古典におい て 同性愛は公認さ れ ていたのか。

古典において
同性愛は公認されていたのか。
(稚児にみる男色と文学性)
小川良江
目次
【序文】
【本論】
.....................................................................................
...............................................................................................................
..........................................................................................................
..............................................................................................................
.................................................................................................................
..............................................................................................................
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..........................................................................................................
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...................................................................................................
..............................................................................................................
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......................................................................................................................
......................................................................................................................................
......................................................................................................................................
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次
...................................................................................................
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目
......................................................................................................................................
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【引用文献・参考文献】
【結文】
第十一節 今東光「稚児」
第十節 岩田準一「男色文献書誌」
第三章 先駆者の研究
第九節 第二章まとめ
第八節 稚児の草子
第七節 稚児和歌
第六節 稚児の物語
第二章 稚児文学とは
第五節 第一章まとめ
第 四 節 稚児 の一生
第三節 稚児と僧侶の関係
第二節 稚児 の実態
第一節 稚児 の生態
第一章 稚児とは
.............................................................................................................
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【序文】
十二年前、高校の古典の授業で、『宇治拾遺物語(巻一の十二)
』
「児ノカイ餅スルニ空寝
) を 購 入 し た 時 だ っ た 。 パ ラ パ ラ と め く る う ち に、
したる事」を学習した。頭の片隅に追いやられていた記憶を呼び起こしたきっかけは、ゼ
ミで の 必 要 性 か ら 宇 治 拾 遺 物 語 ( 注
第三章では、先駆者の研究として、おもに岩田準一・今東光の二名の著書を資料として、
と思う。稚児物語のもつ表現性や、歌集などにみる心理描写を考察する。
第二章では、「稚児文学」という視点から内面的に、そして間接的に稚児に迫ってみたい
歴史的背景もふまえて調べる。
する。成立はどのような形でなされたのか、時代とともに、稚児は変化していたのかなど、
第一章では、「稚児」の語源やそのものをダイレクトに考え、生態と実態を具体的に検証
厳選した資料をもとに、稚児とその成立・役割などを考察したいと考えている。
会的意味がたくさん詰まっていたのではないだろうか?これを動機として、様々な角度、
しかしたら、現代社会では衰退してしまった「稚児」とういものには、大切な役割や、社
たか?なぜ、たわいもないこんな日常の事が『宇治拾遺物語』に収められているのか?も
ある。だからこそ、私には素朴な疑問がでてきたのだ。さて・・・稚児とは一体なんだっ
おもしろい話ではない。それで一体何が伝えたかったのか?と不思議な雰囲気の話なので
.い
.も
.ち
.を、ついやせ我慢したために恥じをかいたという、取り立てて
べたくて仕方ないか
この稚児の話が登場し、懐かしさと同時に疑問が出てきた。この話は、比叡山の稚児が食
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通説を示し自分の感じた事をまとめ、動機に対して自分なりの答えをさがしたい。
1
文
序
第一章 稚児とは
【本論】
第一章 稚児とは
第一節 稚児の生態
古語辞典には以下のように記載されている。
「日本中世から近世にかけて、主に寺院のなかに存在した特別(具体的説明なし)な少
年。中世寺院には上童(うえわらわ)・中童子(ちゅうどうじ)・大童子(だいどうじ)と
)」
呼ばれる『童子』がおり、僧侶の身の回りの世話をしていた。また、天台宗・真言宗など
の寺で、学問や行儀見習いのためにあずけられた少年(注
)」
)
あった。そのため、特定の稚児を神仏の化身とみなし、この稚児との肉体的交わり自体を
資料によれば、「日本には古来から、心霊は幼い子供の姿を借りて現れる、という信仰が
第二節 稚児の実態
て、教科書に載ったのはなぜだったのか。
また、この、きわどい題材をはらんだ話が宇治拾遺物語の沢山ある説話の中から選ばれ
が高い。
高校の授業では、思春期の生徒に指導するのにはふさわしくなかった為、省かれた可能性
私は以上の事から、特に「同性愛」ということばが重要なキーワードであると確信した。
たようである。(注
食事の支度など)ではない。女人禁制の寺院では、美形の稚児が同性愛の対象とされてい
学んだり、僧侶の世話を日課としていた。ただし、小坊主のような日常生活の世話(洗濯・
の低い出身者もいた。年齢は十五〜十七歳くらいまで。上限は十九歳くらいまで。学問を
や、学問(音楽・能・和歌漢詩)の手ほどきを日課としている。中童子・大童子には身分
「上童は公家・武家出身で年齢は十二〜十三歳。僧侶の傍にいつも付き添い、お話相手
今回資料を調べて分かった事は、次の引用に集約される。
っている程度であったと推測される。
高校の授業でどの程度の事を教えていたか明確な記憶はないが、おそらく古語辞典に載
2
神聖化したり、儀式化すると言う宗教的側面があったのは事実である。」
(注
4
第一節 稚児の生態
2
3
第一章 稚児とは
では、ここでの「特定の稚児」とは何だろうか。
「稚児観音縁起」によれば、『観世音菩薩の化身になる儀式「稚児灌頂」を受けた稚児』
の事であるという。また、灌頂を受けた稚児は「〜丸」という名前が付けられることが多
)
。
く、この「稚児灌頂」を受けてる稚児との性交渉は神へ近づく儀式の最終章とされていた
(注
つまり、性愛を方便にして、開眼へ導くというスタンスである。逆に「稚児灌頂」の儀
式を受けていない稚児との性交渉は御法度になる。また、聖なる稚児(いわばスーパー稚
児・カリスマ稚児)になるためには、人格や容姿など、かなり厳しく人選されていたので
はないかと予測される。ここまでの時点で、稚児とひとくちに示しても、階級で差別化が
あったことや、宗教的な側面が、稚児発展に関係していたことが分かる。
)。頻繁に使用されている漢字は「稚
次に、稚児の語源について考えてみる。使用例は平安時代からあるとされており、ちい
さ き こ → 小 子 か ら き た の が 有 力と さ れ て い る ( 注
)
」
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)」と述べており、
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ここでは、男色そのものを
では、「山門方」と呼ばれた十六谷三千僧房に伝承される掟を見てみる。これは、稚児の
浮かび上がった「稚児」のイメージはあまりにも女性的すぎるのだ。
児も、自分自身を男・女・神のどれだと自覚しているかが分からない。しかも、文献から
分は稚児を男・女・神のどれで、感じているかもはっきりしておらず、加えて受け身の稚
いるからだ。つまり、豊富な呼称の理由は稚児の容姿にある。加えて、僧侶のメンタル部
ンと個人的な見解が深く関係し、私は稚児を同性愛と断言してしまうのは危険だと考えて
考える前に、まず稚児の容姿について触れたい。なぜなら、男色には多様なバリエーショ
色であり、豊富な呼称は容認をあらわしているのだろうか?
