1 月には中国からの選手代表団の来日が決定した。それに関連した「法務省が中国
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選手を個別に審査」云々の新聞記事に触れて、相当な義憤を覚えた私は「法務省は時代錯誤的な
ことをするな」と新聞に投書した。残念ながら掲載はしてくれなかったが、その頃から新聞紙上
に中国関係の記事が目立つようになって、それに触発されたのだろう。この年の秋から一念発起
して高校卒業後 4 年間勉学からは遠ざかっていたものの半年間の受験勉強で、翌春幸運にも大阪
外国語大学夜間部中国語学科に入学できた。そしてこの年(1972 年)九月に日中国交回復正常化を
迎えたのであった。
今からその後のことについて書く。太極拳との関わりに限定して書こうと思うが、正直なとこ
ろ、自身がいつ頃太極拳に惹かれたかは定かでない。中国語学科研究室の図書コーナーにあった
『簡化太極拳』
〔中華人民共和国体育運動委員会編纂・人民体育社出版〕を初めて見た時がいつだ
ったかも判然としない。ただ、この『簡化太極拳』に関しては、ざら紙に印刷されて茶色に変色
していたということははっきり覚えているし、そして、套路図に動作名称をくっつけただけの何
の説明もないモノ(ほんの十頁ばかりのペラペラの薄い資料)が出版社から公的に出ている、とい
うことにはもっと驚いた。太極拳への関心が自身やや高まっていた、と言えるのは 1973 年のこと
だ。この年の 10 月 23 日の夜に大阪中之島のロイヤルホテルに宿泊中の中華医学会医学考察訪日
友好代表団(一行 11 人)を大阪大学医学部附属病院第一外科の研修医である長谷川敏彦先生(現在
は日本医科大学教授)達と訪れている。太極拳について質問したが期待した回答を得られず、がっ
かりした、という記憶だけが残っている。思うに、当時太極拳について魔法であるかのような幻
想を持っていたのかも知れない。当日、随分失礼にも夜 10 時過ぎまでお邪魔してしまった。
太極拳に実際に初めて関わったのは 1975 年 6 月 28 日である。この翌月・七月の「大阪日中友
好の翼」に日本太極拳協会の会員が参加することもあって、また、大阪府日中友好協会雨宮礼三
理事長と日本太極拳協会の三浦英夫専務理事との前々からの交遊関係があってこの日大阪・梅田
新町での講習会が実現した。その日の参加者(60 人)の名簿を整理した、というのか、それは大藪
大阪府日中友好協会事務局長からの指示だったに違いないが、そのことが縁でとうとう太極拳か
ら離れられなくなった。私は、この日以降、34 年間にわたって太極拳とずっと関わり、現在に至
っている。
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太極拳の魅力に本当に取り憑かれたのは、やはり中国人の太極拳老師に接してからである。1977
年 11 月に横浜市の飛鳥田市長が上海の青年バスケットボール代表団を招聘した際に顧留馨先生、
周元龍先生が若い高校生と一緒にこの団に加わっていた。大阪には 11 月 5 日に来られた。先生た
ち一行が大阪滞在の一週間の間、我々(川崎雅雄氏らと一緒)は毎朝始発か二番目の電車に乗って
中之島の先生たちのホテルの部屋に押し掛けて、ホテルと川を隔てた中之島の公園で上海のこの
二人のコーチから教わった。この二人に弾き飛ばされ、捻られてその凄さに驚愕した。腕が触れ
合った瞬間に崩され、彼我のその技術レベルの差にはほとんど笑うことしかできなかった。とて
も楽しかった。太極拳の練習のゆったりとした動作と、その運用での全く次元の違う速さに感心
し、結果、ますます太極拳に魅入られることとなった。バスケットボールの試合会場である東淀
川の体育館でもバスケットの試合の応援には参加しないで、控室内で顧先生、周先生に挑んで、
「後ろから掛ってもやはり駄目か!!」、とわいわいがやがや騒いだために後で大阪市幹部から叱ら
れたことを覚えている。真に身勝手なことを言えば、この事件がその後の大阪・上海の太極拳交
流の礎になった、と思っている。勿論我々の当時のそんな無茶苦茶な行為を自負するつもりでは
なくて、ただただ金子二郎先生、雨宮理事長には我々の若さ・太極拳に対する情熱を本当によく
理解していただいて、その後の大阪・上海の太極拳交流の道筋をつくっていただいた、と感謝す
るのみである。この先生方は大阪の武術太極拳界にとって大恩人・開井人である。
さて、この前年(1976 年)の春、日本学生友好訪中団〔田島俊雄〈現東京大学社会科学研究所教
授〉団長一行 14 名〕の団員として初めて訪中できたが、実はこれも、よく考えてみれば、金子先
生と達磨のような風貌の緒方一男教授のお陰だった。
「行きたい!!」と手を挙げた同学がたくさん
いた中で選んでいただいたからで、緒方先生には「夜間からはお前を選ぶ。降りるな (辞退する
な)!!」と活を入れられた。就職後十年、初の長期休暇で、職場上司にも中国大使館かの招待であ
ることを理解してもらえて幸運だった。
初訪中、3 月 16 日から 17 日にほとんど日が変わろうか、という深夜に北京空港に到着したが、
タラップにはあの名通訳の林麗韞女史・中日友好協会理事がにこやかに出迎えてくれた。元々羽
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田から上海に入って、トランジットしたもので、上海から北京に向かう時間が既に夕刻だった。
初めて見たその上海の空港は「ガラーンとした何もない巨大な白壁」
、そのように瞼に焼き付いて
いる。その後三週間に渡って北京・大塞・太原・延安・西安・南京・上海と各地を周って帰国し
た。帰国の前日、4 月 5 日夜には張香山中日友好協会副会長の招宴があり、京都大学の歴史学の
井上清教授もご列席くださった。閑話休題。太極拳との関わりに限定して書く、と言いながら話
が逸れてしまっている。
定例の週二回の練習は、初訪中の少し前、1976 年の 1 月か 2 月に始まった。当時、先生と生徒
はまだ全く未分化で、正に「相互学習」でお互い同士が「先生」だった。練習が定例化する前は、
練習会場をどこか借りるにも「タイ・キョク・ケン??
