第 3章「レアル計画」による経済安定化

第 3章 「レアル計画」による経済安定化
1.
はじめに
1990 年 代 の ラ テ ン ア メ リ カ 諸 国 は 、 か つ て の 政 府 主 導 型 の 保 護 主 義 的 開 発 戦
略から「ネオリベラリズム」に基づく開発戦略へと転換し、経済安定化と市場
自 由 化 を 進 め て き た 。 こ の た め 、9 0 年 代 に 入 る と 多 く の 国 々 で イ ン フ レ 抑 制 と
成長率の回復を実現してきている。しかしながら、ブラジルにおいては、この
よ う な ラ テ ン ア メ リ カ の 潮 流 か ら 取 り 残 さ れ た か の よ う に 90 年 代 に 入 っ て も
高 イ ン フ レ が 引 き 続 き マ ク ロ 的 不 安 定 に 直 面 し て い た 。 だ が 、9 4 年 に 入 り 漸 く
にしてインフレを沈静化させたのがいわゆる「レアル計画」である。
ブ ラ ジ ル で は 、1 9 8 0 年 代 の 激 し い イ ン フ レ 高 進 に 対 し 、8 6 年 の 「 ク ル ザ ー ド
計画」以来、次々とインフレ抑制政策を実施してきたが、いずれも結局は失敗
に終わっていた。この間、インフレーションは抑制されるどころか、安定化政
策の失敗が政府への信頼を一層喪失させ、インフレ率は急激に加速し、ハイパ
ー ・ イ ン フ レ と も 呼 べ る 状 況 と な っ て い た 。 こ の た め 、 イ ン フ レ 率 は 92 年 に
1,158% 、93 年 に 2,709% と な り 、 と く に 93 年 7 月 か ら 94 年 6 月 末 ま で の 1 年
間 に は 5,154% に も 達 し て い た 。
こ の た め 、 ブ ラ ジ ル で は 1993 年 6 月 よ り 、 カ ル ド ー ゾ 蔵 相 の も と 極 め て オ ー
ソ ド ッ ク ス な 安 定 化 政 策 で あ る「 緊 急 行 動 計 画 」( カ ル ド ー ソ 計 画 Ⅰ )を 発 表 し 、
財政赤字の削減に取り組んだが、議会での抵抗により承認されなかった項目も
多 く 、 イ ン フ レ を 抑 制 す る に は 至 ら な か っ た 。 イ ン フ レ 率 は さ ら に 上 昇 し 、93
年 12 月 に は 月 率 で 3 9 % に 達 し た 。 こ の た め 、 ド ラ ス テ ィ ッ ク な イ ン フ レ 抑 制
策 が 必 要 と な り 、 9 3 年 1 2 月 に 「 新 経 済 安 定 化 計 画 」( カ ル ド ー ゾ 計 画 Ⅱ ) と 呼
1
ば れ る 包 括 的 な 政 策 が 実 施 さ れ る こ と と な っ た 。と く に 、9 4 年 7 月 1 日 か ら は 、
よ り 直 接 的 に イ ン フ レ 抑 制 を 果 た す 政 策 と し て「 レ ア ル 計 画 」( レ ア ル は 新 通 貨
の呼称)が実施され、以後ブラジルのインフレ率は著しく低下することになっ
た 。9 5 年 1 0 月 の 時 点 で 、 過 去 1 2 ヶ 月 の 累 積 イ ン フ レ 率 で 実 に 2 0 % 程 度 に ま で
低下した。
「レアル計画」ではこれまでの安定化政策の経験を生かし、様々な工夫がな
されている。ディスインフレのプロセスを明確に 3 つの段階に分け民間に安定
化政策を理解しやすい形で実施していること、これまでの諸計画と異なり価
格・賃金凍結ではなくいわゆる為替レートを価格アンカーとすることなど、で
ある。このため、これまでの数々の安定化政策に比べると、多くの点で優れて
い た と い え る 。 し か し 、「 レ ア ル 計 画 」 が 長 期 的 に イ ン フ レ 抑 制 を 維 持 で き た か
ど う か に つ い て は 、 多 く 課 題 を 抱 え て い た こ と も 事 実 で あ る 。 以 下 で は 、「 レ ア
ル計画」に基づく安定化政策の概要を説明し、次いでとくに為替レート・アン
カ ー 政 策 の 理 論 的 解 釈 を 行 い 、 そ の 持 続 可 能 性 に つ い て 議 論 す る 。 最 後 に 、「 レ
アル計画」以後のマクロ政策の特徴について議論する。
2.
「カルドーゾ計画Ⅱ」による経済安定化
1993 年 12 月 か ら 実 施 さ れ た 安 定 化 政 策 は 、 当 時 の 大 蔵 大 臣 で あ っ た カ ル ド
ーゾ蔵相(現在の大統領)にちなみ「カルドーゾ計画Ⅱ」と呼ばれているが、
以下の 3 つのステップで構成されている。
2-1
「カルドーゾ計画Ⅱ」の 3 つのスッテプ
(1)
第1ステップ:財政の均衡化
こ の ス テ ッ プ に 含 ま れ る の は 、① 1 9 9 4 年 度 予 算 に お け る 2 2 0 億 ド ル の 支 出 削
減 )、 ② 緊 急 社 会 基 金 ( F S E) の 創 設 ( 連 邦 税 収 の 1 5 % を 引 き 当 て る )、 ③ 所 得
2
税 の 引 き 上 げ ( 現 行 2 5 % 、1 5 % の 2 段 階 に 3 5 % の 段 階 が 新 設 ) な ど で あ る 。 過
去に実施された安定化政策の経験から、財政の均衡化がインフレ抑制の前提条
件であることを民間は周知しており、まず第1段階で財政の均衡化を実現し、
人々の安定化政策への信頼を高めることを目的としている。
このなかでも、とくに緊急社会基金の創設は、ブラジルの最優先課題である
貧困問題、教育、保健への支出を確保することによって、政治的・社会的安定
を図ることと、インフレ抑制のための財政緊縮化とをうまく合致させる政策で
あ る 。 政 府 税 収 の 15% を プ ー ル し て 、 こ れ ら の 緊 急 課 題 へ の 支 出 を 確 保 す る こ
の基金は、議会でのポピュリスト派勢力との綱引きの産物ともいえる。だが、
大蔵大臣の許可がなければ支出できないことから、財政支出のコントロール手
段としても機能する。
(2)
第2ステップ:新しい価格指数の採用
当時の通貨であるクルゼイロ・レアルでの価格表示と平行して、新しい価値
単 位 で あ る U R V( 実 質 価 値 単 位 ) に よ る 価 格 表 示 を 流 布 さ せ る も の で あ り 、9 4
年 3 月 に 実 施 さ れ た 。 U R V は 米 ド ル ・ レ ー ト に リ ン ク し 、 常 に 1 U R V= 1 ド ル
が 維 持 さ れ る 。 し た が っ て 、U R V と ク ル ゼ イ ロ ・ レ ア ル の 関 係 は 日 々 改 定 さ れ
る。