ところで、このような呼び名の多さは何を意味するのだろうか?稚児=(イコール)男
稚児の語源を正確に把握するのは困難である。
とかかげまとか、おかまなどの呼び名・名称は七十以上を数える。
(注
他 に も 興 味 深 い 記 述 と し て 、 岩 田 準 一 は 「 日 本 に は 男 色 の文 献 が 二 千 近 く も あ り 、 稚 児
際に「白粥」とか「汁菜」とか、食する順序を唱える役僧のことだったらしい。(注
るのを喝食といい、転じて給仕の童子をもさすようになったという。もともとは、食事の
「喝食(かっしき)にも、稚児という意味がある。喝は唱えることで、禅宗で食事を報ず
児」と「児」の二種類である。この二つ以外にも、宗派によって呼び方はいくつか存在し、
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為のエチケットブックに相当するものと考えてよい。
第二節 稚児の実態
3
5
第一章 稚児とは
山門(禅宗寺院)の稚児は心遣いが第一で、みめ形は第二のこと。人の見ている所で、
稚 児 を た し な め る よ う な こ と を し て は な ら な い 。 朝 は 早 く起 こ し 、 楊 枝 、 手水 、 髪 を 結 う て
やらなければならない。先ず櫛四・五まいで撫でつけ後ろへそろえ、櫛で仮りに結んでその
)
まま化粧をさせる。額に八文字を描き白粉と黛をほどこし、ゆっくり髪を撫でつけ、もとど
りを元結でむすぶ。(注
つの角度から考察した結果、「稚児」と「女」の存在の類似性を立証して
)
。
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)。
されて い た 。 少 年 たち は 、 肉 体 的 に も 精 神 的 に も そ の も っ と も 不 安 定 な 一 時 期 に 、 子 供 か ら
ろ ん の こ と 、 和 歌 、 音 楽 その 他 の 芸 能 一 般に 至る ま で 、 大 人 に 成 長 す る た めの 教 育 が ほ ど こ
主 人 と 稚 児 の 間 に は 、 子 弟 の 契 り と も い う べ き も の が厳 然 と 存 在 し 、 学 問 や 行 儀 作 法 は も ち
ると、「稚児」と呼ぶのは不適当なように思われる。肉体関係のあるなしに拘わらず、当時は
ぶまで男色の趣味は衰えるどころか、いよいよ盛んになるばかりだが、売色を行うようにな
院 政 時 代 か ら 南 北 朝 を 経 て 室 町 時 代 に 至 る 間 が 稚 児 の 全 盛 期で あ っ た 。 そ の 後 、 現 代 に 及
白洲正子の著書『両性具有の美』には、以下のように記載されている。
第三節 稚児と僧侶の関係
った事も、世間体重視に反映されていると考えられる。
執着心といった環境が稚児を取り巻いていた。また、舞台が寺院という閉鎖的な世界であ
を受け入れていたと考えられる。当時の社会情勢の複雑性やジェンダー・年齢への異常な
しい少年」を愛したのか。どちらだったのだろうか?いずれにしろ、稚児は流動的にそれ
では僧侶は、女装した「女性もどきの少年」を愛したのか、それとも、「女性のように美
以上の事からも、当時の稚児と女性はほとんど見分けがつかなかったことが分かる。
するとさえ明言しているのだ(注
いる。さらにはこれらの「しぐさ」にとどまらず、稚児の女性化は「感情の世界」に到達
て い る 。こ の
と模様)③体格(小柄)④蘭げげ(蘭金剛)という草履や、扇などの小物の存在⑤化粧し
「続日本絵巻大成」の「絵引」の解説文を比較し、①頭(黒髪がある)②服装(派手な色
また、黒田日出男は著者の中で角川書店「日本絵巻物全集」
・中央公論社「日本絵巻大成」
・
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大 人 に 脱 皮 す る こ と が で き た ので あ る ( 注
第三節 稚児と僧侶の関係
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第一章 稚児とは
この引用文にも示されているように、稚児には単なる性欲の対象ではなく他にもいくつ
かの役割がある。ここでは各種の文献等を参考にして、私なりに、稚児と僧侶の関係の仮
稚児との性愛を方便として、僧を真の発心へと導く「聖なる愛」のかたち
説と可能性を考察し、四つの側面を提案する。
その
実存の世界でも、物語の中でも、僧侶と稚児は一時的に情愛をかわすだけで、持続せず、
通過点としている。根底に、仏教への求道心が強く流れている為であり、あくまでも、修
行の一つという考え方である。また、高僧はもちろんだが、下位の僧侶にとっては、神に
近い存在の稚児と交わるのは、仏の慈悲であり、大変有り難かったらしい。稚児物語でも、
女人禁制という閉鎖的環境(寺院)において、女性の代用品(制欲を正当に処理
稚児と身分の低い僧との情愛は美談として描かれている。
その
する道具)
