礼拝説教(2010:05:23) 聖霊

礼拝説教(2010:05:23) 聖霊降臨祭
聖書 創世記11:1~9
使徒2:1~21
ヨハネ16:4b~11
「与えられている神の霊」
バベルの塔の物語
今日は、聖霊降臨祭です。聖霊降臨祭は、この世界に、一つの群れとして、キリスト教会が誕生した記念
すべき日です。復活祭が祝われ、クリスマスが祝われますが、この聖霊降臨日はなかなか祝日としては定
着しないところがあります。聖霊の降臨という特別の出来事に注目し、これによってキリスト教会が誕
生した側面をあまり強調しなかったためなのかもしれません。しかし、この出来事を通して、初めてキリ
ストを信じる群れがこの世に誕生したのです。わたしたちは、このことを覚えて、この日を祝っていきた
いものです。
ところで、この聖霊降臨日の日課として、古くから創世記のこのバベルの塔の物語が選ばれておりま
す。どうして、この箇所なのか、多くの方が、その関連性について、疑問をもたれるのではないかと思うの
です。バベルの塔の物語は、創世記おいては、人類の原初史としての最後に記されてくるものです。バベ
ルの物語が終わって、ようやくイスラエル人の先祖であるアブラハムの物語となるのです。
バベルの物語そのものは、おそらくメソポタミアの古い神話が、その背景にあると思われます。古い神
話を、イスラエルの人々が、自分たちの信仰に役立つような形で、編集しなおして聖書に取り入れたとい
ってよいものです。ですから、ここにはイスラエルの人々の考え方が、しっかりと反映されています。神
話の形を残しながら、信仰的な寓話としています。寓話というのは、その中に教訓を含ませているもので
す。
では、バベルの塔の物語における信仰的な教訓とは何かといいますと、それは人間の傲慢に対する警
告です。神話そのものは、世界に多くの言語があり、又、ありとあらゆるところに人間が住み着いている
ことについての原因物語であっただろうと考えられています。しかし、イスラエルの人々は、互いに言葉
が通じ合わない現実を、そして、人間が全地に散らされていることを、神の裁きとして受け止めたのです。
「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることがないようにしよ
う」。何処の国でも、天下統一を夢見て、名を上げた人々がいます。しかし、人間は名を上げると同時に傲
慢になるものです。傲慢は、結果的に人間関係を損ない、社会を分裂させます。こうした人間の現実を鋭
く指摘する物語に作りかえられています。確かに、人間の歴史は、傲慢な権力者が次から次に現れて、覇
権の争いを繰りかえし、分裂に分裂を重ねてきたと言えるのかもしれません。
ペンテコステの日課
このような物語が、ペンテコステの日課に選ばれているのは、ペンテコステにおいて起きた出来事が、
この傲慢によって、社会を分裂させ、互いの人間関係を損なっていく現状を、変えていく原点となったか
らです。言い換えれば、ペンテコステの出来事は、バベルの塔の出来事とは、全く正反対のことを引き起
こしていくことなるのです。即ち、あのバベルの塔の反対の出来事がペンテコステから起きることとな
るのです。
人間は、誰もが名を上げ、人々の上に君臨していくことを願い、人々を己に仕えさせて行くことが成功
であるかのよう考えるものです。主イエスに従った弟子たちですら、その本心は、他の弟子たちよりも自
分が抜きん出ることでありました。互いに誰が一番偉いのかを競い合いました。また、
「主よ、あなたがみ
国の権威をお持ちになったとき、わたしたちをあなたの右と左に座らせてください」と密かにイエスに
頼みこんだヤコブとヨハネに対して、他の弟子たちとの間で争がおきました。
しかし、イエスのご生涯は、他人を仕えさせる者となるのではなく、他人に仕えていく者にするところ
にあります。他人を支配下起きたい、他人を仕えさせたいと願っていた弟子たちを、他人に仕える者、他
人の僕に変えていくことでありました。しかし、このことは、言葉だけで成るものではありません。自ら
の生活を通して実現しょうとされたものです。ところが、主イエスの仕えられる姿に接しながら、また、
その都度、懇切に教えを受けていながら、彼らの現実は、先に示しましたように「誰が一番偉いか」であり
ました。しかし、そのような彼らが、イエスの死によって、人々のために命までも提供されたイエスの死
によって、衝撃を受け、そこから変えられていくのです。
当初は、イエスの死を受け入れることの出来なかった弟子たちでありましたけれども、イエスの死の
意味を考えれば考えるほどに、彼らを捉えて離さないものがあったのです。自分たちのあり方と主イエ
スのあり方の違いです。何処までも、何処までも人々のために生きられたイエスでありました。その結果
が死であっても、その生き方を貫かれた主イエスであったことが、彼らの衝撃となったのです。何処まで