URV 表 示 の ポ イ ン ト は 、 為 替 レ ー ト と 諸 物 価 は ほ ぼ 等 し い 率 で 変 動 し て い る
の で 、 た と え イ ン フ レ ー シ ョ ン が 存 在 し て も URV 表 示 に す れ ば ほ ぼ ゼ ロ ・ イ ン
フレとなることである。すなわち、クルゼイロ・レアル表示では毎日のように
価 格 は 上 昇 す る が 、 URV 表 示 で は ほ と ん ど 変 化 し な い 。 全 て の 価 格 タ グ に は 2
つ の 価 格 が 表 示 さ れ る こ と に な る 。U R V の 導 入 は 、 現 実 に は ド ル 表 示 へ の 転 換
に過ぎず、一見トリッキィーではあるが、新しい価格表示への移行をスムース
にすることをねらったものである。この意味で第 2 ステップは新通貨レアルへ
移行するまでのトレーニング期間であるといえる。また、新通貨に移行するま
3
でに 4 ヶ月を置いていることから、相対価格の歪を是正するための期間であっ
たといえる。
(3)
第 3 ステップ:新通貨レアルの導入
「 レ ア ル 計 画 」 と 通 称 さ れ 、 新 指 数 URV が 経 済 全 般 に 普 及 し た 時 点 で 新 通 貨
レ ア ル を 導 入 し 、 レ ア ル に よ る 価 格 表 示 に 転 換 す る も の で 、9 4 年 7 月 に 実 施 さ
れ た 。 1 レ ア ル = 1 U R V= 1 ド ル と し 、 旧 通 貨 と の 交 換 比 率 は 1 レ ア ル = 2 , 7 5 0
クルゼイロ・レアルであった。ゼロを 3 つ取るといった形の、過去に実施され
てきたデノミとは異なる点に注意が必要である。
為替レートは 1 レアル=1 ドルで基本的に維持されるが、これは為替レート
を 固 定 化 す る こ と に よ っ て 、 イ ン フ レ 率 の アン カ ー と す る こ と を ね ら っ た も の
である。この為替レートを維持するために、レアル発行の保証として外貨準備
一部を当てることや、アルゼンチンのような外貨の自由交換性は認めないこと
などの措置がとられている。このような、いわばドル・ペッグ政策によるイン
フレ抑制は、基本的にアルゼンチンのインフレ抑制を成功に導いた「カバージ
ョ計画」を踏襲したものである。
ただし、為替レートは厳密な意味で固定化されたわけではない。第 1 に、中
央銀行は、ドル売りに関しては 1 レアル=1 ドルを適用するが、買いレートに
ついては市場での変動を認めると いう、いわば片務的な固定相場を採用してい
る。これは、買いレートにも厳密に固定相場を適用すれば大量のドル買いによ
って国内通貨供給が急激に増大することを避けるためであった。第 2 に、買い
レ ー ト の 変 動 を 認 め る が 、 一 定 の 幅 ( band) に お い て で あ り 、 ま た 、 変 動 幅 の
中心レートは変更可能である。
2-2
「カルドーゾ計画Ⅱ」の特徴
「カルドーゾ計画Ⅱ」はいくつかの特徴を有していた。
4
第 1 に、計画では財政赤字縮小を経てインフレ抑制のための直接的政策とい
う 安 定 化 の ス ケ デ ュ ー ル が 明 確 に さ れ て い る が 、こ れ ま で の「 ク ル ザ ー ド 計 画 」
などの失敗が繰り返されてきたのは、価格凍結のみに頼り財政均衡をおろそか
にしてきたからであり、したがって「カルドーゾ計画Ⅱ」のような安定化の順
序は人々に安定化政策の妥当性を納得させ、政策の信頼性をもたせるのに有効
であった。
第 2 に、これまでの諸計画では、インフレ期待の鎮静化対して価格・賃金の
凍結が用いられたが、これは恣意的な時点で突然に実施されるため、相対価格
の不均衡をも固定化するといった問題点があった。しかし、今回の計画では 3
月 前 よ り ほ ぼ ゼ ロ ・ イ ン フ レ 率 と な る URV と 現 地 通 貨 で あ る ク ル ゼ イ ロ ・ レ ア
ルによる表示とを平行的に実施したため、相対価格の調整を可能としながら、
新通貨表示での価格の安定化を図った点がユニークであつた。
第 3 に、安定化政策の最も重要な部分は、為替レートの固定化を価格のノミ
ナル・アンカーとする点である。いうまでもなく、為替レート・アンカーは、
インフレーションを急速に低下させると同時に、ディスインフレの社会的コス
トを最小限に止めるために不可欠なものであった。ただし、為替レートの固定
化を維持するためには十分な外貨の保有が条件となるが、ブラジルの外貨準備
が 92 年 末 の 190 億 ド ル か ら 95 年 5 月 に は 410 億 ド ル に 達 し か な り 潤 沢 あ っ た
こ と 、 債 務 交 渉 の 進 展 に よ っ て 94 年 4 月 15 日 に 350 億 ド ル の 対 外 民 間 債 務 の
削減が最終的に実施されたことなどの、客観的条件が整っていたことを挙げな
ければならない。
第 4 に、為替レートの固定化に基づく安定化には、貿易財部門の価格が世界
価格と直接的にリンクし、一般物価水準を安定化させることが期待されるが、
こ れ に は 貿 易 財 部 門 が 十 分 に 開 放 さ れ て い る こ と が 必 要 で あ る 。1 9 9 4 年 時 点 の
ブラジルにおいては、必ずしも十分とはいえないが、コロル政権以来、輸入自
由化がかなり進展していた。
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第 5 に、インフレ率が十分に低下すると消費需要の急激な拡大が予想される
が、設備稼働率が依然として低く、生産能力に余力があった点に着目すべきで
あ る 。ブ ラ ジ ル の G D P 実 質 成 長 率 は 、1 9 9 0 年 の マ イ ナ ス 4 . 4 % 、9 1 年 の 0 . 2 % 、
9 2 年 の マ イ ナ ス 0 . 8% と 長 期 的 不 況 に あ っ た 。9 3 年 は 4 . 1% 、9 4 年 は 5 . 7% と か
な り の 回 復 を 見 せ て い る が 、 依 然 と し て 稼 働 率 は 低 く 、9 4 年 当 時 で 7 5 % に 過 ぎ
な い と 推 定 さ れ て い る 。し た が っ て 、ク ル ザ ー ド 計 画 の と き に み ら れ た よ う な 、
供給不足によるインフレ圧力は見込まれないと考えられたのである。
以 上 、「 カ ル ド ー ゾ 計 画 Ⅱ 」の 概 要 と 様 々 な 特 徴 を 議 論 し て き た が 、 為 替 レ ー
ト・アンカーはいかなるメカニズムでインフレ抑制を実現するのであろうか。
3.