髪をおろし、出家した僧侶たちの中にあって、黒髪を維持している少年は、艶めかしい
魅力に満ちていた。また、あどけなさを残しつつ、日々成長していく姿は、若さへの執着
心を呼び起こしたはずである。生命力=性欲なのだから、コンスタントに欲求不満解消を
高僧によるエリート教育(秘伝の技の伝授の子弟)
するのが道理であろう。
その
行儀見習いや、儀式のしきたり、学問、芸術はいかに伝承していくかが大切な課題であ
時間共に過
ると思う。徹底した個人授業は即戦力となり、高品質だった。たとえば現在でも、一番短
期間で語学取得するのは、ネイティブスピーカーの恋人をもつことである。
男女の性を越えた人間同士のつながりあい(友情)
が、その時大切な規定となるのが、稚児の為のエチケットブックである。堕落していかな
は考えている。肉体関係が生じれば、男女と同じ愛憎にまみれてしまうという意見もある
男女の間に友情は成立しないが、対等な男性同士になら、尊大な友情が成立すると、私
その
習得に役立つ。文字では伝えきれない、繊細な分野の学問が伝授されていた可能性がある。
ごし、ボディーランゲージや顔の微妙な表情全てから相手を理解しようとする事が、言語
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いように、形式に則って関係を深めていく。その結果、思いやりや尊重という独特の世界
第三節 稚児と僧侶の関係
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3
4
第一章 稚児とは
が構築されていったと考えられる。お互いに相手を知り尽くしているからこそ、他者には
入り込めない空間が成立したのではないか。
第四節 稚児の一生
様々な資料から推測すると、院政〜南北朝を経て、室町時代に至る間が稚児の全盛期だ
ったようである。当初は、事務的な役割しか与えられていなかったが、時代とともに、重
要度が増してきたようである。
では、稚児自身の人生はどのようなものだったのだろうか?
出身(公家とか武家)や年齢によって、厳しく階級分けされていた事は、前に述べた通り
であるが、それなら寵愛を受けたその後、つまり、成人した後はどのような人生を送って
い っ た のだ ろ う か ?
白洲正子は以下のよう に記して い る。
最 初 は 寺 院 の 中 で ひ そ か に お こ な わ れ て き た 男 色 も 、 鎌 倉 ・ 室 町 時 代 に 至 る と 、 史 書や 歌
)。
書 に も 公 然 と 表 わ れ る よ う に な る 。 吾 妻 鏡 ・ 増 鏡 、 古今 著 聞 集 、 徒 然 草 、 太 平 記 、 慈 円 の 拾
玉 集 、 無 住 の 沙 石 集 等 々 その ほ か 物 語 や 絵 巻 物 を 入 れ る と 枚 挙 に い と ま も な い ( 注
ケース
普通の成人として社会に復帰する場合 (謡曲「経正」(注
))
ここでは具体例を利用して稚児の一生について、主だった三つのケースを紹介する。
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を理解するのに、大いに役立つはずである。このような構図は世界にも例があり、交流の
だろうか?先輩が自ら手本を、体当たりで教授する。将来、結婚したとき、女性の気持ち
は考えられない。肉体的接触について考察するなら、性教育の一貫と位置づけしてはどう
早く、利発な子供がえこひいきされたり、愛嬌のある子を特別扱いする気持ちは、異常と
く、というもので、寺院の機能は学校であり、僧侶は教師という立場である。飲み込みが
このケースは、元服の時期がくれば、そのまま卒業して、成年男子として社会に出てい
道を伝授される、という事実が示されている。
間を、垂髪の稚児として寺院に仕え僧侶の寵愛をうけたり、琵琶などの歌舞音曲の芸能の
仁和寺などの中世の顕密寺院には、公家・武家の子弟などが、元服するまでの少年の期
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少ない山岳地域の民族間では今なお、少年が一定期間長老と同棲することが成人へのステ
ップとなっている。
第四節 稚児の一生
6
1
第一章 稚児とは
ケース
出家得度し、寺院に席を置く正式な僧侶になる場合
ただし、限られたポストはライバルもたくさんいたようだ。寵愛され続けていなくては、
当然獲得できない。朝、ノーメイク姿を見られたり、話題が乏しくて飽きられたり、髪(当
時もっとも重要だった美的アピール)が痛んだりすれば、よそへ移り気してしまう。その
ための努力や、モチベーションの高さは現代の私でさえ、学ぶことが多い。結果、僧侶に
))
寵愛をうけつづける場合 (徳江元正・「世阿弥童形考」より大乗院尋尊に寵
捨てられた場合は、自殺へ至ることが多い。
ケー ス
愛された愛満丸の故事(注
の束縛のなかで脱落者が多かった。その結果どのような状況になったかといえば、稚児た
