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第二言語として日本語を学ぶということ(第1回)
ジェイナ・トキエ・タナカ
私たちは自分の母語を選ぶことはない。状況がそれを決める。何の相談もなしにその状況
に私たちは生まれ落ちる。しかしながら、外国語を学びたいと思うときには、それを選択
するのだ。私が日本語を学ぼうと決めた理由は、自分がハワイ生まれの日系アメリカ人と
して生を受けたことと、現代日本文学の虜になったこととにある。
生まれ育った国を離れて別の国へと移住するとき、人はその文化を携えていくことになり、
当然のこと、言語はその文化の一部である。日系一世である、私の 4 人の祖父母はその通
りであった。ハワイにやって来た一組は熊本訛りがあり、もう一組は神奈川訛りだった。
この 4 人の日本人はアメリカに帰化することなく、日本語訛りが抜けない英語しか話せな
かった。事実、私の母方の祖母は片言の英語しか話せず、私と彼女との言葉のやり取りは
会話とは言えなかった。その祖父母たちの子供は「狭間」の世代である二世だった。彼ら
が最初に覚えるのはそうした親たちの訛った日本語だったが、家族以外の世間に接するよ
うになると世間の人たちの共通語を使わなければならなくなった。この共通語は、ハワイ
アン・ピジン・イングリッシュというハワイでいまだに日常会話で使われている混成語で
あった。しかし、二世が学校に通うようになると、ハワイで haole と呼ぶ、ほとんど白人
と言ってよい教師たちが話す標準的なアメリカ英語に向き合わなければならなかった。こ
の二世たちは実際に 3 つの全く異なる言語に対処しなければならず、その結果、どれ 1 つ
としてうまく話せないのだった。ハワイで二世の子として生まれた三世は、親たちが向き
合った問題を抱えることはなかった。自分たちの周囲の人間が、家では英語の一種である
ピジン・イングリッシュを話し、学校では標準的な英語を話していたので、彼らは自分た
ちの母語は英語だと明確に理解していた。中には放課後に日本語のレッスンを受けさせら
れた者もいたが、上手に話せるようにはならなかった。第二次大戦後に生まれた日系三世
として、私は自分自身のことはアメリカ人と思っていたし、英語が当然母語だった。その
ため、大学入学後に日本語を習い始めたとき、それは自分の全く知らない文化に何とかつ
ながろうとするようなものだった。
10 代の高校生のとき、私は学校の小さな図書館の外国文学の棚に収められた蔵書に、特
に日本の小説に夢中だった。それは 1960 年代のアメリカのメディアがまだ白人の「アメ
リカ人の」顔で占められていたからだろう。テレビ番組と言えば、『ベン・ケーシー』や
『ミッション・インポッシィブル』
(申し訳程度にアフリカ系アメリカ人の俳優が登場する
のだが)だった。映画は、ブロンドの女主人公や背の高いハンサムな主人公たちが演じる
『サイコ』や『サウンド・オブ・ミュージック』だった。しかし私が日本の小説に見出し
たのは、さながら未知の世界の住人で、アメリカの小説や雑誌、新聞には現れそうもない
登場人物たちだった。図書館には、メレディス・ウェザビーの翻訳による『潮騒』があっ
た。樋口一葉・夏目漱石・川端康成の作品の抜粋が収録されたドナルド・キーンの『現代
日本文学選集』があった。このように日本文学の世界を垣間見ることが私の読書欲を刺激
し、そのために次から次へとむさぼり読みたいという気持ちにさせるのだった。
ハワイの日系三世に生まれたことの偶然と読書好きだったおかげで、私は日本語の勉強を
することになった。それは決して容易な道ではなかった。しかし、アメリカに暮らす人々
が自分がどの民族に属するのかということを意識し始めたとき、自分の「ルーツ」に興味
を抱くのは自然なことに思えた。