為替レート・アンカーの理論分析
為替レート・アンカーについての簡単な理論的解釈は以下の通りである。為
替レートを固定化すれば、十分に対外的に開放された小国であれば貿易財価格
は世界価格に一致する。世界インフレ率は国内インフレ率より十分に低いはず
で あ る か ら 、少 な く と も 貿 易 財 の イ ン フ レ 率 は 世 界 イ ン フ レ 率 に ま で 低 下 す る 。
一方、非貿易財に関しては、貿易財と非貿易財の相対価格の変化によって、非
貿易財の超過供給が生じるため、非貿易財の価格が低下し始め、いずれ世界イ
ンフレ率と等しくなる。ただし、国内で世界インフレ率と整合的な総需要政策
がとられていることが前提となる。
しかし、安定化における為替レート・アンカーの役割はこれだけではない。
とくにブラジルのように貿易財部門の比率が低い経済にあっては、貿易財部門
のインフレ抑制から出発するインフレ抑制政策は必ずしも有効でないかもしれ
ないし、インフレ抑制までに時間がかかるであろう。むしろ、ブラジルのよう
に長期間にわたり高いインフレーションを経験してきた国においては、インフ
レ・マインドが支配的となっており、インフレーションにともなう実質所得の
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損失を防ぐための様々な行動が支配的となっていることから、アンカーがこれ
らに直接的に影響する役割が重要である。様々な行動とは、予想インフレ率を
用いたアグレッシブな価格設定や、インフレ予想にブッラクマーケットの為替
切 り 下 げ 率 を 指 標 と す る こ と 、 f o r w a r d- l o o k i n g な イ ン デ ク セ ー シ ョ ン を 導 入 す
ることなどである。ラテンアメリカ諸国においては、これらの行動自体が、い
っそうインフレ率を高めるか、インフレーションを継続させてきた。したがっ
て、為替レート・アンカーは、民間が十分なクレディビリティを持つ限り、か
かるインフレ期待や価格設定行動に直接的に働きかけ、インフレーションを瞬
時に終息させると期待されるのである。このように急激にインフレーションが
沈静化するケースは、ボリビアのハイパー・インフレの終息やポアンカレ・タ
イ プ の 安 定 化 政 策 ( Sargent[1982]) に 対 応 す る 。
しかし、為替レートをアンカーとする政策の長期的な持続可能性は、為替レ
ー ト の 固 定 化 だ け で は 満 た さ れ な い 。世 界 イ ン フ レ 率 と 整 合 的 な 貨 幣 供 給 政 策 、
財政政策が実施されていなければ、為替レート・アンカーのクレディビリティ
はいずれ喪失する。非整合的なマクロ政策はインフレ期待や為替レート予想に
反映され、固定化された為替レートと現実のインフレ率が乖離していく。した
がって、実質為替レートの過大評価が生じ貿易収支の赤字が深刻となれば、い
ずれ為替レートの固定化は維持できなくなり、アンカー政策を放棄せざるを得
なくなる。この意味で、アンカー政策の持続可能性を考慮するには、為替レー
ト予想やインフレ期待のダイナミックスの分析が重要となる。
3-1
短期的効果
以下では、できるだけ単純なモデルで為替レート・アンカーのメカニズムを
議論してみよう。本章のモデルは、貿易財と非貿易財モデルを用いて為替レー
ト ・ ア ン カ ー の 分 析 を 行 っ た Edwards(1993)を 出 発 点 と す る が 、 Edwards の モ
デルでは合理的期待が仮定されているため、為替レート・アンカーが直接的に
7
インフレ期待に影響することが分析可能であるものの、インフレ期待と為替レ
ート予想の動学的調整過程を明示的に取り扱えない。このため、為替レート・
アンカーの短期的な役割と長期的な役割の区別がなされないモデルとなってい
る。また、アンカー政策の成否を握るクレディビリティの役割についても明確
には議論されていない。以下では、これらの点を拡張して議論する。
貿易財価格は、小国仮定より国際価格にリンクしているが、非貿易財価格は
需給均衡で決定されるとする。単純化のために、実質為替レート・交易条件・
資 本 流 入 ・関 税 保 護 な ど の 実 質 面 の 変 化 は 陽 表 的 に は 考 慮 さ れ な い 。モ デ ル は 、
政府が為替レートを固定化した直後を想定しており、為替レート・アンカーが
民間の価格設定に直接的に影響することに着目する。すなわち、輸入業者は自
ら の 為 替 レ ー ト の 予 想 切 り 下げ 率 と 輸 入 財 の 世 界 価 格 に 基 づ い て 事 前 に 輸 入 財
の 価 格 設 定 を 行 う が 1、 こ う し た 価 格 設 定 行 動 に 為 替 レ ー ト ・ ア ン カ ー 政 策 が 直
接的に何らかの影響を与えると想定するものである。
例えば、民間がアンカー政策を全く信用していない場合は、価格設定に予想
切 り 下 げ 率 を 100% 適 用 し 、 貿 易 財 価 格 の 上 昇 率 は 予 想 切 り 下 げ 率 に 等 し く な
る 。逆 に 、完 全 に 信 用 し て い る 場 合 は 、予 想 切 り 下 げ 率 は ま っ た く 考 慮 さ れ ず 、
貿易財価格上昇率は国際価格の上昇率に等しくなる。したがって、アンカー政
策の短期的なクレディビリティとは、輸入財の価格設定行動において、どの程
度予想切り下げ率にウエイトが置かれるかによって表現される。ただし、民間
の為替レートの切り下げ予想は、後述されるように、例えば現実のインフレ率
と為替レート切り下げ予想に乖離が存在する限り、その調整が続くと考えてお
り、為替レート・アンカー政策のクレディビリティを為替レート予想への効果
として表現するものではない。
ところで、長期的にアンカー政策が有効であるどうかは、為替レートの予想
1
事 前 に 設 定 す る と い う 考 え 方 に つ い て は 、 Edwards[1993]の 注 32参 照 。
8
切り下げ率が現実のインフレ率に一致する長期均衡値に到達するかどうかで判
断 さ れ 、こ の 意 味 で 予 想 為 替 レ ー ト の 動 学 的 調 整 過 程 が 問 題 と な る 。以 下 で は 、
為替レート予想に関して 2 つのケースを議論するが、安定的な長期均衡値が存
在しなければ、アンカー政策は持続可能ではない。なお、賃金は期待インフレ
率に基づくインデクセーションによって決定されると仮定する。いうまでもな
く期待インフレの調整が適応的になされるのなら、賃金インデクセーションは
過去のインフレ率の影響(イナーシャ)を持ち込む。
モデルは以下の通りである。
(1)
π = απT + (1 − α)π N
(2)
π T = φ x E + (1 − φ )π *
(3)
N D ( P N / P T , Z ) = N S (W / P N )
(4)
w = π E + γ (π − π E )
こ こ で 、 π : 国 内 イ ン フ レ 率 、 π T : 貿 易 財 イ ン フ レ 率 ( 国 内 価 格 表 示 )、 π N :