取り敢えず拾っておけば間違いはないと大量雇用するその裏で、細かい規則や宗教的儀式
めて積極的である事がわかる。しかし、誰でも受け入れ、時には人身売買まがいさえして、
ったということはほぼ間違いない。資料からも、寺院の側の少年達受け入れ体制が、きわ
男色目的にしろ、伝統芸能の伝授にしろ、人間教育目的にしろ、稚児の存在が必要であ
第五節 第 一 章 ま と め
って し ま っ た らしい 。
待遇であったのだが、結果としては、それが愛満丸を苦しめることになり自殺へといざな
もつ僧侶のことであるが、かなり特異な存在である。僧侶の寵愛がもたらした究極の特別
も、異質な存在で、寺院内部に籍をおきながら、だれもがおこなう出家をせず僧官僧位を
そのかわり、出家とは違う、遁世という形をとり、丞阿弥と名乗った。遁世とはそもそ
家できなかった。寺院といえども身分という厳しい分け隔てがあったのだ。
にはならないが・・・さて、彼は最後まで寺院に籍をおきながら、出身の卑しさの為、出
あいにく、おとぎ話のように「いつまでも二人は幸せに暮らしました。」という締めくくり
然にも、主人の寵愛をうける。解釈によっては、シンデレラストーリーではないだろうか。
があり高貴な存在)に売られる。はじめから男色対象だったというのが定説であるが、偶
芸能者という卑しい身分)のこどもであった愛満丸が人身売買という形で、一人の僧侶(徳
このケースは、現在とは異なった当時の社会背景を考慮しなくてはならない。猿楽者(雑
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ちは通常の成長過程を踏めず、社会のモラルからこぼれてしまったり、愛欲に流されて捨
第五節 第一章まとめ
7
2
3
第二章 稚児文学とは
てられた事を恨んだり、他人の嫉妬で狂ったりと、暗い最後を迎えた者が殆どだったので
は な い だ ろ う か 。 生 まれ が 卑 し い 、 親 の 後 ろ 盾 が な い 者 が 稚 児 に な っ た 場 合 、 入 内 し た 女
性たちより悲惨な状況に落ちってしまう確率が高い。寵愛を得るために努力し、寵愛を受
け続ける為に努力する。それでも、努力の度がすぎれば、ライバルに妬まれたり、三角関
係に巻き込まれて、結局、自殺、他殺とういう運命なのだ。つまり、稚児は一時的な役割
しか与えられていないのに、上流階級出身者を除けば、その後の受け皿がわずかしか無い
ため、殆どの稚児は年齢をかさねていくと、居場所を失い不幸へ傾く運命にあったと考え
られる。
第二章 稚児文学とは
第六節 稚児の物語
男色の日常化が進むと、稚児を主人公にした絵巻物や物語が登場してきた。それは、先
にも示した通り、史書や歌書、日記にまでおよぶ。人々の目に触れる事を目的としたこれ
らの読み物は、漠然とした稚児へのあこがれがあったのはないだろうか?少なくとも関心
が高かったのは間違いないだろう。しかし、世間的に考えれば、遠い雲のうえでの出来事
である。事実はともかく、非日常感の漂う高貴な感覚でとらえていたのではないだろうか?
『秋夜長物語』
ここでは、物語の中で、稚児が具体的にどうように描かれているか調べてみる。
資料
室町時代のお伽草子で、作者は玄恵との説もあるが確証はない。成立は南北朝時代で、
稚児物語の代表昨。男色という新しい題材を取り上げてはいるが、表現形式は男女の恋愛
関係と同じである。私はこの場合、同性愛と考えるのはふさわしくないと思う。
あらすじは次の通りである。
僧侶と稚児との恋愛を描いた稚児物。後堀河院の御世、比叡山の衆徒と桂海津師は、花の
大臣の子息、梅若という美しい稚児と相思相愛になる。桂海を慕って比叡山へ向かう梅若は、
途 中 天 狗 に 連 れ 去 ら れ 、 幽 閉 され る 。 三 井 寺 の 衆 徒 が 桂 海 の し わ ざ と 誤 解 し た こ と か ら 、 寺
門 と 山 門 と の 戦 い に 発 展 し 、 三 井 寺は 灰 燼 に 帰 す 。 龍 神 の 助 け に よ っ て 逃 げ 出 し た 梅 若 は 、
第六節 稚児の物語
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1
第二章 稚児文学とは
三井寺の焼け跡を見て自責の念から入水する。桂海は梅若の遺骨を首に懸け、西山に庵を結
)
ぶ。後に新羅明神が全ては神仏のはからいであったこと三井寺衆徒に示し、桂海は西山の瞻
西上人と呼ばれ尊崇を集めた。(注
資料
『宇治拾遺物語』(注
)
)
。
世紀前半頃が定説である。
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話からなり、ランダムに色々な説話が載っている。その中にから、稚児を主人公
児ノカイ餅スルニ空寝したる事
御 室 戸 僧 正 之 ノ 事 、 一 乗 寺 僧 正ノ 事
『続門葉和歌集』、そして、十四世紀後半の『安撰和歌集』があります。それ以前にも、『金
「稚児と僧侶の和歌を集めた歌集には、十三世紀半ばの『楢葉和歌集』、十四世紀初めの