いっても、自分中心的な生き方しか出来ない自分たちの現実に引き比べて、主の生き方は最後まで変わ
ることがなかったことに気づいていくのです。そして、まさにそのような命を、自分たちの前に展開し、
その命に自分たちを導こうとされていたイエスの心を受け止めたのです。
言葉の通じない世界
バベルの塔の物語は、互いに言葉が通じ合っていたのに、神が言を乱されて、通じ合わないものにされ
たと記されています。もちろん、神がそうするのではなく、権力者が現れると人間は本音では語れない者
になります。権力者に睨まれて、痛い目に合わないように警戒するからです。
かつて、ソビエト時代に秘密警察が暗躍いたしました。権力に逆らうものの言論を封じるためです。
人々は、自由な言葉を失ったのです。日本の軍国時代もそうでした。国体に反する言動は、投獄の対象で
した。誰もが、本音を隠して、権力に迎合するということが起きたのです。こうした国家権力の場合は極
端でありますが、現実の社会にこれがないかというとそうではありません。
どのような組織にしたって、その組織を牛耳っている指導者に対しては、その組織内の人々は、やはり
警戒を怠らないのだろうと思います。本音と建前を使い分け、本音は極力隠していくものです。このよう
にして、わたしたちの社会というのは、人の言葉の裏を読み取る術に優れた人が、うまく生きていくこと
が出来る状況です。私などは、のほほんとして、ぼんやり者ですから、言葉の裏に匂わせられて気がつか
ないというところがあります。言葉はもはや言葉の領域を超えて、お互い謎々を解いていかなくてはな
らないようなところがあります。だから、通じないということが起きるのです。語られている言葉と腹が
違っているからです。
「お前なんか死んじまえ」と思っていても、
「お元気で何よりですね」と語るのです。言葉が今や本音を
隠す道具になっています。この背後には、常に自分にとって有利な状況を確保しておきたいという思惑
があるからです。他人に仕えるよりも、どうすれば、他人を自分の味方につけ、自分に奉仕させことが出
来るかという下心が働きます。人間が自己中心的である限り、この枠から一歩たりとも出られないので
す。そこに神の裁きがあるといってよいのだろと思います。
しかし、この現実こそ、神が問題とされ、主イエスが問題とされていることです。ここに留まる限り、人
には救いが無いからです。人が己を中心としている限り、イエスが「自分の命を救おうとするものはそれ
を失い。これを憎む者はそれを得るのである」と言われているように、自己中心的では命をもち得ないの
です。しかし、自分の命よりも、他人の命を大切にし、その人間性に仕える者は、まことの命を持ち得るの
です。主イエスのご生涯は、まさにそのためのご生涯であったのです。 人間性の回復
ペンテコステの出来事は、まさに自己中心的な人間の内に、他者のために生きるという霊が吹き込ま
れた日であります。勿論、霊が天から下ってきて、人々の中に留まったというではありません。主イエス
というお方の生涯を通して、殊にも、あの悲惨極まりない死を引き受けられたイエスの終わりをとおし
て、弟子たちの中に起きた新たな息吹であります。
或いは、人が人として生きるべき生き方に、目覚めさせられたというべきでしょう。主イエスが、そこ
にこそ神からいただいている命のありようがあると教えられ、その通りに、ご自身のご生涯を貫かれた
ことを通して、人が生きるというこの意味を、真正面から受け止めているのです。そこに神が共にいてく
ださるのだということを信じたのです。
確かに、自分たちの現実をみれば、そうした生き方の出来るものではないことを十分に知っているの
でありますが、そのようなものであっても、神は裁くのではなく生かし続けながら、そういうものになれ
るように、イエスを遣わしていてくださることを悟ったのです。
創世記の始めに、
「人は神から息を吹き入れられて生きるものになった」とあります。聖霊降臨とは、こ
の息が吹きいれられたことを意味しています。二回に渡って、人間は神から息を吹き入れられているの
かというと、そうではありません。本来、人は生まれる前から、神の息を与えられているものです。そのよ
うな息を与えられていたからこそ、主イエスのご生涯に感動し、又、それに従うことが自分たちの本分だ
と理解するにいたるのです。
主イエスのご生涯は、わたしたちの内に埋もれてしまっていた、神の霊を再度、呼び起こすものです。
そして、再び、この神の霊に基づいて生きていく人間を形成するのです。自分中心的にしか生きられなく
なってしまった人間が、再び、共に生きていくものに変えられる。ここに救いが成就します。
互いに言葉が通じ合わなくなってしまった人間に、言葉が回復していきます。相手のために生きるの
ですから、わたしは相手に対して本音を隠す必要がなくなるわけです。こうして、人間関係が分裂から和
合へと導かれていくのです。