非 貿 易 財 イ ン フ レ 率 、x E : 為 替 レ ー ト 予 想 切 り 下 げ 率 、 π *: 世 界 イ ン フ レ 率 、
N D : 非 貿 易 財 需 要 、N S : 非 貿 易 財 供 給 、P N /P T : 貿 易 財 ・ 非 貿 易 財 相 対 価 格 、Z :
総 需 要 政 策 の イ ン デ ッ ク ス 、 W: 名 目 賃 金 、w : 名 目 賃 金 上 昇 率 、 π E : 期 待 イ
ンフレ率である。
(1)式 よ り 、 国 内 イ ン フ レ 率 は 貿 易 財 イ ン フ レ 率 と 非 貿 易 財 イ ン フ レ 率 の 加 重
平 均 で 定 義 さ れ る 。( 2 ) 式 は 、貿 易 財 価 格 が 現 実 の 為 替 レ ー ト の 上 昇 率 で は な く 、
為替レートと世界インフレ率の予想を用いて事前に設定されることを示してい
る。ウエイトφは、為替レートのアンカー政策をどれほど民間が信用している
か を 示 す ( φ が 大 き い ほ ど ア ン カ ー 政 策 を 信 用 し て い な い )。 ( 3 ) 式 は 、 非 貿 易
財 の 市 場 均 衡 条 件 で あ る 。 非 貿 易 財 の 需 要 は 、 相 対 価 格 ( P N/ P T) と 総 需 要 ( Z )
に 依 存 し 、 総 供 給 は 非 貿 易 財 価 格 で は か っ た 実 質 賃 金 に 依 存 す る 。( 3 ) 式 を 変 化
率で表すと、
(5)
− ηπ N + ηπ T + δ z = −εw + επ N
9
ここで、η:非貿易財需要の価格弾力性、δ:非貿易財需要の総需要弾力性、
ε:非貿易財供給の実質賃金弾力性であり、それぞれ正値で定義されている。
z は 総 需 要 の 成 長 率 で あ る 。( 4 ) 式 は 、 賃 金 イ ン デ ク セ ー シ ョ ン の ル ー ル を 示 し
ており、現実のインフレ率に依存する部分と期待インフレ率に依存する部分か
ら な る ( F i s c h e r [ 1 9 8 3 ] )。 解 釈 と し て は 、 期 待 イ ン フ レ 率 に よ っ て 決 定 さ れ る 部
分に、インフレ率の予測誤差(現実のインフレ率と期待インフレ率の差)が追
加されるルールである。いま、期待インフ レ率が適応的期待形成に従うなら、
過去のインフレ率の影響を受けることとなり、いわゆるイナーシャの部分を持
つ 。 イ ン デ ク セ ー シ ョ ン が 完 全 で あ れ ば ( γ =1) 賃 金 調 整 に 遅 れ は な く 、 賃 金
の 上 昇 率 は 現 実 の イ ン フ レ 率 に 一 致 し 、 常 に 一 定 の 実 質 賃 金 が 維 持 さ れ る 2。
(1)(2)(4)(5) 式 よ り 、 為 替 レ ー ト の 予 想 切 り 下 げ 率 、 世 界 イ ン フ レ 率 、 総 需 要
成 長 率 、期 待 イ ン フ レ 率 が 所 与 の 短 期 均 衡 に お け る 現 実 の イ ン フ レ 率 が 求 ま る 。
π = a1 x E + a2π * +a 3 z + a4 π E
(6)
ここで、
a1 = (αε + η)φ /{αε + η+ (1 − α)(1 − γ )ε}
a 2 = (αε + η)(1 − φ) /{αε + η + (1 − α)(1 − γ )ε}
a 3 = (1 − α)δ /{αε + η + (1 − α)(1 − γ )ε}
a 4 = (1 − α)(1 − γ )ε /{αε + η + (1 − α)(1 − γ )ε}
で あ る 。( 6 ) 式 に よ っ て 、 為 替 レ ー ト を ア ン カ ー と す る 政 策 の 意 味 を 考 え て み よ
う。いま、アンカーの役割を明確とするために、厳密な総需要の管理が実施さ
れ ( z=0 )、 賃 金 イ ン デ ク セ ー シ ョ ン が イ ナ ー シ ャ を も た ら さ な い ( γ = 1 ) ケ ー
2
Edwards[1993]で は 、 1 期 前 の イ ン フ レ 率 に 依 拠 す る 賃 金 イ ン デ ク セ ー シ ョ ン を
考慮することによってイナーシャを導入している。ここでは適応的期待形成によ
っ て イ ナ ー シ ャ を 導 入 す る 。 賃 金 イ ン デ ク セ ー シ ョ ン に つ い て は 、 西 島 [1993]を 参
照 。 ま た 、 Edwards が 述 べ て い る よ う に 、 こ こ で は 賃 金 イ ン デ ク セ ー シ ョ ン に 限 ら
す、社会に存在するその他諸々のインデクセーションを代表していると考える方
が適切であろう。
10
スを想定しよう。為替レートのアンカー政策の短期的効果とは、政府が為替レ
ートを固定化することによって、民間の貿易財の価格設定に影響することを目
指すものである。民間が、アンカー政策を完全に信用する場合は、貿易財の価
格 設 定 に お い て 為 替 レ ー ト の 予 想 切 り 下 げ 率 の ウ エ イ ト が ゼ ロ と な る ( φ =0)
ことで表現される。逆に言えば、政府の固定レートを採用し、世界インフレ率
の み で 価 格 設 定 を 行 う こ と を 意 味 す る 。 こ の と き 、 a 1 = 0 、 a 2 = 1 、 a 4 =0 と な り 、
z=0 を 考 慮 す れ ば 、
(7)
π = π*
が瞬時に成立し、国内インフレ率は世界インフレ率に収束する。これが、アン
カー政策が急激にインフレーションを抑制することの一つの表現である。
しかし、以上のモデルは同時にアンカー政策が成功するためのいくつかの条
件を示している。第1に、いかに民間が為替レートの固定化によるアンカー政
策にクレディビリティを持つかが決定的に重要である。まったくクレディビリ
テ ィ を 持 た な け れ ば ( φ = 1 )、 国 内 イ ン フ レ 率 は 世 界 イ ン フ レ 率 で は な く 、 民
間の為替レートの予想切り下げ率にもっぱら依存する。第2に、総需要を十分
にコントロールしなければ、国内インフレ率を世界インフレ率に一致させるこ
とはできない。また、アンカー政策へのクレディビリティを高めるためにも、
アンカー政策の実施と同時に総需要のコントロールが不可欠であることに注意
しておかなければならない。アンカーの導入と同時に、インフレ率が低まれば
低まるほど、政策のクレディビリティが高まると考えられるからである。第3
に、賃金などのインデクセーションが、過去のインフレ率の影響を受けるイナ
ーシャを有している場合、為替レートのアンカーだけではインフレ抑制は不十
分 で あ る 。 モ デ ル で は 、 イ ン デ ク セ ー シ ョ ン が 完 全 で あ れ ば a4 = 0 と な り イ ナ
ーシャの影響は無くなるが、現実のインプリケーションとしては、完全なイン
デクセーションは不可能であるの で、アンカー政策と同時にイナーシャを持ち
込むインデクセーションの廃止が必要となる。総需要の管理と同様に、インデ