稚児和歌について先行研究者の言葉を紹介する。
第 七 節 稚 児和 歌
載されておらず、僧侶とのやり取りはほほえましい。
身分差をも跳ね返す純愛として描かれており、大変興味深い。稚児に不利な言動は一切記
装束を着せて田楽舞を舞わせたところ、僧正が涙をこぼすという情愛を描いたものである。
くために、無理に法師にさせてしまったが、その後以前の舞姿を懐かしく思うようになり、
この物語はやんごとなき高僧僧正が、郷土演芸の芸人咒師小院という童を寵愛し傍にお
② 巻五 の 九
についても、きちんと説明して欲しいものだ。
短編であるためか古典の教科書に載っている事が多い。しかし取り上げるなら、ぜひ稚児
の説話に登場している稚児はスーパー稚児(稚児灌頂を受けている)
で あ る こ と が わ か る。
食事の支度をする僧侶は階級も低い為、稚児に対して敬語を使用している。つまり、こ
①巻一の十二
とした話と、稚児についての当時の考えが垣間見られる話を取り上げる。
内容は
年 代を 中 心 に
1210
る愛と別離と死を人間的に悲しくも美しく描いている。」と評価している(注
し、高僧せんさい上人の発心遁たんという枠組みの中で、僧と稚児(少年)の男色におけ
まざまな 説 話 ・物 語を もと にしな が ら、 それ ら を 緊 張 感 の あ る 表 現 に よ っ て 統 一 的 に 構 想
石川透は、「漢文表現を多様し、御伽草子の中でも、最も美しく完成されている。」・「さ
15
鎌倉時代の説話集で、編者未詳。成立は
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葉和歌集』などには僧が稚児に詠んでやった和歌が収められていますので、彼らが歌を詠
第七節 稚児和歌
9
13
2
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第二章 稚児文学とは
み合うのはさほど特殊はことではなかったのです。」(注
資料
『秋夜長物語』
)
立ちそふ雲の迷ふ心を
ていない。ここでは、物語からと歌集からその和歌を鑑賞しようと思う。
る。しかし残念なことに、稚児と僧侶の和歌を集めた歌集が存在することはあまり知られ
おかげ)して学んでいた事を示唆しており、稚児たちの知的レベルは高かったと推測でき
ていたこと、あらゆる教科・教養をバランス良く、しかも効率的に短期集中(年齢制限の
他の先行研究の資料をみても、当時の知識人の代表でもある僧侶に直接手ほどきを受け
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『続門葉和歌集』
ームである。
資料
あひしりける人のひさしくおとづれ侍らざりければ申しつかはしける
我もは忘れはてぬといひやらんかへりてしたふ心ありやと
和歌であることが認識できる。男性女性の性別に捕らわれることなく、自由に心を表現し
全く違わないと確信した。愛おしいきもち、憎らしい気持ち、悲しい気持ち、その種類や
第七節 稚児和歌
ている。愛する人に、自分の気持ちを伝える時、その時の心境は、いまの私達の心の中と
状況も、親近感をもってイメージできる。なぜなら、これらの歌には、たくさんのしきた
10
ような題材の和歌は男女の間でも日常的であった。詠み手に関係なく、心を伝える手段が
この歌は稚児の、寵愛を受けていた僧侶への、「夜離れ」をとがめている歌である。この
蓮蔵院菊丸
こなれた返歌をする梅若君。自分の気持ちを伝えつつ、相手の期待させる内容は、恋愛ゲ
怖いので、できるだけ平静を装ってのアタックである。一方、美少年らしく、洗練された
自分など、相手にされないかもしれないと、少し臆病な歌を送る瞻西上人。傷つくのが
頼まずよ人の心の花の色にあだなる雲のかかる迷ひは
★梅若君の返歌
知らせばやほの見し花の面影に
★瞻西上人の歌
1
2
第二章 稚児文学とは
りや、宗教上の約束事が排除されているからだ。一方で、知識人が多くを語らないのを美
徳とした時代背景を考えると、この和歌には表の意味と裏の意味が存在するのかもしれな
1053
い。また、二人にしか通用しない暗号のような、恋人たち特有のことばが存在していた可
能性もある。
第八節 稚児の草子
京都 の醍 醐 寺に存在 す る絵巻物で あ る。 平 安 時代、 鳥 羽 僧 正覚猷(
−
)筆と伝
1140
えられているもので、当時の稚児の生態が事細かに描いてある。佐藤要人氏によれば、「春
画ではあるが、デッサン力にみち、作品はあくまでも格調高く、興味本位で描かれたもの
)」とも指摘している。
でないことは一目瞭然である」と言う。また、この絵巻に登場する稚児たちが、「みな色白
でふくよかな容姿であり、きわめて女性的である(注
さて、現在は醍醐三宝院に襲蔵されており、国宝的重要美術品である「稚児の草子」は、
だれの為に作られたのだろうか?僧侶自身が快楽を満喫する為の手引き書だったのか?そ
れとも、自分好みの稚児を育てる為の、性教育目的の教科書だったのだろうか?