何??」という具合で目当ての会場に電話
しても貸してもらえなかった。このことは最近太極拳を始めた方には想像できないだろうが、当
時は、太極拳は全くと言っていいほど世間に認知されていなかった。大阪市内の北区、阿倍野区
の二箇所の練習会場はどちらも総勢 30 人ほどで、しかも若い人ばかりだったし、なお且つ背の高
いオランダ人や京都在住のルーマニア人のご夫人、そして今でも年賀状交換ぐらいだけれども交
友のあるペルー人バスケスさんなどなど外国人も何人もいた。この年の夏に初めて二泊三日の合
宿訓練をした。この人たちも加わって総勢 36 人で、50 歳を超えている人は多分一人か二人とい
う状況だった。今振り返っても実に奇妙なメンバー構成であった、と思われる。ついでに、太極
拳が如何に認知されていなかったのかの実例をもう一つ披露する。以下に誇張は無い。単なる笑
い話・実話である。
1976~80 年頃、大阪太極拳同好会では水曜日夜に大阪市阿倍野区南田辺の阿倍野青少年センタ
ーで、土曜日夜には当時大阪府日中友好協会の事務所のあった北区西天満で練習をしていたが、
どちらも部屋が狭かった為、練習を始めて半年も経てばベテラン扱いをして、暑かろうが寒かろ
うが「ベテランは外の公園で練習」、というきまりになっていた。南会場は特に月一回、我々の練
習会場である体育室がいわゆる「田辺寄席」という落語の会場になっていたため、我々は仕方な
く隣の桃ヶ池の畔で練習に明け暮れた。そこには南田辺小学校が隣接していて、学校側から『桃
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ヶ池に近づくな!!』の通達が子供たちに出された、とのことだった。小学校の先生や PTA の方々
が、保護者精神を発揮したことと十分想像できる。当然といえば当然だ。夕暮れに湖畔の柳の木
の下で正体不明の集団が何やら怪しげに動いている。子供たちを近づけてはいけない、これは普
通の親心、と理解できる。さて、どうしてこういう事実が後になってわかったか、というと、本
当にずっと後のことだが、ある宴席、それはやはり太極拳の行事の打ち上げの場で、今は十分太
極拳に魅入られてしまっている女性に「私たちの遊び場を奪ったのは先生(西村)達だったのです
か!!」と、言われたからである。即ちその彼女こそが南田辺小学校卒業生だったのである。
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話を現代に戻すが、先にも書いたとおり中国での太極拳愛好者の人数がどの程度いるかは、知
らないけれども、いま日本では、その質・レベルはともかくとしてここ二三十年の間に本当に急
速に太極拳愛好者が増えた。大阪府武術太極拳連盟では加盟団体だけでも今や 74、75 の団体数と
なっている。三十数年前のことを思うと、今の人気沸騰は隔世の感がする。ただ、いまは中高年
になってから始める人が多いし、そして、圧倒的に女性の愛好者が多いし、健康志向で始める方
が多い。自身大臀筋深部の肉離れほか数々の外傷の経験があるが、練習方法も時代とともに変わ
ってきて良かったと思う。最近では、太極拳が武術である、という認識すらないままやっている
人もいる。今はそういう時代である。そういう中で、我々は、いわゆる三つの三点セット【①ゆ
っくり、均一に、ゆるめながら、②鬆腰・鬆胯、虚領頂勁、踏実、③ゆるめて、つなげて、拡げ
る】
〔これは㊓日本武術太極拳連盟の石原泰彦理事が中心となって集約した練習指針の一。手前味
噌ながら太極拳の「完整性」の理解に役立つ〕をモットーのように唱えながら、かつ、膝の故障
をはじめとした怪我人が出ることのないようにと注意しつつ太極拳の普及に努めている。
私自身太極拳に長年取り組んで年齢も華甲となり、じきに正味の 61 歳になる。この年齢の所為
かも知れないが、私はいま、「静」と「動」のバランスを図る意味で、通常の練習とは別に、「虚
静」「無極」という姿勢を大切にしつつ、3m ・ 2kg の白蜡桿を振って体力維持に努めている。そ
して、人と対した時には、「捨己従人」「同歩(synchronization)」への理解を深め、「聴勁」レベ
ルを少しでも高めようと思っている。また、孫子に云う「自能而不能」に陥らないよう注意・自
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戒もしている。であるから、中国は、依然として『太極拳の本場・本家』であらねばならない。
本場・本家の太極拳が廃れるようなことは絶対あってはならない。是が非でも太極拳の復興・発
展を、と強く願っている次第である。
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