11
クセーションの廃止を政府がどれだけコミットするかも、アンカーへのクレデ
ィビリティを高めるために重要である。
3-2
長期的効果
とろこで、為替レート・アンカーの長期的な有効性は、民間の為替レート予
想が長期均衡値に収束するかどうかに依存している。長期均衡が存在するとす
れ ば 、 π = πE = xE よ り 、
(8)
π = π * +{(1 − α)δ /(αε + η)(1 − φ)} z
を 得 る 。 や は り 、 z=0 な ら ば 、 国 内 イ ン フ レ 率 は 海 外 イ ン フ レ 率 と 一 致 す る 。
ま た 、( 4 ) 式 の よ う な 定 式 化 に お い て は 、 長 期 的 に は 賃 金 イ ン デ ク セ ー シ ョ ン の
程度はインフレ率に無関係となる。
ここで、長期均衡への動学的調整プロセスを検討してみよう。当然のことな
がら、どのような為替レート予想形成を仮定するかによって結論は異なる。以
下では2つのタイプを仮定する。インフレ期待に関しては、適応的期待形成を
仮定する。第1の為替レート予想形成は、インフレ期待と同様に適応的期待の
ケ ー ス で あ る 。 た だ し 、 現 実 の 為 替 レ ー ト は 固 定 化 さ れ て い る の で 、 現 実 のイ
ンフレ率と予想為替レートの差に基づいて調整されるとする。それぞれの予想
形成は、以下の通りである。
(9)
x& E = ρ(π − x E )
(10)
π& E = λ(π − π E )
均 衡 点 の 近 傍 で 線 形 近 似 し 、 x E 、π E を 定 常 均 衡 値 と す る と 以 下 の 体 系 を 得 る 。
(11)
 x& E    (αε + µ)φ 
−1
   ρ
∆

 = 
   (αε + η)φ
 E  λ
∆
π&  
(1 − α)(1 − γ )ε
ρ
∆



 (1 − α)(1 − γ )ε  
λ
− 1 
∆


た だ し 、 ∆ = αε + η + (1 − α)(1 − γ )ε
12
xE − x E 






 E

E
π − π 
ヤ コ ビ ア ン の 各 要 素 の 符 号 は 、 b 1 1 <0 、 b 1 2 > 0 、 b 2 1 > 0 、 b 2 2 <0 で あ る 。 た だ し 、
b1 1 が 負 と な る た め に は 、
φ < 1 + {(1 − α)(1 − γ )ε /(αε + η)}
という条件が必要である。したがって、この条件が満たされるとき、トレース
は負となる。一方、ディターミナントは、
(αε + η)(1 − φ) / ∆
で あ り 、 1>φ で あ れ ば 正 で あ る 。 し た が っ て 、 1>φ で あ る 限 り 、 体 系 は 局 所
的に安定であり、図1のように長期均衡が存在する。
これより、φが為替レートのアンカーに対するクレディビリティを表すパラ
メ ー タ で あ る こ と か ら 、 民 間 が ア ン カ ー 政 策 を 完 全 に 信 用 す る ケ ー ス ( φ =0)
であれば以上の条件が満たされ長期均衡が存在するが、アンカー政策を民間が
完 全 に は 信 用 し て い な い ケ ー ス ( 1 > φ >0 ) で あ っ て も 、 長 期 的 に は 為 替 レ ー ト
予想が長期均衡に収束し、アンカー政策が効果的となることがわかる。もちろ
ん 、 (8) 式 よ り 明 か な よ う に 、 z が 正 で あ る 限 り 、 φ が 大 き い ほ ど 長 期 均 衡 で の
国内インフレ率は高くなるという形でクレディビリティが影響する。
と こ ろ で 、 φ =1 の と き は ど の よ う な 動 学 的 な 調 整 と な る で あ ろ う か 。 φ=1
の と き は 、 デ ィ タ ー ミ ナ ン ト が ゼ ロ と な る の で x& E = 0 、 π& E = 0 の 曲 線 は 平 行 か 、
重 な る か で あ る 。 x& E = 0 曲 線 は 、 π = x E よ り 、 こ の 関 係 を (6)式 に 代 入 す る と 、
(12)
π E = x E − {δ /(1 − γ )ε}z
を 得 る 。 一 方 、 π& E = 0 曲 線 は 、 π = π E よ り 、
(13)
π E = x E + {(1 − α)δ /(αε + η)} z
を得る。したがって、それぞれの曲線位置関係は図2のようになる。体系は不
安定で、インフレ期待、為替レート予想ともに無限に発散する。
一 方 、( 1 2 ) ( 1 3 ) 式 よ り 明 ら か な よ う に 、z = 0 の と き に は 両 曲 線 は 一 致 し 、 図 3
に示されるように安定解を持つ。ただし、解は一意には決定されず無数に存在
し、初期値に依存するためいわゆる履歴効果を持つ。いずれにせよ、この場合
13
図 1
πE
x& E = 0
π& E = 0
xE
0
出所:筆者作成
図 2
πE
π& E = 0
x& E = 0
xE
0
出所:筆者作成
14
図 3
πE
π& E = x& E = 0
xE
0
出所:筆者作成
に は 総 需 要 が 完 全 に コ ン ト ロ ー ル さ れ 、そ の 成 長 率 が ゼ ロ で な け れ ば な ら な い 。
次 に 、 第 2 の 為 替 レ ー ト 予 想 形 成 につ い て 検 討 し よ う 。 現 実 に は 、 為 替 レ ー
トの固定化が実施されても、瞬時にインフレ率がゼロとなることは期待できな
い 。 長 期 均 衡 に 至 る ト ラ ン ジ ッ シ ョ ン に お い て は 、 z = 0 、 γ =1 で な い 限 り 、 国
内 イ ン フ レ 率 は 世 界 イ ン フ レ 率 を 上 回 り 、現 実 の 為 替 レ ー ト は 過 大 評 価 と な る 。
このため、貿易赤字が深刻となればアンカー政策の維持は困難となり、いずれ
ア ン カ ー 政 策 を 放 棄 せ ざ る を 得 な く な る 。 z=0、 γ =1 で な い と い う こ と は 、 ア
ンカー政策が長期的に非整合的であることを意味し、貿易赤字が維持できなく
な れ ば 、 ア ン カ ー 政 策 は 持 続 可 能 性 は 喪 失 し 、 い ずれ ア ン カ ー 政 策 へ の ク レ デ
ィビリティは失われる。以上の問題を反映させるために、以下の為替レート予
想を仮定しよう。
(14)
x& E = ρ(π − π*)
15
すなわち、民間は現実のインフレ率と世界インフレ率との乖離(過大評価)の
程度によってアンカー政策が非整合的であると判断し、この過大評価に応じて
為替レート予想が調整されると仮定する。インフレ期待は前のモデルと同様に
適応的期待形成を仮定する。
均衡値の近傍で線形近似し、ヤコビアンを求めると、
b11 = (αε + η)φ / ∆ > 0
b12 = (1 − α)(1 − γ )ε / ∆ > 0
(15)
b21 = (αε + η)φ / ∆ > 0