話題は変わるが、「たまごっち」という名前の育成ゲームが大流行していた。数年前にも、
爆発的にヒットしたのだが、疑似体験ゲームの人気は歯止めがない。そこで、私は「ジャ
ニーズ」という芸能事務所を思い出す。美形の男性だけが所属している有名なタレント事
務所である。この事務所には、
「ジャニーズジュニア」という部門があり、芸能界に入りた
ての少年たちが所属している。彼らには、マスコミに正式デビューする前から、青田買い
のようにファンがつく。ファンたちは、自分が彼の発掘者になった気分が、たまらないの
だと言う。将来有望な少年を見つけ、育成ゲーム感覚で楽しむのだそうだ。未来のビック
スターをいち早く見つける事も喜びだが、子供から大人へ成長していく過程を見守るのが、
醍醐味らしい。これを聞いた私は、寺院同士が競って美少年を教育して、素晴らしい稚児
に育てあげて、僧侶が、各自分の稚児を自慢している姿に似ていると感じたのだ。
少 々 強 引 な 展 開 か も し れ な い が 、 歴 史 的 に 考 え て も 「 源 氏 物 語 」 の 光 源 氏で す ら 、 育 成
ゲームの魅力に取り付かれていたのだ。寺院の僧侶がいかに熱中していたか想像に難くな
い。
第九節 第 二 章 ま と め
物語や和歌集は当時の寺院の雰囲気をとてもストレートに伝えている。また、稚児の心
第八節 稚児の草子
11
19
第三章 先駆者の研究
の動きや、彼らのもつイメージが鮮明に残されているといえる。そこには、女性と全く変
わらない性が表現されており、私はこの関係が同性愛と定義できるのか迷う。それは、も
しかしたら、私自身が性の多様な現代社会に生きているからなのかもしれない。男性性器
をもって生まれても、手術で除去可能な時代であるし、ホルモン注射という手段でメンタ
ルコントロールさえできてしまうのだ。そう考えると、性別の境は本人の自覚のみが有効
)
といえる。しかし、中世の寺院ではこれを、強制という形で担わせていたのではないか。
結果、さまざまな摩擦がおこっていたと私は考える。
岩田準一「男色文献書誌」(注
第三章 先駆者の研究
第十節
岩田準一は、「男色のはじまりは、平安朝の初期、平城帝の大同元年に空海が唐から帰朝
したときもたらされ、まもなく僧侶間に流行し、続いて貴紳にもてはたされ、ついに民間
にもひろまった。」と示しており、私自身が調べた資料にも、ほぼ同じ内容が記載されてい
た。彼は、この本において、男色のバリエーションのひとつが「稚児」であり、時代とと
もに、「稚児」も変化していた事を示している。もともとは、修学の目的で寺院に入ってき
た年少者に着目し(女色の禁制が厳しかった為)、美声から始まり、容姿、振る舞い、身だ
しなみへと、僧侶サイドの要求に従って「稚児」は変化していき、現在私達が、文献や絵
で確認しているスタイルが確立されたのだという。「稚児」のシンボルマークである稚児髷
(まげ)や稚児眉が、このような段階を踏んで成立した事をふまえると、より女性に近い
存在として少年を追求していた事実が浮かんでくる。またこの本では、人身売買が「稚児」
存在を考える上で、大切な意味をもっていることを明確に記している。室町時代の戦乱が
引き起こした乱世は、人買を発生横行させ、社会現象にまでなったとしている。貧しい雪
国で、女の子が売春宿に売られていた話くらしか頭になかった私としては、性を商品に商
売していた男の子が存在していたとは驚愕した。年少男子を希望して買う僧侶は、代価も
期待できたが、容貌の優れた者ばかりを物色していたという。結果、業者には相当の利益
があり、人買いたちは、ついには誘拐という危険を犯してでも、美貌の年少者を寺院にあ
てがっていた。そこには宗教的側面はまったく感じられない。つまり、岩田氏は、男色は
稚児の存在もふくめ、嗜好に過ぎないとしているのである。言い換えれば、生活の場が寺
第十節 岩田準一「男色文献書誌」(注 20)
12
20
第三章 先駆者の研究
院であった時期が長いという理由だけで、宗教的な理由があとからこじつけられたという
事になるかもしれない。確かに、宗派の歴史書をみても記載はまったくないし、あえてさ
けているようである。わずかに残る「稚児観音縁起」も、一般には公開されない極秘資料
として封印されているし、誇示すべき歴史証拠ではないのだろう。
最後に、「稚児伝説」につてふれたい。
奥州信夫生まれで、鎌倉建長寺の広徳庵の自休蔵主という僧が、江之島へ百日参詣をする
うちに、これも同じ参詣者、雪下相承院の稚児白菊を見初め、それ以来自休はしきりに恋慕
の 情 を 訴え るけ れ ど も 相 手は い さ さ か の 返 事 も な い 。 な お さ ま ざ ま に い い 寄 る と 、 あ る 夜 白
