8 月 11 日 マタイ福音書の「イエスの幼児期」(1) マタイ福音書は、ユダヤ人のキリスト者が多数だった地方教会で編集された と一般に思われます。その福音書には、ルカがふれない二つのエピソード、す なわちヘロデのメシア・イエス の迫害と聖家族(ヨセフ、聖母 マリアとイエス)のエジプトの 滞在が記されています。主の迫 害は、 「占星術の学者たち」が エルサレムに着いたところか ら始まります。旧約聖書を読ん でいた信者たちは、メシアを受 け入れるのはユダヤ人だけで はなく、唯一の神と神が遣わさ れたメシアを捜し求める多く の異邦人がいることを知っています(イザヤ 45.14-16、20-25 49.6 55.3 -5 参照) 。ペトロとパウロの宣教の結果(使徒言行録 10.44-48 13.44-49 など参照) 、教会の異邦人の信者は非常に多くなりました。マタイの地方教会の ユダヤ人の信者たちは、ある異邦人は神のしるしを見て、メシアを捜すために 遠くからエルサレムに来たのは当然だとも思ったでしょう。 メシア・イエスが生まれた場所についてヘロデに相談すること、また、メシ アに出会った後、ヘロデに報告することなどは、私たちに至極納得しにくいこ とでしょう。三人の息子と二人 の妻を殺したヘロデは、ライバ ルと考えた新しい「ユダヤ人の 王」を容赦するはずはありませ ん。しかし、マタイの共同体の ユダヤ人はヘロデの残酷さに ついてそれほど細密に知らな かったでしょう。または、素直 すぎたあの学者たちがヘロデ の従犯者にならないように、最 終的には神から助けを得ると 思ったのかもしれません。 ヘロデの最終決定はいかにもヘロデらしかった。占星術学者から何の報告も なくて、彼らに裏切られた(または馬鹿にされた)と思った彼は、ベツレヘム の 2 歳以下の男の赤ちゃんすべてを殺すように命じました。ヘロデは紀元前 4 年に死にましたが、マタイ福音書を見ると、イエスが生まれたのは西暦の元年 ではなく、紀元前 6 年(または 5 年)となります。ここはそれを説明する余裕 がないのですが、イエスの誕生と西暦の間に 6 年間のズレがあります。幼き殉 教者の殺害が史実だとすれば、当時短かったベツレヘムで殺された赤ちゃんた ちは 20 人まで及ばなかったでしょう。 幼き殉教者が何人かは別として、マタイ福音書を読んでいる人に次の疑問が 起こりうると思います。 「占星術の学者の物語」の 史実は何でしょうか。確かに、Klaus Berger を 引用する教皇ベネディクト 16 世が書き記した書に (Iesu von Nazareth スペイン語訳 Planeta 2012, 124 頁) 、 「福音著者は読者をごまかすつもりがなく、 史実そのものを伝えるつもりがあったと、当然思わ なければなりません。ただ、疑問を感じるので、内 容の史実性を否定するということなら、歴史学者の あらゆる権利を上回る態度です」 。それにもかかわ らず、マタイ福音書の「主の幼児期」の解釈におい て問題がないとは言えないでしょう。先ずその時代 から福音書の編集まで 80 数年が経ちましたし、30 年ごろ教会ができてから 50 年以上も経っています。 確かに、全教会に広がっていた主の教えがマタイ福 音書にも表れますが、そのほか編集者の個人意見と出来事のまとめ、また、住 んでいる地方教会の影響もあります。 以上のことを見ると、史実であるデータと、熱心な信仰から加えられたとこ ろを別々にするのは、なかなか難しいことでしょう。実は、多くの二次的な点 について聖書専門家の論争が長く続きますが、ある点に限って、確かな結論に 至るのは困難でしょう…
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