b22 = −(αε + η) / ∆ < 0
た だ し 、 ∆ = αε + η + (1 − α)(1 − γ )ε
となる。トレースとディターミナントはそれぞれ、
(16)
TRA . = −(αε + η)(1 − φ) / ∆ < 0,
(17)
DET . = −(αε + η)φ / ∆ < 0
if 1 > φ
であり、図4に示されるように、鞍点均衡となる。一般的に、民間のインフレ
期待と為替レート予想をサドル・パスに政策的に乗せることはほとんど不可能
で あ る と 考 え る と 、 民 間 が (14) 式 で 表 現 さ れ る よ う な 為 替 レ ー ト 予 想 を 採 用 す
る限り、長期的には為替レートのアンカー政策は無効となると言える。為替レ
ートの固定化と整合的でない総需要政策が維持されれば、過大評価が生じ、ア
ンカー政策を維持できなることは当然のこといえる。したがって、為替レート
のアンカー政策の実施と同時に、総需要を完全にコントロールし、トランジッ
シ ョ ン に お い て 為 替 レ ー ト の 過 大 評 価 を も た ら さ な い こ と が 必 要 と な る 。 もし
く は 、 民 間 の ク レ デ ィ ビ リ テ ィ を 高 め 、(14)式 の よ う な 為 替 レ ー ト 予 想 を 採 用
させないことが要求される。
と こ ろ で 、 (14)式 の よ う な 為 替 レ ー ト 予 想 が 採 用 さ れ る 場 合 で あ っ て も 、 ア
ン カ ー が 完 全 に 信 用 さ れ る ( φ=0) と き は 、 動 学 的 調 整 は ど の よ う に な る で あ
ろ う か 。 ( 1 7 ) 式 よ り 、 デ ィ タ ー ミ ナ ン ト は ゼ ロ と な り x& E = 0 、 π E = 0 曲 線 は 平 行
16
か 、 一 致 す る 。 ま た 、 ( 1 5) 式 よ り φ = 0 と き は 、 明 ら か に 両 曲 線 と も 傾 き が ゼ
ロ と な る 。 な お 、 z=0 の 場 合 に は 、 図 5 の よ う に 両 曲 線 は 一 致 し 、 π E は 世 界
イ ン フ レ π* に 等 し く な る が 、 xE は 履 歴 効 果 を 持 ち 、 解 は 無 数 に 存 在 す る 。
これより、現実のインフレ率と世界インフレ率との乖離に基づいて為替レート
予想がなされるケースでは、アンカー政策が当初より完全に信頼される場合の
み、安定解を持つことが理解される。ただし、この場合、総需要成長率は体系
の安定性と関係しない。
以上を要約すれば、以下の通りある。
(1) 為 替 レ ー ト の ア ン カ ー 政 策 が 瞬 時 的 に イ ン フ レ 率 を 終 息 さ せ る た め に は 、
ア ン カ ー 政 策 が 完 全 に 信 用 さ れ る こ と 、 総 需 要 が 完 全 に コ ント ロ ー ル さ れ
ること、イナーシャをもたらすインデクセーションが廃止されることが、
同時に満たされなければならない。
(2) ア ン カ ー 政 策 の 長 期 的 な 有 効 性 に つ い て は 、 為 替 レ ー ト 予 想 が 現 実 の イ ン
フレ率との乖離に基づいてなされる場合であれば、アンカー政策がある程
度 の 信 用 を 得 て い る 限 り 、最 終 的 に 為 替 レ ー ト 予 想 は 長 期 均 衡 値 に 収 束 し 、
有効となる。しかし、アンカー政策がまったく信用されなければ、インフ
レ・プロセスは無限に発散する。ただし、この場合、総需要が完全にコン
トロールされれば、長期均衡値が存在するが解は確定しない。
(3) し か し 、 為 替 レ ー ト 予 想 が 現 実 の イ ン フ レ 率 と 世 界 イ ン フ レ 率 と の 乖 離 、
す な わ ち 過 大 評 価 の 程 度 に 基 づ い て な さ れ る 場 合 、体 系 は 鞍 点 均 衡 と な り 、
一般的にはアンカー政策の長期的な持続可能性は存在しない。ただし、為
替レート・アンカーが当初より完全に信用される場合のみ、アンカー政策
は長期的な有効性を持つ。
17
図 4
πE
π& E = 0
x& E = 0
xE
0
図 5
πE
π& E = x& E = 0
xE
0
出所:筆者作成
18
4.
「レアル計画」以後のマクロ政策
ところで、為替レートの固定化だけでは長期的なインフレ抑制は保証されな
い 。賃 金 な ど の イ ン デ ク セ ー シ ョ ン の 制 度 が 1 9 9 5 年 7 月 の 措 置 で 廃 止 さ れ た こ
とから、総需要管理がインフレ抑制を継続するための残された課題となってい
た。金融・財政政策などの総需要政策が世界インフレ率と整合的でなければ、
いずれ固定化された為替レートと現実のインフレ率が乖離していき、実質為替
レートの過大評価が生じる。過大評価が貿易赤字をもたらし、貿易赤字の持続
が 困 難 と な れ ば 、ア ン カ ー 政 策 の 維 持 も 困 難 と な る 。こ の よ う な 事 態 と な れ ば 、
アンカー政策への信頼が喪失していき、沈静化していたインフレ予想が再び高
ま り 、 安 定 化 政 策 を 挫 折 さ せ る こ と と な る 。 イ ン フ レ 率 が 94 年 7 月 を 境 に 急 激
に沈静化した後、どのような政策でアンカー政策への信頼性と需要抑制を維持
し よ う と し て い た の で あ ろ う か 。 以 下 で は 、9 9 年 1 月 の 変 動 相 場 制 移 行 ま で の
安定化政策について議論する。
政策の基本は、為替アンカーの継続と高利子率政策であった。こうしたイン
フレ抑制の状況を示したのが第 6 図である。アンカー政策の継続自体が政 府の
インフレ抑制へのコミットメントを示し、高利子政策は需要抑制を通じて非貿
易財の価格抑制に用いられていた。
しかし、ここで注意すべきは、アンカー政策と高利子政策の継続は、いくつ
かの制約条件のもとで可能となっていた点である。為替レートの固定化は、完
全にゼロ・インフレを実現しない限り必然的に為替レートの過大評価をもたら
す 。 総 合 物 価 指 数 で み る と 1994 年 8 月 を 100 と す る と 96 年 末 の 時 点 で 135 前
後であった。第 1 表は代表的な貿易財と非貿易財を取り上げ、それぞれの価格
の推移を見たものであるが、貿易財価格が安定化政策の実施とともにほぼ瞬時
にして 1 桁台までインフレ率が低下したのに対し、非貿易財価格は高いインフ
レ率を維持していたことが理解できる。もちろん、時間とともに非貿易財価格
19
図 6
インフレ抑制政策の現状と問題
インフレの抑制
アンカー
需要抑制
為替レート固定化
高利子政策
自由化政策
過大評価
貿易赤字拡大
海外資金流入
債務利払い負担
国債売りオペ
貨幣供給抑制
国債累積
財政赤字圧力
出所:筆者作成
のインフレ率もかなりの程度に低下してきており、貿易財と非貿易財の相対価