菊はひそかに相承院を抜け出して、夜にまぎれ一人で江之島へ行き、辞世の和歌二首をした
ため残して、淵に沈んだ。白菊は自休の情けと、相承院における己の境遇の板挟みとなって、
)
。
こ の 苦 境 を 逃 れ る た め に 身を 投 じ た の で あ る 。 ま た 自 休 も 白 菊 の あ と を 慕 い 来 て 、 白 菊 の 様
子を聞いてともに同じ淵の藻くずと消えた。稚児が淵の名はこれによっておこった(注
対象年齢は村ごとに多少違うものの、十三歳くらいが平均的であったという(注
)
。
大変寛容だった事が分かる。事実、長い間地方には「よばい」という伝統が存在しており、
的に描かれており、このことから民俗学の視点からみても、少年(年少者)との性交渉に
たようだ。長い間人々に親しまれていた証であろう。さて、伝説の中の稚児はどれも好意
語りつがれてくうちに、飛躍したり添削されたりして、現在は微妙に違った伝説となっ
ており、この話が主体となっていくつもの伝説がうまれ、かたりつがれているという。
全国各地(福島県・島根県・栃木県など多数)には、『稚児が淵』などという地名が残っ
21
れる。
あるが、大変有益な資料である。この中において、稚児と僧侶との関係を「僧侶の破戒を
13
第十一節 今東光「稚児」
今東光の『稚児』は、寺院に残された稚児に関する仏教典籍を資料としており小説では
憤る前に、女人を求めることを禁じられた彼等のほのかな夢を如何にして結果に持ち越す
第十一節 今東光「稚児」
る。しかしながら、この歪みの少ない早熟こそが、稚児伝説の根底に流れていると感じら
とにかなり差があったと考えられる)など、いくつかの理由によるものであると推測され
これは、現在とはくらべものにならないほど、短命であった事や、男女の比率(地方ご
22
第三章 先駆者の研究
ことが出来たかの事実に幾分かの困惑を感じながらも同情と興味を感じられる」と説明し
ている。また、「稚児」の小説自体も、その内容はかなり同情的である。「秋の夜長物語」
についても「梅若は石山観音の化身であり、桂海津師はその結縁によって発心菩提の縁を
結ぶ方便として綴られている。これは稚児愛をも佛教に符合して彼等の愛欲を合理化した
と責めるよりは、迷悟一如とした当代の僧侶の眞に左様に思惟した点を理解してやらなく
てはならないのである」と、分析している。これに賛同しているのが、佐伯順子で「仏道・
衆道の二つは一つ欠けても、一つはたたず、車の車輪のごとくにて、貴僧高僧もろともに、
女を捨てて、衆道を好き、執着を除く故にこそ悟を開く助けとなるとして、仏教と男色と
)。これらの意見は宗教関係者がけしてあきらかにしない、稚
はどちらが欠けても成り立たず、車の両輪のように不即不離の関係をもって悟りを支えて
い る 」 と 述 べて い る( 注
児の側面を言い当てていると思う。今回、資料収集をしながら感じたことの一つに、季語
に関する記述の隠蔽があげられる。各宗派とも、信仰の成り立ち、歴史に関しては熱心に
書き記しているが、私生活(衣食住)に関しては曖昧な部分が多く、性的な記載は非常に
少ない。これは、キリスト教伝来によって、ねじ曲げられてしまったとする専門家が多く、
私も賛成である。今回はその点には触れないが、寺院側は歴史的資料として是非公開して
欲しい。
第十一節 今東光「稚児」
14
23
【結文】
どのようなケースを考えてみても、対等ではなかった僧侶と稚児との関係は、同性愛に
あてはめて考える事のできる対象とは言えない。稚児は専門職の側面をもちつつ、社会的
な立場の極めて曖昧な存在だった。彼らに明確な目標はなく、寺院と世間をつなぐわけで
も、天下人の後ろに座って政治を操るわけでもなかった。寵愛がいかに不安定で、頼りに
ならない点は歴史が証明するところである。それでも稚児は命がけであった。よって、選
ばれし者たちの集団でありながら、発言権や影響力が全くなかった。そんな彼らのはかな
い生涯をどのようにとらえる事ができるだろうか。幸せだったのか?主人の求めに応じる
だけでなく、彼らもときには何かを求めたのだろうか?自分は一体何者か、追求したくな
かったのか?はかり知れない事ばかりである。
厳しい戒律と掟の中で、僧侶に期待されプレッシャーをかけられ続けた稚児。美しく神
に近い存在を演じ続けなければならなかった彼らの人生はあまりにもむなしい。生命の営
みにおいて自然の流れである、加齢を認めない寺院のエゴに押しつぶされながら、愛と呼
べるものは育くめるだろうか。異性であれ同性であれ、ありのままを受け入れないシチュ
エーションに愛は保たれないと私は思う。疑似や模倣では、すぐに飽きがきて当然だ。で
は、古典において同性愛は公認されていたのか?