格 の 調 整 プ ロ セ ス が 始 ま っ て い る と 考 え る べ き で あ る が 、こ の 間 に 累 積 で 3 5 %
程度の価格上昇があったことは否定できない。
一 方 、 為 替 レ ー ト は 96 年 末 に は 1 ド ル = 1.039 レ ア ル で あ り 、 ほ と ん ど 変 化
し て い な い こ と か ら 、この期間に 30% 近 い 過 大 評 価 と な っ て い た と 考 え る べ き
で あ る 3。 こ の 為 替 レ ー ト の 過 大 評 価 は 、 輸 出 財 部 門 に 競 争 力 改 善 の 圧 力 を も た
3
Cardoso and Helwege[1999]は 1994年 ∼ 98年 に 31% の 過 大 評 価 と な っ た と し て い
る。
20
表1
貿易財・非貿易財の相対価格の推移
貿易財
指数
1994 年 8 月
家電製
品
100
非貿易財
衣
料
100
自
動
車
100
家
賃
100
保健・衣
料
100
教
育
100
1994 年 12 月
102.1
101.6
99.9
144.2
106.3
100.7
1995 年 12 月
102.6
109.2
109.3
251.9
151.1
147.6
1996 年 12 月
101.9
105.7
107.5
297.4
193.3
188.6
1997 年 12 月
93.7
102.8
111.4
323.0
211.1
209.8
94 年 8 月 ∼ 9 4 年
12 月
95 年
2.1
1.6
-0.01
44.2
6.3
0.7
0.5
7.5
9.4
74.7
42.1
46.6
96 年
-0 . 7
-3 . 2
-1 . 6
18.1
27.9
27.8
97 年
-8 . 0
-2 . 7
3.6
8.6
9.2
11.2
インフレ率(%)
注:ただし、貿易財は卸売り物価指数、非貿易財は消費者物価指数である。
出 所 : FGV, C o n j u n t u r a E c o n ô m i c a , M a i o 1 9 9 6 , M a i o 1 9 9 7 , M a i o 1 9 9 8 : Í n d i c e s
E c o n ô m i c s に 掲 載 の 指 数 : 家 電 製 品 ( 3 9 ) 、 衣 料 ( 6 3 ) 、 自 動 車 ( 4 3 ) 、 家 賃 ( 2 A )、 保 健 ・
衣 料 (4A)、 教 育 (5A)。
ら し 、 現 実 に も リ ス ト ラ や 生 産 性 改 善 の 誘 因 と な っ て い た が 、 30% の 過 大 評 価
を相殺するに十分ではなかった。
他方、輸入は貿易自由化ともあい まって急激に拡大し、黒字基調であった貿
易 収 支 は 95 年 以 降 赤 字 と な っ た 。 94 年 に 105 億 ド ル で あ っ た 黒 字 は 、 95 年 に
34 億 ド ル 、 96 年 に は 56 億 ド ル 、 97 年 に 97 億 ド ル の 赤 字 と な っ た 。
こうした対外収支の赤字をファイナンスしたのが、海外資金流入である。い
うまでもなく、高利子政策が内外利子率格差を作りだし、海外資金を誘因する
重 要 な 役 割 を 担 っ て い た 。1 9 9 3 年 に 1 0 1 億 ド ル 、9 4 年 に 1 4 3 億 ド ル で あ っ た 資
本 収 支 の 黒 字 は 、 9 5 年 の 298 億 ド ル 、 9 6 年 の 3 2 4 億 ド ル 、 9 7 年 の 256 億 ド ル
と急増した。したがって、十分な 額の海外資金の流入が、為替レートの切り下
げを伴わない貿易収支赤字の継続を可能とし、為替レート・アンカー政策を支
えた重要な条件となっていたのである。また、別の観点から見れば、こうした
資金を供給していた当時の国際金融情勢がブラジルのインフレ抑制を可能とし
ていたと解釈できる。
21
しかし、旺盛な海外資金流入はいくつかの問題点を持っていた。まず、海外
資金流入が貨幣供給の拡大要因となったことである。不胎化政策をとらなけれ
ば 巨 額 の 海 外 資 金 流 入 は 貨 幣 供 給 を 増 大 さ せ 、イ ン フ レ 圧 力 と な る 。こ の た め 、
この貨幣供給のコントロールには 、国債の発行による流動性の吸収が必要とな
る 。 こ う し た 国 債 の 市 場 操 作 の 結 果 、 ブ ラ ジ ル で は 1 9 9 5 年 、 96 年 と 国 債 残 高
が 急 激 に 累 積 し 、対 G D P 比 は 1 9 9 4 年 の 1 1 . 2% 、9 5 年 の 1 5 . 3% 、9 6 年 の 2 1 . 8 % 、
97 年 の 2 8 . 6% と 急 増 を 続 け た 。9 0 年 に コ ロ ル 政 権 が 金 融 資 産 の 封 鎖 を 強 行 し 、
実 質 的 に 国 債 の 一 方 的 清 算 を お こ な っ た 時 点 の 国 債 残 高 が 11 % で あ っ た こ と
を考慮すると、極めて高い水準にまで累積したことを示している。
さ ら に 問 題 を 複 雑 と し て い た の は 、高 利 子 率 政 策 が 国 債 の 利 払 い 負 担 を 高 め 、
財 政 赤 字 の 拡 大 圧 力 と な っ た点 で あ る 。 「 レ ア ル 計 画 」 以 降 、 利 子 率 は 低 下 傾 向
にあったが、インフレ率自体も低下傾向にあったため、実質利子率は依然とし
て極めて高率が維持された。このため、国債利払い負担が国庫支出に占める割
合 を 増 加 さ せ 、 財 政 赤 字 の 大 き な 要 因 と な っ た 。 利 払 い 負 担 の G D P 比 は 、1 9 9 1
年 に 1 . 5 % で あ っ た の に 対 し 、9 5 年 に は 5 . 2 % に ま で 上 昇 し た 。 そ の 後 低 下 を 見
せ た も の の 、98 年 に は 7.5% に 達 し て い る 。 国 債 の 利 払 い な ど の 返 済 を 手 当 す
るのは基本的に財政黒字であるが、プライマリー・ベースでの黒字は不十分で
あ り 、オ ペ レ ー シ ョ ナ ル ・ ベ ー ス で の 財 政 赤 字 は 9 5 年 に 4 . 9 % 、9 6 年 に 3 .8 % 、
98 年 に は 7 . 5 % と な っ て い る 。 結 局 、 高 利 子 政 策 の も と 、 国 債 の 利 払 い 負 担 が
増加し、それを国債の更なる発行でまかなっている状態であった。このため、
いっそうの財政の健全化が不可欠であったことはいうまでもない。
さらに、海外資金流入に関して考慮すべき問題は、債務危機当時の資金流入
が 主 と し て 民 間 銀 行 か ら の 借 款 で あ っ た の に 対 し 、1 9 9 0 年 代 は 証 券 投 資 ( 政 府
債券、株式など)と直接投資による資金流入が主体となっていたという大きな
相違点である。直接投資の拡大は、ブラジルにとって歓迎すべきで、民営化へ
の株式投資や地域統合をにらんだ企業進出が、債務危機の時代とは異なるダイ
22
ナミズムを経済に与えていたことは疑うべくもない。しかし、証券投資は、為
替レートの変動、利子率の変動などの様々なリスクや、政治的要因に極めて敏
感である点に注意しなければならない。以下の章で議論されるように、ブラジ
ルでは、「レアル計画」以後のインフレ終息によって銀行自体の財務体質が大き
く変動し、貸付先企業の経営状況が悪化し不良債権化することなど、金融シス
テムが著しく安定性化した。こうした状況では、証券投資は利回りやリスクの
変動に極めて敏感で、瞬時にして大量の資金移動が発生し通貨危機に直面する
といったリスクに直面していた。銀行貸し付けと異なり、債務者とリスケなど
の 交 渉 の 余 地 は 存 在 し な い こ と に 注 意 が 必 要 で あ る 。 ち な み に 、9 4 年 に 投 資 と
し て 流 入 し た 海 外 資 金 2 7 3 億 ド ル の う ち 、7 9 % が ポ ー ト フ ォ リ オ 投 資 、8 . 2 % が
直 接 投 資 で あ り 、9 5 年 の 2 8 0 億 ド ル に つ い て は そ れ ぞ れ 8 0 . 5% 、1 1 . 7 % 、9 6 年
の 3 5 2 億 ド ル に つ い て は 7 0 . 2% と 2 7 . 3 % で あ っ た 。 こ う し た 状 況 は 、 ブ ラ ジ ル
も 9 7 年 の ア ジ ア 危 機 に 端 を 発 す る 通 貨 危 機 の 波 に さ ら さ れ 、い く ど か 大 量 の 資
本 が 流 出 す る な ど 危 機 に 直 面 す る こ と に な っ た 背 景 と し て 重 要 で あ る 4。
以 上 よ り 、 「 レ ア ル 計 画 」 以 後 1 9 9 9 年 1 月 ま で の の イ ン フ レ 抑 制 政 策 は 、為 替
レートの固定化と高利子率政策が基本であったが、その反面で貿易赤字と財政
赤字が拡大し、これを海外資金流入と国債発行でしのいでいたと要約できる。
しかし、海外資金流入と国債累積に過度に依存することは通貨危機への条件を
作り出すという意味で大きなリスクを背負うことになり、以下の第 4 章で議論
さ れ る よ う に 、 為 替 レ ー ト の 過 大 評 価 が 持 続 す る 中 で レ ア ル に 対 す る 信 任 が崩
れ 、 つ い に は 99 年 1 月 に 通 貨 危 機 が 生 じ る こ と に な っ た の で あ る 。
4
た だ し 、 ブ ラ ジ ル で は 、1 9 9 5 年 に 生 じ た 金 融 不 安 に 対 し 、 と く に 銀 行 セ ク タ ー の
健 全 化 政 策 を 果 敢 に 実 施 し て い た た め に 、 少 な く と も 99年 の ブ ラ ジ ル の 通 貨 危 機
が生じるまで、アジア諸国やロシアの通貨危機のコンテージョンを受けずに済ん
だ と い え る 。 詳 し く は 以 下 の 第 4章 、 第 6章 で 議 論 さ れ る 。
23
4.
おわりに
「レアル計画」の実施によって、ブラジルのインフレ率は急速に低下した。
「 レ ア ル 計 画 」は 1 9 8 6 年 以 来 の い く ど か の 安 定 化 政 策 の 中 で 、も っ と も 長 期 間
にわたり低いインフレ率を持続した点で評価すべきである。しかし、理論分析
で見たように、為替レートをアンカーとする政策は、為替レート予想のあり方
に大きく影響され、長期的な有効性は必ずしも保証されない。厳密な実証研究
を経なければ、現実にどのような為替レート予想が形成されているか不明であ
るが、これまでのブラジルの経験から判断すれば、為替レートの過大評価が深
刻となれば、より過大評価自体を重視した為替レート予想が採用される可能性
が 高 く な る で あ ろ う 。為 替 レ ー ト 予 想 の 第 2 の ケ ー ス の 分 析 で 議 論 し た よ う に 、
過大評価にもとづいて調整される為替レート予想形成となれば、アンカー政策
に基づく安定化政策の長期的持続性は保証されない。
ところで、モデルに従えば、当初からアンカー政策が完全に信用され、総需
要 が 完 全 に コ ン ト ロ ー ル さ れ 、イ ン デ ク ゼ ー シ ョ ン が 完 全 に 廃 止 さ れ な い 限 り 、
国 内 イ ン フ レ い 率 は 世 界 イ ン フ レ 率 を 上 回 り為 替 レ ー ト の 過 大 評 価 は 不 可 避 で
ある。したがって、できるだけこれらの条件を満たし、過大評価を深刻化させ
ないことが、モデルの政策的インプリケーションとなる。この意味で総需要管
理がもっとも重要であった。しかし、総需要管理に対しては、もっぱら高金利
政策が当てられて来た。高金利政策の背景には、資本流入を確保し、為替レー
トの固定化を維持するために必要な外貨準備を確保するという理由が存在した。
しかし、外資流入によって通貨供給量が急激に拡大する状況で高金利政策を続
け る に は 、 市 中 の 資 金 を 公 債 の 発 行 で 吸 収 せ ざ る を 得 ず 、 政 府 債 務が 急 激 に 累
積していた。この政府債務の急激な拡大が、過大評価、貿易不均衡とならび、
ブ ラ ジ ル へ の ク レ デ ィ ビ リ テ ィ を 低 下 さ せ 、9 0 年 代 末 の 通 貨 危 機 の 遠 因 と な っ
たのである。
24
いうまでもなく、政府債務の拡大を抑えるには基本的に財政の健全化が必要
で あ る 。 し か し 、 財 政 の 健 全 化 は 困 難 で あ っ た ( S a c h s a n d Z i n i [ 1 9 9 6 ] )。 何 故 な
ら、重要な財政改革には憲法改正を前提としたものが多かったからである。例
えば、中央政府から地方政府への移転支出・交付金の是正、公務員身分安定制
度などや社会保障制度の見直し、年金需給資格の 改正などである。議会では、
左 翼 政 党 や ナ シ ョ ナ リ ズ ム に 傾 く 政 党 の 抵 抗 が 強 く 、憲 法 改 正 は 困 難 で あ っ た 。
さらに、過大評価に対しては、それを相殺する国際競争力の改善が不可避で
あ っ た 。 し か し 、1 9 9 0 年 以 来 の 貿 易 自 由 化 な ど 背 景 と し て 生 産 性 の 上 昇 や 経 営
効率の改善傾向が見られるものの、依然として「ブラジル・コスト」と呼ばれ
る 非 効 率 性 が 蔓 延 し て お り 、国 際 競 争 力 を 改 善 す る に は 長 い 時 間 を 必 要 と す る 。
問題は、為替レート・アンカー政策の実施によって人々のインフレ期待を静め
ている間に、財政の健全化、国際競争力の改善が実現しなければ 、いずれアン
カー政策への信頼が崩れ、アンカー政策を放棄せざるを得ない状況となること
で あ る 。 後 述 さ れ る よ う に 、 ブ ラ ジ ル の 場 合 、99 年 1 月 に 通 貨 危 機 を 迎 え 、 変
動相場制への転換を余儀なくされたが、ある意味で通貨危機はブラジルのアン
カー政策に基づくマクロ経済への強制的な調整であった。
25