ここで、紫式部のことばをかりたい。「物語は虚構だが、そのなかにこそ真実がある」私
もそれに賛成である。稚児物語には、理想や願望、戒めがこめられている。「秋長夜物語」
を例にとってみても、「こうあって欲しい」
・
「こうあるべきだ」という作者の思いが随所に
くみ取れる。つまり、初期段階においては、宗教や儀式も深く関与しておらず、ピュアな
関係だったに違いない。それが、年月を重ねていくと、寺院サイドはどんどん大胆になっ
ていった。それにともなって、僧侶と稚児の関係がシステム化されていき両者の関係はよ
り、不健全に発展してしまった。
あわてた寺院サイドは、稚児が単なる性的欲求解消の存在にならないように、各宗派独
自の稚児振る舞いマニュアルを作成した。その内容は先にもふれたように、僧侶の視点で
あり、寺院の体面を保つ為だった。流動的立場であった稚児たちは、人間のエゴと本能に
左右されていた。
しかしながら一方では、文学・芸術においては同性愛のジャンルは自由に発展していく
ことができた。古典作品の中では、性愛を方便と位置づけて清く美しい話に飾りたててい
15
文
結
る。結果、男色という新しいジャンルの登場こそ、同性愛公認の証拠なのではないか、と
私は考える。文献的記録、のちの文学・芸能への影響を考慮すれば、古典において同性愛
は公認されていたと断言してよい。
今回取り上げる事はできなかったが、私の「同性愛への考察」は古典にととまらず、現
代社会にまでつづいている。その原点を知りたくて、「稚児」にこだわって追求してみた。
話は少し脱線するが、ここで私の友人の動物博士から聞いた大変興味深い話を引用したい。
今、動物園のペンギンの中で異常なカップルが急増しているという。狭いオリにたくさ
んのペンギンを詰め込んだせいか、ストレスフルな精神状態のものたちが、雌同士・雄同
士のカップルになっているらしいのだ。この傾向は他の動物にも見られ(ペンギンほどた
くさん飼育してないので事例は少ないが)、彼いわく、人間も同じではないかというのだ。
確かに時代でくくるのは極論すぎるが、それにしてもどんな時代においてでも、過剰ス
トレスのかかる環境は存在するのではないだろうか。第二次世界大戦前と後のドイツを調
査して、戦争が同性愛を拡大させると調査結果をだした学者に賛同するきにはなれないが、
隔離された環境・人間関係がストレスフルな精神状態を引き起こす事は十分あるはずだ。
中世の寺院の環境は知らないので、論ずる事には限界があるのが、形式的に同じ環境は
現在でも存在するはずである。つまり、「稚児状態の人」は中世の寺院でなくても、誕生し
ていると思うのだ。
では、「現代に稚児はいるか」と自問してみるが、その答えはまだ得られていない。それ
は、何をもって「稚児」と定義するかが極めて困難であるからだ。歴史上の「稚児」はこ
の後、寺院から発展して、公家・武家へとメジャーデビューしてく。その進出が、性的部
分を誇張したものであった事も問題を複雑にしている。
私にとっては、「古典において同性愛は公認されていたか」という疑問は現代社会にも通
じている。なぜなら、同性の結婚が法律で認められはじめている今日、その新しい試みは
男性と女性しかいない地球に、どんな人間関係の進展をみせるのだろうか?と思案してい
るのだ。見方によっては、この試みを自然の流れと考える人もいるはずである。その意味
において、古典をとおして今現在の謎に迫った私の調査は、自分なりの結論を得られたと
思う。
16
文
結
引用文献・参考文献
注
注
男色文献書誌
日 本 佛 教 語 事典
注
注
注
注
注
注
注
注
注
弘文 社
角川書店
大塚民俗学会
日本民俗事典
原 書房
語源ヒストリー
少年愛の美学について
日本伝奇伝説大辞典
浅井美英子
イン ター ネット
平凡 社
岩 田準 一
ホームページ
十六谷三千僧房に伝 承
平凡 社
ちくま学芸文庫
新 潮文 庫
姿としぐさの中世史
イン ター ネット
黒 田日 出 男
両性具有の美
と 同じ
白洲 正子
注
逸脱の日本中世
と 同じ
細 川 涼一
注
明 石書 店
自由国民社
ちくま学芸文庫
三弥井書店
京都大学付属図書館解説。ここには蔵書がある。
古典鑑賞 事典
性愛 の日本中 世
と 同じ
石川透
注
田中 貴 子
夜這 い の 民俗学
漂白の日本中世
平凡 社
佐 藤 要 人 日本 の艶本・珍書
注
と 同じ
と 同じ
注
赤松啓介
美少年 尽 くし
細 川涼一
ち く ま学 芸文 庫
身体の中世
ち く ま学 芸文 庫
佐伯順 子
8
注
注
注
1
8
●参考文献
注
11
角川ソフィア文庫
【引用文献・参考文献】
注
1
● 引用 文 献
注
2
13
宇 治 拾遺 物 語
注
3
9
中島悦治校注
注
4
版
注
5
古語辞 典 第
注
6
旺文 社
注
7
注
8
池上俊一
17
9
23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10
引用文献・参考文献
稲垣足 穂
小島菜温子
矢野祐子
少年愛の美学
森話社
角川書店
朱鳥社
王朝の性と身体
黒髪の文学
田中貴 子
稚児と天皇制
外法と愛法の中世
東 京 大学 出 版
松岡心平
平家物語、史と説話
「童と翁」
五味文彦
女性と民間伝承
黒田日出男
柳田国男
白洲正子が語る能の物語
砂子屋書房
白洲正子
性家族の誕生 ちくま学芸文庫
角川文庫
小学館
宮廷文学 のひそかな 楽 しみ
世界思想社
文 春新書
平凡 社
平凡社
岩波書店
川村邦光
岩佐美代子
続物語をものがたる
中世王朝物語を学ぶ人のために
河合隼雄
大槻修
18